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メソポタミアは古代文明発祥の地!メソポタミア文明の5つの特徴と歴史
エジプト、黄河、インダスと並び世界四大文明の一つで最古の文明であるメソポタミア。メソポタミアはギリシャ語で「川の間」を意味する通り、チグリス川とユーフラテス川の二つの大河の流域の狭間で栄えた土地です。紀元前9千年に遡る歴史を持ち、古代文明発祥の地でもあります。
世界最古の文字や法典を生みだし、また様々な民族の流入、数々の王国の興亡が繰り返されてきた歴史の舞台でもあるメソポタミアをここで徹底解説致します。
「メソポタミア」の意味は、古代ギリシア語で“二つの川の間の土地”。その名の通り、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域を指します。現在のイラク、シリア北東、トルコ南東の地域一帯です。メソポタミアは古代文明発祥の地として知られていますが、メソポタミアという一つの古代国家があったわけではありません。
また古代ローマでは、このメソポタミアを含め地中海東一帯を“太陽が昇る場所”を意味する「オリエント」とも呼んでいました。
チグリス川は、東トルコのタウルス山脈の山岳地帯エラズー県マデン郡ユルドゥズハン村に源流があり、トルコ内525㎞を通った後、一部シリア、その後イラクを通りペルシャ湾に注がれる全長1,900㎞の大河です。流れが速く、時に激しく氾濫し、土壌に恵みをもたらしました。
ユーフラテス川は、西アジア最長の大河。東トルコのアール県ディヤディンが源流のムラト川と、同じく東トルコのエルズルム県ドゥムルダーが源流のカラス川、この二つの支流がエラズー県内で合流しユーフラテス川を形成しています。トルコ内1263㎞を流れた後、シリアとイラクを通りペルシャ湾へ注ぐ全長2800㎞の大河です。
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温暖な地中海性気候と肥沃な大地によって植物も動物も人間も生活する土台があったため、文明が発祥し、栄えることができたのです。
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北部は山岳地帯、南部は砂漠ですが、地中海性気候で温暖で湿潤であったため、多くの自然の植物が育ち、早くから農業と牧畜が始まりました。遅くても紀元前9千年までには定住農業を始め、村を構築し、間もなく灌漑農業をも始めたと言います。
世界中の農業の基礎を形成する8つの基本的な植物のうちの6つ(二粒小麦、一粒小麦、大麦、レンズ豆、エンドウ豆、ひよこ豆、ソラマメ科のビターベッチ、亜麻の植物)がこの地域で栽培化されたと言います。メソポタミアはこの“肥沃な三日月地帯”の中核を担っていました。
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このウルク古拙文字が後のシュメールで簡易化されて楔形文字となり、メソポタミア全土に広がりました。
メソポタミアでは、紀元前8000年ごろから文字が誕生する前まで、財の出納管理の為に使われた球形、円錐形など様々な形で有模様や無模様のトークンと言う粘土で作られた1㎝位の大きさの計算具がありました。
そのトークンを保管する為に、中に入れて乾かした泥粘土の球 “ブッラ”が紀元前3500年頃に誕生します。ブッラは不正が無いようトークンを密閉できる封筒な様な役目を担っていました。そして、ブッラに入れたトークンの内容が分かるように、ブッラに押捺をするようになります。
時代が経つにつれ、トークンもブッラも押捺が複雑化することにより、トークンの代りに粘土板、そして押捺の代りに尖った用具で線画するようになってできたのが、ウルク古拙文字なのです。
こうした暦法や天文学のベースとなったのは、太陽や月、星の動きによって天候や未来を予知する占星術だと言われています。
さらに、その後のバビロニアでは紀元前1760年頃に有名な「ハンムラビ法典」が発布されています。ハンムラビ法典は、“目には目を歯には歯を”の同害復讐法と、身分によって刑罰に差が出る身分法を基本として内容になっています。
北西メソポタミア、トルコ南東のシャンルウルファにある「ギョベックリ・テぺ」は、ストーンヘンジよりも古い先史時代、新石器時代の紀元前1万1400年に作られ、紀元前8000年頃には放棄された世界最古の宗教遺跡で、メソポタミアの歴史を塗り替えた貴重な遺跡です。
“歴史の0(ゼロ)地点”と言われるこの遺跡は4層あり、一番古い層が最も重要となります。
T字型に石で造られたモニュメントが10~12個、円形状に規則的に並べられており、それらの間には石で組まれた壁があり、円の中心にはより高い二つのモニュメントが向かいあって建てられていました。このモニュメントのほとんどに、人、手、腕、色々な種類の動物、抽象的なシンボルが浮き彫りまたは彫刻されています。このモチーフは物語、もしくは何かのメッセージであると考えられています。
この地は、居住地ではなく宗教の中心地として農耕と牧畜へ移行する最後の狩猟・採集グループにより建てられ、彼らの重要な宗教中心地であったと言われています。
ギョベクリ・テぺは、2018年に世界遺産に登録され、トルコだけでなく世界的に注目されている遺跡でもあります。
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「テル・ハラフ」は、北東シリア、トルコ国境に接しているハセケ州にある、紀元前6千年からの歴史ある遺跡です。新石器時代に”ハラフ文化”と定義される幾何学模様や動物模様が描かれ釉薬が塗られた陶器が発祥した場所で、ここから北メソポタミアの文明が始まりました。
後世、ヒッタイト帝国の支配下に入り、紀元前10世紀にはアラム人の都市国家グザナもここにできました。
この時代、既に農耕と牧畜が行われていました。しかし、未だ灌漑農業は行われてなく雨水に頼った乾燥地農業でした。銅は知られていましたが加工されて使用されることは無く、道具が作られる際には土か石が使われていました。
また、陶器に使われている塗料は、ハラフ陶器が普及しているほとんど全ての都市で本質的に同じものであることから、特定の場所で染料が作られてそれぞれの都市に輸出されていたのではないかと言われています。
テル・ハラフ特有の彩文土器の他に、儀式用と思われる女性像や印象なども作られていました。なお、この時代、火打石と黒曜石が打製石器として使われており、これらは東アナトリアからもたらされた物で、また東アナトリアの集落にハラフ陶器がみられることから、ハラフの陶器と東アナトリア各地の火打石と黒曜石が物々交換され、一種の交易があったとみられています。
この文化はその後、紀元前5,000年頃にウバイド文化へ継承され消滅しました。
北のトロス山脈やザグロス山脈からやって来た人たちがこの地で集落を作ったと言われています。水路を建設して灌漑農業を始め、これにより農業が大きく発達し、主に小麦、大麦、亜麻、ナツメヤシが栽培されていました。
畜産は主に牛と豚です。また、海や川に近い地域では、漁業も自給自足経済において重要な位置を占めていました。 実際、南西アラビア沿岸の殆どのウバイド集落で、シーズンには漁業のために移り住んでいた形跡が見つかっています。農業、遊牧、漁労が分業されていました。
後期ウバイド期にはメソポタミアより広い、南東アナトリアや東地中海までウバイド文化が拡散しました。メソポタミアでは、木材や石材や鉱山がありませんでしたので、材料や原材料を外部から調達する必要があったため、地域以外の土地に商売目的の植民地を作る様にもなりました。
粘土、骨、さまざまな石で作られた多くの判や円筒印章が公共建物だけでなく、住宅後でも見つかっていることが、貿易の普及を裏付けています。
神殿もメソポタミアで初めて作られました。増大する余剰品を掌握した支配階級は、人々に対する精神的な力を支える壮大な神殿建設工事に目を向けたのです。これら神殿の中で最も代表的なものが、トルコ南部マラティア県内の「アルスラーンテペ」、イラクのエリドゥ、ウルク、テペガヴラなどの遺丘から見つかっています。
ちなみに、「車輪」が発明されたのもウバイド期で、元々はろくろから発達したものでした。ウバイド文化も、紀元前4000年ごろにウルク文化へと引き継がれ、紀元前3800年頃の急な気候変化の乾燥化により、終焉しています。
紀元前4000~3100年頃に、ミソポタミア最南部ユーフラテス河畔の東側にできたシュメール人の都市ウルク(現イラクのムサンナー県ワルカWarka)から広まった文明で、約1000年も続きました。
広範囲の灌漑農業の発達に伴い多種の穀物が栽培種化され、人口が増加し、支配階級が現れたことで集落から都市国家が生まれてきました。ウルクはその代表的で最古の都市と言え、ここからメソポタミアでは文化が一気に開花していきました。
歴史上初めて「ウルク古拙文字」と言われる、絵文字であり後の楔形文字の原型である世界最古の文字が誕生しました。それと共に粘土板も使われるようになったのです。そして、この期間の末期にはこの文字による記録も行われるようになりました。
軍隊と組織化された戦争の道具も出現し、また冶金において鋳造技術の進歩、高速ろくろを使用した陶磁器の製造、円筒印象もウバイド期に続いてこの時期にも使用されていました。そして、長距離貿易が発達し、メソポタミア内には密接した貿易ネットワークが形成されていたと言います。
ウルク中期には、この都市に既に2万~5万人の人が住んでいたと言われています。このウルク文化はメソポタミア全土だけでなく、アナトリアや地中海まで普及しました。
シュメールは文字、言語、医学、天文学、数学、宗教、占術、呪い、魔術、神話などの分野を始めて産みだしたことで有名です。 “創造”と“大洪水”に関しても初めてシュメール文化でみることができます。
紀元前3000年頃には、都市や町が35程あり、その内キシュ、ニップル、ザバラム、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルなど18の大都市があったと言います。
大きな都市は通常城壁が巡らされており、それぞれの都市に独自の神が存在し、最低一つの高い神殿ジッグラトがありました。
シュメール末期にはシュメール人の主神がアヌからエンリルに代わっており、エンリルの神殿がニップルにあったことから、ニップルがシュメール人の宗教においての首都と見なされています。
紀元前2400~2350年の間、シュメール人は衰退し、アッカド人が増加しました。そして、サルゴン王が率いるアッカド王国に征服されてしまいます。
実在の王の他に、神話的要素も含まれていました。たとえば、洪水の前に住んでいた地域には8人の伝説的な支配者(=都市)がいたと言う事ですが、在位数万年と在位期間が異常に長く、明らかに神話上の王であることがわかります。
そして、洪水後の最初のシュメール王朝はキッシュ、ウルク、ウルとのこと。因みに有名なギルガメシュ叙事詩の“英雄ギルガメシュ”もウルク王朝の王の一人と言われています。
何十人も王の名が連なった中で唯一の女王は、キシュ第3王朝の1代限りの君主であった「ク・バウ」のみだそうです。しかもこの女王は、元は娼婦から王妃、そしてキシュの女王に上り詰め100年間在位したと言う伝説的な女王です。
なお、考古学上確認された最古の王は、紀元前2800年頃在位したキシュ王「エンメバラゲシ」とのことです。
アッカド人は、南メソポタミアのシュメールが栄えた地域より少し北の地に紀元前2500年頃移住し、シュメール文化を取り入れながら力をつけ、シュメールの後に180年間メソポタミアの主権を握り、領域国家を作り上げました。
シュメールのキシュ第4王朝のウル・ザババ王の笏持ちであったサルゴンが王となり、シュメールを征服し、南メソポタミアを掌握してアッカド王国を作ります。そして、東のエラム人と主従協定を結び、東の安全を確保した後、西方遠征にて北はトロス山脈、西は地中海沿岸及びキプロス、南はペルシャ湾まで領土を広げ、史上初めて中央集権的な国家を築きました。
