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コンスタンティノープルは世界の中心だった!ビザンツ帝国首都の歴史と名前の変遷
トルコの最大都市イスタンブールの前身がコンスタンティノープルであったことは皆さんご存じかと思います。約1600年間ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国の3帝国の首都となり、常に歴史の大舞台に立ってきました。歴史上、最も重要な都市であるコンスタンティノープルは、昔から世界中の人々が集まり、文化や宗教や商業の中心地となって繁栄してきました。
ここでは、このコンスタンティノープルの町がどのように建設され、どのような歴史を辿ったのか、現在に残したものは何かなど、徹底解説致します。
コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が建設してから1922年まで、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ラテン帝国、オスマン帝国と約1600年間、4つの帝国の首都であり、世界最大のメトロポリスであり、歴史の大舞台の中心地として翻弄されてきました。
「コンスタンティノープル」は英語であり、ラテン語では「コンスタンティノポリス」=「コンスタンティンの町」を意味します。
南はエーゲ海に続く内海のマルマラ海、北東は天然の良港である金閣湾に囲まれ、またボスポラス海峡により黒海にも続くことができる地理的環境に恵まれたこの場所は、紀元前6600年頃から集落が作られ、また、古代から重要な東西交易の要所として都市が建設されてきました。
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コンスタンティノープルは、トルコ共和国のイスタンブールのヨーロッパ側旧市街の半島部分にあった都市です。現在イスタンブールでは、東は「スルタンアフメット歴史地区」がある場所から、西はテオドシウスの城塞までユネスコの世界文化遺産にもなっています。
オスマン帝国が崩壊してトルコ共和国が樹立されるにあたり、1923年に首都はアンカラに遷都されましたが、その後も古都イスタンブールはトルコ最大の都市であり続けています。コンスタンティノープルは、昔から何度も名前を変えながらも常に重要都市として廃れる事無く発展しながら現在まで続いてきたのです。
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ビザンツ帝国の首都であったコンスタンティノープルは、さまざまな面で重要な地でした。
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キリスト教は、ローマ帝国の伝統を引継いだビザンツ帝国(東ローマ帝国)でも国教とされ、帝国の保護の下で大きな発展を遂げました。コンスタンティノープル教会は、原始キリスト教の古代五大総主教座の一つで大変古い伝統を持っています。
五大総主教座はローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアで、その中でも正教会の首位を担っているのがコンスタンティノープルです。360年~1453年は、アヤソフィア大聖堂にコンスタンティノープル総主教座が置かれていました。
380年テオドシウス1世の勅令によりビザンツ帝国にてキリスト教が国教となり、翌年コンスタンティノープル公会議にて三位一体が採択されると共に、コンスタンティノープル司教はローマ司教に次ぐ第二の地位を獲得しました。
392年にテオドシウス1世は、カトリックのみを正式に国教とし、451年カルケドン公会議ではローマ教会と名誉上同等の地位を得ました。カルケドンはコンスタンティノープルの対岸の町、現在のトルコ共和国のカドゥキョイです。
東方のイスラム教の拡大を受けて時の皇帝レオン3世が聖像崇拝を禁止したことなどからローマ教会と対立を深め、1054年にはローマ教皇とコンスタンディノープル総主教が相互破門を行ったことで東西教会は分裂。コンスタンティノープルはギリシア正教の中心として重要な役割を果たします。
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難攻不落とうたわれたコンスタンティノープルが陥落した原因は城門の鍵の閉め忘れであったと言われています。
中でもアヤソフィアなどのビザンティン建築や、ビザンティン美術では特に精密なモザイク画やイコンが花開き、この文化はイスラームや西のルネッサンスに多大な影響を与えました。これらは、ビザンツ様式とも言われています。
4つの帝国の首都として歴史に翻弄されながらも繁栄を続けて来たコンスタンティノープルの歴史をここでご紹介致します。
ビザンティオンは、196年にローマ人に侵略されるまで、ペルシャ帝国など外部から侵入や占領されたりしながらも、都市国家としての機能を保持していました。この古代ギリシャ植民都市が、現在まで続く都市としての礎を築いたのです。
ちなみに、あのアレキサンダー大王の父フィリッポス2世も、紀元前339年にビザンティオンに侵略しています。
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しかし、新しいこの首都は、当初よりノヴァ・ローマの名は定着せず、創設者の名に因んでコンスタンティヌスの都市を意味する「コンスタンティノープル/コンスタンティノポリス」の名で呼ばれるようになりました。首都になってからは、元のビザンティオンの町の境界を越えて急速に西に拡大します。
実際のところ、当初はまだローマ帝国の東方領で皇帝府が置かれていたのは現トルコ南東部アンティオキアであったため、コンスタンティノープルは属州知事の管理下に置かれた地方都市の一つのようなもので首都としての機能はありませんでした。コンスタンティヌスの後の皇帝達も常住せず、コンスタンティノープルを訪れることは稀であったそうです。
実際に首都として機能しだしたのはテオドシウスの治世でした。
しかし、これはビザンツ帝国以外の国の人が呼んでいた名称で、正式に東ローマ帝国がビザンツ帝国と呼ばれるようになるのは東ローマ帝国が滅亡した後の16世紀頃です。
コンスタンティノポリスは中世初頭において、世界で最も輝きと富を得た都市となります。10世紀末から11世紀初頭の帝国が東地中海をほぼ支配下に置いた全盛期には、人口30万~40万人を擁するキリスト教世界最大の大都会に成り上がりました。
そして、この都市と南のテオドシウスの港(現イェニカプの辺り)は、13世紀には世界で最も大きな貿易の中心地の一つとなりました。
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帝国といっても、実質的にはヴェネツィア共和国に資本や軍事を一切委ねた国で、1261年に滅亡した短命政権でした。
ちなみに、現黒海地方のトラブゾンを首都としたトラビゾン帝国やギリシャ西岸の街アルタを首府としたエピロス専制侯国も同様に建国された亡命政権です。
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1261年にニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還し、ビザンツ帝国が復活します。そして、ビザンツ帝国が滅亡する1453年までの約200年間、コンスタンティノポリスはビザンツ帝国の首都として機能し続けましたが、貿易はヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られたため、以前のような繁栄は無く、人口も減少し、完全に弱体化していったのです。
