トルコ出身・トルコで活躍!古代世界の知識人達
ディオゲネスとは?樽で生活した哲学者の生き方や逸話、名言
ディオゲネスは、紀元前412年ごろに黒海沿岸のシノペ(現トルコのシノップ)で生まれた古代ギリシャ時代の哲学者です。アテネに移住して哲学に目覚め、宗教・作法・服装・住居・食事、全ての文明を放棄し、世捨て人となって教育や知識は無用のものとし、樽を住居として犬のように生活したことから「キュニコス派=犬儒学派」と呼ばれます。
プラトンはディオゲネスのことを「狂ったソクラテス」と比喩していますが、美しく話し、優れた能力で人を魅了した有名なこのキュニコス派の哲学者は、様々な奇妙さ、異常な行動や態度にもかかわらず尊敬されました。コリントで奴隷として生涯を終えた後も現地の人達は彼を偲び、犬が寄り添う形の大理石の柱を立てたと言います。
また2006年には、サムスンにあるオンドクズ・マユス大学美術学科の25名により、ディオゲネスの功績を偲ぶために6か月掛けて、犬が寄り添い左手にランプを下げたディオゲネスの約6mにも及ぶ大理石像がシノップの入口に建てられました。
真理を追求し、自らの信念に従って生きたディオゲネスは、現代でも高く評価されています。
ディオゲネス(英:Diogenes、土:Diyojen)は、紀元前412年ごろ、ギリシャ植民地であったアナトリア北部、黒海地方西部の黒海沿岸の町シノぺ(現トルコのシノップ:Sinop)で生まれました。
宝石商と両替商をしていた父ヒケシオスの元で育ち、彼自身も父親と一緒に仕事をしていましたが、通貨を偽造・変造したことにより、父と共にアテナイへ国外追放されてしまいます。
アテナイへ住み着いた時、ディオゲネス55歳になっており、ここから哲学に目覚めます。アテナイではソクラテスの弟子でありキュニコス派の祖であるアンティステネスに弟子入りし、徳で自己支配をし、情熱と他の人達への依存からの解放を基礎とした物質的快楽を求めず、徳に対する思想を貫きました。
アンティステネスは弟子を取る習慣はありませんでしたが、ディオゲネスの執念に負けて弟子入りを認めたといわれています。アンティステネスの生きた年代を考えると、弟子入りしたのは事実ではない可能性がありますが、ディオゲネスがアンティステネスの哲学的思想から影響を受けたのは確かなようです。
彼はアテナイのアゴラに置いた樽の中で生活し、支持者からの贈り物、食料調達、物乞いなどで生き延びました。ディオゲネスは当初アテナイで、ある人物に手紙を出して住む場所を探してもらったそうですが、住居探しに長い時間がかかっているうちに樽を見つけて住処とすることを決めたそうです。
その後ディオゲネスはアイギナ島へ行く際、海賊に囚われ奴隷としてコリント人のクセニアデスという名の男に売られてしまいます。ディオゲネスはコリントでクセニアデスの息子たちの家庭教師として働き、家事も請け負いましたが、全て完ぺきにこなしたため、クセニアデスはとても喜んだと言います。
ディオゲネスは紀元前323年、アレキサンダー大王の死去と同じ年に亡くなったといわれています。死因は、 狂犬病の犬に噛まれたこと、生のタコを食べた習慣、または自分で息を止めて自殺をしたなど諸説ありますが、いずれも誇張された表現であり、一説には90歳ともいわれるほど高齢まで生きたため、老衰による死とも考えられます。生前ディオゲネスは、死後に自分の遺体をどうしたいかと聞かれ、「街の外に投げ捨てて犬の餌にすればいい」と答えたといいます。
なお、ディオゲネス自身の著作は残されておらず、現在に伝わっている彼の思想や生き方は、ディオゲネス・ラエルティオスをはじめとする後世の歴史家や学者が言及しているものです。
ディオゲネスは、ストイックな自給自足と贅沢の拒否を強調したギリシャ哲学の一派、キュニコス派(犬儒学派)の創始者です。キュニコス(kynikos)はギリシャ語で「犬のような」という意味で、現代では「皮肉屋」「ひねくれもの」を意味するcynicの語源になっています。
ソクラテスの弟子であった哲学者アンティステネスに師事し、彼の多くの著作から影響を受けたと考えられます。その哲学は思想体系というより、生き方の模範を示したものでした。
アテネでは、浮浪者として神殿で寝泊まりしたり、甕(樽)の中で生活したりした変わり者でした。ディオゲネスは、ある日ネズミが生きるのを見たことによって、従来の住居や贅沢が不要であることを知り、どんな状況にも自分を適応させられることを実践しようとしたそうです。
