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アナトリア文明博物館【アンカラ】


アナトリア文明博物館の建物について

アナトリア文明博物館はアンカラ城の南側、アトパザール(馬の市)と呼ばれる地に位置しています。オスマン時代の二つの建物、マフムトパシャ・ベデステンとクルシュンル・ハンを博物館として新しい役割を担うべく改造したユニークな建築です。

ベデステン(バザールの一部で特に責重な品々を貯えておく場)を建てたマフムトパシャは征服王メフメットII世の総理大臣でした。建物に銘は残っていませんが、アンカラ "Sof"(山羊又はラクダの毛で織った布)はここから各地に出回っていたという記録があります。ベデステンはこの種のものとしてごく一般的なもので、中央の方形の部分は10のドーム型の屋根でおおわれ、周囲のアーケードはアーチ型天井の下に商店が、業種ごとに向きあう形に並んでいました。

アンカラ地方の土地台帳や裁判記録の研究によると、クルシュンル・ハンはマフムトパシャのその後に総理大臣となったメフメットバシャによって作られたとのことです。このハン(隊商宿)からの収入はイスタンブール、ウスキュダル地区の貧しい人々の福祉にあてられました。メフメットパシャはウスキュダルにモスクや神学校も建て彼自身その地に眠っています。

建築様式はオスマン時代の典型的なもので広い中庭を二階建ての建物がとりまいています。一階には28の部屋が、二階には30の部屋が並び各部屋には暖炉がついています。下の西側と南側はL字型のうまやになっています。
二つの建物とも1881年に火災にあい使われなくなっていたのを今日、博物館として復活させたものです。

アナトリア文明博物館の歴史

アナトリア文明博物館
アンカラで最初の博物館は1921年にアンカラ城の塔のひとつアクカレに設置され、アウグストゥス神殿とローマ浴場からの出土品などが展示されました。アタチュルクの提言によりヒッタイト博物館が創設される事になり、ヒッタイト時代の遺物が各地からアンカラに送られ始めました。そのため、より大きな建物が必要となったのでマフムットパシャベデステンとクルスフンルハンの改築工事が1938年に始められました。 1943年に一部だけオープンしましたがすべての工事が終わったのは1968年でした。1948年にアクカレの旧館は倉庫に変えられました。ベデスタンの5つの店舗は原型のまま残されましたが他の各店舗部分の仕切りは取り払われて大きな回廊部分が展示場として生まれ変わったのです。

クルシュンルハンは現在、研究室、図書館、会議室、作業室、事務室などとして使われています。
アナトリア文明博物館のユニークなコレクションは世界屈指のものといえるでしょう。旧石器時代から近代までの貴重な品々が年代順に配置され、オスマン風ムードの中でアナトリアの長い歴史を興味深くたどる事ができます。

旧石器時代

旧石器時代は、地域差はありますが一般的時代区分でいうと約200万年前から1万年前まで続きました。この長い先史時代に初期の人類が出現し、道具の使用を覚えた事が進化への重要な第一歩となったのです。
旧石器時代人はいつも自然環境におびやかされながら狩猟採集の暮らしをしていました。農耕はまだ知らなかったので、気候や環境の変化に応じて移動し適当な岩陰や洞穴に住んで生活していました。この時代は前期、中期、後期に区分されています。
前期の人々は食物を得るために、あるいは自らの身を守るために石で簡単な道具や武器を作り始めました。石器はもっと硬い石を使って形づくりました。

前期の温暖な気候は中期になると乾燥した厳しい気候に変わり、大雪が続き氷河時代へと移っていきます。それに伴い人々の生活にも変化が起こり、石器に見られるように技術面でも大きく進歩しました。粗い両刃の石器は姿を消し、刃を修正して切ったり皮をはいだりもできるようになりました。新石器時代中期のネアンデルタール人は石器を用いてマンモス・サイ・鹿などの大きな動物も殺すことができたそうです。

又、この時期にある種の祭式が行われていた証拠も残っています。例えば1つ又は2つの穴のある墓が見つかり、その隣に食物を貯えた跡があります。これはネアンデルタール人の埋葬の習慣を示していると思われます。旧石器時代後期になると再び冷たく乾燥した気候になり、近代人の祖であるホモサピエンスがネアンデルタール人にとって代わりました。ホモサピエンスは近代人に類似して知性も発連していたので、石器加工の技術も頂点に連しました。長く使われてきた両刃の手斧型の石器は姿を消して、薄くて硬い刃のものに代わっていきました。皮はぎ、石のドリル、のみ、矢じり、織機の後なども石で作られました。
骨や角からもさまざまな道具を作りました。骨器を作るための専用の石器も用いられました。つまり、旧石器時代後期にはすでに、道具を作るための道具がすでに使われていたのです。

他に重要な点として、人間の精神生活と関連した芸術の進歩があげられます。彩色画、線画、レリーフなどが洞穴の壁や様々な物に描かれ、像も作られました。これらから芸術の歴史における旧石器時代の役割を知ることができるでしょう。骨や歯、貝を利用した装身具もこの頃作られ始めました。死体の埋葬はこの頃から一定の様式に従って行われるようになりました。