1453年、オスマン帝国第7代皇帝メフメト2世が10万の兵を連れてコンスタンティノープルを包囲し陥落させると共に、1000年以上続いたビザンツ帝国は滅亡しました。
コンスタンティノープル陥落と同時に、オスマン帝国の首都がエディルネからコンスタンティノープルへ遷都されると、この町の名前も「コンスタンティニイェ」と呼ばれるようになります。名前は変わってもコンスタンティノープルの時と同様に、オスマン帝国が滅亡する1922年までオスマン帝国の首都として東地中海最大の都市として繁栄しました。
町の東から西へ順番に第一の丘から第七の丘となっています。
ちなみにこのメガラ人達は、ビザンティオンより17年前の紀元前685年に対岸アジア側にカルケドン(現カドゥキョイ)を建設しています。
「ビザンティオン」は、都市としてこの地に初めて付けられた名前です。この都市のアクロポリスは現在のトプカプ宮殿の辺りにありました。また、ビザンティオンの住民のことを古代ギリシャ語でビザンティオイ言い、この町出身の人を現すファミリーネームとしては、形容詞のビザンティオスが使われていました。例えば、ビザンティオン出身の○○=○○・ビザンティオスという感じです。
ギリシャ語のビザンティオンは、1世紀頃からはローマ人によりラテン語のビザンティウムとも呼ばれるようになります。西ローマ滅亡後の東ローマ帝国では、620年に公用語がラテン語からギリシャ語に変わり、また住民はキリスト教化されたギリシャ人で古代ローマ帝国とは全く違う性質であったため、後世の学者が7世紀頃からの東ローマ帝国を指して、このビザンティオンの名を取り「ビザンティン帝国」と呼ぶようになりました。
ビザンツ帝国とも言いますが、ビザンツはドイツ語読みで、日本では通常歴史学においてビザンツ、美術や建築などにはビザンティンを使うことが多いようです。
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がこの町を東ローマの首都とした330年5月1日から、ローマを部分的に模して大規模な都市建設を行いました。この期間、この町は「ノヴァ・ローマ=新ローマ」または「第二のローマ」と名付けられましたが、その名は普及せず、コンスタンティヌス1世の死去と共に呼ばれなくなってしまいました。
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ビザンツ帝国時代、ギリシャ語では単に“都市”を意味する「イポリス(iˈpo.lis)」と呼ばれており、これが後のイスタンブールの名前の由来にもなっています。
1453年にオスマン帝国がこの地を征服して首都とした後、1922年にオスマン帝国が滅亡するまでオスマン語でもこの名前がずっと一般的に使われていました。
17世紀後半から18世紀後半頃には、公式にも使われていたようです。
「イスタンブール」は、ギリシャ語で“都市へ、都市で”を意味する「イスティムボリン(is timˈbolin)」が一つの単語となり変形したものです。
ちなみに、現在のトルコの地名でイスタンブール同様、元々ギリシャ語であった地名を引用してトルコ語化したものが多くあります。例として、古代ギリシャ名ニカエア(Nicaea)である現イズニック(Iznik)は 「イズニケア(iz nikea)」がトルコ語化したもので、黒海地方の現サムスン(Samsun)は、古代ギリシャ名アミソス(Amisos)から発生した“アミソスへ”を意味する「サミソン(s'Amison)」からトルコ語化しています。
「イスタンブール」は、1453年にオスマン帝国が征服する前からトルコ人の間でも使われていましたが、オスマン帝国政府の公式な場所や記録では「イスタンブール」よりも「コスタンティニイェ」が基本的に使われていました。
しかし、19世紀以降は公的文書でも「イスタンブール」が使われるようになります。1923年のトルコ共和国成立と共に「イスタンブール」以外の呼び方は廃止されましたが、当時はまだオスマン語の文字を使用していましたので、ラテン文字で都市名を書く際は、「コンスタンティノープル」が使われていました。
1928年の文字改革でトルコ語にラテン文字が採用された後、1930年からはトルコ語の都市名を使用するように、コンスタンティノープルではなく「イスタンブール」を使用するようトルコ政府は正式に他国へ要求しました。
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現在のイスタンブールには、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの時代に作られた遺産が数多く残っています。
現在、宮殿の原型はありませんが、アラスタバザールの横の元大宮殿の内庭であった場所で450~550年頃のモザイク画が発見されており、博物館として公開されています。
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アヤソフィアはキリスト教正教会として建設され、後に正教会の首位であるコンスタンティノープル総主教座が置かれていた由緒正しく格式高い大聖堂です。
当初は、コンスタンティウス2世が360年に完成させた木造の聖堂がありました。それが404年に焼失した後、415年にテオドシウス2世が再建しますが、これも532年のニカの反乱により焼失しました。現在の建物は537年に東ローマ皇帝ユスティニアヌスの命により再建された3番目の建物です。
このアヤソフィアは、ビザンツ帝国時代にコンスタンティノープル総主教座が置かれ、オスマン帝国時代には君主が毎週金曜日の礼拝に訪れ、帝国において最も格式の高いモスクの一つとして使われるなど、コンスタンティノープルを支配したその時代の主権国家により変容され歴史に翻弄されてきました。
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宗教施設のため、膝上のスカート・ショートパンツ・ノースリーブ等、肌の露出の多い服装では入場は不可です。男性もタンクトップにショートパンツ等露出の多い服装はお控え下さい。女性はスカーフを被らなければなりません。スカーフは前もって御自身にてご準備下さい。無い場合は、アヤソフィア入口左手の売店にて使い捨てのスカーフが5TL、全身マントが20TLにて販売されています。
モスク内は土足禁止ですので、入場の際に入口にて靴を脱ぎます。脱いだ靴はモスク入口にある下駄箱に入れるか、ご自身で準備された袋に入れてモスク内に入ります。
モスク内での写真撮影は可能ですが、フラッシュは禁止されております。また、宗教施設ですのでお祈りをしている人やムスリム女性を被写体にすることは原則として避けて下さい。
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トラム「スルタンアフメット駅」の目の前、ブルーモスクとの間にある広場が古代競馬場跡です。この町がまだビザンティオンと呼ばれた時代から古代競馬場が存在し、ローマ帝国、ビザンツ帝国の時代にはここは競馬だけでなく市民生活の中心の場でもありました。
ここは皇帝の即位式、公開処刑、凱旋式、政治的会議など多目的に使われ、またニカの乱など反乱軍の中心地ともなった場所です。
10万人を収容できる観客席が当時存在し、東側に設置されていた皇帝専用席は隣接していた大宮殿と直接繋がっており、皇帝とその家族は専用通路を使い直接ヒッポドロームの専用席に行けたそうです。
現在広場となっているヒッポドロームには3つの柱のモニュメントがあります。
ビザンツ帝国皇帝ユスティニアヌスによって地下に作られた貯水池です。水の中から無数に聳え立つ大理石の柱から地下宮殿とも、またこの場所の上にバシリカがあったことからバシリカ地下貯水池とも呼ばれています。
