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トルコ観光名所ガイド

トプカプ宮殿


トプカプ宮殿旅行・観光


宮殿の人口は、6,000人位だった。金曜日のお客を加えると、宮殿の人口は16,000人にも増加した。トプカプは、メーメットⅡ世(Fatih.征服王)が、1467年に建て、19世紀の半ばまで、つまり、オスマントルコの31代スルタン・アブドールジットが、ボスポロス海峡の海岸にあるドルマパッチエ宮殿を建てるまで、帝国の中心、王様の家だった。オスマントルコの歴史に、1299~1922年まで、全部で36人のスルタンがいた。
このスルタンの大部分はトプカプに住み、19世紀の半ばに、ドルマバッチエ宮殿を建ててからも、トプカプのハレムは使われた。最後のスルタンは1922年にドルマバッチエからイギリスの船で逃げ、将軍ケマルパシャは、1923年にトルコ共和国を建国し、宮殿は政府のものとなった。1924年、トプカプも博物館に変えられた。

トプカプ宮殿
歴代のスルタンが、いろいろな建築を建て増ししたので、今トプカプ宮殿の中に、異った時代の建築様式と、目的の違った建物を見ることができる。宮殿は複雑なつくりを持ち、しばしば、16世紀に建てられた壁の上に、18世紀に流行した壁画を見ることができる。

宮殿の大きさは、70万㎡だった。まわりの庭はスルタンの猟場だったところで、今そこには、羊、描、年寄りのラクダが二頭いて、動物園になっている。宮殿側には、オリエント急行の駅と兵舎かおる。宮殿は、1922年まで使われたので、馬屋、ハレムの半分等、その多くの部分は修理中である。

トプカプ宮殿旅行・観光の案内ビデオ
詳しくは右側のトプカプ宮殿旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → →

2分26秒  (日本語字幕版)

トプカプ宮殿は、二重の城壁に囲まれている。その総門は、ブルーモスクの側の門で、「皇帝の門」と言う。15世紀に、メーメットⅡ世がこの町を征服してから建てられた。この門を入る前に、右側に、イスタンブールで一番美しい泉が見える。スルタンアーメッドⅢ世の泉と言い、宮殿の銀製品のコレクションの中には、この泉の小さい雛型がある。アーメッドⅢ世は、オスマントルコの歴史の中で文化的な興隆を見たチューリップ時代のスルタンである。チューリップが生まれた場所はトルコで、1700~1730年のチューリップ時代に、イスタンブールで黒いチューリップが作られた。チューリップの球根は、初め、オーストリアの大使がオランダヘ持ち帰り、オランダから各国へ輸出されたので、この花は、オランダが原産国と思われている。

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第一中庭



宮殿の蔵の中にある沢山の細密画から、この庭の当時の様子を知ることができる。当時ここには、いろいろな泉、宝物販があり、薪を収容する為の倉もあった。

第二中庭に入る前に、ここで入場券を買わなければならない。ビデオは、持って入ることができない。入場の際には、右側のスズカケの木後方の泉で立ち止まり、しばし思いをめぐらすのが良い。これは、「死刑執行人の泉」である。大臣や首相などの役人がスルタンの機嫌を損ねた時には、文字通り、すぐに首を切られ、泉で洗われてから、さらし台にのせられた。新任の大臣が命を受けて、トプカプ宮殿へは壮参じた時には、前任者の生首を目にしたものだった。

19世紀後半、ドイツのウィリアムⅡ世が来訪した折り、当時のスルタンは、悪印象を恐れ、壁から離した。 1924年に宮殿が博物館になってから、この泉は再び元の所に戻された。

トプカプ宮殿
第二中庭


送迎門を入ると、大きく美しい庭がある。この中庭は、昔はオスマントルコ政府と取り引きのあった商入たちに解放されていた。今、ここには、ハレムの入り口と陶磁器と銀製品の博物館がある。この庭には、スズカケの木、糸杉、くるみの木、花等が無雑作に植え込まれているような印象を受ける。古い記録によると、かつてこの庭には、18種類の梨の木、14種類の梅の木、そして7種類のマルメロの本があったと言う。だがガイドに言わせると、世界で唯一つしかない「イチヂク」を除いては、果樹は、一本も残っていない。

