トルコツアーガイド
アクロポリスはどんな場所?歴史的な意味やアテネ以外にもある世界遺産を紹介
歴史の教科書に登場する古代における建築物として知られるアクロポリスは、古代世界における人々の生活の中心地でした。アテネのアクロポリスが特に有名ですが、風化劣化や争いの戦火をくぐり抜けて、いくつもの貴重なアクロポリス遺跡が現存しています。
古代世界におけるアクロポリスの歴史や存在意義、特に魅力のある3つのアクロポリス遺跡をご紹介します。
古代世界において、都市国家をポリスと呼びました。人々は都市国家ポリスに集住(シノイキスモス)しましたが、ポリスの主要部を構成した、神殿を設けた小高い丘を表す場所を、「高い」を意味する単語“アクロス”に由来して「アクロポリス」と呼ぶようになりました。
このアクロポリスは市街を見下ろすことができる場所にあり、ポリスの守護神をまつる神殿が建てられていました。ポリスが建てられる過程では王の宮殿であったとも言われますが、周辺に人々が居住して社会が成長するなかでポリスが成立すると、やがてポリスを守るための神殿や何かあった際の避難場所としての機能を持つ場所に変遷していきました。
また、政治や経済活動、文化などの中心地となったのが、アクロポリスの麓に作られた広場(アゴラ)です。アゴラは、民主化が少しづつ進む中で、人々の会合の場となったり、市場や公共の建物が建ったりなど生活の中心でした。人々は活発に哲学や政治を議論し、商売を通じた情報交換も行われました。
アゴラで議論を交わす中で、かの有名なソクラテスやプラトン、アリストテレスなどによって哲学が生まれました。
哲学者のアリストテレス(土・英:Aristoteles)
アテネのアクロポリスは、紀元前5世紀後半頃までに古代ギリシャに建てられました。高さ156mの丘の上にそびえ立っています。丘は、西側以外はすべて側面が急こう配の岸壁であり、簡単に侵略することのできない位置に建てられました。現在はアテネの街を一望できる場所にあります。
アテナのアクロポリスは複数の建物群からなり、とても規模の大きな遺跡です。古代より少しずつ建設が進み、今の形となりました。アテネのアクロポリスはその歴史的・建築的重要性から1987年にユネスコ世界遺産に認定されています。
Acropolis, Athens - UNESCO World Heritage Centre
紀元前8世紀になるとアクロポリスは徐々に宗教的な性格を帯びるようになり、紀元前6世紀中期には、都市の守護神である女神アテナに捧げられた神殿が設立されました。ドーリア式と呼ばれる、古代ギリシャ建設に見られる重厚感のある柱が用いられて、多くの宗教的な行事が開催されました。
その後、長らくアテネはペルシャの戦いが続くことになります。紀元前490年にマラトンの戦いでペルシャに勝利したことで、最初のパルテノン神殿と呼ばれる女神アテナを祀った重要な寺院の建設が始まり、女神アテナの崇拝に捧げられた宗教の中心地になりました。
しかし、紀元前480年にはペルシャによって、当時まだ建設中だった最初のパルテノン神殿を含めたアクロポリスの建造物はすべて破壊されてしまうのです。
その後ペルシャ人との争いに勝ったアテネは、当時力を持っていた政治家ペリクレスの指導の下、パルテノン神殿、エレクテイオン神殿、プロピュライアなどの多数の建物をもって再建されました。イクティノスとカリクラテスという2人の著名な建築家が手掛け、岩だらけの丘を、現在にも残る美しい複合的な建物群に変えたのです。
アテネのアクロポリスに行った際には、ぜひ見ておきたいポイントを以下でご紹介します。
2度目の作られたパルテノン神殿は、再び女神アテナを祀る神殿として建設されました。ギリシャ古代のドーリア式建築の最高峰と言われ、世界遺産にも認定されました。宗教的には様々な影響を受けた神殿で、6世紀にはキリスト教の建物に変えられ聖堂となり、そして1460年頃のオスマン帝国の支配下では、今度はモスクに変えられました。
オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
その後、1687年の大トルコ戦争の際に弾薬貯蔵庫として要塞化したパルテノン神殿は、ヴェネツィア共和国の攻撃を受けて激しく爆破されてしまうことになります。建物、特に美しい彫像の被害は甚大で、さらに略奪され、もはや事前に描かれていた絵を見ないと、配置もわからない程になってしまいました。1975年以降、アテネのアクロポリスの修復がギリシャ国家プロジェクトとして進められ、現在も継続しています。