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アッカドは北の天水農業と南の灌漑農業の二つの農業により高い農業生産力を持つことで、経済と人口増加を可能にし、軍事力を担っていました。しかし、アッカドの地では金属鉱石や石材や木材が不足していたため、アナトリア半島から銀、現在のアフガニスタン方面からラピスラズリ、レバノンからレバノン杉、マガン(現オマーンの一都市)から銅などを輸入する為に広範囲にわたり多くの国際貿易を行っていました。
サルゴンの後、二人の息子たちが順に王位に着きました。その後孫のナラム・シンが第3代目の王となり、南のシュメールへ、東のエラムへ、北のアナトリアへ遠征を行ない、祖父サルゴンの領土を守りながら拡大に努めました。
アナトリアではハッティの王パンパを筆頭にパルシュハンダ、カルシャウラ、カニシュなど17諸国からなる軍隊と戦ったと記録されています。
その後、ナラム・シンの息子のシャル・カリ・シャッリが王になった頃には、周辺民族の反乱に遭い、最終的には北のザグロス山脈から侵略してきたグティ人により、紀元前2154年にアッカド王国は滅亡してしまいました。
ちなみにその後、アッカドの地をグティ人が約125年間支配し無政府状態となります。そして紀元前2060年頃にウル王ウル・ナンムにより再度シュメールが再興され、ウル第3王朝を築き、ウル・ナンム王以下5代に渡り100年ほど最も栄えた時代が築かれました。
ちなみに、彼女を機に王女がナンナ神に仕える女神官になることが慣例となり、この慣例は紀元前6世紀まで続きました。
しかし、紀元前2004年頃に東からエラム人が侵攻して最後の王イビ・シン王をエラムに連れ去ったことにより、この王朝は滅亡。ウル王朝の滅亡と共にシュメールは消滅し、歴史の舞台から消えました。
シュメール語の楔形文字で書かれた35条からなる法典で、殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについての損害賠償に重点を置いた刑罰で、損害賠償は銀によって支払われていました。
発見されたこの法典は、現在イスタンブール考古学博物館にて保管されています。
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古・中期バビロニアは、現バクダッドからペルシャ湾までの南メソポタミア(シュメールとアッカドの土地)を支配したアムル人の王国です。
ウル第3王朝滅亡後、「イシン・ラルサ時代」には、アムル系のイシン、ラルサ、バビロン、マリ等の諸王朝が乱立し、覇権争いが行われていました。その中でも力を持ったイシンがイシン第一王朝を築き勢力を振るいます。その後、ウルとニップルの町を巡り、力を付けたラルサと対立し争いますが、ラルサがイシンに勝利して強力国になります。
紀元前1894年頃から勢力を付けて来たバビロンで、バビロン第一王朝が成立します。この頃一都市国家に過ぎなかったバビロンですが、紀元前1792年に第6代目王に即位したハンムラビは、北の上メソポタミアを支配していたアッシリアのシャムシ・アダド1世と同盟を結び、紀元前1759年頃迄には周辺諸国イシン、ウルク、ウルなどを攻略します。紀元前1763年頃に南の下メソポタミアを征服し、その後アッシリアをも支配下に置き、全メソポタミアを統一しました。
ハンムラビの死後、息子のサムス・イルナが王位に着きますが、治世中に支配下の国々の反乱が続き、バビロニアは多くの領土を失いました。また、紀元前1741年にザグロス山脈からカッシート人が侵入してきます。
やがてバビロニアは弱体化して行き、紀元前1595年にヒッタイトのムルシリ2世により滅ぼされました。
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この頃、北部のアッシリアはフリル人のミタンニ王国に従属させられていた状態でした。1400年代にはバビロニア、ヒッタイト、ミタンニ、アッシリア、新エジプト王国がオリエントの覇権を掛けて争っていました。ミタンニが滅亡すると、アッシリアが勢力を盛り返します。
その後、アッシリアと東のエラム人の攻撃が相次いだため、バビロニアは弱体化し、紀元前1155年にエラム人によりバビロンが攻略されカッシート朝バビロニアも滅亡します。
この際に、エラム人はバビロンからハンムラビ法典をスーサ(現イラン)へ持ち去ったため、ハンムラビ法典は後世バビロンではなくスーサの遺跡から出土しているのです。
カッシート朝滅亡後すぐの紀元前1157年に、バビロン第4王朝とも呼ばれるイシン第2王朝が勃興しバビロンを首都とするのですが、この王朝も紀元前1026年ごろに滅亡し、続いて短命の王朝が幾つも興亡します。
その後、バビロニアは紀元前625年までアッシリア帝国の領土となり、その支配下の中でアッシリア王達がバビロンの王に即位したり、反乱や短期独立したりが繰り返されました。この期間の王朝をバビロン第9王朝、第10王朝と呼んでいます。
法典は282条からなっています。あの”目には目を‥”は誰にでも同等に適用されるわけではありませんでした。あくまでも同等身分の者同士の事項の場合に、不当な処分にならないように、また倍返しなどの過剰な処分にならないように規制された、やられた物と同等の罰が与えられるということが成文化された初めての法令です。これは、現在の刑罰法の起源とも言われています。
また、無罪の考えの推定の最古の例の一つも含まれており、被告人と原告の両方が証拠を提示する機会も与えられていました。そして、女性でも奴隷でも一定の権利があり、弱者が強者に虐げられることから守られていました。
2.25mの高さの石碑には条項をアッカド語の楔形文字で記してあり、当時は市民皆が見える所に置かれていたと言います。
アッシリアは、紀元前3000年頃から北メソポタミアのアッシュル付近で興った民族集団で、その後都市国家を作り諸国家の影響下にありながらも、国際遠距離貿易に力を入れながら独自に存在感を見せた小国でした。
興亡の激しいオリエント世界で国家体制を維持しながら勢力を増したアッシリアは、紀元前800年代に遂には世界で最初にオリエントを統一し、大帝国を成し遂げました。
アッシリアは、紀元前3000年頃よりメソポタミアの中央、チグリス川の西河畔、現イラク北部のアッシュル及び周辺に住んでいたセム系の民族です。元々はアラビア半島から来たセム系とも言われています。
紀元前2000年頃のウル第3王朝が滅亡した頃に漸く歴史に出てくるようになります。
まずは、南メソポタミアとの商業を確立し、青銅の原料となるイラン高原の錫の交易を独占して中継貿易で栄えます。紀元前1960年以降、特にアナトリアに多くの商人居留地を築いたのですが、その中心となるのが中央アナトリアのカイセリの北約20㎞にあるカニシュ(現キュルテペ)で、中央貿易センターの役割を負い、ここで関税がかけられた後にアッシリア商人はアナトリア各地と貿易を行っていました。
このアッシリア商人のおかげで、アナトリアに文字がもたらされ、地方支配者の都市が発展して人口増加するようになりました。当時としては信じられない程高度な商業が確立されており、カニシュからはこのアッシリア商人居留地時代の商業契約や記録の粘土板タブレットが数多く見つかっています。
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アッシリアは、シャムシ・アダド1世の治世紀元前1813~1781年には、北メソポタミア一体を征服してオリエント最大の国になり、南のバビロニアのハンムラビ王もこの治世はアッシリアに従臣していました。
その後、バビロン第1王朝の覇権下に入ったり、紀元前1450~1393年にはミタンニ王国に従属しますが、エリバ・アダド1世がミタンニを破り独立国家となったことで古アッシリア時代が終わります。
しかし、紀元前1208年トゥクルティ・ニヌルタ1世の死去により、国は衰退期に入りました。紀元前11世紀のティグラト・ピレサー1世の治世中に短期間元の権力を取り戻しましたが、その後アラム人の侵攻により混乱期に入ります。
しかし、バビロンとアッシュルの地域においては、アラム人の侵入の広がりにより、都市の外での支配は事実上できない状態でした。
バビロニアは既に、紀元前1100年代半ばにエラム国王シュトルク・ナフンテ率いるエラム人によって略奪されており、チグリス川の支流であるディヤーラ渓谷も失われていました。これらの損失にもかかわらず、アッシリアの王たちは大都市と国を破壊から守ることに成功しました。
そしてティグラト・ピレセル3世の治世からアッシュルバニパルの治世までの100年あまり、新アッシリア帝国として現在まで名の知れ渡った大帝国を建国したのです。
しかし、アッシュルバニパル治世後半からこうした巨大帝国も帝国内の反乱や、国外からの侵入により急激に衰退し、アッシュルバニパルがエラムを滅亡させたものの、立て直すことはできず、紀元前612年に新バビロニアとメディア連合軍の攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落、紀元前609年にアッシリアは滅亡しました。
実は現在も、アッシリア人(アラム人またはカルデア人とも言われる)が存在するのをご存知でしょうか?現在アッシリア人は、中東固有の少数民族の一つとして確かに存在するのです。
現代のアッシリア人は、古代メソポタミアの紀元前2500年にまでさかのぼる世界で最も古い文明の1つであるアッシリア人の子孫であると主張するシリアのキリスト教徒の少数民族です。現在彼らのほとんどがネストリウス派のアッシリア東方教会、カルデア教会、シリア正教会のキリスト教信者でもあります。
メソポタミアの住民であった古代アッシリア人は、古代民族の中でも最初の西暦1~3世紀頃にキリスト教を受容し、アラビア人やモンゴル人やトルコ人などから脅威に遭いながら現在まで生きながらえてきたと言います。
しかしながら、本当のところ古代アッシリア人と現アッシリア人の遺伝的関係は未だ解っておりません。アラム人が起源の民族と言う説もあります。ただどちらにしろ、古代メソポタミアを祖先に持つ民族であることは変わらないようです。
現在のアッシリア人は世界各国に広まっていますが、主に古代アッシリアとほぼ同じ地域の現在のイラク北部(ニネヴェ平原とドフク県)、トルコ南東部(ハッカーリやトゥルアブディンやマルディン等)、イラン北西部(ウルミア)、そして最近ではシリア北東部(アル・ハサカ県の一部)に住んでいます。なお、彼らは、居住国の主要言語だけでなく、セム語派の現代アラム語の話者でもあります。
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新バビロニアは、アケメネス朝ペルシャに征服されるまで100年程帝国として君臨した短期政権です。カルデア人が建国した国でもあったので、カルデア王朝とも呼ばれています。短期ではありますが、バビロニアが史上最大の栄華を誇った時代でもありました。
アッシリア支配下バビロニア南部総督であったカルデア人のナボポラッサルは、紀元前625年に反乱を起こしてバビロニアをアッシリアから独立させて、紀元前626年にバビロニア王に即位します。そして、メディア国と同盟を結び紀元前616年には全バビロニアを支配しました。
息子のネブガドネザル2世の治世に最盛期を迎えます。彼はシリアやパレスチナ方面に多く遠征し、エジプト王ネコ2世をカルケミシュの戦いで破ってエジプト国境までの地域を支配しました。
紀元前597年にイスラエルのユダ王国の首都エルサレムを没落し、紀元前586年まで数回にわたりユダヤ人を反乱防止、職人確保、労働力確保を目的としてバビロンに強制連行捕囚します。所謂“バビロン捕囚”と言われるものです。
それ以降の王たちの治世は暗殺やクーデターにより政治不安に陥り、紀元前539年に当時急激に勢力をつけていたアケメネス朝ペルシャのキュロス王により、バビロンが無血開城され、新バビロニアは滅亡しました。
山の様な庭園は段々になっており、灌漑水路システムが張り巡らされていて、各テラスには緑いっぱいの庭園があったといい、正に空中にある庭園のようだったとの事です。
