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トルコツアーガイド

アンカラ、アナトリア文明博物館


博物館の建物について

アナトリア文明博物館はアンカラ城の南側、アトパザール(馬の市)と呼ばれる地に位置している。オスマン時代の二つの建物、マフムトパシャ・ベデステンとクルスフンル・ハンを博物館としての新しい役割を担うべく改造したユニークな建築である。
ベデステン(バザールの一部で特に責重な品々を貯えておく場)を建てたマフムトパシャは征服王メフメットII世の総理大臣だった。建物に銘は残っていないが、アンカラ“Sof”(山羊又はラクダの毛で織った布)がここから各地に出回っていたという記録がある。ベデステンはこの種のものとしてごく一般的なもので、中央の方形の部分は10のドーム型の屋根でおおわれ、周囲のアーケードはアーチ型天井の下に商店が、各業種ごとに向きあう形に並んでいた。

アンカラ地方の土地台帳や裁判記録の研究によると、クルスフンルフ・ハンはマフムトパシャのその後に総理大臣となったメフメットバシャによって作られたらしい。このハン(隊商宿)からの収入はイスタンブール、ウスキュダル地区の貧しい人々の福祉にあてられた。メフメットパシャはウスキュダルにモスクや神学校も建て彼自身その地に眠っている。この建物にも銘は残ってないが、1946年の修復工事の際、スルタンムラットのコⅡ世のコインが発そされた事から,15世紀前半、すでにここに隊商宿があったものと思われる。建築様式はオスマン時代の典型的なもので広い中庭を二階建ての建物がとりまいている。一階には28の部屋が、二階には30の部屋が並び各部屋には暖炉がついている。下の西側と南側はL字型のうまやになっている。
二つの建物とも1881年に火災にあい使われなくなっていたのを今日、博物館として復活させたものである。

アナトリア文明博物館の歴史
アンカラで最初の博物館は1921年にアンカラ城の塔のひとつアクカレに設置され、アウグストゥス神殿とローマ浴場からの出土品などが展示された。アタチュルクの提言によりヒッタイト博物館が創設される事になって、ヒッタイト時代の遺物が各地からアンカラに送られ始めた。そのためより大きな建物が必要となったのでマフムットパシャベデステンとクルスフンルハンの改築工事が1938年に始められた。 1943年に一部だけオーブンしたがすべての工事が終わったのは1968年である。1948年にアクカレの旧館は倉庫に変えられた。ベデスタンの5つの店舗は原型のまま残されたが他の各店舗部分の仕切りは取り払われて大きな回廊部分が展示場として生まれ変わった。
クルスフンルハンは現在、研究室、図書館、会議室、作業室、事務室などとして使われている。
アナトリア文明博物館のユニークなコレクションは世界屈指のものといえよう。旧石器時代から近代までの貴重な品々が年代順に配置され、オスマン風ムードの中でアナトリアの長い歴史を興味深くたどる事ができる。

アナトリア文明博物館
旧石器時代
旧石器時代は、地域差はあるが一般的時代区分でいうと約200万年前から1万年前まで続いていた。この長い先史時代に初期の人類が出現し、道具の使用を覚えた事が進化への重要な第一歩となった。
旧石器時代人はいつも自然環境におびやかされながら狩猟採集のくらしをしていた。農耕はまだ知らなかったので、気候や環境の変化に応じて移動し適当な岩陰や洞穴に住んで生活していた。この時代は前期、中期、後期に区分される。
前期の人々は食物を得るために、あるいは自らの身を守るために石で簡単な道具や武器を作り始めた。石器はもっと硬い石を使って形づくった。

前期の温暖な気候は中期になると乾燥した厳しい気候に変わり、大雪が続き氷河時代へと移っていく。それに伴って人々の生活にも変化が起こり、石器に見られるように技術面でも大きく進歩した。粗い両刃の石器は姿を消し、刃を修正して切ったり皮をはいだりもできるようになった。新石器時代中期のネアンデルタール人は石器を用いてマンモス・サイ・鹿などの大きな動物も殺すことができた。
又、この時期にある種の祭式が行われていた証拠もある。例えば1つ又は2つの穴のある墓が見つかり、その隣りに食物を貯えた跡がある。これはネアンデルタール人の埋葬の習慣を示していると思われる。旧石器時代後期になると再び冷たく乾燥した気候になり、近代人の祖であるホモサピエンスがネアンデルタール人にとって代わった。ホモサピエンスは近代人に類似して知性も発連していたので、石器加工の技術も頂点に連した。長く使われてきた両刃の手斧型の石器は姿を消して、薄くて硬い刃のものに代わった。皮はぎ、石のドリル、のみ、矢じり、織機の後なども石で作られた。
骨や角からもさまざまな道具を作った。骨器を作るための専用の石器も用いられていた。つまり、旧石器時代後期にはすでに、道具を作るための道具がすでに使われていたのである。

他に重要な点として、人間の精神生活と関連した芸術の進歩があげられる。彩色画、線画、レリーフなどが洞穴の壁や様々な物に描かれたし像も作られた。これらから芸術の歴史における旧石器時代の役割を知ることができよう。骨や歯、貝を利用した装身具もこの頃作られ始めた。死体の埋葬はこの頃から一定の様式に従って行われるようになった。
旧石器時代のアナトリアについて、これまでの発掘調査によってすべて明確になったとはいえない。しかし、発見された道具、人骨、動植物、その他からみて、かなりの数の人間がこの時代を通してアナトリアに住んでいた事ぱあきらかである。
アナトリアで現在までに発見された遺跡で、旧石器時代の各層がそのまま見られるのはカライン洞穴だけである。アンタルヤの北西30kmにあり、旧石器時代の前、中、後期のそれぞれの住居跡が沢山残されている。おびただしい数の人骨-焼かれたものも焼かれてないものも-に加えて石器や骨器など器物、ネアンデルタール人やホモサピエンスの骨や歯が出土している。
カライン洞穴はアナトリアだけでなく、近東における重要な旧石器時代遺跡である。
この時代のアナトリアについてまだよくわからない面が多いのは、年代づけの方法がまだ確立されていないためである。しかし、ユーフラテス下流の発掘調査による出土品やカライン、ヤルムブルガズの再発掘などによって研究は続けられている。層位や年代づけの残された問題を解決するための重要な証拠が次々と見つかってきている。
アナトリア文明博物館の、旧石器時代の展示品で最もすばらしいものはカラインからのものである。手斧、皮はぎ、矢じりなどさまざまな石の道具が展示されている。骨器としては、オール、針、装身具などがある。これらは、旧石器時代の各層を示す、10.5mの深さの堆積層から出土したものである。

