トルコ基本観光情報
トルコの歴史は人類文明・文化の歴史!先史から現代までの遥かな軌跡
トルコと言うと、トルコ民族の国と言うイメージが思い浮かぶと思いますが、トルコがあるアナトリア半島では、先史時代から多くの民族の興亡が繰り返されてきました。
トルコの歴史は、人類文明の発祥地“文明のゆりかご”であるアナトリアの歴史であり、オリエント・ヘレニズム文化の歴史であり、初期キリスト教布教の歴史であり、モンゴル周辺から中央アジアを経てアナトリアに至ったトルコ系民族の歴史であり、イスラム教・イスラム文化拡大の歴史でもあります。
諸文明の勃興が繰り返され、その当時として高度な社会が育まれていた世界で唯一無二のバラエティーに富んだトルコの歴史に関して、ここで徹底解説致します。
旧石器時代の紀元前50万年頃:アナトリアに人類が最初の足跡を刻んでいることを、アンタルヤの北西27㎞にある「カライン洞窟」で見ることができます。
新石器時代の紀元前1万年頃:北メソポタミアの現シャンルウルファにある「ギョベクリテペ」で、T字型の石柱が円形に並んだ宗教施設が建設されました。これは、メソポタミア文明より7千年も古い世界最古の宗教施設と言われています。
ギョベクリテペ遺跡 ・ギョベクリ・テペ(文化遺産:2018年)
紀元前7250~6750年頃:中央アナトリアから地中海地方にかけて「チャイオヌ」「ハジラル」などの場所で集落が形成されました。
紀元前7400~5200年頃:現コンヤの「チャタルホユック」で、世界最古の組織的な町が形成されました。チャタルホユックでは、平均で5千~8千人、多い時で1万人が土煉瓦で造られた密集した集合家屋に住んでいたのです。
チャタルヒュユクの遺跡(文化遺産・2012年)
紀元前2500~1700年頃:アナトリアの先住民族で非印欧語族の「ハッティ人」が“赤い河”と呼ばれるクズル・ウルマック川周辺(現チョルム~ヨズガットあたり)の「ハッティの地(ハットゥシュ)」と呼ばれる地域で公国を組織していました。
紀元前2200~2000年頃:印欧語族ヒッタイト人がアナトリアに流入します。当初は様々な土地に点在していたため、中央アナトリアに定住するまでには数世紀かかります。
紀元前2000~1750年頃:アッシリア商人が商業植民地カールムを各地に置いて交易ネットワークを発達させ、アナトリアの現カイセリの北部にある「カニシュ/ネシャ(キュルテペ)」を中心にアナトリアの都市がアッシリアと盛んに交易をおこなった「アッシリア商人居留地時代」となりました。
アッシリア商人は、メソポタミアから織物や錫を持ち込み、アナトリアの金や銀や銅などの鉱物資源と引き換えており、商業契約や関税制度も有ったと言います。キュルテペ遺跡では当時のアッシリア楔形文字の商業文書が多数発掘されています。
1750年頃:クッシャラ国のアニッタ王がカニシュ(ネシャ)を征服したことで、アッシリア商人居留地時代が終焉します。また、このアニッタはネシャと同等の規模を持っていたハッティの地ハットゥシャシュを征服し焼き払いました。
紀元前1680年~1180年頃:ハットゥシャシュ(現ボアズカレ)を首都としてアナトリア最初の統一国家「ヒッタイト王国」が、製鉄技術の独占と軽戦車を駆使した戦術で周辺諸国を統一しアナトリア一帯に帝国を確立しました。
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このヒッタイト王国の創始者はアニッタ王とも言われています。ヒッタイト人は自国の言葉を“ネシャの言葉”と言っているのですが、ネシャはアニッタの国があったカニシュ(キュルテペ)の事です。またヒッタイト人は自分たちの故郷をネシャと言い、アニッタを最初の王としていたようです。
紀元前14世紀には、古バビロニア王国やミタンニ王国などを倒して上メソポタミアとオリエントの覇者となり最盛期を迎えます。そして1180年頃、飢餓の蔓延や海の民呼ばれる移民者達と黒海地方にいたカシュカ人によって終焉しました。
このヒッタイトの滅亡により青銅器時代が終焉し、各地に製鉄技術が広まり鉄器時代が始まることになりました。
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ヒッタイト帝国とほぼ同時期にアナトリア北西で栄えたのが「トロイ」です。
あのトロイの木馬で有名なホメロスの叙事詩『イーリアス』の舞台として登場するトロイ(イリオス)は、ダーダネルス海峡の入口に位置し、紀元前3000年頃から居住が始まっていました。
