トルコ基本観光情報
駐日トルコ共和国大使館の歴史やトルコと日本の関わりを解説
親日国としてとても有名なトルコ!2020年は日本とトルコ、両国友好のきっかけとなったエルトゥールル号遭難事件を起点として、友好130周年を迎えました。
ここでは、トルコ大使館の概要や開設の歴史、在トルコ日本大使館、トルコと日本の深い関わりについて詳しく解説致します。
現在の駐日トルコ大使館があるのは東京都渋谷区神宮前です。1977年以来、商務参事官室、経済参事官室、文化・広報参事官室、報道参事官室及び武官室の各部を合わせ、おおむね35名程の職員が勤務しています。
館内は真っ白なトルコ産の大理石が多く使われ、特産品のトルコ絨毯を引き立たせています。
T.C. Dışişleri Bakanlığı 駐 東京トルコ共和国大使館
トルコ大使館 文化広報参事官室
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トルコ大使館 T.C. Tokyo Büyükelçiliğiさん (@TurkeyinJapan) / Twitter
1923年7月24日スイスのローザンヌで締結された講和条約(ローザンヌ条約)により、第一次世界大戦開戦以来、敵対する同盟国の一つであったオスマン帝国(オスマン・トルコ)と日本を含む連合国(フランス、イギリス、イタリア、ギリシャ、ルーマニア)は戦争状態を終結させました。
この条約により、オスマン帝国(オスマン・トルコ)に代わる民主主義国家としてトルコ共和国が国際的に認知され、翌1924年8月6日、同条約の発行をもって、日本とトルコは国交を樹立しました。
オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
こうして、初の駐日トルコ共和国大使館は1925年に開設されます。
その後、1939年に始まった日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの連合国との間で第二次世界大戦が勃発しましたが、トルコは中立を宣言したため、日本との国交は続きました。
しかし、大戦終局の1945年1月29日に連合国の要請によりトルコ政府は日本との国交断絶を通告、2月23日にトルコが日本・ドイツの両国に対して宣戦布告したため、国交は断絶しました。
そして、1945年8月15日に日本は敗戦し、無条件降伏をします。1951年9月8日に日本と連合国の間で第二次世界大戦の講和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結、翌1952年4月に発効され、トルコ大国民議会がサンフランシスコ平和条約を承認したことで日本との国交が正式に再開されました。
同年内に駐日トルコ共和国大使館が再開され、イッゼト・アクサルル氏が終戦後初の駐日大使に就任しました。
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丹下 健三氏(1913~2005)は大阪府に生まれ、高校時代にル・コルビュジェ(スイス生まれのフランスで活躍した近代建築の3大巨匠で上野の国立西洋美術館本館の設計者)に傾倒し、建築家を志して東京帝国大学(現在の東京大学)工学部建築学科に入学。1938年、大学卒業後はル・コルビュジェの教え子である前川 國男氏の事務所に入り、修行を積みました。
1941年には東京帝国大学大学院に入学、大東亜建設記念造営計画(1942年)と在バンコク日本文化会館(1943年)のコンペで一等を獲得し、建築家として名を知られるようになります。
1949年には広島平和記念公園及び記念館のコンペで一等に入賞し、1951年CIAM(近代建築国際会議)に招かれ、広島の計画案を発表、海外の建築界にデビューします。
1961年に丹下健三+都市・建築設計研究所を開設。その頃から「空間と象徴」という問題に取り組み、構造主義を発展させ、当時最大規模の吊り構造による国立屋内総合競技場(国立代々木競技場)と、シェル構造(薄い曲面板からなる建築構造)による東京カテドラル聖マリア大聖堂を1964年に設計します。
1970年代に入ると大阪で開催された日本万博博覧会・会場マスタープランの設計など、日本の国家的事業に携わると同時に世界各国で建築及び都市計画に携わるようになります。
1986年に行われた新東京都庁舎の指名競技設計で一等当選し、丸の内にあった旧庁舎に続き、新都庁舎の設計も担当しました。その他、日本での代表作はフジテレビ本社ビルや赤坂プリンスホテル新館、横浜美術館、香川県庁舎などがあります。
また、海外においてもシンガポール都心に建つ超高層ビル群に活気のある新しいスカイラインを与えているOUBセンター、UOBプラザやフランス・パリ13区のイタリア広場にある複合施設グラン・テクランなど多数の作品を手掛けています。
現在の在トルコ日本大使館はトルコの首都アンカラ、チャンカヤ区にあります。
ローザンヌ条約発行後、初めて駐日トルコ大使館が開設された1925年に、同じく初の在トルコ日本帝国大使館がオスマン帝国時代の旧首都にしてトルコ最大の都市でもあるイスタンブールに開設されました。
1937年には首都アンカラに移転しますが、第二次世界大戦の影響により1945年に日本とトルコの国交が断絶します。1952年のサンフランシスコ平和条約承認後の1953年7月、アンカラに現在の在トルコ日本大使館が開設されました。
