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全て知ってる?!「世界の七不思議」について徹底解説


世界の七不思議がつくられたのは、古代ギリシャ・古代ローマ時代にまで遡ります。紀元前2世紀に古代ギリシャの発明家で数学者、著作家でもあるフィロン(紀元前260年~紀元前180年)という人物が書いた「世界七つの景観」の中で、古代の地中海地方に存在していた七つの巨大建造物を取り上げたことがはじまりとされています。

その7つの建造物は、ギザのピラミッド、アレクサンドリアの大灯台、オリンピアのゼウス像、ロードス島の巨像、エフェソスのアルテミス神殿、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟、そして最も謎に満ちたバビロンの空中庭園です。

世界七不思議とは…?

アルテミス神殿
フィロンが「世界の七つの景観」の中で、世界の七不思議を提唱するに至った背景として、純粋に当時としては規模が大きく、かつ芸術的な意味合いとしても素晴らしい建造物であっただけではなく、著書を目にする他国の人々に向けて、ギリシャ人に対する畏怖の念を与え、ひいては当時のアレキサンダー大王が率いていた帝国の巨大さのアピールといった政治的な目的も持っていたのではないか、とも考えられています。

その後、フィロンのリストを修正したものがいくつも登場し、時代の流れによって、異なる建造物が加えられたり除外されたりしました。しかし、正統として定着したのはフィロンの挙げた七つの建造物です。現在、ほぼ無傷で残っているのは、紀元前2000年代に建築されたと考えられているギザのピラミッドのみです。残り6つのうち5つは消滅したり、廃墟になったりしていますが、いずれも文書や考古学的証拠が豊富に存在し、単なる伝聞や伝説ではなく、かつて実際に存在したことがわかっています。

この「世界七つの景観」は、旅行家でもあったフィロンが手掛けた今でいうガイドブックの様なものでした。ここでは当時の文明の高さを物語る、まさに人類の偉業とも言える「世界の七不思議」について徹底解説致します。

ギザの大ピラミッド

ギザの大ピラミッド
ギザの大ピラミッドは、エジプトのギザに建設された「クフ王のピラミッド」のことです。メンフィスとその墓地遺跡のひとつとして、世界遺産に登録されており、世界の七不思議で唯一現存している建造物です。ギザの砂漠にある3基のピラミッドは「ギザの三大ピラミッド」と呼ばれ、クフ王のピラミッドはこのうちの1基にあたります。

ピラミッドの大きさは、完成時の高さが146m(現在は138m)、底辺は230m、勾配は51.5度で、誤差が非常に少なく正確に作られています。ピラミッド建築の中でも最も優れており、一番大きなものです。2.5トンの石灰岩を270万~280万個も積み上げて作られており、当時の石積みの技術の高さを窺い知ることができます。14世紀にイギリスのリンカン大聖堂が建てられるまでは、世界で一番大きな建造物でした。

クフ王のピラミッドは、紀元前2560年頃に約20年の歳月を費やして作られました。クフ王は、エジプト古王朝時代の第4王朝のファラオで、彼の墳墓がこのピラミッドです。しかし、クフ王のミイラは、ここから発見されていません。

クフ王のピラミッドは、1839年にイギリス軍人のハワード・ヴァイスによって発見されました。彼は、ピラミッドの内部にある王の間にかかる重量を軽減するために造られたとされる「重量軽減の間」にクフ王の名前を見つけ、ここがクフ王のピラミッドであると結論付けたのです。

また、王の間と女王の間にはそれぞれ通気孔が存在しています。これは「シャフト」という名で呼ばれ、部屋の温度を一定に保つ為のものと考えられていますが、女王の間から伸びるものだけは通気孔とするには両端が塞がっており、構造的にもピラミッド内を右往左往するなど妙な所が目立っていました。女王の間の通気孔とされているこの穴は何故か薄い壁で巧妙に封鎖して隠されており、これは1872年にイギリスのエンジニアのウェインマン・ディクソンが発見するまで存在すら知られていませんでした。

その後、1993年にドイツの技術者ルドルフ・ガンテンブリンクによって行われたロボットによるシャフト調査で、女王の間から伸びているこの小さな通路だけは外部へ通じていないだけでなくピラミッド内の回廊を避けて設計されており、独立した通路として別に長々と蛇行していたことが明らかになりました。

更に、通路入口より60mほど先に青銅の取手が付けられた厚さ6cmほどの石灰岩の扉で閉じられた部屋があることがここで判明しています。その後の調査で、扉にドリルで小さな穴をあけ、そこにファイバースコープを差し込んだ調査の結果、扉の向こう側にひびの入った壁が確認されました。エジプト考古学庁長官ザヒ・ハワス博士は、この空間がクフ王の玄室に繋がっている可能性が高いと考えています。

また、王の間のシャフトはオシリスを表すオリオン座の3つ星を、女王の間のシャフトはイシスを表すシリウスの方向を示しています。これは古代エジプト人のオシリス信仰によるものであるとされています。

2017年には国際プロジェクト「スキャンピラミッド計画」の科学者達は、ミューオンラジオグラフィという透視技術を用いてピラミッドの内部構造を調査しました。その結果、大回廊の真上に未知の巨大な空間があることを発見しました。空間の長さは少なくとも30m、断面の大きさ(幅×高さ)は確定できていませんが、大回廊の断面に匹敵すると推測されています。この空間に繋がる通路は見つかっていない為、中がどうなっているかは不明です。その役割についても明らかにはなっていませんが、大回廊の天井にかかる重量を軽減させる目的があるのではないかという説があります。これからの更なる謎の解明がまだまだ楽しみですね!