うわべだけの作法を否定し、いつどんな状況でも完全な真実を追求して不要と思われる一切を捨てたディオゲネスの生き方は、またに究極のミニマリズムといえます。その生き方は徹底しており、ある日アテナイの泉にて手ですくって水を飲む子供を見て、「子供たちが、私がまだ至らないことを教えてくれた」と唯一の所持品であったお皿(コップ)を投げ捨てたと言います。
ディオゲネスにとって質素な生活とは贅沢をしないことだけでなく、慣習的な共同体のルールに縛られない「自然な状態で生きる」ことも意味していました。例えば、ディオゲネスは従来の家庭制度は不自然であると否定し、男女の乱婚や子供の共有を主張していたといわれています。ディオゲネスは浮浪者のように生活しましたが、すべての人間が同じように生きるべきと主張したのではなく、たとえ劣悪な環境でも幸福と自立が可能であることを示したかったのです。
また、ディオゲネスはプラトンのイデア論に反対し、国家や民族に囚われないという考えの「コスモポリタニズム(世界市民主義)」を世界で初めて唱えました。
無欲主義によって卓越的な道徳性を説いたディオゲネスの思想や生き方は、後世の哲学者にも影響を与えました。例えば、アテナイではテーベのクラテス(前360-前280年頃)がディオゲネスに師事し、そのクラテスの弟子であるゼノンはストア派を創始しました。
また、イタリアのルネッサンス期の芸術家はディオゲネスを好み、絵画をはじめとする芸術作品の人気題材となりました。
ディオゲネス症候群(Diogenes syndrome)とは、1966年に提唱された、主に高齢者に見られる行動障害です。社会的な引きこもりや他者からの介入の拒否、不衛生な状態での生活、買いだめ、ゴミのため込み、自身の身体的状態への無関心といった症状を呈し、判断力の低下や不適切な行動を伴います。
参考:Diogenes syndrome in patients suffering from dementia - PMC
この名称は、樽の中で犬のように生活したディオゲネスに由来していますが、実際にはディオゲネスは買いだめやため込みをせず、むしろ極力ものを持たない究極のミニマリストであり、日々アゴラに出向いて他者と会話していたため社会とのコミュニケーションを拒否したわけでもありません。
帝政ローマのギリシャ人著述家プルタルコスの『英雄伝』によると、アリストテレスが家庭教師であったアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)は、哲学に大変興味を持った哲学に重きを置いた支配者でした。
紀元前336年コリントに訪れたアレキサンダー大王は、ディオゲネスに会いに行き何か希望・要望は無いかを問います。ディオゲネスはその問いに「陽を遮らないでください。それ以外に何も求めません」と答えました。
なお、この答えの本来の形は、人差し指で太陽を示して「あなたが私に与えられないものを私から遮らないでください」と意味したと言います。
後にアレキサンダー大王は、「私が有名な大王であるアレキサンダーでなかったなら、“ディオゲネス”になりたかった」と述べています。
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ディオゲネスは、白昼堂々アテナイ市民の顔にランタン(ろうそく)を当てながら、「正直者を探している」と言って歩き回ったことで有名です。この「正直者探し」は、礼儀正しい社会慣習の偽善や見せかけを暴くことを意図していました。ディオゲネスは人々の顔をランプで照らし、正直に生きることを妨げている人為的に作られた慣習に人々が参加していることを認識させたかったのです。
このようなディオゲネスの行動は、慣習よりも自然や理性が優位であるべきだとする思想からきています。ある行為が私的な場で恥ずべきものでないなら、同じ行為が公の場で行われても恥ずべきではない、という考えです。彼は、「幸運には勇気に、慣習には自然に、情熱には理性に対抗できる」と主張しました。
