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トルコ基本観光情報

チグリス川・ユーフラテス川|人類最古 メソポタミア文明発祥地


「文明のゆりかご」ともされる最古の文明、メソポタミア文明を育んだチグリス川とユーフラテス川。東トルコの山岳地帯からペルシャ湾に注ぐこの二つの大河はこの地方に多くの恵みをもたらしました。
現在トルコからシリア、イランへと流れるこの二つの川に関して歴史も踏まえてここで徹底解説致します!

西の大河「ユーフラテス川」

ユーフラテス川

ユーフラテス川の源流

トルコ共和国東のアルメニア近くの山岳地帯、標高3520mのアール県ディヤディン(Diyadin)が源流の「ムラト川」と、標高3290mのエルズルム県ドゥムルダー(Dumludag)が源流の「カラス川」の二つの支流が、トルコのエラズー県の県境付近ケバンで合流し、ユーフラテス川となっています。

ユーフラテス川の全長



全長は約2,800km、世界で38番目の南西アジアで最も長い川です。
トルコ国内のエルジンジャン県、トゥンジェリ県、エラズー県、マラティヤ県、アドゥヤマン県、ガズィアンテップ県、シャンルウルファ県計1,263Kmを通り、シリアを約710Km、その後イラクの地へ入ります。
イラクを約1400km通り、海の近くのバスラ県でチグリス川と合流して「シャットゥルアラブ川」を形成し、イラクとイランの国境地帯を約200㎞流れた後に、ペルシャ湾へ注がれます。

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ユーフラテス川の名前の由来

ユーフラテス川
ユーフラテス川と言う呼び方は日本語でも英語でも一般的になっていますが、これはギリシャ語「エウフラテス」から来た言葉です。
ユーフラテス川近辺の国々のトルコ語では「フラット(Firat)」、クルド語では「フィラット(Firat)」、ペルシャ語では「フォラート(Forat)」、アラビア語では「アル・フラーット(al Furat)」と呼ばれています。

尚、元々の語源に関しては、様々な見方がありますのでここで少しご紹介いたします。
  • 1)古ペルシャ語の「ウフラトゥ(Ufratu)」とアッカド語の「プラットゥ(Purattu)」が語源と言う見方。古ペルシャ語のこの単語は、ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』に書かれている“渡るのが簡単”と言う意味の「huperethuua」であると推測されています。
  • 2)アラビア語の”呑気や気楽”を意味する「フェラハット(ferahat)」から来ていると言う見方。
  • 3)「フラット(Firat)」の語源;シュメール語の「ブラヌン(Buranun)」であるアッカド語の「プラットゥ(Pu-rat-tu)」、ヘブライ語の「ペラトゥ(Perath)」がその後アラビア語化して「フラット」となったと言う見方。

語彙がインド・ヨーロッパ語族を語源としておらず、アッカド語とシュメール語が語源となっており、そして古ペルシャ語とペルシャ語を通して他の言語にもたらされたと言う見方が最も重視されています。
また、古アッシリア語において音声的に「フラット」の語彙に近い「プラトゥ(pratru)」と言う語が、語源の一つともみられています。

ユーフラテス川の氾濫の時期と流量

ユーフラテス川は、降水に恵まれた上流の東アナトリアからの雨と雪解け水から来ているため、春3月~6月の間は増水し、ゆっくりと流れが荒くなり、水量が最高潮に達します。7月~1月までの間に水量は少なくなりますが、それでも隆々と多くの水流があります。
流れは周辺の他の川に比べて規則的に統制されているのが特徴です。
中流と下流は流れが穏やかで、特に下流の下メソポタミア地方は平原であり、水量も少なく排水も悪く、沼沢地が多くなっています。

ユーフラテス川の特徴

  • 古代には青銅を造る為の銅がこの河によって運ばれていたため“銅の河”とも言われています。
  • 洪水を起こしていましたが通過地点に湖があるなど傾斜が緩和されていいた為、チグリス川と比べて穏やかです。

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東の大河「チグリス川」

チグリス川

チグリス川の源流

多くの支流を持つチグリス川の主流の川は、東トルコのタウルス山脈マデン山が途切れた所であるハザルババ山の南側のユルドゥズハン近くの源泉から、そして土壌に染み込んだ水がエラズー県のハザル湖に溜まります。そこからマデン川となり南東へ向かい、チグリス川となります。