新石器時代
この博物館に展示されている出土品の中でチャタルフユックに次ぐのはハジラルの遺跡からのものである。ハジラルはブルドゥルの南東25kmにあり、後期新石器特赦(紀元前5700~5600)の9層の居住地跡のうちわずか4層だけ発掘された。ハジラルの家々は石の土台を持ち壁は泥レンガでチャタルフユックよりも規模が大きい。床と壁は赤く塗ってある。平屋根は木の柱で支えられ、中には二階建てもあったらしく階段も見つかっている。チャタルフユックと異なり、ハジラルでは集落の外に埋葬された。ほとんどの家から、地母神の立像や座像が出土している。土器はよく焼きしめられて赤、茶色、かっ色のうわぐすりをかけてある。展示品の中で特におもしろいのは、女性の頭部を型どり赤い光沢のあるカップと鹿、豚、鳥などの動物の形をしたリュトンである。植物や、角製でフリントをはめこんだカマをみるとハジラルの人々が農耕を知っていた事もわかる。粘土の糸つむぎ車も出ている事から、織物の技術を持っていたことも知られる。


銅石器時代
石器と併用して銅が使われ出した時代を銅石器時代という。ハジラル、ジャンハサン、クルチャイなどの遺跡を見ると新石器時代後期から銅石器時代へと移っていく様子がわかる。新石器時代同様、地域的特色がいちじるしいが、初期、中期、後期に分ける事ができよう。
アナトリアにおける銅石器時代初期の一番良い例はハジラルである。家屋は方形に平屋根で土台は石である。建物の間を細い道が走り、泥レンガのとりでを周囲にめぐらし町としての形をとっている。建物の入口は隣りあって一列に並び広々とした中庭から入るようになっている。大きな家は儀式用の小部屋と作業場、井戸、土器つくりの場も備えている。

ハジラル出土品の中できわ立っているのは絵付けされた手づくりの土器である。銅石器時代初期(5400~4750B.C)には、技術も向上し、単色でつやのある洗練された土器が製造されていた。多色で装飾した器も大量に作られるようになった。ピンクがかった黄色に赤茶色で幾何学模様を描いたものが多い。卵型のカップ、丸い水さし、大きな壷、角型のボウルや広口びん、ジョッキなど新しい型のものが現れた。新石器時代から引き続いて、座像に代表されるようなテラコッタの女神像もたくさん作られた。石や骨、それに数は少ないが銅で作ったものなど伝統的なものも引き続いて使われている。

コンヤ地方、カラマン北東13kmのジャンハサンも、銅石器時代を概観できる遺跡である。ジャンハサンはコンヤ平原とチュクロヴァをつなくルート上にあり、交易、文化交流の中心地だった。家々はハジラルと同じく方形だが壁には幾何学模様が描かれている。クリーム色又は淡黄色の手製土器は薄手に作られている。単色のものの他に、白地に赤や黒などでいっばいに線を描いたものもある。金属製品としては銅の腕輪、笏又は棒の握り手、その他銅片などである。
他に後期銅石器時代の主な遺跡として、西アナトリア、デニズリ地方のチヴリルの南東5kmにベイジェスルタンがある。紀元前4000年から3000年にわたる40層が発掘された。方形、泥レンガづくりの建物はメガロンタイプと似ている。柱、炉、壁に接してベンチ、しっくいを塗った貯蔵室もある。粘土の壺の中から銀の指輪、銅器、短剣の一部、3本の金属の針が見つかった。後期銅石器時代の土器は黒、灰色、茶のシンプルならいが多いが白で幾何学模様や線を描いたものもある。

アナトリア北部、中央部の初期の遺跡は後期銅石器時代に属するものである。アリシャル、アラジャフユックからの出土品がアナトリア文明博物館に展示されている。この両遺跡からは方形の泥レンガの遺跡、茶、黒、濃い灰色の土器が見つかった。水さし、ジョッキ、果物鉢などの単色の土器の中には刻みもようが入ったものもある。
東部アナトリアで、中期銅石器時代の遺跡として代表的なものは、ヴァン湖の南東、ティルキテペである。博物館に展示してあるのは黒曜石の道具やハラフと呼ばれた彩色土器などがある。
銅石器時代のアナトリアにおける埋葬の方法は地方によって異なる。屋内葬も屋外葬もみられるがどちらにしても遺体は壷や石棺に入れられていた。副葬品として土器、装身具、武器も埋められた。
この時代のアナトリアは人目もかなり多かったが全域に其通した文化というものはみられない。地理的条件もあって当時のアナトリアは外部からの影響を受けていた。アナトリア北西部はバルカンやエーゲ諸島の、東部と、南東部はメソポタミアの、そしてチュクロヴァでは北シリアの影響を受けていた。

アナトリア文明博物館
初期青銅器時代
紀元前4000年代末期から3000年代の初め頃、アナトリアの人々は銅とすずを混ぜて青銅を作る事を覚えた。この合金を用いて武器、装飾品や儀式用具などを作ったが、銅、金、銀、白金(金と銀の合金)でも必要な品々を作っていた。
大小さまざまな遺跡の発掘により、青銅器時代の人々は防壁に囲まれた居住地に集まって住んでいた事がわかる。アナトリアの伝統的スタイルである石の土台に泥レンガの壁の家には炉、かまど、ベンチが備えられていた。
ベイジェスルタンの遺跡ではメガロンタイプ(細長いワンルームの家)の家屋が見られる。これはアナトリアで長い期間にわたって見られるタイプの家である。