クフ王について

大ピラミッド
世界の七不思議の一つ、ギザのピラミッドを建設させた、クフ(Khufu)またはクヌム・クフ(Khnum-Khufu)は古王国前半(紀元前26世紀)のエジプト第4王朝を統治した古代エジプトの王でした。クフ王は第4王朝の第2代王であり、前王のスネフェルから王位を継承しました。エジプト最大のピラミッドを建設させた王であるにも関わらず、実はクフ王の生涯や業績はほとんど知られていません。

クフ王の姿を確認することができる完全な状態で残った肖像は、1903年にアビュドスにある後世の神殿遺跡から発見された3インチの大きさの象牙製の像が唯一の物です。他のレリーフと彫像は断片しか見つかっておらず、彼が建てた多くの建造物は失われています。

ギザにある彼のネクロポリス(巨大な墓地・埋葬場所)から発見された碑文と後世に作られた文学作品から得られる情報がクフ王について知られている全てです。クフ王に言及する文書の大半は紀元前1000年紀の後半にエジプト人とギリシャ人が書いたものです。

古代の歴史家ヘロドトスは彼の性格を「自分と自分の幸福のことしか頭になく、民の幸福を考えない暴君」として非常に否定的に伝えています。これらの記録により、クフ王の人格については不明瞭で否定的なイメージが残されています。しかし、彼はクフ王より何世紀も後の人物ですので、正確な歴史としてではなく物語として語られています。

謎の多いクフ王の「太陽の船」

太陽の船

Olaf Tausch, CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons

1954年にエジプト考古局のカマル・エル・マッハラ氏は、クフ王のピラミッドの南側堆積土の除去作業中、ピラミッドの南18m地点の東西2カ所に30m以上にわたる切り石の列を発見しました。東側の切り石の下に長さ31.2m、幅2.6m、深さ3.5mの石室があり、中には解体された状態の木造船が収蔵されていました。

クフ王の跡を継いだとされるラージェデフ王のカルトゥーシュ(古代エジプトで使われていた象形文字)が石室内壁から見つかったことから、クフ王の葬送に関わるものと推定されました。これがクフ王第一の船と呼ばれ、エジプト考古局の復元技師アハメド・ユセフ・ムスタファ氏によって1957~1971年の間にわたって復元作業が行われました。材質はレバノン杉、ビャクシン、アカシアなどで、長さ42.32m、幅5.66m、最大高7.3m、推定重量約50トンで、最も古くて大きく、保存状態の良い船の1つです。その後、更に復元調整などが行われ、1982年から一般公開されています。

1987年、日本の考古学者・吉村作治氏率いる早稲田大学エジプト学研究所が電磁波レーダーにより西側の切り石の下を探索したところ、東側と同じく木材が収蔵されていることを突き止めました。1988年にはエジプト考古局とアメリカの調査隊が内部撮影によって部材の確認を行いました。このクフ王第二の船の発掘は、資金難や国際情勢の悪化などから遅れ、ようやく2011年6月に再開されました。

エジプト神話において、太陽神ラーは船で天空を渡る存在とされています。この船は昼間にはマンデトと呼ばれ、東側(生者の国)を航海し、夜はメセクテトと名を変え、西側(死者の国)を航海するとされています。古代エジプトでは王は太陽神の子孫とされ、クフ王の船が太陽の船と呼ばれたのもこの為です。

しかし現在では、この解釈がそのまま当てはまるわけではないとして、クフ王の船という呼び方をしています。第一の船の復元者アハメド・ユセフ氏は、クフ王の船は、「現世同様来世においても行われる戴冠式のための船」であろうと推測しています。吉村作治氏は著作の中で、クフ王の船の発掘と復元について「古代エジプト古王国時代の王権に属する人々の死生観を、よりつまびらかにするという学問上の意義を持つ」と述べています。

このクフ王の船は、2021年8月にクフ王のピラミッドをはじめとする三大ピラミッドの近くに建設中の「大エジプト博物館」に移送され、船体の一部が報道陣に公開されました。博物館の開館後はツタンカーメンの「黄金のマスク」や棺などと共に展示の目玉にする予定だそうです。

 
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アレクサンドリアの大灯台

アレクサンドリアの大灯台

Emad Victor SHENOUDA, Attribution, via Wikimedia Commons

アレクサンドリアの大灯台は、紀元前3世紀頃にエジプトのアレクサンドリア湾岸のファロス島に建造された灯台です。紀元前332年、アレクサンドロス大王によってナイル川の河口に都市アレクサンドリアが建造されました。アレクサンドロス大王の死後、エジプトは彼の部下であるプトレマイオス一世の統治下に置かれており、ここにプトレマイオス朝が開かれました。

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プトレマイオス朝はアレクサンドリアを首都としましたが、この都市の周辺は平坦な土地が広がっている為、沿岸航行や入港の際に陸標となるものがありませんでした。そこで、プトレマイオス一世は陸標となる灯台の建造を計画しました。建造の指揮はギリシャの建築家・技術者のソストラトスに任せられました。建造地にはアレクサンドリア湾岸のファロス島が選ばれました。島とアレクサンドリア港との間は人工的な通路で結ばれました。紀元前305年から工事を開始し、完成したのはプトレマイオス二世の代になってからでした。

灯台の全高は約134mで、ギザの大ピラミッドを除くと、建造当時は地球上で最も高い人工建造物の1つでした。建材には大理石が用いられ、ブロック状に切り出したものを積み上げていきました。形状の異なる3つのセクションで構成されており、方形の基層部の中央に塔があり、下層部は四角柱、中層部は一回り細い八角柱、上層部はさらに細い円柱でした。

頂点には鏡が置かれ、日中はこれに陽光を反射させ、夜間は炎を燃やして反射させていました。その様子はアレクサンドリアの鋳造所で作られたローマ時代のコインに見ることができます。灯台の四つ角には、角笛を吹く海神トリトンの彫像が置かれていました。また、ローマ時代には頂点にも彫像が置かれていました。内部には、螺旋状の通路が設けられ、そこを通りロバを使って薪を運んでいたと考えられています。

伝説によると、戦時には鏡の反射光を敵の船をめがけて照射して、船が海岸に到達する前に燃やすことができたといいます。しかし、灯台が存在した当時の光学技術、光反射技術の水準では、船を燃やすのはまず不可能です。一方、灯台の光は約56㎞離れた海岸からも見ることができたという伝説もあり、こちらはおそらく可能だろうと考えられています。

このアレクサンドリアの大灯台が崩壊した原因は諸説ありますが、796年の地震で大灯台は半壊し、1303年と1323年の地震で完全に崩壊したという地震倒壊説が一番有力視されています。その他には、戦争中に外敵に破壊されたとする説や東ローマの宣教師が破壊したという説もあります。

