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プロレスとは?昭和から続く歴史やルール、コスチュームについてまとめて紹介!


昭和生まれの人たちは、子供の頃にプロレスごっこをして遊んだ記憶があるのではないでしょうか。戦後の復興を目指す日本において、プロレスは日本人を勇気づけるスポーツとして、大相撲や野球と並んで大人気となりました。現在は多くのプロレス団体が日本に存在し、迫力のある真剣勝負から、エンターテイメント性の高い試合まで幅広く行なわれています。

今回は、日本で独自の発展を遂げたプロレスの歴史や魅力、基本的なルールなどをまとめて紹介します。


プロレスとは?

プロレス マスク
プロレスとはプロフェッショナルレスリングの略称で、リングの上で行なわれる格闘技でありながら、観客を喜ばせるエンターテイメントでもあります。投げ技や打撃技、締め技、関節技などをリング上で繰り出し、対戦相手をギブアップさせるか、相手の両肩をマットに押し付けて3カウントのフォールをすることで勝者となります。

プロフェッショナルレスリングは、和製英語の「プロレス」として親しまれるようになり、日本全国に広まりました。海外でも、プロレスという単語は日本独自のプロフェッショナルレスリングとして認識されています。

海外にも日本のプロレスのファンは多く、試合観戦のために来日する人も少なくありません。日本のプロレスは、豪快な技だけでなく攻防のための細かい技術が盛り込まれているため、目の肥えた海外の格闘技ファンにも人気があります。

プロレスの試合は各団体が主催していますが、団体を統括する協会やプロになるためのライセンスは存在しないため、誰でもプロレスラーを名乗ることが可能です。現在は日本国内に1,000人以上のプロレスラーがいるとされています。

ただし、プロレスラーは試合に勝つため、またケガを防ぐため、トレーニングや基礎体力作りによって肉体と技術を磨くことが求められます。大相撲や柔道の経験者がプロレスラーに転身することも多いです。

第二次世界大戦後、日本にプロレスが上陸すると、テレビ放送を通じて爆発的な人気となりました。子どもから大人までテレビに釘付けになった日本最大のプロレスブームは、昭和が終わるまで続きました。しかし、近年では総合格闘技などの人気に押されつつあります。最大のブーム期に比べるとやや下火の状況となっており、現在は人気回復の途上にあるといえるでしょう。

プロレスのルールや試合形式、コスチュームについて

プロレス マスク
ここでは、プロレスの基本的なルールや試合形式、コスチュームについて紹介します。

ルール

プロレスは各団体でルールを定めているため、細部にはそれぞれ違いがあります。ここでは、基本的なルールに絞って見ていきましょう。

プロレスの試合は、4本のコーナーポストと3本のロープが張られたリングの上で行なわれます。コーナーポストの対極の2カ所には、青コーナー・赤コーナーが設置され、それぞれの選手の陣営が位置します。

プロレスでは、拳での攻撃や噛みつき、急所攻撃、目つぶしは禁止です。ただしレフェリーが5アウントを数えるまでにやめれば、反則負けにはなりません。そのため、観客用の椅子などを使った反則攻撃が繰り出されることもあります。

対戦相手の両肩をリングのマットに押し付け、レフェリーが3カウント数えるとフォール勝ちとなります。相手をダウンさせて立ち上がれない状態で10カウントが経過したり、相手をリングの外に出して20カウント以内にリングに戻れなかったりした場合も勝ちです。
 
そのほか、締め技や関節技により相手がギブアップ・タップアウトをした場合、またレフェリーが試合続行不可と判断してストップした場合にも試合終了となります。反則負けになるのは、ほかのレスラーが乱入して助けたり、反則攻撃を継続して行なったりした場合です。

また、どちらかのレスラーの手足がロープに触れた場合は、ロープブレイクとなり、技が解除されます。フォールされたときや関節技をかけられたときの逃げる手段として、ロープブレイクは有効です。

試合形式

試合時間は60分1本勝負のように、試合ごとに決められています。3本勝負や時間無制限で行なわれることもあります。

プロレスのもっとも基本的な試合は、2人のプロレスラーが1対1で対戦するシングルマッチです。2対2や3対3などのタッグマッチもありますが、タッグマッチの場合もリング上は1対1での対戦です。パートナーと交代するときは自分のコーナーにいる選手とタッチし、タッチした選手が代わりにリングに上がります。