後期銅石器時代から初期青銅器時代への移行はゆるやかにしかもよどみなく行われた。建築も似ているし、スタンブ印章や偶像は各地の伝統を守りながら進歩した。銅石器時代には穀物を栽培し家畜を飼う事が重要な仕事となった。交易や金属加工も発達した。交易が広まった事は広範な地域に品物がいきわたっている事が証明している。金属加工は金、銀、銅、青銅、白金、それに鉄さえも扱われ、鋳造や鍛造の技術も進歩した事は、墓からの出土品などを見れば明らかである。アラジャフユック、ホロズテペ、エスキヤバル、キュルテベ、マフマトラル、カヤプナル、ポラトゥルなどからの質量共にりっばな工芸品を見ると、当時農業のみでなく芸術、冶金も職業として重要だった事がうかがえる。東部と北東部アナトリアが金属加工、交易の中心だったが、もしこれがなかったら、アッシリア植民市時代の交易の性格もかなりちがうものとなっていただろう。金属の彫像は、金属加工術ばかりでなく、アナトリアの人々の信仰や思想を反映し、又芸術的才能を示している点でも重要である。

アナトリアにおける初期青銅器文明の水準の高さを最もよく示しているのはアラジャフユックである。ここで発見された墓は、四角い石の壁に囲まれ、木の梁の上にはしっくいの平屋根のりっぱなものである。遺体は膝を腹部まで折り曲げて部屋の中央に横たわり、周囲に副葬品がおかれた。葬儀の時犠牲に供した牡牛の頭と足が屋根の上に置かれた。羊や山羊も犠牲に捧げられたがこれらの動物は死者の食べ物と考えられていたらしい。犬は見張りとして墓の外に置かれた。長い間使われたらしいこれらの墓は、何世代かにわたってこの地方を支配した王族のものらしく、異なった時代層が見られる。副葬品の多くは金、銀、白金、青銅であるが、琥珀、めのう、水晶、鉄、テラコッタも出ている。王冠、ネックレス、腕輪、イヤリング、バックル、針などの他、陶器の壷もある。青銅や金の武器、鹿や牛、女神の像、儀式用の円盤やシストラムもある。

トカトの近くのホロズテペからの出土品もアラジャフユック同様、支配者の豊かさと金属加工技術の水準の高さを示している。エスキヤパル、カヤプナル、マフマトラルからの出土品も素材や象徴的デザインなどきわだっている。貴金属の他に耐火粘土や石、卑金属の武器や偶像などはどこの住居跡からも出土している。
エスキヤバルの発掘により、中央アナトリアでは貴重な品々を墓に副葬するだけでなく、家の中にも埋められていたものと推定される。
青銅製の槍先は初期青銅器時代にアナトリアに初めて現れたものである。ある種の斧と共に、武器にはメソポタミアやシリアのものと共通点が見られる。これらはアラジャフユック、アリシャル、マフマトラル、ホロズテペ、デュンダルテペなどから出ている。サムソンの近く、イキズテペから出土した武器はこの時代の金属加工術の良い例である。

アラジャフユックとホロズテペの墓はここに住んだヒッタイト王のものである。ヒッタイト文明として知られるこれらの出土品は、牡牛や鹿の青銅の小像、白金の飾りのついた像、太陽盤、太陽盤を囲む牛や鹿の小像、牛の角で飾った円盤、又、母性と豊饒の象徴である、授乳する女性の像(ホロズテペ)、そしてハサンオランの青銅小像-これは頭部が金と白金でできている-などである。シストラムと同じようにこれらの品はすべて宗数的行事に関係している。神性、神権を象徴するものは初期青銅器時代にはじめて現れたのであ゛る。例えば、わしがシストラムに止まっているのはこの時代後期にかなり人気のあるパタンであった。これらはアッシリア植民市時代、ヒッタイト時代の太陽盤や鹿や手、地母神信仰のさきがけとなるものであった。

初期青銅器時代の手製陶器はふつう単色で絵付けされてる例は非常に少ない。絵付けの場合は赤又はうすい地色の上に、濃い色で幾何学模様を描いたり彫ったりしている。くちばし型のびんや、注ぎ口のついたポット、幾何学模様や線を彫って柚薬をかけた黒っぽい壷類、片手つきカップやボウル、人の顔を飾った両手つきの壷や水さしなどさまざまな形がある。青銅器時代後期になると金属製品の形をまねて一般にシンプルなものとなる。くちばし型の水さし、注口又はかごのような手のついたポット、角型のカップなど大量に作られた。カップの多くは後に出てくるヒッタイトのカップの最初の例となる。

初期青銅器時代において西アナトリアは他のアナトリア各地同様、独自の文化を特っていた。その理由はまず地理的要素があげられるが、この博物館では、西アナトリアの文化はベイジェスルタンとヨルタンからの出土品で見る事ができる。
末期の頃になると中央アナトリアと西アナトリアの問にも通商ルートが確立した。この頃、トロイ地方では貴金属の装飾品と共に特色ある陶器が作られていた。ベイジェスルタン、ポラトゥル、カラオラン、ボズフユック、アリシャル、キュルテペ、ギョズルクレ、カディクリなど中央及び南西アナトリア全域から広く出土しているがすべてトロイ第2市の文化の影響を受け丁いる点が興味深い。人の顔を飾る型と其に、ヨルタンタイプという手製の黒いカップは西アナトリアに共通する型がアンカラ地方にまで広まっていた事を示している。この時代の末期になると、中央アナトリアにろくろ製のものも現れるし、考古学でいう、中間期、アリシャルⅢ型のものも出てくる。この新しい型とは手づくりで絵付されたものであるがその例は中央アナトリアの南部に多くみられる。

テラコッタ、青銅、銀あるいは石でできたヴァイオリン型の小像は、新石器時代から銅石器時代にかけて作られた地母神像の新しいタイプである。もうひとつ初期青銅器時代末期、中央アナトリア南部で見られる新しい形は、丸い胴体に1つから4つの頭部をもったアラバスター(雪花石膏)の小像である。これらは墓や聖所の中の絵付け土器と関連しているが、これまでのところキュルテペからだけ発見されている。ふつう裸の小像で中央部に幾何学模様や同心円模様がついているが、小さなレリーフ特にライオンや人物像で飾られたものもある。大きさは5~30cmで豊饒の女神を象徴している。平たい形の偶像や、王座にすわって手を胸に置いた裸の女性像もあるがすべてアラベスターでできている。たくみに仕上げられ、しかも短期間で様式が進歩した様子がわかる。これらのキュルテペからの出土品はアナトリア文化と地方史解明に光りを与えるものといえよう。初期青銅器時代の絵付けの陶器と共に、紀元前3000年代の最後の2世紀頃に作られたものである。

