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トルコ旅行・ツアーブログ・トルコツアー旅行記

マルコ・ポーロ、世界を見聞しアジアとヨーロッパの橋渡しをした旅人


中世の時代に、ヨーロッパからアジアまで陸路と海路で大旅行を大成したヴェネツィア人マルコ・ポーロ。彼の旅での見聞が掛かれた『東方見聞録』は皆様ご存じかと思いますが、このマルコ・ポーロは、東方への旅の最初と最後、2回トルコの地を通っているのです。同じく有名な旅行家イブン・バットゥータの次に多くアナトリアを見た旅行家と言われています。

13世紀にマルコ・ポーロが見たトルコの景色は見聞録にも記されています。マルコ・ポーロの生涯と共にマルコポーロが見聞きしたアナトリアに関してここで解説致します。

マルコポーロの生涯

マルコ・ポーロ

幼少期

1254年イタリア北部のヴェネツィア共和国に生まれ、父方の生家ポーロ家は代々続く商家でした。父親のニッコローと叔父のマッフェーオも商人で、中東貿易の為にコンスタンティノープル(現イスタンブール)に住み着いており、マルコが生まれる前から東方に貿易の旅に出て不在でした。マルコは生まれてから父親に会ったことは無く、母親はマルコが小さい時に亡くなったため、叔母と叔父に養育されました。

東アジアへの旅

1269年マルコが15歳の時、ヴェネツィアに戻った父ニッコローと初めて会います。そして、1271年17歳の時に父ニッコローと叔父マッフェーオと共にアジアへの旅へ出発するのです。

目的地は元皇帝フビライ・ハーンの夏の離宮がある上都(現在の中国河北省北西部の張家口市)ですが、そこまではパミール高原やゴビ砂漠を越える陸路を通り、たどり着くまでに約3年半かかったそうです。

クビライ・ハーンは到着したマルコ一行を歓迎すると共に、マルコがイタリア語・フランス語・モンゴル語・トルコ語・中国語と多言語に精通し、色々な知見・経験・知識を有していたことから元王朝の官職に就かせます。

その後、元の国の役人としてクビライに仕え実務や使節として職務をこなしながら、なんと17年間滞在します。その間、中国国内だけでなく、ビルマ(現ミャンマー)やチャンパ王国(現ベトナム)、スリランカ等の周辺各地にも訪れ、歴史・民俗・地理など多くを見聞する経験を得るのです。

長い滞在の後、マルコ一行は帰国の希望をしますが、クビライハンは許可をしません。そんな中、1292年に元王朝のコカチン姫がイランと東部アナトリアを支配していたイル・ハン国の王アルグン・ハンに嫁ぐことが決まり、海路で行くために航海経験のあるマルコポーロ一行が同行することになります。

泉州から14隻600人で出港した一行は南路で進み、シンガポールやインドネシアのスマトラ島、スリランカやインド南東部のコルマンデル海岸を通り、アラビア海に入り、ようやく1293年2月に海路の到着地ペルシャ湾のコルモス(ホルモス湾)に着きますが、到着した時には何と600人いた乗船員が最終的に18人にまで減ったほど大変な2年間の船旅となりました。

その後、機会を見てマルコと父と叔父の三人は、陸路で山を越えながら北西に進んで行き、アナトリア黒海地方トレビゾンド(現トルコのトラブゾン)の港から船でコンスタンティノープルに渡り、そこからヴェネツィアへ戻ります。

因みに、17年間マルコが仕えていたクビライ・ハンは1294年2月に80歳で死去し、マルコ一行はイル・ハン国のタブリーズからトレビゾンドへ向かっている途中にその崩御の知らせを受けました。

なお、ペルシャ湾のホルモズから南路で地中海を通ってベネチアに向かわなかった理由は、当時イル・ハン国とエジプトが戦争をしており、シリア沿岸をエジプトが占領したため通れなかったので、アナトリアの北側の黒海とエーゲ海を通る海路ルートを選んだ様です。

マルコ一行は、1295年にヴェネツィアに帰国し、ようやく合計15,000km、 24年間と言う四半世紀に及ぶ壮大な旅を終えるのです。

25年ぶりに故郷に帰った3人ですが、イタリア語を殆ど忘れており、また家族ですら3人が説明する東方での旅の話を架空の話と信じなかったと言います。

マルコ・ポーロの旅

牢獄での出会いがマルコを有名に!『東方見聞録』の刊行

帰国してからも商人として働いていた3年後の1298年マルコ44歳の時、ヴェネツィアが交戦中だったジェノバとの戦いが激化し、マルコは志願兵として従軍します。しかし、ヴェネツィア軍は敗退しマルコもジェノバ軍の捕虜となってしまいます。