チグリス川の全長



約1,800Km。世界で81番目の長さです。
トルコ国内を523Km、シリアを44㎞、イラクを約1200㎞以上流れています。
源流からの主流はディヤルバクルを通りますが、ある箇所では川底が600mまで下がります。そしてデイヤルバクルの南8㎞の地点で東へ曲がり、その後に北のタウロス山脈の斜面を下ると、ディヤルバクル盆地から出てくるアンバル川、クル川、パムック川、ハズロ川、バトマン川、ヤナルス川と合流して南下します。

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そして、マルディン付近にて洪水の原因となるギョクス川とサヴル川、そしてボタン川と合流すると、40km南下しシリアの地へ入った地点でヘズィル川と合流し、直ぐにイラクの地へと入ります。

モースルで大ザブ川と小ザブ川が合流した後にメソポタミア平原に入り、バグダッド近くでユーフラテス川に35㎞と最も近づき、バスラの北64㎞の地点でユーフラテス川と合流し、シャットゥルアラブ川となり、南下してペルシャ湾に注がれます。

チグリス川の名前の由来

日本でも同様、世界的に知られている名は「チグリス/ティグリス」です。書籍や教科書などでは「チグリス川」と「ティグリス川」が混在していますが違いはなく、どちらも正しい表記です。これは古代ギリシャ語「Tigris」から来ていますが、この後ろについている”is”をとった形”Tigr”が元々の語源でシュメール語が由来となっています。

元々の語源はシュメール語で“流れる水”を意味する「idigna/idigina」でした。その後エラム語の「ti-gi-ra」へ、そして古ペルシャ語の「Tigra」、ギリシャ語の「Tigris」と変わってきたのです。

また、シュメール語の「idigna/idigina」がアッカド語の「idiklat」へ、その後ヘブライ語の「Hiddekel」、シリア語の「Diklat」、アラビア語の「Dijlah」と変換されてきました。
現在チグリス川付近の国々、トルコ語では「ディジュレ(Dicle)」、ペルシャ語では「デジュレ(Dejle)」、クルド語で「ディジュレ(Dijle)」と呼ばれています。

トルコ語を話しましょう!日本語と同じ言語グループに属したトルコ語の勉強は簡単です。

チグリス川の氾濫の時期と流量

チグリス川
チグリス川の流量の平均は360m³/秒です。 通常夏の終わりの干ばつと初秋の9月中旬頃に降水量の不足により55m³/秒と最も減少するのですが、冬の終わりと春の初めにかけての2月末頃には雪解け水により流量は2263m³/秒と大増水し、夏とは全く違った姿を現すのです。3月~5月の3か月間で年間水量の約半分が流れると言います。

チグリス川は水量統制が規則正しくないので、その年によっては溢水して多くの被害を起こしたりもします。この被害を防ぐ目的で、チグリス川中下流のメソポタミア地方の河畔には、既に紀元前3000年代より防水壁が作られていました。
この防水壁は溢水を防ぐだけではなく、夏季には田畑の耕作物への灌漑をも補っていました。しかし、防水壁が設置されていても、大洪水を防ぐことはできなかったと言います。

20世紀になった1939年に漸く防水作業が始まり、イラクのクートにダムが出来ました。その後、1958年サマッラに、1961年ドカンにダムが作られたことに因り、溢水が防がれるようになったのです。この土木作業により、現在サマッラとアマッラの間の100万ヘクタールの土地が耕作可能な状態になりました。

チグリス川の特徴

  • 傾斜が急な為、アナトリア上流で雨が降ると一気に中流・下流のバクダッドまで流れ落ちるので、規則的に氾濫と言うよりも油断するといきなり洪水が起きる気性の粗い川でもあります。ユーフラテス川よりも洪水が起き易い暴れ川でした。
  • アナトリアで多くの支流が合流する川です。

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チグリス川とユーフラテス川の間が「メソポタミア」

メソポタミア
メソポタミアは、ギリシャ語で「二つの川の間」を意味します。
その名の通り、東トルコの山岳地帯を水源とし、チグリス河とユーフラテス河、二つの大河の流域の狭間で栄えた土地・沖積平野がメソポタミアです。

メソポタミアの地と言われるのは、現在のトルコ南東、シリア北東、イラクの地域一帯になります。

メソポタミアとオリエントの違いは?

メソポタミアとオリエント、二つとも古代のこの二つの川周辺の地域のことを示すのですが、メソポタミアは古代のギリシャ語で「二つの川のあいだ」=チグリス・ユーフラテス川の間の地を指します。

一方、古代ローマにおいて、このメソポタミアを含め地中海東一帯とエジプトのことを”太陽が昇る場所”を意味する「オリエント」とも呼んでいました。

肥沃な三日月地帯とは?

