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トルコ基本観光情報

トルコ系の王朝「セルジューク朝」中世イスラム世界の大帝国


トルコ系の王朝としてまず思い浮かぶのが、オスマン朝とセルジューク朝ではないでしょうか。一昔前の日本では、セルジュークトルコ、オスマントルコの名で知られている王朝です。

どちらも現トルコのアナトリアを支配した王朝ですが、オスマン帝国の前の中世、ビザンツ帝国や十字軍と戦いながらアナトリアの大多数を支配し大帝国を成したのが「セルジューク朝」です。

最初にアナトリアで活躍し、この地を最初にトルコ化してトルコ人の地として基盤を作り上げたセルジューク朝について、特徴や歩みなどの基本情報をここで解説致します。

セルジューク朝を建国したのは誰?

セルジュクトルコ
セルジューク朝は、中央アジア北部トルコ系民族オグズ族クヌク氏族出身セルジューク家のチャグリー・ベクとその弟のトゥグリル・ベクが1037年に建国しました。この国家を、クヌク族の族長であり、この二人の祖父であったセルジュークの名から「セルジューク朝」と言います。

ちなみに、セルジュークをトルコ語では「セルチュク」と言い、あのエフェソス遺跡がある町の名前と一緒です。

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セルジューク氏の孫が王朝初代スルタン

1037年にセルジューク朝を建国したのがセルジュークの孫のトゥグリル・ベクで、彼は1055年にイスラム世界の最高権威者カリフから君主の称号スルタンを授与され、初代スルタンとなりました。彼以降このスルタンの称号は、スンニ派イスラーム王朝の君主の呼称として定着、その後のルーム・セルジューク朝やオスマン帝国等のイスラーム王朝へ襲用されていきます。

トゥグリル・ベクからセルジューク朝が滅亡する1157年まで、セルジューク朝では8人のスルタンが君臨し、絶対君主制が行われてきました。

セルジューク朝の首都

イスファハーン
セルジューク朝の首都は2回遷都し、全て現イランのある都市にありました。
最初にセルジューク朝が建国された際に首都となったのがニーシャプール(現イラン北東のホラーサーン州の町)、その後1043年にシャフレ・レイ(現イラン首都テヘラン中心地から南10km)を攻略して遷都し、1051年にイスファハーンに遷都し、セルジューク朝が滅亡する1157年まで首都として栄えました。

 
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セルジューク朝はこんな国家

セルジューク朝国境
1037年に建国され1157年に滅亡するまではたったの120年の間で、東はアフガニスタンのヒンディークシュ山脈から西はトルコのアナトリアのほぼ全域、北はアラル海近辺から南はペルシャ湾まで約390万平方キロメートルを包括する帝国を作り上げたのがセルジューク朝です。

トルコ人が歴史上建国した王朝の中で最も重要な王朝であり、トルコ民族とペルシャ人の伝統を受け継ぎ、支配地域をトルコ化した国家でした。

また、トルコ民族とペルシャ人の文化が溶け合うことにより、アナトリアへ進出すると共にアナトリアへペルシャ文化を持ち込んで反映させた王朝でもありました。

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セルジューク朝はトルコ系民族のイスラム国家

10世紀頃、中央アジア西方に移動しながらイスラム教徒になったトルコ遊牧民族の事を、ペルシャ語で“テュルク(トルコ人)に似たもの”を意味する「トゥルクマーン」と呼びます。セルジューク朝の祖先のオグズ族がこのトゥルクマーンでした。

イスラム教にはシーア派とスンニ派があるのは御存じかと思います。9世紀から11世紀頃はブワイフ朝やファーティマ朝などシーア派のイスラム王朝勢力が増大しておりましたが、セルジューク朝ではスンニ派が信仰されていました。

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セルジューク朝で使われていた言語

セルジューク朝はトルコ系民族の国家でしたがペルシャの伝統も受け継いでいたため、公用語と文学的な面ではペルシャ語、宮殿と軍の日常生活ではトルコ語が使用されていました。他にも一般的によく使われていたのはアラビア語です。アラビア語はセルジューク朝内で教えられていた言語の一つでもあり、主に宗教と研究分野で使われていました。

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民族集団から帝国になるまでセルジューク朝のあゆみ

セルジューク朝
中央アジアからアナトリアへと西軍するにつれ巨大化していったセルジューク朝は、最初どのように始まりどのように力を付けていったのでしょうか。ここで簡単にその歴史をご紹介いたします。

セルジューク朝のはじまり

セジューク家の祖先のオグズ族は、元々中央アジア北部に住んでいました。しかし、10世紀後半にモンゴルの騒乱によりトルコ系民族キプチャク族が分散し、北部で隣接しているトルコ族達の合併と移住が起こったことで、オグズ族は深刻な圧力にさらされ追いやられて族長の権威と権力に影響し始めました。

