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トルコツアーガイド

コーラ博物館、イスタンブール


コーラの初期の歴史

コーラ
一説にこの教会は西暦413年のテオドシウスⅡ世の城壁建設前から存在していたとありますが、これは「コーラ」という言葉の地形学的解釈から発したものと思われます。この言葉は国、土地、そして郊外を意味します。この種の説は紛らわしく、矛盾もあります。キリストはパントクラトール(全能者)、アカタレプトス(無限者)、聖母はパマカリストス(祝福された)、エレオウサ(慈悲深い)という神秘的な属性で定義づけられていましたが、14世紀までに、彼らに対して教会を寄進するという習慣ができていました。同じ場所に建てられてきた前の教会にはあてはまりませんが、現在のテオドレ・メトキテスによって修復、拡大された教会がこの習慣に従って「生命の住処」としてのキリスト、「包含されるはずなき者の住処」としての聖母に捧げられたのは確かです。

7世紀初めに今の場所に建てられた最初の教会が経てきた建築学的変化を追うことには一般の旅行者の興味を越えることでしょう。多くの教会や修道院と同様に聖像破壊運動(730~843)とその後の第四十字軍によるラテン帝国のコンスタンティノープル占領(1204~1261)時が苦難の時代でした。ドームやミナレット(尖塔)のようなオスマン建築を数に入れないとすると、現在の建築は三種の異なる建築様相を見せています。

最初のものは、1080年に遡ります。皇帝アレクシオス1世コムネノス(1081~1118)の義理の母であるマリア・ドカエナによって再建されました。彼女は一時期、ドカス家とコムネノス家において非常に有力な人物でした。彼女が建てた教会が老朽した際、それを彼女の孫のイサク・コムネノス(皇帝アレクシオス1世コムネノスとイレネ・ドカエナの息子)が再建しました。12世紀初めのことでした。内ナルテクスのデイシス(請願)のシーンにこの第2の教会に関する手懸かりがあります。教会の創建者がパネルの一角に描かれています。

ビザンツ帝国の一王朝のコムネノス朝がコーラの近くに位置するブラケルナエ宮殿に移り、また1261年にラテン帝国からコンスタンティノープルが奪回されビザンツ帝国が再建されると、コーラの重要性は増しました。聖ソフィア教会と共に、コンスタンティノープルの2つの主要な教会と見なされたのです。

テオドレ・メトキテスの教会

コーラ博物館
現在の建物にあるドームはオスマン様式で、木材でできていて、漆喰で塗られています。18世紀に建てられました。胴郡は前の建物からのものです。目を凝らすと柱の上郡の長押に東西南北各方位に4つの組み合わせ文字が見えます。これらは創建者の名や称号を示しています。即ち、東:テオドレ、西:メトキテス、南:ロゴテテース(高官)、北:クレトール(所有者)です。

ナーベ(身廊)はイスラム教徒が祈る重要な場所だった為、祭壇や聖像のような備品は取り払われました。アブス(後陣)の大理石でできたミヒラーブ(壁のくぼみ)は、ムスリムが祈るメッカと同じ方向を向いていたので現在まで残されました。現在ある大理石のパネルが以前からあった擁壁をメトキテスが修復させたのか、或いは彼自身が新たに付けたのかは不明です。聖ソフィア教会のものと同様、大理石は紙のように薄くカットされて壁に貼られました。当時の技術では職員が二人がかりで一日わずか5cmしか切れなかったことを思うと、大理石をカットすることがいかに大変な仕事だったかがよくわります。

テオドレ・メトキテス(1269~1332推定)はコーラの最後の復興者でした。36歳にし て、皇帝アンドロニコスⅡ世パライオロゴス(1282~1328)治世下の大宰相の座に就き、財務長官も兼ね、権力と資力でコ-ラを復興し立派にしました。彼は当時の支配階級と密接な関係にあった為、アンドロニコスⅢ世によってアンドロニコスⅡ世の政府が転覆させられると、流刑に処されました。晩年にはコーラヘ戻ることが許され、死ぬまでコーラで過ごしました。