メソポタミア
ペルシャ湾から、北へ弧を書く様にチグリス河とユーフラテス河流域のメソポタミア、シリアから東地中海沿岸を南下してエジプトのナイル川北部を含めたこの半円形の地域のことを「肥沃な三日月地帯」と言います。
北部は山岳地帯、南部は砂漠などの降水量の少ない乾燥地帯ですが、地中海性気候で温暖で湿潤であったため、多くの自然の植物が育ち、早くから農業と牧畜が始まりました。
遅くても紀元前9千年までには定住農業を始め、村を構築し、間もなく灌漑農業も始めたと言います。

世界中の農業の基礎を形成する8つの基本的な植物のうちの6つ(二粒小麦、一粒小麦、大麦、レンズ豆、エンドウ豆、ひよこ豆、ソラマメ科のビターベッチ、亜麻の植物)がこの地域で栽培化されたと言います。

メソポタミアはこの“肥沃な三日月地帯”の中核を担っていました。

「メソポタミア」は古代文明発祥の地|肥沃な三日月地帯 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

洪水は恵み?!肥沃な土地を産んだチグリス川とユーフラテス川

チグリス川とユーフラテス川の中流、いわゆる北メソポタミアは、天水農業が可能な温帯地帯で、豊富な水が古代より利用されてきました。また、中流だけでなく下流までも毎年の洪水により肥沃な土壌が上流からもたらされ、長年積み重なった結果、農作物が豊富に育つ広大な沖積平野となったのです。

上流地域アナトリアでの春の雪解け水と、時に起こる大雨により洪水が起こって溢水し、広範囲が水に覆われ、肥沃な土壌は多くの恵みをもたらしました。
この為、人々は川の近くに生活を求めて集まり、農業生産の向上により古代文明が誕生して開花したのです。

古代の二つの大河がもたらした湿地帯 動植物の楽園

紀元前1万2千年頃には既に狩猟採集をする人々が定住を始めていたと言います。その頃のメソポタミアは、二つの川の氾濫により、現在とは違い泥沼が多く湿地帯でありました。

二つの川がもたらした肥沃な土壌は多くの植物を育て、沼にはイグサ、ガマ、スイレンなどの可食植物が生い茂っており、海辺や川辺には鳥や水禽類、小型哺乳類やガゼルのような大型哺乳類も集まってきていました。

多数の魚類、貝類、甲殻類、軟体動物などの水産物だけでなく、ベリーやナッツも容易に手に入ったため、川周辺の地に人が定住するようになりました。

チグリス・ユーフラテス河畔の農業文化

ギョベックリ・テぺ
チグリスとユーフラテス二つの川の中流の北メソポタミアは、降水もあり気候に恵まれていた為、遅くても紀元前7000年頃には、降水を天に委ねた天水農業が行われて農耕文化が始まっていました。

干ばつ地を潤した「灌漑農業」とは?

灌漑とは「水を引く」ことです。天水農業が難しい降水量の少ない乾燥地帯でも、人工的・組織的に水を引き、水資源を供給して農業を可能にし、生産性を増やし効率よく一定の水準に高めて保ったのが灌漑農業です。

気候的に恵まれ、天水農業が可能であった北メソポタミアにおいて農業と牧畜が発達した頃には、気候の変化により天に任せた天水農業では増大した人口がまかなえなくなり、紀元前3000年頃、水源を求めて人々が南に流れて移住しました。

チグリスとユーフラテス二つの川の下流、南メソポタミアは降水量が少ない乾燥地帯であったため、天水農業が難しい地であるのに加え、この下流の地は川の氾濫により沼地が多く、農業が出来る土地ではありませんでした。ここで登場したのが灌漑農業です。灌漑により、農業で生産性を持つことが出来る様になりました。

そして農業だけでなく、灌漑のための水路建設、工事の為の用具作りなど人員が必要になり、この土木作業及び農業の余剰生産物により集落には階級が生まれ、町から都市、そして中央集権国家が生まれたとも言われています。

南メソポタミアでは、よく溢れて洪水となるチグリス川とユーフラテス川の水を溜める為の池やそれを配水する水路、灌漑排水システムが作られました。こうした効率的、そして人工的に管理した灌漑技術が文明を産みだし都市化する要素になったのです。
こうしてここが文化の中心地となりメソポタミア文化を豊かに発展させ開花させました。

メソポタミアに関わらず、エジプト文明やインダス文明、黄河文明など大河周辺で文明が発展したのは灌漑技術があったからなのです。

ただメソポタミアでは、長年の乾燥と暑熱による水分蒸発によって耕地の塩類集積を招き、生産力が低下して文明の衰退を招くことにもなりました。

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チグリス川とユーフラテス川のほとりで興った《メソポタミア文明》