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1963年10月には在イスタンブール駐在官事務所が開設され、1965年1月に在イスタンブール日本国領事館が開設、1972年に総領事館に昇格しました。
日本とトルコの国交が樹立し、初の大使館が開設されたのは1925年ですが、日本とトルコの歴史は古く、最初の交流は1873年に遡ります。
当時フランスに滞在中だった岩倉具視率いる岩倉使節団が、立会裁判諸制度の視察にイスタンブールを訪問したのが最初の交流です。以降、日本はトルコを度々訪問し、当時の外相や皇帝アブドゥル・ハミト2世に謁見するなど交流を図ってきました。
1887年、小松宮彰仁殿下と同妃殿下がトルコを訪問し、皇帝アブドゥル・ハミト2世に謁見しました。1889年7月、これに対する返礼として、同皇帝は総勢650名の親善使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号を日本に派遣します。
同年9月、責務を終えた使節団は帰路につきますが、日本に近づいていた台風の影響で和歌山県串本町大島の沖合でエルトゥールル号が岩礁に衝突し、蒸気機関が爆発、二つに割れ沈没してしまいます。
この事故でほとんどの乗組員が海に投げ出されましたが、大島の人々を中心に献身的な救助活動が行われ、69人を無事に救助しました。島民も決して裕福ではありませんでしたが、生活用品を集め怪我の治療や体力回復に並々ならぬ力を注ぎました。
こうして、すべてを投げ売ってでもトルコ人を救った日本人の話は、トルコの教科書にも掲載され、今もなお、子どもたちに語り継がれています。エルトゥールル号遭難事件は日本とトルコの友好125周年を記念して、2015年に合同制作した映画「海難1890」でも描かれました。
イラン・イラク戦争中の1985年3月、サダム・フセイン大統領が「48時間後、イラン上空を飛ぶ全ての航空機を撃墜する」と突如宣言しました。当時、日本の航空会社にはイランへの路線がなく、安全も保証されないため、日本政府は救援をためらっていました。
他の国の航空会社も自国民を優先したため、日本人だけがテヘラン空港に取り残されましたが、タイムリミットの僅か1時間15分前に来た救援機がトルコ航空でした。
トルコ航空機は、216人の日本人全てをトルコ領空へ退避させました。トルコ航空が日本人を救出してくれた理由として、当時の駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は、「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」と答えたそうです。
このような事件を通してトルコと日本は絆を深めていきました。
トルコと日本の深い関係とは?エルトゥールル号遭難事件や交流の歴史 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!
ここでは、トルコ大使館の概要や開設の歴史、在トルコ日本大使館、トルコと日本の深い関わりについて詳しく解説致します。
駐日トルコ大使館の場所は東京都渋谷区
110kuwahara / CC BY-SA現在の駐日トルコ大使館があるのは東京都渋谷区神宮前です。1977年以来、商務参事官室、経済参事官室、文化・広報参事官室、報道参事官室及び武官室の各部を合わせ、おおむね35名程の職員が勤務しています。
館内は真っ白なトルコ産の大理石が多く使われ、特産品のトルコ絨毯を引き立たせています。
名称 | 駐日トルコ共和国大使館 (Embassy of the Republic of Turkey in Japan) |
住所 | 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前2-33-6 |
特命全権大使 | ハサン・ムラット・メルジャン(2021年1月現在) |
受付時間 | 9:00~12:30・14:00~17:30 |
定休日 | 土日祝 |
駐日トルコ大使館でのビザ取得について
日本とトルコの間には査証免除取極があるため、短期間の観光や会議などを目的とした日本国籍を持つ方のトルコ滞在、またはトルコ国籍を持つ方の日本滞在では、ビザ(査証)の取得は不要です。ビザなし滞在が許可される要件は以下の通りです。- 観光・業務・公用を目的とした滞在
- 滞在期間 90日以内(180日間の期間内での合計)
- 入国時のパスポートの残存期間が150日以上
- 入国時のパスポートの未使用査証欄が見開き2ページ以上
大阪と名古屋にはトルコ共和国総領事館がある
領事関係の諸手続きについては、西日本エリアは在名古屋トルコ共和国総領事館、九州エリアは在福岡トルコ共和国名誉総領事館の管轄となっています。それ以外に地域は、東京のトルコ共和国大使館領事部の管轄です。在名古屋トルコ共和国総領事館
名称 | 在名古屋トルコ共和国総領事館 (Consulate-General of the Republic of Turkey in Nagoya) |
住所 | 〒460-0008 愛知県名古屋市中区栄3丁目21-23 KSイセヤビル4階 |
総領事 | メフメット・セルタチ・ソンメズアイ(2020年10月現在) |
電話番号 | 052-263-6200 |
在福岡トルコ共和国名誉総領事館