ただ、未だ考古学的発見がされていないため、位置も明確になっておらず、正に不思議で謎の多い庭園でもあります。実は、この庭園はバビロンではなく、アッシリアの首都ニネヴェに6世紀にアッシリア王センナケレブによって作られた庭園ではないかという説もあります。
“真実は如何に!”正に古代ロマンですね。
ヘブライ語聖書や旧約聖書の言い伝えでは、ノアの息子達が大洪水の後にシナル(シュメール)に定住し、ここに都市と天に届くほど高い塔の建設を希望したと言います。
伝説によると、神は自身に届こうとした人間の独善性・傲慢さに怒り、それまで同じ言語を話していた人間たちの言語を複雑化させ、それぞれの言語がわからない様にしたと言う事です。
宗教的な見解では、この物語は人間の欠陥を神の完璧さと比較する事と、世界に何百も存在する言語の起源を説明する為に使われています。
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このバベルの塔は、バビロンの巨大ジッグラトがモチーフになったと言います。古代シュメールやバビロニアでは、天と地を繋ぐ聖なる木の信仰があり、その聖なる木を現した、また神々の山とも呼ばれている“ジッグラト”と言う神殿が建設されていました。
バビロンのマルドゥク神殿の中心部に築かれたシュメール語で「天と地の基礎となる建物」を意味する“エ・テメン・アン・キ”と言うジッグラドが伝説の「バベルの塔」だと言われています。
幅90m、奥行き90m、高さ90mの七階建て、バビロン神話に登場するバビロンの都市神でバビロニアの国家神であるマルドゥクと言う神のためにつくられたジッグラトでした。また、ジッグラトの周りには僧侶の宮殿や倉庫や客室が作られていたと言います。
バビロンを侵略したトゥクルティ・ニヌルタ、サルゴン、センナケリブ、アッシュルバニパル等のアッシリアの王達により塔は破壊されますが、新バビロニアの王ナボポラッサルとネブカドネザル2世によって再建されました。しかしながら、紀元前479年にバビロンを征服したペルシャのキュロス王によって塔は破壊され、その後再建されることはありませんでした。
後に、アレクサンドロス大王がバビロンにやって来た際に廃墟の状態の塔を称賛し、元の状態に戻すことにします。そして、1万人を動員して2か月間瓦礫を撤去させましたが、大王の死と共に再建工事は断念されてしまったと言います。
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発掘されたイシュタル門は、ドイツに運ばれベルリンのペルガモン博物館で復元されており、現在のバビロンにも2004年にレプリカが復元されています。
紀元前5世紀前期ペルシャはまだメディアの属国で小国でしかありませんでした。そのペルシャの王を父とし、メディアの王女を母として生まれたキュロス2世は、紀元前559年年にペルシャ第7代目王として即位します。
そして、紀元前552年に母方祖父が統治しているメディア王国に反旗を翻してメディアを滅ぼします。その後、“不死隊”と呼ばれる精鋭部隊を率いて紀元前547年にアナトリア西部のリディアを征服、紀元前540年にはエラム王国を征服、紀元前539年にはバビロンを無血開城させて新バビロニアを滅ぼし、東方ではソグディアナとバクトリアを征服します。キュロス2世は、西はアナトリアから東はヤクサルテス(シルダリア)川までを支配する大帝国を建国することに成功しました。
息子で後継者のアケメネス朝ペルシャ第2代王カンビュセス2世は、紀元前525年にエジプト第26王朝を支配下に入れ、オリエント全てを統一しました。
その後、アケメネス朝ペルシャは、東はガンダーラまで征服し、西はギリシャ占領のためにペルシャ戦争を起こしたりし領土拡大を目指すも、紀元前330年にマケドニア軍率いるアレクサンドロス大王により220年続いたアケメネス朝は滅ぼされてしまいました。
アレクサンドロス大王死後は、ディアドゴイ戦争の末に、アレクサンドロス大王の将軍であったセレウコスが受け継いだセレウコス朝シリアがこれらの土地を統治しヘレニズム文化の一部となりました。
こうして降水量が減少して土壌中の塩分濃度を高くなっていた中で、シュメール人は木材調達のために次々と森林を伐採していたため、乾燥によって塩分が高くなった土壌が流出して塩害が進行し、灌漑のための水路がふさがれて農業がダメージを受けて食糧不足が起こったことが、文明の衰退の原因になったと見られています。
また、歴史的に見れば、この地域で最大の栄華を誇った新バビロニア帝国の滅亡を、メソポタミア文明の一つの終焉と考えてもよいでしょう。それまでメソポタミア文明においてはアッカド語を話すセム系民族が主に支配していましたが、紀元前539年にインド・ヨーロッパ語系でイラン系民族のペルシャ人が新バビロニアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシャが成立します。
アケメネス朝ペルシャでは、メソポタミア文明を継承してオリエント文明を開花させましたが、アレクサンドロス大王の東方遠征によってペルシャ帝国も滅亡した後、オリエント文明がさらにギリシア文明と融合してヘレニズム文明が生まれ、アラビア半島から入ってきたイスラム教が西アジアに普及していくなど、メソポタミア文明は歴史に埋もれていくのです。
発掘されたアッカド語のテキストのほとんどは、近東の鉄器時代に作成され、多くの宗教的、法的、公式、および軍事文書が含まれています。アッカド語は、ブロンズ時代が崩壊するまで、近東の共通語となっていました。
アッカド語は紀元前1000年頃に北のアッシリア方言と南のバビロニア方言の二つに分かれて、それぞれ独自に発達しました。しかし、紀元前8世紀頃からアッカド語の話し言葉はアラム語の普及に伴い使われなくなったと言います。
表記としては、シュメール語から借用した楔形文字を使用していました。アッシリア語は新アッシリア帝国が紀元前609年に滅亡するまで、バビロニア語は古典語の統一的な文法が使用された標準文語としてセレウコス朝の時代紀元前100年頃まで、国際的に文学や書簡の表記に使われ続けました。
ヘレニズム時代にはアッシュルとバビロンの神殿に従事する神官と学者が使用するのみに留まり、発見された最後のアッカド語のテキストは西暦1世紀の物で、それ以降の物はありません。
しかし、現在のマンダ語やシリア語は北西セミ語族にもかかわらず、アッカド語の語彙や文法が含まれていることが解っています。
このメソポタミアの神々は、メソポタミアだけではなく、ヒッタイト神話やフルリ神話などでも取り入れられ、アナトリア神話やギリシャ神話にも大きな影響を及ぼしました。
また、紀元前400年頃に信仰が消滅したにも関わらず、創造の神話、エデンの園、洪水、バベルの塔、ニムロド、リリス等、その後の一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教、マンダ教と多くの聖典にも影響しメソポタミアの神話の要素が含まれています。
メソポタミアでは2400の神様たちが信仰されていたと言います。そして、メソポタミアの都市はそれぞれ神々の家と考えられており、それぞれの都市には対応する守護神が定められ、その守護神を信奉していました。そして、その守護神をまつる為に、各都市にはジッグラトと言う聖塔が建てられていたのです。
アヌ(アン)は、初期の最高神。後にその地位はエンリルに代わられます。メソポタミア全土、及びどの時代でも信仰された神。配偶神のキと共に「アンヌアキ」と呼ばれるパンテオンの中でも強力な多くの神々を生みだしました。
エンリルは、父アヌから母キを奪い、地上を支配し、神々の労働を肩代わりさせるために、母キと交わって人間を産みだしました。地上を支配し、最も恐れ多く、姿は勿論エンリルから発せられるメラムと言う後光は神々でさえ見ることが叶わなかったと言います。
我が強い激情家で都市の滅亡、洪水などの天変地異、疫病蔓延など人類にとってのネガティブな事象はエンリルが原因とされています。
エンキ(エア)の父はアヌ、母はキ。地下の淡水の海アプス―の主。水星の象徴。ビール好き。妻の女神ニンフルサグとの間に娘の植物の女神ニンサルが誕生しますが、妻不在の間に娘ニンサルと交わり農耕牧畜の女神ニンクルラを設け、そのニンクルラとも関係を持ち、機織の女神ウットゥも設けます…。
なんとさらにエンキはこのウットゥとも関係を持つのです…。水神エンキの男性器から飛び出した水からユーフラテス川とチグリス川ができたといいます。
ニンリルは、父アヌ、母アントゥ(キ)。家族とディルムンに住んでいました。水辺で寝ているところ、エンリルに妊娠させられ、後に月神となるナンナ(シン)を産みます。
エンリルは罰として地下の国に送られますが、そこで門番に扮したエンリルにより死神ネルガルを妊娠させられます。さらには、下界の川の男に扮したエンリルにより冥界神ニナズを、最後には船頭に扮したエンリルにより川と運河の神エンビルルを妊娠させられて産みました。
イナンナ(イシュタル)は、メソポタミアで広く信仰され権威を得ていたシュメール起源の女神。カナン、アッシリア、ヒッタイトなどでも男神と同等の力を持ち、イシュタル信仰は強大でした。
イシュタル信仰は根強く、後のギリシャ神話の女神アフロディーテやローマ神話の女神ヴィーナスのモデルともなっています。
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全ての事を良くする優しく、善良な神様。毎日日の出と共にマシュ山のそばにある東の門から現れ、全てを照らしながら天空を横切り、その日の終わりに西の門から冥界に下りて死者の運命を定めます。肩から太陽光線を放つ、長い髭を蓄えた長い腕の男性の形で描かれていました。
紀元前1300~1200年頃には標準バビロニア語で叙事詩として編集された標準版が、12枚の書版に書かれていました。これの最も状態の良い写本が紀元前7世紀のアッシュルバニパルの図書館の遺跡から見つかっています。
ギルガメシュ叙事詩は各言語に翻訳されて各地に広まっていました。前二千年紀後半のバビロニア語版がヒッタイトやシリア・パレスティナで、他にもヒッタイト語版やフルリ語版も発見されています。
アルルは粘土をこねて野蛮な男エンキドゥを造ります。エンキドゥは野生的で力強く、荒野で野獣たちと暮らしていましたが、神聖娼婦シャムハトと交わったことで野蛮性を失い文明を得ることができました。
ウルクにギルガメシュという王がいることを聞いたエンキドゥは、自身と同じような強い仲間が欲しいと思い、またギルガメシュは友が来る予知夢を見ます。二人は出会う前から意識しあっていました。
ギルガメシュが国の花嫁の初夜権を行使すると言うことを聞いたエンキドゥは激怒してウルクに向かい、初夜権行使の為に神殿に向かうギルガメシュに会うや否や大格闘を広げます。しかし、対等の力であった二人はお互いの力を認め合って親友となるのです。
ギルガメシュとエンキドゥの二人は、レバノン杉の森の番人フンババ退治の冒険をした後、女神イシュタルがギルガメシュに思いを寄せますが、ギルガメシュはそれを拒否。激怒したイシュタルは父アヌに頼み、ウルクへ聖牛グガランナを送り込みます。
二人は激闘の末にこの聖牛を倒すのですが、怒ったイシュタルはギルガメシュに呪いをかけようとしたため、エンキドゥは聖牛の死体から腿を引きちぎってイシュタルの顔面に投げつけました。
二人が力を合わせれば神にも届き得ることを知り、恐れた神々は、2人のうち1人が死ぬ様、エンキドゥに死の呪いをかけます。エンキドゥは熱に倒れ12日間後にギルガメシュに看取られながら息を引き取ります。
エンキドゥの死後、ギルガメシュは不死を手に入れる為に旅に出ますが、「神々に創られし者であるならば、そこに必ず命は定められる」と不死を得られずに帰国し、ウルクの王として国を治めるのです。
世界最古の文字や法典を生みだし、また様々な民族の流入、数々の王国の興亡が繰り返されてきた歴史の舞台でもあるメソポタミアをここで徹底解説致します。
目次
メソポタミアとは?場所はどこ?