この牢獄で、同じ捕虜として獄中に出会ったのがあの『アーサー王の円卓騎士物語』の著者として有名なイタリア人作家のルスティケロ・ダ・ピサなのです。マルコは、自身の東方での旅を詳しく語り、それを書き記したのがピサで、彼が書き留めたマルコの旅行記があの全世界で有名が『東方見聞録(Il Milione)』です。

特にマルコは、政治的・宗教的な観点からでなく、商人と言う新しい目線でアジアをヨーロッパに紹介し、ヨーロッパの人々を驚かせました。アジア・東方世界の様々な人々の社会生活や習慣を詳細に説明したこの本は、地理情報だけでなく、民族学的および社会学的価値も持っています。原作は『Il Milione』という名前で何度も発行され、ヨーロッパの極東の認知に貢献しました。

なお、このマルコポーロの旅行記『東方見聞録』に一番影響された人物は、探検家のクリストファー・コロンブスで、マルコが述べた”黄金の島ジパング”を見つける為の航海へ旅立ちます。その後の大航海時代にも多大な影響を与えました。数百年後の後世の旅行家達も東方見聞録をガイドブックとして手に取り旅をしています。

東方見聞録は、聖書の次に多くの言語に訳された本とも言われています。

 
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マルコの余生

1299年に解放されて自由となった後、マルコの父ニッコローは死去し、マルコは叔父のマッフェーオと商人として海外との貿易事業を行います。1300年46歳で結婚し3人の娘に恵まれ、その後は豪商として成功しますが、ヴェネツィアから1歩も出ることはありませんでした。
そして1324年1月8日、マルコは病気の為、70歳でその生涯を終えます。

亡くなる前に最後に残した言葉は、「誰も私のことを信じなかったので、私が見聞したことの半分でさえも説明してない」だったと言われています。マルコが語って書き記された「東方見聞録」はマルコが24年間見聞したことのほんの一部なのかもしれません。

ポーロ家の旅はコンスタンティノープルが始まり

コンスタンティノープル
マルコの父ニッコローと叔父マッフェーオの兄弟は、ヴェネツィアの商人でした。様々な土地から商品を仕入れて、コンスタンティノープルの市場に卸す商売をして儲けていました。そんな中、時々商品を仕入れていた黒海地方の町があり、そこより遠い向こう側は何があるのか、遠い東方世界を知りより安くより高品質の商品を仕入れられればと興味を持ったと言います。

そしてニッコローとマッフェーオはコーカサス地方を越えた東方を見る旅に出ることにします。まず、黒海北クリミア半島のスダクに到着すると、キプチャク・ハン国の首都サライで君主ベルケ・ハンより歓迎を受けます。

その1年後、現ウズベキスタンのオアシス都市ブハラへ移動しここで3年滞在した後、ここを発とうと準備をしている時、東地中海に来ていた元の大使と出会います。未だヨーロッパに行ったことがないクビライ・ハンがラテン人のこの二人を招待していることを告げ、クビライハンに紹介するのです。

1266年大都(現在の北京)でクビライハンとの面会に成功したポーロ兄弟は、テュルク系民族の国に長く滞在していた際にトルコ語を覚えていたため、クビライハンのヨーロッパに関する政治や法律に関する多くの質問にも答えることが出来ました。

ヨーロッパ人とヨーロッパの宗教に関して知りたいクビライハンは、ローマ教皇に書簡を書きポーロ兄弟に託します。書簡の内容は、知識と徳があり、無知の馬鹿を上手く説得でき、知的討論の芸術性に関して富んでいて、自由七科(リベラル・アーツ)を良く知る100人のキリスト教徒の派遣要請でした。

ポーロ兄弟はクビライ・ハンの書簡を教皇に届ける使命を持ってイタリアに帰ります。1269年頃ヴェネツィアに帰郷したニッコローはこの時初めて既に15歳に成長していた息子のマルコと会うのです。

丁度ポーロ兄弟が帰国した際、教皇クレメンス4世が死去したばかりで教皇の座が空白だったため、ポーロ兄弟は次期教皇の即位を待たなければなりませんでした。

1271年にグレゴリウス10世が教皇に即位すると、ポーロ兄弟はクビライハンの書簡を教皇に献上します。教皇は特に関心を示しませんが、宣教師二人をクビライの元に送る許可をしたことにより、ポーロ兄弟と17歳に成長したマルコの24年間に及ぶ東方大旅行が始まるのです。