エーゲ海と黒海の交易路にあった港町として、早い時期から青銅器時代を通してエーゲ海交易で栄えたトロイですが、紀元前1250年頃トロイア戦争でギリシャのアカイア人に敗れ滅亡します。
その後、ギリシャはトロイに続いてアナトリアのエーゲ海沿いに植民都市をつくっていき、後に古代ギリシャ文化が花開くことになるのです。
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紀元前1200年前後:アナトリアに海の民が到来し、ヒッタイト帝国が滅亡します。実はこの海の民と言うのは、ヒッタイトの西側、アナトリアのエーゲ海沿岸にすむアカイア人やリュキア人、それにイタリア半島からのエトルリア人やサルデーニャ人やシチリア人の連合軍であったと言います。
彼らは、肥沃なアナトリアの大地にやって来たと共に、中近東やエジプトでも大きな脅威となり、これらの東地中海の国々はこの頃暗黒時代となりました。
紀元前1200年~:ヒッタイト末期から滅亡する頃、、アナトリアでは幾つもの小王国が隆盛し、群雄割拠の時代となります。
紀元前9世紀頃:東アナトリアのヴァン湖周辺にて「ウラルトゥ王国」が起こります。
紀元前750年以降:最初に強力な国家として現れたのが、北部・中央アナトリアでゴルディオンを首都として建国した「フリユギア王国」です。有名な“王様の耳はロバの耳”のミダス王はこのフリュギア王でした。このフリギア人達は紀元前12世紀頃にヨーロッパからやってきてアナトリアに住み着いたと言います。
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紀元前660年頃:北西アナトリアでは、サルディスを首都とし世界初の鋳造貨幣“エレクトロン貨”を発明した「リュディア」が興隆します。
南西アナトリアには紀元前15世紀頃から地中海西部沿岸にプナラ、クサントス、レトゥーン、パタラ、ミュラ、オリンポス、ファセリスなどの都市を持つ「リュキア」、またその北西には紀元前11世紀頃からミレトスやカウノスやハリカルナッソスやアフロディシアスやラオディキアを主要都市とした「カリア」が繫栄しました。
しかし、カリアは紀元前7~6世紀頃にリュキアに併合されてしまいます。
紀元前1000年頃:ギリシャ本土からギリシャ人の一派であるアイオリア人、イオニア人、ドーリア人がアナトリア西のエーゲ海沿いに移住してきて都市を形成します。
アイオリア人はエディレミット湾のキュメからイズミル湾のスミルナ(現イズミル)までのエーゲ海北沿岸部分に12都市を建設し、イオニア人はポカイア(現フォチャ)からエフェソスやミレトを通ってミンドスまでの沿岸中部に住み着き、それぞれその地域を「アイオリア」、「イオニア」と呼ぶようになりました。
スミルナは、元々アイオリアの都市でしたが、紀元前699年以降にイオニア同盟に加わりイオニアに入ります。
その後の紀元前900年頃にドーリア人が、エーゲ海沿岸南部のカリア地方の沿岸部に移住し土着のカリア人達の反攻に遭いながらも住み着きました。主要都市はハリカルナッソスやカウノスです。しかし、カリアは紀元前7世紀~6世紀前半にリディアに併合されてしまいます。
このエーゲ海沿岸部のギリシャ人植民都市では、哲学の祖アナクシマンドロスやタレスやヘラクレイトスやピタゴラスなどの自然哲学者、歴史学の祖ヘロドトス、吟遊詩人ホメロスなど現在までも名が残る多くの古代ギリシャの偉人たちが誕生・活躍しました。
あの、イソップ物語の作者と言われる寓話作家イソップ(アイソーポス)もトルコの西部出身と言われています。
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紀元前547年:アケメネス朝ペルシャはアナトリア西半分を支配していたリュディアを滅亡させたことで、全アナトリアを支配下に置きました。
アナトリア各地は幾つかの州に分けられてサトラップ(総督)が置かれ、リュディアの首都であったサルディスはアケメネス朝の最主要都市となり、アケメネス朝の首都スーサからサルディスまでは「王の道」と言われる主要都市を結ぶ古代の大公道で繋がれました。ちなみにこの王の道の東へ続く道は、シルクロードに続いていました。
紀元前333年にマケドニア王アレキサンダー大王がアナトリアに進出するまで、約200年間アナトリアはペルシャの支配下にありました。