これは糸杉に、イチヂクを接ぎ木したものである。すぐ隣に、ビザンチン時代の地下水槽の天井も見える。

トプカプ宮殿
調理場


中庭の右手にある大きな建物は、昔の調理場である。第一番目の建物は、料理人の宿舎だった所で、当時ここには、1,200人の料理人が住んでいたと言う。今では、歴代のスルタンが買い集めたり献上を受けたりしたマイセン・リモージュなどヨーロッパの陶磁器ベネチアグラス、家具の博物館になっている。

料理は二番目の建物で作った。ここで一年間に3万羽の鶏と、4万頭の羊が料理された。通常の食事で132種類の料理が作られ、それぞれの料理人は、自分の専門料理があった。スルタンとその家族には、お付きのコックがいて、時には食物が支給され、好きに調理ができた。例えば、スルタンの“お気に入りの妻4人”には、毎日5 kgの肉、2kgのバター、どっさりの雪(ロバの背にのる程度の、ただし夏場のみ)、一皿のクリーム、最上級の穀物4握り、0.5 kgのハチミツ、1 kgの果物、卵2つ、4羽の鶏、そして季節の野菜が支給された。当時は、冷蔵庫がなかったので雪を使った。雪は、マルマラ海の向こうのミシアンオリンプス(現在のウルダー・トルコで一番有名なスキ一場)から、ラバで運んできて、特別な穴倉の中に保管された。ローマの皇帝ネロも、リノビアンカ(白ブドウ酒)を冷やすのに同じ方法を用いたという。

ビザンチン皇帝たちと、オスマントルコのスルタンが、これ程裕富だった理由は、イスタンブールの立地条件の良さによるもので、この港は、約2,000年間、世界の貿易の中心地だった。ソ達から女の奴隷、牛、木、ハチミツ、毛皮、鉛、鉄をバルト海沿岸の国々からは、琥珀、インドから香料、カッパドギアから馬、バーレーンから真珠とサンゴ、エジプトからパピルス、アフリカから黒人奴隷と象牙と野生の動物、イタリアからブドウ酒とベネチアグラス、ギリシャからオリーブ油、キプロスから銅、ブルガリアからは、ローソク用の蜜を運んでいた。これらを運ぶキャラバンは、町へ入る時と出る時、船は金角湾へ入る時と出る時、10%の税金を払わなければならなかった。1453年にオスマントルコが町を征服して以来、イスタンブールは敵の襲撃を受けたことがないのでこれ程立派な品々が、今、ここに集められて残っているのである。

トプカプ宮殿
陶磁器の内、一番立派なのは、青磁である。青磁の入れ物は、料理の中に毒が入っているなら変色すると信じられていた。19世紀後半のスルタンアブドール・ハミッドは、タバコの毒味を宦官にさせていた。あるスルタンは、卵の上に母の印章がついた固茄で卵だけ食べた。

ただし、オスマンのスルタンについては、ほとんどが当時の歴史家が書いた本から来ていることを忘れてはならない。当時の歴史家には、小説を書くことと、歴史を叙述することの見分けがつかなかった。外国人使者の手紙も叉然りである。今日、スルタンたちは歴史の数ページを飾っている。オペラと劇のテーマになっている。すぐに、スクリーンにも登場するであろう。このような事を、著者の年代は誉れとも恥とも思っていない。この公平な見方は、最近の科学的な歴史解釈の結果である。

トルコ人は、沢山食べる。しかし、オスマントルコの大部分は少食だった。一番大きいスルタンは、19世紀のスルタンアブドル・アジズだった。彼は背丈が215cmで、体重は138kgあった。彼はドルマバッチエ宮殿に住んでおり、ハレムには1,000人位の女性がいたが、女性の数が余り多かったので、約半数は、トプカプ宮殿に住んでいた。

台所を建てたのは、オスマントルコの歴史で一番有名なスルタン・スレイマン・モスクを建てた建築家、シナンである。台所の内、お菓子を作った場所は、当時のままに保存されており、ここに沢山のポット、コーヒーセット、金の皿などがある。残念ながら、通常閉められており、入ることは難しい。