その後、1480年頃に灯台の残骸を用いてカイトベイの要塞が建造されたため、大灯台は完全に消滅しました。カイトベイ要塞が建造され、灯台が消滅した後は、しばらく人々の記憶から忘れ去られていましたが、1968年に海底から灯台の一部の遺跡が発見されました。1990年代に本格的な調査が行われアレクサンドリアの大灯台の遺跡と断定できる柱や彫像も発見されました。

一時は完全に伝説として扱われ、その実在の可能性は否定されかけていたアレクサンドリアの大灯台は、この発見により専門家の間にも実際に存在していたという考え方が広く浸透していきました。また、海底で発見されたアレクサンドリアの大灯台の遺構は、2001年以降は一般人ダイバーにも開放されていて、潜水をおこなった上での見学も許可されています。アレクサンドリアの大灯台跡にあるカイトベイ要塞は現在、軍事博物館として一般に開放されており、周囲も含めてよく整備され一般市民の憩いの場、観光スポットになっています。

ちなみにアレクサンドリアの大灯台は、世界の七不思議の一つですが、実はフィロンの選出した七不思議には含まれていません。これは「アレクサンドリアの大灯台」が、まだ建造されていなかったことと、フィロンが自分の国の不思議は入れないことに決めていた為でした。当初フィロンが七不思議として選んでいたのは「バビロンの城壁」でした。後に「バビロンの空中庭園」と「バビロンの城壁」が誤って同一視された結果、「アレクサンドリアの大灯台」が導入されたと言われています。

オリンピアのゼウス像

オリンピアのゼウス像
オリンピアのゼウス像は、紀元前435年に古代の高名な彫刻家ペイディアスによって建造された、最高神ゼウスを模った彫像です。主に古代オリンピックにおける奉納競技の本尊とされていたと言われています。ギリシャ神話で語られるオリンポスの最高神ゼウスは今では多くの人が知っている神様の1人です。

ギリシャ神話の信仰は実は歴史的な宗教の問題で一度途切れたことがあります。ちょうど、古代ローマ帝国が覇権を伸ばし、キリストが生きていたとされる西暦が始まった頃からヨーロッパを支配下においていきました。その結果、西暦391年にローマ帝国はキリスト教以外の信仰を禁止しました。ローマの支配下にあった古代ギリシャでも自動的にギリシャ神話やオリンピアへの信仰が禁じられた為、ギリシャ神話の口伝などはあまり公にならなかったのです。

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世界の七不思議の一つに数えられるオリンピアのゼウス像は、ローマ帝国の支配が及ばなかった紀元前430年前後に活躍した、現在でも遺跡が残る有名なパルテノン神殿のアテナ像を作ったと言われているペイディアスという一流の彫刻家によって制作されました。

オリンピアにゼウス神殿が建造され、ゼウス像はこの神殿の奥に収められました。その全幅は神殿の通路の幅とほぼ同じで、全長は座像でありながら、約12mもありました。ゼウス像の本体は杉で作られ、表面を象牙で覆っていました。表面の乾燥を防ぐため、常にオリーブ油が塗布されました。座席は金・象牙・黒檀・宝石で飾られ、右手には勝利の女神ニケの彫像を持ち、左手には鷲が止まった錫杖を持っていました。

紀元前2世紀頃のローマの将軍ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスは、マケドニアを征服した際にこのゼウス像を見物し、あまりの神々しさに強い畏敬の念を感じたそうです。

建造から800年後の394年、ゼウス像はオリンピアからビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)に移されました。その後の行方は不明ですが、恐らく焼失したのではないかと考えられています。1958年には、ゼウス像の建造に使用されたと考えられる工房が発見されました。この発見によってゼウス像の全容の解明が進められました。

ゼウス像が収められたゼウス神殿

ギリシャ神話に登場するオリンピアの神々の最高神であるゼウスを祀る神殿として、「オリンピアのゼウス神殿」は1世紀に建てられました。神殿跡に並ぶ柱の根元に立って見上げると、その大きさに圧倒されます。

オリンピアのゼウス神殿またはオリュンピア=ゼウス神殿とも呼ばれる神殿は、シンタグマ広場から南へ700m程離れた、アテネ中央にある壮大な遺跡です。古代、オリンピアの神々の父を称えて作られたこの神殿跡には、高くそびえるコリント様式の円柱が今も残されていて、その大きさは畏怖の念を感じさせる程です。

もとは104本あった柱も今は15本しか残っていませんが、それでも神殿の元の壮大さを推し量るには十分です。神殿の大部分は中世に起こった地震によって倒壊したと考えられており、1852年の嵐では柱が 1 本倒されました。倒壊であらわになった柱の断面を見ると、柱がどのように建てられたのかを窺い知ることができます。

この巨大な神殿の建設は完成するまで700年もの月日がかかりました。紀元前6世紀に統治者ペイシストラトスによって建設作業が始まりましたが、ハドリアヌス皇帝によって完成したのは紀元後131年のことでした。これだけ長い期間未完成のまま放置されていたのは、神殿があまりにも大きかった事や人間が神と同等の力を持っているという傲慢さを示すものだと古代ギリシャ人が考えたからです。興味深いことにハドリアヌスは神殿の中に安置する為の黄金と象牙製の巨大なゼウス像(オリンピアのゼウス像)と、それより少しだけ小さい自分自身の像を造らせています。

神殿の北側には古代ローマ時代の家や市壁、浴場の遺跡が集まっていて、こちらもまた興味深いです。また、近くにあるハドリアヌスの門も見逃せません。この門は紀元後131年に、古いアテネ市域とローマ人により拡張されたアテネ市域の境に位置する門として作られました。

オリンピアのゼウス神殿はアテネの中心地にあり、公共の交通機関で行くことができます。年中無休で、アクロポリスの共通入場券があれば見学可能です。

ロードス島の巨像

ロードス島の巨像
ロードス島の巨像は、紀元前3世紀頃にロードス島に建造された太陽神ヘリオスをかたどった彫像です。

紀元前323年にアレクサンドロス大王が急死すると、マケドニア帝国は有力な将軍たちの抗争によって分裂し、ディアドコイ戦争に突入しました。この戦争において、ロードスはエジプトを領するプトレマイオス1世に協力しました。