「メソポタミア」の意味は、古代ギリシア語で“二つの川の間の土地”。その名の通り、チグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域を指します。現在のイラク、シリア北東、トルコ南東の地域一帯です。メソポタミアは古代文明発祥の地として知られていますが、メソポタミアという一つの古代国家があったわけではありません。
また古代ローマでは、このメソポタミアを含め地中海東一帯を“太陽が昇る場所”を意味する「オリエント」とも呼んでいました。
メソポタミアの東側を形成するチグリス川
チグリス川は、東トルコのタウルス山脈の山岳地帯エラズー県マデン郡ユルドゥズハン村に源流があり、トルコ内525㎞を通った後、一部シリア、その後イラクを通りペルシャ湾に注がれる全長1,900㎞の大河です。流れが速く、時に激しく氾濫し、土壌に恵みをもたらしました。
メソポタミアの西側を形成するユーフラテス川
ユーフラテス川は、西アジア最長の大河。東トルコのアール県ディヤディンが源流のムラト川と、同じく東トルコのエルズルム県ドゥムルダーが源流のカラス川、この二つの支流がエラズー県内で合流しユーフラテス川を形成しています。トルコ内1263㎞を流れた後、シリアとイラクを通りペルシャ湾へ注ぐ全長2800㎞の大河です。
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文明発祥の地・メソポタミア文明の5つの特徴
メソポタミアでは、土器・陶器が発達した北メソポタミアのハラフ文化やウバイド文化から始まり、都市国家として発展したシュメール、アッシリア、バビロニアなど複数の王朝が繁栄し、その過程で多くの「人類最古」の重要な文明が生まれました。メソポタミアは地理的に恵まれた土地だった
メソポタミアのチグリス川とユーフラテス川が合流するペルシャ湾の河口付近は平野の為、両河の氾濫や潮の干満の影響を受けやすい湿地帯でした。また、冬と夏の気温差が激しく、春になると雪解け水で両河は頻繁に洪水になることで、農業に適した沖積土がもたらされました。温暖な地中海性気候と肥沃な大地によって植物も動物も人間も生活する土台があったため、文明が発祥し、栄えることができたのです。
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肥沃な三日月地帯で農業が発展
ペルシャ湾から、北へ弧を書く様にチグリス河とユーフラテス河流域のメソポタミア、シリアから東地中海沿岸を南下してエジプトのナイル川北部を含めたこの半円形の地域のことを肥沃な三日月地帯と言います。北部は山岳地帯、南部は砂漠ですが、地中海性気候で温暖で湿潤であったため、多くの自然の植物が育ち、早くから農業と牧畜が始まりました。遅くても紀元前9千年までには定住農業を始め、村を構築し、間もなく灌漑農業をも始めたと言います。
世界中の農業の基礎を形成する8つの基本的な植物のうちの6つ(二粒小麦、一粒小麦、大麦、レンズ豆、エンドウ豆、ひよこ豆、ソラマメ科のビターベッチ、亜麻の植物)がこの地域で栽培化されたと言います。メソポタミアはこの“肥沃な三日月地帯”の中核を担っていました。
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世界最古の楔形文字の発明
メソポタミアのウルク遺跡で発掘された紀元前3200年頃の粘土板には、楔形文字の最古の原型で、原シュメール文字とも言われている「ウルク古拙文字」が見つかっています。この粘土板には、数値記号と共に羊などの動物、人間の手足や頭、古穀物等の象形文字が書かれており、数量の記録であったとされています。このウルク古拙文字が後のシュメールで簡易化されて楔形文字となり、メソポタミア全土に広がりました。
メソポタミアでは、紀元前8000年ごろから文字が誕生する前まで、財の出納管理の為に使われた球形、円錐形など様々な形で有模様や無模様のトークンと言う粘土で作られた1㎝位の大きさの計算具がありました。
そのトークンを保管する為に、中に入れて乾かした泥粘土の球 “ブッラ”が紀元前3500年頃に誕生します。ブッラは不正が無いようトークンを密閉できる封筒な様な役目を担っていました。そして、ブッラに入れたトークンの内容が分かるように、ブッラに押捺をするようになります。
時代が経つにつれ、トークンもブッラも押捺が複雑化することにより、トークンの代りに粘土板、そして押捺の代りに尖った用具で線画するようになってできたのが、ウルク古拙文字なのです。
暦や天文学、占星術の発展
メソポタミアのシュメール文明では六十進法が採用されており、楔形文字には1~59に対応する数字がありました。また、天文学も発達しており、月30日、年360日とする太陰暦を使用し、現在も世界中で使われている七曜制(月の満ち欠けの変化をもとに1週を7日とする単位)も生み出されました。こうした暦法や天文学のベースとなったのは、太陽や月、星の動きによって天候や未来を予知する占星術だと言われています。
世界最古の法典、法治国家の誕生
シュメール文明では、シュメール語の楔形文字で書かれた世界最古の法典「ウル・ナンム法典」が見つかっています。これには、殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについて損害賠償に重点を置いた刑罰が示されています。シュメール文明は世界最古の法治国家なのです。さらに、その後のバビロニアでは紀元前1760年頃に有名な「ハンムラビ法典」が発布されています。ハンムラビ法典は、“目には目を歯には歯を”の同害復讐法と、身分によって刑罰に差が出る身分法を基本として内容になっています。
メソポタミア文明の歴史
北ミソポタミアでは、天水農業が可能だったため、かなり昔の紀元前1万年頃から集落が生まれてきましたが、南メソポタミアは乾燥地帯であったため、人々の定着はより遅い紀元前5500年頃に行われ農耕もその頃始まりました。北メソポタミア最古の宗教施設:ギョベクリ・テぺ遺跡
北西メソポタミア、トルコ南東のシャンルウルファにある「ギョベックリ・テぺ」は、ストーンヘンジよりも古い先史時代、新石器時代の紀元前1万1400年に作られ、紀元前8000年頃には放棄された世界最古の宗教遺跡で、メソポタミアの歴史を塗り替えた貴重な遺跡です。
“歴史の0(ゼロ)地点”と言われるこの遺跡は4層あり、一番古い層が最も重要となります。
T字型に石で造られたモニュメントが10~12個、円形状に規則的に並べられており、それらの間には石で組まれた壁があり、円の中心にはより高い二つのモニュメントが向かいあって建てられていました。このモニュメントのほとんどに、人、手、腕、色々な種類の動物、抽象的なシンボルが浮き彫りまたは彫刻されています。このモチーフは物語、もしくは何かのメッセージであると考えられています。
この地は、居住地ではなく宗教の中心地として農耕と牧畜へ移行する最後の狩猟・採集グループにより建てられ、彼らの重要な宗教中心地であったと言われています。
ギョベクリ・テぺは、2018年に世界遺産に登録され、トルコだけでなく世界的に注目されている遺跡でもあります。
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北メソポタミアを開花させた《テル・ハラフ》
「テル・ハラフ」は、北東シリア、トルコ国境に接しているハセケ州にある、紀元前6千年からの歴史ある遺跡です。新石器時代に”ハラフ文化”と定義される幾何学模様や動物模様が描かれ釉薬が塗られた陶器が発祥した場所で、ここから北メソポタミアの文明が始まりました。
後世、ヒッタイト帝国の支配下に入り、紀元前10世紀にはアラム人の都市国家グザナもここにできました。
北の《ハラフ/ハラフィアン文化》から南の《ウバイド文化》へ
土器・陶器が発達した北メソポタミアの《ハラフ文化》
先史時代紀元前6,000年~紀元前5,400年頃に北東シリアのテル・ハラフを中心に北メソポタミア、シリア、アナトリア、現トルコとシリアの国境周辺の「肥沃な三日月地帯」北部で始まり広がった有土器新石器時代です。この時代、既に農耕と牧畜が行われていました。しかし、未だ灌漑農業は行われてなく雨水に頼った乾燥地農業でした。銅は知られていましたが加工されて使用されることは無く、道具が作られる際には土か石が使われていました。
また、陶器に使われている塗料は、ハラフ陶器が普及しているほとんど全ての都市で本質的に同じものであることから、特定の場所で染料が作られてそれぞれの都市に輸出されていたのではないかと言われています。
テル・ハラフ特有の彩文土器の他に、儀式用と思われる女性像や印象なども作られていました。なお、この時代、火打石と黒曜石が打製石器として使われており、これらは東アナトリアからもたらされた物で、また東アナトリアの集落にハラフ陶器がみられることから、ハラフの陶器と東アナトリア各地の火打石と黒曜石が物々交換され、一種の交易があったとみられています。
この文化はその後、紀元前5,000年頃にウバイド文化へ継承され消滅しました。
南メソポタミア最古の文化 《ウバイド文化》
先史時代紀元前5900年~4300年頃にテル・エル・ウバイド遺跡(現イラクのジーカール県)で見られる、新石器時代の南メソポタミアでの最古の文化です。この文化は段々と南から中部、北部へと広がり、途中ハラフ文化をも継承しました。北のトロス山脈やザグロス山脈からやって来た人たちがこの地で集落を作ったと言われています。水路を建設して灌漑農業を始め、これにより農業が大きく発達し、主に小麦、大麦、亜麻、ナツメヤシが栽培されていました。
畜産は主に牛と豚です。また、海や川に近い地域では、漁業も自給自足経済において重要な位置を占めていました。 実際、南西アラビア沿岸の殆どのウバイド集落で、シーズンには漁業のために移り住んでいた形跡が見つかっています。農業、遊牧、漁労が分業されていました。
後期ウバイド期にはメソポタミアより広い、南東アナトリアや東地中海までウバイド文化が拡散しました。メソポタミアでは、木材や石材や鉱山がありませんでしたので、材料や原材料を外部から調達する必要があったため、地域以外の土地に商売目的の植民地を作る様にもなりました。
粘土、骨、さまざまな石で作られた多くの判や円筒印章が公共建物だけでなく、住宅後でも見つかっていることが、貿易の普及を裏付けています。
神殿もメソポタミアで初めて作られました。増大する余剰品を掌握した支配階級は、人々に対する精神的な力を支える壮大な神殿建設工事に目を向けたのです。これら神殿の中で最も代表的なものが、トルコ南部マラティア県内の「アルスラーンテペ」、イラクのエリドゥ、ウルク、テペガヴラなどの遺丘から見つかっています。