そして部族長であったセルジュークが部族を引き連れてマー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ/ソグディアナ)方面のアラル海東部ジェンドへ移住します。
その後、周辺の非ムスリムのトルコ民族との闘争でセルジュークの長男ミーカーイールが戦死すると、ミーカーイールの息子であったチャガリーとトゥグリルは祖父セルジュークに育てられました。

セルジュークの死後、次男のアルスランが族長となり、カラハン朝やガズナ朝を脅かすほどの力を付けましたが、アルスランがガズナ朝に捕らえられると、1030年にアルスラン救出の為、彼の甥でセルジュークに育てられたチャガリーとトゥグリルが部族長となり、セルジューク部族を率いてガズナ朝と戦う様になりました。

セルジューク朝の成立

セルジューク朝
当初、チャガリーとトゥグリルの兄弟はセルジューク部族を分担して率いていました。

1035年にガズナ朝に大勝利してホラーサーンに進行、1037年には現トゥルクメニスタンにある旧オアシス都市メルブを征服し、1038年に再度ガズナ朝に勝利してニーシャプールを無血開城し、独立を宣言しました。

1040年にメルブ近くのダンダーナカーンの戦いにてガズナ朝に大勝利を治めてホラーサーンの支配権を手に入れました。
この戦いの後の大祝賀会において、兄のチャガリーは弟トゥグリルの優れた行政的資質と鋭い政治的知性を称賛してトゥグリルをセルジューク朝の君主として宣言しました。
こうしてトゥグリル・ベクが初代君主となってセルジューク朝が樹立したのです。
そしてここから部族集団ではなく王朝としての組織化された国家制度が始まりました。

メルブを主要都市とし、支配地域を分割統治する為に議会を開いて親族で各行政地区の分担を決定しました。しかし、早急に行った領地分割のすぐ後、領土を急激に拡大し、1046年には現アゼルバイジャンのギャンジャ、現トルコ東部エルズルムまで侵攻し、その周辺のグルジア、アルメニア、ビザンツ帝国の軍隊を敗北させました。

この様に、新しく成立したばかりのセルジューク朝ですが、僅かな期間でブワイフ朝が占領しているバグダッド以外の全イスラムの地を支配することに成功しました。

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トゥグリル・ベクが初のスルタンに!

トゥグリル率いるセルジューク朝は、ブワイフ朝の占領下にありカリフ制の中心であるバグダッドを奪回するために、アッバース朝の第26代カリフであるアル・カーイムの招待を受けて、1055年1月17日にバグダッドに入ります。そして、ブワイフ朝を崩壊させてバグダッドを奪回し、アッバース朝のカリフを復権させ、カリフより東西の支配者として「スルタン」の尊号が実質的に初めてトゥグリルに与えられました。

アナトリアを征服したアルプ・アルスラーン

セルジューク朝
ドゥグリル・ベクが1063年に死去し、翌年に甥でチャグリー・ベクの息子であるアルプ・アルスラーンが2代目スルタンに即位すると、ビザンツ帝国の領土であるアナトリアを征服する為に西進します。

1064年にアナトリア北東アルメニア王国の首都であり当時はビザンツ帝国支配下にあったアニ城を征服してカルスに入ります。このアナトリアでの襲撃は、1071年8月26日に東アナトリアで行われた対ビザンツ帝国との「マラズギルトの戦い」の大勝利により終わりました。

因みにこのアニでは、近年セルジューク朝のアナトリアで最初となるお墓が発見されています。

この戦いでの大勝利により、ビザンツ帝国領土であったアナトリアへの扉がセルジューク朝に開いたのです。アルプ・アルスラーンはオグズ系トゥルクマーン達をアナトリアへ送って入植させます。これが、アナトリアが現在にも続くトルコ人の地となる始まりでした。そして後に、アナトリアの地でルーム・セルチュク朝やオスマン朝やカラマン侯国などのトルコ人の諸侯が勃興することになるのです。

セルジューク朝はアルプ・アルスラーンが死去した1072年には、エーゲ海沿岸とマルマラ海沿岸までアナトリアのほぼ全域を征服し、帝国と言われるまでに巨大化しました。

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帝国領土をセルジューク一族が割拠

アルプ・アルスラーンの息子マリク・シャーの治世、有能な大宰相のお陰で中央アジアのトルコ民族、全イラン、アラビア、シリア、パレスチナをも支配下に置き、帝国の領土は最大になりました。