プトレマイオスの対抗者であるアンティゴノス1世は紀元前305年、息子のデメトリオスに40,000の軍を率いさせてロードスへ派遣しました。城壁で囲まれたロードスの防備は固く、デメトリオスは攻城塔を作って接近しようとしました。まず、6隻の船に攻城塔を搭載して送り出しましたが、嵐のために接近出来ませんでした。

デメトリオスは、ヘレポリスと名づけたさらに大型の攻城塔を建設し、これを陸上からロードスへ送り込みました。しかし、城内から出撃したロードスの守備隊が、城壁に到達する前にヘレポリスを阻止しました。

紀元前304年、プトレマイオスの派遣した軍隊がロードスに到着、デメトリオスは大いに慌て、急いで軍を引き揚げさせました。あまりにも急な撤収だった為に多くの装備が置き去りにされていました。デメトリオスはロードスの征服には失敗したが、他の都市を多く包囲、陥落させたため、ポリオルケテス (ポリス攻囲者) と呼ばれました。

ロードスの人々はこの勝利を祝い、太陽神ヘリオスへの感謝の証として彫像を作ることにしました。建造の指揮はリンドスの彫刻家カレスに任されました。また、かつて大彫像の制作に関わったことのあるロードスの住民も協力しました。

古代の記述に拠れば、ロードス島の巨像は以下のようなものだったそうです。まず、ロードスの港の入り口付近に、高さ15mの大理石製の台座を設置しました。その台座の上に鉄製の骨組みを作り、さらに薄い青銅板で外装を覆いました。

外装はデメトリオス軍の遺棄した武器や攻城塔を鋳潰したものが使われました。建造には盛り土の傾斜路を利用し、組み立てが進むにつれて傾斜路の高さを調節して対応していたと考えられています。彫像自体の高さは34m、台座を含めると約50mに達しました。これは現代のニューヨークの自由の女神像に匹敵する大きさだったようです。巨像が完成したのは着工から12年後の紀元前284年でした。

その後、紀元前226年にロードス島で地震が発生し、巨像は膝から折れて倒壊してしまいます。プトレマイオス三世は再建のための資金提供を申し出ましたが、ロードスの住民は神に似せた彫像を作ったことが神の怒りに触れたと考え、再建を拒否したのです。

巨像は800年間に渡りそのまま放置され、その間に残骸を見物するために多くの人々が訪れました。800年後の654年、イスラム帝国ウマイヤ朝の初代カリフであるムアーウィヤ一世の軍隊がロードスを征服しました。巨像の残骸はエデッサの商人に売却され、商人は彫像を破壊して青銅の屑にし、900頭のラクダの背に積んで持ち去ったといわれています。

ロードス島について

ロドス島
ロードス島は、エーゲ海南部のアナトリア半島沿岸部に位置するギリシャ領の島です。ドデカネス諸島に属し、ギリシャ領で4番目に大きな面積です。島最大の都市であるロードスの街は、古代以来港湾都市として栄え、前述しました世界の七不思議の一つである「ロードス島の巨像」が存在したことでも知られています。

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「ロードスの中世都市」はロードス島の主都の旧市街にある遺跡です。かつて聖ヨハネ騎士団が築いた城塞都市の状態が良好に保たれており、中世ヨーロッパ都市の優れた例証として評価され、世界遺産に登録されました。

淡路島の約2倍の面積を持つロードス島は、ギリシャ本土よりトルコに近く、地中海クルーズの立ち寄る島としても栄えています。旧市街は全長4kmの城壁に覆われ、騎士団通りには各語族の騎士団の館が並び、奥には騎士団長の宮殿がそびえ立っています。その重厚な造りからは常に敵の来襲に備えていたことがうかがえ、考古学博物館になっている当時の施療院の建物では、騎士団の日常の一端を偲ぶことができます。

エフェソスのアルテミス神殿

アルテミス神殿
アルテミス神殿は紀元前7世紀から紀元後3世紀にかけてエフェソス(現在のトルコ西部)に存在した、月の女神・アルテミスを奉った総大理石の神殿です。世界の七不思議の一つですが、現在は原形を留めていません。

この神殿は、クレタの建築家ケルシプロンと彼の息子メタゲネスによって設計と建築が行われました。プリニウスによれば、将来起こる可能性がある地震を警戒して、建設地に湿地が選ばれました。しかし、このような場所に巨大な基礎を築くことはできない為、まず地下に踏み潰した木炭を敷き、さらに羊毛を敷きこんだと言われています。

こうして完成した神殿は旅行者の注目を集め、商人・王・観光客が訪れはじめました。彼らの多くは宝石や様々な品物を奉納してアルテミスに敬意を表しました。その壮麗さは多くの礼拝者も惹きつけ、アルテミス崇拝を形成しました。

この神殿は、避難所としても知られており、犯罪者を含め、多くの人々が身の安全のために逃げ込んできました。彼らは、アルテミスの保護下にあるとみなされ、逮捕される事はありませんでした。

アルテミス神殿の遺跡は、イギリス人の技師ジョン・ウッドが率いる大英博物館の考古学探検隊によって1869年に発見されました。これは、シュリーマンがトロイアやミケーネを発掘するより前のことで、東方の古代遺跡発掘のさきがけとなったのです。

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彼らが発見した円柱の断片などは、現在大英博物館に所蔵されています。その後の調査で、神殿は3つあり、古い神殿の跡に新しい神殿を建てていたことがわかりました。その最も古い物は、紀元前700年頃と推定されています。

エフェソスのアルテミスについて

アルテミス
アルテミスはギリシャ神話に登場する女神です。アポロンは双子の兄で、清純な女狩人として知られ、また、ティーターンやセレーネーと並ぶ月の女神でもあります。アテネでは、クレタ島の地母神の性格を受け継いだオリンピアの女神の中で、アテナがアルテミスよりも崇められていました。

