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チャタル・ヒュユクの遺跡(文化遺産・2012年)


チャタル・ヒュユクは、トルコの南アナトリア地方にある、新石器時代~銅器時代の都市遺跡です。アナトリア最古の集落跡であり、人類が定住して農耕による生活に適応していくプロセスを示す歴史的・文化的価値の高い遺跡として、2012年にユネスコ世界遺産に登録されました。

「チャタル・ヒュユク(Çatalhöyük)」は、トルコ語で、“二またに分かれた丘”の意味です。その名の通り、遺跡は東西に2つある20mほどの丘から発掘されています。現地では、発掘中となっている遺跡や、当時の人々の暮らしぶりを再現した家屋も見学できます。

チャタル・ヒュユクの場所・アクセス

チャタル・ヒュユク トルコ 世界遺産
チャタル・ヒュユクの遺跡は、チュムラ地方北部のキュチュックキョイ(Küçükköy)という村にあります。観光地として有名なトルコ中央部の古都コンヤからは南東に52kmの位置です。

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日本からチャタル・ヒュユクにアクセスするには、まずはトルコの玄関口となるイスタンブールまで行き、国内線または長距離バスでコンヤに向かいます。コンヤからは40分ほどミニバスに乗って最寄りの町、チュムラ(Çumra)まで行きます。ミニバスはエスキオトガルというバスターミナルから1時間に1本出ています。

チュムラの町からはタクシーでチャタル・ヒュユクに移動します。料金は高くなりますが、コンヤから直接タクシーでチャタル・ヒュユクに向かうことも可能です。

名称 チャタル・ヒュユク遺跡(Çatalhöyük)
住所 Küçükköy, Çatalhöyük Yolu, 42500 Çumra/Konya, トルコ
営業時間 夏季(4~10月):09:00~19:00
冬季(11~3月):09:00~17:00
定休日 なし
公式サイト https://www.catalhoyuk.com/

チャタル・ヒュユク遺跡の観光の見どころ

チャタルフユック
アナトリア最古の集落跡であるチャタル・ヒュユクの遺跡は、東西2つの丘で構成されています。

東の丘は紀元前7400年~6200年の遺跡で、日常生活や宗教儀礼を描いた壁画やレリーフなどが発掘されました。一方、西の丘は紀元前6200年~5200年のもので、写実的な女性像が多く見つかっているのが特徴です。集落跡には道路がなく住居が密集しています。人類が定住生活に適応していく過程の、2000年にわたる文明の発達過程を垣間見ることができます

発掘により紀元前6800年から5700年にわたる10層の遺跡が発見されました。各層に見られる家屋は全て一定の型で作られています。中庭を囲み四角い家が並んでいます。石の土台は使わず、屋根は平板な泥レンガを使っています。どの家も大きな居間、貯蔵室、台所という同じ作りで、炉とかまど、ベンチが備えられています。

チャタルヒュユクの家々の際立った特徴は、壁画と壁に飾られた牛の頭のシンボルです。この呪術的な飾りは特別な建物にのみあるわけではなく、各家の宗数的目的の為に使われた場にも置かれていました。牛の頭は高浮彫り、または丸彫りで、時には本物の牛の頭に粘土を塗って壁に飾りました。

壁画はクリーム色の壁土に赤、ピンク、茶、黒、白で描かれました。白黒や彩色の幾何学模様や、花、星なども見られますがいくつかのテーマを持ったシーンもあります。とりわけ人間の手や人物、女神、狩りの様子、牡牛、小鳥、はげわし、ひょう、鹿、いのしし、ライオン、熊などの動物が代表的なものです。他に注目すべきものとして、町の後方にそびえる火山の噴火、頭の欠けた骸骨をつつくハゲワシを追い払う人物像などの壁画も見られます。

イスタンブール
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チャタル・ヒュユクの歴史

チャタル・ヒュユク トルコ 世界遺産
チャタル・ヒュユクの地には、紀元前7,400年ごろからアナトリア(現在のトルコ)の先住民が少人数で暮らしていたと見られています。当初、彼らは狩猟採集生活を営んでいましたが、やがて農耕社会に移行します。