ちなみに、ユネスコ(UNESCO)のシンボルマークはパルテノン神殿をかたどったものです。これはパルテノン神殿の守護神であるアテネが智の神であることに由来しています。
エレクテイオン神殿は、紀元前420年~紀元前408年頃に造られたと言われています。ギリシャの古代建築様式の1つである、優雅さが特徴のイオニア式建築の代表作です。ギリシャ神話によると、女神アテナと海神ポセイドンがアテネの守護神の座をかけて争った場所なのだそうです。神殿の名前は、ギリシャ神話の英雄エリクトニオスに捧げられたものであると言われています。
人間味満載な神々と英雄の『ギリシャ神話』基礎知識を徹底解説! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
エレクテイオン神殿には、6人の少女像を柱にした柱廊があります。この柱はカリアティードと呼ばれ、神殿の屋根の一部を支えています。実は現在あるこの6本はレプリカです。オリジナルの5本は新アクロポリス博物館に展示されており、残り1本は現在大英博物館にあります。
アクロポリスの入り口にある巨大な建造物です。プロピュライアという言葉は「門の前」という意味なのですが、「門となる建物」を意味するようになってきました。実は初代のプロピュライアも同じく聖なる入り口として建設されましたが、ペルシャ戦争時に破壊されてしまいました。再建しようとするも途中で中断しています。
その後邸宅として使われたり、落雷で格納されていた火薬が大爆発を起こしたりと、消耗が進んだプロピュライアですが、ギリシャの独立後、1909年から1917年にかけて集中した復元工事が行われ、現在も継続しています。
アテナ・ニケ神殿は、紀元前420年に完成したアテネのアクロポリスで最も小さい寺院で、南西の高い崖の端にあります。アテナ・ニケ神殿を設計したのは、パルテノン神殿を設計したイクティノスとともにその建造に携わったカリクラテスです。
アテナ・ニケ神殿は美しい白い大理石のイオニア式ですが、隣に建つプロピュライアとの視覚的・芸術的な調和性を考慮して、通常のイオニア式の建物よりも柱を太くしていると考えられています。
その名の通り、内部にはアテナ・ニケの像が置かれていました。現在は大理石で作られたニケの彫刻がアクロポリス美術館で展示されています。
ペルガモン(ベルガマ)は、トロイ遺跡から230km南下したトルコのエーゲ海側にある都市です。紀元前3世紀半ばから2世紀にかけて、ギリシャ人の作ったアッタロス朝の首都でした。文化・政治・科学の中心として繁栄し、羊皮紙発祥の地としても知られています。
羊皮紙とは?ペルガモン王国で発展した筆写材の特徴や歴史、作り方
上述のとおり、ギリシャではアテネやなどの都市国家(ポリス)ができていましたが、だんだんと海の向こうにあるトルコにもポリスを造り始めました。ペルガモン(ベルガマ)にも造られ、標高335mの丘の上にアクロポリスが建てられたのです。
このアクロポリス遺跡全般やトラヤヌス神殿をはじめとする歴史的建造物が、街外にある紀元前4世紀に造られた総合医療施設跡のアスクレピオンとともに、2014年に世界遺産に登録されました。ペルガモン(ベルガマ)はアクロポリスがある上市と、中市、下市に広がっていて、現在ロープウェイで一番上の上市まで上がることができるようになっています。ロープウェイに乗りながらでも、各地に遺跡を確認できます。
古代ペルガモン(ベルガマ)は、フィレタイロスが紀元前4世紀にペルガモン王国(アッタロス朝)を築いてから大きく繁栄することとなります。だんだんと領土を広げ、文化・政治・科学の中心地となりました。そして、エウメネス2世の頃、アテネ神殿やゼウス祭壇が建設されることとなります。
その後、ローマ帝国の属国となったペルガモン(ベルガマ)はトラヤヌス帝の時代に皇帝神殿を建立しました。これがトラヤヌス神殿です。医療施設アスクレピオンもますますの発展を見せ、高度な医療施設としての地位を確立していました。近年修復作業が進められており、その頃の繁栄を今再び目にすることが出来るようになっています。
ペルガモン(ベルガマ)のアクロポリスに行った際には、ぜひ見ておきたいポイントを下記にご紹介しておきましょう!