一方、エフェソスでは、アルテミスは非常に敬われていたのです。例えば、月の1つはアルテミスの名前を冠しており、その月には丸1ヶ月祝祭が催されました。信仰の対象はギリシャ文化以前の古い偶像でした。その元となる偶像は木製で、ギリシャのアルテミスに見られる処女性とは対照的に、豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っていました。そして、この女神の象徴は蜂でした。

この偶像の複製や縮小したものが古代には出回り、現在も残っています。また、その偶像は、ギリシャ本土のものとは違い、エジプトや中近東に見られるように、体と足が先細りの柱のようになっており、そこから足首が出ています。足首の周りには、魚の尾鰭らしきものがあります。これは下半身が魚(=知恵の神)であることを示唆しています。

また、エフェソスで鋳造されたコインに、その多数の乳房を持った女神がキュベレーの特徴として見られるように、城壁冠(胸壁形の金冠)をつけています。そして、蛇が絡み合ってできた柱、またはウロボロス(自分の尾を自分の口に入れている蛇)を積み上げたものに手を置いています。

このような習合の慣習は、オリンポスの神々をはじめとする国外の神々を吸収したもので、イオニア人の居住者たちが、エフェソスの女性とアルテミスを重ねたと考えるのは根拠が薄いのは明らかです。

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エフェソスの歴史

エフェソス
エフェソスの聖なる場所は、アルテミス神殿よりずっと古くにありました。ギリシャ人の旅行家パウサニアスは、アルテミスの社はとても古くからあったと考えていました。彼は、それはイオニア人の移住より何年も前にできており、アポロンの神託神殿よりも古いと確信を持って主張しました。また彼によれば、イオニア人以前のエフェソスの住人はリディア人などであったといいます。

この神殿は紀元前550年頃にクレタの建築家ケルシプロンとその息子メタゲネスによって設計され、裕福なリディア王クロイソスの負担で建築されました。プリニウスによれば、将来起こる地震を警戒して、建設地に湿地が選ばれたといいます。このような場所に巨大な基礎を築くことはできないので、まず地下に踏み潰した木炭を敷き、さらに羊毛を敷きこみました。

こうして完成した神殿は旅行者の注目の的となり、商人・王・観光客が訪れ、彼らの多くは宝石や様々な品物を奉納してアルテミスに敬意を表しました。そして、その壮麗さは多くの礼拝者も惹きつけ、アルテミス崇拝を形成しました。

この神殿は、避難所としても知られ、犯罪者を含め、多くの人々が身の安全のために逃げ込みました。彼らは、アルテミスの保護下にあるとみなされ、決して捕まりませんでした。また、アマゾネスがヘラクレスとディオニュソスから逃げて避難したという神話もあります。

エフェソスのアルテミス神殿は、紀元前356年7月21日に、ヘロストラトスによる放火で破壊されました。言い伝えによると彼の動機は、どんな犠牲を払っても名声を得たかったということです。このことから、「ヘロストラトスの名誉」という言葉まで生まれました。これは、つまらないことや犯罪行為によって、自分の名前を有名にしようとする人のことを表しています。

事件に憤慨したエフェソスの人々は、ヘロストラトスの名前を決して残さないことを共同決定しました。そして、彼らは、以前よりもはるかに立派な神殿を造ろうと考えたのです。

そして、この放火事件と同じ夜、アレクサンドロス3世(大王)が生まれました。プルタルコスは、アルテミスはアレクサンドロスの出産のことで頭がいっぱいで、燃えている神殿を救えなかったと表現しています。アレクサンドロスは後に神殿の再建費用を支払うと申し出ましたが、エフェソスの人々がこれを拒否しました。神が別の神を称えるのは適当ではないという返事だったと伝えられています。結局、アレクサンドロスの死後の紀元前323年に神殿は再建されました。

ローマ皇帝ガリエヌスの治世の262年に再建された神殿は、ゴート人の襲撃の中で略奪・破壊されました。「ゴート人の指導者たちは、船を操り、ヘレスポント海峡(現在のダーダネルス海峡)を越えてアジアにやってきた。多くの都市が破壊され、有名なアルテミス神殿に火をつけた」と伝えられています。

それから200年の間に、エフェソスの人々の大多数はキリスト教に改宗し、アルテミス神殿はその魅力を失いました。こうして、キリスト教徒によって神殿は完全に破壊されてしまいました。その残骸の石は他の建物に使われ、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建ちました。

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ハリカルナッソスのマウソロス霊廟

ハリカルナッソス
マウソロス霊廟は、マウソロスと妻のアルテミシアの遺体を安置するために造られた霊廟です。マウソロスは、カリア国の首都をハリカルナッソス(現在のトルコの都市ボドルム)に定め、周囲のエーゲ海地域も支配下に置きました。

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ハリカルナッソスは小アジアにあった古代都市です。現在のトルコ南西部の港町ボドルムに位置しています。紀元前11世紀に古代ギリシャ人が築いた植民都市に起源し、紀元前4世紀にカリア国の首都が置かれ、マウソロス王とその妻の墓所としてマウソロス霊廟が建造されました。現在は、当時の劇場の遺跡などが残っており、歴史家ヘロドトスの生地でもあります。

このハリカルナッソスにあるマウソロス霊廟は、マウソロスの死後にアルテミシアが夫のために建造したと伝えられていますが、実際にはマウソロスの生存中に建造が開始されたと考えられます。マウソロスの死から3年後、アルテミシアの死から一年後の紀元前350年に完成したとされています。

ギリシャ人建築家のピティオスとサティロスによって設計され、スコパス、レオカル、ブリアクシス、チモフェイという四人の高名な彫刻家によって彫刻帯が施されました。こうして完成したマウソロスの霊廟は、ハリカルナッソスの中心地に何世紀もの間建っていました。紀元前334年にアレクサンドロス大王によって町が陥落したときも、紀元前60年前後に海賊の襲撃を受けたときも、被害を受けずに残っていました。

そして、1600年もの間、廃墟となった町を見下ろすように建っていましたが、度重なる地震によって柱は崩れ、屋根に乗っていた馬車の像は地面に落ちてしまいました。1404年には、土台だけが確認できたのみでした。その後、15世紀に聖ヨハネ騎士団がこの地を侵略し、巨大な城を建てました。この城を要塞化することが決まると、彼らはマウソロス霊廟の残骸を資材として使ってしまいました。