ですが、旧石器時代のアナトリアについて、これまでの発掘調査によってすべて明確になったとは言えません。しかし、発見された道具、人骨、動植物、その他からみて、かなりの数の人間がこの時代を通してアナトリアに住んでいた事は明らかです。
アナトリアで現在までに発見された遺跡で、旧石器時代の各層がそのまま見られるのはカライン洞穴だけです。アンタルヤの北西30kmにあり、旧石器時代の前、中、後期のそれぞれの住居跡が沢山残されています。おびただしい数の人骨-焼かれたものも焼かれてないものも-に加えて石器や骨器など器物、ネアンデルタール人やホモサピエンスの骨や歯が出土されています。
カライン洞穴はアナトリアだけでなく、近東における重要な旧石器時代遺跡です。

この時代のアナトリアについてまだよくわからない面が多いのは、年代づけの方法がまだ確立されていないためです。しかし、ユーフラテス下流の発掘調査による出土品やカライン、ヤルムブルガズの再発掘などによって研究は続けられています。層位や年代づけの残された問題を解決するための重要な証拠が次々と見つかってきました。

アナトリア文明博物館の、旧石器時代の展示品で最もすばらしいものはカラインからのものです。手斧、皮はぎ、矢じりなどさまざまな石の道具が展示されています。骨器としては、オール、針、装身具などがあります。これらは、旧石器時代の各層を示す、10.5mの深さの堆積層から出土したものです。

新石器時代

アナトリア文明博物館
この博物館に展示されている出土品の中でチャタルフユックに次ぐのはハジラルの遺跡からのものです。ハジラルはブルドゥルの南東25kmにあり、後期新石器特赦(紀元前5700~5600)の9層の居住地跡のうちわずか4層だけ発掘されました。ハジラルの家々は石の土台を持ち壁は泥レンガでチャタルフユックよりも規模が大きく、床と壁は赤く塗ってあります。平屋根は木の柱で支えられ、中には二階建てもあったらしく階段も見つかっています。チャタルフユックと異なり、ハジラルでは集落の外に埋葬されました。ほとんどの家から、地母神の立像や座像が出土しています。土器はよく焼きしめられて赤、茶色、かっ色のうわぐすりをかけてあります。展示品の中で特におもしろいのは、女性の頭部を型どり赤い光沢のあるカップと鹿、豚、鳥などの動物の形をしたリュトンです。植物や、角製でフリントをはめこんだカマをみるとハジラルの人々が農耕を知っていた事もわかります。粘土の糸つむぎ車も出ている事から、織物の技術を持っていたことも知る事ができます。

チャタルヒュユクの遺跡 | トルコ旅行 トルコツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

チャタルフユック

銅石器時代

石器と併用して銅が使われ出した時代を銅石器時代といいます。ハジラル、ジャンハサン、クルチャイなどの遺跡を見ると新石器時代後期から銅石器時代へと移っていく様子がわかります。新石器時代同様、地域的特色がいちじるしいが、初期、中期、後期に分ける事ができるでしょう。

アナトリアにおける銅石器時代初期の一番良い例はハジラルです。家屋は方形に平屋根で土台は石を使用しています。建物の間を細い道が走り、泥レンガのとりでを周囲にめぐらし町としての形をとっています。建物の入口は隣りあって一列に並び広々とした中庭から入るようになっています。大きな家は儀式用の小部屋と作業場、井戸、土器つくりの場も備えています。

ハジラル出土品の中できわ立っているのは絵付けされた手づくりの土器でしょう。銅石器時代初期(紀元前5400~4750)には、技術も向上し、単色でつやのある洗練された土器が製造されていた。多色で装飾した器も大量に作られるようになりました。ピンクがかった黄色に赤茶色で幾何学模様を描いたものが多いです。卵型のカップ、丸い水さし、大きな壷、角型のボウルや広口びん、ジョッキなど新しい型のものが現れました。新石器時代から引き続き、座像に代表されるようなテラコッタの女神像もたくさん作られました。石や骨、それに数は少ないですが銅で作ったものなど伝統的なものも引き続いて使われています。

 
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コンヤ地方、カラマン北東13kmのジャンハサンも、銅石器時代を概観できる遺跡です。ジャンハサンはコンヤ平原とチュクロヴァをつなぐルート上にあり、交易、文化交流の中心地でした。家々はハジラルと同じく方形ですが壁には幾何学模様が描かれています。クリーム色又は淡黄色の手製土器は薄手に作られています。単色のものの他に、白地に赤や黒などでいっばいに線を描いたものもあります。金属製品としては銅の腕輪、笏又は棒の握り手、その他銅片などです。