ペルガモン(ベルガマ)の遺跡|トルコの人気世界遺産・観光スポット | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
トラヤヌス神殿はローマ帝国の属国となった時代、トラヤヌス帝時代に建設が始まりました。すべて白い大理石で作られ、ハドリアヌス帝時代に完成しました。2人の皇帝への忖度から、完成時にはそれぞれの像が建てられていたそうです。その遺跡の大理石片も見つかっています。
神殿には、古代ギリシャの建築様式の一つであるコリント様式の柱が正面に6柱、側面に9柱が立ち並びます。建設当初はこの柱廊に囲まれて、とても豪華な佇まいであったと推測されています。現在は数本の柱が復元されたのみとなっていますが、堂々たる姿を思い起こさせてくれ、今でも幻想的な雰囲気がうかがえます。
アクロポリスにおいて一番目につく場所に建てられており、アクロポリス内にとどまらず、市街地のどこからもこの美しい神殿を目にすることが出来たそうです。現在は修復が進んでおり、当時を思わせる美しい姿が垣間見えるでしょう。
ベルガマのアテネ神殿跡の北側にある図書館です。当時はエジプトのアレクサンドリア図書館に続き、世界第2位の図書館であると言われていました。実際、アレクサンドリア図書館に匹敵するほどの大きさで、20万冊の蔵書を抱えていたそうです。エウメネス二世が建設したこの図書館は、ペルガモンの高い文化レベルを物語っています。
当時の書物はエジプトで作られていたパピルスで書かれていました。エジプトのアレキサンドリア図書館は、その世界一の地位をペルガモン図書館に脅かされそうであると危機感を覚え、ペルガモンへのパピルスの輸出を止めてしまいます。それに対して、ペルガモンは自力で考案したのが「羊皮紙」です。羊皮紙の誕生は、結果的に大きな副産物となりました。
英語のparchment=羊皮紙の語源はペルガモンにあるそうです。
古代ペルガモンには3つの劇場が存在しますが、最も有名で重要なものがこの円形劇場で、アテナ神殿の西の斜面に展開する、紀元前3世紀頃に建設されたヘレニズム時代の劇場です。扇型に上に向けて広がり、観客席は2つの踊り場で大きく3つに分かれています。収容人員は驚きの1万人でした。とても傾斜が急で、観客席の段数は80段以上にもなります。観光の際は転げ落ちないように注意が必要ですね。
劇場の一番の下部には劇場テラスがあり、北の端にディオニソス神殿がありました。古くまでさかのぼると、演劇は神ディオニソスに捧げる儀式から生まれたものであったとされています。そのため、この時代の劇場には、近くにディオニソス神殿が建てられていたものが多くみられ、演劇の前にディオニソスに犠牲を捧げた神事がそこで執り行なわれていました。
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アッソスは、現在はべフラムカレまたはべフラムと呼ばれ、現在のトルコにあります。エーゲ海の都市チャナッカレから南へ85kmの位置にあり、リゾート地としてトルコの人々の心を和ませてくれている小さな町です。新しく家を建てることは禁じられており、既存の家のみが復元を重ねながら建っています。
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アッソスとは、厳密にはべフラムカレに隣接した、遺跡が多く残るエリアの事を指します。海抜248mの場所に、アクロポリスの丘とその周辺の古代遺跡が残っているのです。
アッソスは、隣のレスボス島から渡ってきたギリシャ人によって建設されました。紀元前6世紀にはリディア王国の統治下にあり、紀元前530年にはアクロポリスの丘にドーリア式建築のアテネ神殿が築かれました。丘の斜面にはアゴラ(集会所)や競技場、劇場も造られましたが、その後ペルシャ王国に組み込まれてしまいます。
その後紀元前4世紀頃には学問が盛んになり、哲学者アリストテレスもこの地に住んだとして、知的な活気に溢れる町として広く知られていました。その後紀元前2~3世紀のアッソスは、ペルガモン王国の支配下に入っています。
アッソスのアクロポリスに行った際には、ぜひ見ておきたいポイントを下記にご紹介しておきましょう!