その隣りの部屋では、コーヒーカップ、一輪挿しの花瓶など、トルコ製の陶磁器が見られる。コーヒーカップの大部分には、とっ手がなく、昔はガラスのコップを、金や銀、ダイヤモンドなどの器に入れて出していた。

この庭に、ビザンチン時代の柱と、オスマントルコ各地から持ってきたアラビア文字が書かれた大理石板がある。ハレムの入り口も、この庭にあり、その隣りに、ディバンの部屋がある。

トプカプ宮殿
ディバン


ディバンは、政府の中枢で、ここに毎週4日、スルタンと大臣たち、アジアとヨーロッパを含む広大な帝国の全土から将軍たちが集まった。ディバンの上にある塔は「正義の塔」と言う。この塔からスルタンは、オスマントルコ国民に正義を約束し、約500年の間、この世界に冠たる大帝国はこの宮殿から治められたのである。その領域は、全バルカン諸国、黒海沿岸、クリミア・カスピ海までの東アナトリア、中東、イラン、アラビア半島、エジプト、チュニジア、モロッコを入れた北アフリカ、キプロスとロドスに広がっており、世界の七不思議に数えられる場所は、全てオスマントルコの領域内にあった。

スルタンは、ディバンにいつも来る必要はなかった。好きな時にハレムからディバンに通じる地下道を通って、誰にも気付かれずに会議を覗くことができた。時々、デイバンで大臣たちが喧嘩をしていると、スルタンは、咳払いをした。

ディバンのすぐ隣りの小部屋で、書記たちが、会議の記録を取った。これらは、防水紙にオスマン語で書かれた。

宮殿では、トルコ語が話され、お祈りは、アラビア語、文学と詩はペルシャ語で書かれた。オスマン語は、政治に使われた。これはトルコ語、アラビア語、ペルシャ語の混じった非常に難しい言葉である。現在、宮殿の蔵の中には、オスマン語で書かれたものが1億2,000万頁位残されているが、残土なことに、今に至るまでに翻訳されたのは、この内3%だけである。

武器の展示館も、この庭の中にある。ここで日本人に興味深いのは、19世紀に日本のある侍がスルタンに贈った鎧だろう。

トプカプ宮殿
幸福の門


スルタンの住居の入り口となるこの門は、「幸福の門」と呼ばれる。スルタンは、神の使いで、臣民に幸福をもたらすと考えられていたので、この名が付けられた。

天井からは釣束飾りがおりている。言い伝えによると、この釣束飾りは世界を表わし、上にある石は、スルタンの力を表わしている。
スルタンの手は世界を握り、その力は、あらゆる所に及ぶという意味である。

床にある穴は、オスマントルコの旗を立てる為のもので、大きな儀式のある時には、ここに旗を立て、今、宝物殿にある金の王座もここに置いた。


ハレム


私たちは今、第二中庭を過ぎて、ハレムに入る。ハレムの建物は、黒人宦官、女性たち、スルタンの母、スルタン、皇太子、「お気に入りの女性たち」の住居から成っている。

入って最初にあるのが、黒人宦官の住居で、年寄りの宦官は1階に、若い宦官は、上の階に住んだ。入りロの右には、ディバンに通じる地下道路への扉がある。

トプカプ宮殿
黒人宦官は、アフリカで去勢してから宮殿へ売られた。去勢には、三つの方法がとられた。ある者は華丸のみ、ある者はペニスのみ、又ある者はペニス・革丸とも去勢された。切り取った部分が再成する恐れがあると考えられたので、時々、医者が診察をして、再成している場合には、又手術をすることになっていた。それで彼らは、時々、医者の診察を受けなければならなかった。

宦官たちが、アフリカからハレムに連れて来られると、バラ・カーネーション・ヒヤシンス・ナーシサス・ヤナドなど、女性的な、特に花の名前が与えられた。彼らは、ハレムの家事雑事に携わり、宦官頭は、スルタンのプライベートな生活の中で重要な役割りを果たしていた。

ハレムに入ると、左に小さなモスクがあり、黒入たちはここでお祈りをした。壁のタイルは全てアラビア文字で、コーランから引用されたものである。

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ハレムの二番目の建物は、女性たちの住居になっていた所で、この女性たちは、イスタンブールの市場で買ったか、外国からスルタンにプレゼントされた。時々、スルタンも女性たちを、外国の皇帝へのプレゼントにした。