他に後期銅石器時代の主な遺跡として、西アナトリア、デニズリ地方のチヴリルの南東5kmにベイジェスルタンがあります。紀元前4000年から3000年にわたる40層が発掘されました。方形、泥レンガづくりの建物はメガロンタイプと似ています。柱、炉、壁に接してベンチ、しっくいを塗った貯蔵室もあります。粘土の壺の中から銀の指輪、銅器、短剣の一部、3本の金属の針が見つかりました。後期銅石器時代の土器は黒、灰色、茶のシンプルなデザインが多いですが、白で幾何学模様や線を描いたものもあります。

アナトリア北部、中央部の初期の遺跡は後期銅石器時代に属するものであります。アリシャル、アラジャフユックからの出土品がアナトリア文明博物館に展示されています。この両遺跡からは方形の泥レンガの遺跡、茶、黒、濃い灰色の土器が見つかりました。水さし、ジョッキ、果物鉢などの単色の土器の中には刻みもようが入ったものもあります。
東部アナトリアで、中期銅石器時代の遺跡として代表的なものは、ヴァン湖の南東、ティルキテペです。博物館に展示してあるのは黒曜石の道具やハラフと呼ばれた彩色土器などがあります。

銅石器時代のアナトリアにおける埋葬の方法は地方によって異なります。屋内葬も屋外葬もみられますが、どちらにしても遺体は壷や石棺に入れられていました。副葬品として土器、装身具、武器も埋められました。
この時代のアナトリアは人目もかなり多くありましたが、全域に其通した文化というものはみられていません。地理的条件もあり当時のアナトリアは外部からの影響を受けていました。アナトリア北西部はバルカンやエーゲ諸島の、東部と、南東部はメソポタミアの、そしてチュクロヴァでは北シリアの影響を受けていました。

アナトリア文明博物館

初期青銅器時代

紀元前4000年代末期から3000年代の初め頃、アナトリアの人々は銅と錫を混ぜて青銅を作る事を覚えました。この合金を用いて武器、装飾品や儀式用具などを作りましたが、銅、金、銀、白金(金と銀の合金)でも必要な品々を作っていました。
大小さまざまな遺跡の発掘により、青銅器時代の人々は防壁に囲まれた居住地に集まって住んでいた事がわかります。アナトリアの伝統的スタイルである石の土台に泥レンガの壁の家には炉、かまど、ベンチが備えられていました。
ベイジェスルタンの遺跡ではメガロンタイプ(細長いワンルームの家)の家屋が見られます。これはアナトリアで長い期間にわたって見られるタイプの家です。

後期銅石器時代から初期青銅器時代への移行はゆるやかに、そしてよどみなく行われました。建築も似ていますし、スタンプ印章や偶像は各地の伝統を守りながら進歩していきました。銅石器時代には穀物を栽培し家畜を飼う事が重要な仕事となりました。交易や金属加工も発達しました。交易が広まった事は広範な地域に品物がいきわたっている事が証明しています。金属加工は金、銀、銅、青銅、白金、それに鉄さえも扱われ、鋳造や鍛造の技術も進歩した事は、墓からの出土品などを見れば明らかです。アラジャフユック、ホロズテペ、エスキヤパル、キュルテぺ、マフマトラル、カヤプナル、ポラトゥルなどからの質量共に立派な工芸品を見ると、当時農業のみでなく芸術、冶金も職業として重要だった事がうかがえます。東部と北東部アナトリアが金属加工、交易の中心でしたが、もしこれがなければ、アッシリア植民地時代の交易の性格もかなり違うものとなっていたことでしょう。金属の彫像は、金属加工術ばかりでなく、アナトリアの人々の信仰や思想を反映し、又芸術的才能を示している点でも重要です。

アナトリアにおける初期青銅器文明の水準の高さを最もよく示しているのはアラジャフユックです。ここで発見された墓は、四角い石の壁に囲まれ、木の梁の上には漆喰の平屋根の立派なものです。遺体は膝を腹部まで折り曲げて部屋の中央に横たわり、周囲に副葬品が置かれました。葬儀の時は犠牲に供した牡牛の頭と足が屋根の上に置かれました。羊や山羊も犠牲に捧げられましたがこれらの動物は死者の食べ物と考えられていたようです。犬は見張りとして墓の外に置かれました。長い間使われたと思われるこれらの墓は、何世代かにわたってこの地方を支配した王族のものらしく、異なった時代層が見られます。副葬品の多くは金、銀、白金、青銅でありますが、琥珀、めのう、水晶、鉄、テラコッタも出土されています。王冠、ネックレス、腕輪、イヤリング、バックル、針などの他、陶器の壷もあります。その他に青銅や金の武器、鹿や牛、女神の像、儀式用の円盤やシストラムもありました。

