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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコ旅行ガイド

エフェソス


エフェソスの設立とアマゾン族の関係には実に緊密な物があり、おそらくこの理由で古代の有名な学者トルコ、アマスィヤ出身のストラボンとトルコ、ハリカルナッソス身の歴史家ヘロドトスはアマゾン族の一人に因んでここをエフェソスと名付けた事を指摘していたのであろう。
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地名と設立
A.D.54年の初夏の事である。「人の手によって作り出された神は、もはや神ではない。」と説く聖パウロに対して、銀細工師ディミトリウスに扇動された何千ものエフェソス人達は口々に「エフェソスのアルテミス万歳、偉大なアルテミス万歳」と叫びながら大劇場に押し寄せ始めた。二時間にも及ぶ民衆の叫びを前にして、白い法衣に身を包み、片手にしゃくを持った聖パウロも、これを鎮圧するには力及ばず、数人の信者の助けによって、命からがらその場を後にするのがやっとであった。この出来事は、都市の発見者アンドロクロスがこの町にやって来た日、リディア人やペルシア人の最初の侵入、この地を襲ったA.D.17年、355年、365年、そして368年の地震、又、431年に開催されたキリスト教審議会等と同様、エフェソスの歴史上重要事項に新しい一頁を加える結果となったのである。しかし、空を震わす勢いのアルテミスへの賛歌は、実際、7,000年生き続けたエフェソス人の尊い女神の臨終の一息でもあったのである。

エフェソス旅行・観光の案内ビデオ

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2分03秒  (日本語字幕版)

「エフェソスのアルテミス」として知られる女神像は、B.C.7,000年、祈りの対象としてチャタルホユック人の手により、女性の豊潤さを極端に強調した形が採られたもので、こうして誕生した女神は、以降長い間、人々の上に君臨する事になったのである。彼女は全ての母であり、何よりも力強く、全ての支配者であり、アナトリアの隅々、そしてここを経由して、メソポタミア、エジプト、アラビア、更にはスカンジナビアの地方までに多大な影響を与えたのであった。何千年もの展開を見た後、女神はエフェソスのアルテミスと呼ばれる様になったわけである。
敬意を表して造られたアルテミスの神殿は、過去から残った最も重要な宝であるとされており、その周辺に位置したエフェソスは、文化的、社会的観点からして、文明発生地として認められていた。
エフェソスに関する情報は、古代の学者の著書や、発掘によって出土された何千もの碑文、その他の考古学的発見物によって得る事が可能であるが、その設立については、まだ充分解明がされていない。古代の有名な学者ストラボンとパウサニアスはエフェソスの設立者はアマゾン族で、カリア族とレレグ族が主な民族であったとしている。歴史家ヘロドトスによれば、カリア族は自身をアナトリアに於ける最初の住民であると認め、最も重要な地区ハリカルナソスを含むカリアの名で呼ばれた地区に住んでおり、一方、レレグ族はトラキアやエーゲ海の島々から小アジアに移住したのであるとしている。都市の設立とアマゾン族の関係には実に緊密な物があり、おそらくこの理由でストラボンはアマゾン族の一人に因んでここをエフェソスと名付けた事を指摘していたのであろう。B.C.7世紀末からB.C.6世紀初期のエフェソスの詩人カッリノスは、この他を落としたアマゾン族にはスミルナ(イズミール)の名が付けられていたと記しており、エフェソス出身にも拘らず、B.C.540年にアテナゴラスによって都市から追放された詩人ヒッポナクスは、エフェソスの一部がスミルナと呼ばれていたと述べている。ストラボンはスミルナがレプレ・アクテとトラキアの間に位置し、レプレ・アクテとはピオン山(ビュルビュルダゥ)、そしてトラキアはコレッソス山(バナユルダゥ)の事であると記している。後にスミルナ人はエフェソスを離れ、今日のイズミール辺りに居を定め、イズミールの町を設立したと言う。


エフェソスとアマゾン族との関係は歴史を通じて、常に語られ続けてきた。B.C.5世紀には、当時の有名な彫刻家の間で、アルテミス神殿に備え付ける為に、アマゾンの彫り物のコンテストが開催されている。(アルテミスの神殿、参照)
聖ヨハネの教会付近で出土し、エフェソス博物館に展示されているミケーネの墓からの品々はB.C.1,400~B.C.1,300年の物とされ、現在までのところ、エフェソスに於いて発見された考辞学的発掘物の最古の例と言われている。こう言った事実の上に立って考えると、少なくともこの時代には、既にエフェソスが設立していたとするのが正論であろう。出土品の椀は、ミケーネ人が地中海、西アナトリアの沿岸に設立した組合にて市場に出す為に、当時の最も進んだ技術を用いて作られたものであり、これらは主にトロイからハリカルナソスまで続く海岸沿いにて発見されている。エフェソス近郊のミレトスの地にて出土したB.C.1,600の品は最も古い物であるとされている。B.C.13から14世紀のヒッタイトの資料に述べられているアッヒヤワ王国は、おそらくミレトス近郊に位置していたのであろう、と言うのがアクルガル教授や他の考古学者の見解であり、これが裏付けされた時には、エフェソスはその位置からして王国の中で最も重要な都市、すなわちヒッタイトの碑文の中に述べられているアパサスの地に相違ないと考えられるのである。しかし、今日までミケーネの居住の事実を示すものはエフェソスに於いて何も発見されていない。
B.C.1,300~1,100の間は、アナトリア、シリア、エジプトの国々が不安定な空気に包まれた時期であり、中央アナトリアを支配していたヒッタイトは少数民族の台頭を快く思わなかったのである。