女性たちは、自分の宗教を持ち続けることが許されたが、名前は、トルコ名に変えなければならなかった。秘密に自分の家族に手紙を書いたり、親戚に会ったりすることもできた。しかし、ハレムの中に入ってからスルタンが死ぬまで、外へ出ることは全く許されなかった。ハレムの中で、外出することができたのは、スルタンの母と娘だけだったが、必ず宦官が付き添うことになっていた。ハレムは、アラビア語で「禁じられた」を意味し、この場所に、スルタンとスルタンの家族以外の者が入ることは禁じられていた。

日没後は、宦官も頑丈な樫の扉の奥にある女性の住居に入ることができなかった。淋しい女たちと黒人宦官のロマンチックな恋愛もたまにあったにちがいない。日が沈むと、宦官は扉に錠をかけ翌日の日の出まで警護した。
女性の中で病気になった者がでると、医者はカーテン越しに診察をした。後には、直接診察を受けることが許され、音楽の教師につくこともできるようになった。スルタンは、全ての女性に会うことはできなかったので、彼女たちの中で、音楽の教師と恋に落ちる者もあった。この話がスルタンの耳に入ると、この女性は、相手の教師にプレゼントとして与えられた。

トプカプ宮殿
スルタンに最もふさわしい女性を選ぶのは、黒人宦官長とスルタンの母親であった。ハレムの最も美しい少女でさえ、この二人の助けなしにはスルタンの眼に触れるチャンスがなかった。スルタンが亡くなると最年長の息子が跡を継いだ。新しいスルタンは、新しいハレムを設け、古いハレムの女性たちを、たいていは家来たちと結婚させた。
彼女たちは、おさがりとは言え、美しく、行儀作法を知っており、宮殿ともつながりを特っていたから、引く手あまただった。年をとって再婚ができなくなった女性は、若い女性たちの先生になってハレムに住み、針仕事、トルココーヒーの入れ方、水タバコの用意のし方、歌、ダンス、楽器の演奏などを教えた。

女性たちは、スルタンに会うまで、大部屋に住まわされていた。スルタンの母親と、黒人宮官長は、スルタンが賢い女性と恋におちることを嫌ったので、美しいが馬鹿な娘を選んだ。これは、スルタンにオスマン帝国を治める責任を忘れさせない為と、もっと重要なことは、スルタンの母親が息子への影響力を失うことを恐れた為である。

言い伝えによると、スルタンが女性の前を歩く時に、1秒か2秒立ち止まると、その夜、この女性は、スルタンのベッドヘ連れて行かれた。女性はまずトルコ風呂に入って休を洗われ、体毛を全て取り去られた。手足の爪を切り、マニキュアがされ、顔には眉墨が塗られた。そして、スルタンの好みや、振舞い方などが予め教えられた。

次に、スルタンの部屋に入る。スルタンは、法律上の妻を持たなかった。ただ、はじめに男の子を産んだ四人の女たちが妻と考えられていた。最年長の息子の母が、スルタンの死後、新しいスルタンの母になった。スルタンの住居には、寝室と食堂、居間と、小さいモスクがある。

ハレムを初めて見ると、冷たい印象を受けるかもしれないが、昔の人の感じ方は、私たちの感覚とは違うことを忘れてはならない。女性たちの最大の望みは、スルタンに会って、息子を産むことだった。それによって、いつか自分か世界で最も重要な女性になることができるかもしれなかった。男以外には、ハレムの中で何でも手に入れることができた。
ベネチアの使者によると、ハレムに届けられたキュウリさえも、女たちを「淫らな行いの誘惑」から防ぐ為に、輪切りにされた。これはあまりに奇想天外であるが、より信憑性が高いものとしては、やっかいなでき事を防ぐ為に、若い女の子10人の間に、老女が一人寝ていたと言われる。買い物がしたい時は、バザールの店員が、ハレムに呼ばれ、黒人宦官に買わせた。女性たちが望めば、宦官たちは、歌ったり踊ったりもしたので、結局のところ、女性たちにとって、ハレムでの生活はとても楽しいものだった。