アッソス観光ガイド | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
古代世界におけるアクロポリスの歴史や存在意義、特に魅力のある3つのアクロポリス遺跡をご紹介します。
目次
アクロポリスの意味
古代世界において、都市国家をポリスと呼びました。人々は都市国家ポリスに集住(シノイキスモス)しましたが、ポリスの主要部を構成した、神殿を設けた小高い丘を表す場所を、「高い」を意味する単語“アクロス”に由来して「アクロポリス」と呼ぶようになりました。
このアクロポリスは市街を見下ろすことができる場所にあり、ポリスの守護神をまつる神殿が建てられていました。ポリスが建てられる過程では王の宮殿であったとも言われますが、周辺に人々が居住して社会が成長するなかでポリスが成立すると、やがてポリスを守るための神殿や何かあった際の避難場所としての機能を持つ場所に変遷していきました。
世界史におけるアクロポリスの重要性
アクロポリスは、ポリスに住む人々にとって精神的かつ軍事的な中心地になっていったと言われています。また、政治や経済活動、文化などの中心地となったのが、アクロポリスの麓に作られた広場(アゴラ)です。アゴラは、民主化が少しづつ進む中で、人々の会合の場となったり、市場や公共の建物が建ったりなど生活の中心でした。人々は活発に哲学や政治を議論し、商売を通じた情報交換も行われました。
アゴラで議論を交わす中で、かの有名なソクラテスやプラトン、アリストテレスなどによって哲学が生まれました。
哲学者のアリストテレス(土・英:Aristoteles)
最も有名なのはアテネのアクロポリス(ギリシャ)
アテネのアクロポリスは、紀元前5世紀後半頃までに古代ギリシャに建てられました。高さ156mの丘の上にそびえ立っています。丘は、西側以外はすべて側面が急こう配の岸壁であり、簡単に侵略することのできない位置に建てられました。現在はアテネの街を一望できる場所にあります。
アテナのアクロポリスは複数の建物群からなり、とても規模の大きな遺跡です。古代より少しずつ建設が進み、今の形となりました。アテネのアクロポリスはその歴史的・建築的重要性から1987年にユネスコ世界遺産に認定されています。
Acropolis, Athens - UNESCO World Heritage Centre
アテネのアクロポリスの歴史
アクロポリスのある丘には、非常に早い時期から人が住んでいた様々な証拠が見つかっていますが、現在のアクロポリスの原形となる要塞の壁は紀元前13世紀に建てられました。ミケーネ文明時代の支配者の住居を護っていたと言われています。紀元前8世紀になるとアクロポリスは徐々に宗教的な性格を帯びるようになり、紀元前6世紀中期には、都市の守護神である女神アテナに捧げられた神殿が設立されました。ドーリア式と呼ばれる、古代ギリシャ建設に見られる重厚感のある柱が用いられて、多くの宗教的な行事が開催されました。
その後、長らくアテネはペルシャの戦いが続くことになります。紀元前490年にマラトンの戦いでペルシャに勝利したことで、最初のパルテノン神殿と呼ばれる女神アテナを祀った重要な寺院の建設が始まり、女神アテナの崇拝に捧げられた宗教の中心地になりました。
しかし、紀元前480年にはペルシャによって、当時まだ建設中だった最初のパルテノン神殿を含めたアクロポリスの建造物はすべて破壊されてしまうのです。
その後ペルシャ人との争いに勝ったアテネは、当時力を持っていた政治家ペリクレスの指導の下、パルテノン神殿、エレクテイオン神殿、プロピュライアなどの多数の建物をもって再建されました。イクティノスとカリクラテスという2人の著名な建築家が手掛け、岩だらけの丘を、現在にも残る美しい複合的な建物群に変えたのです。
アテネのアクロポリスに行った際には、ぜひ見ておきたいポイントを以下でご紹介します。
パルテノン神殿