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トロイ陥落とそれに続く掠奪の後、トラキア人達はこの地から更に南下を始め、海側からの南アナトリアに居を構える他のトラキア人と共に植民地を形成したのである。12世紀のエジプトの資料には、当時の移住の際に滅亡した民族について、哀悼の意を込めた言葉で記したものが残っている。地図上に初めてアイオリスやイオニアの名が現われたのもこの時代の事であり、エフェソスを含んだイオニア地方は、聖書に於いては〈ヤワン〉アッシリアの碑文では〈ヤウナイ〉、そしてペルシアの碑には〈ヤウナ〉の名で語られている。
移住民等は安全性を考慮して、半島や海岸の近くに住まいを求めている。エフェソスに於ける植民地開拓は他のイオニア諸国と同様B.C.10世紀に完了し、ストラボンとパウサニアスはこれについて次の様に語っている。アナトリアヘの移住を前にどの土地に新しい住まいを置くべきか、一向に決心ができないでいるアテネ王の子息アンドロクロスとその友人達は、アポロ神殿に伺いをたてた。予言者の「魚と猪が新都市となるべき場所を示す事であろう。」と言う言葉を信じて、一行は旅の路についた。ある土地にてアンドロクロス遠が料理を始めたところ、平鍋から魚が跳ね上がり、これによって蒔き散らされた火の粉が、辺りの薮に燃え広がった。驚いた猪は薮の中から飛び出し、しかし、結局追い掛けて来たアンドロクロスに仕留められてしまったのであった。魚と猪、神殿の予言は正しかったのである。彼等は早速、当時は内港の様な地形であったピオン山の北裾野の地を新しい住まいと決定し、一連の出来事を記念して、猪を仕留めた場所にアテネの神殿を建設したのである。
この神殿のあった場所は現在でも明確にされていない。
アンドロクロスの父であるアテネ王コドロスは、実に勇敢な人物であった。近隣との戦いを前に、デルフィの神託所に、勝利の軍配がどの国にあがるか伺いをたてたところ、答えはこうであった。「最初に命を落とした王の率いる国が勝利を納めるであろう。」と。王は自らの命も顧みず、敵軍の中へ殺されに進み出て行ったのである。そして、この出来事がアンドロクロスとアテネ近くの国王であった継兄弟の間に王の位争いを引き起こし、彼にアナトリアへの移住を決心させる要因となったのに違いない。
設立されたエフェソスの地は、アンドロクロスと彼の子孫の統治の下、約400年間の繁栄をみている。

リディア期
B.C.7世紀、エフェソスと他のイオニア諸国はキンメールの攻撃を受けたが、彼等がエフェソスを手中にしたか否かについては現在でも論争の的となっている。発掘調査で出土した品々によれば、アルテミスの神殿は焼かれて、破壊されたとされている。エフェソスからは、幾つかの典型的キンメールの品が発見されており、エフェソス博物館アルテミスの広間にもこれらの一つである羊を形取った象牙を見る事ができる。
キンメールによる暴風にも似た攻撃が引いた後、エフェソスは再び体勢をたて直し、力を貯えた。
B.C.6世紀はエフェソスの黄金期であり、詩人カッリノスやヒッポナクス、有名な哲学考へラクレイトスもこの時代を生きている。特に、変化自体を万物の根源とし、「万物は流転する」の言葉を残し、火を変化の象徴としたへラクレイトスはイオニアの学問所で大きな名声を得た。彼は〈自然哲学〉と呼ばれるライフワークをアルテミス神殿に捧げている。


当時、エフェソスの名声はかなり遠方にまで轟いており、これがリディア王クロイソス(クレゾス)の最初の攻撃(B.C.560)を招く元になったのであった。この間、エフェソス人はアルテミスの神殿から市内まで張った綱の後ろに女神の加護を信じながら後退していたが、生憎、彼等の望みは裏切られ、リディア軍は市内に侵入してきたのである。
エフェソス人の不安に対し、クロイソスは彼等を実に丁寧に扱った。しかし、それでもコレッソスの町から彼等を追放し、アルテミス神殿の近くに建設される第二の都市に住まわせた。この第二の土地はカイストロス川(キュチュクメンデレス)の運んだ土砂で現在の場所から更に10m下に埋もれた為、アルテミス神殿以外の都市を発掘するのはとても不可能であると考えられる。
リディア人がエフェソスを陥落させた時、古代アルテミス神殿(564~546B.C.)はまだ建設中であり、女神とエフェソス人の気を引く為にクロイソスは(一つには自身の名を印した物)浮き彫りを施した柱頭と黄金の牛の彫像を神殿に奉納している。
(1869年に開始された発掘調査に於いて出土した此れ等の柱頭やその他多くの品は、英国博物館に運ばれている)この頃、港から始まり都市を包囲する砦(城壁)が造られており、神殿とその周囲の居住区もこの内側に位置していた。

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