トルコ旅行(ツアー・観光)専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』イスタンブール旅行で絶対に行きたいおすすめ観光スポット紹介|トルコ観光案内 | トルコ旅行(ツアー・観光)専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコツアーガイド

イスタンブール旅行で絶対に行きたいおすすめ観光スポット



イスタンブル旅行・観光

当時最も有名だったデルフォイのアポロン神殿の神託は、ビザスに「盲人の国の向いに住め」と告げたのだった。長い間そのような土地を求め続けた移民たちは、今日のイスタンブルの半島にたどり着くや、周囲の豊かさと天然の良港「金角湾」の無限の可能性に目を奪われた。その一方また、海峡の対岸に住みついている人々に出くわした。これほど可能性に満ちた理想の土地があるのに対岸に住みつくのは、きっと「盲人」であるからに違いないと考えて、ビザスとその一行は、ついに神託で告げられた土地にたどり着いたのを信じたのであった。

しかしながら、旧市街では古い出土品が発見されていないものの、金角湾の奥やアジア側のフィキルテペでは、紀元前3000年にさかのぼる出土品が発掘されている。最初に人が住みついたのは、金角湾をさかのばったキャートハネやアリベイキョィの周辺と考えるのが、より妥当なところであろう。考古学的出土品や歴史史料によれば、ビザスの植民団がアクロポリス(城丘)に定住する前に、ここにトラキア起源の「リュゴス」という植民市が存在したことも明らかになっている。

ビザスにちなみ「ビザンティオン」と呼ばれたこの都市は、成立以来、大国に服従することもあれば、自治を行うこともあった。今日トプカプ宮殿がある場所が、この都市の「アクロポリス」であった。金角湾の入口には、今日なお使われているおだやかな港を持っていた。ここから始まる堅固な城壁が都市を取り巻き、マルマラ海にまで達していた。

紀元後2世紀には、ビザンティオンは戦略的拠点にある裕福な都市として注目を集めていた。周囲の豊かな土地と漁業、それに海峡を通る船から徴収される通航料と関税が、主要な富の源泉であった。


トルコ観光・ツアーと言うとまず頭に浮かぶのはイスタンブール観光。。。もしかしたらイスタンブールと言うとエキゾチックな町って言うイメージしか浮かばないのでは?

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ビザンティオンは、海港都市、商業都市として、ローマ帝国期にも命脈を保っていたが、紀元後191年に始まる皇帝位をめぐる紛争で敗者の側についたために、2年を越える包囲の後にローマ皇帝セプティミウス・セウェルスによって征服され、あとかたもなく破壊された。しかし後に同じ皇帝によって都市は再建、拡張されて、新しい城壁と建物が築かれたのであった。

紀元後4世紀にローマ帝国は膨張して、首都ローマはもはや帝国の中心に位置するわけではなくなった。コンスタンティヌス大帝は新たな首都を捜し求めるうちに、ビザンティオンの戦略的位置と理想的な気候、それに海上、陸上の交通路の交わる場所であることを重視して、ここに遷都することに決定した。5年以上かけて新たに築かれた城壁により都市は再び拡張され、多くの神殿、官公庁、宮殿、浴場、そして新しいヒッポドローム(競馬競技場)が建設された。そして紀元330年に、都市は盛大な式典によって正式にローマ帝国の首都と宣言されたのであった。

黄金時代が始まったこの都市は、「第二のローマ」とも「新ローマ」とも呼ばれていたが、これらはすぐに忘れられ、「ビザンティオン」の名が再び使われるようになった。

さらに後にはコンスタンティヌス大帝にちなむ「コンスタンティノポリス」の名が一般的になったが、民衆の間では単に「ポリス(都市)」で通っていた。この単語から生まれた「都市へ」を意味する「イスティンボリン」が「イスタンブール」の名の起源となり、オスマン朝時代以後はこの名が一般に使われた。

コンスタンティヌス大帝の跡を継いだ皇帝たちは、新しい街路や商業区域、水道橋や記念碑を作ることによって、都市を発展させる努力を続けていった。最初に建てられた教会は、コンスタンティヌス大帝より後の時代に完成した初代のアヤ・ソフィヤと聖使徒教会である。

395年二つに分裂したローマ帝国の西半分は5世紀の末に崩壊したが、「東ローマ帝国」は、首都コンスタンティノポリスの支配のもとで、さらに1000年以上も存在し続けたのである。現代の歴史家たちは、この帝国を「ビザンツ帝国」と名付けている。アナトリアの古代文明の影響を受けつつ、オリエントの諸国家とローマから採用された儀礼と法律にのっとって、そして最も重要なことには、キリスト教の影響と諸原理によって発展した「ビザンツ帝国」の歴史は、非常に興味深くダイナミックである。

トルコ・イスタンブール
コンスタンティノポリスの市域は、5世紀前半に築かれた城壁によって、最終的な拡張が行われた。今日見られる陸地側の壮大な城壁は、皇帝テオドシウス2世によって築かれたものである。6世紀に入って人口が50万人を越えたこの都市は、ユスティニアヌス帝の続治下で、もう一度黄金時代を迎えた。今日残る有名なアヤ・ソフィアの大聖堂は、この皇帝が建立したものである。

ビザンツ帝国とコンスタンティノポリスのその後の歴史は、アラブ、トルコ、ヨーロッパの諸民族の侵略と、頻繁に交替した皇帝の家系の血みどろの抗争に満ちている。

中世の最も豊かな文化と通商の中心として知られたこの都市は、陸と海から様々な民族により絶えず目標とされていた。大城壁、金角湾の入口に張られた鎖、ビザンツ人だけが製法の秘密を知っていた水中でも燃えるギリシア火、そして陰謀に満ちたビザンツの外交術が、常に都市を攻撃から救ってきたのである。

11世紀から12世紀のコムネノス家の支配した輝かしい時代に、コンスタンティノポリスは三度目の繁栄と発展の時期を迎えた。1071年に東アナトリアから進出したトルコ系セルジューク帝国の勢力が、ごく短期間でアナトリアヘの定着に成功すると、ビザンツ帝国は彼らと境を接するようになった。

コンスタンティノポリスの歴史の暗黒時代である「ラテン人の侵略」は、1204年第4回十字軍の侵略によって始まった。全ての教会、修道院そして記念碑にいたるまで、都市は長年にわたって略奪にさらされた。1261年にビザンツ人たちにより奪回されたものの、コンスタンティノポリスは、かつての繁栄を再び回復することはなかったのである。周囲では、拡大しつつあったオスマン朝の脅威が次第に増大し、ついに53日間にわたる包囲の結果、1453年コンスタンティノポリスはオスマン軍の手に陥落し、ビザンツ帝国は滅亡したのであった。

コンスタンティノポリスの城壁が打ち破られた一つの理由は、ファーティフ(征服者)・スルタン・メフメト2世が戦争史上初めて用いた大口径の巨砲である。征服を可能にしたもう一つの理由は、ビザンツ帝国が老朽化してもはや寿命に達していたことであった。

弱冠21才のメフメト2世は、オスマン朝の都をここに移し、国土の様々な地方から移住させた移民によって人口を増加させ、荒廃した都市の再建に着手した。都市のもとからの住民には、信仰の自由と社会的な権利を認め、生活を保障した。キリスト教東方正教会の総主教座が今日までここに存在しているのは、この時メフメト2世が与えた権利に基づくのである。市内の多くの教会は、アヤ・ソフィアをはじめとし、モスクに転用されて、荒廃したまま放置されるのを免れた。


トルコ・イスタンブール

イスタンブルは、オスマン朝の手にわたってまたたく間に発展し、新たな繁栄を迎えた。征服後一世紀にはトルコ・イスラム美術の刻印が都市にほどこされ、ドームとミナレットがイスタンブルのシルエットを支配するようになったのである。16世紀初頭以降オスマン朝のスルタンが聖地メッカの保護者となりイスタンブルは全イスラーム世界の中心にもなった。イスタンブルは、カーヌー二ー(立法者)・スルタン・スレイマンⅠ世の治世に最も輝かしい時代を迎え、ミーマール・スィナンの傑作が次々と建設さられていった。

オスマン朝時代のイスタンブルでは450年以上戦争がなかったが、度重なる火災は何度も広い範囲を焼き尽くした。しかしイスタンブルは装いを新たにしながら、発展を続けたのであった。かつてのアクロポリスに建てられたスルタンの宮殿は、ボスフォラス海峡と金角湾のたぐいまれな景色をのぞんでいた。

19世紀以降になると、モスクや宮殿は、ヨーロッパ風の建築スタイルで、ボスフォラス海峡沿いに建てられるようになった。短い間に建設された多くの宮殿は、オスマン帝国の衰退の象徴でもある。イスタンブルは、第一次世界大戦の後、またひとつ世界帝国の滅亡を目撃することになったのである。オスマン帝国は分割され、内外の敵が自分たちの分け前をめぐって争っているさなか、一人の司令官もまた、トルコ民族のための闘争に立ち上がったのであった。ムスタファ・ケマルの指揮のもと、トルコの軍と民族は、4年にわたる独立戦争の後に1923年トルコ共和国を樹立した。アジア最初の共和国の大統領となったムスタファ・ケマル・アタテュルクは、国家を近代文明へと向かわせた。スルタンと家族は国外に追放され、ラテン・アルファベットが採用され、トルコ帽やベールが禁止された。

新しい共和国の首都はアンカラになったものの、イスタンブルはいまなお現代トルコ最大の都市であり、魅力的な美しさと活気ある生活様式を保っているのである。



ヒッポドローム観光 (スルタン・アフメト広場)

7つの丘のある半島の第一の丘と、そこから延びる一帯は、いつの時代もこの都市の最も重要で活動的な地区であった。ここは市内で最初に人の住み始めたアクロポリスがあった場所である。この城壁(今日のトプカプ宮殿の境界線)内の交易都市が、ローマ征服後の拡張で、大都市へと発展したのである。

ローマ時代の重要な建物は全て、ヒッポドローム周辺に見られた。皇帝の「大宮殿」も、ヒッポドロームから海岸へかけての広大な土地に広がっていた。しかし今日残っているのは、モザイク博物館に見られる大広間の床のモザイクのパネルだけである。

市内の最も重要な広場「アウグスティオン」もここにあった。広場から「ミリアリウム」という凱旋門を抜けると、メインストリートの「メセー」が始まり、そこにローマヘの最初の里程標「ミリオン」も立っていた。ここから道は、一連の大きな広場を通って城壁の「黄金門」に達し、そこを起点に街道「ウィア・エグネティア」がローマヘと延びていた。

トルコ・イスラム美術博物館
この広場は宮殿、神殿、浴場、ヒッポドロームを備え、都市の行政、宗教、社会、文化の中心として発展した。ビザンツ時代にもオスマン朝時代においても、この付近は都市の中心として、ほぼ同じように重要であり続けた。今日もアヤ・ソフィア、スルタン・アフメト・モスク、トルコ・イスラム美術博物館、地下貯水池といったイスタンブルの最も主要な史跡がここに集中しているのである。