2度目の作られたパルテノン神殿は、再び女神アテナを祀る神殿として建設されました。ギリシャ古代のドーリア式建築の最高峰と言われ、世界遺産にも認定されました。宗教的には様々な影響を受けた神殿で、6世紀にはキリスト教の建物に変えられ聖堂となり、そして1460年頃のオスマン帝国の支配下では、今度はモスクに変えられました。
オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
その後、1687年の大トルコ戦争の際に弾薬貯蔵庫として要塞化したパルテノン神殿は、ヴェネツィア共和国の攻撃を受けて激しく爆破されてしまうことになります。建物、特に美しい彫像の被害は甚大で、さらに略奪され、もはや事前に描かれていた絵を見ないと、配置もわからない程になってしまいました。1975年以降、アテネのアクロポリスの修復がギリシャ国家プロジェクトとして進められ、現在も継続しています。
ちなみに、ユネスコ(UNESCO)のシンボルマークはパルテノン神殿をかたどったものです。これはパルテノン神殿の守護神であるアテネが智の神であることに由来しています。
エレクテイオン神殿
エレクテイオン神殿は、紀元前420年~紀元前408年頃に造られたと言われています。ギリシャの古代建築様式の1つである、優雅さが特徴のイオニア式建築の代表作です。ギリシャ神話によると、女神アテナと海神ポセイドンがアテネの守護神の座をかけて争った場所なのだそうです。神殿の名前は、ギリシャ神話の英雄エリクトニオスに捧げられたものであると言われています。
人間味満載な神々と英雄の『ギリシャ神話』基礎知識を徹底解説! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
エレクテイオン神殿には、6人の少女像を柱にした柱廊があります。この柱はカリアティードと呼ばれ、神殿の屋根の一部を支えています。実は現在あるこの6本はレプリカです。オリジナルの5本は新アクロポリス博物館に展示されており、残り1本は現在大英博物館にあります。
プロピュライア
アクロポリスの入り口にある巨大な建造物です。プロピュライアという言葉は「門の前」という意味なのですが、「門となる建物」を意味するようになってきました。実は初代のプロピュライアも同じく聖なる入り口として建設されましたが、ペルシャ戦争時に破壊されてしまいました。再建しようとするも途中で中断しています。
その後邸宅として使われたり、落雷で格納されていた火薬が大爆発を起こしたりと、消耗が進んだプロピュライアですが、ギリシャの独立後、1909年から1917年にかけて集中した復元工事が行われ、現在も継続しています。
アテナ・ニケ神殿
Jebulon, CC0, via Wikimedia Commonsアテナ・ニケ神殿は、紀元前420年に完成したアテネのアクロポリスで最も小さい寺院で、南西の高い崖の端にあります。アテナ・ニケ神殿を設計したのは、パルテノン神殿を設計したイクティノスとともにその建造に携わったカリクラテスです。
アテナ・ニケ神殿は美しい白い大理石のイオニア式ですが、隣に建つプロピュライアとの視覚的・芸術的な調和性を考慮して、通常のイオニア式の建物よりも柱を太くしていると考えられています。
その名の通り、内部にはアテナ・ニケの像が置かれていました。現在は大理石で作られたニケの彫刻がアクロポリス美術館で展示されています。
名称 | アテネのアクロポリス(Acropolis of Athens) |
営業時間 | 8時00分~20時00分(冬は時間が変わる可能性あり) ※入場は19:40まで |
定休日 | なし ※予告なく変わることがあります |
入場料 | 20ユーロ |
事前予約 | 不要 |
所要時間 | 1時間程度 |
公式サイト | http://odysseus.culture.gr/h/3/eh351.jsp?obj_id=2384 |
アテネだけじゃない!世界的に名高いアクロポリス遺跡