ビザンツ時代、大宮殿を含む現在の旧市街スルタンアフメット地区全体、コンスタンティノープルの広範囲の居住者に水を供給していたのがこの地下貯水池で、オスマン帝国が征服してからも暫くの間使われ、オスマン帝国の皇帝たちが住んでいたトプカプ宮殿の庭園にも水が供給されていました。
その後16世紀中頃に再発見されるまで、人知れずイスタンブールの地下で眠っていました。近年は一般公開されており、人気の観光スポットになっております。
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コンスタンティノープルが新首都となり建設工事が進んで急速に人口が増えると共に、不足した水を補うためにコンスタンティヌス1世の命で306年頃工事が始められ、ヴァレンス帝の治世373年に完成した水道橋です。
水源から首都中心地まで水を引いた橋と水路の全長は計約250㎞で、その最後の部分がこのヴァレンス水道橋となり、この橋を通って地下宮殿などの街中の地下貯水池や野外貯水池などに溜められていたそうです。
この橋自体の現在の大きさは、当時のオリジナルより約50m短い921mとなっております。
スレイマニイェモスクの近く、イスタンブール旧市街のほぼ中央に位置し、現在いくつもある橋脚の間を常に多くの車が通っています。特に夜のライトアップは、歴史を反映するかのように厳かな雰囲気を醸し出しており必見です。
ビザンティオンであった時代にも狭い範囲で城壁は在りましたが、196年にローマ皇帝セウェルスがこの地を侵略してその城壁を崩壊し、後に町を再建する際に現在のガラタ橋の辺りからヒッポドロームの南に繋がるより広範囲の城壁を造りました。
その後、首都となったコンスタンティノープルには、2度に渡って陸上を防衛する大城壁が作られました。
この城壁は5世紀初頭に造られたテオドシウスの城壁によって、コンスタンティノープルの町の境界線及び防壁としての役目は無くなりましたが、その後9世紀頃まで地震の被害に遭いながらも内の城壁として残っていたと言います。現在、城壁の姿はありませんが、近年イェニカプで工事中にコンスタンティヌスの城壁の一部が発掘されました。
そこで、テオドシウス2世はコンスタンティヌスの城壁よりもさらに町を西に約2㎞拡大し、城壁を造りました。これが、現在も残っている「テオドシウスの城壁」です。
外壁、内壁、堀からなる三段構造の強固な城壁で、南はマルマラ海沿岸の現イェディクレにある「大理石の塔」から北は金閣湾近くの「ポルフュロゲネトス宮殿」まで全長5,632m、その上には守備塔が96棟ありました。
1000年以上コンスタンティノープルを守り続けて来たこの城壁ですが、1453年5月29日に皇帝メフメト2世率いるオスマン帝国軍の侵入を防げず、この都市は侵略されてしまいます。しかし、城壁が崩壊された為ではなく、実際はビザンツ側の傭兵隊長の負傷による混乱と、城壁の門の一つケルコポルタ門の通用口が施錠されていなかったため、ここからオスマン軍が城内に侵入し、コンスタンティノープルが陥落されたと言われています。
オスマン帝国が征服した後も、修復されながら19世紀頃まで維持管理されてきました。
このテオドシウスの城壁は現在でも当時の状況を伝えるかの様にイスタンブール旧市街を取り囲み続けています。
トルコ語で“ビザンツ皇帝の宮殿”を意味する「テクフル・サラユ(Tekfur Sarayı)」と呼ばれているこの宮殿遺跡は、旧市街の北西部、テオドシウスの城壁の北、金閣湾近くの現アイヴァンサライ地区に位置しています。
13世紀から皇帝たちが住むようになったブラヘルネ宮殿の複合施設の一つとして造られた宮殿です。造りにより二つの年代に分けられ、2番目の期間はビザンツ帝国最後の王朝であるパレオロゴス王朝時代13~14世紀初頭に造られたことが解っています。
ビザンツ帝国の末期に皇帝たちが住んだ宮殿ですが、城壁に近い為、コンスタンティノープル陥落の際に大損害を受けました。その後オスマン帝国時代には、ユダヤ人家族の家、スルタンの動物保護所、イズニック陶器職人の工房、ガラス工場として様々な用途に使われながらも現在まで遺構が残っており、博物館として公開されています。
ちなみに、トプカプ宮殿で展示されている周りが2重に49個の小さなダイヤで飾られた86カラットの有名な「スプーン職人のダイヤモンド」は、この宮殿跡で見つかったといわれています。
5世紀の皇帝マウリキウスの娘が友達と一緒にコンスタンティノープルの第5の丘の上に造らせた修道院ですが、第4回十字軍の侵入により崩壊し、その後1261年に再建されました。
13世紀後半、ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスの娘であるマリア・パレオロギナは、モンゴルのイルハーン朝第2代君主アバカと政略結婚してアバカの皇后の一人となります。しかし、アバカ死後にコンスタンティノープルに戻り、1281年に現在の形の修道院を造らせ、本人も修道女としてこの教会に生涯を捧げます。そして、この教会は彼女の名から「モンゴルの聖マリア教会」と呼ばれるようになりました。
別名を血の教会と呼ばれる由来は二つあり、一つはオスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落した際に、特にこのフェネルの地域で戦闘が激しく、丘の上のこの教会付近で殺された正教会教徒の血が流れて金閣湾を赤く染めたという言い伝えから、もう一つはただ単にこの教会の外壁が血のように赤い赤レンガで出来ているからとのことです。
ちなみに現在、カンル・キリセの他に「モンゴルの聖マリア教会」の名でも呼ばれています。旧市街フェネルの丘の上にあるこの小さな教会は現在でも密かに教会活動を行っています。
現在の名は「イスタンブールギリシャ正教会総主教座(İstanbul Rum Ortodoks Patrikhanesi)」といい、正教会の筆頭の格を有する由緒正しい総主教庁です。
ビザンツ帝国時代、総主教座はアヤソフィアに置かれておりましたが、1253年のコンスタンティノープル陥落後は、聖使徒大聖堂(現ファーティ・ジャーミーの場所)、テオトコス・パンマカリストス教会(現フェティエ・ジャーミー)、そして 1600年頃から現在の聖ゲオルギオス教会に置かれています。
現在は各国に正教会が設けられている為、トルコ国内のギリシャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみです。
当時は二つの凱旋門を4つのアーチが支えていた立派な造りの建物で、東ローマ皇帝の威光を示すモニュメントとして重要視されていましたが、16世紀頃に水道橋の拡張工事の際に壊されてしまい、現在は発掘された柱が一本建っているのみです。
ここでは、このコンスタンティノープルの町がどのように建設され、どのような歴史を辿ったのか、現在に残したものは何かなど、徹底解説致します。
目次
コンスタンティノープルとは?
コンスタンティノープルは、330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が建設してから1922年まで、ローマ帝国、ビザンツ帝国、ラテン帝国、オスマン帝国と約1600年間、4つの帝国の首都であり、世界最大のメトロポリスであり、歴史の大舞台の中心地として翻弄されてきました。
「コンスタンティノープル」は英語であり、ラテン語では「コンスタンティノポリス」=「コンスタンティンの町」を意味します。
南はエーゲ海に続く内海のマルマラ海、北東は天然の良港である金閣湾に囲まれ、またボスポラス海峡により黒海にも続くことができる地理的環境に恵まれたこの場所は、紀元前6600年頃から集落が作られ、また、古代から重要な東西交易の要所として都市が建設されてきました。
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コンスタンティノープルの場所は今のどこ?