トカットの近くのホロズテペからの出土品もアラジャフユック同様、支配者の豊かさと金属加工技術の水準の高さを示しています。エスキヤパル、カヤプナル、マフマトラルからの出土品も素材や象徴的デザインなど際立っています。貴金属の他に耐火粘土や石、卑金属の武器や偶像などはどこの住居跡からも出土されています。
エスキヤパルの発掘により、中央アナトリアでは貴重な品々を墓に副葬するだけでなく、家の中にも埋められていたものと推定されています。
青銅製の槍先は初期青銅器時代にアナトリアに初めて現れたものです。ある種の斧と共に、武器にはメソポタミアやシリアのものと共通点が見られます。これらはアラジャフユック、アリシャル、マフマトラル、ホロズテペ、デュンダルテペなどから出土されています。サムスンの近く、イキズテペから出土された武器はこの時代の金属加工術の良い例です。

アラジャフユックとホロズテペの墓はここに住んだヒッタイト王のものです。ヒッタイト文明として知られるこれらの出土品は、牡牛や鹿の青銅の小像、白金の飾りのついた像、太陽盤、太陽盤を囲む牛や鹿の小像、牛の角で飾った円盤、又、母性と豊饒の象徴です。授乳する女性の像(ホロズテペ)、そしてハサンオーランの青銅小像(これは頭部が金と白金でできている)などがあります。シストラムと同じようにこれらの品はすべて宗教的行事に関係しています。神性、神権を象徴するものは初期青銅器時代にはじめて現れたのです。例えば、鷲がシストラムに止まっているのはこの時代後期にかなり人気のあるパターンでした。これらはアッシリア植民地時代、ヒッタイト時代の太陽盤や鹿や手、地母神信仰のさきがけとなるものでありました。

アナトリア文明博物館
初期青銅器時代の手製陶器はふつう単色で絵付けされている例は非常に少ないです。絵付けの場合は赤又は薄い地色の上に、濃い色で幾何学模様を描いたり彫ったりしています。くちばし型のびんや、注ぎ口のついたポット、幾何学模様や線を彫って柚薬をかけた黒っぽい壷類、片手つきカップやボウル、人の顔を飾った両手つきの壷や水さしなどさまざまな形があります。青銅器時代後期になると金属製品の形を真似て一般にシンプルなものとなります。くちばし型の水さし、注口又はかごのような手のついたポット、角型のカップなど大量に作られました。カップの多くは後に出てくるヒッタイトのカップの最初の例となります。

初期青銅器時代において西アナトリアは他のアナトリア各地同様、独自の文化を作っていました。その理由はまず地理的要素があげられますが、この博物館では、西アナトリアの文化はベイジェスルタンとヨルダンからの出土品で見る事ができます。
末期の頃になると中央アナトリアと西アナトリアの問にも通商ルートが確立しました。この頃、トロイ地方では貴金属の装飾品と共に特色ある陶器が作られていました。ベイジェスルタン、ポラトゥル、カラオラン、ボズフユック、アリシャル、キュルテペ、ギョズルクレ、カディクリなど中央及び南西アナトリア全域から広く出土していますが全てトロイ第2市の文化の影響を受けている点が興味深いです。人の顔を飾る型と其に、ヨルダンタイプという手製の黒いカップは西アナトリアに共通する型がアンカラ地方にまで広まっていた事を示しています。この時代の末期になると、中央アナトリアにろくろ製のものも現れ、考古学でいう、中間期、アリシャルⅢ型のものも出てきます。この新しい型とは手づくりで絵付されたものでありますがその例は中央アナトリアの南部に多くみられます。

テラコッタ、青銅、銀あるいは石でできたヴァイオリン型の小像は、新石器時代から銅石器時代にかけて作られた地母神像の新しいタイプです。もうひとつ初期青銅器時代末期、中央アナトリア南部で見られる新しい形は、丸い胴体に1つから4つの頭部をもったアラバスター(雪花石膏)の小像です。これらは墓や聖所の中の絵付け土器と関連していますが、これまでのところキュルテペからだけ発見されています。通常は裸の小像で中央部に幾何学模様や同心円模様がついていますが、小さなレリーフ特にライオンや人物像で飾られたものもあります。大きさは5~30cmで豊饒の女神を象徴しています。平たい形の偶像や、王座に座って手を胸に置いた裸の女性像もありますがすべてアラベスターでできています。たくみに仕上げられ、しかも短期間で様式が進歩した様子がわかります。これらのキュルテペからの出土品はアナトリア文化と地方史解明に光りを与えるものと言えるでしょう。これらは、初期青銅器時代の絵付けの陶器と共に、紀元前3000年代の最後の2世紀頃に作られたものです。

新石器時代からの伝統的なアナトリア風のスタンプ印章は、初期青銅器時代にも引き続き使われていました。焼成粘土や石が多いですが、金属のものもわずかながら見つかっています。この時代には印章の形も模様も小型になりました。印章の凸面には幾何学模様が刻まれています。紐を通す穴のついた輪状のハンドルも続いて使われていました。これらの品々は初期青銅器時代には副葬品としても使われています。
アフラトルベル、カラオラン、カラヤヴシャンからの印章はみなよく似ていて、南部アナトリアから出土したものにはメソポタミアの影響が見られます。