名称 | 在福岡トルコ共和国名誉総領事館 (Honorary Consulate-General of the Republic of Turkey in Fukuoka) |
住所 | 〒812-8566 福岡市博多区博多駅前3-25-21 九州旅客鉄道株式会社内 |
名誉総領事 | 石原 進(2020年10月現在) |
電話番号 | 092-474-7260 |
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トルコ大使館 文化広報参事官室
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駐日トルコ大使館開設の歴史
1923年7月24日スイスのローザンヌで締結された講和条約(ローザンヌ条約)により、第一次世界大戦開戦以来、敵対する同盟国の一つであったオスマン帝国(オスマン・トルコ)と日本を含む連合国(フランス、イギリス、イタリア、ギリシャ、ルーマニア)は戦争状態を終結させました。
この条約により、オスマン帝国(オスマン・トルコ)に代わる民主主義国家としてトルコ共和国が国際的に認知され、翌1924年8月6日、同条約の発行をもって、日本とトルコは国交を樹立しました。
オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
こうして、初の駐日トルコ共和国大使館は1925年に開設されます。
その後、1939年に始まった日本・ドイツ・イタリアなどの枢軸国とアメリカ・イギリス・フランス・ソ連などの連合国との間で第二次世界大戦が勃発しましたが、トルコは中立を宣言したため、日本との国交は続きました。
しかし、大戦終局の1945年1月29日に連合国の要請によりトルコ政府は日本との国交断絶を通告、2月23日にトルコが日本・ドイツの両国に対して宣戦布告したため、国交は断絶しました。
そして、1945年8月15日に日本は敗戦し、無条件降伏をします。1951年9月8日に日本と連合国の間で第二次世界大戦の講和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結、翌1952年4月に発効され、トルコ大国民議会がサンフランシスコ平和条約を承認したことで日本との国交が正式に再開されました。
同年内に駐日トルコ共和国大使館が再開され、イッゼト・アクサルル氏が終戦後初の駐日大使に就任しました。
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駐日トルコ大使館を建築したのは丹下 健三氏
1977年に竣工された現在の駐日トルコ大使館は、日本人建築家として最も早く海外でも活躍して認知され、「世界のタンゲ」とも呼ばれた建築家、丹下 健三氏の作品です。丹下 健三氏(1913~2005)は大阪府に生まれ、高校時代にル・コルビュジェ(スイス生まれのフランスで活躍した近代建築の3大巨匠で上野の国立西洋美術館本館の設計者)に傾倒し、建築家を志して東京帝国大学(現在の東京大学)工学部建築学科に入学。1938年、大学卒業後はル・コルビュジェの教え子である前川 國男氏の事務所に入り、修行を積みました。
1941年には東京帝国大学大学院に入学、大東亜建設記念造営計画(1942年)と在バンコク日本文化会館(1943年)のコンペで一等を獲得し、建築家として名を知られるようになります。
1949年には広島平和記念公園及び記念館のコンペで一等に入賞し、1951年CIAM(近代建築国際会議)に招かれ、広島の計画案を発表、海外の建築界にデビューします。
代表作は国立代々木競技場や東京都庁舎
1961年に丹下健三+都市・建築設計研究所を開設。その頃から「空間と象徴」という問題に取り組み、構造主義を発展させ、当時最大規模の吊り構造による国立屋内総合競技場(国立代々木競技場)と、シェル構造(薄い曲面板からなる建築構造)による東京カテドラル聖マリア大聖堂を1964年に設計します。
1970年代に入ると大阪で開催された日本万博博覧会・会場マスタープランの設計など、日本の国家的事業に携わると同時に世界各国で建築及び都市計画に携わるようになります。
1986年に行われた新東京都庁舎の指名競技設計で一等当選し、丸の内にあった旧庁舎に続き、新都庁舎の設計も担当しました。その他、日本での代表作はフジテレビ本社ビルや赤坂プリンスホテル新館、横浜美術館、香川県庁舎などがあります。
また、海外においてもシンガポール都心に建つ超高層ビル群に活気のある新しいスカイラインを与えているOUBセンター、UOBプラザやフランス・パリ13区のイタリア広場にある複合施設グラン・テクランなど多数の作品を手掛けています。
在トルコ日本大使館は首都アンカラにある
現在の在トルコ日本大使館はトルコの首都アンカラ、チャンカヤ区にあります。
ローザンヌ条約発行後、初めて駐日トルコ大使館が開設された1925年に、同じく初の在トルコ日本帝国大使館がオスマン帝国時代の旧首都にしてトルコ最大の都市でもあるイスタンブールに開設されました。
1937年には首都アンカラに移転しますが、第二次世界大戦の影響により1945年に日本とトルコの国交が断絶します。1952年のサンフランシスコ平和条約承認後の1953年7月、アンカラに現在の在トルコ日本大使館が開設されました。
【トルコの首都】アンカラ旅行のおすすめ観光名所7選!治安や気候も解説 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!