1856年、マウソロス霊廟の遺跡を調査するために、大英博物館は考古学者チャールズ・トーマス・ニュートンをボドルムに派遣し、彼によってこの遺跡が発見されました。

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マウソロスとアルテミシアについて

ボドルム
ボドルムのマウソロスは、紀元前377年から紀元前353年にかけて小アジア西部のカリア国を統治したアケメネス朝ペルシアの知事でした。紀元前377年、マウソロスは父の後を受け、カリア国の統治者となりました。当時のカリア国は小アジアの西部地中海沿岸にあったペルシアの一州でしたが、首都から離れていたことに加えて当時の州知事であったマウソロスの父がかなりの野心家で近隣の都市や地域を支配下に治めていたため、事実上の独立国でありました。

そして、息子のマウソロスも更に領土を拡大し、最終的には小アジアの南西部全域を手中に収めようとしました。マウソロスとその妹であり妻のアルテミシア(カリア国では統治者がその姉妹と結婚するのが慣習でした。家族内の力や富を維持するためというのがその理由の一つです。)は、首都ハリカルナッソスとその周辺地域を24年にわたり支配することとなります。

マウソロスはギリシャ語を話し、ギリシャの生活や政治に憧れていました。そして、ギリシャの諸都市が海岸沿いに造られ、民主主義の伝統を推奨する優れたものであることに気づいたのです。このためマウソロスは、ギリシャの都市に劣らないような壮大にして難攻不落の首都を建設しようと決心しました。この首都に選ばれたのがハリカルナッソスです。

マウソロスは、ハリカルナッソスを武人の統治者に相応しい都にしはじめました。敵の攻撃に備えるため、町に面している湾を深くし、その掘り出した土で海峡の防御を固めました。更に、城壁や見張り台も設置されました。また、市場に隣接して大きな港を造り、その奥に隠れた小さな港も造りました。この港は敵の不意を着く攻撃に適していたそうです。

一方、内陸部には一般市民のために、広場や道路、家の整備が進められ、4つの門と2つの大通りが造られました。そして、ギリシャ風の劇場や戦争の神アレスを祀った神殿なども建設されました。湾の一画には、マウソロスの巨大な要塞型宮殿が建てられました。この宮殿は、海から敵の攻撃目標となりうる丘の上までしっかり見渡せました。

紀元前353年、マウソロスがアルテミシアに先立って亡くなると、アルテミシアは夫に感謝の意を示すために、当時の世界で最も美しい墓を造ることを決心しました。これが、マウソロスとアルテミシアの名を永く残すことになる大霊廟です。

霊廟の建設開始後すぐに、アルテミシアは自らに迫る危機に気づくことになります。マウソロスの死の知らせを聞いた地中海の征服地ロードス島が、反乱を起こし首都ハリカルナッソスを攻略すべく海軍を送ってきたのでした。このことを知ったアルテミシアは、大きな港の奥にあった秘密の港に自分の船を隠しました。

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そして、ロードス軍が上陸開始すると、アルテミシアの海軍は横から奇襲をかけ、見事にロードス軍を撃破しました。その後、アルテミシアは機転を利かせ、自らの軍を敵船に乗せてロードス島攻略に向かわせました。ロードス人たちは、自分たちの海軍が勝利して帰ってきたと勘違いしたため、防御することもできずに町は陥落し、反乱は鎮圧されました。

夫マウソロスの死から2年後、アルテミシアも後を追うように亡くなりました。伝説によると彼女はマウソロスの遺灰をワインに混ぜて飲み、悲しみのうちに息絶えたといわれています。この伝説から、アルテミシアは献身的な妻の象徴にもなっています。

マウソロスとアルテミシアの遺灰を入れた骨壷は未完成の霊廟に収められました。そして、生贄として大量の動物の死骸が霊廟に向かう階段に置かれ、出入りできないように石やレンガで階段は埋められました。古代ローマの博物学者・プリニウスによると、霊廟が完成する前に依頼主が亡くなったのに建築家たちが工事を中断しなかったのは、この霊廟が自分個人の栄光と手腕の記念になると考えたからだといいます。

 
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マウソロス霊廟の建設

アルテミシアは霊廟建設の費用を全く惜しまなかったそうです。霊廟は街を見渡す丘の上に建てられました。工事場はレンガの壁に囲まれ、建築家たちはその中で作業をしました。まず、中央に墓本体となる石壇が置かれ、ライオンの石造を横に配した階段が石壇に向かって築かれました。そして、この外壁に沿って神や女神の像が置かれ、角には馬に乗った戦士の像が墓を守るように置かれました。これが霊廟の第1層です。

また、この層の上部にはギリシャ神話や歴史の一場面を描いた彫刻帯が施されました。スコパスが東側、ブリュアクシスが北、ティモテオスが南、レオカレスが西の彫刻を担当しました。スコパスは、ギリシャ人とアマゾン族の闘争を描き、他の3人はラピテス族とケンタウロスの闘争などを描きました。

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第1層から第2層へと工事は移ります。第1層から第2層へと36本の柱が上げられました。第2層は外に露出した円柱の集まりでした。短い辺に9本ずつ、長い辺に11本ずつ柱が配されたと考えられています。柱と柱の間には1体ずつ像が置かれ、柱に囲まれた内側には、巨大な屋根を支えるため石のブロックが積まれました。

第3層は、24段のピラミッド型の屋根でした。この頂上には、巨大なクァドリガ(4頭立ての馬車)の像が置かれました。この馬車に、マウソロスとアルテミシアの像が乗っていたとも言われていますが、何も乗っていなかったという説が有力です。根拠としては、ギリシャ世界では主のいない馬車は主の死を意味していたこと、マウソロスとアルテミシアの像は馬車の像のそばで発見されましたが、彼らの像が馬車に乗る格好をしていなかったことなどが挙げられます。彼らの像は、第2層あるいは第1層に他の像と同様に置かれていたそうです。