ハレムの中には、沢山の絨椴がひかれていた。暖炉、火鉢、ストーブもあったので、暖房の問題はなかった。スルタンの母の部屋と謁見の室の間に、大理石でできた大きな浴室があった。入る時、右にスルタンの化粧部屋があり、中に浴槽が一つあるが、これは、あまり使われなかった。トルコの習慣によって、汚れを流れ落とす為に、水は常に流れていなければならなかった。トルコ風呂で、スルタンは、大理石の椅子に坐り、体を洗った後、水で流して皮膚をこすった。風呂は、16世紀の有名な建築家、シナンによるものである。

現在、イスタンブールには、沢山のトルコ風呂がある。男性と女性の風呂は、別々になっている。 トルコ人は、日本にあるトルコ風呂を、どうしてトルコ風呂と呼ぶのか、全然わからない。

トプカプ宮殿
謁見室


ここには、スルタンの王座とお気に入りの女性の坐る場所、大時計、タイル、ロッキングチェア、大きな花瓶かある。これらは、外国からの贈り物である。アンチーク時計と大時計は、9時5分で止まっている。1938年11月10日午前9時5分に、トルコ共和国建国の父、将軍ケマル・パシャ(アタチュルク)が、亡くなった為である。

謁見室の後で見る部屋の内、一番美しいのは、ムラトⅢ世の部屋である。ムラトⅢ世は、オスマントルコの黄金期をつくったスルタン・スレイマンの孫息子だった。部屋の中には、夏の間、空気を爽やかに保つ為に、沢山の小さい噴水がある。室内には、ベッドが見あたらない。ベッドが、オスマントルコの生話にとり入れられたのは、19世紀のことで、それまでは、床の上に布団をしいていた。

今でもトルコの田舎では、寝る時間になるとタンスの中からフトンを出して床にしいて寝る。スルタンも同じだった。言い伝えによると、ムラトⅢ世は、毎週金曜日の夜、二人の処女と寝た。彼は、金曜日の夜は、息子ができると信じていた。彼が亡くなった時、119人の子供が残され、ハレムの17人の女性が妊娠していた。

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ムラトlⅢ世の部屋の次にある二つの小部屋の内、最初にあるのは、モスクである。このモスクから見る町の景色は素晴らしい。ハレムの建物には、町の側だけに窓がつくられており、女たちが男の姿を見ることのないように、宮殿側には、窓は一つもない。

モスクの隣りの部屋は、スルタン・アーメット(1703-1730)の子供の時の部屋である。彼は子供の時、とても少食だったので、
言い伝えによると父は、彼の食欲を増す為、この部屋の壁紙を全て果物の模様にした。

ムラトⅢ世の部屋の両側には、イスタンブールで一番立派なタイルが見られる。このタイルは、全て、1550~1600年の間にニシア(今のイズニック)の町で作られた。このタイルには、大きなすももの枝が描かれている。日本の桜のように、オスマントルコでは、すももの花が非常に好まれた。枝の下には、ヒヤシンス、チューリップとカーネーションの三種の花が描かれている。今、このデザインは、ドレコの絨毯に見られ、「生命の木」又は「天国の庭」と呼ぶ。

次の二つの部屋は、皇太子の部屋だった。ここには、ハレムで一番立派な天井と、ステンドグラスの窓、ウールの絨緞、火鉢などがある。スルタンが亡くなると、最年長の息子が跡を継いだ。オスマントルコの法律によると、新しいスルタンは弟たち全部を殺さなければならなかった。この法律は、メーメットⅡ世(Fatih 征服者)によって作られた。ヨーロッパの帝国の多くは、兄弟聞の王座争奪戦争の為崩壊したので、それを防ぐ為に考えられたものである。彼らは、帝国と、その国民を守ることが自分に与えられた使命であると考えていたので、その為に殺されるのも運命と受け入れていた。

皇太子の部屋の奥は、スルタンの最初の男の子を生んだ四人の女性たちの住居だった。今ここに入ることはできない。四人の妻の中で長男を生んだ妻が一番偉かった。スルタンは、この四人の妻に夫としての義務を持っていた。もし、スルタンが二度続けて金曜日の晩妻を訪れなければ、彼女は離婚されたと考えて良いことになっていた。

ハレムの最後は、一番温気に入りの女たちの住居である。スルタンが、一度寝た女性を忘れないで、もう一度ベッドを共にしたら、その女性は「お気に入りの女性」と呼ばれた。このお気に入りの女の数は、時々200人に及んだ。

