トルコ旅行に行きたい・トルコツアーに参加したい・トルコ観光を満喫したいならターキッシュエア&トラベル | トルコの世界遺産ペルガモンのご紹介

トルコの世界遺産

トルコの世界遺産ペルガモンのご紹介


紀元前334年、マケドニアの若き王アレクサンダーはダーダネルス海峡を渡り、アナトリアに遠征してきた。グラニコス川(今日のビガチャイ)の河原でペルシャのダリウス三世を打ち破り、西アナトリアはペルシャから解放された。
 

ペルガモン、その起源

 2014年に世界遺産に登録されたペルガモンは東にケティウス川、西にセリヌス川に囲まれた土地にあった。2つの川は今日のベルガマの町の南で合流しカイコス川(バクルチャイ)に注ぐ。カイコス渓谷のデイルメンデレではペルガモン地方最古と見られる居住跡地が確認されている。アクロポリスの発掘でもデイルメンデレと同時代と見なされる、先史時代の出土品がごくわずか発見されているが、アクロポリスに先史時代の居住地があった証拠はない。又、ペルガモンの遺跡からは、紀元前12世紀頃から10世紀頃まで続いたギリシャからの植民時代、あるいはその移動に伴うものと見なされる発見は何一つ確認されていない。ギリシャから移住してきた人々はエーゲ海の島々や半島の開けた土地を選んだから、25km内陸のペルガモンにはその波が届いていなかった。

 ペルガモンの建国に関しては明らかではないが、神話によるとペルガモンの名はトロイ戦争当時にさかのぼる。トロイの滅亡炎上の後、ヘクトールの妻アンドロマケはアカィア軍に捕らわれ、アキレウスの息子ネプトレムスと結婚し3人の子供を設けたという。その一人ペルガモスが建設したペルガモンスが後にペルガモンに、さらにベルガマに変わったという。

 アクロポリスの発掘ではアルカイック期の品がごくわずか発見されてはいるものの、居住跡は確認されていないから、アルカイック期に既に町ができていたとする仮説には根拠がない。それらの品は、ヘレニズム期のペルガモン王達が海岸の諸都市から運び込んだものと考えられよう。



 紀元前560年にはこの西アナトリア一帯はリディア王国のクロイソスの支配下に入っていた。しかし間もなくクロイソスはペルシャのキュロス大王に敗れ、アナトリアはペルシャの支配下に入れられた。ペルシャはイオニア、ヘレスポント、キリキア、リディアの4つの州に分けて総督を置いた。ペルガモンはリディア総督府のミシアに組み込まれていた。ペルシャは内政には干渉しなかったが、人々は重税や兵役に苦しめられ、苛酷な支配の下で文化的、社会的な活動は低下し、いわゆる古典期は終りを告げた。この時代の出土品はアスクレピオンからわずか数点出ているだけである。

 ペルガモンの名が初めて史料に現れるのは、古代の歴史家として有名なアテネのクセノフォン(紀元前430-352)によってである。彼は、前399年に東部アナトリアからの帰途ペルガモンに立ち寄り、当時の支配者ゴンギロスの未亡人ヘラのもてなしを受けている。ヘラはクセノフォンにペルシャの領主アシダテスから助けてと頼んだという。その見返りとして、アシダテスの財産を譲り受けることになったクセノフォンは神に生け賛を捧げ、その意を伺った。結果は吉と出たので300人の兵をアシダテスの根拠地に向かわせたが、アシダテスの部下が、のろしでペルシャ軍に救援を請うたため、引き上げざるを得なかった。その翌日、クセノフォンはペルガモンを退却するかのように装いながら、アシダテスの龍る小さな村に全面攻撃を仕掛け、妻や子、財産を奪い取ってペルガモンに戻り、勝利を感謝し神に生け賛を捧げたという。

 紀元前362年、アナトリアの人々はペルシャ王アルタクセルクセスに反旗を翻す。アテネ王と親密だったミシア総督のオロンテスが反乱のリーダーとなった。オロンテスはペルガモンを根拠地として当初は次々と勝利を重ねたものの、結局はペルシャの強大な力に屈した。


アレクサンダー大王の時代

 紀元前334年、マケドニアの若き王アレクサンダーはダーダネルス海峡を渡り、アナトリアに遠征してきた。グラニコス川(今日のビガチャイ)の河原でペルシャのダリウス三世を打ち破り、西アナトリアはペルシャから解放された。アレクサンダーはロードス出身のペルシャ軍司令官メムノンの未亡人バルシネにペルガモンの行政を任せる事にした。アレクサンダーとバルシネの親密さが噂され、後(前310年)にペルガモンを支配したヘラクレスは彼等の子かと噂された。

 前323年にアレクサンダーが亡くなると、その広大な帝国は重臣たちによって分割された。セレウコスがメソポタミアとシリア、東アナトリアを、リシマコスが南と西アナトリアを、カサンドロスがギリシャとマケドニアを、プトレマイオスがエジプト、リビアと北アラビアを領有することになった。

 リシマコスはペルガモンの地理的利点に着目し、そこを軍事基地とした。アンティゴノスは金アナトリアの支配を狙っていたが、リシマコスはライバル、アンティゴノスの武将のフィレタイロスをペルガモンの司令官に指名した。リシマコス側に付いたフィレタイロスは有能かつ勤勉だったのでリシマコスの信頼を受け、アレクサンダーの遺産の金貨9000タラントの保管を任された。



 領土を拡大するため、リシマコスは他の王国と婚姻などにより外交関係を強めた。自身も妻を離縁し、プトレマイオスの娘アルシノエと再婚、息子のアガトクレスにはアルシノエの妹を娶らせている。アルシノエはリシマコスの先妻の子で長男のアガトクレスを押し退け自分の子を王位につけようと謀略をめぐらし、アガトクレスを殺害させた。これに対して国民や軍は反乱に立ち上がり、国内には不穏な空気がたちこめる。アガトクレスの妻と妹、子供達はシリア王セレウコスに援助を求めていった。フィレタイロスも又、アルシノエに嫌われていたため、身の危険を察して密かにセレウコスと連絡をとり、リシマコスを討つならば主君の財産を渡そうと申し出た。セレウコスはこの申し出を受け、コロペディオンでリシマコスと戦い、勝利した。紀元前281年のことである。


ページの先頭へ トップページへ