ディオゲネスは公然とプラトンを批判したことで知られています。最も有名なのは、プラトンが人間を「羽のない二足動物」と定義し、その定義の巧みさを賞賛されると、ディオゲネスは鶏を一羽むしってプラトンのアカデミーに持ち込み、「見よ、プラトンの人間だ」と宣言した、という事件です。これを受けてプラトンは、その人間の定義に「広く、平らな、爪を持つ」と付け加えたといわれています。
クレタ島に着いたディオゲネスは奴隷市場で売りに出されますが、どこから来たのかと聞かれて「私は世界市民だ」と答えます。さらに得意なことは何かと聞かれ、「人を治めること」と答えると、最前列にいた男を指差して「あの男に売ってくれ、彼は主人を求めている」と要求しました。ディオゲネスは奴隷として何かを要求できる立場になかったにもかかわらず、自分の信念を貫き、変わらぬ態度で対応したのです。
指名されたコリント人のクセニアデスはディオゲネスのふるまいに感心し、実際に自分の息子たちの家庭教師として彼を買い取ります。ディオゲネスは奴隷としてよく働き、一説にはクセニアデスが彼に自由を与えたといわれています。ディオゲネスはコリントを気に入ったそうで、死ぬまでこの地にとどまりました。
プラトンはディオゲネスのことを「狂ったソクラテス」と比喩していますが、美しく話し、優れた能力で人を魅了した有名なこのキュニコス派の哲学者は、様々な奇妙さ、異常な行動や態度にもかかわらず尊敬されました。コリントで奴隷として生涯を終えた後も現地の人達は彼を偲び、犬が寄り添う形の大理石の柱を立てたと言います。
また2006年には、サムスンにあるオンドクズ・マユス大学美術学科の25名により、ディオゲネスの功績を偲ぶために6か月掛けて、犬が寄り添い左手にランプを下げたディオゲネスの約6mにも及ぶ大理石像がシノップの入口に建てられました。
真理を追求し、自らの信念に従って生きたディオゲネスは、現代でも高く評価されています。
目次
樽で生活したディオゲネスの生涯
ディオゲネス(英:Diogenes、土:Diyojen)は、紀元前412年ごろ、ギリシャ植民地であったアナトリア北部、黒海地方西部の黒海沿岸の町シノぺ(現トルコのシノップ:Sinop)で生まれました。
宝石商と両替商をしていた父ヒケシオスの元で育ち、彼自身も父親と一緒に仕事をしていましたが、通貨を偽造・変造したことにより、父と共にアテナイへ国外追放されてしまいます。
アテナイへ住み着いた時、ディオゲネス55歳になっており、ここから哲学に目覚めます。アテナイではソクラテスの弟子でありキュニコス派の祖であるアンティステネスに弟子入りし、徳で自己支配をし、情熱と他の人達への依存からの解放を基礎とした物質的快楽を求めず、徳に対する思想を貫きました。
アンティステネスは弟子を取る習慣はありませんでしたが、ディオゲネスの執念に負けて弟子入りを認めたといわれています。アンティステネスの生きた年代を考えると、弟子入りしたのは事実ではない可能性がありますが、ディオゲネスがアンティステネスの哲学的思想から影響を受けたのは確かなようです。
彼はアテナイのアゴラに置いた樽の中で生活し、支持者からの贈り物、食料調達、物乞いなどで生き延びました。ディオゲネスは当初アテナイで、ある人物に手紙を出して住む場所を探してもらったそうですが、住居探しに長い時間がかかっているうちに樽を見つけて住処とすることを決めたそうです。
その後ディオゲネスはアイギナ島へ行く際、海賊に囚われ奴隷としてコリント人のクセニアデスという名の男に売られてしまいます。ディオゲネスはコリントでクセニアデスの息子たちの家庭教師として働き、家事も請け負いましたが、全て完ぺきにこなしたため、クセニアデスはとても喜んだと言います。
ディオゲネスは紀元前323年、アレキサンダー大王の死去と同じ年に亡くなったといわれています。死因は、 狂犬病の犬に噛まれたこと、生のタコを食べた習慣、または自分で息を止めて自殺をしたなど諸説ありますが、いずれも誇張された表現であり、一説には90歳ともいわれるほど高齢まで生きたため、老衰による死とも考えられます。生前ディオゲネスは、死後に自分の遺体をどうしたいかと聞かれ、「街の外に投げ捨てて犬の餌にすればいい」と答えたといいます。
なお、ディオゲネス自身の著作は残されておらず、現在に伝わっている彼の思想や生き方は、ディオゲネス・ラエルティオスをはじめとする後世の歴史家や学者が言及しているものです。
元祖ミニマリスト!ディオゲネスの哲学的思想と生き方