「ヒッポドローム(競馬競技場)」は、ローマ皇帝セプティミウス・セウェルスが紀元後2世紀の末に建設し、コンスタンティヌス大帝が大規模に拡大したものである。縦500メートル横117メートルの巨大なU字型をしていて、3万人の観客が座れたとも、6万人が座れたとも言われている。北側には一般民衆の席とは別に、4頭の馬のブロンズ像を屋根に載せた、バルコニーのような皇帝の観覧席が設けられていた。そこは歩道で大宮殿とつながっていて、皇帝は催しのある日には、民衆とじかに接したのである。

ヒッポドロームの本来の出し物は、二頭立てか四頭立ての馬の引く戦車競技であった。戦車競技や剣奴の闘いの他、音楽家や軽業士や踊り子もここで芸を披露した。ローマ時代やビザンツ時代のヒッポドロームは、集会、娯楽、スポーツのための都市の中心であった。

しかし10世紀まで重要性を保ったヒッポドロームも、他の多くの史跡と同じように、1204年のラテン人の侵攻期には荒廃してしまった。
オスマン朝時代、「アト・メイダヌ」の名で知られたこの広場は、以前の時代と同じように、再び色鮮やかな祝祭や催しの舞台となった。こうした中で最も盛大なものは、スルタン・スレイマン上世の皇子たちムスタファ、メフメト、セリムの割礼祭と、1582年スルタン・ムラト3世が皇子メフメトのために行った割礼祭であった。特に後者は55昼夜にもわたって続いたことで知られている。

今日ヒッポドロームの地面は往時より4-5メートル高くなり、列柱や石材も後世別の建築に使われてしまったが、高いアーチの上の煉瓦造りの円形部分が南側に現存している。

このほか、ヒッポドロームの入口右手の公園には4-5世紀の邸宅の遺構が、また公園中央付近にはビザンツ時代の教会、アヤ・エウフェミアの遺構も見られる。また広場の入口にある小さなフィールーズ・アー・モスクは、イスタンブル最古のモスクの一つ(1491年)で、オスマン朝初期の様式である。


イスタンブール

エジプトのオベリスク

これはもともと紀元前1490年代にエジプトのファラオ、トゥトメス3.世がメソポタミアでの戦勝を記念してルクソールのカルナク神殿の前に立てた一対のオベリスクのうちの一本であり、珍しいピンク色の花園岩でできている。4世紀にとあるローマ皇帝が、民衆を熱狂させようと何トンもあるこのオベリスクを運ばせたが、数年間ヒッポドロームの片隅に放置されたままであった。結局390年テオドシウス1世の治世に市の行政官プロクルスによって困難の末に立てられたが、長い間「魔力をもつ」記念碑だと信じられてきた。

オベリスクは、レリーフで飾られたローマ時代の基壇の上に、4個のブロンズの台で支えられている。基壇には、皇帝テオドシウス1世と家族らが皇帝席から試合を観戦する姿、民衆、音楽家、踊り子の動き、戦車競技の模様が描かれている。オベリスクの高さは、基壇も含めて25.6メートルである。



エジプトのオベリスク

石積みのオベリスク(コンスタンティヌス7世のオベリスク)

粗く削った石を積み重ねてつくられた、この模造のオベリスクは、ヒッポドロームの南側にある。皇帝コンスタンティノス7世・ポルフィロゲニートスによって944年に立てられたため、コンスタンティヌス7世のオベリスクとも呼ばれている。かつて四面を覆っていた青銅板は、第4回十字軍によって溶かされ、貨幣の鋳造に使われた。板の上には、コンスタンティノス7世の祖父の功業と戦勝が金文字で記されていた。

高さ32メートルの石柱の基壇の上の大理石の碑文には、「コンスタンティヌスが崩壊し始めていたこの記念碑を前より美しく作らせた」という一節がある。


蛇頭の柱

この高さ8メートルの蛇頭の柱は、紀元前5世紀にペルシア軍を破った31のギリシャ都市国家が青銅製の戦利品を溶かしてつくった記念碑である。かつてはデルフォイのアポロン神殿にあったが324年コンスタンティヌス大帝によって、ヒッポドロームの中央に立てられた。もとは互いに絡み合う3匹の蛇の頭が、金製の大釜の足となるような形をしていた。

1700年頃まで残っていた蛇の頭は、後に行方不明となったが、一部が発見されて現在イスタンブルの考古学博物館に収蔵されている。



ドイツの泉

ヒッポドロームの入口にある八角形のドーム付きの泉は、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世により寄贈されたもので、1901年除幕式が行われた。ネオ・ビザンツ様式のこの泉のドームの内側は、金のモザイクで飾られている。



トルコ・イスラム美術博物館観光

この博物館は、スルタン・アフメト広場(ヒッポドローム)の西側に位置する16世紀の建物、イブラヒム・パシャの邸宅内にある。この史跡は、スルタンの宮殿以外では、現存する最古の個人の邸宅である。

アーチの上のテラスを三方から囲む邸宅の中央は、中庭となっている。入口を通って中庭から階段を上った最初のセクションと、次のセクションの小部屋と回廊には、イスラーム諸王朝のもとでつくられた貴重な作品が展示されている。石や素焼粘土の製品、金属器、陶器、ガラス製品、写本は、各時代の最も芸術的価値のある作品例である。

次の絨毯のセクションは、世界最大のコレクションで、13世紀のセルジューク時代の絨毯をはじめ珍しい作品が、細心の注意を払って展示されている。有名な手織りトルコ絨毯の13-20世紀の最も華麗な作品例をここで見ることができる。またこのセクションの階下は、最近数世紀のトルコ人の日常生活、日用品を展示する民俗学セクションとなっている。



ブルー・モスク観光(スルタン・アフメト・モスク)

トルコにおいてもイスラム世界においても、最も有名な歴史的建造物の一つであるスルタン・アフメト・モスクは、イスタンブルにやって来た誰もが訪れ、心を打たれる場所である。イスタンブルの景色は海から眺めたときに一番美しく、その雄大な景色の中に位置を占めるのが、スルタン・アフメト・モスクのシルエットなのである。

ブルー・モスク
この史跡は一般に「ブルー・モスク」として知られているが、本来の名は「スルタン・アフメト・モスク」である。このスルタンのモスクは、オスマン朝古典建築の代表例であり、当初から6本のミナレット(尖塔)をもって建てられた唯一のモスクでもある。

1609年から1616年の間に建てられたこのモスクは、社会・文化活動のための建築群とともに広大な複合体を形成していた。これらの大部分は現存していないものの、屋根のある市場、給食施設、病院、学校、キャラヴァンサライそしてスルタン・アフメトⅠ世の墓廟からなっていたことが知られている。

モスクの建築家メフメト・アーは、オスマン朝建築史上最高の建築家ミーマール・スィナンの弟子であった。スルタン・アフメト・モスクはアヤ・ソフィアのすぐ向いに位置することによって、それと同じように壮大になるように設計されている。

上から下へ配されたドームの列は、モスクのシルエットにピラミッドのような外観をもたらしている。この美しい外観を補うのが、モスクの角に4本、中庭の外に2本立つ、合計6本のミナレットである。

モスクの正門はヒッポドロームの側にあり、外庭に囲まれた高い基壇の上に、中庭と主要な建物がある。中庭から眺めると、沐浴用の泉と周囲を取り巻くギャラリーごしに、互いに見事に調和しながら上に向かって重なり合うドームを見ることができる。

内部に通じる3つの入口のいずれから入っても、外観を補う彩色、タイル、ステンドグラスの色彩豊かな装飾に出くわすことであろう。建築家メフメト・アーは彼の本職にふさわしいやり方で、モスクの内部を、宝石職人のような細心の注意を払って装飾した。内部は一つの巨大なユニットをなし、主ドームと副ドームは、広く尖ったアーチを支える4本の太い石柱の上にそびえている。260枚の窓から入る光に照らされた内部を覆うドームは、高さ43メートル、直径23メートルである。ドームと正面の外観は、あらん限りの美しさでインテリアにとも反映している。

モスクの内部の三方を囲むギャラリーの壁は、2万枚を越える見事なイズニク・タイルで飾られている。タイルの上の壁面とドームの内側は、彩色が施されている。

主室は、どこからでも全体を見渡せることに成功している。繊細に細工された美しい大理石製のミンベル(説教壇)とミフラーブ(礼拝の方向を示す壁庭)の前の柱の上には、ミュエッズィン・マフフィリ(朗唱者用の檀)が位置を占めている。モスクの床は、他のモスクと同じように、寄進された絨毯で覆われている。内部の魅力的で安らぎを与える雰囲気は、信者の群衆が敬虔な礼拝を行うのにふさわしい。

スルタン・マフフィリ(スルタン用の席)は、正面外の二階建ての別棟と斜面でつながっている。この別棟はスルタンの休憩のために意用されたものであるが、現在ここは絨毯・キリム博物館として使用されている。モスクの東側に向い合いに並ぶ商店からなる市場(アラスタ)は、近年改修されて復活した。またアヤ・ソフィアに面した側には、単一のドームをもったスルタン・アフメトⅠ世の巨大な墓廟とメドレセ(イスラム学院)がある。

夏の宵にはここの公園で、光と音のショーが行われる。スルタン・アフメト・モスクは、周辺の記念碑的史跡や博物館とともに、市内ツアーの中心となっている。



絨毯・キリム博物館観光

トルコ共和国の宗教寄進財産庁は膨大な古い絨毯とキリム(けばのない絨毯)を所有しているが、展示されているのはコレクションのうちのほんの一部である。

絨毯・キリム博物館の絨毯部門は、スルタン・アフメト・モスクのスルタン川別棟の中にある。14-20世紀のトルコ絨毯の最高の例が、別棟の人口になっている斜面とスルタンの休憩室に展示されている。キリム部門はモスクの後ろの庭から入る大きなヴォールトのついた下のギャラリーで展示されている。

コレクションの絨毯とキリムの断片は、必要な手入れを受けて保存され、近代的な方法で展示されている。


絨毯・キリム博物館

モザイク博物館観光

スルタン・アフメト・モスクの裏にあるアラスタ市場は、古い宮殿の遺跡の上に位置を占める。この市場の下端で、4世紀と6世紀のものと推定される宮殿のモザイクが、もとあった場所から発見された。1930年代に発掘されたこれらのモザイクは、宮殿の大広間の床を飾っていたことが知られている。

モザイクはパネルの形で、様々な狩猟の場面や日常生活を描き、効果的な装飾要素をもつすぐれた芸術作品となっている。ねじれたアカンサス(ハアザミ)の葉に包まれたつぼみ、メドゥーサの頭部、そしてトラ狩りの場面は、際だって美しい作品である。ローマ時代の「アンティオキア・モザイク派」の芸術解釈と様式により作られたこれらのモザイクをもってして、美術史上きわめて写実的な絵画が登場したと言えるであろう。

かつての宮殿のモザイクがこの場所で発見されたおかげで、市内の他の場所で見つかったモザイク作品も、コンクリート・パネルの中に保存されて、ここに移して展示されることとなった。

