トルコツアーガイド
ミレトス遺跡|ミレトス学派を生んだ政治・文化の中心都市
ミレトスはイオニア地方の政治・文化の中心都市でした。自然哲学者のタレス、歴史家のアネクシメネスとアナクシマンドロス、地理学の父と呼ばれたへカタエウスとカドモスといったミレトス学派でも有名です。現在はトルコに属し、小アジア最大級の古代劇場や典型的なローマ浴場などが残る遺跡として観光できます。
ヘロドトスによると紀元前11世紀、イオニア人はコドロスの息子ネイロスの指揮の下にカリア人とクレタ人の住んでいたミレトスを征服しました。この若きイオニアの町は短期間で主導権を手にし、周辺で最も重要な町に発展します。地中海やダーダネルス海峡、黒海の沿岸に80ほどの植民地を建設し、イオニア植民市同盟12の加盟都市の中でも最も括発な動きを見せました。
紀元前7世紀、ミレトスはティラスィブロスに征服されるまでリディア王国領でいたましたが、彼の支配下で再び主導権を手にし、交易のみでなくイオニア諸市の文化学問の中心として更なる発展を見せたのです。
ミレトス学派と呼ばれる彼らの思想は、万物の根源(アルケー)を究明しようとするものでした。たとえば、タレスは万物の根源の根源を「水」、アネクシメネスは「空気」、アナクシマンドロスは「アペイロン(無規定・無限のもの)」と考えました。こうしたミレトス学派の自然哲学は、最初の学問のひとつとされています。
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自然哲学者のアナクシマンドロス (英:Anaximandros) | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
紀元前5世紀、都市を再び手中にしたペルシア人を紀元前334年にアレキサンダー大王が攻撃し、力づくで奪いましたが、ミレトス市民は大王の支配下に入るのを歓迎しなかったと言います。大王の死後は王の部将アックロスのベルガモン王国の支配下に入り、紀元前200年にはローマ帝国の領土に包括されました。
アウグストスとハドリアヌスの時代にミレトスには多くの記念碑が建てられ、聖パウロもここに布教に訪れた後、エルサレムへ向けて出港しています。後にここには大司教が置かれました。12世紀になりセルジューク・トルコが定着して、都市をベニス交易の中枢として編成します。
港はオスマン帝国の初期においてはまだ機能していましたが、やがて土砂に埋まると住民にも見捨てられてしまいました。
プリエネ遺跡|トルコ観光案内 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
座席は今も良い状態で残り、ロイヤルボックスには天蓋のついた2本の支柱が見られます。前列のいくつかの席には、その所有者を表す番号が刻まれたものがあります。劇場の上方にあるひどく荒廃した城は8世紀のものです。
泉と議事堂の間、式典の通りの突き当たりに立つこの印象的な門は南アゴラに属します。2階建ての記念門は円柱や彫像に装飾された3ケ所の入り口のある幅29mの造りでした(2世紀)。現在は、ベルリンのペルガモン博物館に保存されています。
三方にそれぞれ1ケ所ずつ門があり、2つの身廊の付いたドーリア式柱廊に囲まれていました。東柱廊の後方には78の店が並んでいたようです。紀元前3世紀に造られ、最終の形態をとったのはおそらく2世紀のことと考えられています。
西に大きなパラエストラ(中庭を包囲する柱列)があった他、壁にアポロの彫像のあったアポディテリウム(更衣室)、そしてテピダリウム(微温浴室)、プール付きのフリジダリウム(冷浴室)、カルダリウム(温浴室)、スダトリウム(蒸し風呂)から構成されていました。
ミレトスはイオニア地方の政治・文化の中心都市