初期青銅器時代の出土品の中には、たいてい何らかの飾りのついた紡ぎ車や機のおもりや羊毛紡ぎもあり、この頃、紡績や織物が盛んだった事を示しています。
東部、中央、西部アナトリアの各文化は地域的特色を持ちながらも、先進的文明の域に達していました。外部からの影響も移民も、また、アナトリア内部での相互の関係も各自の特性を損なう事はありませんでした。そしてこの、独自の地域性こそアナトリア文明最大の特徴です。この当時アナトリア各地に居住地ができアナトリア半島は古代近東の文化の中心でした。アナトリア文明博物館にはこの時代の出土品が豊富に陳列されています。

古ヒッタイトとヒッタイト帝国時代


発掘品として最も重要なものとして挙げられるのは、王子の墓(紀元前4世紀)からの金や銀の器、武器、宝石、青銅や土で作られた動物の像などです。王の門に施された戦士のレリーフのオリジナルもこちらに所蔵されています。

ヒッタイト帝国とその首都「ハットゥシャ遺跡」| トルコ旅行 トルコツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

フリギア(紀元前1200~700)

ゴルディオン
紀元前12世紀の初め頃フリギア人が、エーゲ海からの移民の跡をたどるようにして南東部ヨーロッパからアナトリアヘとやって来ました。主要な各都市を略奪し、ヒッタイト帝国を滅亡させ、しだいにアナトリアの支配権を握っていきました。とはいうものの、フリギア人の居住地は主として、アフィヨン、キュタヒヤ、エスキシェヒールを結んだ、サカルヤの谷一帯でした。首都はゴルディオンに置かれました。残された銘からフリギア人はインドヨーロッパ系の言語を使っていた事がわかります。ギリシアの出典、特にヘロドトスによれば、フリギア人はマケドニアから出たと記されていますが、アッシリアの出典によるとムシュキの王ミタとされています。今日ではミタはミダスで、アッシリアのいうムシュキがフリギア人だとされています。

紀元前8世紀後半、フリギアは強大な王国であったが紀元前7世紀初めのキメラ人の侵入によってその力は弱くなり、まもなくリディア王国の支配下に入りました。紀元前550年そのリディアはペルシアに破れ完全に自由を失いました。
フリギア王国の政治、文化は前期(紀元前7世紀まで)と後期(紀元前695年のキメラ人の侵入から紀元前4世紀末まで)の二期に分けられていますが、今知られているのは紀元前750年以降の事がほとんどです。

フリギアの首都ゴルディオンは堅固な城壁に囲まれた要砦都市でした。公共の建物や役所などはいわゆるメガロン形式で建てられました。紀元前3000年来、アナトリアで知られていた形で石、泥レンガ、木で作った方形の建物です。フリギア人は西アナトリアの伝統的形式により、幾何学模様のテラコッタで屋根を飾り、床は多色のモザイクで飾りました。この博物館にある最高のテラコッタパネルはゴルディオンとパザルリから出たものです。パネルには兵士、ライオンと牛の戦い、人間、鳥、馬、「生命の木」の両側に立つ山羊などが彫られています。

サカルヤ川の岸辺のゴルディオンを別として、クズルウルマク川の南方、アラジャフユック、ボアズキョイ、パザルリ、キュルテペ、エスキヤパル、マシャトフユックの遺跡からフリギア人とフリギア芸術について知る事ができます。岩の建造物や出土品をみるとフリギアの建築は根強い伝統に基づいている事がわかります。

フリギアの王族、貴族は西洋ねずやヒマラヤ杉で作った小室に葬られ、土を高く盛ったいわゆる古墳の形状ですが、技術はかなり進歩しています。まず丸太を組んで空間を荒石でつめます。そして、遺体や副葬品を本の小室に埋めてから屋根を作りました。屋根には石を敷き詰めた後に、灰や土を盛って塚の形にしました。これらは 100近くあるといわれるフリギアの古墳のうち25ケ所発掘されました。豪華で品数も多い副葬品は、死者が高い位の人であった事を物語っています。

ゴルディオンの他、中央アナトリア南西部のアフィヨン、エスキシェヒール、それにアンカラ近郊(アタチュルク廟、アタチュルクファームのあたり)でも古墳が発見されています。紀元前8~7世紀のもので塚の高さは3mから40mまでと様々です。遺体は初め直接地面に埋められましたが、後には火葬をするようになり、灰は特別な壷に入れて納められました。フリギアの古墳中最大の、ゴルディオンの太古墳は直径300m、高さは50mの規模を誇ります。木で作られた内室は6.2m×5.15mでドアはありませんが三角形の破風がついています。内室の隅から見つかった遺骨は身長159㎝程で60才以上とみられるがこの歴史学上貴重な墓はミダス王のものと思われています。