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紀元前334年:アレキサンダー大王は、マケドニア軍とギリシャ軍を率いてダーダネルス海峡を越えてチャナッカレからアナトリアに入り、東方遠征を始めました。そして次々とアナトリアの都市を支配下に置き、アケメネス朝ペルシャを破り、その後インダス川まで遠征を続けて大帝国を造ったのです。
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紀元前282~133年に、ヘレニズム国家の一つとして、セレウコス朝シリアから独立した「アッタロス朝ペルガモン」がベルガマを首都とて建国しました。ベルガマでは、エフェソスのケルスス図書館とエジプトのアレクサンドリア図書館と並んで古代三大図書館の一つとされるベルガマ図書館が造られ、また羊皮紙がここで発明されるなど、ヘレニズム時代において大いに繁栄したのです。
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ちなみに、紀元前41年にマルクス・アントニウスがクレオパトラと結婚した際に、このベルガマ図書館の書物20万巻を結婚記念のプレゼントとしてクレオパトラに送ってしまったため書物は全く残っておりません。
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紀元前133年:ペルガモン王アッタロス三世が死去する際、後継者がいなかったために自国ベルガマを共和制ローマに遺贈するのです。これにより、西アナトリアはローマのアジア属州となりました。このローマ時代はローマが東西分裂する西暦395年まで続きます。
1世紀には、使徒パウロがアナトリアでキリスト教伝道を行ったことで、最初のキリスト教世界が形成されます。そしてヨハネの黙示録に出てくる七つの教会とされる初期教会がエフェソス、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアにつくられました。
ちなみに、エフェソス近くでは、聖母マリアが最期を送ったとされる家が見つかっています。
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330年にローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世が、現イスタンブールの地に首都を移し、キリスト教を承認します。皇帝はこの新都に「ノヴァ・ローマ(新ローマ)」と名付けますが、すぐに“コンスタンティヌスの町”を意味する「コンスタンティノープル」と呼ばれるようになりました。
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395年:ローマ皇帝テオドシウス1世が死に際して二人の息子に帝国領土の東西の分担統治をおこなわせたことで、コンスタンティノープルを首都とした「東ローマ帝国」が誕生しました。
首都であったコンスタンティノープルは、前身がギリシャ人植民地の「ビザンティオン」の地につくられていたため、そこから後世になり東ローマを「ビザンツ帝国」と呼ぶようになったのです。
「ビザンツ帝国」は東ローマ帝国のことですが、特に7世紀以降のローマからかけ離れた“正教徒が住むギリシャ化した東ローマ帝国”の事を指します。
東ローマ帝国では、380年頃にキリスト教が国教化され、コンスタンティノープルには総主教がおかれました。またアナトリアでは、325・787年にニカエア公会議、381・553・680年にコンスタンティノポリス公会議、431年にエフェソス公会議、451年にカルケドン公会議が行われ、キリスト教に関して協議され重要な決定がされました。
ビザンツ帝国時代には、現在まで残っているアヤソフィア大聖堂、地下宮殿など多くのビザンツ建築が建てられ、またモザイク画などのビザンツ美術も花開き独自の文化を築きました。
ビザンツ帝国は、1953年にオスマン帝国軍にコンスタンティノープルが陥落されて滅亡するまで21の王朝によって1058年間続きます。
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552年:中央アジアのアルタイ山脈の南にて、モンゴル系民族「柔然」に隷属していたトルコ系民族「鉄勒(てつろく)」の一部の「突厥(とっけつ)/テュルク」が、柔然を滅ぼして周辺諸民族を征服し、モンゴル高原一帯に大帝国「突厥可汗国(とっけつかがんこく)」を築きました。これがトルコ共和国にとって、トルコが現在までの国となる道への第一歩(トルコ共和国の始まり)であったと言います。