ヘロドトスによると紀元前11世紀、イオニア人はコドロスの息子ネイロスの指揮の下にカリア人とクレタ人の住んでいたミレトスを征服しました。この若きイオニアの町は短期間で主導権を手にし、周辺で最も重要な町に発展します。地中海やダーダネルス海峡、黒海の沿岸に80ほどの植民地を建設し、イオニア植民市同盟12の加盟都市の中でも最も括発な動きを見せました。
紀元前7世紀、ミレトスはティラスィブロスに征服されるまでリディア王国領でいたましたが、彼の支配下で再び主導権を手にし、交易のみでなくイオニア諸市の文化学問の中心として更なる発展を見せたのです。
ミレトス学派
自然哲学者のタレス(商人で数学者、技師でもあった)、歴史家のアネクシメネスとアナクシマンドロス、地理学の父と呼ばれたへカタエウスとカドモスは、全てこの時期にミレトスに住んだ学者です。ミレトス学派と呼ばれる彼らの思想は、万物の根源(アルケー)を究明しようとするものでした。たとえば、タレスは万物の根源の根源を「水」、アネクシメネスは「空気」、アナクシマンドロスは「アペイロン(無規定・無限のもの)」と考えました。こうしたミレトス学派の自然哲学は、最初の学問のひとつとされています。
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イオニアの反乱~ペルシア戦争~オスマン帝国による支配
都市の繁栄も紀元前494年にミレトス艦隊がペルシアに敗れて都市が完全に破壊されるとともに下り坂となりましたが、紀元前474年に有名な建築家ヒポドモスにより再建された後、再度、影響力を取りもどしています。紀元前5世紀、都市を再び手中にしたペルシア人を紀元前334年にアレキサンダー大王が攻撃し、力づくで奪いましたが、ミレトス市民は大王の支配下に入るのを歓迎しなかったと言います。大王の死後は王の部将アックロスのベルガモン王国の支配下に入り、紀元前200年にはローマ帝国の領土に包括されました。
アウグストスとハドリアヌスの時代にミレトスには多くの記念碑が建てられ、聖パウロもここに布教に訪れた後、エルサレムへ向けて出港しています。後にここには大司教が置かれました。12世紀になりセルジューク・トルコが定着して、都市をベニス交易の中枢として編成します。
港はオスマン帝国の初期においてはまだ機能していましたが、やがて土砂に埋まると住民にも見捨てられてしまいました。
現在は当時の栄華を伝える遺跡として観光できる
現在のミレトスは、小アジア最大級の古代劇場や典型的なローマ浴場など、当時の歴史や文化をうかがい知れる遺跡として観光できます。最初の発掘調査は1895~1914年の間にテオドール・ウィーガンドの指導によってベルリン博物館が行いました。1955年からも調査が続行されています。ミレトス遺跡の場所
当時のミレトスはエーゲ海に面する港町として栄えましたが、現在は土砂の堆積によって、沿岸から15mほど内陸に位置しています。リゾート地として人気のクシャダスを拠点とし、プリエネやディディムといった周辺の遺跡とあわせて観光するのがおすすめです。プリエネ遺跡|トルコ観光案内 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
名称 | ミレトス遺跡(Miletus) |
住所 | Balat, Hacılar Sk No:9, 09290 Didim/Aydın, Turkey |
ミレトス博物館
ミレトスとその周辺からの出土品を展示して1973年に開館したこの博物館にはミケーネの土器(紀元前16~12世紀)や古代、ヘレニズム、ローマの像、モザイク、柱頭、大理石の獅子、人物大をしのぐ大きさのアポロの頭像、ハドリアヌスの肖像画、そして大理石で造られたイスラムの墓石などが展示されています。ミレトス遺跡の見どころ
劇場
100年、トラヤヌス帝の時代に旧劇場のあった場所に建てられたものです。当時のギリシア・ローマ建築様式の哀しい見本と言え、正面の長さは140m、54段の客席に25,000人を収容できました。座席は今も良い状態で残り、ロイヤルボックスには天蓋のついた2本の支柱が見られます。前列のいくつかの席には、その所有者を表す番号が刻まれたものがあります。劇場の上方にあるひどく荒廃した城は8世紀のものです。