新石器時代からの伝統的なアナトリア風のスタンプ印章は、初期青銅器時代にも引き続き使われていた。焼成粘土や石が多いが、金属のものもわずかながら見つかっている。この時代には印章の形も模様も小型になった。印章の凸面には幾何学模様が刻まれている。ひもを通す穴のついた輪状のハンドルも続いて使われていた。これらの品々は初期青銅器時代には副葬品としても使われている。
アフラトルベル、カラオラン、カラヤヴシャンからの印章はみなよく似ている。南部アナトリアから出土したものにはメソポタミアの影響が見られる。

初期青銅器時代の出土品の中には、たいてい何らかの飾りのついた紡ぎ車や機のおもりや羊毛紡ぎもあって、この頃、紡績や織物がさかんだった事を示している。
東部、中央、西部アナトリアの各文化は地域的特色を持ちながらも、先進的文明の域に達していた。外部からの影響も移民も、又アナトリア内部での相互の関係も各自の特性を損なう事はなかった。そしてこの、独自の地域性こそアナトリア文明の最大の特徴である。この当時アナトリア各地に居住地ができアナトリア半島は古代近東の文化の中心だった。アナトリア文明博物館にはこの時代の出土品が豊富に陳列されている。


アッシリア植民市時代(1950~1750B.C)
この時代の始まりはすなわち、アナトリアにおける歴史時代と中期青銅器時代の始まりである。
紀元前1960年、北部メソポタミアの古アッシリア王国はアナトリアとの確固たる通商体制をつくりあげた。当時のアナトリアは多数の封建的都市国家が分立していたが大部分はハッティ族に支配されていた。アッカド王国の頃からメソポタミアの人々はアナトリアの豊富な資源については知っていたので、今やアッシリアのイニシアチブの下に組織的な通商関係を確立したのである。アッシリア商人は自分たちのことばと楔形文字と円筒印章を伝えた。かくて紀元前1950年にアナトリアの歴史時代が始まったのであった。

商人たちはロバのキャラバンでディヤルバクル、ウルファ、マラシュ、マラテヤ街道又はキリキアの門を通るアダナ、タウルスルートを通った。アッシリアからすず、山羊の毛のフェルト、布、衣服、装飾品、香料を輸入し、アナトリアから金銀の製品を輸出した。アナトリアの支配者はアッシリア商人の活動全般の安全を保障し、アッシリアは税金や地代等を支払った。政治的軍事的目的はなかった。地方領主の住む町の外側に市場を建設した。この市場はカルムと呼ばれて全部で20ケ所近く設けられたがキュルテペのカルムカニシュが中心的存在だった。カルム・カニシュがアッシリアに対して責任をもち、すべてのカルムはその配下にあった。

アッシリアからアナトリアにやってきた商人達は地元の人と共にカルムで生活していた。彼らの家から出土した楔形タブレットのほとんどがこの博物館に保存されている。キュルテペだけでなく他の土地からもこの種の文字記録が出土している。古アッシリアのことばが独特の楔形文字で角型の粘土板に記されている。書簡は封筒に入れて封をしてから焼き固められた。タブレットの多くは商取引に関するものだが、私信や社会生活に関するものもある。この時代、陶器はたいていろくろを回して作った。

歴史の記述が始まりヒッタイトが初めてアナトリアにあらわれる。カニシユの王アニッタの名が青銅の短剣の楔形文字の銘にみえる。この短剣もアナトリア文明博物館に展示されている。ヒッタイト語でクババと呼ばれていた多産豊耀の女神の小像も象牙、鉛、焼成粘土、ファヤンスなどで多数作られた。この博物館に展示されているこれらの小像から古ヒッタイトの美術の誕生を見る事ができる。植民市時代の美術は大まかにいうと初期青銅器時代の伝統的スタイルとヒッタイト様式の混合に、ハッティやメソポタミアの影響を受けたものといえよう。その一例がキュルテペ、アジェムフユック、アリシャル、ボアズキョイから出土した植民市時代の印章である。アナトリアグループと呼ばれる円筒印章や印刻とは、その形態から区別する事ができる。

この時代のものでアナトリア文明博物館にあるものをあげると、印章、小像、鋳型で作った神々の像、お神酒どっくりなどがある。鉛の神像の服装や武器をヒッタイトの神々のものと比べてみると、ヘルメット、角、武器、ベルトや短いスカートは羚羊、豚、わし、ねこから、先のとがったブーツはかたつむりの角からヒントを得ている。その他、くちばし型の注口のついた水さし、ポット、取っ手のついた果物鉢も展示してある。形は初期青銅器時代からのものだがよくつやがかかって金属のように見えるものは、この時代の最も美しいもののひとつである。この頃の絵付けの陶器は、クリーム色の地に黒、茶、赤で幾何学模様を描いたものが多い。展示品の多くは、キュルテペ、アジェムフユック、アリシャル、ボアズキョイなどからで、町の造りも建築や出土品もよく似ている。墓や家の中から見つかった金製品、青銅の用具、象牙の小像や容器、黒曜石や水晶などの貴重な材料で作られたものはこの時代の芸術を代表している。特に象牙はアナトリア史上、初めて現れたものでアジェムフユックとキュルテペから出土した。
その他、印刻や楔形文字文書は当時のアナトリア近隣諸国の歴史解明にも光りを与えるものである。

アナトリア文明博物館
古ヒッタイトとヒッタイト帝国時代
記録によると植民市時代の終わり頃にピタナの息子アニッタがヒッティ人の都市国家を統一してヒッタイト王国を確立したという。
ハットゥシリI世は、アッシリア商人がアナトリアを去った後、都をネシャ(カニシュ)からハットゥシャ(ボアズキョイ)へと移した。この時代を古ヒッタイト時代という。アラジャフユック、エスキヤパル、イナンドゥク、マシャトフユックからの出土品を見るとこの時代の芸術はアナトリア様式を忠実に守っている事がわかる。陶器は形や技巧の点でアッシリア植民時代とほとんど同じであるが、酒杯は少し大きめなものが人気があった。ボアズキョイとイナンディクから牛の頭のリュトンが発見されている。