また、大人数のレスラーが一度にリングに上がり、負けた選手から退場して最後に残ったものが勝者となるバトルロイヤルという試合形式もあります。そのほか、リングが金網で囲まれていたりロープが有刺鉄線になっていたりする「デスマッチ」など、プロレスの試合形式は団体やイベントによってさまざまです。

コスチューム

プロレスのコスチュームは各団体によって規定されていますが、基本的に厳しい制約はなく、レスラーの個性を表した衣装が使われています。
 
競泳用水着のようなショートタイツはプロレス開始当初から使われており、現在でも長州力などのレジェンドレスラーが着用しています。足首まで覆うロングタイツは、力道山がコスチュームとして使っていました。ロングタイツより締め付けを緩くした長ズボンタイプは、空中技や足技を使うレスラーが好んで使う傾向にあります。

アマチュアレスリングのユニフォームに似ているショルダータイツは、巨漢のプロレスラーがよく着用しています。獣神サンダーライガーのように、全身タイツを着て戦うレスラーも少なくありません。そのほか、柔道のような道着やTシャツを着て戦う場合も。さらに、エンターテイメントを重視した試合では着ぐるみで戦うレスラーもいるのです。

プロレスの試合では、マスクを被った覆面レスラーをよく見るでしょう。タイガーマスクや獣神サンダーライガーのように、漫画のキャラクターがマスクによって表現されている場合もあります。覆面レスラーのなかには、リングを降りても一切マスクを脱がないというレスラーもいます。

また、アジャコングのように顔に直接ペイントを施しているレスラーも馴染があるでしょう。ペイントは相手に威圧感や恐怖感を与えられるため、悪役レスラーがよく使います。

 
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日本におけるプロレスの歴史

プロレス マスク
ここでは、日本におけるプロレスの歴史を振り返ります。

プロフェッショナルレスリングは、全身を攻防に使い、関節技や締め技も可能な「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」というレスリングスタイルがもとになり、20世紀前半に生み出されたといわれています。アメリカでは第2次世界大戦後の1948年にNWAという興行団体が設立され、プロフェッショナルレスリングの人気が高まりました。

プロレスの誕生と昭和期

アメリカでプロレスの修業をしていた力道山が帰国し、1951年に日本でプロレスラーとしてデビューします。そして、力道山は1953年にプロレス団体の日本プロレスを立ち上げました。反米感情が残っていた戦後日本で、力道山が外国人レスラーを倒す姿に日本国民は熱狂します。プロレスを放送する街頭テレビには大勢の人だかりができ、プロレスは瞬く間にプロ野球や大相撲と並ぶ大人気スポーツとなったのです。

日本のプロレス界は日本プロレスの独占状態でしたが、1963年に力道山が亡くなったあと、東京プロレスと国際プロレスが団体を立ち上げます。そして日本プロレスから独立したアントニオ猪木が1972年1月に新日本プロレスを立ち上げ、ジャイアント馬場も同年10月に全日本プロレスを旗揚げします。力道山によるプロレス人気を受けて女子プロレスの興行も始まり、1968年には正式に全日本女子プロレスが旗揚げされました。

1976年、アントニオ猪木はボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリと対戦し、世界中に中継されることとなりました。そして、アントニオ猪木はプロレスがすべての格闘技の頂点であるという理念を証明するため、異種格闘技戦を続けていきます。一方、ジャイアント馬場は、アメリカからハーリー・レイスやドリー・ファンク・ジュニアなどの外国人レスラーを招聘し、プロレス界を盛り上げていきました。

1980年代になると、アントニオ猪木の弟子である藤波辰巳や長州力、ジャイアント馬場の弟子であるジャンボ鶴田や天龍源一郎がリングで活躍します。また70年代に漫画やアニメで人気だったタイガーマスクが実際のプロレスに登場し、子どもたちを中心にプロレスブームを巻き起こします。

1984年に設立されたプロレス団体UWFは、ショー的な要素を排除したプロレスを前面に押し出していきます。昭和末期には、新日本プロレス、全日本プロレス、全日本女子プロレス、UWFの4団体が存在していました。