ハレムの出口の狭い道の名は、「金の道」と呼ばれ、スルタンは、ヨーロッパでの戦争から凱旋してくると、この道からハレムに入った。入る道沿いに、お気に入りの女たちが着飾って並び、スルタンは彼女たちに、金、銀、ダイヤモンド、真珠宝石を投げ与えた。

ハレムでの生活を全て詳しく書くことは、不可能である。それは、「夢の世界」だった。それで、私たちはハレムを出て、第三の中庭に入ることにしよう。

トプカプ宮殿
第三中庭


第三中庭の真ん中にある二つの大きい建物は、スルタン・アーメット(1703-1730)の図書館と、謁見の間である。外国の使臣たちは、ここでスルタンに会った。

スルタンの衣装と宝物、細密画は、この庭のまわりにある建物に収められている。世界一の大時計の収集もここにある。現在宝物殿として、四つの部屋が使われている。昔、この部屋は、スルタンの浴室だった。

第一の部屋に、鎧兜、王座、香水瓶、鉄砲、ローソク台、オルゴール、金のコーヒーカップ、琥珀の水タバコの吸い口が納められている。トルコ人には、コーヒーショップで水タバコを吸う為に、自分の吸い口を携帯している人もいる。第二の部屋は、世界一のエメラルドコレクションがおいてあるので、「エメラルドの部屋」と呼ばれる。緑色は、回教で天国を表わす神聖な色とされていたので、スルタンが好んだ宝石も、エメラルド、金鉱石、かんらん石、翡翠等、緑色の石だった。この部屋で一番大きなエメラルドは、15kg程もある。同じ陳列だなの中には、映画「トプカプ」でお馴染みの宝剣も見られる。この短剣には三つの素晴らしいエメラルドと、よく見たならば時計もついている。同じ部屋に、スルタン・アーメットⅢ世の王座と、あるスルタンの息子の揺り籠がある。

三番目の部屋にある一番大きいダイヤモンドは86カラットの大きさで、「スプーンのダイヤモンド」と呼ばれ、このダイヤモンドは、言い伝えによると、大バザールで二つのスプーンとごみの山を交換した漁師に見つけられたと言われる。宮殿内の最も価値ある金製品は、二つ共同じ部屋に置かれている。当時で、それぞれ 100万ドルの値打ちがあったと言われる。

四番目の部屋の王座は、蒙古人の支配者のもので、ペルシャからの贈り物として、この宮殿に来たものと思われる。同じ部屋には、じゅずと、140kgの巨漢で知られていたスルタン・アブドル・アジズのスプーンコレクションも見られる。この部屋で一番興味深いものは、―敬虔なクリス千ャンにとって―洗礼者ヨハネの手である。これは、哀れな聖ヨハネの中指か薬指にちがいない。と言うのも同じ聖人の他の指を所蔵していると他の博物館からクレーハナノ二万から。以前払のツアーグループの言語学者がこんな事をこっそり詰してくれた。聖人の手を支える鞘の金文字は、ョハネと記してあるが、洗礼者ョハネではなく、学者ョハネであり、16世紀のキリスト教世界の偉人の一人であると。

予言者モハメッドの遺品の中で、一番犬切なのは彼の外套だが、これは金の箱にしまわれているので見ることはできない。同じ部屋に、弓と刃、歯、足形と髪の毛などがある。メッカのカーバ神殿の扉の一部もここにあり、回教徒の巡礼の場所になっている。

トプカプ宮殿
第四中庭


四番目の庭にレストランとカフェテリヤかおる。ここからのボスポロス海峡とマルマラ海の景色は素晴らしい。アジア側に見る一番大きな建物は、クリミア戦争の兵営だった所、有名なイギリス汗看護婦ナイチンゲールは、ここで働いた。

庭の左には、旧市街、新市街、ガラタ橋が見渡せる。散在する優雅な建物の中には1638年ペルシャを破ってバクダッドを攻略した記念にスルタン・ムラトIV世が建てた華麗な夏の宮殿バクダッドキョシキュも見られ、オスマントルコの宮廷生活の華やかなりし昔をしのぶことができる。
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