植民市時代からの伝統であるレリーフ飾りの壷類はこの時代エスキヤパル、イナンディク、ビティクで発見された。帯状にレリーフで飾ったイナンディクの壷は最高の例である。この時代の一般的なものは洗い物用の大きなボウル、フラスコ型の壷、漉し器のついた容器、女神像の容器などである。
当時の冶金術を示す二つの例のうちのひとつはボアズキョイから出土した女神の坐像を形どった金のネックレスである。もう一つはドブレクから出土した青銅の小さな神像である。ヒッタイト古王国では青銅の神像は守護神として神殿にまつられていた。
ヒッタイト古王国の力は内紛で一時弱まったが、紀元前2000年代後半スッピルリウマスI世のときに再び強大となり、近東においてエジプト、バビロニアと並ぶ大帝国をつくりあげた。

ヒッタイトの芸術は帝国時代大きく進歩し、その遺物はヒッタイト本国ばかりでなく、支配力の及んだ近東の広い地域にわたって発見されている。ヒッタイト芸術は、首都ハットゥシャ(ボアズキョイ)、アラジャフユック、エスキプナルその他各地からの出土品や文書によって、紀元前1400年から1200年までの問に最高のものがつくり出された事がわかっている。それらの出土品によってアッシリア植民市時代から紀元前1200年、帝国が衰退するまでの歴史や宗教又、日常生活についても知る事ができる。

ボアズキョィの神殿の構造や建築技法には共通点が見られる。中庭は部屋と柱廊で囲まれている。神々の像は奥の院、神像安置所にまつられていた。神殿はたくさんのスタッフをかかえる大きな組織だった。城壁の数ケ所の門は神々やスフィンクスやライオンのレリーフで飾られていた。「王の門」には戦さの神のレリーフが彫られている。これは深彫りなので彫刻のように見える。ヒッタイトの記録によるとこの当時、もっと大きな像も彫られたという。

ヒッタイト帝国のもうひとつの代表的芸術として、石のオルトスタット(壁下部に並んだ直立材)がある。建築要素として使われた石の最高の例はアラジャフユックのオルトスタットである。飾りのついたオルトスタットはここからだけ見つかっている。レリーフのテーマは宗教的なものである。オルトスタットは博物館の中央ホールに展示してある。

等身大の像やオルトスタットの他に、金や象牙、青銅や石、それに小さなレリーフの神々の像が同じ様式で作られた。大きなアーモンド形の目、くっついたまゆ、大きなわし鼻、微笑を浮かべた目元が特徴である。レリーフでは体は正面を向いているのに対して、頭や足は横向きになっている。これもヒッタイト様式の特徴である。
古ヒッタイト以来の伝統的な印章も引き続き使われていたが形や図案は大きく進歩し、スタンプ印章の他にリング型も使われるようになった。読みやすくするために楔形文字に加えて象形文字も使われた。
帝国時代、カップは数も少なく技術も衰えたが宗数的な意味を持つ容器だけは入念に作られた。動物の形の容器、嵐の神を象徴する二頭の牛や聖域を形どったものが特に重要である。

ボアズキョイで出土した文書のひとつにカデシュの条約に関するものがある。ヒッタイトとエジプトの、カデシュの戦いの後に調印されたもので、これはアナトリア史上最初の文書条約として有名である。オリジナルは銀板に彫られたが焼成粘土でコピーが作られた。粘土板は文書用に最も重要なものである。
1986年にボアズキョイで発見された青銅のタブレットも重要なものである。 23.5×34.5cmの青銅板に楔形文字で、ヒッタイト帝国の国境に関する取りきめが書かれている。これはアナトリアで見つかった最初の青銅タブレットである。

新ヒッタイト王国(1200~700B.C)
ヒッタイト帝国は紀元前1200年頃、いわゆる海の民の侵入によって滅亡し、生き残った人々はタウロス山脈の南や南東部に逃げた。彼らが新ヒッタイトと呼ばれる。このでき事の後、彼らは中央集権的な国家を建設する事はもはやできなかった。アッシリアからたびたび攻撃され紀元前700年、ついに完全に歴史から消え去ったがヒッタイトの伝統は最後まで守られていた。

新ヒッタイトの中心地、カルケミシュ、ジンジルリ、マラテヤ・アスランテペ、サクチャギョズ、カラテペ、テルタイナトの他数多くの遺跡からこの時代の文化を示すものが出土している。これらの小都市は、紀元前1000年代の初期、アナトリア北部及び西部のフリギア王国、東部のウラルトゥ王国、メソポタミア北部のアッシリア帝国などの政治的強国と共存していだのである。

新ヒッタイトの町は城壁で囲まれ、行政や宗教寸この大事な建物は一番高い地点の守りの固い所に、さらに別の壁に囲まれた城砦のように置かれていた。町は王宮、記念道路、広場などを中心に設計されていた。王宮はたいてい中庭を囲んで建物が並ぶ形だった。このヒラニと呼ばれる形はこの時代に特有の建築様式である。方形の建物で、入口には円柱が立っていた。
他に新ヒッタイトの芸術の特徴として、彫刻と建築の混合したものがある。城壁の門と王宮のファサード(正面)はレリーフ飾りのブロック(オルトスタット)でおおわれていた。

新ヒッタイトが占拠した土地は近東から中央アナトリアを通ってエーゲ海地方へと抜ける交易路に位置していたので、紀元前2000年代後半にこの地方へやってきたフルリミタンニ人や紀元前1000年代にここに住んでいたアラム人の影響をはっきりと見ることができる。マラテヤの近くアスランテペの城門のレリーフや一対のライオン像はヒッタイトの伝統的特徴を示している。レリーフにはマラテヤの王スルメリが神々に神酒を捧げているものがある。アスランテペの王宮の入口にあった大王の像は、アッシリア様式である事からして、もっと後の時代のものと思われる。

新ヒッタイトで一番重要な都市国家はアナトリア南東部のカルケミシュであり、ここはメソポタミアやエジブトとアナトリアを結ぶ交差路に位置していた。ここからの出土品がこの博物館にもたくさんある。「長い壁」「王の塔」「英雄の壁」「水の門」からのレリーフが、元の位置のままに配置展示されている。レリーフの情景は、女神クババヘの奉納の儀式やカルケミシュの王アラサスの長男カマナスヘの後継ぎの指名、戦車やアッシリアとの戦いの勝利の揚面、ヒッタイト神話の神々や動物などさまざまである。ヒッタイトとアッシリア双方の特徴を見る事ができる。