因みに、同行していた二人のカトリック宣教師のヴィケンザのニコロとトリポリのググリィエモは、アナトリアに上陸すると旅路に恐れをなして東方への同行を取りやめてしまい、ここからすぐに十字軍テンプル騎士団の一行とともに帰ってしまいます。その為、ポーロ一行3人のみで旅をすることになります。

マルコ・ポーロの見たトルコ

アダナのユムルタルック
マルコポーロ一行は、トルコから旅を始めトルコで旅を終えます。通過経路は下記の様な感じで現在のトルコ国内を通過しました。

往路:陸路で東へ

ヴェネツィア⇒<海路>⇒アッカ(現イスラエルのアクレ)⇒<海路>⇒ライアス (アダナのユムルタルック)※当時は小アルメニア王国の領土⇒カエサリア (カイセリ)⇒エルズルム (エルズルム)⇒マルディン⇒トリス (イランのタブリーズ)へ⇒シルクロードにてユーラシア横断

復路:泉州から海路で2年かけてペルシャ湾に到着後

貿易港ホルモズ(現イランのペルシャ湾のホルモズガーン)上陸⇒陸路にてイル・ハン国内を北西へ進みイラン高原からアルメニアを越えアナトリアへ⇒黒海の大港町トレビゾンド (トラブゾン) ⇒<海路>⇒コンスタンティノープル (イスタンブール)⇒<海路>⇒ヴェネツィア帰国

マルコポーロの見聞による当時のアナトリア

マルコポーロは東方見聞録の中で彼が旅した町についての詳細な情報を提供しておりますが、13世紀のアナトリアの情景も細かく記しており貴重な情報が満載となっています。

マルコポーロ一行はヴェネツィアから出発後、海路で東地中海のアッカへ、その後トルコ南東の港町ライアス (現アダナ県ユムルタルックにあたるライアッゾ(Laiazzo)) から上陸して、陸路の旅が始まります。
アダナのユムルタルック
マルコポーロは、東アナトリアを通って東方へ向かいますが、東方見聞録の中でコンヤ、シワス、カイセリなどの現在のアナトリア地方のことを 自身の言語で「トルクメン人の国」を意味する“テュルコマニア(Turcomania)”と呼んでいます。ここはいわゆる当時のルーム・セルジューク朝の領土を指しており、因みに中央アジアの辺を”大トルコ”と呼んでいるのが特徴的です。

マルコはコニア(現コンヤ)、カエサリア(現カイセリ)、セヴァスタ(現シヴァス)がこの国で最も主要な都市であることを述べ、また“トゥルコマニア”の住民は、三種類からなると言及しています。

第一の種類は、ムハンマドを信じその教法に従うテュルコマン人。耳慣れない言語を使う単純な民であり、彼らの生業は牧畜であるので、山間でも平地でも牧地のある所ならどこでも居住し、テュルコマン種と言われる良馬や高価で立派なラバを産する人たちとのことです。

トゥルコマン人以外の二種類の住民は、一つがアルメニア人、もう一つがアルメニア人と雑居して都市・集落に住むギリシア人で、ともに商業や手工業に従事しおり、世界で一番美しい絨毯や、深紅色等色とりどりの高級シルク布、その他種々な産物を成していたとのことです。また、この3種の人たちは近東タルタール人の領主の統治を受けていたことも書かれています。

現在のエルズィンジャンは当時アルメニア領地でアルジンガンと呼ばれており、アルジンガンの事を“大アルメニア(ローマ帝国アルメニア属州)の入り口”と触れております。エルズィンジャンでは世界で又と無い完璧な硬麻布バックラム(bucherame)と綿が製造されていて、良質の温泉がある事も記されています。

大アルメニアの都市の中でもアルジンガンが最も壮大で大司教も置かれていたとの事です。
次に大きい都市はアルジロン(現エルズルム)で、その次がアルジジ(現ヴァン県エルジシュ)と言い、またトレビゾンド(現トラブゾン)に行く途中のパイプルト村(現バイブルト)には主要な銀鉱山があったとの事です。

現在のアララット山に関しては、グルジア王国の国境付近にあり、頂上に箱舟が漂着したという伝説を持つ中央部がコップ型の「ノアの箱舟山」と称せられている高山であるとし、周回するには二日以上かかり、深い万年雪に覆われているため山頂を窮めたものは誰もいないと記されています。