メトキテスがいつコーラの修復に着手したかは記録に残っていませんが、ナーベの復元、外ナルテクスと側堂の増築、大規模なモザイク装飾は5年以上の年月を費やしたに違いありません。これら全ての完成は1321年の年頭となっています。恐らくナーベのモザイクを最初に、そしてナルテクスのモザイク、最後に側堂のフレスコの順に完成していったのでしょう。教会は、1510年にスルタン・バヤジィッドⅡ世(1481~1512)の大宰相であったアティック・アリ・パシャによって、モスクに変えられました。

モザイク

聖母マリア
当時の美術家たちが古典への懐古指向を示したことから、13世紀後半のビザンツ美術はしばしば“パレオロゴス朝ルネサンス”と称されます。
ラテン帝国のコンスタンティノープル占領により、多くのピザンツ美術家は自分の芸術を受け入れてくれるパトロンを求めて、バルカン半島やロシアヘ移住してしまいました。残った者たちは新しいパトロンの趣味に迎合せねばなりませんでした。モニュメンタルな絵画や、特にモザイクはすたれ、イコン(聖画像)、宝石装飾、彫刻などが新しい潮流となりました。エマーユ・クロワゾネ(有線七宝)は完全に忘れ去られました。12世紀に始まったとされる芸術の世俗化傾向はこの時期にきて強まりました。

1261年の首都奪回により、多くの芸術家たちがコンスタンティノープルヘ戻り始めました。50年以上の年月を経た後なので、戻って来た芸術家たちはコンスタンティノープルから去って行った芸術家たちではありませんでした。彼らはもはや既成のイコン描写の方法論に縛られることはありませんでした。ある者はニケーアから、またある者はセルビアから来ていましたが、ほとんどの者は今までにコンスタンティノープルを見たこともなかったそうです。

彼らの視野は広く、芸術はその父の時代よりも一層個別的でした。世俗化の時期を経て、新しいスタイルを持った新しい宗教美術が誕生しました。しかし、中性的思考パターンがまったく消滅したわけではありませんでした。例えば、誘惑の場での悪魔や「幼児大虐殺」でのヘロデ王、兵士のような邪悪な者を横顔で描くのは昔のスタイルの踏襲でした。しかしながらコーラでは、これらの規則は緩んでいたようです。女中や見物人のような重要でない人物も横顔で描かれているし、また普通ビザンツ美術では存在しない後ろ向きの人物も描かれています。その他、ヒダの多い服の裾をホック状に描くこと、裸足の足に影を描いて紐なしサンダルを履いているように見せること等で、コーラの芸術家たちも新しい表現方法を試みているような印象を受けます。

壁画モザイクの技術

モザイク
モザイクを作る仕事は莫大な費用を要すため、裕福なパトロンが必要でした。このため、モザイクの主題やスタイルは、他の芸術よりもさらにパトロンの趣味やその時代の政治、社会を反映することとなったのです。現存する文書によれば、3世紀以後大都市には、大きな仕事をすることのできるモザイク師たちのグループが存在していたようです。

モルタルは何層かに分けて塗られました。時には瀝青や樹脂やタールのような水を通さないものがモルタルを塗る前につけられました。最初のモルタルの層は粗い砂や砕石を含んでいました。この層には補強のため、特にドームのような斜面部には平頭の釘が打ち付けられました。第二に、小さな砕石を含んだよりきめの細かいモルタルを塗りました。第三の層は石灰の接合剤です。コーラのナーベにある聖母ホディギトリア型の立像には接合線が見え、大きなモザイクは何度かに分けてモルタルを塗らなければならなかったことを示しています。下書きは大抵モザイク師自身の手によって第三層に描かれました。図案は自由に考えるのではなく、図案教本集である手写本の中の伝統的な図案を基にしていた。金のテッセラで覆われる予定の部分は赤く印がつけられましたが、これはシノピアと呼ばれ、小アジアの町、シノップに由来しています。この赤い下書きはコーラでも金のテッセラが落ちてしまった壁の地肌にくっきりと残っています。

モザイクのテッセラは、最上層のモルタル目地にはめ込まれます。漆喰が二層あることで下層からくる湿り気が上の漆喰を柔らかくし、指で押さえるだけテッセラをはめ込むことができます。モザイクは神聖さを強調するため見物人の注意をひく最大の視覚的効果を与えねばなりませんでした。このためビザンツのモザイクではテッセラだけでなく、時には最上層のモルタルも起伏させて、印象を強める努力をしています。