サクチャギョズの王宮の門のレリーフにはアッシリアとアラム人の影響が見られる事から紀元前8世紀末頃のものと思われる。
マラテヤ、サクチャギョズ、カルケミシユのレリーフには月の神の姿が見られる。そのひとつでは頭部に翼を持ち、他のものでは翼のある月の神が三日月のついた帽子をかぶっている。これらは当時、太陽や月の信仰が続いて行われていた事を示している。
新ヒッタイトの都市国家に共通していたもうひとつの特徴はヒッタイトの象形文字である。この時代楔型文字はもう使われなくなり、ヒッタイトの象形文字に代わった事は、カルケミシュやアンダヴァルのレリーフ、スルタヌカイセリやキョイルオトゥの石碑などから知る事ができる。


フリギア(BC1200~700)
紀元前12世紀の初めころフリギア人が、エーゲ海からの移民の跡をたどるようにして南東部ヨーロッパからアナトリアヘとやって来た。主要な各都市を略奪し、ヒッタイト帝国を滅亡させ、しだいにアナトリアの支配権を握っていった。とはいっても、フリギア人の居住地は主として、アフィヨン、キュタヒヤ、エスキシェヒールを結んだ、サカルヤの谷一帯だった。首都はゴルディオンにおかれた。残された銘からフリギア人はインドヨーロッパ系の言語を使っていた事がわかる。ギリシアの出典、特にヘロドトスによれば、フリギア人はマケドニアから出たとしているが、アッシリアの出典によるとムシュキの王ミタとされている。今日ではミタはミダスで、アッシリアのいうムシュキがフリギア人だとされている。

紀元前8世紀後半、フリギアは強大な王国であったが紀元前7世紀初めのキメラ人の侵入によってその力は弱くなり、まもなくリディア王国の支配下に入った。紀元前 550年そのリディアはペルシアに破れ完全に自由を失った。
フリギア王国の政治、文化は前期(紀元前7世紀まで)と後期(紀元前695年のキメラ人の侵入から紀元前4世紀末まで)の二期に分けられるが、今知られているのは紀元前750年以降の事がほとんどである。

フリギアの首都ゴルディオンは堅固な城壁に囲まれた要砦都市であった。公共の建物や役所などはいわゆるメガロン形式で建てられた。紀元前3000年来、アナトリアで知られていた形で石、泥レンガ、木で作った方形の建物である。フリギア人は西アナトリアの伝統的形式により、幾何学模様のテラコッタで屋根を飾り、床は多色のモザイクで飾った。この博物館にある最高のテラコッタパネルはゴルディオンとパザルリから出たものである。パネルには兵士、ライオンと牛の戦い、人間、鳥、馬、「生命の木」の両側に立つ山羊などが彫られている。
サカルヤ川の岸辺のゴルディオンを別として、クズルウルマク川の南方、アラジャフユック、ボアズキョイ、パザルリ、キュルテペ、エスキヤパル、マシャトフユックの遺跡からフリギア人とフリギア芸術について知る事ができる。岩の建造物や出土品をみるとフリギアの建築は根強い伝統に基づいている事がわかる。

フリギアの王族、貴族は西洋ねずやヒマラヤ杉で作った小室に葬られ、土を高く盛ったいわゆる古墳になっているが、技術はかなり進歩している。まず丸太を組んで空間を荒石でつめる。遺体や副葬品を本の小室に埋めてから屋根を作った。屋根には石をしきつめてから、灰や土を盛って塚の形にした。 100近くあるといわれるフリギアの古墳のうち25ケ所発掘された。豪華で品数も多い副葬品は、死者が高い位の人であった事を物語っている。

ゴルディオンの他、中央アナトリア南西部のアフィヨン、エスキシェヒール、それにアンカラ近郊(アタチュルク廟、アタチュルクファームのあたり)でも古墳が発見されている。紀元前8~7世紀のもので塚の高さは3mから40mまでといろいろである。遺体は初め直接地面に埋められたが、後には火葬するようになり、灰は特別の壷に入れておさめられた。フリギアの古墳中最大の、ゴルディオンの太古墳は直径300m、高さは50mに建する。木で作られた内室は6.2m×5.15mでドアはないが三角形の破風がついている。内室の隅から見つかった遺骨は身長1.59mで60才以上とみられるがこの歴史学上貴重な墓はミダス王のものと思われている。幾何学模様のレリーフで飾った木のパネルがあり、その隣りに青銅の三脚台にのった青銅の大なべが幾つかあった。太なべの中には小さな壷やボウル、バケツ、小なべやひしゃく、青銅の留め金などがたくさん入っていた。フリギア人は大なべの製造に独特の腕を持っていた。同じ頃東部アナトリアに住んでいたウラルトゥから輸入した技法に自らの独創性を加えている。ウラルトゥでは牛やライオンの頭のデザインをよく使ったが、フリギア人はアッシリア風に人間の頭部を型どったものが多い。大なべの縁の部分を見ると洗練された冶金術を身につけていた事がわかるし、幾何学模様の彫りものや象眼は木工の面でもレベルの高さを示している。古墳からは、幾何学模様のついた家具や小さな馬の像、牛とライオンの戦いの像、神話のシーンを描いたレリーフの木製パネルなども出土した。又、象牙の小像も独特な様式で作られていた。

フリギア人の独創性はキベーレ信仰にも反映している。彼らの主神である女神キベーレは紀元前2000年代のヒッタイトのクババ神にあたる。豊穣の地母神として多くの場合ライオンを伴った形で表現され、その信仰はサルディスを経由してヘレニズム世界、そしてローマヘと伝わった。この博物館にあるキベーレの小像やレリーフはボアズキョイ、アンカラ、ゴルディオンから出たものである。
展示品の他のグループはアンカラ地方の安山岩のレリーフである。オルトスタットにライオン、馬、牛、グリフォンやスフィンクスが彫られているが、西アナトリア、後期アッシリア、後期ヒッタイトの影響を見る事ができる。フリギアの陶器はろくろ製だが、無地のものと多色のものと二つのグループに大別できる。金属製を模した黒や灰色の無地のものが一般的である。模様のあるものは、明るい地色に赤茶色で四角、三角、波形やジグザグ線で同心円や市松模様を描いたものが多い。中には幾何学模様で完全にうめられているものもあるし、パネルに仕切って動物モチーフを描いたものもある。フリギア人の想像力と創造性を反映した動物型のリュトンは、先史時代からアナトリアで使われてきた酒杯の流れをくんでいる。