幾何学模様のレリーフで飾った木のパネルがあり、その隣りに青銅の三脚台にのった青銅の大鍋が幾つかありました。大鍋の中には小さな壷やボウル、バケツ、小鍋やひしゃく、青銅の留め金などが沢山入っていました。フリギア人は大鍋の製造に独特の腕を持っていました。同じ頃東部アナトリアに住んでいたウラルトゥから輸入した技法に自らの独創性を加えています。ウラルトゥでは牛やライオンの頭のデザインをよく使いましたが、フリギア人はアッシリア風に人間の頭部を模ったものが多い。大鍋の縁の部分を見ると洗練された冶金術を身につけていた事がわかるし、幾何学模様の彫り物や象眼は木工の面でもレベルの高さを示しています。古墳からは、幾何学模様のついた家具や小さな馬の像、牛とライオンの戦いの像、神話のシーンを描いたレリーフの木製パネルなども出土されました。又、象牙の小像も独特な様式で作られていました。

フリギア人の独創性はキベーレ信仰にも反映しています。彼らの主神である女神キベーレは紀元前2000年代のヒッタイトのクババ神にあたります。豊穣の地母神として多くの場合ライオンを伴った形で表現され、その信仰はサルディスを経由してヘレニズム世界、そしてローマヘと伝わりました。この博物館にあるキベーレの小像やレリーフはボアズキョイ、アンカラ、ゴルディオンから出た物です。

展示品の他のグループはアンカラ地方の安山岩のレリーフがあります。オルトスタットにライオン、馬、牛、グリフォンやスフィンクスが彫られていますが、西アナトリア、後期アッシリア、後期ヒッタイトの影響を見る事ができます。フリギアの陶器はろくろ製ですが、無地の物と多色の物と二つのグループに大別できます。金属製を模した黒や灰色の無地の物が一般的です。模様のある物は、明るい地色に赤茶色で四角、三角、波形やジグザグ線で同心円や市松模様を描いたものが多いです。中には幾何学模様で完全に埋められた物もありますし、パネルに仕切って動物モチーフを描いた物もあります。フリギア人の想像力と創造性を反映した動物型のリュトンは、先史時代からアナトリアで使われてきた酒杯の流れを汲んでいます。

ミダス王の国、フリギア王国 | トルコ旅行 トルコツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

アナトリア文明博物館

ウラルトゥ

ウラルトゥ人は紀元前1000年代初期にヴァン湖地方に国を建て、最盛期にはウルミア湖とユーフラテスの谷、南トランスコーカシアのギョクチェギョルからアラクセスの谷、そして黒海の東岸からアッシリアの国境にまで拡がっていました。その国土は高い岩山に囲まれた高原と深い渓谷からなっていましたが、ウラルトゥ人は厳しい自然条件を克服して農業や牧畜に成功しました。東部アナトリアは農牧業だけでなく豊かな鉱物資源に恵まれていたので古くからメソポタミアの人々の注目を引いていました。

その豊かさゆえに、しばしばアッシリアの攻撃を受けてきましたが、ウラルトゥはそれに対抗するために統一して王国を造ったのでした。中心となったのは今のヴァンです。「ウラルトゥ」の名は紀元前6世紀、北方からのメディアやスキタイの侵入によって消え去る事になりますが、はじめてその名が現れるのは紀元前8世紀、アッシリア王シヤルマネセルI世の楔形文書です。ウラルトゥ人はセム語系でもなくインドヨーロッパ語系でもなく、フルリ語に属するものと思われています。フルリ文明はヒッタイトと同じ頃、アナトリア東部、南東部に栄え西はアンタリアまで拡がっていました。ウラルトゥ王国より500年昔まで、王国と同じ領域を支配していたのです。そうした点から考えて、ウラルトゥはフルリ族の子孫といってもいいでしょう。

最初、ウラルトゥはアッシリアの影響を受けてその文字や言語を使っていました。ウラルトゥの楔形文字はアッシリア語とウラルトゥ語の二国語で書かれているので解読する事ができました。粘土板にウラルトゥ語で書かれた公文書や商業用の手紙も発見されています。しかし、ウラルトゥの文書記録はアッシリアのものに比べて数も非常に少なく、法律的な手紙や契約書など堅苦しいものが多いです。

最も重要な銘は岩の表面や、細工した石に彫られ物で、ヒッタイトの象形文字のように図形も使われました。楔形文字の記録から戦の勝利や奴隷、戦利品について、又は運河、城、神殿の建築などについて知る事ができます。運河を掘ったり人造湖を造ったり、湿地帯の排水や灌漑工事などはウラルトゥ独特のもので、卓越した技術をもっていた事を示しています。アッシリアの記録でもこれが証明されています。アッシリア王が、ウラルトゥの豊かさと神殿や王家の財宝について述べた記録もあります。
神権的なウラルトゥ王国では封建制度が敷かれていました。国境には初期のヒッタイト帝国のようにそれぞれ独自の支配者を持った小都市国家があり、その支配者たちは王国に税金を支払って自治権を得ていました。要砦を兼ねた城に住み、戦争が始まると軍を率いてウラルトゥ王の指揮下に入りました。