東西2つの丘の間に流れるチャルシャンバ川の支流が沖積土を形成していたため、チャタル・ヒュユクは農業に適した土壌だったのです。チャタル・ヒュユクの人々は、家屋を建てて定住し、麦や豆などの作物を栽培していたほか、牛や羊を育てて牧畜も行っていました。

さらに、織物や陶器、装飾品、塩なども作り、他の集落の人々と交易していたことも分かっています。最盛期には、8,000人以上の住民がチャタル・ヒュユクで生活していたようです。

銅器時代(紀元前5500年ごろ)になると東の丘から西の丘へと集落が移されました。その後、社会文化や気候の変化によりチャタル・ヒュユクで暮らす人々は姿を消してしまいました。

チャタル・ヒュユクの家屋は、約80年間使われたあと、内部に土と瓦礫を詰め込んで埋め、その上に同じような住居を新たに建てるということが繰り返されたため、東の遺丘は18層、21mの高さにも及んでいます。このような構造的特性から、年代の古い下層の家も良好な保存状態で残されているのです。

14haにも及ぶ広さを誇ったチャタル・ヒュユクの都市遺跡の発掘はまだ始まったばかりで、現在も進行中。今後も新たな発見が出てくることが期待されています。

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チャタル・ヒュユクの文化的・宗教的特徴は?

チャタル・ヒュユク トルコ 世界遺産
東の遺丘にあるチャタル・ホユックの集落の家屋群は、ハチの巣のように建物が密集した構造になっているのが特徴です。各建物は密着していて、間には道路はなく、住民は屋根の上をつたって移動していました

住居は窓やドアのない平屋建てになっており、木製のはしごを使って屋上から出入りしていました。これは、外敵の侵入防止を目的としていたと見られています。また、屋上の入り口は、真下にある炉床の換気口としての役割も果たしていたようです。

建物の壁は日干しレンガ、屋根は葦を敷き詰めて粘土状の土で平らに固めて作られていました。白い漆喰で仕上げられた内部の壁には、さまざまな壁画が描かれました。

一つの家には、5~10人からなる家族が暮らしていたとされています。チャタル・ヒュユクの住民は、清潔さを重んじ、家も丁寧に手入れしていたといわれています。住居内からはほとんどゴミが見つかっていおらず、廃棄物を焼却した跡と思われる大量の灰も発見されています。

チャタル・ヒュユクの人々の生活

チャタルヒュユクの土器は手作りで茶色、黒、赤が一般的です。形は概ね卵形で、新石器時代後期になると簡単な幾何学模様が描かれました。石や貝のネックレス、黒耀石の鏡や化粧道具はチャタルヒュユクの人々が我が身を飾っていた様子を生き生きと伝えてくれています。

チャタルヒュユクの壁画から、当時の人々が動物の皮や毛、羊毛、植物繊維の衣服を着ていたこともわかります。焼成粘土や石製の幾何学模様を彫ったスタンプ印章は、新石器時代においてすでに所有権の概念があったことの証拠です。

フリントや黒曜石は道具を作るのに使われ、骨はオールや針、取っ手などに使われました。出土品の中で骨の柄のついたフリントの短剣は特に興味深いものです。これは副葬品でした。まだ一般的ではありませんでしたが、銅や鉛の加工も始まっていました。アナトリアと近郊の村々との交易も行われていました。

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チャタル・ヒュユクの女神像

チャタルヒュユク
まじないの場や神社には多産豊饒のシンボルとしての女神像もありました。焼成粘土や石で作られ、若い女、年老いた女、出産する女など様々な様子で表現されています。とりわけ、左右の二頭の豹に支えられて出産する地母神像は興味深いです。女神の小像やレリーフの他にテラコッタの動物像も奉献されました。

チャタル・ヒュユクから発掘された地母神象は、トルコの首都アンカラにあるアナトリア文明博物館に展示されています。

アナトリア文明博物館【アンカラ】

古代アナトリアは、地母神キベレーやアルテミスの信仰で知られていますが、チャタル・ヒュユクはそうした母神信仰の起源とも考えられています。

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チャタル・ヒュユクの埋葬文化

チャタルヒュユクでは、家の床下に埋葬する慣わしでした。子供の場合は部屋の床下に、大人はベンチの下の部分に一人、または数人一緒に埋葬して、その脇には副葬品も埋めていました。

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