ちなみに、「車輪」が発明されたのもウバイド期で、元々はろくろから発達したものでした。ウバイド文化も、紀元前4000年ごろにウルク文化へと引き継がれ、紀元前3800年頃の急な気候変化の乾燥化により、終焉しています。
集落から都市国家へ《ウルク文化》
紀元前4000~3100年頃に、ミソポタミア最南部ユーフラテス河畔の東側にできたシュメール人の都市ウルク(現イラクのムサンナー県ワルカWarka)から広まった文明で、約1000年も続きました。
広範囲の灌漑農業の発達に伴い多種の穀物が栽培種化され、人口が増加し、支配階級が現れたことで集落から都市国家が生まれてきました。ウルクはその代表的で最古の都市と言え、ここからメソポタミアでは文化が一気に開花していきました。
歴史上初めて「ウルク古拙文字」と言われる、絵文字であり後の楔形文字の原型である世界最古の文字が誕生しました。それと共に粘土板も使われるようになったのです。そして、この期間の末期にはこの文字による記録も行われるようになりました。
軍隊と組織化された戦争の道具も出現し、また冶金において鋳造技術の進歩、高速ろくろを使用した陶磁器の製造、円筒印象もウバイド期に続いてこの時期にも使用されていました。そして、長距離貿易が発達し、メソポタミア内には密接した貿易ネットワークが形成されていたと言います。
ウルク中期には、この都市に既に2万~5万人の人が住んでいたと言われています。このウルク文化はメソポタミア全土だけでなく、アナトリアや地中海まで普及しました。
最古の都市文明 メソポタミア文明を築いた《シュメール》
メソポタミア文明を築いたのが皆さんご存じの「シュメール人」です。紀元前4000年頃に南メソポタミアに定住し、メソポタミアの南端で都市文明を築き繁栄しました。ウルク文化にて花開いたシュメールは、大洪水の後にキシュ、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市にて新興シュメール都市国家が成立し、王朝時代が築かれました。- 年代:紀元前4000年~2334年頃
- 民族:有名なシュメール人ですが、実は謎の民族で出自が解っていない世界最古の民族の一つです。中央アジア方面から移住したモンゴロイド系と言う説もあります。
- 言語:シュメール語と言う、非セム語系の独立した言語を話していました。これは能格言語で膠着語のバスク語やカフカス諸語の系統に似ていたと言います。
- 宗教:宇宙や地上の自然の力に神々を見出だし擬人化した多神教。天空神で最高神であるアンを崇拝。後に空気神のエンリルが最高神の地位を奪います。神々はそれぞれの都市の守護神ともなっていました。ジッグラトと言う山に見せかけた高い神殿に神々を祀っていました。ジッグラトは最初一段高い単純なワンルームの形状でしたが、徐々に多層化し、後期王朝時代には2~7段で最下層は食糧倉庫、中層は学校と神殿、上層が展望台など数層に分かれた、高層のピラミッドの様な物が作られるようになりました。
シュメールは文字、言語、医学、天文学、数学、宗教、占術、呪い、魔術、神話などの分野を始めて産みだしたことで有名です。 “創造”と“大洪水”に関しても初めてシュメール文化でみることができます。
紀元前3000年頃には、都市や町が35程あり、その内キシュ、ニップル、ザバラム、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルなど18の大都市があったと言います。
大きな都市は通常城壁が巡らされており、それぞれの都市に独自の神が存在し、最低一つの高い神殿ジッグラトがありました。
シュメール末期にはシュメール人の主神がアヌからエンリルに代わっており、エンリルの神殿がニップルにあったことから、ニップルがシュメール人の宗教においての首都と見なされています。
紀元前2400~2350年の間、シュメール人は衰退し、アッカド人が増加しました。そして、サルゴン王が率いるアッカド王国に征服されてしまいます。
シュメール文明発祥のあれこれ
- 60進法・・・楔形文字には 1 から 59 に対応する数字がありました。
- 天文学・・・月30日、年360日とする太陰暦を使っていました。
- 7曜制・・・月の満ち欠けの7日ごとの変化から1週という単位が生み出されました。
- 青銅器
- ビール・・・紀元前3000年頃の最古の記録「モニュマン・ブリュー」にて製法が記載
- 法典・・・表記されたものとして最古。シュメールは最古の法治国家と言えます。
- 王名表
世界で最初の王名表 “シュメール王名表”
初めて王名表にて代々の王朝の王が記されたのもシュメールです。実在の王の他に、神話的要素も含まれていました。たとえば、洪水の前に住んでいた地域には8人の伝説的な支配者(=都市)がいたと言う事ですが、在位数万年と在位期間が異常に長く、明らかに神話上の王であることがわかります。
そして、洪水後の最初のシュメール王朝はキッシュ、ウルク、ウルとのこと。因みに有名なギルガメシュ叙事詩の“英雄ギルガメシュ”もウルク王朝の王の一人と言われています。
何十人も王の名が連なった中で唯一の女王は、キシュ第3王朝の1代限りの君主であった「ク・バウ」のみだそうです。しかもこの女王は、元は娼婦から王妃、そしてキシュの女王に上り詰め100年間在位したと言う伝説的な女王です。
なお、考古学上確認された最古の王は、紀元前2800年頃在位したキシュ王「エンメバラゲシ」とのことです。
メソポタミアを最初に統一した《アッカド王国》
アッカド人は、南メソポタミアのシュメールが栄えた地域より少し北の地に紀元前2500年頃移住し、シュメール文化を取り入れながら力をつけ、シュメールの後に180年間メソポタミアの主権を握り、領域国家を作り上げました。
- 年代:紀元前2334~紀元前2154年
- 民族:紀元前2500年頃にメソポタミアに移住してきたセム系民族。
- 言語:アッカド語。世界最古のセム語であり、シュメール語から続く楔形文字を使用していました。話し言葉のシュメール語は徐々にアッカド語に置き換わり、アッカド語は以降の古代オリエントの国際共通語になります。公的文書ではアッカド語がつかわれ、口語的な文学や科学などでは1世紀までシュメール語が使われ続けました。
- 首都:アッカド (ユーフラテス川とチグリス川が最も近くなっている場所。正確な位置は不明)
シュメールのキシュ第4王朝のウル・ザババ王の笏持ちであったサルゴンが王となり、シュメールを征服し、南メソポタミアを掌握してアッカド王国を作ります。そして、東のエラム人と主従協定を結び、東の安全を確保した後、西方遠征にて北はトロス山脈、西は地中海沿岸及びキプロス、南はペルシャ湾まで領土を広げ、史上初めて中央集権的な国家を築きました。
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アッカドは北の天水農業と南の灌漑農業の二つの農業により高い農業生産力を持つことで、経済と人口増加を可能にし、軍事力を担っていました。しかし、アッカドの地では金属鉱石や石材や木材が不足していたため、アナトリア半島から銀、現在のアフガニスタン方面からラピスラズリ、レバノンからレバノン杉、マガン(現オマーンの一都市)から銅などを輸入する為に広範囲にわたり多くの国際貿易を行っていました。
サルゴンの後、二人の息子たちが順に王位に着きました。その後孫のナラム・シンが第3代目の王となり、南のシュメールへ、東のエラムへ、北のアナトリアへ遠征を行ない、祖父サルゴンの領土を守りながら拡大に努めました。
アナトリアではハッティの王パンパを筆頭にパルシュハンダ、カルシャウラ、カニシュなど17諸国からなる軍隊と戦ったと記録されています。
その後、ナラム・シンの息子のシャル・カリ・シャッリが王になった頃には、周辺民族の反乱に遭い、最終的には北のザグロス山脈から侵略してきたグティ人により、紀元前2154年にアッカド王国は滅亡してしまいました。
ちなみにその後、アッカドの地をグティ人が約125年間支配し無政府状態となります。そして紀元前2060年頃にウル王ウル・ナンムにより再度シュメールが再興され、ウル第3王朝を築き、ウル・ナンム王以下5代に渡り100年ほど最も栄えた時代が築かれました。
暦史上最初の詩人はサルゴン王の娘
サルゴンの娘で月神シン(ナンナ)に仕えた女神官エンヘドゥアンナは、月神ナンナを称える詩を多く残しており、最古の詩人として有名です。ちなみに、彼女を機に王女がナンナ神に仕える女神官になることが慣例となり、この慣例は紀元前6世紀まで続きました。
再興されたシュメールの《ウル第3王朝》
紀元前2060年頃にウル王ウル・ナンムにより再度シュメールは再興され、ウル第3王朝を築き、ウル・ナンム王以下5代に渡り100年ほど最も栄えた時代が築かれました。しかし、紀元前2004年頃に東からエラム人が侵攻して最後の王イビ・シン王をエラムに連れ去ったことにより、この王朝は滅亡。ウル王朝の滅亡と共にシュメールは消滅し、歴史の舞台から消えました。
現存する世界最古の法典《ウル・ナンム法典》
ウル第3王朝を作ったウル・ナンム王と息子で2代目王シュルギの治世である紀元前2115~紀元前1050年頃に作られた法典です。シュメール語の楔形文字で書かれた35条からなる法典で、殺人・窃盗・傷害・姦淫・離婚・農地の荒廃などについての損害賠償に重点を置いた刑罰で、損害賠償は銀によって支払われていました。
発見されたこの法典は、現在イスタンブール考古学博物館にて保管されています。
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メソポタミア文明の最盛期《古・中期バビロニア》
古・中期バビロニアは、現バクダッドからペルシャ湾までの南メソポタミア(シュメールとアッカドの土地)を支配したアムル人の王国です。
- 年代:古バビロニア時代…紀元前2004~紀元前1595年、中期バビロニア時代…紀元前1595~紀元前625年
- 民族:アムル人。元はメソポタミア西部のシリア方面の遊牧民で、ウル第3王朝末期頃に南メソポタミアに移住してきた民族です。
- 言語:北西セム語系のアムル語
- 首都:バビロン
古バビロニア時代
前期が紀元前2004~1750年頃の群雄割拠の「イシン・ラルサ時代」、後期が紀元前1750~1595年のハンムラビが統一した「バビロン統一王朝時代」の二区分に分けられます。ウル第3王朝滅亡後、「イシン・ラルサ時代」には、アムル系のイシン、ラルサ、バビロン、マリ等の諸王朝が乱立し、覇権争いが行われていました。その中でも力を持ったイシンがイシン第一王朝を築き勢力を振るいます。その後、ウルとニップルの町を巡り、力を付けたラルサと対立し争いますが、ラルサがイシンに勝利して強力国になります。