バビロンの空中庭園

バビロニア
世界の七不思議の中でもバビロンの空中庭園は非常に不可解なものです。庭園の跡らしきものが見つかったことはなく、バビロニアの文書にも一切記載がありません。考古学者たちは今もなお、庭園が本当にバビロンにあったのか?一体何がそこまで特別だったのか?と問い続けています。

バビロンの空中庭園は古代土木技術の偉業とされ、何層もの階段上に庭園を配置し、様々な種類の樹木、つる植物が植えられていたそうです。泥煉瓦を積んで大きな緑の山に似せて造られ、今日のイラク・バービル県ヒッラ付近にあった、古代都市バビロンの中に建設されたと言われています。

その名前からは、空中に浮かぶ庭園が連想されますが、実際には高台に造られた庭園だったようです。あまりに大きいため、遠くから見ると、まるで空中に吊り下げられているように見えたそうです。しかし、「空中」とは何を意味し、どのような外観で、どうやって水を引いていたのか?そもそも、そのようなものは実際に存在していたのだろうか?などの謎に包まれています。

この空中庭園は言い伝えによると、紀元前600年頃にバビロンに建設され、新バビロニアの王・ネブカドネザル二世が、メディア出身で砂漠の国に輿入れするのを嫌がった王妃アミュティスを慰めるために建造したとされています。

しかし、文字記録と考古学的証拠の不足を受けて、専門家の中には大胆な新説を唱える者も出てきました。空中庭園はそもそも、バビロンにはなかったのだとしたら? 世界の他の都市にあったとしてもおかしくないのではないか?という仮説です。

一見、突拍子もないように思えるかもしれませんが、案外そうでもありません。空中庭園のことに触れている古代ギリシャ・ローマの書物は、歴史的事実に神話や伝説を交えて書かれていることが多いです。また、アッシリアやバビロニアの歴史がメソポタミア文明の歴史と混同されることもよくあります。歴史家のディオドロスも、チグリス川沿いにあったアッシリア帝国の首都ニネヴェを、ユーフラテス川沿いにあると書いています。

ディオドロスはまた、多くの動物の姿が刻まれたバビロンの壁について、「馬の背に乗ったセミラミス女王がヒョウに投げ槍を向けており、近くでは夫のニヌスがライオンに槍を投げようとしている」と記しました。しかし、バビロンでそうした場面が刻まれた壁は発見されていません。一方で、新アッシリア王国のニネヴェの北王宮の石壁に彫られた場面とはよく一致しています。

近年行われた調査の結果、英オックスフォード大学のアッシリア学者、ステファニー・ダリー氏は、空中庭園はネブカドネザル2世ではなく、アッシリアの王センナケリブによってニネヴェに作られたのではないか、としています。石に刻まれた王の自慢気な「私は、目にした全ての人が驚嘆するよう、王宮の周囲の高さを上げた。アマヌスの山々を模し、その横にあらゆるかぐわしい植物を植えた高い庭だ」という言葉をその証拠としています。

ただし、メソポタミアの専門家すべてが、ニネヴェに空中庭園が存在したと考えているわけではありません。証拠不足を理由にバビロンを否定する説に、異を唱える人もいます。

シカゴ大学オリエント研究所に所属するメソポタミア考古学の教授マグワイア・ギブソン氏によれば、バビロンにも空中庭園に適した場所が1つあるそうです。南の砦がそれにあたり、 ギブソン氏は「川のすぐほとりに巨大な壁がそびえ立っている。水の利用も容易な唯一の場所だ。この辺りに庭園があれば、王家の居住区からも近い。当時の技術でも、高いところまで水をくみ上げるのは可能だったはずだ。」と説明しています。

謎の解明が楽しみな七不思議ですね!

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バビロンとは?

バビロンは、紀元前18~6世紀の古代メソポタミア地域における主要な王国でした。その名をとどろかせる首都が、ユーフラテス川沿いに建設されました。都市は川をまたいでその両岸に、概ね同じ面積で建設され、時に襲う季節的な洪水を防ぐため、川沿いには険しい堤防が築かれました。元々は、バビロンはアッカドの小さな町で、その起源は紀元前2300年頃のアッカド帝国にまで遡ります。

紀元前19世紀にバビロン第1王朝が興ると、町は小さな都市国家の一部に組み込まれました。紀元前18世紀に「目には目を、歯には歯を」で知られるハンムラビ法典のハンムラビ王が帝国を築いてから間もなく、彼はバビロンを一大都市に造り替え、王となりました。メソポタミア南部地方はその名前にちなんでバビロニア地方と呼ばれるようになり、宗教の中心都市は、ニップルからバビロンへ移行しました。

ハンムラビの息子、サムス・イルナの時代になるとバビロニア帝国は衰退し、その後、バビロンは長らくアッシリア、カッシート、エラムの支配に甘んじることになりました。破壊とアッシリア人による再建の後、紀元前609~539年の短期間ではありましたが、バビロンは新バビロニア帝国の首都となりました。バビロンの空中庭園は古代の七不思議の1つですが、多数の学者は、実際にはアッシリアの首都ニネヴェにあったと考えています。新バビロニア帝国の滅亡後は、アケメネス朝ペルシア、セレウコス朝、パルティア、ローマ帝国、そしてササン朝ペルシアと、バビロンの統治者は変遷していきました。

バビロンが世界最大の都市だった時期は紀元前1770~1670年頃と、紀元前612~320年頃と見られています。恐らく、一番早く人口が20万人に到達した都市でした。その区域の最大範囲は、890~900ヘクタールに及ぶと推測されます。街の遺跡は、今日のイラクのバグダッドの南85km、バービル県のヒッラにあり、壊れた泥レンガの建物と瓦礫の遺丘となっています。

新・世界七不思議

古代ギリシャ・古代ローマ時代に作られた「世界の七不思議」ですが、「新・世界七不思議」は、世界中からの投票によって決められた、現代版の世界の七不思議です。スイスに本拠を置く「新世界七不思議財団」の運営により、2007年に選出されました。

元来の世界の七不思議は、古代に建造されたものから構成されているため、現存するものがギザの大ピラミッドしかないことを考えると、新たに世界の七不思議を選ぶのが妥当と判断したからです。そして、世界中の人々が参加し、1億以上のインターネット及び電話投票で選考が行われた結果、現代版の新たな七不思議が生まれ、有名な遺跡や観光名所が含まれることになりました。