アナトリア文明博物館
ウラルトゥ
ウラルトゥ人は紀元前1000年代初期にヴァン湖地方に国を建て、最盛期にはウルミア湖とユーフラテスの谷、南トランスコーカシアのギョクチェギョルからアラクセスの谷、そして黒海の東岸からアッシリアの国境にまで拡がっていた。その国土は高い岩山に囲まれた高原と深い渓谷からなっていたが、ウラルトゥ人は厳しい自然条件を克服して農業や牧畜に成功した。東部アナトリアは農牧業だけでなく豊かな鉱物資源に恵まれていたので古くからメソポタミアの人々の注目を引いていた。その豊かさゆえに、しばしばアッシリアの攻撃を受けてきたが、ウラルトゥはそれに対抗するために統一して王国をつくったのだった。中心となったのは今のヴァンである。「ウラルトゥ」の名は紀元前6世紀、北方からのメディアやスキタイの侵入によって消え去る事になるが、はじめてその名が現れるのは紀元前8世紀、アッシリア王シヤルマネセルI世の楔形文書である。ウラルトゥ人はセム語系でもなくインドヨーロッパ語系でもなく、フルリ語に属するものと思われている。フルリ文明はヒッタイトと同じ頃、アナトリア東部、南東部に栄え西はアンタリアまで拡がっていた。ウラルトゥ王国より500年昔まで、王国と同じ領域を支配していたのである。そうした点から考えて、ウラルトゥはフルリ族の子孫といってもいいだろう。

最初、ウラルトゥはアッシリアの影響を受けてその文字や言語を使っていた。ウラルトゥの楔形文字はアッシリア語とウラルトゥ語の二国語で書かれているので解読する事ができた。粘土板にウラルトゥ語で書かれた公文書や商業用の手紙も発見されている。しかし、ウラルトゥの文書記録はアッシリアのものに比べて数も非常に少なく、法律的な手紙や契約書など堅苦しいものが多い。最も重要な銘は岩の表面や、細工した石に彫られたもので、ヒッタイトの象形文字のように図形も使われた。楔形文字の記録から戦の勝利や奴隷、戦利品について、又は運河、城、神殿の建築などについて知る事ができる。運河を掘ったり人造湖を造ったり、湿地帯の排水や灌漑工事などはウラルトゥ独特のもので、卓越した技術をもっていた事を示している。アッシリアの記録でもこれが証明されている。アッシリア王が、ウラルトゥの豊かさと神殿や王家の財宝について述べた記録もある。
神権的なウラルトゥ王国では封建制度がしかれていた。国境には初期のヒッタイト帝国のようにそれぞれ独自の支配者を持った小都市国家があり、その支配者たちは王国に税金を支払って自治権を得ていた。要砦を兼ねた城に住み、戦争が始まると軍を率いてウラルトゥ王の指揮下に入った。

ウラルトゥ王国は紀元前9~8世紀に最も強大だった。山国だったが公共事業でダムや運河を追って環境整備に努めた。宮殿や神殿もりっぱなもので土木建築にはきわだった力量を示している。建物は険しい山腹に建てられたものが多いが、たくみに環境に調和している。 20トンから25トンの大きな石を入念に積み重ねている。アッシリアの建築とはちがって、石の土台に木材の長い梁を使用する事が多かった。
いくつもの塔を備えた城壁の内部に神殿、宮殿、役所それに作業所や倉庫を備えた館が並んでいた。設計と技術が環境にマッチしたよい例である。
ウラルトゥ国王の碑文に記されている建築工事の記録を実証するものとして、アルトゥンテペ、チャウシュテペ、アディルジェヴァズ、カヤルデレなどが発掘された。中でもアルトゥンテペが最高の例である。円柱の並ぶ玄関ホールを備えた神殿や宮殿は建築史に残るものである。

壁画もウラルトゥの重要な特徴である。アッシリアの強い影響を受けてはいるが構図も様式も異なり、幾何学模様や植物モチーフ、さまざまな動物のシーンなどが明るい色調で描かれている。紀元前8世紀後半から7世紀前半までのものだが、これらの壁画からウラルトゥ人の美意識をかいま見る事ができよう。厳しい自然環境の中にあって生活していたが最も人気のあるテーマは植物と幾何学模様であり、聖木の両側に立つ翼のあるグリフォン、聖獣と神々、動物の戦いなどの動物モチーフである。赤、青、ベージュ、黒、白、まれには緑色などの明るい色を使っていきいきと描いている。
所有者の王の名前を刻んだ鉄かぶとや楯が残っている。人物や勅物産の模様もついている。アルトンゥテペからは紀元前7既記初めの青銅の大なべも出土している。4頭の牛の頭がついて典型的ウラルトゥ風に飾られたこの大なべはフリギア、ギリシア、イタリアに輸出されていた。飾りのついた青銅のパネルも重要なものである。ベルト、かぶと、楯、奉納額、馬具、矢筒などこのグループに入る。ベルトにはシンメトリカルなモチーフが使われているのが特徴である。

ウラルトゥ美術において印章も重要なものである。従来のスタンブ印章と円筒印章の他に、円筒形のスタンプ印章も出土しているがこれらはウラルトゥの芸術の革新性を示している。印章は動物、植物などが彫られている。
家具の破片などを見ると伝統的な象牙彫りも継承されていた事がわかる。頭は鳥で翼をもったグリフィン、人の顔、鹿の浮彫り、握った手やライオンの小像、しゅろ紋を彫った額などが発見された。中でも三脚台に、寝そべったライオンの小像は象牙の小像として興味深いものである。
ウラルトゥ王の墓にはアッシリアの影響が顕著に見られる。岩を窟って埋葬室を作り、木又は石の棺をおさめた。墓室のすぐそば、しかも地表に近い所に簡素な岩窟墓と納骨所がある。王の従者や奴隷がここに葬られたものと思われる。王の墓室内にも骨壷置き揚がある事をみると、貴族も平民同様火葬にされる事もあったらしい。
アルトゥンテペ、アールのパトノス、ヴァンのトプラクカレ、ムシュのカヤルデレ、それにアディルジェヴァズからの多数の出土品が、アナトリア文明博物館におさめられている。