コンスタンティノープルは、トルコ共和国のイスタンブールのヨーロッパ側旧市街の半島部分にあった都市です。現在イスタンブールでは、東は「スルタンアフメット歴史地区」がある場所から、西はテオドシウスの城塞までユネスコの世界文化遺産にもなっています。
オスマン帝国が崩壊してトルコ共和国が樹立されるにあたり、1923年に首都はアンカラに遷都されましたが、その後も古都イスタンブールはトルコ最大の都市であり続けています。コンスタンティノープルは、昔から何度も名前を変えながらも常に重要都市として廃れる事無く発展しながら現在まで続いてきたのです。
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不滅の都市コンスタンティノープルの特徴と歴史上の重要性
ビザンツ帝国の首都であったコンスタンティノープルは、さまざまな面で重要な地でした。
シルクロードの東西貿易の要衝
シルクロードの始点は中国の長安(現・西安)で終点はローマであったといいますが、アジアとヨーロッパの堺に位置するコンスタンティノープルは、そのローマへ行くルートの途中にある重要な中継地でした。そのため、様々な商品が行き交い、コンスタンティノープルは富を得ることができたのです。シルクロードとは?東西の歴史と文化をつないだ交易ルートとおすすめ観光名所
キリスト教五本山の一つ「コンスタンティノープル教会」
キリスト教は、ローマ帝国の伝統を引継いだビザンツ帝国(東ローマ帝国)でも国教とされ、帝国の保護の下で大きな発展を遂げました。コンスタンティノープル教会は、原始キリスト教の古代五大総主教座の一つで大変古い伝統を持っています。
五大総主教座はローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアで、その中でも正教会の首位を担っているのがコンスタンティノープルです。360年~1453年は、アヤソフィア大聖堂にコンスタンティノープル総主教座が置かれていました。
380年テオドシウス1世の勅令によりビザンツ帝国にてキリスト教が国教となり、翌年コンスタンティノープル公会議にて三位一体が採択されると共に、コンスタンティノープル司教はローマ司教に次ぐ第二の地位を獲得しました。
392年にテオドシウス1世は、カトリックのみを正式に国教とし、451年カルケドン公会議ではローマ教会と名誉上同等の地位を得ました。カルケドンはコンスタンティノープルの対岸の町、現在のトルコ共和国のカドゥキョイです。
東方のイスラム教の拡大を受けて時の皇帝レオン3世が聖像崇拝を禁止したことなどからローマ教会と対立を深め、1054年にはローマ教皇とコンスタンディノープル総主教が相互破門を行ったことで東西教会は分裂。コンスタンティノープルはギリシア正教の中心として重要な役割を果たします。
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難攻不落の要塞都市
三方を海に囲まれた天然の要塞に加え、テオドシウスにより造られた西の陸の城壁により、都市の防御は堅固でした。1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国に陥落されるまで、1000年以上コンスタンティノープルを守り続けていたのです。難攻不落とうたわれたコンスタンティノープルが陥落した原因は城門の鍵の閉め忘れであったと言われています。
ビザンティン文化の中心地
世界からの富が集まる都コンスタンティノープルでは文化も発達し、古代ギリシャ・古代ローマの文化とヘレニズムやキリスト教が融合した西ヨーロッパとは異なる独自のビザンツ文化を産みだしました。中でもアヤソフィアなどのビザンティン建築や、ビザンティン美術では特に精密なモザイク画やイコンが花開き、この文化はイスラームや西のルネッサンスに多大な影響を与えました。これらは、ビザンツ様式とも言われています。
コンスタンティノープルの歴史
4つの帝国の首都として歴史に翻弄されながらも繁栄を続けて来たコンスタンティノープルの歴史をここでご紹介致します。
紀元前667年 | メガラ人が現在のイスタンブール旧市街の最東部にビザンティオンという名の都市国家を築く |
330年5月11日 | ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がローマ帝国の首都をビザンティウムへ遷都。以後コンスタンティノープルという呼び名が定着 |
381年 | コンスタンティノープル公会議にて三位一体が採択されると共に、コンスタンティノープル司教はローマ司教に次ぐ第二の地位に |
395年1月17日 | 皇帝テオドシウス1世の死去によりローマ帝国が東西分裂し、コンスタンティノープルは東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都に |
537年 | アヤソフィア大聖堂が再建され、コンスタンティノープル総主教座が置かれる |
1054年 | ローマ教皇とコンスタンディノープル総主教が相互破門を行ったことで東西教会が分裂 |
1204年4月12日 | 第4回十字軍がコンスタンティノープルを征服してビザンツ帝国が一時滅亡、ラテン帝国の首都となる |
1261年 | ミカエル8世パレオロゴスがコンスタンティノープルを奪回してビザンツ帝国が復活 |
1453年5月29日 | オスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落したことでビザンツ帝国滅亡。以後「コスタンティニイェ」の名でオスマン帝国の首都として繁栄 |
1923年 | オスマン帝国の滅亡によってトルコ共和国が成立し、イスタンブールとなる(トルコの首都はアンカラ) |
都市の建設とローマの支配(紀元前667年~西暦330年)
紀元前667年、古代ギリシャからこの地に植民地開拓に来たメガラ人により、現在の旧市街の最東部にビザンティオンという名の都市国家が築かれました。ビザンティオンは、196年にローマ人に侵略されるまで、ペルシャ帝国など外部から侵入や占領されたりしながらも、都市国家としての機能を保持していました。この古代ギリシャ植民都市が、現在まで続く都市としての礎を築いたのです。
ちなみに、あのアレキサンダー大王の父フィリッポス2世も、紀元前339年にビザンティオンに侵略しています。
世界を制した若き英雄アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)|トルコを通り東方遠征! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
ビザンツ帝国首都コンスタンティノープルの時代(330年~1453年)
コンスタンティノープルの誕生から1453年に陥落されるまでの歩みをご紹介いたします。後期ローマ帝国時代(330年~395年)
コンスタンティノープルとして歴史は、ローマ帝国が東西へ分裂する65年前に始まります。330年5月11日、ローマ皇帝コンスタンティン1世がビザンティオンを帝国の新しい首都として選び、この都市の名を新ローマ(ノヴァ・ローマ)と改名し、首都に見合った都市とする為の大規模な建設を行いました。しかし、新しいこの首都は、当初よりノヴァ・ローマの名は定着せず、創設者の名に因んでコンスタンティヌスの都市を意味する「コンスタンティノープル/コンスタンティノポリス」の名で呼ばれるようになりました。首都になってからは、元のビザンティオンの町の境界を越えて急速に西に拡大します。
実際のところ、当初はまだローマ帝国の東方領で皇帝府が置かれていたのは現トルコ南東部アンティオキアであったため、コンスタンティノープルは属州知事の管理下に置かれた地方都市の一つのようなもので首都としての機能はありませんでした。コンスタンティヌスの後の皇帝達も常住せず、コンスタンティノープルを訪れることは稀であったそうです。
実際に首都として機能しだしたのはテオドシウスの治世でした。