平成前半期

1989年に大仁田厚がFMWを旗揚げし、過激なデスマッチを行なうことでプロレスファンから人気を得ました。FMWの成功を受け、消滅した団体や大手の4大団体から離脱したレスラーらが中心となり、多くのインディーズ団体が設立されるようになります。また、1992年にザ・グレート・サスケが東北で設立したみちのくプロレスのように、地方に密着して活動を行なうプロレス団体も多く作られました。

団体が乱立した結果、人気レスラーの引き抜きが頻繁に行なわれるようになります。また、昭和のプロレスを牽引してきたアントニオ猪木とジャイアント馬場が一線から退いた影響で、プロレス人気に陰りが出てきました。さらに、プロレスのテレビ中継が深夜帯に移動したため、老若男女にとって気軽に見られるものではなくなります。その結果、プロレスは一部の熱狂的なファンによって支えられるものへと変わりました。

そんななか、新日本プロレスの闘魂三銃士(蝶野正洋、武藤敬司、橋本真也)や、全日本プロレスのプロレス四天王(三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太)が活躍して日本のプロレス界を盛り上げていきます。しかし、日本プロレス界は資金難やブランド力低下などから、海外の人気レスラーを招聘できず、日本人レスラー中心の試合が多くなってしまいました。

また、アントニオ猪木対モハメド・アリのような異種格闘技による真剣勝負も行なわれなくなっていました。1990年代後半になると、K-1やPRIDEなど総合格闘技の人気が高まったことで、プロレス人気はさらに低迷し、暗黒期に入っていくこととなります。

平成後半期~現在

2000年代になると、三沢光晴が全日本プロレスを退団し、プロレスリング・ノアを立ち上げます。元新日本プロレスの橋本真也は、プロレスリングZERO-ONEを旗揚げしました。そして、プロレス人気を取り戻すため、メジャー団体同士の交流試合が行なわれるようになります。また、K-1やPRIDEとは一線を引くように、よりエンターテイメント性が強い興行も行なわれるようになりました。

しかしプロレス人気の低迷を止めることは難しく、長く続いた全日本女子プロレスは2005年に活動停止となってしまいます。
 
2005年に橋本真也、2009年に三沢光晴が急逝したことで各団体が分裂し、さまざまなインディーズ団体が生み出されることになります。2011年8月27日には、東日本大震災の復興支援を目的として、新日本プロレス、全日本プロレス、プロレスリング・ノアによる合同興行が日本武道館で行なわれました。翌年には新日本プロレスと全日本プロレスが旗揚げ40周年記念の興行を合同で行なうなど、団体の垣根を越えてプロレス界全体を盛り上げようとする流れが生まれました。

近年では棚橋弘至や飯伏幸太など、甘いマスクと実力を兼ね備えたレスラーに注目が集まるようになり、特に女性を中心にプロレスファンが増えています。また、蝶野正洋や長州力などのレジェンドレスラーがテレビ番組やSNSで活躍することで、若い世代のファン獲得にもつながっています。
 
さらに、一度離れてしまった昭和世代のオールドファンもプロレスに戻ってきています。これからどのようにプロレス界が再び盛り上がるのか、注目です。

初期のプロレス界を盛り上げたトルコ人レスラー

トルコ 国旗
初期のプロレスで活躍したトルコ人がいたことはご存じでしょうか。そのトルコ人レスラー「ユセフ・オマー」は、日本ではユセフ・トルコとして知られていました。若い世代にはあまり知られていないかもしれませんが、70代以上の方なら名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。

ユセフ・トルコは、1930年5月23日に日本の統治下にあった樺太で生まれました。両親はトルコ人でしたが、オスマン帝国が崩壊したトルコ革命の際にイスタンブールから脱出し、樺太で暮らしていました。

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ユセフ・トルコは日本で生まれ育ったため、日本語を流暢に話せたのです。そして、8歳のときに一家で東京へと引越しました。

戦後の反米感情が残る日本では、日本人の柔道家と外国人のボクサーが試合をする興行が人気でした。ユセフ・トルコは外国人ボクサーとなり、柔拳マッチの主力選手として興行に参加します。そして1954年に力道山が日本プロレスを旗揚げすると、プロレスラーへと転身します。