帝国化していたセルジューク朝では、スルタンを長として各地方をセルジューク一族がそれぞれ分割して地方に政権を立てた支配制度が行われていました。マリク・シャーは一族にトゥルクマーンを各々与えてアナトリアの侵攻と統治を命じ、1074にはアルトゥク・ベイ率いる軍がビザンツ帝国首都コンスタンティノープル対岸のウスキュダルまで侵攻して居住を始めます。

また、彼はマリク・シャーの命で東部遠征も行い、1074~1077年間にシヴァス、トカット、チョルム近郊、イェシルルマック、ケルキット盆地を占領しました。アルトゥク・ベイの後はダニシュメンド・ガーズィーが引き継ぎ、アマスヤから黒海までを占領しました。メンギュジュク・ガーズィーは、シャルキカラヒサル、エルズィンジャン、シワスのディヴリー周辺を、エブル・キャースムはエルズルムとチョルフ地域を征服しました。

また、アナトリア中央、北西、西部への侵攻はセルジュークの玄孫であるスレイマン・シャーが行い、ビザンツ帝国と戦いつつもビザンツの反乱軍と同盟を結びます。そして、1077年にスレイマン・シャーはセルジューク朝からアナトリアの支配権を受けて独立し、ニカエア(現イズニック)を首都としてルーム・セルジューク朝を樹立させました。

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セルジューク朝の衰退、そして滅亡

セルジューク朝
1092年にスルタンのマリク・シャーが死去すると、割拠していた君主たちは内戦を行う様になり、そこにヨーロッパからの十字軍の侵攻に遭うなど、帝国は衰退してスルタンの権威も落ちてしまいました。

その後一時再興するも、1153年に東方のトゥルクマーンによる反乱が起き、鎮圧に向かった第8代スルタン・サンジャルが大敗して捕虜となりました。彼は3年後に逃亡に成功しますが、1157年に死去してしまいます。

このサンジャルには跡継ぎの実子がいなかったため、1157年にサンジャルの死を以てセルジューク朝は滅亡しました。

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セルジューク朝の主な滅亡原因

  • 中央政権の弱体化
  • 後継者争い
  • オグズ族の反乱
  • 十字軍の開始
  • 割拠していた君侯立ちの独立の動き
  • セルジューク主権から抜け出す為にアッバース朝のカリフが行った他国との共同計画
  • ファーティマ朝とシーア派の摩耗
  • 皇子達の反乱
  • 1141年のカトワーンの戦いでの大敗と西遼(カラ・キタイ)の侵略

 
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アナトリアでの後継王朝「ルーム・セルジューク朝」

ルーム・セルジューク朝
セルジューク朝初代スルタンのトゥグリル・ベクの従兄弟クタルムシュの息子クタルムシュオール・スレイマン(スライマーン・イヴン・クルタムシュ)が、アナトリアに侵入して居住し始めていたトゥルクマーン達を統率する為、1073年スルタンの命によりアナトリアに送られました。

1075年にはビザンツ帝国の主要都市であるニカエア(現イズニック)やニコメディア(現イズミット)を、加えてマルマラ海南部全域とアナトリア西部を征服し、さらにはダーダネルス海峡を通る船への関税権を持つことに成功します。そして1077年にセルジューク朝本家より独立してニカエアを首都とした「ルーム・セルジューク朝」を設立しました。

その後、1097年に第1回十字軍によってイズニックが陥落されると、ルーム・セルジューク朝はアナトリア内部に撤退し、1101年に首都を現在のコンヤであるイコニウムに移します。そしてて最終的にはここを中心に復活し、本家のセルジューク朝が1157年に滅亡してからも、ルーム・セルジューク朝は継続し続けるのです。

13世紀初頭に最盛期を築き、1235年には現在のトルコ共和国の国境とほぼ同等の支配領域を確立し、アナトリアの最強の王朝となったルーム・セルジューク朝ですが、東より侵攻してきていたモンゴル帝国により1243年のキョセ・ダーの戦いで敗北したことで、モンゴル系イルハン朝へ毎年朝貢を行う属国となってしまいました。

その後は、内乱や分裂により弱体化し、1308年にマスウード3世が死去したことで、ルーム・セルジューク朝は滅亡しました。

「ルーム」とは?

ルーム・セルジューク朝
「ルーム」とは、元々“ローマ”を意味し、東ローマ帝国であるビザンツ帝国下に住んでいたギリシャ人をさす言葉です。ルーム・セルジューク朝は、いわゆる“ビザンツ帝国のギリシャ人の地アナトリア=ルーム地方”のセルジューク朝と言えます。

ルーム・セルジューク朝は、またの名をアナトリア・セルジューク国家、トルコ・セルジューク国家と言い、トルコでセルジュークと言うとこのルーム・セルジューク朝の事を指すほどアナトリアに大きな影響を与え、トルコ人とトルコの文化をアナトリアに定着させた王朝です。
正に、ビザンツ帝国下のギリシャ人の地を一気にトルコ人の地とした重要な王朝でもあります。

ルーム・セルジューク朝の支配でオスマン帝国の祖先も活躍!