ビザンツ帝国の首都としての時代(395年~1204年)
テオドシウス1世の死後395年にローマ帝国が東西へ分裂すると共に、コンスタンティノポリスは東ローマ帝国=ビザンツ帝国の首都となりました。そして476年の西ローマ帝国の滅亡後、徐々に東ローマ帝国は古代ローマ帝国とは異なる性質のキリスト教化したギリシャ人の国になっていき、ビザンツ帝国と呼ばれるようになります。しかし、これはビザンツ帝国以外の国の人が呼んでいた名称で、正式に東ローマ帝国がビザンツ帝国と呼ばれるようになるのは東ローマ帝国が滅亡した後の16世紀頃です。
コンスタンティノポリスは中世初頭において、世界で最も輝きと富を得た都市となります。10世紀末から11世紀初頭の帝国が東地中海をほぼ支配下に置いた全盛期には、人口30万~40万人を擁するキリスト教世界最大の大都会に成り上がりました。
そして、この都市と南のテオドシウスの港(現イェニカプの辺り)は、13世紀には世界で最も大きな貿易の中心地の一つとなりました。
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ラテン帝国支配下、一都市としての時代(1204年~1261年)
1204年のコンスタンティノポリス包囲戦において、第4回十字軍がコンスタンティノポリスに侵略しビザンツ帝国を一時的に滅亡させました。そして、第4回十字軍が建国したカトリックを宗教とする十字軍国家の「ラテン帝国」が、コンスタンティノポリスを支配します。帝国といっても、実質的にはヴェネツィア共和国に資本や軍事を一切委ねた国で、1261年に滅亡した短命政権でした。
後期ビザンツ帝国の首都としての時代(1261年~1453年)
1204年に第4回十字軍によりコンスタンティノポリスが陥落された際に、ビザンツ帝国の皇族達が逃げ延びて建てた亡命政権の一つが、現イズニックを首都としアナトリア北東部を支配した「ニカイア帝国」です。ちなみに、現黒海地方のトラブゾンを首都としたトラビゾン帝国やギリシャ西岸の街アルタを首府としたエピロス専制侯国も同様に建国された亡命政権です。
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1261年にニカイア帝国がコンスタンティノポリスを奪還し、ビザンツ帝国が復活します。そして、ビザンツ帝国が滅亡する1453年までの約200年間、コンスタンティノポリスはビザンツ帝国の首都として機能し続けましたが、貿易はヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られたため、以前のような繁栄は無く、人口も減少し、完全に弱体化していったのです。
コンスタンティノープル陥落とビザンツ帝国の滅亡
1453年、オスマン帝国第7代皇帝メフメト2世が10万の兵を連れてコンスタンティノープルを包囲し陥落させると共に、1000年以上続いたビザンツ帝国は滅亡しました。
コンスタンティノープル陥落と同時に、オスマン帝国の首都がエディルネからコンスタンティノープルへ遷都されると、この町の名前も「コンスタンティニイェ」と呼ばれるようになります。名前は変わってもコンスタンティノープルの時と同様に、オスマン帝国が滅亡する1922年までオスマン帝国の首都として東地中海最大の都市として繁栄しました。
七つの丘を持つ町コンスタンティノープル
ローマに七丘がある事は有名ですが、城壁内コンスタンティノープルの町にも「ローマの七丘」と同様に七つの丘があり、初期ビザンツ帝国時代に各丘の上には記念碑的な宗教建物が建てられていました。町の東から西へ順番に第一の丘から第七の丘となっています。
- 第一の丘
ビザンティオンが建設された、現在のトプカプ宮殿やブルーモスクやトプカプ宮殿のあるスルタンアフメット地区一帯です。ここにビザンティオンのアクロポリス、その後はビザンツ帝国の大宮殿などの中心地がありました。
因みに、第一の丘と第二の丘の間にビザンティオンの城壁がありました。 - 第二の丘
グランドバザールとヌルオスマーニイェ・モスクを含めた現在のチェンベルリタシュの辺り一帯です。
328年コンスタンティヌス1世は、ローマのアポロン神殿の高さ57mの柱を引き抜かせコンスタンティノープルへ持ってこさせました。この第二の丘に建てさせたのがチェンベルリタシュ(別名コンスタンティヌスの柱)です。それと共にこの丘にはコンスタンティノープルの公共広場「コンスタンティヌスのフォルム」が作られました。 - 第三の丘
スレイマニエ・モスクを含む、ベヤズット広場とイスタンブール大学がある一帯です。ここにはヴァレンス帝の時代372~373年にまず泉が造られ、テオドシウス1世の時代に公共広場「テオドシウスのフォルム」が創られました。 - 第四の丘
現在ファティ・モスクがある一帯です。当時は、この地に「聖使徒大聖堂」が建てられていました。 - 第五の丘
現在ヤヴス・セリム・モスクがある場所一帯です。当時は5世紀に将軍アスパルが作らせた巨大な「アスパルの貯水池」があり、現在でもこの貯水池は残っています。 - 第六の丘
テオドシウスの城壁の北部、エディルネ・カプがある辺り一帯です。北側の金閣湾へ向かう丘腹には、現カーリエ・モスクであるコーラ修道院やビザンツ帝国後期に皇帝たちが住んでいたポルフュロゲネトスの宮殿がありました。
第五と第六の丘の間、北東側の金閣湾に下る丘肌には、パラティオン(現バラット)とペトリオン(現フェネル)という地区があり、ここは多くの教会が点在する正教会にとって重要な場所でした。
現在このバラットとフェネル地区は、多くの教会、色とりどりの昔ながらの家が並び、ノスタルジックな雰囲気もありつつ、カフェが多く集まるお洒落な場所として若者に人気のスポットにもなっています。 - 第七の丘
テオドシウスの城壁の真ん中辺り、現トプカプ地区一帯になります。当時はギリシャ語で“クセロロフォス”と呼ばれており、南のマルマラ海にかけて多くの教会が点在していました。
コンスタンティノープルの名前の変遷
リゴス(リュゴス)
1世紀ローマ帝国の大プリニウスにより初めてこの町について言及されています。リゴスは都市と言うより、半島部分の先端の地(現サライブルヌ)にあったトラキア人の集落の名前であった可能性が高く、紀元前13~11年頃にトラキア人により造られたと言われています。ビザンティオン(ラテン語:ビザンティウム)
アテネ近くのドーリア都市メガラからのギリシャ人入植者により紀元前667年に建設された植民都市です。古代ギリシャの伝説では、メガラ人入植者達を率いたビザスという伝説の王がこの町を創設したとし、その名をつけたとされています。ちなみにこのメガラ人達は、ビザンティオンより17年前の紀元前685年に対岸アジア側にカルケドン(現カドゥキョイ)を建設しています。
「ビザンティオン」は、都市としてこの地に初めて付けられた名前です。この都市のアクロポリスは現在のトプカプ宮殿の辺りにありました。また、ビザンティオンの住民のことを古代ギリシャ語でビザンティオイ言い、この町出身の人を現すファミリーネームとしては、形容詞のビザンティオスが使われていました。例えば、ビザンティオン出身の○○=○○・ビザンティオスという感じです。
ギリシャ語のビザンティオンは、1世紀頃からはローマ人によりラテン語のビザンティウムとも呼ばれるようになります。西ローマ滅亡後の東ローマ帝国では、620年に公用語がラテン語からギリシャ語に変わり、また住民はキリスト教化されたギリシャ人で古代ローマ帝国とは全く違う性質であったため、後世の学者が7世紀頃からの東ローマ帝国を指して、このビザンティオンの名を取り「ビザンティン帝国」と呼ぶようになりました。
ビザンツ帝国とも言いますが、ビザンツはドイツ語読みで、日本では通常歴史学においてビザンツ、美術や建築などにはビザンティンを使うことが多いようです。
アウグスタ・アントニーナ