イシュタル門

Radomir Vrbovsky, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

「文明のゆりかご」と言われ、四大河文明の一つで最古の文明メソポタミアは、チグリス川とユーフラテス川の恵みによって誕生しました。チグリス・ユーフラテス川と言う二つの大河は交通手段の要衝であり、民族の流入や遠方貿易が頻繁に行える環境でもあったのです。

地域的に現在のバグダッド付近を境にして、北部がアッシリアで南部がバビロニアとされます。また、この南のバビロニアの内、北部がアッカド、下流地域の南部がシュメールとさらに分けられていました。

ちなみに、下流域の最南部で勃興したシュメールが文明誕生の地となります。

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チグリス川とユーフラテス川のほとりで発明されたもの

  • 世界最古の楔形文字:ユーフラテス川に面したウルク遺跡で原シュメール文字とも言われている「ウルク古拙文字」が見つかっている。
  • 太陰暦:月の満ち欠けを基準にする最古の暦法。
  • 七曜制:月の満ち欠けの変化をもとに1週を7日とする単位。
  • 星座:夜番をしていた羊飼いたちが最初に作ったと言われている。
  • 六十進法:楔形文字には1~59に対応する数字がある。
  • 世界最古の法典:シュメール文明は「ウン・ナルム法典」による世界最初の法治国家。

メソポタミア文明 民族と文化の興亡

先史時代

ウバイド文化とウルク文化

  • ウバイド文化(紀元前6500年頃~3500年頃)
    ペルシャ湾岸の現イラクのジーカール県テル・アル=ウバイドで起こった南メソポタミア最古のシュメール文化。灌漑農業が始めて行われた時代です。
  • ウルク文化 (紀元前4000年頃~3100年頃)
    南部メソポタミアのシュメールの都市ウルクで起こった都市文化。最古の「ウルク古拙文字」で有名です。この時期にはメソポタミアで都市が勃興し、支配階級・社会階級が生まれます。専門職人や商人が現れ、地中海までに及ぶ広域貿易を行っていました。円筒印章やプラノ・コンヴェクス煉瓦もこの時期に誕生しました。

末期の紀元前3200年頃には南メソポタミアでは都市や町が35程あり、その内キシュ、ニップル、ザバラム、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルなど18の大都市ができていました。

シュメール初期王朝時代(紀元前3000年頃~紀元前2350年)

シュメール

Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons

メソポタミアの最南部、ペルシャ湾近くのラガシュ、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ウルク、ウルなどに出来た最古の都市国家文明です。
紀元前2600年頃のウル第一王朝のギルガメシュ王は、『ギルガメシュ叙事詩』で有名。
シュメールは文字、言語、医学、天文学、数学、宗教、占術、呪い、魔術、神話などの分野を始めて産みだし、大洪水に関しても初めて記しています。

アッカド王朝(紀元前2350年~紀元前2154年)

アッカド王国 南メソポタミアの北部、チグリスとユーフラテスが最も近くなっている地域の都市アッカドを中心に、シュメールを征服してメソポタミアを統一しました。アナトリアやシリア方面にも遠征を行ない紀元前2300年頃アッカド帝国の領地は最大となり、史上最初の中央集権国家となりました。

アッカド語は、オリエント地方の国際共通語となり、後に北のアッシリア方言と南のバビロニア方言に分かれます。

バビロニア(紀元前2004~紀元前539年)

バビロニア
最初は、イシン、ラルサ、バビロン、マリ等の都市王朝が乱立していました。その後、バクダッドの南のバビロンを首都としたアムル人の国家のバビロニアがこれらの都市を統一しました。この国家を統一したのが、“目には目を歯には歯を”のハンムラビ法典で有名なハンムラビ王です。この頃の時代は古バビロニアと呼ばれ、紀元前1757年に北のアッシリアをも征服して全メソポタミアを統一しますが、紀元前1595年にヒッタイトにより滅亡しました。

その後、紀元前1500年までにザグロス山脈から侵入したカッシート人がバビロンを手中に入れてカッシート朝バビロニアとも呼ばれるバビロン第3王朝を建てて、紀元前1155年まで約400年間バビロニアを支配しました。

その後、紀元前625年まで北のアッシリアの支配の下、アッシリア王がバビロン王に着いたり、反乱や短期独立が為されたりなどが繰り返されました。

紀元前626年にセム系アラム人のカルデア人が建てた古代メソポタミア最後の帝国である新バビロニア帝国ができ、バビロニア至上最も栄華を極めた時代となりますが、紀元前539年にアケメネス朝シリアに滅ぼされ、これも100年程で滅亡してしまいました。