リディア時代
リディア美術のルーツは、祖先がヒッタイト帝国と、時には敵対し、時には友好を図った時代、つまり、ブロンズ時代にさかのぼる。リディア人たちは、鉄器時代に、特に、ギーゲスからクレッソス(紀元前685-547年頃)時代までのネルムナッド家系の時代に著しく発展した。帝国はフリギア王ミダスの、紀元前695年頃のキンメル人への侵攻から彼の死後に最も栄えた。リディア人たちは、独自の言語と独自の文化を守った。一方、東側(フリギア人、ルヴィ人、ヴェト人、そしてペルシャ人)との間がそうであったように、西側(ギリシャ人)とも関係を改善した。エジプトからアスルまで外交関係を広げた。

リディア美術は洗練されたアナトリア文化の遺産である。そして、近東のペルシャの競争相手であり、ペルシャ文化の模範ともなった。リディア美術の発展は、アナトリアの風習を継続させたこと、美術家、芸術家たちを美術と建築の勉強のためにペルシャのパサルガデからスサに至るまで留学させたこと、そして、貴金属をギリシャ王家や神殿に贈ったという事実からもうかがえる。リディアの象牙工芸と、いけにえのモチーフの技法への貢献を表すものとして、リディアの石像と壁画のいくつかの例がマニサ市のクルックアーチハッラ層から出土しているし玄室の柩を担ぐスフィンクスたちの壁画と、ウシャックのアクテペ層から出土した壁画にも見られる。1960年代に西アナトリアでおこなわれた非公式の発掘の結果、外国に持ち出された文化財は、後にクレッソス或はリディアの宝物として知られている。リディアの宝物として展示されているもののほとんどは、金や銀のように貴重な金属から作られている様々な器、装飾品、小像、印章、壁画、そして大理石のスフィンクスである。金属製品は金属美術におけるあらゆる技術を駆使して作られており、かなり発展した金属美術であることがすぐにわかるであろう。展示品は、紀元前6世紀の後半に位置づけることができる。

紀元前7世紀以後のアナトリア文明
ギリシアのドーリス人が初めてアナトリアに植民地を作ったのはB.C2千年代末頃である。
BC1100年から950年まではいわば「初期幾何学模様時代」であり、コンパスを用いて模様を描きろくろを回して陶器を作った。
「幾何学模様時代」(BC950年~600年)は円形の模様から角形の模様に移行した。 BC600年から480年までは「古典時代」と定義づけられている。建築、彫刻共に、その基盤は東方様式の影響を受け、赤や黒で模様が描かれていた。

都市国家の影響を受けつつ発達した、カリア、リキア、リディアの文明はイオニア文明と共に西アナトリアに台頭してきた。そして、それはアレクサンダー大王がダーダネルス海峡を渡ってアナトリアにやって来るまで続いた。BC546年にリディアがベルシア帝国に敗れてから、西アナトリアの文明はギリシアやペルシア文明と混じりあい、グレコペルシアスタイルを生み出した。そしてそれも、アレクサンダー大王の到来によって終わりをつけ「ヘレニズム時代」に入る。この時代はBC133年にペルガモン王国がローマの支配下に入るまで続いたといえよう。この時代に属するコレクションは多数アナトリア文明博物館にも展示されている。
アナトリアがローマの支配下にあったBC1世紀からAD4世紀頃の、大理石、テラコッタ、金、その他の金属製品が、博物館の行った発掘(ローマ浴場、アウグストゥス神殿、ローマ劇場など)で発見されている。
4世紀から1453年、コンスタンティノープル陥落までのビザンチンの遺品も多数集められているが、重点は貴金属品といえよう。 11世紀に始まるセルジュク、オスマントルコのものとしては、コインが集められている。博物館では、BC7世紀以降のコレクションは素材別に展示されている。
〈石〉
当館の石造コレクションにはアンカラでの発掘品と購入したものがある。ヘレニズムの神々や支配者の像、建築物の遺構などは古典時代からビザンチンまでわたっている。祭壇や墓石は館内の他、庭にも展示されている。
〈テラコッタ、大理石〉
ヘレニズム及びローマ時代の鋳型を使ったテラコッタの小像や大理石像は、アナトリアから多数出土している。
〈陶器〉
ろくろを用いて、白地に黒や赤で模様を描いたギリシア風の壷などは、エーゲ海地方ではよく見られるが中央アナトリアでは少ない。博物館のこの分野のものはほとんどがシノプから出土したものである。
〈金属器〉
青銅の小像の多くは、ローマ皇帝像や、神々の像、神に捧げた動物などである。皇帝トラヤヌスの胸像は重要な物である。
最初の青銅像は木の胴体の上から形づくる方法で作られた。びょう打ちや打ち延ばしなどの機械的方法は金属板を形どったり、くっつけたりするために使われていた。後になると鋳型を使うようになる。この方法は重い上に高価だったので、簡単な軽い小像を作るようになる。
・装身具…先史時代から女性の興味の的だった装身具はまず、石、骨、貝、象牙で作られたが金属加工の発達と共に青銅、金、銀、白金などが使われるようになった。博物館には、ギリシア、ローマ、ビザンチンの腕輪、指輪、ブローチ、ネックレス、イヤリング、王冠などが展示されている。各時代の流行を反映し、鋳型、鋳造、鍛造などの方法で作られ、装飾も透かし細工、打出し細工、高浮彫り、粒状、エナメル…などいろいろな技法が使われている。
・コイン 交易の始まりは物々交換だっかが、後に貴金属が交換のために使われ、貨幣のアイデアが生まれた。この特定の形と重さを侍った金属塊が考古学上、INGOTSと呼ばれる。

アナトリア文明博物館
初めてコインが作られたのは、西アナトリアのリディア王国でBC7世紀後半の事である。
博物館ではスペースの関係上すべてのコインコレクションを展示することはできない。 BC1世紀から、AD4世紀までにアンカラで作られたものと、セルジュク、オスマントルコのもの、トルコ共和国のものの一例が展示されている。

〈ガラス〉
メソポタミア地方でガラスが作られ始めだのはBC2000年代にさかのぼる。その後各地で、原始的方法によって生産が続けられていたが、BC1000年代の初め頃、技法に大きな変化が生まれた。それまで、陶器にだけ用いていた方法をガラスにも使うようになったのである。型を使ったり、塊をカットしたりプレスしたりといった技法は、ヘレニズム後期まではあまり見られない。ヘレニズム後期になると吹管が考案されてガラス器の大量生産が始まった。
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