ウラルトゥ王国は紀元前9~8世紀に最も強大でした。山国だったが公共事業でダムや運河を追って環境整備に努めたました。宮殿や神殿も立派なもので土木建築には際立った力量を示しています。建物は険しい山腹に建てられたものが多いですが、たくみに環境に調和しています。20トンから25トンの大きな石を入念に積み重ねて作られ、アッシリアの建築とはちがって、石の土台に木材の長い梁を使用する事が多かったようです。

いくつもの塔を備えた城壁の内部に神殿、宮殿、役所、それに作業所や倉庫を備えた館が並んでいました。設計と技術が環境にマッチしたよい例です。
ウラルトゥ国王の碑文に記されている建築工事の記録を実証するものとして、アルトゥンテペ、チャウシュテペ、アディルジェヴァズ、カヤルデレなどが発掘されました。中でもアルトゥンテペが最高の例で、円柱の並ぶ玄関ホールを備えた神殿や宮殿は建築史に残るものです。

壁画もウラルトゥの重要な特徴です。アッシリアの強い影響を受けてはいますが構図も様式も異なり、幾何学模様や植物モチーフ、さまざまな動物のシーンなどが明るい色調で描かれています。紀元前8世紀後半から7世紀前半までのものですが、これらの壁画からウラルトゥ人の美意識を垣間見る事ができるでしょう。厳しい自然環境の中にあって生活していましたが最も人気のあるテーマは植物と幾何学模様であり、聖木の両側に立つ翼のあるグリフォン、聖獣と神々、動物の戦いなどの動物モチーフです。赤、青、ベージュ、黒、白、まれには緑色などの明るい色を使って生き生きと描かれています。

所有者の王の名前を刻んだ鉄かぶとや楯も残っています。人物や勅物産の模様もついています。アルトンゥテペからは紀元前7世紀初めの青銅の大鍋も出土しています。4頭の牛の頭がついて典型的ウラルトゥ風に飾られたこの大鍋はフリギア、ギリシア、イタリアに輸出されていました。飾りのついた青銅のパネルも重要なものです。ベルト、かぶと、楯、奉納額、馬具、矢筒などこのグループに入ります。ベルトにはシンメトリカルなモチーフが使われているのが特徴です。

ウラルトゥ美術において印章も重要なものです。従来のスタンブ印章と円筒印章の他に、円筒形のスタンプ印章も出土していますが、これらはウラルトゥの芸術の革新性を示しています。印章は動物、植物などが彫られています。
家具の破片などを見ると伝統的な象牙彫りも継承されていた事がわかります。頭は鳥で翼をもったグリフィン、人の顔、鹿の浮彫り、握った手やライオンの小像、しゅろ紋を彫った額などが発見されています。中でも三脚台に、寝そべったライオンの小像は象牙の小像として興味深いものです。

ウラルトゥ王の墓にはアッシリアの影響が顕著に見られます。岩を窟って埋葬室を作り、木又は石の棺を納めました。墓室のすぐ傍の、しかも地表に近い所に簡素な岩窟墓と納骨所があります。王の従者や奴隷がここに葬られたものと思われます。王の墓室内にも骨壷置き揚がある事をみると、貴族も平民同様火葬にされる事もあったようです。
アルトゥンテペ、アールのパトノス、ヴァンのトプラクカレ、ムシュのカヤルデレ、それにアディルジェヴァズからの多数の出土品が、アナトリア文明博物館に収められています。

リディア時代

リディア美術のルーツは、祖先がヒッタイト帝国と、時には敵対し、時には友好を図った時代、つまり、ブロンズ時代に遡ります。リディア人たちは、鉄器時代に、特に、ギーゲスからクレッソス(紀元前685~547年頃)時代までのネルムナッド家系の時代に著しく発展しました。帝国はフリギア王ミダスの、紀元前695年頃のキンメル人への侵攻から彼の死後に最も栄えました。リディア人たちは、独自の言語と独自の文化を守っていました。一方、東側(フリギア人、ルヴィ人、ヴェト人、そしてペルシャ人)との間がそうであったように、西側(ギリシャ人)とも関係を改善しました。そして、エジプトからアスルまで外交関係を広げました。

リディア美術は洗練されたアナトリア文化の遺産です。そして、近東のペルシャの競争相手であり、ペルシャ文化の模範ともなりました。リディア美術の発展は、アナトリアの風習を継続させたこと、美術家、芸術家たちを美術と建築の勉強のためにペルシャのパサルガデからスサに至るまで留学させたこと、そして、貴金属をギリシャ王家や神殿に贈ったという事実からも伺えます。リディアの象牙工芸と、生贄のモチーフの技法への貢献を表すものとして、リディアの石像と壁画のいくつかの例がマニサ市のクルックアーチハッラ層から出土していますし玄室の柩を担ぐスフィンクスたちの壁画と、ウシャックのアクテペ層から出土した壁画にも見られます。