アクロポリスと言えばアテネを思い浮かべる人が多いと思いますが、歴史的価値の高い貴重なアクロポリスの遺跡は他にも世界各地にあります。ここでは、特におすすめしたい、世界遺産にも登録されているトルコの有名なアクロポリスをご紹介します。ペルガモン(ベルガマ)のアクロポリス(トルコ)
ペルガモン(ベルガマ)は、トロイ遺跡から230km南下したトルコのエーゲ海側にある都市です。紀元前3世紀半ばから2世紀にかけて、ギリシャ人の作ったアッタロス朝の首都でした。文化・政治・科学の中心として繁栄し、羊皮紙発祥の地としても知られています。
羊皮紙とは?ペルガモン王国で発展した筆写材の特徴や歴史、作り方
上述のとおり、ギリシャではアテネやなどの都市国家(ポリス)ができていましたが、だんだんと海の向こうにあるトルコにもポリスを造り始めました。ペルガモン(ベルガマ)にも造られ、標高335mの丘の上にアクロポリスが建てられたのです。
このアクロポリス遺跡全般やトラヤヌス神殿をはじめとする歴史的建造物が、街外にある紀元前4世紀に造られた総合医療施設跡のアスクレピオンとともに、2014年に世界遺産に登録されました。ペルガモン(ベルガマ)はアクロポリスがある上市と、中市、下市に広がっていて、現在ロープウェイで一番上の上市まで上がることができるようになっています。ロープウェイに乗りながらでも、各地に遺跡を確認できます。
古代ペルガモン(ベルガマ)は、フィレタイロスが紀元前4世紀にペルガモン王国(アッタロス朝)を築いてから大きく繁栄することとなります。だんだんと領土を広げ、文化・政治・科学の中心地となりました。そして、エウメネス2世の頃、アテネ神殿やゼウス祭壇が建設されることとなります。
その後、ローマ帝国の属国となったペルガモン(ベルガマ)はトラヤヌス帝の時代に皇帝神殿を建立しました。これがトラヤヌス神殿です。医療施設アスクレピオンもますますの発展を見せ、高度な医療施設としての地位を確立していました。近年修復作業が進められており、その頃の繁栄を今再び目にすることが出来るようになっています。
ペルガモン(ベルガマ)のアクロポリスに行った際には、ぜひ見ておきたいポイントを下記にご紹介しておきましょう!
ペルガモン(ベルガマ)の遺跡|トルコの人気世界遺産・観光スポット | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
トラヤヌス神殿
トラヤヌス神殿はローマ帝国の属国となった時代、トラヤヌス帝時代に建設が始まりました。すべて白い大理石で作られ、ハドリアヌス帝時代に完成しました。2人の皇帝への忖度から、完成時にはそれぞれの像が建てられていたそうです。その遺跡の大理石片も見つかっています。
神殿には、古代ギリシャの建築様式の一つであるコリント様式の柱が正面に6柱、側面に9柱が立ち並びます。建設当初はこの柱廊に囲まれて、とても豪華な佇まいであったと推測されています。現在は数本の柱が復元されたのみとなっていますが、堂々たる姿を思い起こさせてくれ、今でも幻想的な雰囲気がうかがえます。
アクロポリスにおいて一番目につく場所に建てられており、アクロポリス内にとどまらず、市街地のどこからもこの美しい神殿を目にすることが出来たそうです。現在は修復が進んでおり、当時を思わせる美しい姿が垣間見えるでしょう。
ペルガモン図書館
ベルガマのアテネ神殿跡の北側にある図書館です。当時はエジプトのアレクサンドリア図書館に続き、世界第2位の図書館であると言われていました。実際、アレクサンドリア図書館に匹敵するほどの大きさで、20万冊の蔵書を抱えていたそうです。エウメネス二世が建設したこの図書館は、ペルガモンの高い文化レベルを物語っています。
当時の書物はエジプトで作られていたパピルスで書かれていました。エジプトのアレキサンドリア図書館は、その世界一の地位をペルガモン図書館に脅かされそうであると危機感を覚え、ペルガモンへのパピルスの輸出を止めてしまいます。それに対して、ペルガモンは自力で考案したのが「羊皮紙」です。羊皮紙の誕生は、結果的に大きな副産物となりました。