山の雪解け水に潤わされた山麓の緩い傾斜面では草の生育が旺盛で、夏になると近隣の各地からこの牧草を目当てに多数の人々が家畜を連れてやってきたそうです。夏には家畜に適した牧地がある為近隣のタルタール軍隊が駐留する為に移動して来るも、冬期は寒気が厳しく降雪量が大変多いため家畜の飼料が皆無となるころから、駐留する軍はいなかったとの事です。

世界で一番良い人たちがいる場所としても2か所を挙げています。一つがマルコの出身地ヴェネツィアであり、もう一つがアナトリア南東部のマルディンです。

ゲルカラット(現ヴァン湖)では、春の40日間だけ穫れる魚があり、日干しにして近隣に売りさばいていたとのことです。

また、チグリス川上流域を中心に東部アナトリアからイラン西部を支配したテュルク系のイスラム王朝白羊朝とイラク北部からアナトリア半島東部を経てアゼルバイジャン、イラン西部に広がる遊牧地帯を支配したテュルク系のイスラム王朝の黒羊朝が衝突していたことも記されています。

マルコポーロが絶賛したトルコ絨毯

絨毯博物館
トルコは世界で最も人気の高い絨毯の産地の一つです。マルコ・ポーロはアナトリアを通る際にコンヤやカイセリのなどの宮殿やモスクで素晴らしい手織り絨毯を目にして感嘆し、「東方見聞録」の中で、コンヤ、カイセリ、シヴァスで織られた緋色の絨毯が最も美しく優雅であるとトルコ絨毯の美しさと芸術性を述べています。

トルコには、13世紀にマルコ・ポートが見たであろう風景や見物が数多くあり、現在でも変わらない姿を残している場所もあります。是非、彼が見たアナトリアを御自身で見聞してロマンを感じてみてはいかがでしょうか。

マルコ・ポーロの古里ベネチア。野菜や飲み物を積んだ船が運河をゆく。街はアドリア海の浅瀬に木製のくいを打ち込み、その上に建設された。市街地は今も自動車の通行が禁止されている。地盤沈下により、潮の加減によって街が冠水する被害が最近深刻化している
 
イタリアのベネチアといえば、恋人同士が肩を寄せ合うゴンドラをつい連想してしまう。確かにあるのだが、それはごく一部の観光客が乗るものにすぎないことを、実際に運河を見て知った。

トマトやワインをのせた船がゆく。水上バスもタクシーもある。ごみだけを積んだボートも走る。アドリア海の浅瀬に築かれた街の交通・輸送の主役はこれらの生活船だ。地中海・オリエント交易で繁栄を極め、「アドリア海の女王」と呼ばれてきたベネチアはいまも水の都である。

1271年、このベネチアを父、叔父とともに東に向けて船出した少年がいた。彼の名はマルコ・ポーロ。3人はベネチア商人の拠点があるコンスタンチノープル(現イスタンブール)を経てペルシャを抜け、中国のカシュガル、ホータン、敦煌を通過し、モンゴル族のフビライ・ハーンが支配する元朝の大都(北京)にまで達した。ユーラシア大陸を横断する大旅行だった。

3人は25年後に帰国する。すでに40歳を過ぎていたマルコはベネチアとジェノバの戦争に巻き込まれ、獄につながれる。暇にあかせて冒険談を語り、それが本になる。『世界の記述』、別名『東方見聞録』である。

ベネチアにマルコゆかりの地がいまもあるというので訪ねてみた。小さい広場を囲んで古い住宅が並ぶ。「ミリオン(100万)」と書いた地名表記がある。釈放されたマルコの語る旅行の思い出は大ボラとして嘲笑(ちょうしょう)の的になった。やたらに大きな話をするので「100万」のあだ名がついたという。

実はマルコは中国には行っていない、『東方見聞録』は人から聞いた話をまとめたに過ぎない-と主張する研究者もいる。当然触れるべき万里の長城やお茶に関する言及がないことなどを理由にしている。もちろん、本当に行ったと見る研究者の方がはるかに多いのだが、マルコは700年を超えてなお世間を騒がせている。

物笑いのタネになる一方、東方にあふれる絹、玉(ぎょく)、黄金などに関する詳細な記述は、好奇心あふれる人々を確実にとらえもした。古くは15世紀のコロンブスがこの本で「黄金の国ジパング(日本)」を知り、船出した。近くは今世紀初めに中国奥地などを探検した英国の考古学者スタインらも熟読して現地に向かった。

ベネチアが生んだマルコ・ポーロとそれに続く人々の大旅行は、ヨーロッパが東方に対してつねに寄せ続けた憧憬(しょうけい)の強さを物語っている。

 
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