長年にわたった市場の改修が完了した結果、モザイク博物館は近年再び公開されている。



アヤ・ソフィア博物館観光

アヤ・ソフィア博物館

アヤ・ソフィアは、世界の八大不思議の一つに数えられ、美術史上、建築史上、世界で最も重要な建築の一つである。この年代と規模で、現在まで良好に残りえた希有な史跡でもある。

本来は「ハギア・ソフィア」、現在は「アヤ・ソフィア」と呼ばれる建物は、ソフィアという名の聖女にではなく「聖なる叡知」に捧げられたのである。

アヤ・ソフィアは、かつて多神教の神殿があった場所に建てられており、現在の会堂は3代目である。木製の屋根の小規模な最初の会堂は、4世紀後半コンスタンティヌス大帝の息子コンスタンティウスによって建てられた。最初の会堂は404年の反乱中に焼失したが、2代目の会堂がより大きな規模で再建され、415年に式典をもって献堂された。

ヒッポドロームで行われた戦車競技の結果532年勃発した流血の反乱は、何万という市民が落命し、多くの建物が焼失する原因となった。「ニカの反乱」の名で知られるユスティニアヌス帝に対するこの反乱で、2代目のアヤ・ソフィアも破壊されたのである。

反乱を鎮圧した皇帝ユスティニアヌスは、532年元の会堂の遺構の上に、空前絶後の作品の建設に着手した。建築に携わったのは当時の著名な数学者トラッレス出身のアンテミオスとミレトス出身のイシドロスであった。皇帝は出費をいとわず、国庫を建設につぎ込んだ、様々な種類の大理石のほか、帝国のすみずみの古代遺跡から石柱がもたらされ、工事に用いられた。かくしてこのキリスト教世界最大の教会は、5年後の537年落成し、盛大な儀式をもって献堂された。

アヤ・ソフィアのドームは、以前ローマ人たちによって発展させられたスタイルにもとづいて建設された。しかし、大きな円形の建物をドームで覆うことはかつてあっても、アヤ・ソフィアのように大きな長方形の構造物を巨大な中央ドームで覆うのは、歴史上初めての試みであった。

その偉大さにもかかわらず、アヤ・ソフィアには多くの構造上の問題がある。最も重要なのは、ドームのけた外れの大きさと側面の壁にかかる圧力である。このように大きなドームの重さを基礎に伝えるのに必要な建築的諸要素は、まだ十分発達していなかった。このためオリジナルの平たいドームは558年に崩壊してしまった。現在の2代目のドームはより高く直径が小さいが、それでもなお半分近くが、10世紀と14世紀に二度にわたって崩壊した。

アヤ・ソフィアは、いつの時代にも莫大な国庫の出費によって維持され続けてきた。ビザンツ帝国の末期には国庫の困窮のために、教会は荒廃するに任された。この美しい作品を救ったのは、1453年オスマン朝によるコンスタンティノポリス征服とその後の教会のモスクヘの転換であった。オスマン朝建築の巨匠、ミーマール・スィナンが16世紀に外側のバットレス(控え壁)を築いた。

アヤ・ソフィアは916年間教会として、477年間モスクとして使われた後、アタテュルクの命令によって博物館となった。1930年から1935年の修復中、表面を覆っていた漆喰を取り除かれて姿を現したモザイクは、ビザンツ時代の最も重要な美術作品の一つである。

建物のオリジナルの中庭(アトリウム)は現存していない。入口に見られる石柱や他の遺物は、展示のためここに置かれている。

現在の入口は、何世紀もの間使われていなかった、西側の本来の入口である。入口の傍らには、2代目の会堂の遺構がある。洗礼を受けていない人々が入ることのできた外側の側廊から内側の側廊には5枚の扉が、内側の側廊から内陣へは、9枚の扉が通じている。中央の高い扉は、皇帝の入口であった。その上に見られるモザイクのパネルは、9世紀末のものである。パネルの中央では、玉座に座ったパントクラトール(万物の支配者)のキリストから皇帝レオン6世が取りなしを求めている。玉座の両側のメダリオンには、聖母マリアと大天使ガブリエルの像がある。内側の側廊の天井の幾何学的モザイクは、ユスティニアヌス帝時代のオリジナルである。

アヤ・ソフィア博物館
重厚で壮厳な内陣は、まさに圧巻である。足を踏み入れるやいなや、ドームに圧倒される。それはあたかも空中に釣り下げられて、建物全体を覆っているかのようである。壁や天井は、大理石やモザイクで覆われて色彩豊かである。ドームのモザイク装飾の三つの異なる色調は、3回の修復があったことを示している。ドームは高さと直径で、世界最大のものの一つである。度々の修復の結果、ドームは完全な円形をしていない。南北の直径は31.87メートル、東西の直径は30.87メートル、高さは55.60メートルである。顔を覆った4枚の羽をもつ天使像が、ドームを支える4つのペンデンティヴ(穹隅)に描かれている。

ギャラリーの上の北側の壁には、教会の指導者たちを描いた後代のモザイクが見られる。長方形の中央の内陣の両側には、列柱で隔てられた脇内陣が張り出している。中央の内陣は縦74.67メートル、横69.80メートルで、一階とギャラリーに併せて107本の円柱がある。大理石の柱頭の、光と影が効果的になるような深い彫りと、ヴォールトとよく調和する生き生きとしたアカンサスの葉は、当時のビザンツ芸術の特徴である。

後陣の副ドームには、聖母と幼児キリストを描くモザイクのパネルがある。両側の壁には天使像があったが、一方は完全に失われ、もう一方も一部分が失われている。

ドーム内側の碑銘と、ギャラリーと同じ高さの壁に掛けられた直径7.5メートルの革製の大円盤はアヤ・ソフィアがモスクだった往時をしのばせる。円盤にはアッラー、預言者ムハンマド、最初の4人のカリフ、預言者の二人の孫ハサンとフサイン名が書かれている。
ミフラーブ(メッカの方向を示す壁龕)、ミンバル(金曜礼拝に用いられる説教壇)、そしてミュエッズィン・マフフィリ(朗詠者のための壇)は、オスマン朝時代になってから置かれたものである。上質の大理石でつくられた二つの丸い巨大な容器が、内陣の入口に置かれている。古代に起源をもつこれらは、16世紀にベルガマからもたらされた。

建物の北隅に、下部にブロンズの帯を巻き、指を入れる穴のある「汗をかく柱」がある。
北側の第一のバットレスの中にある傾斜路は、二階のギャラリーに通じている。建物を三方から囲むギャラリーから眺めると、壮大な中央の内陣が全く異なって見える。南側ギャラリーは、後代につくられた扉のような大理石の仕切りによって二つに区切られている。内側の部分は教会の会議の際に用いられた。

ここにある第一のモザイク(13世紀後半)は、アヤ・ソフィアに限らず、モザイク美術における最高傑作である。これはキリスト教世界において最も多く描かれた題材、「最後の審判」の場面である。中央にキリスト、右に聖母、左に洗礼者ヨハネを描いている。パネルの下部のモザイクは剥落してしまったが、上部の人物像の表情と背景のモザイクは、十分な日光のもとで見ると、特に見事である。

パネルの向いの壁のたもとには、ヴェネツィア人総督エンリコ・ダンドロの墓が、市内唯一のラテン人占領の記念として残っている。

南側ギャラリーの突き当りの二つのパネルのうちの第一のパネルには、5人の人物像がある。中央に幼児キリストを膝の上に抱く聖母マリア、左に皇帝ヨアンネス・コムネノス2世、右に皇后イレーネ、パネルの脇の壁には病身で蒼白の皇子アレクシオスが描かれている。この12世紀のモザイクには、皇帝の一族による奉献が描かれている。ハンガリー出身の皇后の人種的特徴が、明るい色の髪と肌で表現されている。
第二のパネルは、一方の手で祝福をし、もう一方の手で聖書を持って玉座に座るキリストと皇后ゾーエと夫の皇帝コンスタンティノス・モノマコス9世を描いている。皇帝コンスタンティノスは彼女の3番目の夫である。このためモザイクの人物の頭部と上の碑銘は、二度にわたってつくり直された。キリストに捧げられた巻物と袋は、教会の独立と奉献の象徴である。北側ギャラリー端の柱には、10世紀の皇帝アレクサンドロスを描くモザイクがある。

内側の側廊から博物館を立ち去るとき見える大きなモザイクは、10世紀のものである。遠近法のゆがんだ人物像、すなわち中央に聖母子、両側にコンスタンティノポリスの城壁の模型を捧げるコンスタンティヌス大帝、アヤ・ソフィアの模型を捧げるユスティニアヌス帝が描かれている。出口にある一部地面に埋まった紀元前2世紀の巨大な扉は、おそらく多神教の神殿からもたらされてここで用いられた。

建物の出口の左には、大きなかつての洗礼堂がある。ここは、17世紀のスルタン、ムスタファ1世とイブラヒムの墓廟にされている。傍らの庭にあるセリム2世、ムラト3世、メフメト3世の墓廟は、四角形や多角形の本体にニ重のドームを載せた美しい作品である。

これらの装飾には、最高のイズニク・タイルが使用されている。博物館の現在の出口はこれらの墓廟の脇を通るようになっている。



考古学博物館観光(Arkeoloji Müzesi)

アブドゥルメジット2世の時代に画家で収集家であるオスマン・ハムディ・ベイが設立し、アナトリアや中東諸国、北アフリカ等かつての帝国領土であった地方からの出土品を中心に、現在、世界で最も見事な骨董品のコレクションを保有している。

考古学博物館

二階建ての一階は1~20番の部屋から成り、二階は彫像を中心に構成されている。一階の展示品の中で最も重要なものとして:ギリシアとペルシアの戦いと狩りの様子を彫刻したアレキサンダー大帝の石棺(B.C.4世紀)、悲哀に沈んだ女性達を彫ったモールナースの石棺(B.C.3世紀)、死者とその妻、猛獣と格闘するエロス達を彫ったスィダマラの石棺(コンヤよりB.C.3世紀)、シドンからの最古の石棺(B.C.5世紀)であるサトラップ(総督)の棺、背丈のある蓋が特徴のリキアの石棺(B.C.5世紀)、アッソスのアテナ神殿からのフリーズ、ハリカルナソスの霊廟からの雌ライオン(ボドルム、B.C.4世紀)、トラレスの若者像(B.C.1世紀)、ローマ皇帝の胸像の他、イスタンブールで発見されたビザンチン帝国時代の発掘物が挙げられる。
二階の展示物は装身具、硬貨等を中心に構成され、特に有史以前の金の宝石類は注目に値する。



オスマン帝国

トルコ民族の故地は、中央アジアであった。何世紀にもわたり、彼らは大集団で移住したり、アジアの様々な地域、さらには中央ヨーロッパにまでも軍事遠征を行ったりした。6世紀の半ばには、これらのトルコ系遊牧民は定住して国家を建設し始めた。