セウェルス朝ローマ帝国初代皇帝セプティミウス・セウェルスが、3世紀初頭に息子の俗にカラカラ帝と呼ばれるマルクス・アウレリウス・アントニヌス・カエサルを称して、その名からAugusta Antoninaと名付けたそうです。短期間ですが、この地はアウグスタ・アントニーナと呼ばれていました。ノヴァ・ローマ
ラテン語で「新ローマ」の意味で、古代ギリシャ語では「ネア・ローメー」といいます。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がこの町を東ローマの首都とした330年5月1日から、ローマを部分的に模して大規模な都市建設を行いました。この期間、この町は「ノヴァ・ローマ=新ローマ」または「第二のローマ」と名付けられましたが、その名は普及せず、コンスタンティヌス1世の死去と共に呼ばれなくなってしまいました。
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コンスタンティノープル(ラテン語:コンスタンティノポリス)
当初からノヴァ・ローマ(新ローマ)の名は定着せず、この町を作ったコンスタンティヌス1世が337年で死去すると、彼の名から「コンスタンティヌスの町」を意味する「コンスタンティノープル/コンスタンティノポリス」と呼ばれるようになりました。ビザンツ帝国時代、ギリシャ語では単に“都市”を意味する「イポリス(iˈpo.lis)」と呼ばれており、これが後のイスタンブールの名前の由来にもなっています。
コスタンティニイェ
アラビア語でのコンスタンティノープルの呼び名が「コンスタンティニイェ」です。1453年にオスマン帝国がこの地を征服して首都とした後、1922年にオスマン帝国が滅亡するまでオスマン語でもこの名前がずっと一般的に使われていました。
イスラムボル(Islambol)
1453年にオスマン帝国が征服した後、イスラームのオスマン帝国の首都として都市の新しい役割を表すために、“イスラームの都市”を意味する「イスラムボル」と言う名が登場しました。この名を考案したのは、この地を征服した皇帝メフメト2世(ファーティ・スルタン・メフメト)自身ではないかといわれています。17世紀後半から18世紀後半頃には、公式にも使われていたようです。
イスタンブール
1923年にムスタファケマルがトルコ共和国を建国した後、この地は現在の「イスタンブール」となりました。「イスタンブール」という呼び方は、実は10世紀頃からアルメニア語とアラビア語、その後にオスマン語でも見受けられています。「イスタンブール」は、ギリシャ語で“都市へ、都市で”を意味する「イスティムボリン(is timˈbolin)」が一つの単語となり変形したものです。
ちなみに、現在のトルコの地名でイスタンブール同様、元々ギリシャ語であった地名を引用してトルコ語化したものが多くあります。例として、古代ギリシャ名ニカエア(Nicaea)である現イズニック(Iznik)は 「イズニケア(iz nikea)」がトルコ語化したもので、黒海地方の現サムスン(Samsun)は、古代ギリシャ名アミソス(Amisos)から発生した“アミソスへ”を意味する「サミソン(s'Amison)」からトルコ語化しています。
「イスタンブール」は、1453年にオスマン帝国が征服する前からトルコ人の間でも使われていましたが、オスマン帝国政府の公式な場所や記録では「イスタンブール」よりも「コスタンティニイェ」が基本的に使われていました。
しかし、19世紀以降は公的文書でも「イスタンブール」が使われるようになります。1923年のトルコ共和国成立と共に「イスタンブール」以外の呼び方は廃止されましたが、当時はまだオスマン語の文字を使用していましたので、ラテン文字で都市名を書く際は、「コンスタンティノープル」が使われていました。
1928年の文字改革でトルコ語にラテン文字が採用された後、1930年からはトルコ語の都市名を使用するように、コンスタンティノープルではなく「イスタンブール」を使用するようトルコ政府は正式に他国へ要求しました。
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歴史上色々な言語でのコンスタンティノープルの呼び方
ビザンツ帝国時代「コンスタンティノポリス/コンスタンティノープル」と呼ばれていたこの都市は、10世紀から12世紀の間バクダッドと共に世界2大都市の一つであった為、近隣国家からは“大都市”、“皇帝の都市”、“ローマ人の首都”などの概念を表す名前で呼ばれていました。- ヴァイキングの古ノルド語:“偉大な都市”を意味する「ミクラガロルズMiklagarðr」と呼んでいました。
- 東・南スラブ語:“皇帝の町”を意味する「ツァリグラードTsargrad/Царьград」又はカリグラードと呼ばれていました。この名はブルガリア語では未だに時折使用されていますが、ロシア語やマケドニア語では既に古語となっています。ボスニア語、クロアチア語、モンテネグロ語、セルビア語、スロベニア語では、「カリグラード」の名で現在でもイスタンブールのことを呼び、また中世のローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国の歴史的首都を指すときにも使用されています。
- ラディーノ語(ユダヤ・スペイン語):オスマン帝国時代に渡り、オスマン語のコスタンティニイェが由来の「コスタンディナ」「コスタンティナ」、またはそれを短縮した「コスタ」「コスタン」と呼んでいました。なお、コスタはイスタンブール全体を指す呼び名でしたが、旧市街と新市街ペラ地区に対しては「エスタムブル(Estambol)」と言う名前を別途使用していました。
- ヘブライ語:「クシュタンディナ」又は“偉大なコスタンティニイェ”の意の「クシュタンディナ・ラバティ」、短縮形の「クシュタ」と20世紀初頭まで読んでいました。
- 中国語:明朝時代には、コンスタンティノープル=“東ローマ人(ルム/ルミー)の町”を意味する「魯迷城(Lu-mi-cheng)」、清朝時代には“東ローマ人(ルム)”を意味する「務魯木(Wulumu)」、“コンスタンティノープル”の意の「拱斯當底訥伯勒(Gongsidangdinebole)」「康思坦貽諾格爾(Kangsitanyinuogeer)」と呼んでいました。現在、歴史的なコンスタンティノープルのことは「君士坦丁堡(Junshitandingbao)」と呼びますが、現在のイスタンブールのことは「伊斯坦布尔(Yisitanbuer)/伊斯坦堡(Yisitanbao)」と呼んでいます。
今も健在!トルコの観光名所となっているコンスタンティノープルの遺産
現在のイスタンブールには、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの時代に作られた遺産が数多く残っています。
ブルーモスクの下に眠る「大宮殿」
現在のブルーモスクとその南東にあるアラスタバザールの辺りには、ビザンツ帝国歴代皇帝が住んでいた大宮殿がありました。現在、宮殿の原型はありませんが、アラスタバザールの横の元大宮殿の内庭であった場所で450~550年頃のモザイク画が発見されており、博物館として公開されています。
大宮殿モザイク博物館の観光基本情報
トルコ語名称 | Buyuk Saray Mozaikleri Muzesi |
住所 | Sultanahmet Mahallaesi Kabasakal Cad. Arasta Çarşısı Sok. No:53 Fatih ※トラム「スルタンアフメット駅」から徒歩約5分。 ブルーモスク東側裏のアラスタバザールに併設されています。 |
営業時間 | 夏季(4/1~10/31) 09:00~19:30 冬季(11/1~3/31) 09:00~17:30 ※最終入場時間は閉館時間の30分前 ※砂糖祭り及び犠牲祭の初日は13:00より開館 |
定休日 | 無し |
入場料 | 35TL |
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「アヤソフィア」歴史に翻弄され続ける大聖堂