ユセフ・トルコは外国人としては小柄な173cmだったため、スピードやテクニックを生かした戦いを見せました。また、ときにはリング上でユーモラスな仕草を行ない、ファンからの人気を獲得しました。
 
ユセフ・トルコはプロレスラーとしてのデビュー後、すぐにレフェリーを兼任するようになります。力道山の死後はレフェリーとして活躍する機会が増えていきました。1972年に日本プロレスからアントニオ猪木とジャイアント馬場が独立し、それぞれ団体を立ち上げる際には、アントニオ猪木が旗揚げをした新日本プロレスにレフェリーとして参加します。しかし新日本プロレスを1年で辞めてしまい、その後はプロレス界と距離をおいて、俳優業などの仕事を行ないます。

1980年に行なわれたアントニオ猪木と空手家ウィリー・ウィリアムズとの異種格闘技戦でユセフ・トルコがレフェリーを務めると、再びプロレス界で有名になりました。そして、レフェリーのほかにも外国人レスラーの移籍の手伝いやマネージャーのような役割を担うようになります。2005年に初代タイガーマスクが立ち上げたリアルジャパンプロレスでも、晩年のユセフ・トルコが元気な姿でレフェリーを務める姿が見られました。

2013年10月18日、83歳のユセフ・トルコは栃木県内で死去しました。

 
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昭和に活躍した外国人レスラー

プロレス マスク
日本のプロレスブームは外国人レスラーの活躍なしでは語れません。ここでは昭和に人気があった外国人レスラーのなかから、6名を紹介します。外国人レスラーは悪役という位置づけをされることが多いですが、彼らはその枠を超えて日本のファンから多くの声援を受けました。

アブドーラ・ザ・ブッチャー

アブドーラ・ザ・ブッチャーは、身長188cm・体重150kgのカナダ出身レスラーです。1960年代にはカナダ各地で試合を行なっていましたが、1970年に初来日すると主戦場を日本に移していきます。

立派な体格にもかかわらず俊敏な動きを得意とし、相手の喉を突くブッチャーの必殺技「地獄突き」は多くの子どもたちが真似をしました。隠し持った凶器のフォークで対戦相手を攻撃し、自身も試合のたびに額から流血するなど、その激しさで会場を沸かせます。1970~90年代にかけて活躍し、2019年に引退しました。

アンドレ・ザ・ジャイアント

アンドレ・ザ・ジャイアントはフランス出身の身長223cm・体重236kgの巨漢レスラーです。日本では「大巨人」というニックネームで呼ばれました。1970年に初来日し、その後1980年代にかけてアメリカと日本で活躍しました。

巨体を駆使して相手を押しつぶす「ジャイアント・プレス」が決め技です。生涯を通して、対戦相手に投げ技をかけられたことがほとんどありませんでした。晩年にはジャイアント馬場と大巨人コンビを組み、日本のファンから多くの歓声を受けました。1993年に47歳で死去しています。

ザ・デストロイヤー

ザ・デストロイヤーはアメリカでプロレスラーとしてデビューしたあと、1963年に来日し、力道山と対戦しています。白地に赤い線が入ったマスクを着用し、日本プロレス界の覆面レスラーの先駆けとなりました。得意技は「足4の字固め」です。

1960~70年代にアントニオ猪木やジャイアント馬場と好勝負を繰り広げています。また、テレビのバラエティー番組に出演するなど、タレントとしてリング外でも人気がありました。来日前には、戦争により日本によい印象を持っていませんでしたが、日本で活躍するうちに親日家となります。2019年3月7日に88歳で亡くなっています。

スタン・ハンセン

スタン・ハンセンは、日本でもっとも成功した外国人レスラーの1人です。アメリカでプロレスラーとして活動していましたが、1977年より本格的に日本のプロレスに参戦し、すぐに新日本プロレスの主力外国人選手となります。
 
相手に突進し、左腕で相手の首を刈り倒す「ウェスタン・ラリアット」がスタン・ハンセンの代名詞です。技を出す前に左腕を上げ、右手でサポーターに触れる動作をすると、観客から歓声が沸き起こります。2000年に51歳で引退した際には、日本でセレモニーが開かれました。