744年:トルコ系民騎馬民族のウイグル部族が独立し、744年に遊牧国家「ウイグル国(回鶻)」を成立させてトルキスタンに定住しました。
10世紀半ば:ベラサグン(現在のキルギスのブラナ遺跡)を首都としてトルコ系民族で初めてイスラム教を受容し国教としたトルコ系最初の王朝「カラハン朝」が、カルルク族により建国されたことで、トルコ・イスラム文化の基礎が築かれました。
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11世紀:中央アジア北部のトルコ系民族オグズ族クヌク氏族が南下して1038年に現イランにて「セルジューク朝」を建国します。
1071年:アナトリア東部ヴァン湖の北部で起こった“マラズギルトの戦い”にてビザンツ帝国に勝利したことで、トルコ民族がアナトリアへ侵攻して定住するようになりました。
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この王朝は首都コンヤを中心に、芸術的なモスク、マドラサ、病院、隊商宿など多くの建物を建てており、現在でもその素晴らしい建物がトルコ各地に残っています。あの、スーフィズムのセマー禅で有名な「メヴラーナ」も、13世紀にコンヤでメヴレヴィ―教団を創設し活躍しました。
12世紀にはセルジューク・トルコ帝国の首都に指定されコンヤの町
ルーム・セルジューク朝の末期には、アナトリアは東ローマに対抗する為に勃興した君侯国「ベイリク」が割拠する時代となり、1308年にルーム・セルジューク朝が滅亡します。
特にビザンツ帝国との国境となっていたアナトリア西部に多くの君侯国ができ、その中から力を付けてきたのが、トルコ系民族オグズ族カヤ氏族出身のオスマン・ガーズィー率いる「オスマン侯国」です。
1299年:オスマン侯国はルーム・セルジューク朝からの独立を宣言し、「オスマン帝国」を建国しました。そして、16世紀にかけてみるみる強大化していきます。
1453年5月29日: 7代目皇帝メフメット2世がついにコンスタンティノープルを陥落してビザンツ帝国を滅亡させます。そしてここに首都を置き、後にイスタンブールと改称して、ビザンツ時代の教会をモスク化するなどイスラム化を行いました。
16世紀の終わりまで急速に拡大していったオスマン帝国は、スレイマン大帝の時代に最盛期を迎えます。北はハンガリー、西はアフリカのアルジェリア、南はエジプト・イエメン、東はアジアのインドに至るなど歴史的な大帝国として君臨しました。
オスマン帝国時代に造られたトプカプ宮殿、ブルーモスク、建築家ミマール・シナンが造ったスレイマニイェ・モスク、エディルネのセリミイェ・モスクなど多くのオスマン建築の傑作が、現在でも世界遺産となって当時の栄華を現在に伝えています。また、タイル、絨毯、キリム、細密画(ミニアチュール)などのトルコの伝統芸術も大きく発展しました。
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1683年:神聖ローマ帝国の首都への遠征“第2次ウイーン包囲”で大敗したことが帝国の縮小から滅亡へ下る道の始まりとなりました。
それまで無敵を誇っていたオスマン帝国でも負けることがある事をしった帝国支配下の国々は、これによって民族独立の反旗を振り上げる様になってしまい、新興国も帝国に攻め入るなど、この後各国との戦いが続きます。そして20世紀には西欧列強より“ヨーロッパの瀕死の病人”と言われるほど弱小化してしまうのです。
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1918年:第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北したことで、帝国本土のアナトリアが西欧列強に占領されて完全解体される危機を迎えます。その時軍司令官であったムスタファ・ケマル・アタテュルクが革命の指導者となって祖国解放戦争に勝利し、トルコを救い出すのです。
1922年11月1日:スルタン制が廃止され、623年間続いたオスマン帝国は幕を閉じました。
1923年10月29日:アンカラを首都として申請「トルコ共和国」が樹立し、近代化に対応するためのさまざまな改革が行われます。
「初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク」は、政治的、社会的、法的、経済的、文化的領域で世界でも事実上比類のない幅広い改革を導入しました。 彼は、議会制民主主義、権力分立、政教分離、世俗行政、ナショナリズム、近代化の原則に基づき、新しい政治的および法的なシステムを作成しました。