英語のparchment=羊皮紙の語源はペルガモンにあるそうです。
円形劇場とディオニソス神殿
古代ペルガモンには3つの劇場が存在しますが、最も有名で重要なものがこの円形劇場で、アテナ神殿の西の斜面に展開する、紀元前3世紀頃に建設されたヘレニズム時代の劇場です。扇型に上に向けて広がり、観客席は2つの踊り場で大きく3つに分かれています。収容人員は驚きの1万人でした。とても傾斜が急で、観客席の段数は80段以上にもなります。観光の際は転げ落ちないように注意が必要ですね。
劇場の一番の下部には劇場テラスがあり、北の端にディオニソス神殿がありました。古くまでさかのぼると、演劇は神ディオニソスに捧げる儀式から生まれたものであったとされています。そのため、この時代の劇場には、近くにディオニソス神殿が建てられていたものが多くみられ、演劇の前にディオニソスに犠牲を捧げた神事がそこで執り行なわれていました。
オーダーメイドツアーのお問合せ
名称 | ペルガモンのアクロポリス |
営業時間 | 8時00分~19時00分 ※入場は18:00まで |
定休日 | なし ※予告なく変わることがあります |
入場料 | 60トルコリラ |
事前予約 | 不要 |
所要時間 | 1時間程度 |
公式サイト | https://muze.gov.tr/muze-detay?DistId=AKR&SectionId=AKR01 |
アッソスのアクロポリス(トルコ)
アッソスは、現在はべフラムカレまたはべフラムと呼ばれ、現在のトルコにあります。エーゲ海の都市チャナッカレから南へ85kmの位置にあり、リゾート地としてトルコの人々の心を和ませてくれている小さな町です。新しく家を建てることは禁じられており、既存の家のみが復元を重ねながら建っています。
エーゲ海の魅力について徹底解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
アッソスとは、厳密にはべフラムカレに隣接した、遺跡が多く残るエリアの事を指します。海抜248mの場所に、アクロポリスの丘とその周辺の古代遺跡が残っているのです。
アッソスは、隣のレスボス島から渡ってきたギリシャ人によって建設されました。紀元前6世紀にはリディア王国の統治下にあり、紀元前530年にはアクロポリスの丘にドーリア式建築のアテネ神殿が築かれました。丘の斜面にはアゴラ(集会所)や競技場、劇場も造られましたが、その後ペルシャ王国に組み込まれてしまいます。
その後紀元前4世紀頃には学問が盛んになり、哲学者アリストテレスもこの地に住んだとして、知的な活気に溢れる町として広く知られていました。その後紀元前2~3世紀のアッソスは、ペルガモン王国の支配下に入っています。
アッソスのアクロポリスに行った際には、ぜひ見ておきたいポイントを下記にご紹介しておきましょう!
アッソス観光ガイド | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
アテナ神殿
アッソスのアクロポリスの最も高い場所にあったアテナ神殿は、上述のとおり紀元前530年前後にドーリア式建築で建立されました。長道が13本、短道が6本の柱が並ぶ細長い建物で、現在は土台部分が残っているのみとなっています。名称 | アッソス遺跡(Assos Ruins) |
住所 | Behramkale Köyü, 17860 Behram, Ayvacık- Çanakkale /Turkey |
営業時間 | 8:30~19:00(4月から10月)、8:30~17:00(11月から3月) ※チケット売り場は30分早く閉まります。 |
定休日 | 無し ※砂糖祭と犠牲祭の初日は13:00より開館 |
入場料 | 25 TL(約340円)、8歳未満の子供は無料。 |
事前予約 | 不要 |
所要時間 | 1時間程度 |