ルーム・セルジューク朝
ルーム・セルジューク朝の時代11~13世紀頃、アナトリア各地は君侯ベイが統治する君侯国ベイリクが割拠していました。特に13世紀にモンゴル帝国の西進により追いやられてきた中央アジアのオグズ族のトルコ人達が、ビザンツ帝国に対する最前線に戦士ガーズィーとして採用され、このガーズィー集団が後々ベイリクの勃興に大きく影響することになるのです。
ルーム・セルジューク朝末期は中央主権が壊れ、1308年の滅亡と共に20以上のベイリクによる群雄割拠状態となるのですが、その中でもアナトリア北西の小さな一君侯国であったオスマン侯国が一気に力を付けて皆さんご存じのオスマン帝国となります。

因みに、オスマン侯国初代君主オスマン・ガーズィーの父エルトゥールルが、ルーム・セルジューク朝の西部国境守備のガーズィーとしてニカエア帝国と戦った際に功績を挙げ、スルタンからソゥットを冬用地、ドマニチ(現キュタフヤの町)を夏用地として授与します。そしてオグズ族カユ氏を連れてこの地を本拠地としたのがオスマン侯国の始まりと言われています。

ルーム・セルジューク朝

ルーム・セルジューク朝の遺産が残るアナトリア

1077~1308年の約230年間にトルコ化の基盤を造ったルーム・セルジューク朝は、トルコ民族の文化とペルシャ文化を降り合わせたセルジューク朝の文化を引き継ぐと共に、イスラームとビザンツ帝国の文化が融合した独自の文化を花開かせました。

特にモスク、ハン(隊商館)、キャラバンサライ(隊商宿)、マドラサ(イスラム神学校)が各地に作られたのが特徴で、二つ目の首都であったコンヤを中心に、この時代の文化の足跡がアナトリアで多く見られます。

コンヤ及び近郊

メヴラーナ博物館
  • アラエッディン・モスク(Aaeddin Camii):ルーム・セルジューク朝のウル・モスク。
  • カラタイ神学校(Karatay Medresesi):1250年頃に造られた神学校。
  • インジェ・ミナーレ神学校(Ince Minareli Medrese):1264年に預言者ムハンマドの言行録ハディースを教育する為に作られた神学校。
  • クバダバッド宮殿(Kubadabad Sarayi):ベイシェヒル湖南西岸にあるスルタン・カイクバード1世の命で作られた宮殿複合施設。ルーム・セルジューク朝の宮殿として現在まで唯一遺構が残っている宮殿。
  • スルタンハン隊商宿(Sultan Han):コンヤとカッパドキアの間アクラサライにある1229年にカイクバード1世の命で作られたアナトリアで最大のルーム・セルジューク朝時代の隊商宿。
  • メヴラーナ博物館(Mevlana Muzesi):13世紀に活躍したメヴレヴィ―教の始祖メヴラーナ(ジャラール・ウッディーン・ルーミー)の霊廟で、現在は博物館。元々はカイクバード1世が、宮殿のバラ庭の部分をメヴラーナの父にプレゼントした場所で、そこに1274年にメヴラーナの霊廟が建てられました。胡桃の木から作られたメヴラーナの墓標は、この時代の傑作とも言われるほど素晴らしい細工が施してあります。

スーフィズム
因みに、神との合一をセマーと言われる旋回によって望むイスラム神秘主義スーフィズムのメヴレヴィー教団は、メヴラーナにより開かれ、コンヤを中心地として広まり現在でも一部の信者に熱心に信仰されています。

カイセリ及び近郊

  • フナド・ハートゥン複合施設(Hunad Hatun Külliyesi):カイクバード1世の妃でカイホスロー2世の母であるフナッド・ハートゥンが慈善として1238年に造らせたモスクと神学校の複合施設。
  • アーウズカラハン隊商宿(Ağızkarahan Kervansarayi):アクサライとカッパドキアの間にある、1239年に造られた隊商宿。

エルズルム

チフテ・ミナーレ神学校
  • チフテ・ミナーレ神学校(Cifte Minareli Medrese):1285~1290年頃カイクバード1世の娘ヒュダヴェント・ハートゥンが作らせたと言われるアナトリアで最大の神学校。

 
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