ディオゲネスは、ストイックな自給自足と贅沢の拒否を強調したギリシャ哲学の一派、キュニコス派(犬儒学派)の創始者です。キュニコス(kynikos)はギリシャ語で「犬のような」という意味で、現代では「皮肉屋」「ひねくれもの」を意味するcynicの語源になっています。
ソクラテスの弟子であった哲学者アンティステネスに師事し、彼の多くの著作から影響を受けたと考えられます。その哲学は思想体系というより、生き方の模範を示したものでした。
アテネでは、浮浪者として神殿で寝泊まりしたり、甕(樽)の中で生活したりした変わり者でした。ディオゲネスは、ある日ネズミが生きるのを見たことによって、従来の住居や贅沢が不要であることを知り、どんな状況にも自分を適応させられることを実践しようとしたそうです。
うわべだけの作法を否定し、いつどんな状況でも完全な真実を追求して不要と思われる一切を捨てたディオゲネスの生き方は、またに究極のミニマリズムといえます。その生き方は徹底しており、ある日アテナイの泉にて手ですくって水を飲む子供を見て、「子供たちが、私がまだ至らないことを教えてくれた」と唯一の所持品であったお皿(コップ)を投げ捨てたと言います。
ディオゲネスにとって質素な生活とは贅沢をしないことだけでなく、慣習的な共同体のルールに縛られない「自然な状態で生きる」ことも意味していました。例えば、ディオゲネスは従来の家庭制度は不自然であると否定し、男女の乱婚や子供の共有を主張していたといわれています。ディオゲネスは浮浪者のように生活しましたが、すべての人間が同じように生きるべきと主張したのではなく、たとえ劣悪な環境でも幸福と自立が可能であることを示したかったのです。
また、ディオゲネスはプラトンのイデア論に反対し、国家や民族に囚われないという考えの「コスモポリタニズム(世界市民主義)」を世界で初めて唱えました。
無欲主義によって卓越的な道徳性を説いたディオゲネスの思想や生き方は、後世の哲学者にも影響を与えました。例えば、アテナイではテーベのクラテス(前360-前280年頃)がディオゲネスに師事し、そのクラテスの弟子であるゼノンはストア派を創始しました。
また、イタリアのルネッサンス期の芸術家はディオゲネスを好み、絵画をはじめとする芸術作品の人気題材となりました。
ディオゲネス症候群とは?
ディオゲネス症候群(Diogenes syndrome)とは、1966年に提唱された、主に高齢者に見られる行動障害です。社会的な引きこもりや他者からの介入の拒否、不衛生な状態での生活、買いだめ、ゴミのため込み、自身の身体的状態への無関心といった症状を呈し、判断力の低下や不適切な行動を伴います。
参考:Diogenes syndrome in patients suffering from dementia - PMC
この名称は、樽の中で犬のように生活したディオゲネスに由来していますが、実際にはディオゲネスは買いだめやため込みをせず、むしろ極力ものを持たない究極のミニマリストであり、日々アゴラに出向いて他者と会話していたため社会とのコミュニケーションを拒否したわけでもありません。
ディオゲネスの有名な逸話と名言
皮肉や頓智が効いた彼のシニカルな逸話は日本の一休さんのようで、数多くの小話が残っています。特にアレキサンダー大王との逸話が有名です。アレクサンドロス大王に尊敬される
帝政ローマのギリシャ人著述家プルタルコスの『英雄伝』によると、アリストテレスが家庭教師であったアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)は、哲学に大変興味を持った哲学に重きを置いた支配者でした。
紀元前336年コリントに訪れたアレキサンダー大王は、ディオゲネスに会いに行き何か希望・要望は無いかを問います。ディオゲネスはその問いに「陽を遮らないでください。それ以外に何も求めません」と答えました。
なお、この答えの本来の形は、人差し指で太陽を示して「あなたが私に与えられないものを私から遮らないでください」と意味したと言います。
後にアレキサンダー大王は、「私が有名な大王であるアレキサンダーでなかったなら、“ディオゲネス”になりたかった」と述べています。
世界を制した若き英雄アレクサンドロス(アレキサンダー)大王|トルコを通って東方遠征!