タイガー・ジェットシン

タイガー・ジェットシンは「インドの猛虎」というニックネームを持つレスラーです。出生地のカナダでプロレスデビューし、1973年に初来日しました。ターバンを被りフェンシングのサーベルを振り回すスタイルで、有名な悪役レスラーとなりました。特にリング入場時に観客を襲って暴れ回り、試合前から観客に恐怖を植え付けていたことで有名です。

また、徹底したプロ意識からリングの外でもヒール役を演じ続けました。凶器攻撃や反則技を多く使うため、試合中の流血は珍しくなく、反則負けとなることも多くあります。相手の喉を掴み、指先で頸動脈を締め付ける「コブラ・クロー」が必殺技です

ブルーザー・ブロディ

ブルーザー・ブロディは、毛皮のベストを身にまとい、鎖を振り回しながら入場する姿が「超獣」のニックネームにふさわしいレスラーです。アメリカでプロレスラーとなり、1979年に来日しました。スタン・ハンセンとタッグを組んだミラクルパワーコンビは、迫力のあるファイトスタイルで人気となります。

助走をつけて飛び上がり、膝で相手を攻撃する「キングコング・ニー・ドロップ」をとどめの技として使いました。1988年7月16日にプエルトリコで試合を行なった際、控え室でほかのレスラーとの口論の末にナイフで刺され、翌日に亡くなってしまいます。42歳でした。

その他のプロレスに関する豆知識

ここでは、プロレスをさらに楽しむための豆知識をいくつか紹介します。

プロレスの聖地

後楽園
プロレスは、基本的に屋内の会場にリングが設置され試合が行なわれます。昔からファンの間でプロレスの聖地と呼ばれているのは、後楽園ホールです。
 
東京ドームシティ内にある後楽園ホールは、1962年4月16日にオープンしました。プロレス以外にもボクシングやキックボクシングの試合で使われることが多いため、格闘技のメッカと呼ばれることもあります。格闘技の試合では約2,000人の観客を収容することが可能です。

後楽園ホールで初めてプロレスの試合が行なわれたのは、1966年11月25日でした。メインイベントは、ジャイアント馬場対ルイス・ヘルナンデスの3本勝負です。後楽園ホールでは日本プロレスが長い間独占的にプロレス興行を行なっていましたが、1972年以降は全日本プロレスや新日本プロレス、全日本女子プロレス、国際プロレスの試合も行なわれるようになります。主要団体は定期的に後楽園ホールで試合を開催しており、インディーズ団体にとっては1つの目標とされる会場でした。

後楽園ホールでプロレスが行なわれる前は、蔵前国技館で興行が行なわれていたため、オールドファンには蔵前国技館もプロレスの聖地として知られています。戦後に大相撲を行なうために建設された蔵前国技館は、両国国技館が完成するまでの間使われていました。蔵前国技館は約1万人の観客を収容できる会場でした。

蔵前国技館が完成した1954年、「力道山と木村政彦」対「シャープ兄弟」のプロレスタッグマッチが行なわれます。その後、日本初の女子プロレスやタイガーマスクのデビュー戦なども実施されました。プロレスの最後の興行は、1984年8月2日のアントニオ猪木対長州力の試合です。そして同年、蔵前国技館は閉館されました。

蔵前国技館の土俵は可動式ではなかったため、プロレスの試合を行なう際は土俵を覆うようにリングが設置されました。そのため悪役レスラーがリング外に出た際、リングの下から土俵の砂を持ち帰って目つぶしなどの凶器として使うこともありました。

 
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少し変わった場所で開催されたプロレス

プロレスは会場に設置されたリングの上だけで行なわれるものではありません。観客を楽しませるというエンターテイメント性の高さから、珍しい場所でも開催されています。

本屋のなか

新宿区中井駅の近くにある伊野尾書店のなかで、2008年にプロレスの試合が行なわれました。ノーリング&ノーロープの本屋の店内や路上で戦いが繰り広げられ、自動販売機の上から飛んで攻撃するなど、約300人の観客を魅了しました。試合に出場した飯伏幸太は、その後新日本プロレスに移籍してスター選手となります。2019年にも同じ本屋で6人タッグマッチが行なわれました。