そのうち最も重要なのは、13世紀に小アジアに生まれた、指導者オスマンをいただく小さな君侯国であった。これが600年間にわたって続いた強大なオスマン帝国へと発展したのである。オスマン人たちは征服地では少数者であったが、効率的な組織と卓越した行政能力のおかげで、これらの土地をうまく統治した。彼らは臣民たち(ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒)に 人種、民族、宗教、文化に関わりなく、安全で平和な生活を保障した。

スレイマンⅠ世の治世(1520-1566年)は帝国の黄金時代であった。ほぼ200年にわたってオスマン帝国は、東はイラクから西はアルジェリア、南はイエメンから北はウクライナ、ハンガリーにいたるまでヨーロッパ、アジア、アフリカにまたがる国土を支配したのである。
19世紀の末にかけてオスマン帝国支配下の様々な民族が、外国も諸勢力に扇動されて反乱を始め、帝国の内部構造は弱体化した。
第一次世界大戦は、オスマン帝国と同盟国の崩壊をもたらした最後の一撃であった。

帝国の領土は戦勝国に分割されたが、ケマル・アタテュルクは独立戦争でトルコ民族を勝利に導き、1923年オスマン帝国の跡地にトルコ共和国を樹立したのである。



トプカプ宮殿博物館観光

長年にわたってオスマン帝国のスルタンたちが生活したトプカプ宮殿は、アタテュルクの命令により1924年以降博物館として、内外の見学者たちに開放されている。

トプカプ宮殿の築かれた敷地は、金角湾、ボスフォラス海峡、マルマラ海に臨んで景色の非常に美しい、ビザンティオン市が最初に建設された地として知られるアクロポリスの丘である。宮殿は、イスタンブルの旧市街の半島の突端で延長5キロの城壁に取り囲まれ、70万平方メートルの面積を占める複合建築群である。

コンスタンティノポリスの征服を1453年に実現した若きスルタン・メフメト2世は、帝国の首都をこの都市に移した。彼が最初に建設した宮殿は、市内の中心に位置していた。


トプカプ宮殿博物館

1470年代に彼が建設した二つ目の宮殿は、以前は「新宮殿」、近代になって「トプカプ宮殿」と呼ばれるようになった。トプカプ宮殿は、歴史上知られたトルコ系の他の宮殿と同じように、古典的なトルコ的宮殿である。木陰に覆われ、壮麗な門で互いに区切られた、異なる機能を持つ一連の中庭から成り立っている。様々な用途の建物が、これら中庭の周囲に配置された。宮殿は、創建当時に始まる歴代のスルタンの行った数々の改築と増築によって発展した。

トプカプ宮殿は、帝国の唯一の統治者スルタンの公式の住居であるほかに、高宮たちが集う政府の中枢として機能した。国庫、文書館、造幣局、帝国の将来の最高幹部要員たちの養成組織も宮殿の中にあった。すなわち宮殿は、心臓であり、頭脳であり、まさにオスマン帝国の中心であった。創建後だいぶ後になってスルタンの私的なハレム(後宮)も、この宮殿に移転した。

大宰相や宰相たちの多くは、宮殿の内廷出身者であった。スルタンの内廷で訓練、教育を終えた彼らは、忠実に奉仕するとともに、広大な帝国の行政や組織において手腕を発揮した。日の出とともに始まる宮殿の生活は、一挙一動にいたるまで、儀式と厳格な儀礼の規則によって支配されていた。帝国の衰退期においてさえ、誰しもが何世紀も続いた古い慣習や伝統にのっとって行動するように求められていた。ここで適用されていた儀礼は、西欧諸国の儀礼にも影響を与えたと言われる。

スルタンが1853年新しいドルマバフチェ宮殿に移転したことで、トプカプ宮殿は公式の宮殿ではなくなり、急速に荒廃し始めた。共和国期の修復が、トプカプ宮殿にかつての簡素な美しさを取り戻した。

トプカプ宮殿における多種多様なタイル、木工、建築の諸様式は、オスマン朝美術の発展の諸段階と、多様な様式の調和のとれた共存を、最も美しい形で示している。宮殿に展示されている作品は、世界でも他に例を見ない傑作ぞろいである。

 
第一の中庭

第一の中庭へは「バーブ・ヒュマーユーン(帝王の門)」の名で知られる正門を通って入る。門の前にある華麗なアフメト3世の泉は、18世紀オスマン朝美術の最も美しい例の一つである。第一の中庭には、宮廷のパン製造所、造幣局、宮廷警護の詰所、薪の倉庫が、下の平地には帝室菜園があった。宮殿の最初の建物であるチニリ・キョシュク(タイル張りの亭)も、この中庭にある。入口に続いて左手には、6世紀に教会として建てられたアヤ・イリニ博物館がある。


トプカプ宮殿博物館
第二の中庭

トプカプ宮殿博物館の入場口は、「バービュッセラーム(挨拶の門)」の名で知られる二番目の中門である。ここから入る第二の中庭は、国家の行政を担った空間である。スルタンだけが騎乗のまま入ることができたこの中庭には、公用のある臣民と、給料日に俸給を受け取るイェニチェリ軍団の代表だけが入ることを許された。外国使節の受け入れや国家の行事もここで行われた。5千人から1万人が参加することもあった儀式において、完璧な静粛が保たれていたことが知られている。スルタン自身が儀式に参加するときは、玉座がこの中庭の奥にある門の前に据えられ、居合わせた者は全て、敬意を表すために手を前に組んだまま起立した。


トプカプ宮殿博物館
武器セクション

中庭左側にある8つのドームをもつ大きな建物は、かつて国庫として使われ、現在は武器コレクションが収められている。

長い間閉鎖されていたこの部分は、近代的な展示方式によって、再び見学者に公開された。スルタンの武器や兵器のほか、宮廷関係者やオスマン軍が様々な時代に使用した武器も展示されている。豊かなコレクションとなっている武器セクションには、戦利品として得られた他国の武器の例も見られる。

隣の広い軒をもつ建物は、御前会議の開かれたクッベ・アルトゥ(ドーム下の間)である。「正義の塔」と呼ばれる、宮殿で唯一の塔もここにあり、この塔から全イスタンブルと港を見渡すことができる。塔の入り口はハレムの部分にある。


トプカプ宮殿博物館
厨房と東洋陶磁セクション

第二の中庭の右手には、すぐ目に留まる20本の煙突がある宮殿の厨房がある。第二の中庭からは、厨房のセクションに向かって3つの門が開いている。厨房のある建物は、石で舗装された長い通路の両側に位置している。往時は千人を越す料理人と助手が、宮殿の様々な部署に割り当てられた食事を調理し、配達していた。

1万2000点を越す中国と日本の陶磁のうち、このセクションで展示されているのは、約2500点である。世界でも有数のトプカプ宮殿の陶磁コレクションのうち、選りすぐられた作品が年代順に展示されている。入口右手の最初のホールには、中国青磁の名品が展示されている。染付、単色釉、色絵の中国陶磁の後には、日本陶磁のセクションが続く。

厨房のヘルヴァハーネ(菓子製造所)は、オリジナルの状態のまま保存され、宮殿の人々によって日常生活で用いられた壷、鍋、盆、鉢、水差し、コーヒー豆挽きのような品々が展示されている。隣のセクションでは、イスタンブルで製造された磁器やガラス器が展示されている。厨房の向いに1985年公開された銀器とヨーロッパ磁器とクリスタルのセクションは、美しく興味深い作品からなっている。

 
トプカプ宮殿旅行・観光の案内ビデオ

詳しくは右側のトプカプ宮殿旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → →
 
2分26秒  (日本語字幕版)

ハレム

トプカプ宮殿の創建当時から16世紀まで、ハレムは市内の中心にあった旧宮殿にあった。ハレムは、高い壁に取り巻かれた細長い廊下と小さな中庭の周りに配置されたおよそ400の部屋からなっており、様々な時代の増築により、拡大した。スルタンの母后、弟たち、姉妹たちその他の家族は、ハレムのそれぞれ専用の区画に暮らしていた。この大きな家族のために、大勢の女奴隷や宦官たちがここで奉仕していた。

外部の者が滅多に訪れることのないハレムは、家庭内のプライヴェートな部分のようなものであった。外部から完全に遮断されたこのハレムについて、何世紀もの間、多くの物語がつくられた。

スルタンとその家族に仕える女奴隷たちは、様々な人種の最も美しく、健康な少女たちの中から選ばれ、購入されたり、贈物としてハレムにささげられた。これらの幼い少女たちは、何年もかけてハレムの厳格な掟に従い教育された。宮殿のしきたりを学んだ後で、一定のグループに分けられたこれら女奴隷たちの中には、スルタンの目にかない、妻になる者さえあった。オスマン朝において「皇后」の称号は早くに用いられなくなり、スルタンの母后(ヴァーリデ・スルタン)がハレムを支配していた。富と豪奢の傍らで、噂話、陰謀、スルタンに近づくための競争が日常生活の一部となっていた。

新しいスルタンが即位すると、先代のスルタンのハレムの成員は、旧宮殿に移転させられた。スルタンが幼少や病弱であった場合には、ハレムの女性たちや黒人宦宮長たちが国政に影響を与え、陰謀をめぐらせた。

現在ハレムの一部分だけが、見学者に公開されている。活気あふれる華やかな昔の日々とは全く対照的に、薄暗い廊下とからっぽの部屋は、見学者たちの想像力の中だけでよみがえる。

ハレムの部屋や天井、廊下は、あらゆる機会に豊かな装飾で飾られた。様々な時代の壁のタイルを、ここでは一堂に見ることが可能である。
ハレムの見学は、黒人宦宮たちの区画から始まり、広間と40の部屋からなるスルタンの母后の区画へと続く。大きなトルコ式の浴室とスルタン専用のドーム付きの広間もここにある。重要な部屋にはすべて、典型的な暖炉と泉が備わっている。

ハレムのもう一つの重要な部分は、華麗な16世紀のタイルと壁にはめ込まれた泉で有名な大広間(ムラト3世の間)である。ここから入る小さな図書室の装飾と、「果実の間(イェミシュ・オダス)」の果物と花を描いた壁画もたいへん興味深いものである。

ハレム見学の最後に訪れる16世紀の2つの部屋は、壁の豊かな装飾とあいまって美しいステンドグラスが見られる。この区画は皇子たちの教育にあてられ、「チフテ・キョシュク」と呼ばれている。


ハレム
第三の中庭

第三の中庭へは「バービュッサアーデ(至福の門)」と呼ばれる門から入る。白人宦官たちに警護されたこの門を通ることができたのは、特別の許可を得た者だけであった。第三の中庭には、スルタンの私生活にあてられた内廷があった。小姓たちの宿舎、謁見の間、スルタンの財宝庫、聖遺物の区画がこの部分にある。スルタンは、入口正面の謁見の間で外国の大使を迎え、政府の高官たちともそこで接見した。謁見の間に仕える者は、安全上の理由から聾唖者から選ばれた。スルタンに様々な奉仕をした小姓たちは、内廷で教育を受けた者たちであった。