アッシリア(紀元前3000年頃~紀元前609年)

アッシリア
チグリス・ユーフラテス川中流、肥沃な三日月地帯の中核である北メソポタミアで繁栄したセム系アッシリア人の国家です。
アッシリアは、紀元前3000年頃から北メソポタミアのアッシュル付近で興った民族集団で、その後都市国家を作り諸国家の影響下にありながらも、国際遠距離貿易に力を入れながら独自に存在感を見せた国家でした。

南メソポタミアとの商業を確立し、青銅の原料となるイラン高原の錫の交易を独占して中継貿易で栄えます。紀元前1960年以降、特にアナトリアに多くの商人居留地を築いたのですが、その中心となるのが中央アナトリアのカッパドキアの近く、カイセリの北約20㎞にあるカニシュ(現キュルテペ)です。カニシュは中央貿易センターの役割を負い、ここで関税がかけられた後にアッシリア商人はヒッタイトの首都となるボアズカレなどアナトリア各地と貿易を行って富を得ていました。

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興亡の激しいオリエント世界で国家体制を維持しながら勢力を増したアッシリアは、紀元前671年に遂には世界で最初にオリエントを統一し、大帝国を成し遂げました。

アケメネス朝ペルシャ(紀元前550~330年)

イラン系ペルシャ人が打ち立てたアケメネス朝ペルシャは、西はアナトリアから東はガンダーラまで、そしてエジプトをも支配することに成功した大帝国です。
しかし、紀元前330年に東方遠征中のアレキサンダー大王率いるマケドニア軍率により滅ぼされてしまいました。

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その後、現在までのメソポタミア

メソポタミアの神話

editor Austen Henry Layard , drawing by L. Gruner, Public domain, via Wikimedia Commons

  • 紀元前312年ディアドコイ戦争に勝ったアレキサンダー大王の武将セレウコスによりセレウコス朝シリア建国。ヘレニズム三国の一つで、首都は北メソポタミアのアンティオキア(現トルコ南東のアンタキヤ)です。
  • 紀元前141年アルサケス朝パルティアが征服。一時116~118年にトラヤヌス率いるローマ帝国軍が占領しますがすぐに撤退し、再度パルティアのものとなりました。
  • 230年ササーン朝ペルシャの領土となりました。
  • 年アラブ軍の支配下に入り、北はモースルを、南はバグダッドを首都とした二つの州に分かれ、その後バクダッドはイスラム国家の首都となります。その後アッバース朝が支配しました。
  • 1258年にモンゴル帝国の地方政権イルハン朝の領土となります。
  • 1508~1534年の短期間、サファヴィー朝の支配下となります。
  • 1534年にはオスマン帝国のスレイマン大帝が征服します。これによりメソポタミアはモースル、バグダッド、バスラの3つの州に分割されました。

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  • 1920年第一次世界大戦後にイギリス委任統治領メソポタミアが成立しました。
  • 1932年イラクが独立したと共に、メソポタミアの殆どがイラクの領土となります。

洪水伝説の起源はチグリス・ユーフラテス川?

ノアの方舟
古代から洪水に関しては、シュメール神話とシュメール王名表で初めて言及され、その後バビロニアのギルガメシュ叙事詩、アッカドのアトラハシス叙事詩、カルデアのベロッソス神官の記述、そして旧約聖書の『創世記』でのノアの箱舟など多くに記録されて来ました。
洪水は史実であることは確かで、この洪水のモデルとなったのが、古代から前触れもなく突然押し寄せ時には町をも水没さる洪水を起こしてきたチグリス川とユーフラテス川であることは明確とされてきました。
ちなみに、この旧約聖書の『創世記』のノアの箱舟はトルコ東部のアララット山に流れ着いたとされています。

チグリス・ユーフラテス川、特にチグリス川は大洪水を時々起こしており、水位8mにも及び数100㎞の町や地域ごと水没する程、大洪水が起こっていたことが発掘で分かっています。

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チグリス川とユーフラテス川の水資源問題

広大なチグリス川とユーフラテス川は、周辺のトルコやシリア、イラン、イラクなどにとって貴重な水資源となっています。農業への利用や洪水対策などのために、各国はダムを建設して管理していますが、場所によって流量が不足したり、過剰灌漑によって塩害が発生したりするなどの問題があります。

また、チグリス川とユーフラテス川の流量は将来的に減少するという予測もあり、効率的かつ持続的な水資源の利用に向けた検討が続けられています。

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調査対象:20~50代の男女198,979~199,391名 実施委託先:株式会社JCマーケティング