港の記念碑
紀元前2世紀、頂上の油を満たした三花弁形の受け皿に常時炎が燃えていた高さ18mの碑です。劇場の北にあり、今日では基盤のみ残ります。現在、この受け皿はベルリン博物館所有です。へローン
劇場の束斜面にある初期ヘレニズム期の軍の墳墓です。アーチのある円形をしており、部屋と列柱の広間がありました。アポロ神殿(デルフィニオン)
ミレトスで最も神聖な建物は獅子の港の南東端、劇場の乗手にある海の男達の守り神アポロに捧げられた神殿です。紀元前6世紀建造のミレトスではアテネ神殿と共に最古のもので、ここから毎年一度ディディマの神殿に記念行進が行われました。伝説によると、イルカに化けたアポロはデルフィに赴くクレタ島の船乗り達を、ここに建設する神殿の神官とするべく誘惑したと言います。カピトの浴場
アポロ神殿の南に位置する、西手に水槽、乗手に浴室のある「ペリ様式」の浴場です。クラウディウス帝が1世紀に親友ベルギリウス・カピトのために建造したものです。演武場
南側をカピトの浴場と接する、長方形の円柱のあるこの建物は、大小3つの学習室を有していました。北アゴラ
90m×43mの市場で、都市の北手に位置します。紀元前5世紀に着工され、3世紀に完成したと言います。イオニア式柱廊(ストア)
カピトの浴場と演武場の左、6段の階段がついたイオニア式柱廊で、多くの商店が並んでいました。クラウディウス帝が41~54年の間に建てさせたものです。式典の通り
柱廊の正面を港の門から都市の中心まで走る長さ100m、幅28mの道で、両側には5.75mの歩道が設けられていました。最後の発掘調査中に申し分の無い状態で発見されています。泉
式典の通りの突き当たりにある都市の水の供給源で、80年にトラヤヌス帝の父により建設されました。U字形の正面壁は3階建てで円柱や彫像で装飾されていました。大教会
アトリウムと洗礼堂、3つの身廊のある礼拝堂で、6世紀に前の建物のあった場所に造られたもの。泉と市場の門の間に遺跡を見ることができます。市場の門
泉と議事堂の間、式典の通りの突き当たりに立つこの印象的な門は南アゴラに属します。2階建ての記念門は円柱や彫像に装飾された3ケ所の入り口のある幅29mの造りでした(2世紀)。現在は、ベルリンのペルガモン博物館に保存されています。
南アゴラ
式典の通りの突き当たり、議事堂の北手に位置する広さ196m×164mの市場です。面積32,000㎡の古代世界で最大の規模で、未だごく一部が発掘されただけとなっています。三方にそれぞれ1ケ所ずつ門があり、2つの身廊の付いたドーリア式柱廊に囲まれていました。東柱廊の後方には78の店が並んでいたようです。紀元前3世紀に造られ、最終の形態をとったのはおそらく2世紀のことと考えられています。
穀物倉庫
南アゴラの西にあり、2つの身廊の付いた163×13mの施設は、穀物や商品を保管するためのものと思われます。この紀元前2世紀の施設の西には、かつてセラピスの神殿が立っていましたが、現在では周辺に浮き彫りが散乱するのみです。議事堂
紀元前2世紀に半円形の会議場を持つ劇場風造りで建設されています。かつてはホールに接して、円柱に包囲された中庭があり、その中心にはアルテミスの祭壇がありました。フォスティナの浴場
ミレトス最大の浴場で、2世紀に皇帝マルクス・アウレリウスの妻フォスティナが建造したものです。浴場の西手に遺跡の残る体育館を備えたこの施設は4世紀まで使用されており、典型的ローマ浴場の特徴を今も確かに見ることができます。西に大きなパラエストラ(中庭を包囲する柱列)があった他、壁にアポロの彫像のあったアポディテリウム(更衣室)、そしてテピダリウム(微温浴室)、プール付きのフリジダリウム(冷浴室)、カルダリウム(温浴室)、スダトリウム(蒸し風呂)から構成されていました。