中庭中央には、スルタン・アフメト3世の図書館がある。この18世紀の建物は、オスマン朝古典建築とバロック建築の融合した様式を示している。


バービュッサアーデ(至福の門)
スルタンの衣装セクション

第三の中庭の右側のセクションで展示されているスルタンの衣装のコレクションは、世界でも類を見ないものである。これらの美しい衣装は、宮殿の特別の工房で織られた布から縫製された。カフタンをはじめこれら様々な衣装が、15世紀以来細心の注意を払って保管され今日まで伝わったのは、トルコ人の古い伝統に由来している。スルタンや名のある政府高官たちの衣装は、布にくるまれ墓に入れられたのである。

絹や金糸、銀糸で刺繍された衣装のほかにも、オスマン朝織物工芸の傑作である絹製の絨毯が展示されている。これらは、スルタンたちが用いた礼拝用絨毯である。


財宝庫

トプカプ宮殿博物館の財宝庫セクションは、世界で最も豊かな第一級のコレクションである。四つの部屋で展示されている作品のどれもが真正のオリジナルである。各世紀のオスマン朝宝飾工芸の傑作が、極東、インド、ヨーロッパからもたらされた作品とともに見る者を魅了する。各部屋には、様々な時代に用いられた玉座が一つずつある。金や宝石で飾られた、儀式用のベルト、武器、水煙管、トルコ・コーヒー用カップやその他の容器が、第一の部屋の重要な展示品である。金メッキした銀製の中国の宮殿の模型は、実に繊細な細工である。「天蓋の下で水煙管をふかす男の像」は、第一の部屋の有名な作品である。

宝石をちりばめ、人形の胴体をバロック・パールでつくった、このユニークな作品は、金細工と七宝の優れた技術水準を示している。これは19世紀にインドからスルタン・アブデュルアズィズに献上されたものである。

第二の部屋はエメラルドの部屋として知られている。エメラルドや他の宝石を散りばめたターバン飾り、釣飾り、ペンダントで目が眩むばかりである。2、3キロもあるエメラルドの原石と、宮殿のシンボル、4個の大粒のエメラルドをはめ込んだトプカプの短剣も展示されている。これはスルタン・マフムート1世がイランの君主ナーディル・シャーに用意した贈物の一つであった。18世紀のオスマン朝宝飾工芸の優品である短剣のさやは、七宝で覆われ、ローズカットのダイヤモンドで縁どられている。短剣のつかの上のエメラルドは、内蔵された時計の蓋になっている。

第三の部屋には、七宝細工、各国からスルタンに贈られた勲章やメダル、各々49キロもある一対の純金製燭台、即位や宗数的祭日で用いられた金の王座が展示されている。世界最大のダイヤモンドの一つ「スプーン屋のダイヤモンド(カシュクチュ・エルマス)」もこの部屋の特別のケースの中で輝きを放っている。伝説によれば、木製のスプーンと引き換えにそれを買ったスプーン屋から名をとったと言われる。86カラットのローズカットのダイヤモンドのまわりを、49個の小粒のダイヤモンドが取り囲んでいる。

トプカプ宮殿博物館
第三の部屋を第四の部屋と結ぶテラスから、ボスフォラス海峡とアジア側の見事な景色を見ることができる。
第四の部屋では、インド・イラン起源の壮麗な玉座が展示されている。「洗礼者ヨハネ」のものと伝えられる聖遺物も、このホールの最初のケースの中に見られる。宝石で釣られたチェス・セット、薬入れ、箱、武器は、最も美しい作品である。

 
聖遺物の区画(聖外套の間)

オスマン朝が16世紀初頭にエジプトを征服した際に、そこにいたアッバース家最後のカリフから譲られたイスラム世界の聖遺物は、トプカプ宮殿にもたらされてここで保管されている。第三の中庭の隅にあるこの重要な区画は、聖遺物が保管されるようになる以前は謁見の間であったと推測されている。

壁をタイルで覆われ、ドームをいただく部屋の奥には、預言者ムハンマドの剣、弓、金の櫃に保管されている「聖外套」がある。たった一つの窓からしか見えないこの神聖な部屋の巨大な天蓋は、銀で作られている。別の部屋では、ケースの中に預言者ゆかりの品々(印章、髭、手紙、足跡)が展示されている。

コーランの最初の写本のうちの一冊、メッカにあるカーバ神殿の各時代の鍵、カリフや教友たちの剣も、ここに展示されている。

第四の中庭

宮殿の第三の中庭から通路を通り、多くの亭が建つ第四の中庭に至る。ここには美しい装飾タイルを張ったバグダード・キョシュク、レヴァン・キョシュク、割礼の間(17世紀)、宮殿に最後に建設されたメジディイェ・キョシュクがある。バグダード・キョシュク前のテラスは、金角湾、ガラタ地区、旧市街のドームとミナレットからなる類のない景色を一望するのに格好の場所である。テラスの端には、青銅の上に金メッキした天蓋がある。



チェンベルリタシュ(コンスタンティヌスの円柱)

市内の第二の丘にあった楕円形の広場の中心に330年にローマ帝国の新首都としてコンスタンティノポリスを建設したコンスタンティヌス大帝を顕彰するために建てられた記念碑である。

当初は現在よりもっと高く、頂上には、金箔に覆われ太陽神アポロンの姿をしたコンスタンティヌス大帝の像が立っていた。
チェンベルリタシュは、「輪のある石柱」を意味し、また「ヤヌク・ストゥン(燃えた円柱)」の名でも知られている。時代とともにひび割れ、火災にあった花肖岩の本体のブロックは、補強のために鉄の輪が巻き付けられている。

上部の白大理石の柱頭は12世紀に置かれ、下部に見られる石積みの補強は18世紀になって築かれたものである。初期キリスト教時代にさかのぼる聖遺物が、円柱の下の小部屋に保存されていると信じられている。

円柱の脇を通る大通りのコースは、コンスタンティヌス大帝の時代から変化していない。
「フォールム・コンスタンティ二ー(コンスタンティヌスの広場)」の名で知られた楕円形の広場は、二列の円柱の並ぶ柱廊で取り巻かれていた。


バイェズィト広場観光(フォールム・タウリー)

393年テオドシウス帝の治世に、市内最大の広場として建設された。広場の中央には巨大な凱旋門が建っていて、そこにあった牛の頭のブロンズ像から、牛の広場(フォールム・タウリー)と呼ばれていた。凱旋門には皇帝のブロンズ像もあった。

今日では、わずかに記念碑の大理石の断片がいくつか残るばかりで、ウァレンス水道橋から水を引いていた、広場の北の市内最大の泉は跡形も残っていない。

スルタン・メフメト2世がここに建てた旧宮殿のあった敷地には、イスタンブル大学の本部の建物が、広大な庭の中に建っている。大学正門と、庭に立つ市内最高の塔、「バイェズィト火見塔」は、19世紀に建てられたものである。バイェズィト・モスクと複合建築(学院と公衆浴場)は、広場周辺の主要な史跡である。


グランド・バザール観光(カパル・チャルシュ)

世界最大の屋根つきの市場が、イスタンブル市内の中心にある。およそ60の通りと4000軒以上の店舗からなる巨大な迷宮のような「カパル・チャルシュ」は、イスタンブルの必見の観光名所の一つである。

グランド・バザールの起源は、1461年にメフメト2世が建てたベデステン.(貴重品を扱う耐火構造の建物)である。今日もバザールの中核をなすイチ・ベデステンは、正方形をしていて、壁の内側も外側も商店で取り囲まれている。メフメト2世は後になってこの少し先に、二つ目のベデステン(サンダル・べデステン)を建てさせた。サンダル・ベデステンには外側にしか店がない。メフメト2世の時代のバザールには950軒の店舗があった。

グランド・バザール
まるで一つの都市を思わせる、完全に屋根で覆われたこのバザールは、時とともに発展し、拡大していった。かつてここでは、各通りごとに同業の店が立ち並び、手工業製品の品質は厳しい管理のもとに置かれ、商業倫理と伝統がたいへん尊重されていた。

あらゆる種類の高価な布、宝石、武器、骨董品が、代々同じ商売に携わってきた商人たちによって完全な保証付きで売られていた。
スルタン・メフメト2世によって建てられた後にスレイマンⅠ世の時代に拡大したバザールは、ほとんどが木造であった。1700年に大火に見まわれた後、翌年石とレンガを使って大規模に再建されたのである。バザールは、前世紀末の地震と幾度かの火災にも生き残り、今日見られる形になった。今日では、多くの通りは性格を変えてしまい、「キルト屋」、「スリッパ屋」、「トルコ帽屋」のような同職集団は、通りの名前にだけ残っている。

バザールのメインストリートには、主に宝石屋が、脇の通りには金細工屋が軒を並べている。これら小さな商店では価格はまちまちで、値切り交渉を前提に商売をしている。

バザールは一日のどの時間帯でも活気あり、混雑している。買物客の気を引くために店の売子たちは最大限に呼び込みの努力をする。


トルコ手織り絨毯

手で結び目をつくって織る絨毯は、昔からトルコ民族特有の手工芸として発展した。世界最初で最も豊かな二つの絨毯博物館はイスタンブールにある。今日、伝統的な絨毯生産は、トルコ各地で行われている。各地の純毛、ウールと綿の混毛、あるいは絹糸で織られる絨毯は、豊かで多様な製品を生み出している。

熟練、伝統、高品質の原材料、特殊な技術、忍耐、そして数カ月も統く労働が、トルコ手織り絨毯の誇りである。村の家々の織り機のほか、いくつかのセンターでの手織り絨毯生産は、国家も援助する一大産業となっている。

手織りの絹絨毯の生産の最も有名な中心は、イスタンブールに近いヘレケである。ヘレケ、コンヤ、カイセリの絨毯は、世界市場でたいへん需要の多い製品である。



スレイマニイェ・モスク観光

スレイマニイェ・モスク

スレイマニイエ・モスクは、建築上の一大傑作である。スレイマンⅠ世は、16世紀のオスマン朝の黄金時代を築き、47年という最も長い期間在位したスルタンであった。この偉大なスルタンは、自分自身の名を冠したモスクの建設を、天才建築家ミーマール・スィナンに委ねた。彼はモスクとそれを取り巻く巨大な複合建築群の建設を、1550年から1557年にかけて完成させた。オスマン朝建築の古典期を築き上げたミーマール・スィナンは、自身の天才をここで遺憾なく発揮したのである。

モスクの中庭の周囲を取り巻く巨大な複合建築群には、イスラーム学院、図書館、公衆浴場、給食施設、キャラヴァンサライ、病院、店舗があった。

モスクの外観は、遠くから見るとより素晴らしい。ガラタ塔と、金角湾沿いのガラタ地区は、このスルタンのモスクの壮大な景色を眺める格好の場所である。4本のミナレットをもつモスクの主室を、巨大なドームが覆っているのが見える。