アヤソフィアはキリスト教正教会として建設され、後に正教会の首位であるコンスタンティノープル総主教座が置かれていた由緒正しく格式高い大聖堂です。
当初は、コンスタンティウス2世が360年に完成させた木造の聖堂がありました。それが404年に焼失した後、415年にテオドシウス2世が再建しますが、これも532年のニカの反乱により焼失しました。現在の建物は537年に東ローマ皇帝ユスティニアヌスの命により再建された3番目の建物です。
このアヤソフィアは、ビザンツ帝国時代にコンスタンティノープル総主教座が置かれ、オスマン帝国時代には君主が毎週金曜日の礼拝に訪れ、帝国において最も格式の高いモスクの一つとして使われるなど、コンスタンティノープルを支配したその時代の主権国家により変容され歴史に翻弄されてきました。
- 537~1054年:大聖堂
- 1054~1204年:ギリシャ正教大聖堂(総主教座が置かれていました)
- 1204~1261年:ローマ・カトリック大聖堂
- 1261~1453年:ギリシャ正教大聖堂(総主教座が置かれていました)
- 1453~1934年:イスラム教モスク
- 1934~2020年:博物館(無宗教の文化財として公開)
- 2020年~:イスラム教モスク
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アヤソフィアの観光基本情報
名称 | アヤソフィア(ハギアソフィア) |
住所 | Sultan Ahmet, Ayasofya Meydanı No:1, 34122 Fatih/İstanbul, トルコ |
入場料金 | 無料 |
ウェブサイト | https://muze.gen.tr/muze-detay/ayasofya |
宗教施設のため、膝上のスカート・ショートパンツ・ノースリーブ等、肌の露出の多い服装では入場は不可です。男性もタンクトップにショートパンツ等露出の多い服装はお控え下さい。女性はスカーフを被らなければなりません。スカーフは前もって御自身にてご準備下さい。無い場合は、アヤソフィア入口左手の売店にて使い捨てのスカーフが5TL、全身マントが20TLにて販売されています。
モスク内は土足禁止ですので、入場の際に入口にて靴を脱ぎます。脱いだ靴はモスク入口にある下駄箱に入れるか、ご自身で準備された袋に入れてモスク内に入ります。
モスク内での写真撮影は可能ですが、フラッシュは禁止されております。また、宗教施設ですのでお祈りをしている人やムスリム女性を被写体にすることは原則として避けて下さい。
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ヒッポドローム(コンスタンティノープル競馬場)
トラム「スルタンアフメット駅」の目の前、ブルーモスクとの間にある広場が古代競馬場跡です。この町がまだビザンティオンと呼ばれた時代から古代競馬場が存在し、ローマ帝国、ビザンツ帝国の時代にはここは競馬だけでなく市民生活の中心の場でもありました。
ここは皇帝の即位式、公開処刑、凱旋式、政治的会議など多目的に使われ、またニカの乱など反乱軍の中心地ともなった場所です。
10万人を収容できる観客席が当時存在し、東側に設置されていた皇帝専用席は隣接していた大宮殿と直接繋がっており、皇帝とその家族は専用通路を使い直接ヒッポドロームの専用席に行けたそうです。
現在広場となっているヒッポドロームには3つの柱のモニュメントがあります。
- テオドシウス1世のオベリスク(北)
357年、コンスタンティウス2世が在位20年を記念して、紀元前1940年頃作られたとされるトトメス3世時代のオベリスクをエジプトのカルナック神殿からナイル川を使ってアレクサンドリアまで運ばせ、その後390年にテオドシウス1世が戦勝祈念としてコンスタンティノープル競馬場へ3つに分割し運ばせてここに建てさせました。
このオベリスクの白い大理石の台座はテオドシウス1世が作らせたもので、テオドシウス1世皇帝一家の浅彫りが刻まれています。 - 蛇の柱(中央)
元々はギリシャにあった柱です。紀元前479年プラテイアの戦いでペルシャを負かしたギリシャの31都市連合軍が、勝利の記念として戦いで手に入れた青銅を溶かして3匹の蛇が交わる形で作り、ギリシャのデルフォイのアポロン神殿の前に建てたのがこの柱です。
これをコンスタンティヌス1世が324年に新首都であるコンスタンティノープルへ持ってこさせました。首都設立当時のコンスタンティノ―プルは蛇や虫が蔓延しており、それらから町を救う魔力がこの柱にあると信じられていた為、持ち込まれたといわれています。
柱の頭についていた3匹の蛇の頭の内、二つは不明ですが、一つは発見されてイスタンブール考古学博物館に所蔵されています。 - コンスタンティノス7世のオベリスク(南)
10世紀にコンスタンティノス7世の命により切石で造られた32mの高さのモニュメントです。
当時は、コンスタンティノス7世の祖父バシレイオス1世の勝利を描いた金箔加工の青銅プレートで覆われ、上には地球儀がのっていたそうですが、第4回十字軍により盗まれて溶かされてしまい、現在はありません。
「地下宮殿」コンスタンティノープルの水資源
ビザンツ帝国皇帝ユスティニアヌスによって地下に作られた貯水池です。水の中から無数に聳え立つ大理石の柱から地下宮殿とも、またこの場所の上にバシリカがあったことからバシリカ地下貯水池とも呼ばれています。
ビザンツ時代、大宮殿を含む現在の旧市街スルタンアフメット地区全体、コンスタンティノープルの広範囲の居住者に水を供給していたのがこの地下貯水池で、オスマン帝国が征服してからも暫くの間使われ、オスマン帝国の皇帝たちが住んでいたトプカプ宮殿の庭園にも水が供給されていました。
その後16世紀中頃に再発見されるまで、人知れずイスタンブールの地下で眠っていました。近年は一般公開されており、人気の観光スポットになっております。
イスタンブールの地下宮殿の正体は貯水池?!巨大なメデューサの頭は必見 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
地下宮殿の観光基本情報
名称 | 地下宮殿(YEREBATAN SARAYI:イェレバタン・サライ) |
住所 | Yerebatan C. Alemdar M. 1/3 34410 S.Ahmet/İSTANBUL, トルコ |
アクセス | Tramvay(トラム)のスルタンアフメット駅より徒歩2分 |
営業時間 | 9:00~17:30 |
定休日 | なし |
入場料 | 30 TL |
所要時間 | 30分 |
公式サイト | https://www.yerebatan.com/en |
「ヴァレンス水道橋」コンスタンティノープルを潤した橋
コンスタンティノープルが新首都となり建設工事が進んで急速に人口が増えると共に、不足した水を補うためにコンスタンティヌス1世の命で306年頃工事が始められ、ヴァレンス帝の治世373年に完成した水道橋です。
水源から首都中心地まで水を引いた橋と水路の全長は計約250㎞で、その最後の部分がこのヴァレンス水道橋となり、この橋を通って地下宮殿などの街中の地下貯水池や野外貯水池などに溜められていたそうです。
この橋自体の現在の大きさは、当時のオリジナルより約50m短い921mとなっております。
スレイマニイェモスクの近く、イスタンブール旧市街のほぼ中央に位置し、現在いくつもある橋脚の間を常に多くの車が通っています。特に夜のライトアップは、歴史を反映するかのように厳かな雰囲気を醸し出しており必見です。
- 住所:Kalenderhane, Avrupa Yakası, 34083 Fatih/İstanbul
難攻不落の都市の防壁「コンスタンティノープルの城壁」
ビザンティオンであった時代にも狭い範囲で城壁は在りましたが、196年にローマ皇帝セウェルスがこの地を侵略してその城壁を崩壊し、後に町を再建する際に現在のガラタ橋の辺りからヒッポドロームの南に繋がるより広範囲の城壁を造りました。