こうしてアタテュルク指導の下で、ほぼ一夜にしてトルコは西欧化を目指した現代的な世俗主義国民国家になりました。そして、現代世界の一部になりたいと考えている第三世界の国々にやイスラムの国々にとって重要なモデルと成し得たのです。
第二次世界大戦では中立の立場をとっていましたが、戦争終結前の1945年2月23日に連合国側について日本とドイツに宣戦布告をします。
1945年6月26日、国連に加盟。1952年、国連加盟国として朝鮮戦争へ参戦する為にソ連に対するNATOに加盟します。
2000年に入るとトルコでのEU加盟の動きが急速に進み、2005年にEUはトルコの加盟交渉に入りました。しかし、人口が多く国民の大多数がイスラム教徒で国土の97%がアジアと言うこと、それに加えてクルド問題、キプロス問題、アルメニア人虐殺問題、シリア人難民問題、そして2016年のクーデター未遂などなど問題の尽きないトルコは、色々な懸念が多いことから、欧州各国からの加盟反対も多く、近年はEU欧州議会の決定で数回交渉が停止されるなど、トルコはEU加盟実現から遠のいてきている状態で、緊張状態が続き先行きは厳しい状態です。
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2003年に政権を握ったAKP(公正発展党)党首のレジェップ・タイイップ・エルドアンは、保守的なイスラム主義と庶民主義を掲げて庶民層の圧倒的な支持を得、首相として2003年~2014年の11年間、2014年~2021年現在まで7年間を大統領として計20年間、トルコのトップに君臨しています。
前半は、EU加盟交渉を進めたり、急速なインフラ整備を行うなど経済も好調でトルコの発展に好影響を与えておりましたが、近年はイスラム回帰志向、新オスマン主義的、独裁的な傾向にあります。
そして2018年に首相を廃止し大統領制へと移行したことで、より権威主義・独裁主義の傾向に拍車がかかり、民主的・世俗的な政治から離れてきている現状です。
また近年はエルドアン大統領の大方言に左右されてトルコリラが大暴落。国内はインフレが加速し、経済は大混迷が続いています。
2023年に共和国樹立から100年となるトルコ。長く培われて来た歴史を後世により良い形で繋いで行くよう、今後のさらなる発展に期待したいところです。
トルコ共和国ってどんな国?知られざるトルコの10の魅力
マケドニア王アレキサンダー大王は、正式にはアレクサンドロス3世と言い、紀元前4世紀後半、若くしてアジアを制した史上最高の司令官でした。
紀元前336年に二十歳でマケドニア王に即位してから、紀元前323年に亡くなるまでのたった13年間で、西はギリシャから、アケメネス朝ペルシャが征服していたアナトリア、エジプト、メソポタミア、ペルシャ、中央アジアを通って東はインダス川まで、当時の世界の半分を征服して大帝国を築きました。
アレキサンダー大王の死後は、トルコの地アナトリアを大王の後継者でギリシャ人の王朝セレウコス朝シリアが支配し、ペルガモン等の都市でヘレニズム文化が花開くこととなりました。
彼は、ビザンツ帝国下のアナトリアへ進出した初めてのトルコ人のスルタンでした。
1025年にセルジューク部族長となったトゥグリル・ベクは、次々とイランの都市を征服し、1038年にセルジューク朝を建国。1055年にアッバース朝カリフの招致でブワイフ朝を倒してバグダッドを奪還したことで、カリフより“スルタン”の称号が与えられます。これによりイスラーム世界での君主=スルタンの称号が正式な物となりました。
その後、彼の代では東アナトリアのエルズルムやワン湖の北のエルジシュまで進出することに成功し、彼の死後の1071年に“マラズギルドの戦い”でビザンツ帝国に大勝したことで、トルコ人のアナトリアへの扉が一気に開いたのです。
ちなみに、王朝の名にもなっている「セルジューク」はトゥグリル・ベクの祖父の名で、彼は中央アジアのトルコ系民族オグズ族クヌク氏族のセルジューク家の遊牧集団を率いる部族長でした。トゥグリル・ベクの父親が戦死した為、トゥグリル・ベクと兄のチャガリー・ベクは祖父セルジュークのもとで育ったのです。
オスマン朝を創始したのが「オスマン・ガーズィー」です。
祖父スレイマン・シャーの時代に、トルコ系民族オグズ族カユ氏族である一族は、モンゴル帝国に追いやられてアナトリアにやってきました。