1960年代に西アナトリアで行われた非公式の発掘の結果、外国に持ち出された文化財は、後にクレッソス或はリディアの宝物として知られています。リディアの宝物として展示されているものの殆どは、金や銀のように貴重な金属から作られている様々な器、装飾品、小像、印章、壁画、そして大理石のスフィンクスです。金属製品は金属美術におけるあらゆる技術を駆使して作られており、かなり発展した金属美術であることがすぐにわかるでしょう。展示品は、紀元前6世紀の後半に位置づけることができます。

紀元前7世紀以後のアナトリア文明

ギリシアのドーリス人が初めてアナトリアに植民地を作ったのは紀元前2千年代末頃です。
紀元前1100年から950年まではいわば「初期幾何学模様時代」であり、コンパスを用いて模様を描きろくろを回して陶器を作っていました。
「幾何学模様時代」(紀元前950年~600年)は円形の模様から角形の模様に移行しました。紀元前600年から480年までは「古典時代」と定義づけられています。建築、彫刻共に、その基盤は東方様式の影響を受け、赤や黒で模様が描かれていました。

都市国家の影響を受けつつ発達した、カリア、リキア、リディアの文明はイオニア文明と共に西アナトリアに台頭してきました。そして、それはアレクサンダー大王がダーダネルス海峡を渡ってアナトリアにやって来るまで続きました。紀元前546年にリディアがベルシア帝国に敗れてから、西アナトリアの文明はギリシアやペルシア文明と混じりあい、グレコペルシアスタイルを生み出しました。そしてそれも、アレクサンダー大王の到来によって終わりを告げ「ヘレニズム時代」に入ります。この時代は紀元前133年にペルガモン王国がローマの支配下に入るまで続いたといえるでしょう。この時代に属するコレクションは多数アナトリア文明博物館にも展示されています。

アナトリアがローマの支配下にあった紀元前1世紀から紀元後4世紀頃の、大理石、テラコッタ、金、その他の金属製品が、博物館の行った発掘(ローマ浴場、アウグストゥス神殿、ローマ劇場など)で発見されています。
4世紀から1453年、コンスタンティノープル陥落までのビザンチンの遺品も多数集められていますが、重点は貴金属品と言えるでしょう。 11世紀に始まるセルジュク、オスマントルコのものとしては、コインが集められています。博物館では、紀元前7世紀以降のコレクションは素材別に展示されています。

〈石〉
当館の石造コレクションにはアンカラでの発掘品と購入したものがあります。ヘレニズムの神々や支配者の像、建築物の遺構などは古典時代からビザンチンまで渡っています。祭壇や墓石は館内の他、庭にも展示されています。

〈テラコッタ、大理石〉
ヘレニズム及びローマ時代の鋳型を使ったテラコッタの小像や大理石像は、アナトリアから多数出土されています。

〈陶器〉
ろくろを用いて、白地に黒や赤で模様を描いたギリシア風の壷などは、エーゲ海地方ではよく見られますが中央アナトリアでは少ないです。博物館のこの分野のものはほとんどがシノプから出土されたものです。

〈金属器〉
青銅の小像の多くは、ローマ皇帝像や、神々の像、神に捧げた動物などです。特に皇帝トラヤヌスの胸像は重要な物です。
最初の青銅像は木の胴体の上から形づくる方法で作られました。びょう打ちや打ち延ばしなどの機械的方法は金属板を形どったり、くっつけたりするために使われていました。後になると鋳型を使うようになります。この方法は重い上に高価だった為、簡単な軽い小像を作るようになりました。

・装身具…先史時代から女性の興味の的だった装身具はまず、石、骨、貝、象牙で作られましたが金属加工の発達と共に青銅、金、銀、白金などが使われるようになりました。博物館には、ギリシア、ローマ、ビザンチンの腕輪、指輪、ブローチ、ネックレス、イヤリング、王冠などが展示されています。各時代の流行を反映し、鋳型、鋳造、鍛造などの方法で作られ、装飾も透かし細工、打出し細工、高浮彫り、粒状、エナメル…などいろいろな技法が使われています。

・コイン 交易の始まりは物々交換でしたが、後に貴金属が交換のために使われ、貨幣のアイデアが生まれました。この特定の形と重さを侍った金属塊が考古学上、INGOTSと呼ばれています。

アナトリア文明博物館
初めてコインが作られたのは、西アナトリアのリディア王国で紀元前7世紀後半の事です。
博物館ではスペースの関係上すべてのコインコレクションを展示することはできません。 紀元前1世紀から、紀元後4世紀までにアンカラで作られたものと、セルジュク、オスマントルコのもの、トルコ共和国のものの一例が展示されています。

〈ガラス〉
メソポタミア地方でガラスが作られ始めだのは紀元前2000年代に遡ります。その後各地で、原始的方法によって生産が続けられていましたが、紀元前1000年代の初め頃、技法に大きな変化が生まれました。それまで、陶器にだけ用いていた方法をガラスにも使うようになったのです。型を使ったり、塊をカットしたりプレスしたりといった技法は、ヘレニズム後期まではあまり見られません。ヘレニズム後期になると吹管が考案されてガラス器の大量生産が始まりました。

 
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