紀元前1894年頃から勢力を付けて来たバビロンで、バビロン第一王朝が成立します。この頃一都市国家に過ぎなかったバビロンですが、紀元前1792年に第6代目王に即位したハンムラビは、北の上メソポタミアを支配していたアッシリアのシャムシ・アダド1世と同盟を結び、紀元前1759年頃迄には周辺諸国イシン、ウルク、ウルなどを攻略します。紀元前1763年頃に南の下メソポタミアを征服し、その後アッシリアをも支配下に置き、全メソポタミアを統一しました。
ハンムラビの死後、息子のサムス・イルナが王位に着きますが、治世中に支配下の国々の反乱が続き、バビロニアは多くの領土を失いました。また、紀元前1741年にザグロス山脈からカッシート人が侵入してきます。
やがてバビロニアは弱体化して行き、紀元前1595年にヒッタイトのムルシリ2世により滅ぼされました。
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中期バビロニア時代
紀元前1595年にヒッタイトにより古バビロニアが滅ぼされた後、紀元前1500年頃にカッシート人がバビロンを占領してバビロニア全域を支配、バビロン第3王朝とも言われるカッシート朝バビロニアを建国します。この頃、北部のアッシリアはフリル人のミタンニ王国に従属させられていた状態でした。1400年代にはバビロニア、ヒッタイト、ミタンニ、アッシリア、新エジプト王国がオリエントの覇権を掛けて争っていました。ミタンニが滅亡すると、アッシリアが勢力を盛り返します。
その後、アッシリアと東のエラム人の攻撃が相次いだため、バビロニアは弱体化し、紀元前1155年にエラム人によりバビロンが攻略されカッシート朝バビロニアも滅亡します。
この際に、エラム人はバビロンからハンムラビ法典をスーサ(現イラン)へ持ち去ったため、ハンムラビ法典は後世バビロンではなくスーサの遺跡から出土しているのです。
カッシート朝滅亡後すぐの紀元前1157年に、バビロン第4王朝とも呼ばれるイシン第2王朝が勃興しバビロンを首都とするのですが、この王朝も紀元前1026年ごろに滅亡し、続いて短命の王朝が幾つも興亡します。
その後、バビロニアは紀元前625年までアッシリア帝国の領土となり、その支配下の中でアッシリア王達がバビロンの王に即位したり、反乱や短期独立したりが繰り返されました。この期間の王朝をバビロン第9王朝、第10王朝と呼んでいます。
目には目を!の《ハンムラビ法典》
皆さん知らない人はいないでしょう。“目には目を歯には歯を”の同害復讐法で有名な「ハンムラビ法典」は、紀元前1760年頃にバビロニアで発布された法典です。法典は282条からなっています。あの”目には目を‥”は誰にでも同等に適用されるわけではありませんでした。あくまでも同等身分の者同士の事項の場合に、不当な処分にならないように、また倍返しなどの過剰な処分にならないように規制された、やられた物と同等の罰が与えられるということが成文化された初めての法令です。これは、現在の刑罰法の起源とも言われています。
また、無罪の考えの推定の最古の例の一つも含まれており、被告人と原告の両方が証拠を提示する機会も与えられていました。そして、女性でも奴隷でも一定の権利があり、弱者が強者に虐げられることから守られていました。
2.25mの高さの石碑には条項をアッカド語の楔形文字で記してあり、当時は市民皆が見える所に置かれていたと言います。
小国からオリエント覇者に!帝国を築いた《アッシリア》
アッシリアは、紀元前3000年頃から北メソポタミアのアッシュル付近で興った民族集団で、その後都市国家を作り諸国家の影響下にありながらも、国際遠距離貿易に力を入れながら独自に存在感を見せた小国でした。
興亡の激しいオリエント世界で国家体制を維持しながら勢力を増したアッシリアは、紀元前800年代に遂には世界で最初にオリエントを統一し、大帝国を成し遂げました。
- 年代:初期アッシリア…紀元前3000年頃~紀元前2000年頃、古アッシリア…紀元前2025年~紀元前1522年、中期アッシリア…紀元前1397年~紀元前1056年、青銅器時代の終焉…紀元前1055年~紀元前936年、新アッシリア…紀元前911年~紀元前609年
- 民族:アッシリア人。元々はセム系民族ですが、時がたつにつれフリ人も混ざったとされています。
- 言語:アッシリア語。セム語系アッカド語の北方方言。
- 首都:アッシュル、ニノヴァ
アッシリアは、紀元前3000年頃よりメソポタミアの中央、チグリス川の西河畔、現イラク北部のアッシュル及び周辺に住んでいたセム系の民族です。元々はアラビア半島から来たセム系とも言われています。
紀元前2000年頃のウル第3王朝が滅亡した頃に漸く歴史に出てくるようになります。
古アッシリア時代
アッシリアは肥沃な三日月地帯の中央部にあり、メソポタミアとアナトリア半島、シリア、イラン高原といったオリエント各地を結ぶ交易の中継地であったため、アッシリア商人は各地にカルムと言う商人居留地を設置して、国際貿易網を築き、富を得ます。まずは、南メソポタミアとの商業を確立し、青銅の原料となるイラン高原の錫の交易を独占して中継貿易で栄えます。紀元前1960年以降、特にアナトリアに多くの商人居留地を築いたのですが、その中心となるのが中央アナトリアのカイセリの北約20㎞にあるカニシュ(現キュルテペ)で、中央貿易センターの役割を負い、ここで関税がかけられた後にアッシリア商人はアナトリア各地と貿易を行っていました。
このアッシリア商人のおかげで、アナトリアに文字がもたらされ、地方支配者の都市が発展して人口増加するようになりました。当時としては信じられない程高度な商業が確立されており、カニシュからはこのアッシリア商人居留地時代の商業契約や記録の粘土板タブレットが数多く見つかっています。
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アッシリアは、シャムシ・アダド1世の治世紀元前1813~1781年には、北メソポタミア一体を征服してオリエント最大の国になり、南のバビロニアのハンムラビ王もこの治世はアッシリアに従臣していました。
その後、バビロン第1王朝の覇権下に入ったり、紀元前1450~1393年にはミタンニ王国に従属しますが、エリバ・アダド1世がミタンニを破り独立国家となったことで古アッシリア時代が終わります。
中期アッシリア
独立を取り戻したアッシリアは、ユーフラテス川まで領土を広げ、その後徐々にソポタミア、アナトリアの南東、シリアの北方で大きな権力を獲得し、バビロニアをも征服しました。しかし、紀元前1208年トゥクルティ・ニヌルタ1世の死去により、国は衰退期に入りました。紀元前11世紀のティグラト・ピレサー1世の治世中に短期間元の権力を取り戻しましたが、その後アラム人の侵攻により混乱期に入ります。
青銅器時代の終焉
アッシリアは、紀元前7世紀後半に北西の領土をアナトリアの一国フィリギアのミダス王に侵略されてしまいました。その後、ティグラット・ピレセル3世の治世に、その領土を取り戻しました。しかし、バビロンとアッシュルの地域においては、アラム人の侵入の広がりにより、都市の外での支配は事実上できない状態でした。
バビロニアは既に、紀元前1100年代半ばにエラム国王シュトルク・ナフンテ率いるエラム人によって略奪されており、チグリス川の支流であるディヤーラ渓谷も失われていました。これらの損失にもかかわらず、アッシリアの王たちは大都市と国を破壊から守ることに成功しました。
新アッシリア時代
紀元前9世紀にアッシリアの王たちは領土を再度広げ始めました。紀元前8世紀中半から紀元前7世紀末にかけてティグラット・ピレセル3世やサルゴン2世やセンナケリブの様な強力な王の指導の下でペルシャ湾からエジプトまで広範囲の土地を支配下として獲得し、紀元前671年に全オリエントを史上初めて統一しました。そしてティグラト・ピレセル3世の治世からアッシュルバニパルの治世までの100年あまり、新アッシリア帝国として現在まで名の知れ渡った大帝国を建国したのです。
しかし、アッシュルバニパル治世後半からこうした巨大帝国も帝国内の反乱や、国外からの侵入により急激に衰退し、アッシュルバニパルがエラムを滅亡させたものの、立て直すことはできず、紀元前612年に新バビロニアとメディア連合軍の攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落、紀元前609年にアッシリアは滅亡しました。
古代アッシリア人の末裔?≪現代アッシリア人≫
実は現在も、アッシリア人(アラム人またはカルデア人とも言われる)が存在するのをご存知でしょうか?現在アッシリア人は、中東固有の少数民族の一つとして確かに存在するのです。
現代のアッシリア人は、古代メソポタミアの紀元前2500年にまでさかのぼる世界で最も古い文明の1つであるアッシリア人の子孫であると主張するシリアのキリスト教徒の少数民族です。現在彼らのほとんどがネストリウス派のアッシリア東方教会、カルデア教会、シリア正教会のキリスト教信者でもあります。
メソポタミアの住民であった古代アッシリア人は、古代民族の中でも最初の西暦1~3世紀頃にキリスト教を受容し、アラビア人やモンゴル人やトルコ人などから脅威に遭いながら現在まで生きながらえてきたと言います。
しかしながら、本当のところ古代アッシリア人と現アッシリア人の遺伝的関係は未だ解っておりません。アラム人が起源の民族と言う説もあります。ただどちらにしろ、古代メソポタミアを祖先に持つ民族であることは変わらないようです。
現在のアッシリア人は世界各国に広まっていますが、主に古代アッシリアとほぼ同じ地域の現在のイラク北部(ニネヴェ平原とドフク県)、トルコ南東部(ハッカーリやトゥルアブディンやマルディン等)、イラン北西部(ウルミア)、そして最近ではシリア北東部(アル・ハサカ県の一部)に住んでいます。なお、彼らは、居住国の主要言語だけでなく、セム語派の現代アラム語の話者でもあります。
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古代アッシリアから続く製法のワイン
トルコのシリア国境の町マルディンのミディヤットと言う村では、このキリスト教徒のアッシリア人が多数住んでおり、彼らはトルコ語で“スルヤーニー”と呼ばれています。スルヤーニーの人々は古代から続く方法でワインを作り続けており、そのワインをトルコでは飲むことができるのです。トルコに行かれた際は、北ミソポタミアの大地で育てられた葡萄から作られた古代から続く味を是非味わってみて下さい!