モスクの入口は、周囲を柱廊に囲まれ中央に沐浴用の泉のある中庭に面している。内装の広がりと統一感、適度の装飾が、内部の荘厳な効果を強めている。高さ53メートル、直径26.5メートルの主ドームは、「象の脚」と呼ばれる4本の太い積柱の上に載っている。

内部の建築的諸要素全てが完全に調和し合い、構造のバランスは完璧である。イスタンブルを何度も揺るがした地震でも、建物は一度も崩れたことがない。床を覆うミフラーブをデザインした一枚織りの手織り絨毯は、1960年代になって敷き詰められたものである。

内部で最も目を引く場所は、ミフラーブの壁にある、トルコ的モチーフで装飾された色彩豊かな16世紀のオリジナルのステンドグラスである。きわめて簡素なミュエッズィン・マフフィリが、ミンバルの脇にある。やはり大理石でつくられたミフラーブの壁龕の周囲は、タイルで装飾されている。ヒュンキャル・マフフィリはミフラーブの左にある。

内部の壁は、コーランの章句からとった碑銘で飾られている。これらはオスマン朝書道芸術のもっとも美しい例である。入口の壁と横の壁に沿って、女性用のバルコニーがある。

内部南側の図書室に見られる真鍮の格子は、18世紀オスマン朝金属工芸の美しい例である。
モスクの裏庭には、スルタン・スレイマンと寵妃ヒュッレム・スルタン(ロクセラーナ)の大きな墓廟が並んで建つ。周囲には、様々な時代の名士たちの墓もある。

スレイマニイェ・モスク
スレイマニイェの複合建築群の片隅には、小さなつつましい墓がある。これは、99年の生涯のうちの50年を、オスマン朝の建築長官として名声と栄光のうちに生きた巨匠ミーマ-ル・スィナンの簡素な墓である。

ミーマール・スィナンは生涯で400点を越す作品を完成させた天才的で多作な建築家であった。自ら創始者たるオスマン朝古典建築様式を代表し、彼の育てた弟子たちは、オスマン朝の全土にわたり多くの作品に足跡を残したのである。


金角湾観光(ハリチ)



金角湾は、ボスフォラス海峡に面した長さ約8キロの狭い入り江で、市のヨーロッパ側を、旧市街と対岸のガラタ地区に分けている。入り江の奥には二つの沢が注いでいる。

天然の良港、金角湾は、イスタンブルの歴史的発展に大きな役割を果たした。この入り江には潮の満ち干きも流れもなく、都市の成立以来きわめて安全な港として使われている。かつて周囲を取り巻いていた肥沃な土地、魚の種類の豊富さ、注ぎ込む二つの沢、そして形のおかげで、ここには豊穣を意味する「金の角」の名がふさわしいと考えられた。

ビザンツ時代に金角湾は、入口に張られた鎖によって敵の艦隊の侵入を防いでいた。
今日、金角湾には4本の橋がある。湾の入口の最初の橋は、ガラタ橋である。1836年最初木造の橋としてつくられたガラタ橋は、3度にわたって架けかえられ、今日使われている近代的な橋は1990年に開通した。

ガラタ橋の付近は今日でも、海上交通の激しい場所である。市の両岸と島々の間で運行しているフェリー、大きな客船が、ここの船着場を使っている。

ガラタ橋とその付近は、市内で最も賑やかでカラフルな地区である。自動車と歩行者で一日中交通の激しい橋の上から眺めるイスタンブルの旧市街の雄大な景色は、いくら見ても飽きることがない。

1960年代に造船所、工場その他多くの建物が、水質汚染と景観破壊をもたらした。しかし1983年以降、汚染は管理され、この区域は再生し始めた。海岸沿いの4000軒以上の家、店舗、工場が壊され、公園に変えられた。

金角湾の第二の橋、アタテュルク橋を過ぎると、ところどころに城壁の跡と古い町並みの残るフェネル地区に、東方正教会の総主教座がある。

さらに進むと旧市街の海岸に、聖ステファノス教会が見える。ウィーンで鋳造と鋼鉄部品の製造が行われ、ここで組み立てられたこの興味深い建物は、ブルガリア正教会のものである。

対岸のカスムパシャ地区には、今日海軍司令部が置かれている19世紀の大きな建物がある。この地区の造船所もまた、金角湾の外に移転しつつある。スルタンの離宮、アイナルカヴァク・カスルもこの場所にある。


金角湾観光(ハリチ)

トルコ・イスタンブール


エユプ・スルタン・モスク観光

金角湾沿いの城壁と内陸側の城壁が出会う場所の北、旧市街の外に、エユプ・スルタン・モスク、墓廟、複合建築群がある。エユプ地区は、金角湾に架かる第4の橋の陸地側、狭くなり始めた湾の沿岸にある。

イスラム教徒にとって神聖な場所であるここは、墓とモスクの空間である。預言者ムハンマドの旗手であったアイユーブ・アル・アンサーリー(トルコ語でエユプ・スルタン)は、7世紀のアラブ軍によるコンスタンティノポリス包囲中に殉教した。オスマン朝のコンスタンティノポリス包囲中に発見された彼の墓は、大きな廟で囲われ、隣にイスタンブル最初のモスクが建てられた。

スルタン・メフメト2世によって建てられたこのモスクは、18世紀の地震で崩壊し、新たなモスクに建て替えられた。 1800年完成した新しいモスクは、当時流行のバロック様式でつくられ、正方形のプランをもち、主ドームを8つの副ドームが取り囲んでいる。モスクの中庭に面している墓廟の外壁は、様々な時代のタイルで装飾されている。

時がたつにつれモスクの周囲には墓や廟がつくられて、広大な墓地を形成した。イスラムの神聖な日と、毎週金曜日には、エユプ廟は、大勢の敬虔な信者によって参詣される。

モスクと墓廟の周辺には、何世紀も経た木々、空に舞う鳩の群れ、祈願する信者たちで、活気あり、神秘的な雰囲気がある。
歴代のスルタンたちは、即位帯剣の儀式を、エユプ・スルタンに参詣して締めくくった。

エユプがビザンツ時代においても重要な村であり、神聖な人物の墓のあることが知られていて日照りの時に雨乞いの儀式がここで行われたことを記録する文献もある。

金角湾観光(ハリチ)
エユプ地区の裏の丘の斜面は墓地で覆われている。最初の丘には、「ピエール・ロティのカフェ」がある。イスタンブルを愛した詩人、作家ピエール・ロティは、ここから金角湾の眺めを何度も観賞し、美しい日の出と満月から霊感を得た。ピエール・ロティのカフェと前のテラスからの満月の晩の金角湾の眺めは、忘れ難い印象を残すにちがいない。



カーリイェ博物館観光(コーラ修道院)

「コーラ」の名の原義は「町の外、郊外の地」である。おそらく5世紀のローマ城壁建設以前にあった小さな教会につけられた名が、後に同じ場所に建てられた教会の名前にもなったのである。

コーラ修道院とその教会は、皇帝の宮殿が近くに移ったため次第に重要性を増した。今日の建物は、11-14世紀にさかのぼる。当時の名高い学者で国家の要人でもあったテオドロス・メトヒテスは、1320年に脇礼拝堂と外前廊とモザイクとフレスコを完成させた。建物の魅力的な外観に加えて、内部のモザイクとフレスコは、ビザンツ美術の「ルネサンス」に数えうる傑作である。名工たちは、14世紀の困難な状況のもとで、細心の注意を払ってかくも豊かに建物を装飾したのである。16世紀の初めに教会がモスクに転用されたのち漆喰で覆われモザイクとフレスコは、1948年以降、アメリカ・ビザンツ研究所によって修復された。

カーリイェ博物館
入口の二つの前廊に見られるモザイクのパネルは、聖母マリアとイエスの生涯を新約聖書にある通り年代順に描いている。
脇の礼拝堂には、宗教的テーマをフレスコで描いてある。教会や宮廷の要人の肖像がそれに混じる。ビザンツ絵画においては、描かれた人物の名前か頭文字が人物像の脇に記されている。

職人の集団作業によってつくられたモザイクのパネルのうち、身廊上部のモザイクは今日残されていない。
画廊のようなカーリイェ博物館の周辺は、近年この史跡の名声にふさわしく整備され、古い家々は修復後カフェやペンションなどに改装された。


城壁観光

イスタンブールの旧市街は、三角形の半島の上に広がり、三方から城壁で取り囲まれていた。今日見られる城壁は、主にローマ時代のもので、かつては総延長22キロに及んだ。

ビザンティオンの建設以後、都市は四度にわたり拡張し、その度に城壁はより西側に築かれていった。ビュザンティオンのアクロポリスを取り巻いて築かれた第一の城壁、皇帝セプティミウス・セウェリウスによって3世紀初頭に築かれた第二の城壁、コンスタンティヌス大帝によって320年に築かれた第三の城壁の跡は、ほとんど何も残っていない。

金角湾とマルマラ海の海岸も、強固な城壁に取り囲まれていたが、城壁のうち最も重要なのは、西にある内陸側の大城壁である。地理的な立地条件が旧市街の半島を容易に防衛することを可能にしたものの、バルカン半島から延びる起伏の少なく通行の容易な土地は、大城壁にまで達している。マルマラ海から金角湾に延びる長さ6492メートルの並外れて堅固なこの城壁は、3回にわたって建設されたが、大部分は5世紀のテオドシウス2世によるものである。ビザンツ時代後期、オスマン朝時代の城壁の改修の際の多くの碑文がある。

大城壁には10個の門があり、これらは都市の外とは木造の橋によってつながっていた。
門のうち最も壮麗なのは、マルマラ海に近い黄金門である。外に突き出た二本の大理石の塔の間に、戦勝碑のように据えられた黄金門は、凱旋した軍隊と皇帝が使った特別の入口であった。この門は、大城壁が築かれる以前にその当時の城壁の外に単独に建設された凱旋門であったと記している文献もある。

近年、城壁の周りの土地は清掃され、公園がたくさん作られた。地震や歳月により崩壊した部分の壁は、修復を受けた。


イェディクレ観光

イェディクレはトルコ語で「7つの塔」を意味する。コンスタンティノポリス征服直後メフメト2世は、城壁の黄金門の両脇の4つの塔に、新たに3つの塔を加えて間に壁を築き、7つの塔をもつ城塞とした。これによって、オスマン朝の都市計画の中に内城の概念が生み出されたのである。

イェディクレは、当初財宝の保管のために使用された。後に長い間、監獄として使用され、多くの大使たちがここに投獄された。17世紀前半には、スルタン・オスマン2世がここで絞首刑にされた。

イェディクレの中庭には、今日モスクの遺構が残るだけである。現在ここは黄金門と塔が見学できる博物館となっている。


イェディクレ

ガラタとガラタ塔観光

ガラタは、ビザンツ時代にまずヴェネツィア人が、14世紀以降は主にジェノヴア人が定住した、金角湾の入口と港に臨む地区である。ラテン人商人たちが自治を行ったガラタ地区は、14-15世紀には城壁と高い物見塔を備えていた。現在でもガラタ地区の多くの通りは、80-90年前に建てられた家々で取り巻かれていて、当時の地中海都市を想い起こさせる。