犬と呼ばれたディオゲネス
ある時、ディオゲネスがアテナイの市場で食べ物を食べていると、見物人が集まってきて「犬だ!」と叫びました。それに対してディオゲネスは、「あなた方こそ犬です。私が朝食を食べているときに、あなた方は集まってきて、じっと見ているのですから」と答えたそうです。真昼にランプを持って“正直者”を探す
ディオゲネスは、白昼堂々アテナイ市民の顔にランタン(ろうそく)を当てながら、「正直者を探している」と言って歩き回ったことで有名です。この「正直者探し」は、礼儀正しい社会慣習の偽善や見せかけを暴くことを意図していました。ディオゲネスは人々の顔をランプで照らし、正直に生きることを妨げている人為的に作られた慣習に人々が参加していることを認識させたかったのです。
慣習的なルールを堂々と破る
当時のアテナイでは、アゴラ(市場)で食事をすることは慣習的に禁止されていましたが、ディオゲネスは「ここで空腹を感じた」といって気にせず食事をしました。それだけにとどまらず、彼はそこで自慰行為に及び、「同じように空の胃をこすって簡単に空腹を解消できたらいいのに」と言ったとされています。このようなディオゲネスの行動は、慣習よりも自然や理性が優位であるべきだとする思想からきています。ある行為が私的な場で恥ずべきものでないなら、同じ行為が公の場で行われても恥ずべきではない、という考えです。彼は、「幸運には勇気に、慣習には自然に、情熱には理性に対抗できる」と主張しました。
哲学者プラトンを批判
ディオゲネスは公然とプラトンを批判したことで知られています。最も有名なのは、プラトンが人間を「羽のない二足動物」と定義し、その定義の巧みさを賞賛されると、ディオゲネスは鶏を一羽むしってプラトンのアカデミーに持ち込み、「見よ、プラトンの人間だ」と宣言した、という事件です。これを受けてプラトンは、その人間の定義に「広く、平らな、爪を持つ」と付け加えたといわれています。
奴隷に身を落としても高潔で正直な生き方を貫く
紀元前350年ごろ、60歳のディオゲネスはアイギナ島にわたる途中で船が海賊に襲われ、捕虜となってしまいます。当初、海賊は捕虜を残酷に扱い、食事も与えませんでしたが、なんとディオゲネスは「どこの農夫が自分の家畜をそのように扱うだろうか」と海賊を叱りました。これを聞いた海賊たちは考えを改め、より良い待遇を与えました。クレタ島に着いたディオゲネスは奴隷市場で売りに出されますが、どこから来たのかと聞かれて「私は世界市民だ」と答えます。さらに得意なことは何かと聞かれ、「人を治めること」と答えると、最前列にいた男を指差して「あの男に売ってくれ、彼は主人を求めている」と要求しました。ディオゲネスは奴隷として何かを要求できる立場になかったにもかかわらず、自分の信念を貫き、変わらぬ態度で対応したのです。
指名されたコリント人のクセニアデスはディオゲネスのふるまいに感心し、実際に自分の息子たちの家庭教師として彼を買い取ります。ディオゲネスは奴隷としてよく働き、一説にはクセニアデスが彼に自由を与えたといわれています。ディオゲネスはコリントを気に入ったそうで、死ぬまでこの地にとどまりました。