テッセラは、ナトリウムかカリウムの酸化物とカルシウムの類いの酸化物2種を砂と混ぜ、まきで焚いた炉で熱して生産します。砂の質が最も重要でした。例えば、アレクサンドリアで作られた透明なガラスは鉄分を含まない良質の銀砂からのみ作られました。色をつける時は、流動体状のガラスに焼き込み、耐火粘土製の鋳型の中(およそ直径10cm、深さ1-2.5cm)で融合されました。

金色や銀色のテッセラを作る時は、まず信じられない程の薄さに叩かれた金箔をすでに作られた耐火粘土製の型の中にあるガラスに手で取りつけます。これを暖めて金箔をしっかりと粘着させます。その上にガラスを注ぎ込み平たく押しつけます。こうして表面は薄く背面は厚い2層のガラスにはさまれた、美しい酸化しにくい金箔入りガラスができ上がります。これらのテッセラは平面に使われると金属的光沢を強く放ちます。この過剰な反射を避けるため、わざとでこぼこに埋められています。人物の顔や頭は、モザイク師の名匠によって最後に仕上げられていたのでしょう。フレスコ画に比べモザイクは非常に手のかかる仕事でした。コーラではフレスコは1年で完成されたとされていますが、モザイクの方はおそらく少なくとも3~4年かかったに違いありません。

モザイク発展初期の歴史

コーラ博物館
モザイクは、イメージの凝集した一表現様式であり、その構成要素は石、ガラス、陶滋でできた揃い不揃いの小片(テッセラ)で成り立ち、漆喰で固定されています。このようなモザイクの出現は紀元前3千年に遡ります。シュメールの古代都市ウルク(現ワルカ)の発掘にとって、頭部が色ガラスになっている円錐体を多数はめ込んだ壁が発見されています。

アナトリアでの最古の例は紀元前7~8世紀になります。ゴルディオンの発掘で白、黒、青、深紅の色石を使った人物像でないモザイクが発見されました。紀元前4世紀までには、小石を使ったモザイクが流行し、アテネ、スパルタ、シシリー、アッソス、ビレーネのような都市によく見られました。

現在のようなモザイクは紀元前2世紀にペルガモンで初めて作られました。エウメネス王の宮殿に芸術家ヘバイストンが自然の小石とガラスの砕片を使用して作り、自分のサインも残しています。また、ソソスの作品をローマ人がコピーしたものは博物館に残っています。紀元前1世紀に床モザイクの技術がローマに紹介されました。アナトリアにあるローマ時代の最も美しいモザイクはオロンテス河のアンティオキアで作られていました。

3世紀末まで床に限られていたモザイクはキリスト教普及に従って壁に多用されはじめました。テオドシウスⅡ世(408~450)は神聖なシンボルを舗床に使うことを禁止しました。しかし、宗教色のないモザイクの好例(大宮殿の舗床)が生み出されたのもコンスタンティノープルでした。
角ガラスは壁モザイクの重要な要素であり、新しい宗教の栄光を表す格好の材料となりました。コーラの属した中世キリスト教時代とは、またモザイクの黄金時代であったのです。

コーラのある地区の町並み

コーラのある地区は古いイスタンブールの面影を残す貴重な一角です。コーラは16世紀にモスク(回教寺院)に改造されてカーリエ・ジャーミィと呼ばれるようになりました。また、カーリエという言葉はギリシア語のコーラがそうであったようにアラビア語で“郊外”を意味します。

旅行者の方々がこの博物館に来ようとしてこの辺りの狭い路地に入り込んだなら、往々にして人なつこい子供達に囲まれることになるでしょう。また、美しく縁どられた白いカーテンの背後からは、母親達の好奇心の強い眼差しを感じることでしょう。日々の洗濯物がこうした木造の家々の窓にあたかも万国旗のように翻っています。

現在このコーラ付近の家並みが残されているのは、ひとえにトルコ旅行自動車協会の会長であるチェリック・ギュレルソイ氏のお陰です。木造の家並みを保持しようとする氏の弛みない努力がなかったならば、今頃家並みはすっかり崩れ去ってしまっていたか、醜いコンクリートのアパート群に変わってしまっていたことでしょう。彼は1974年から修復に着手し今も続けています。彼の努力のお陰でこの一画にある木造の家々、そこに住む人々、カフェ、レストラン、オスマン朝時代の泉に庭等、すべてコーラの切っても切り離せない一部となっているのです。

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