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古代メソポタミア最後の帝国《新バビロニア》
新バビロニアは、アケメネス朝ペルシャに征服されるまで100年程帝国として君臨した短期政権です。カルデア人が建国した国でもあったので、カルデア王朝とも呼ばれています。短期ではありますが、バビロニアが史上最大の栄華を誇った時代でもありました。
- 年代:紀元前626~539年
- 民族:セム系アラム人、カルデア人
- 言語:セム語系アッカド語バビロニア方言
- 首都:バビロン
アッシリア支配下バビロニア南部総督であったカルデア人のナボポラッサルは、紀元前625年に反乱を起こしてバビロニアをアッシリアから独立させて、紀元前626年にバビロニア王に即位します。そして、メディア国と同盟を結び紀元前616年には全バビロニアを支配しました。
息子のネブガドネザル2世の治世に最盛期を迎えます。彼はシリアやパレスチナ方面に多く遠征し、エジプト王ネコ2世をカルケミシュの戦いで破ってエジプト国境までの地域を支配しました。
紀元前597年にイスラエルのユダ王国の首都エルサレムを没落し、紀元前586年まで数回にわたりユダヤ人を反乱防止、職人確保、労働力確保を目的としてバビロンに強制連行捕囚します。所謂“バビロン捕囚”と言われるものです。
それ以降の王たちの治世は暗殺やクーデターにより政治不安に陥り、紀元前539年に当時急激に勢力をつけていたアケメネス朝ペルシャのキュロス王により、バビロンが無血開城され、新バビロニアは滅亡しました。
世界七不思議の一つ《バビロンの空中庭園》
世界七不思議の一つとされている“バビロンの空中庭園”は、古代のバビロニア(イラクのバービル県ヒッラ付近)にありました。新バビロニア2代目の王ネブカドネザル2世が、メディア出身の妻アミュティスが故郷の山々や山岳が恋しくなったとの事でザグロス山脈に模して作らせた宮庭と言います。山の様な庭園は段々になっており、灌漑水路システムが張り巡らされていて、各テラスには緑いっぱいの庭園があったといい、正に空中にある庭園のようだったとの事です。
ただ、未だ考古学的発見がされていないため、位置も明確になっておらず、正に不思議で謎の多い庭園でもあります。実は、この庭園はバビロンではなく、アッシリアの首都ニネヴェに6世紀にアッシリア王センナケレブによって作られた庭園ではないかという説もあります。
“真実は如何に!”正に古代ロマンですね。
聖書に記載の《バベルの塔》は実在した?
旧約聖書やクルアーンにも記載されている“バベルの塔”は、神に近づくために作られた高い塔です。ヘブライ語聖書や旧約聖書の言い伝えでは、ノアの息子達が大洪水の後にシナル(シュメール)に定住し、ここに都市と天に届くほど高い塔の建設を希望したと言います。
伝説によると、神は自身に届こうとした人間の独善性・傲慢さに怒り、それまで同じ言語を話していた人間たちの言語を複雑化させ、それぞれの言語がわからない様にしたと言う事です。
宗教的な見解では、この物語は人間の欠陥を神の完璧さと比較する事と、世界に何百も存在する言語の起源を説明する為に使われています。
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このバベルの塔は、バビロンの巨大ジッグラトがモチーフになったと言います。古代シュメールやバビロニアでは、天と地を繋ぐ聖なる木の信仰があり、その聖なる木を現した、また神々の山とも呼ばれている“ジッグラト”と言う神殿が建設されていました。
バビロンのマルドゥク神殿の中心部に築かれたシュメール語で「天と地の基礎となる建物」を意味する“エ・テメン・アン・キ”と言うジッグラドが伝説の「バベルの塔」だと言われています。
幅90m、奥行き90m、高さ90mの七階建て、バビロン神話に登場するバビロンの都市神でバビロニアの国家神であるマルドゥクと言う神のためにつくられたジッグラトでした。また、ジッグラトの周りには僧侶の宮殿や倉庫や客室が作られていたと言います。
バビロンを侵略したトゥクルティ・ニヌルタ、サルゴン、センナケリブ、アッシュルバニパル等のアッシリアの王達により塔は破壊されますが、新バビロニアの王ナボポラッサルとネブカドネザル2世によって再建されました。しかしながら、紀元前479年にバビロンを征服したペルシャのキュロス王によって塔は破壊され、その後再建されることはありませんでした。
後に、アレクサンドロス大王がバビロンにやって来た際に廃墟の状態の塔を称賛し、元の状態に戻すことにします。そして、1万人を動員して2か月間瓦礫を撤去させましたが、大王の死と共に再建工事は断念されてしまったと言います。
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青い壮大な≪イシュタル門≫
紀元前575年に女神イシュタルの名において作られた、バビロンの内と内壁と外壁を繋いでいる真っ青で動物や神話の浮彫が施された芸術的で壮大な門です。ネブカドネザル2世によって作られました。発掘されたイシュタル門は、ドイツに運ばれベルリンのペルガモン博物館で復元されており、現在のバビロンにも2004年にレプリカが復元されています。
世界帝国を打ち立てた≪アケメネス朝ペルシャ≫
アケメネス朝ペルシャは、ペルシャ人が建てた最初の世界帝国です。- 年代:紀元前550~330年
- 民族:イラン系民族のペルシャ人
- 言語:インド・ヨーロッパ語系
- 首都:パサルガダエ、スーサ、ペルセポリス、エクバタナ
紀元前5世紀前期ペルシャはまだメディアの属国で小国でしかありませんでした。そのペルシャの王を父とし、メディアの王女を母として生まれたキュロス2世は、紀元前559年年にペルシャ第7代目王として即位します。
そして、紀元前552年に母方祖父が統治しているメディア王国に反旗を翻してメディアを滅ぼします。その後、“不死隊”と呼ばれる精鋭部隊を率いて紀元前547年にアナトリア西部のリディアを征服、紀元前540年にはエラム王国を征服、紀元前539年にはバビロンを無血開城させて新バビロニアを滅ぼし、東方ではソグディアナとバクトリアを征服します。キュロス2世は、西はアナトリアから東はヤクサルテス(シルダリア)川までを支配する大帝国を建国することに成功しました。
息子で後継者のアケメネス朝ペルシャ第2代王カンビュセス2世は、紀元前525年にエジプト第26王朝を支配下に入れ、オリエント全てを統一しました。
その後、アケメネス朝ペルシャは、東はガンダーラまで征服し、西はギリシャ占領のためにペルシャ戦争を起こしたりし領土拡大を目指すも、紀元前330年にマケドニア軍率いるアレクサンドロス大王により220年続いたアケメネス朝は滅ぼされてしまいました。
アレクサンドロス大王死後は、ディアドゴイ戦争の末に、アレクサンドロス大王の将軍であったセレウコスが受け継いだセレウコス朝シリアがこれらの土地を統治しヘレニズム文化の一部となりました。
その後のメソポタミアの主な年表
紀元前141年 | アルサケス朝パルティアが征服。一時116~118年にトラヤヌス率いるローマ帝国軍が占領するがすぐに撤退。再度パルティアのものとなる。 |
230年 | ササーン朝ペルシャの領土となる。 |
634年 | アラブ軍の支配下に入り、北はモースルを、南はバグダッドを首都とした二つの州に分かれ、その後バクダッドはイスラム国家の首都となる。その後アッバース朝が支配。 |
1258年 | モンゴル帝国の地方政権イルハン朝の領土となる。 |
1508~1534年 | 短期間、サファヴィー朝の支配下となる。 |
1534年 | オスマン帝国のスレイマン大帝が征服。これによりミソポタミアはモースル、バグダッド、バスラの3つの州に分割。 |
1920年 | 第一次世界大戦後にイギリス委任統治領メソポタミアが成立。 |
1932年 | イラクが独立したと共に、メソポタミアのほとんどがイラクの領土となる。 |
メソポタミア文明が滅亡した原因とは?
メソポタミアで最も隆盛した文明の一つであり、歴史上も重要な位置を占めるシュメール文明およびアッカド帝国滅亡の要因の一つは、気候変動だと言われています。紀元前2,000年ごろのメソポタミア地域は、冬の雨季が非常に乾燥・寒冷化していたことが分かっています。こうして降水量が減少して土壌中の塩分濃度を高くなっていた中で、シュメール人は木材調達のために次々と森林を伐採していたため、乾燥によって塩分が高くなった土壌が流出して塩害が進行し、灌漑のための水路がふさがれて農業がダメージを受けて食糧不足が起こったことが、文明の衰退の原因になったと見られています。
また、歴史的に見れば、この地域で最大の栄華を誇った新バビロニア帝国の滅亡を、メソポタミア文明の一つの終焉と考えてもよいでしょう。それまでメソポタミア文明においてはアッカド語を話すセム系民族が主に支配していましたが、紀元前539年にインド・ヨーロッパ語系でイラン系民族のペルシャ人が新バビロニアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシャが成立します。
アケメネス朝ペルシャでは、メソポタミア文明を継承してオリエント文明を開花させましたが、アレクサンドロス大王の東方遠征によってペルシャ帝国も滅亡した後、オリエント文明がさらにギリシア文明と融合してヘレニズム文明が生まれ、アラビア半島から入ってきたイスラム教が西アジアに普及していくなど、メソポタミア文明は歴史に埋もれていくのです。
古代メソポタミアの公用語《アッカド語》とは?