かなり前からガラタ地区の住民は様変わり、アナトリアからイスタンブルに流入した人々が定着する区域の一つとなったが、この地区にある数多くの古いキリスト教会やユダヤ教のシナゴーグは、今なお礼拝のために開かれている。教会を転用したアラブ・モスクも、この地区の重要な宗数的建築の一つである。ドイツ系、フランス系、オーストリア系、ギリシア系の学校も今なお活動を続けている。

ガラタ塔は、ガラタ地区の丘の上に、城壁の主要な塔として、14世紀に建てられた。港とボスフォラス海峡の入口を見おろす場所にそびえる塔からは、旧市街の雄大な眺めが眼下に広がる。塔の上部はオスマン朝期の追加であり、長年の間火の見櫓として使われた。

円錐形の屋根は1969年に完了した改修により、19世紀前半の外観を取り戻した。最上階とその下の階にはレストランとナイトクラブがあり、塔の周りにはパノラマ展望台がある。


テュネル(地下鉄)とベイオール観光

金角湾の海岸から丘の上のベイオール地区に達するテュネル(地下鉄)の下側の入口は、カラキョイ広場にある。1874年に開通したヨーロッパ最初の3本の地下鉄の一つテュネルは、現在世界最短の地下鉄でもある。

テュネルの上の端近くには、今日ディーヴァーン(古典詩)文学博物館となっているガラタ・メヴレヴィーハーネスィ(メヴレヴィー教団の修行所)がある。ここの楽器コレクションはたいへん興味深い。

テュネルの上側の入口から始まるベイオール地区を、タクスィム広場までイスティクラール通りが貫いている。この地区は16世紀以来、大使館が建てられ、非イスラーム教徒が居住する区域として発展した。

イスティクラール通りは都市のメイン・ストリートで、高級な商店、華やかなナイトラィフ、劇場と映画館のある、活気ある娯楽と文化の中心である。懐古趣味的な路面電車を除いて、車両の通行が禁止されている。

通りに沿って、ボスフォラス海峡を見おろす景色のよい斜面に並んだカトリック教会は現在も活動を続けている。通りの中程には、小さなガラタサライ広場と同名の有名なリセがある。向いの「チチェク・パサジュ」の名で知られる建物は、小さなレストランとビアホールが軒を連ねる。その脇の通りは、色とりどりの豊富な野菜、果物、魚を売る店が立ち並ぶイスタンブルの有名な魚市場である。

タクスィム

タクスィム観光

タクスィム広場は、中央のアタテュルク像、北側のアタテュルク文化センター、周辺の五つ星のホテルにより、モダンなイスタンブルの中心地となっている。

広場からシシリ地区に続くジュムフリイェト通りには、旅行代理店と航空会社が並ぶ。ラジオ局、将校クラブ、軍事博物館を過ぎると、ブティックや靴屋のような商店のある、活気ある高級ショッピング・センターがある。


軍事博物館観光

ハルビイェにある世界第二の大きさの軍事博物館は、新しく改装されて1993年2月10日一般に公開された。1万9000平方メートルの敷地に、5万点の収蔵品のうちわずかに9000点が22の展示室に展示されている。作品は、弓矢、馬具、オスマン朝のスルタン、利器(初期イスラム時代、イラン、トルコ、ヨーロッパの剣)、防具(よろいかぶと、盾)、火器、立憲政期、第一次大戦期、独立戦争期、共和国期、民具、天幕、軍旗、軍服等の各セクションに分かれる。展示品中最も重要なのは、コソヴォの戦いで用いられた軍旗、スルタン・オルハンのかぶと、17世紀のスルタンの天幕、ビザンツ人たちが金角湾に張った鎖、メフメト2世とセリム1世の剣である。


軍楽隊観光

オスマン朝の軍楽隊は、「メフテル」の名で知られている。何百名もの要員を擁したこの軍楽隊は、遠征に向かう軍隊の先頭で、独特の歩き方で行進した。戦闘や包囲のさなかでも、軍を鼓舞する独特な曲を演奏した。今でも軍事博物館や、特別な日の式典、コンサートでは、本物の世界最古の軍楽が、昔の楽器で演奏される。



ボスフォラス海峡観光

世界で最も美しい景色のーつ、ボスフォラス海峡は、二つの大陸と二つの海の間を曲がりくねって流れる海峡である。アジアとヨーロッパの境界の一部をなし、黒海の唯一の出入口として、ダーダネルス海峡とともにエーゲ海とつながっている。

旧市街が最も美しく眺められるマルマラ海側の海峡の入口に来ると、湾に入ったかのような錯覚を受ける。黒海まで、約30キロの海峡は、あたかも一続きの湖のように見える。

ここが海峡であることは、飛行機から見て初めてわかるのである。
海峡の中央部分にあたる最も狭い所は、幅約800メートルである。深さは平均50メート最も深い場所で112メートルである。氷河時代には渓谷であった海峡の海底は、豊かな海草で覆われている。海峡は美味な海の幸でも有名である。季節に応じて回遊する魚は、この狭い海峡か両側の近海で大量に水揚げされる。

岸辺に古い宮殿、モスク、ヤル(海岸の邸宅)、レストラン、ビーチが並んだ広い川のよ今に見える海峡は、森に包まれた丘と家々で、両側を縁どられている。季節を問わず雄大な美しさを誇るボスフォラス海峡は、春には桃色のハナズオウの花でいっそう引き立つ。

実際ボスフォラス海峡は、ユニークな「海の川」でもある。黒海の塩分の少ない海水が、表層でマルマラ海に向かって流れ込んでいる一方で、その下の層には、反対方向に流れるもう―つの潮流がある。この表層の激しい潮流と、道路の未発達のせいで、沿岸には前世紀の末までほとんど集落がなかった。

スルタンの宮殿や富豪の館の傍らで、19世紀に大使館の夏の公邸が海岸に沿ってでき始めた。海峡の沿岸の発展は、オスマン期初の株式会社として1852年に創立されたシルケティ・ハイリイェの連絡船就航によって可能となった。

近代的な2本の吊り橋は、海峡をまたぐ新しい景観である。第一大橋は1973年に、第二大橋は1988年に完成した。
今日、海峡沿岸の大部分は、完成した近代的な道路、吊り橋、フェリーによって、大都市圏内に組み込まれている。
「ボスフォラス」の名の語源「雌牛の渡り場」は、古代ギリシア神話に由来する。

横断が容易な海峡であったため、ボスフォラス海峡は、ヨーロッパとアジアの間の、文明の融合と通商の発展をもたらした。
ボスフォラス海峡、その延長の金角湾、イスタンブルの旧市街が広がる半島は、都市建設以来2500年間の歴史を通じ、世界の注目を浴びた場所であった。

アジアとヨーロッパの間の多くの移住、征服、遠征がこの海峡を通って行われた。アルゴナウテス(黄金の羊毛を求めて英雄イアーソーンに従い大船アルゴ号で旅した勇者たち)の黒海遠征が、ボスフォラス海峡に関する最古の神話である。

紀元前6世紀には、ペルシア軍が海峡を容易に渡るため、小舟を並べてつなぎ合わせ、ボスフォラス海峡最初の橋を作った。
海峡の中ほどに向かい合って築かれたオスマン朝の二つの城塞ルメリ・ヒサールとアナドル・ヒサールや、黒海の出口の丘に築かれたより古い城塞は、ここがどの時代にも戦略的に重要であったことを示している。


クズ・クレスィ観光(レアンドロスの塔)

ボスフォラス海峡入口のサラジャク岬の向いの小島に建てられた、クズ・クレスィ(乙女の塔)の名で知られるかわいらしい建物は、イスタンブルのシンボルの一つである。

レアンドロスが恋人に会うため泳いでいるうち溺死したという伝説は、ダーダネルス海峡で生まれたにもかかわらず、西欧の文献は誤って、ボスフォラス海峡入口のこの塔と結び付けてきた。

ここは長年にわたって監視塔や燈台として使われた。海峡に入ってくる船の目印であるこの塔は、前世紀の姿で今日残っている。

クズ・クレスィ

ウスキュダル観光

クズ・クレスィの対岸の地区は、古い歴史をもつ居住区ウスキュダルである。ヨーロッパとアジアの間の最短で最も容易な通行はここで行われてきた。

広場にある16世紀のモスクとアフメト3世の泉、海岸にミーマール・スィナンが建てた小さなシェムスィー・パシャ・モスクは、オスマン朝建築の素晴らしい例である。

ウスキュダルの背後の斜面は、歴史あるカラジャ・アフメト墓地に占められている。さらに奥には、ビュユク・チャムルジャとキュチュク・チャムルジャの丘がそびえる。森に覆われた丘からは、プリンス諸島、旧市街、海峡とボスフォラス大橋が鳥瞰できる。ビュユク・チャムルジャの丘の上にはオスマン朝の伝統文化を今に伝える市営のカフェが営業している。


カドゥキョイ

マルマラ海のアジア側にあるカドゥキョイ地区は、最近20年間にイスタンブールで最も急速に発展した地区の一つである。

ここは、かつて数多くの修道院があり、5世紀には何度かキリスト教公会議が開かれた古代のカルケドンがあった場所であるが、今日これと言った歴史的建造物は残っていない。

カドゥキョイとウスキュダルの間の海岸に1906年プロイセンの建築様式で建てられたハイダルパシャ鉄道駅は、バグダード鉄道の始発駅であった。駅の近くの斜面は、クリミア戦争で戦没したイギリス兵とフランス兵の墓地で占められている。

海岸の近代的な港湾施設の背後にある二つの大きな建物のうち、時計塔のあるのがマルマラ大学、隣の四本の塔がある立派な建物は、19世紀前半に建てられたセリミイェ兵舎である。クリミア戦争中に一部が病院として使用され、フローレンス・ナイティンゲールが看護婦としてここで奉仕した。兵舎の中の彼女の部屋は今なお当時のままに保存されている。


ボスフォラス海峡クルーズ

ボスフォラス海峡クルーズ

エミノニュの船着場から定期的に運行するフェリーと、ホテルやツアー会社が保有するクルーズ船は、ボスフォラス海峡クルーズに理想的な交通手段である。

ボスフォラス海峡は、カーブするごとに新たな美しい景色が目の前に現れる、他に例のない海峡である。黒海に向かって海峡をジグザグにさかのぼるクルーズでは、右側がアジア、左側がヨーロッパである。

海峡の入ロクズ・クレスィの対岸の、ドルマバフチェ宮殿の岸に接近すると、背後の丘の上に五つ星のホテルがそびえ立つのが目に留まる。チュラーン宮殿を過ぎると、全長1074メートルの第一ボスフォラス大橋が二つの大陸を結んでいる。橋のヨーロッパ側のたもとのオルタキョイ・モスクとアジア側のたもとのベイレルベイ宮殿に囲まれた風景の中には、新旧の名所を同時に見ることができる。