名称 | 在トルコ日本国大使館(Japonya Büyükelçiliği) |
住所 | Çankaya, Reşit Galip Cd. No:81, 06692 Çankaya/Ankara, トルコ |
現大使 | 鈴木量博(2021年1月現在) |
電話番号 | +90-(0)-312-446 05 00(代表) |
開館時間 | 9:00~13:00、14:30~17:30 |
公式サイト | 在トルコ日本国大使館 |
1963年10月には在イスタンブール駐在官事務所が開設され、1965年1月に在イスタンブール日本国領事館が開設、1972年に総領事館に昇格しました。
トルコと日本には長く深い関わりがある
日本とトルコの国交が樹立し、初の大使館が開設されたのは1925年ですが、日本とトルコの歴史は古く、最初の交流は1873年に遡ります。
当時フランスに滞在中だった岩倉具視率いる岩倉使節団が、立会裁判諸制度の視察にイスタンブールを訪問したのが最初の交流です。以降、日本はトルコを度々訪問し、当時の外相や皇帝アブドゥル・ハミト2世に謁見するなど交流を図ってきました。
エルトゥールル号遭難事件
日本とトルコの交流がさらに積極的となったきっかけは1890年に起こった「エルトゥールル号遭難事件」と呼ばれるトルコ船の遭難事件です。1887年、小松宮彰仁殿下と同妃殿下がトルコを訪問し、皇帝アブドゥル・ハミト2世に謁見しました。1889年7月、これに対する返礼として、同皇帝は総勢650名の親善使節団を乗せた軍艦エルトゥールル号を日本に派遣します。
同年9月、責務を終えた使節団は帰路につきますが、日本に近づいていた台風の影響で和歌山県串本町大島の沖合でエルトゥールル号が岩礁に衝突し、蒸気機関が爆発、二つに割れ沈没してしまいます。
この事故でほとんどの乗組員が海に投げ出されましたが、大島の人々を中心に献身的な救助活動が行われ、69人を無事に救助しました。島民も決して裕福ではありませんでしたが、生活用品を集め怪我の治療や体力回復に並々ならぬ力を注ぎました。
こうして、すべてを投げ売ってでもトルコ人を救った日本人の話は、トルコの教科書にも掲載され、今もなお、子どもたちに語り継がれています。エルトゥールル号遭難事件は日本とトルコの友好125周年を記念して、2015年に合同制作した映画「海難1890」でも描かれました。
イラン・イラク戦争中のトルコによる日本人救出劇
そして、エルトゥールル号遭難事件の95年後、また一つ日本とトルコの絆を深める事件が起きました。イラン・イラク戦争中の1985年3月、サダム・フセイン大統領が「48時間後、イラン上空を飛ぶ全ての航空機を撃墜する」と突如宣言しました。当時、日本の航空会社にはイランへの路線がなく、安全も保証されないため、日本政府は救援をためらっていました。
他の国の航空会社も自国民を優先したため、日本人だけがテヘラン空港に取り残されましたが、タイムリミットの僅か1時間15分前に来た救援機がトルコ航空でした。
トルコ航空機は、216人の日本人全てをトルコ領空へ退避させました。トルコ航空が日本人を救出してくれた理由として、当時の駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は、「私たちはエルトゥールル号の借りを返しただけです」と答えたそうです。
このような事件を通してトルコと日本は絆を深めていきました。
トルコと日本の深い関係とは?エルトゥールル号遭難事件や交流の歴史 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!