現在知られる最も古いセム語系のアッカド語は、紀元前2500年頃から使われ始めました。発掘されたアッカド語のテキストのほとんどは、近東の鉄器時代に作成され、多くの宗教的、法的、公式、および軍事文書が含まれています。アッカド語は、ブロンズ時代が崩壊するまで、近東の共通語となっていました。
アッカド語は紀元前1000年頃に北のアッシリア方言と南のバビロニア方言の二つに分かれて、それぞれ独自に発達しました。しかし、紀元前8世紀頃からアッカド語の話し言葉はアラム語の普及に伴い使われなくなったと言います。
表記としては、シュメール語から借用した楔形文字を使用していました。アッシリア語は新アッシリア帝国が紀元前609年に滅亡するまで、バビロニア語は古典語の統一的な文法が使用された標準文語としてセレウコス朝の時代紀元前100年頃まで、国際的に文学や書簡の表記に使われ続けました。
ヘレニズム時代にはアッシュルとバビロンの神殿に従事する神官と学者が使用するのみに留まり、発見された最後のアッカド語のテキストは西暦1世紀の物で、それ以降の物はありません。
しかし、現在のマンダ語やシリア語は北西セミ語族にもかかわらず、アッカド語の語彙や文法が含まれていることが解っています。
神話の起源?あまり知られていない《メソポタミアの神話》
紀元前4000年頃のシュメール人により信仰されていた多くの神々や文化が宗教という形で、アッカド、バビロニア、アッシリアとメソポタミアにおいて紀元前400年頃まで約4200年間、信仰されてきました。文字に残っているものとして最古の神話と言えます。このメソポタミアの神々は、メソポタミアだけではなく、ヒッタイト神話やフルリ神話などでも取り入れられ、アナトリア神話やギリシャ神話にも大きな影響を及ぼしました。
また、紀元前400年頃に信仰が消滅したにも関わらず、創造の神話、エデンの園、洪水、バベルの塔、ニムロド、リリス等、その後の一神教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教、マンダ教と多くの聖典にも影響しメソポタミアの神話の要素が含まれています。
メソポタミアでは2400の神様たちが信仰されていたと言います。そして、メソポタミアの都市はそれぞれ神々の家と考えられており、それぞれの都市には対応する守護神が定められ、その守護神を信奉していました。そして、その守護神をまつる為に、各都市にはジッグラトと言う聖塔が建てられていたのです。
メソポタミア神話の主な神々一覧
アヌ/アン:天空神、創造神、初期最高神
- 守護都市:ウルク (エアンナ神殿)
- 配偶神:キ
- シンボル:雄牛の角を持つ王冠。ジャッカルとして描かれることも。
アヌ(アン)は、初期の最高神。後にその地位はエンリルに代わられます。メソポタミア全土、及びどの時代でも信仰された神。配偶神のキと共に「アンヌアキ」と呼ばれるパンテオンの中でも強力な多くの神々を生みだしました。
エンリル:大気と風と嵐の神、至高神
- 守護都市:ニップル (エクル神殿。長期間、信仰上の首都となっていた。)
- 配偶神:キ
- シンボル:角の生えた冠、神々の天命の粘土板「トゥプシマティ」
- 父はアヌ、母はキ。エンリルが生まれる前は天と地が同一でありましたが、彼が生まれたことで天と地が分かれました。
エンリルは、父アヌから母キを奪い、地上を支配し、神々の労働を肩代わりさせるために、母キと交わって人間を産みだしました。地上を支配し、最も恐れ多く、姿は勿論エンリルから発せられるメラムと言う後光は神々でさえ見ることが叶わなかったと言います。
我が強い激情家で都市の滅亡、洪水などの天変地異、疫病蔓延など人類にとってのネガティブな事象はエンリルが原因とされています。
エンキ/エア:水、土、工芸、知性、創造、豊穣の神
- 守護都市:エリドゥ (エアブズ神殿)
- 配偶神:女神ニンフルサグ
- シンボル:山羊、魚
エンキ(エア)の父はアヌ、母はキ。地下の淡水の海アプス―の主。水星の象徴。ビール好き。妻の女神ニンフルサグとの間に娘の植物の女神ニンサルが誕生しますが、妻不在の間に娘ニンサルと交わり農耕牧畜の女神ニンクルラを設け、そのニンクルラとも関係を持ち、機織の女神ウットゥも設けます…。
なんとさらにエンキはこのウットゥとも関係を持つのです…。水神エンキの男性器から飛び出した水からユーフラテス川とチグリス川ができたといいます。
キ/アントゥ:大地と死後の女神、最高女神
- 守護都市:エリドゥ (エサッギラ神殿)
- 配偶神:最高神アン
- シンボル:不明
- 夫のアンと共に神々の集団「アヌンナキ(アンの子孫達の意)」を産みだします。シュメールの神。
アッシュル:アッシリアの最高神
- 守護都市:アッシュル
- 配偶神:無し
- シンボル:角冠、有翼円盤
- 古アッシリア時代、アッシリア国家の真の王はアッシュル神であり、人間の王はアッシュル神に任命された副王でした。
ニンリル:荒野と風の女神
- 守護都市:ニップル (エクル神殿)
- 配偶神:至高神エンリル
- シンボル:不明
ニンリルは、父アヌ、母アントゥ(キ)。家族とディルムンに住んでいました。水辺で寝ているところ、エンリルに妊娠させられ、後に月神となるナンナ(シン)を産みます。
エンリルは罰として地下の国に送られますが、そこで門番に扮したエンリルにより死神ネルガルを妊娠させられます。さらには、下界の川の男に扮したエンリルにより冥界神ニナズを、最後には船頭に扮したエンリルにより川と運河の神エンビルルを妊娠させられて産みました。
イナンナ/イシュタル:愛・戦い・豊穣・知恵・王権の女神、金星
- 守護都市:ウルク (エアンナ神殿)
- 配偶神:牧畜神ドゥムジ/タンムズ
- シンボル:藁束と八芒星、アカシア、ギンバイカ、ライオン
- アヌ又は月神シンの娘。姉は冥界の女神エレシュキガル、双子の兄は太陽神シャマシュ。
イナンナ(イシュタル)は、メソポタミアで広く信仰され権威を得ていたシュメール起源の女神。カナン、アッシリア、ヒッタイトなどでも男神と同等の力を持ち、イシュタル信仰は強大でした。
イシュタル信仰は根強く、後のギリシャ神話の女神アフロディーテやローマ神話の女神ヴィーナスのモデルともなっています。
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マルドゥク:バビロンの最高神、創造神、木星
- 守護都市:バビロン (エテメンアンキ神殿)
- 配偶神:サルパニトゥ
- シンボル:三角の刃の農具マルン
- エア(エンキ)の息子。バビロンの都市神でバビロニアの国家神。エンリルから最高神の地位を受け継ぎ、王権授与の権限も引き継ぎました。
ナンナ/シン:月神、暦と豊穣の神
- 守護都市:ウル (エフルサグ神殿)
- 配偶神:葦の女神ニンガル
- シンボル:三日月、牡牛、ラピスラズリの髭、三脚の椅子
- 父エンリル、母ニンリル。太陽神ウトゥ/シャマシュと金星神イナンナ/イシュタルの父親。北メソポタミアのハラン(現トルコシリア国境の町)でも信奉されていました。
ウトゥ/シャマシュ:太陽神、正義の神
- 守護都市:シッパル (エバッバル神殿)
- 配偶神:暁の女神アヤ
- シンボル:四芒星に4束の波状線、有翼日輪、太陽円盤
- 父ナンナ、母ニンガル。女神イシュタルと双子。姉は冥界の女神エレシュキガル。
全ての事を良くする優しく、善良な神様。毎日日の出と共にマシュ山のそばにある東の門から現れ、全てを照らしながら天空を横切り、その日の終わりに西の門から冥界に下りて死者の運命を定めます。肩から太陽光線を放つ、長い髭を蓄えた長い腕の男性の形で描かれていました。
ニヌルタ/ニンギルス:豊穣と恵みと戦闘の神、土星
- 守護都市:ニップル (エシュメシャ神殿)、ラガシュ、カラフ/ニムルド
- 配偶神:女神バウ/グラ/ニンティヌッガ
- シンボル:双頭の鷲、話す魔法の連接棍棒シャルル
- 父エンリル、母ニンリル。神話に頻繁に登場する神様で、単頭のライオン頭の鷲である、怪鳥アンズーを退治する神話が有名。聖書に登場するニムルドのモデル。
メソポタミアで生まれた最古の文学作品《ギルガメシュ叙事詩》
シュメール初期王朝時代に実在したとされる伝説的な王ギルガメシュに関する諸伝承が書かれた史上最古で古代オリエント最大の文学作品です。現在に残る最古の写本は紀元前1800年頃に古バビロニア語で書かれたものです。紀元前1300~1200年頃には標準バビロニア語で叙事詩として編集された標準版が、12枚の書版に書かれていました。これの最も状態の良い写本が紀元前7世紀のアッシュルバニパルの図書館の遺跡から見つかっています。
ギルガメシュ叙事詩は各言語に翻訳されて各地に広まっていました。前二千年紀後半のバビロニア語版がヒッタイトやシリア・パレスティナで、他にもヒッタイト語版やフルリ語版も発見されています。
ギルガメシュ叙事詩のあらすじ
強き英雄で暴君でもあったウルク王ギルガメシュの横暴ぶりを、市民たちは嘆いて訴えます。訴えを聞いた最高神アヌは、ギルガメシュに対抗すべき相手を造る様に創造の女神アルルに命じます。アルルは粘土をこねて野蛮な男エンキドゥを造ります。エンキドゥは野生的で力強く、荒野で野獣たちと暮らしていましたが、神聖娼婦シャムハトと交わったことで野蛮性を失い文明を得ることができました。
ウルクにギルガメシュという王がいることを聞いたエンキドゥは、自身と同じような強い仲間が欲しいと思い、またギルガメシュは友が来る予知夢を見ます。二人は出会う前から意識しあっていました。
ギルガメシュが国の花嫁の初夜権を行使すると言うことを聞いたエンキドゥは激怒してウルクに向かい、初夜権行使の為に神殿に向かうギルガメシュに会うや否や大格闘を広げます。しかし、対等の力であった二人はお互いの力を認め合って親友となるのです。
ギルガメシュとエンキドゥの二人は、レバノン杉の森の番人フンババ退治の冒険をした後、女神イシュタルがギルガメシュに思いを寄せますが、ギルガメシュはそれを拒否。激怒したイシュタルは父アヌに頼み、ウルクへ聖牛グガランナを送り込みます。
二人は激闘の末にこの聖牛を倒すのですが、怒ったイシュタルはギルガメシュに呪いをかけようとしたため、エンキドゥは聖牛の死体から腿を引きちぎってイシュタルの顔面に投げつけました。
二人が力を合わせれば神にも届き得ることを知り、恐れた神々は、2人のうち1人が死ぬ様、エンキドゥに死の呪いをかけます。エンキドゥは熱に倒れ12日間後にギルガメシュに看取られながら息を引き取ります。
エンキドゥの死後、ギルガメシュは不死を手に入れる為に旅に出ますが、「神々に創られし者であるならば、そこに必ず命は定められる」と不死を得られずに帰国し、ウルクの王として国を治めるのです。