緑のトーンに包まれた丘に縁どられる両岸には、古い木造のヤルが、近代的な住宅に混じって立ち並ぶ。
第一大橋を後にしてアジア側に見える、二本の塔のあるクリーム色の横長の建物は、有名な19世紀の建築「クレリ陸軍高校」である。
対岸のベベク地区の海岸には、エジプト領事館の風変りな大きい建物がある。ベベクの入り江は、天然のヨット・ハーバーである。海岸のベベク・モスクは、20世紀初頭のオスマン朝建築に古典期の建築要素を復活させた小さな作品である。

ボスフォラス海峡クルーズ


ドルマバフチェ宮殿観光

ドルマバフチェ宮殿はオスマン朝とヨーロッパの建築様式の混合物として、1843年から1853年にかけて建設された。スルタン・アブデュルメジトの建築家、アルメニア人ガラベト・バルヤンの作品である。

オスマン朝のスルタンたちはいつの時代にも多くの宮殿をもっていたが、基本の宮殿はトプカプ宮殿であった。ドルマバフチェ宮殿が完成すると、トプカプ宮殿は放棄された。

今日やはり博物館として一般公開されたドルマバフチェ宮殿は、イスタンブールの必見のもう一つの歴史の宝庫である。
ドルマバフチェ宮殿は、三階建ての対称的プランをもつ。宮殿には、285の部屋と43の広間がある。海岸には600メートルの波止場が、陸地側には二つの壮麗な門がある。そのうちの一つはとりわけ装飾豊かである。

手入れの良い美しい庭園に囲まれたこの海岸の宮殿の中央には、他の部分より一段高くなった、会議や祝典用の大広間(ムアーイェデ・サロヌ)がある。宮殿の入口側の部分はスルタンの謁見のために、ムアーイェデ・サロヌの奥のもう一方の翼はハレムとして使用された。

内装、家具、絹の絨毯、カーテンほか全ての調度品が、完全にオリジナルのまま今日残っている。ドルマバフチェ宮殿は世界中にあるどんな宮殿にも見られない豪華さを誇る。

ドルマバフチェ宮殿

壁と天井は、当時のヨーロッパ人画家の絵画と、何トンもの重さの黄金の装飾で覆われている。主要な部屋と広間の全ての調度品は、同じ色調で統一されている。床の全ては、一つ一つ異なる寄木細工で覆われている。有名なヘレケ産の絹織りと毛織りの絨毯が、広間や部屋に敷き詰められている。

ヨーロッパや極東の珍しい美術工芸品が、宮殿の至る所を装飾している。光輝くクリスタル・ガラスのシャンデリア、燭台、暖炉が、宮殿の多くの部屋で美を競っている。

スルタンや宮殿関係者たちによって日常生活や儀式で用いられた何千点もの貴重な品々のいくつかは、倉庫から出されて二つの部屋で展示されている。金、銀、クリスタル・ガラス製品、ティー・セット、食器セット、化粧道具、装飾品は、大部分はヨーロッパからもたらされたもので芸術的価値も非常に高い。

宮殿の6つの浴室のうち、贅をこらしたスルタン用の浴室は、特別に彫刻されたアラバスター大理石製である。
世界の宮殿の中で最大の大広間は、ここのムアーイェデ・サロヌで、縦が44メートル、横が46メートルもある。36メートルの高さのドームから4.5トンの巨大サイズのクリスタル・ガラスのシャンデリアが下がっている。重要な政治的会議、条約の調印、祝典に使われたこの広間は、かつては床下にあったかまどに似たシステムで暖房されていた。セントラル・ヒーティングと電気は後になって導入された。大広間の上のギャラリーは、オーケストラと外交団にあてられていた。

長い廊下を通ってたどり着くハレムの部分には、スルタンの寝室、母后の区画、その他の女性や召使たちの部屋があった。
ハレムに通じる廊下には狭い間隔で丈夫なドアが取り付けられた。宮殿にある600枚を越す価値ある油影画の一部が廊下の壁にかけられている。

ハレムと同じ大きさの宮殿の第四の部分は、皇太子の区画として用いられていた。
ドルマバフチェ宮殿は、共和国成立後、アタテュルクのイスタンブル滞在中の住居として用いられた。この時期宮殿で起こった最も重要な事件はアタテュルクの死である(1938年11月10日)。国民の惜別を受けたアタテュルクの遺体は、ここからアンカラに運ばれた。

彼の寝室の時計は、この偉大なトルコ人を記念して、現在なお死亡時刻の9時5分で停止している。
宮殿の裏庭と鳥小屋の部分、さらにいくつかの館は新しく改修され、一般に公開された。最近では、女奴隷たちの区画が見学者に公開されるようになった。

宮殿の見学者用入場門の右手の壮麗な時計塔は、1890年から1895年にかけてスルタン・アブデュルハミト2世によって建てられた。時計は今日もなお稼働している。


チュラーン宮殿観光

金角湾とボスフォラス海峡の最も美しい場所は、かつてスルタンの宮殿や名士の館に占められていた。多くが失われた宮殿のうちの一つ、チュラーン宮殿は、1910年の火災の後、長い間荒廃するに任されていた。

もと木造の館のあった場所に、スルタン・アブデュルアズィズの命により宮廷建築家のアルメニア人サルキス・バルヤンが建てたチュラーン宮殿は、4年の歳月と400万枚の金貨を費やして、1871年に完成した。

天井は木工技術の粋を集めて飾られ、壁は大理石で覆われていた。柱は比類のない石工技術の傑作であった。宮殿には見事な調度品が備え付けられていた。螺鈿の象眼と金箔を施して繻子を張った家具や、最も貴重な絨毯があった。

豪華な色とりどりの大理石製の外面をもつ宮殿は、背後の斜面のユルドゥズ宮殿とつながっていた。
高い塀で陸地側から隔てられた宮殿の門は壮麗である。
同時代の他の宮殿のように、ボスフォラス海峡を飾る史跡として、ここも近代の多くの重要事件の証人となった。宮殿を建てさせたスルタン・アブデュルアズィズ自身、退位後ここで幽閉中に自殺したとも暗殺されたとも言われている。

近年になって宮殿は修復され、新しい建物を付け加えて、五つ星のホテルに生まれ変わった。宮殿の都心側にある重要な部分は、迎賓館として使用されている。

チュラーン宮殿

ルメリ・ヒサール

1453年にメフメト2世によって征服される以前にも、コンスタンティノポリスは何度も包囲にあった。しかし都市を取り巻くローマ時代の城壁のおかけで、以前の包囲は撃退することができた。長期に及ぶ包囲の最中でも、必要物資は海路によって補給された。

ルメリ・ヒサールは、包囲中に黒海から来る援軍や援助を妨げる目的で、対岸に以前築かれたアナドル・ヒサールに向かい合うように、海峡のヨーロッパ側に築かれた城塞である。この軍事施設は1452年に4ヵ月という驚くべき短期間で完成した。

この中世最大最強の城塞は、1453年の都市の陥落後まもなく、戦略上の重要性を失った。
今では美しいオスマン朝の古典的な城塞建築として、威厳をもって、海峡を飾っている。
1950年代に行われた修復の後、博物館として公開された。城塞の庭は、夏の夜には屋外劇場として、コンサートや演劇に利用される。

ボスフォラス大学とルメリ・ヒサールの間の区域はアーシヤンと呼ばれている。ここにあるトルコの名高い詩人テヴフィク・フィクレトの家は博物館となっており、アーシヤン博物館と名付けられている。


プリンス諸島観光

マルカラ海に浮かぶ大小九つの島からなるプリンス諸島は、スィルケジの船着場から一時間の距離にある。ビザンツ時代には、島々にはいくつかの修道院があり、あるものは皇帝の避暑地として、またあるものは流刑地として使われたことが知られている。

二番目に大きな島、ヘイベリ・アダ(アダは島の意)には、海軍の学校の中庭に、オスマン朝の征服直前のビザンツ最後の建物、聖母マリアに献納された小さな教会がある。いくつもの由来不明の遺跡が、島々の様々な場所にある。島々への蒸気船の就航により、19世紀半ばから人口の増加が始まった。

プリンス諸島のうち大きい四つの島は都市に近接した美しい避暑地、ピクニック・コ-ス、海水浴場である。5月から9月まで続くシーズン中に人々で賑わう島々は、冬にはめっきり人口が滅ってしまう。

島々に立ち寄りながら定期的に運行するフェリーにより、都市との交通が確保されている。夏の間、特に週末は、個人のボートやヨットが島々を取り巻く天然の港に停泊する。

金持ちの夏の別荘や人々に開放されたビーチ、ピクニック・コースで取り囲まれた島々には、自動車の乗入れが禁じられており、馬車が交通手段である。丘を森や公園が取り巻く島々では、住宅地はイスタンブールのアジア側に面する北の海岸にある。

ボスフォラス海峡を出発した後、最初に見える島は、円錐形のシルエットをした無人のスィヴリ・アダである。隣の平たいヤッス・アダには、海軍の艦隊の施設があり、観光目的のための利用が計画されている。

人の住む最初の島は、クナル・アダである。裏手にある美しい入り江と海岸は、一般に開放されたビーチである。海岸の面白い形の近代的なモスクがすぐ目にとまる。

次のブルガズ・アダスは、海岸のほとんどが岩場であり、水上スポーツ・クラブがある。
この島に暮らしたトルコの名高い小説家サイト・ファイク・アバスヤヌクの家は、博物館にされている。島の裏手にあるカルパザンカヤは、最も有名な行楽地である。

ヘイベリ・アダの船着場の広場の脇に、二つの丘に挟まれた海軍学校の施設がある。二つの美しい入り江はビーチとして整備されている。正教の教会の大きな建物は、かつてギリシア正教の神学校として使われていた。

ヘイベリ・アダの最も有名な散歩道は、デイルメン公園である。ヘイベリ・アダで一年中営業している二つのホテルのうちの一つ、ハルキ・バラス・ホテルは19世紀に建てられ、近年改修されて営業を再開している。

この島とブルガズ・アダスの間の小さな島は、形からカシュク・アダス(スプーン島)と呼ばれ、個人の所有地である。
ビュユク・アダは、プリンス諸島で最も観光客の多い、最も有名な島である。週末やヴァカンスの時期には、大勢の人が日帰りの行楽、ピクニックや海水浴に詰めかける。

プリンス諸島
ここは最大の島であり、丘のある起伏に富む地形である。島の周囲を馬車で一周するツアーは、約2時間を要する。裕福な手入れのよい庭の中の真新しい別荘の間を抜けて、丘の上の森を通るコースの馬車ツアーは、島の最も人気のある観光である。

船着場の海岸には、魚料理のレストランとカフェが並んでおり、数少ないホテルとペンションもこの区域にある。船着場の周辺の密集した住宅地とは対照的に、島の裏手は、無人の岩場の海岸に取り巻かれている。これらの海岸は、ボートにとって格好の港である。

小さな入り江には、ヘイベリ・アダ側の松の木に覆われたディルブルヌ半島と、すぐそばのヨリュクアリの二つのビーチがある。

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