「新・世界七不思議」は、万里の長城(中国)、タージ・マハル(インド)、コロッセオ(イタリア)、ペトラ遺跡(ヨルダン)、コルコバードのキリスト像(ブラジル)、マチュ・ピチュ(ペルー)、チチェン・イッツァ(メキシコ)です。いずれも現存し、テレビで見る機会も多く、私達に馴染みのある建物ですね。ここで新・世界七不思議をご紹介致します。

 
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万里の長城

万里の長城
中国にある万里の長城は、総長約6200kmもあり、かつては「宇宙から唯一肉眼で確認できる人工建造物」とも呼ばれる程でした。万里の長城自体が建築されたのは紀元前にまで遡りますが、そこから崩壊と改築を繰り返して現在に至ります。その為、色々な時代に改築された跡が残っており、まさに中国の歴史を刻んだ建造物だと言えます。

タージ・マハル

タージ・マハル
タージ・マハルは、インド北部アーグラにあるムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンが1631年に死去した愛妃ムムターズ・マハルのために建設した墓廟です。高さ42mのミナレットに囲まれた白亜の廟堂は白大理石で造られ、精巧で美しい象眼彫刻が至るところに施されています。この美しさは、「人類の創造的才能を表現する傑作」と評価され1983年にユネスコの世界遺産に登録されました。インド・イスラム文化の代表的建築物で年間約400万人の観光客が訪れるそうです。また、ディズニー映画「アラジン」の宮殿のモデルになったとも言われています。

コロッセオ

コロッセオ
イタリア・ローマにあるコロッセオは、「ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂」として世界遺産に登録されています。コロッセオは西暦70年(72年という説もあります)に建築が始まり、西暦80年に完成しました。古代ローマ時代、皇帝ウェスパシアヌスの命によって造られたとされる円形闘技場でした。大きさは長径188mの楕円形で、その収容人数は驚きの5万人といわれています。

これは、現代の巨大スポーツスタジアムとほぼ同じ大きさです。ローマの街中にこの巨大な廃墟が堂々と建つ姿は圧倒的な迫力で、古代ローマの栄華と驚くべき建築技術の粋を今に伝えます。これだけの技術を約1900年前の人々が持っていたのは凄いことです。かつては多くの殺し合いが行われたこともあり、今では平和や死刑について考えるイベントに使われることもあるそうです。

ペトラ遺跡

ペトラ遺跡
新・世界の七不思議の一つでもあるヨルダンのペトラは渓谷に広がる古代都市です。立地の良さから、古来より交易の要衝の地であり、砂漠を移動するキャラバン隊の中継基地でもありました。ペトラ遺跡のある場所は、2000年以上前に都市として発展し、現在では神殿や円形劇場、墳墓などが沢山残っています。ペトラとは、ギリシャ語で「崖」を意味します。その名の通り、遺跡は切り立った岩壁を削り取って造られています。ペトラ遺跡は、そのスケールの大きさや壮大さがハリウッドにも認められ、映画インディージョーンズの舞台にもなっています。

キリスト像

キリスト像
コルコバードのキリスト像は、ブラジル・リオデジャネイロのコルコバードの丘に建つ巨大なキリストの像です。1922年のブラジル独立100周年を記念して、1922年から1931年にかけて建設されました。高さ39.6m(台座の高さ9.5m)、左右30m、635トンの重量があります。2012年には「リオデジャネイロ・山と海との間のカリオカの景観群」として世界遺産に登録されました。

キリスト像の建つ「コルコバードの丘」は、ブラジルのリオデジャネイロにある標高710mの丘です。切り立った丘の頂上からリオデジャネイロを360度のパノラマで見下ろすことが出来る人気の観光スポットです。「リオデジャネイロ」には「キリストの神様が見守る街」という意味があり、リオの街を一望できる丘の頂に立つ「コルコバードのキリスト像」は、人々の信仰の象徴でもあります。

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マチュ・ピチュ

マチュ・ピチュ
日本の世界遺産関連の人気投票では常に1位、世界遺産の代名詞のような存在となってきている、マチュ・ピチュは、ペルーのアンデス山脈、標高約2,450mに位置する古代インカ帝国の遺跡です。山の麓から見ることができないため、「空中都市」「インカの失われた都市」などとも呼ばれています。

マチュ・ピチュはケチュア語で「年老いた峰」という意味を持ち、15世紀半ばのインカ帝国時代に築かれ1911年、偶然発見されるまで深い密林に覆われていました。そのため、神殿や大広場、段々畑、墓地、水路や通路が巡らされた住居跡などがそのままの状態で残されています。この隔絶された地に、何故あえて都市を築いたのか?皇帝の別荘だったとする説やコカ栽培所とする説、宗教施設説など、諸説は様々ありますが、アンデス文明は文字を持たなかったため、その当時の歴史を紐解くことは困難を極め、現在もこの謎は解明されていません。

チチェン・イッツァ

チチェン・イッツァ
チチェン・イッツァは1988年に世界遺産に登録されたメキシコ・ユカタン半島の北部に位置する、800年近く続いたマヤ文明最大規模の都市です。6~7世紀頃のマヤ古典期の「旧チチェン・イッツァ」と、10世紀以降に再び築かれた後古典期の「新チチェン・イッツァ」の2つのエリアで構成され、現在まで様々な時代に構築された数々の遺跡が残されています。マヤ人は高度な数学や天文学の知識を持っていたとされ、それが表れている遺跡です。
チチェン・イッツァとは、マヤ語で「聖なる泉のほとりの水の魔法使い」という意味です。

チチェン・イッツァの代表的な建造物である「エル・カスティーヨ」は、マヤの最高神ククルカン(羽を持つ蛇の姿をした農耕の神)を祀るピラミッドです。遺跡に入るとすぐ目に飛び込んでくるので、見逃す方はいないでしょう。「エル・カスティーヨ」は、マヤの天文学を体現するために構築されたと考えられており、暦の意味をもつことで有名です。

 
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