その後、首都となったコンスタンティノープルには、2度に渡って陸上を防衛する大城壁が作られました。
コンスタンティヌスの城壁
コンスタンティヌス1世がコンスタンティノープルの町を建設する際に、セウェルスの城壁よりも西に約2.8㎞町を広げる形で、現在の旧市街金閣湾側のフェネルあたりから南のマルマラ海側サマティヤにかけて作らせたのが「コンスタンティヌスの城壁」で、5つの門がありました。この城壁は5世紀初頭に造られたテオドシウスの城壁によって、コンスタンティノープルの町の境界線及び防壁としての役目は無くなりましたが、その後9世紀頃まで地震の被害に遭いながらも内の城壁として残っていたと言います。現在、城壁の姿はありませんが、近年イェニカプで工事中にコンスタンティヌスの城壁の一部が発掘されました。
テオドシウスの城壁
5世紀初頭にはビザンツ帝国の巨大化が進み、城壁内だけでは人口を抱えきれなくなってしまい、コンスタンティヌスの城壁の外まで人々が溢れてきました。そこで、テオドシウス2世はコンスタンティヌスの城壁よりもさらに町を西に約2㎞拡大し、城壁を造りました。これが、現在も残っている「テオドシウスの城壁」です。
外壁、内壁、堀からなる三段構造の強固な城壁で、南はマルマラ海沿岸の現イェディクレにある「大理石の塔」から北は金閣湾近くの「ポルフュロゲネトス宮殿」まで全長5,632m、その上には守備塔が96棟ありました。
1000年以上コンスタンティノープルを守り続けて来たこの城壁ですが、1453年5月29日に皇帝メフメト2世率いるオスマン帝国軍の侵入を防げず、この都市は侵略されてしまいます。しかし、城壁が崩壊された為ではなく、実際はビザンツ側の傭兵隊長の負傷による混乱と、城壁の門の一つケルコポルタ門の通用口が施錠されていなかったため、ここからオスマン軍が城内に侵入し、コンスタンティノープルが陥落されたと言われています。
オスマン帝国が征服した後も、修復されながら19世紀頃まで維持管理されてきました。
このテオドシウスの城壁は現在でも当時の状況を伝えるかの様にイスタンブール旧市街を取り囲み続けています。
「ポルフュロゲネトス宮殿」現存する唯一の宮殿
トルコ語で“ビザンツ皇帝の宮殿”を意味する「テクフル・サラユ(Tekfur Sarayı)」と呼ばれているこの宮殿遺跡は、旧市街の北西部、テオドシウスの城壁の北、金閣湾近くの現アイヴァンサライ地区に位置しています。
13世紀から皇帝たちが住むようになったブラヘルネ宮殿の複合施設の一つとして造られた宮殿です。造りにより二つの年代に分けられ、2番目の期間はビザンツ帝国最後の王朝であるパレオロゴス王朝時代13~14世紀初頭に造られたことが解っています。
ビザンツ帝国の末期に皇帝たちが住んだ宮殿ですが、城壁に近い為、コンスタンティノープル陥落の際に大損害を受けました。その後オスマン帝国時代には、ユダヤ人家族の家、スルタンの動物保護所、イズニック陶器職人の工房、ガラス工場として様々な用途に使われながらも現在まで遺構が残っており、博物館として公開されています。
ちなみに、トプカプ宮殿で展示されている周りが2重に49個の小さなダイヤで飾られた86カラットの有名な「スプーン職人のダイヤモンド」は、この宮殿跡で見つかったといわれています。
ポルフュロゲネトス(テクフル)宮殿 観光基本情報
トルコ語名称 | Tekfur Sarayi |
住所 | Ayvansaray Mahallesi, Şişhane Caddesi, 34087 Fatih/İstanbul |
営業時間 | 09:00~17:00 |
定休日 | 月曜 |
入場料 | 無料 |
公式サイト | https://www.tekfursarayi.istanbul/en |
血の教会と呼ばれる「カンル・キリセ」
オスマン帝国がコンスタンティノープルを征服後、アヤソフィアをはじめ教会はモスクへと変えられてしまいましたが、唯一、一度もモスクに変えられることなくビザンツ時代から現存しているギリシャ正教会が、このカンル・キリセです。5世紀の皇帝マウリキウスの娘が友達と一緒にコンスタンティノープルの第5の丘の上に造らせた修道院ですが、第4回十字軍の侵入により崩壊し、その後1261年に再建されました。
13世紀後半、ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスの娘であるマリア・パレオロギナは、モンゴルのイルハーン朝第2代君主アバカと政略結婚してアバカの皇后の一人となります。しかし、アバカ死後にコンスタンティノープルに戻り、1281年に現在の形の修道院を造らせ、本人も修道女としてこの教会に生涯を捧げます。そして、この教会は彼女の名から「モンゴルの聖マリア教会」と呼ばれるようになりました。
別名を血の教会と呼ばれる由来は二つあり、一つはオスマン帝国がコンスタンティノープルを陥落した際に、特にこのフェネルの地域で戦闘が激しく、丘の上のこの教会付近で殺された正教会教徒の血が流れて金閣湾を赤く染めたという言い伝えから、もう一つはただ単にこの教会の外壁が血のように赤い赤レンガで出来ているからとのことです。
ちなみに現在、カンル・キリセの他に「モンゴルの聖マリア教会」の名でも呼ばれています。旧市街フェネルの丘の上にあるこの小さな教会は現在でも密かに教会活動を行っています。
カンル・キリセの観光基本情報
トルコ語名称 | Kanli Kilise (又はMeryem Ana Rum Ortodoks Kilisesi) |
住所 | Balat, Tevkii Cafer Mektebi Sk. No:1, 34087 Fatih/İstanbul ※丘の上に聳え立つ赤レンガの「フェネル・ルム男子高校(Fener Rum Erkek Lisesi)」のすぐ隣です。 |
正教会の筆頭格「コンスタンティノープル総主教庁」
現在の名は「イスタンブールギリシャ正教会総主教座(İstanbul Rum Ortodoks Patrikhanesi)」といい、正教会の筆頭の格を有する由緒正しい総主教庁です。
ビザンツ帝国時代、総主教座はアヤソフィアに置かれておりましたが、1253年のコンスタンティノープル陥落後は、聖使徒大聖堂(現ファーティ・ジャーミーの場所)、テオトコス・パンマカリストス教会(現フェティエ・ジャーミー)、そして 1600年頃から現在の聖ゲオルギオス教会に置かれています。
現在は各国に正教会が設けられている為、トルコ国内のギリシャ系住民と、クレタ島、アトス山の各修道院および海外にいるギリシャ人正教徒を管轄するのみです。
コンスタンティノープル総主教庁の観光基本情報
トルコ語名称 | İstanbul Rum Ortodoks Patrikhanesi |
住所 | Rum Patrikliği, Dr. Sadık Ahmet Cad. No. 19,34083 Fatih-İstanbul |
営業時間 | 08:00~17:00 |
定休日 | 無し |
入場料 | 無料 |
公式サイト | https://ec-patr.org/ |
「ミリオン」コンスタンティノープルの道路元標
“全ての道はローマに通ず”と言うことわざがありますが、ローマの「金のマイルストーン」の様に、コンスタンティノープルが首都となった際、ビザンツ帝国のヨーロッパ領に伸びるすべての道の起点となる「ミリオン」という道路元標が作られました。当時は二つの凱旋門を4つのアーチが支えていた立派な造りの建物で、東ローマ皇帝の威光を示すモニュメントとして重要視されていましたが、16世紀頃に水道橋の拡張工事の際に壊されてしまい、現在は発掘された柱が一本建っているのみです。
ミリオンの観光基本情報
トルコ語名称 | Milyon taşı |
住所 | Alemdar, Divan Yolu Cd. No:2, 34110 Fatih/İstanbul ※トラム「スルタンアフメット駅」から徒歩2分。アヤソフィアと地下宮殿の間です。 |