列車内

福島県の会津若松駅から新潟県の小出駅を結ぶ只見線の列車内でも、プロレスの試合が行なわれています。2011年の福島・新潟豪雨により被害を受けた只見線の復興支援と地域の盛り上げを目的とし、2017年に開催されたのが始まりです。約40名の観客は2両編成の列車の座席で観戦し、走行する電車の通路や座席がリングとなり、試合が行なわれます。

靖国神社

力道山率いる日本プロレスは、1961年に靖国神社の相撲場に特設リングを設置し、奉納プロレスを行ないました。このとき、アントニオ猪木とジャイアント馬場も靖国神社で試合を行なっています。

その後長い間、靖国神社での試合は実施されませんでしたが、2005年にプロレスリングZERO1によって改めて開催され、春の恒例行事として定着しました。また、神社以外にもお寺の境内にリングが設置され、プロレスの試合が行なわれることもあります。

プロレス団体がある国


プロフェッショナルレスリングの団体が存在し、試合が定期的に行なわれている国をいくつか紹介します。

アメリカ

アメリカはプロレス人気がもっとも高い国の1つで、数々の有名レスラーを生み出してきました。アメリカ国内には多くの団体が存在しますが、もっとも有名なのはWWE(ワールド・レスリング・エンターテイメント)で、その試合は世界中に配信されています。また、世界中で興行を行なっており、各国の会場で大観衆を集めています。

WWEは台本に沿って進むショープロレスが主体で、ドラマを見るような感覚がファミリーなどのライト層に人気となっています。観客はメッセージを書いたサインボードを掲げ、掛け声やブーイングにより会場一体となって試合を盛り上げます。

スタン・ハンセンやビッグバン・ベイダーなど多くの有名レスラーがアメリカ出身です。WWEには新日本プロレス出身の中邑真輔が参加しており、その独特なスタイルによってアメリカで一番有名な日本人といわれています。

また、アメリカではプロレスラーから俳優への転身や兼業も多く、WWEで活躍したザ・ロック(本名ドウェイン・ジョンソン)は俳優として大成功しています。

メキシコ

メキシコで行なわれるプロレスは、ルチャリブレ(スペイン語でプロレスの意味)と呼ばれており、日本のプロレスファンにも浸透しています。ルチャリブレには覆面レスラーが多く、小柄な選手が軽快な動きで戦うスタイルが特徴的です。体格の近い日本人レスラーがメキシコにプロレス留学し、ルチャリブレの技術を習得して日本で披露することも少なくありません。

メキシコのルチャリブレは人気が高く、メキシコシティにあるアレナ・メヒコやアレナ・コリセオでの試合には毎回多くの観客が詰めかけます。白銀のマスクマンと呼ばれたエル・サントは数々の世界タイトルを獲得し、メキシコの英雄となりました。

ミル・マスカラスは、日本で活躍したメキシコ人覆面レスラーです。華麗な空中殺法を武器とし、1970~80年代に活躍しました。

カナダ

カナダも多くのプロレスラーを輩出しています。カナダの団体でデビューしたレスラーは、その後アメリカや日本に活躍の場を移すことがあります。
 
カナダ出身のシャープ兄弟は日本でヒール役を演じ、初期の日本プロレスを盛り上げました。アブドーラ・ザ・ブッチャーやタイガー・ジェットシンもカナダで活躍したあと、日本にやってきたレスラーです。近年ではケニー・オメガが日本のリングで数々の好勝負を繰り広げ、プロレス人気の回復に貢献しました。

イギリス

イギリスはヨーロッパのなかでプロレス人気が一番高い国です。伝統的にレスリングの人気が高く、初代タイガーマスクのライバルであるダイナマイト・キッドなどの有名レスラーを生み出しています。
 
2019年に行なわれた新日本プロレスのロンドン大会では、会場に1,000人以上のファンが押しかけ満員となりました。現在イギリスで人気のある団体は、RPW(レボリューション・プロレスリング)で、日本でも人気のザック・セイバーJrやウィル・オスプレイが参戦していました。

 
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