父エルトゥールルがルーム・セルジューク朝に仕えてアナトリア北西の国境をビザンツ帝国から守るガーズィー(戦士)となり、オスマンはそれを次いでガーズィー集団を率いたのです。
その後、力を付け次々と周辺を平定して行ったオスマン・ガーズィーは、ルーム・セルジューク朝から独立し、1299年にオスマン侯国を建てます。これが1922年まで623年間続くオスマン帝国の始まりです。このオスマン朝が急速に強大化しヨーロッパから全世界に名を轟かせる大帝国となったのです。
スレイマン大帝、壮麗帝、立法帝とも言われるオスマン帝国第10代皇帝「スレイマン1世」は、46年間の治世の中で13回に及ぶ遠征行い、西はハンガリー、ロードス島、東はイラン、南は北アフリカのモロッコ迄の広大な土地を征服し、オスマン帝国に最盛期もたらしました。
海軍を強化し、黒海、地中海、紅海と近辺の制海権をも手に入れています。
また彼は、オスマン帝国のスルタン達の中でも46年と言う最も長い治世、13回と言う最も多くの遠征、計10年1ヶ月と言う最も長い間遠征と偉業を成したスルタンでもあります。
治世中には、それまでの歴代スルタン達の決定事項をまとめて法整備を行い、この法は後年約300年間使用されました。
スレイマン1世のすごさは、建築家ミマール・シナンに造らせたスレイマニイェ・モスクの壮麗さで分かるかと思います。このスレイマン1世は1566年に71歳で死去した後、スレイマニイェ・モスクの敷地内の霊廟にて、寵愛していた妃ヒュッレム・スルタンと共に眠っています。
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トルコ人にとって英雄中の英雄で最も敬愛する人物、それがトルコ共和国建国の父「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」です。
1918年、 “ヨーロッパの瀕死の病人”と言われ、かつての栄光が見る影もない程腐敗したオスマン帝国は、第1次世界大戦で敗戦し降伏して売国しまったため、領地を連合国の欧州列強によって分割され解体の危機に陥っていました。
自身もオスマン帝国の軍幹部でありスルタンとも親しい間柄であったムスタファ・ケマルは、オスマン帝国政府を見限ります。そしてトルコを守るために立ち上がり、1919年5月19日に祖国解放戦争を起こします。
1922年8月30日にトルコ内陸部にまで進軍していたギリシャ軍に大勝利して勢いをつけたトルコ大国民議会政府軍は、ギリシャに占領されていたイズミールを奪還し反転攻勢となると、連合国とローザンヌ講和条を結び、起死回生に成功させました。この条約により、主権を獲得し現在の国境が決まり、トルコは滅亡することなく大復活したのです。
そして、彼は1922年11月にスルタン制を廃止し、ここでオスマン帝国が滅亡しました。
1923年10月29日にムスタファ・ケマル自らが初代大統領となりトルコ共和国を樹立させ、1983年11月10日にドルマバフチェで亡くなるまでの短期間で、トルコを近代国家に成し遂げるために独裁を貫き、一夜の内に近代国家を作り上げたのです。
近代産業改革、初等教育の義務化などの教育改革、アラビア文字からラテン文字を採用したトルコ文字への文字改革、国民全員が姓を持つ創姓改革(これによりムスタファ・ケマルは“トルコの父”を意味する「アタテュルク」の姓を受け、ムスタファ・ケマル・アタテュルクとなりました)、イスラム的な服装の禁止と洋服推進の服装改革、女性の参政権を実施した男女同権、ヒジュラ暦から太陽暦への変更などなど、数えきれないほどの改革を行い、アタトゥルクがトルコの為に行った偉業は計り知れないほど大きなものでした。
【トルコ建国の父】ムスタファ・ケマル・アタテュルクの歴史と偉業
アジアの東端の日本と西端のトルコですが、両国の絆は1880年のエルトゥールル号海難事故によって結ばれ、そこから長い交流の歴史がはじまりました。
1880年9月15日、オスマン帝国スルタンの親書を明治天皇に奉呈したトルコ親善使節団とトルコ人海兵600人以上を乗せたオスマン帝国軍艦エルトゥールル号は、横浜港から出港し帰国の途につきます。しかし翌日16日の夜半、悪天候のため和歌山県串本町樫野埼沖で座礁し沈没してしまうのです。
樫野の村民は総出で救護活動を行い、運よく助かったのは69名のみ。命を落とした500人以上は村民によって串本の地に手厚く葬られ、生存者は日本軍艦にて無事にイスタンブールに帰国することが出来ました。
民間人の山田寅次郎はこの事件に衝撃を受け、義援金を集めて翌年イスタンブールに渡り、時の皇帝アブドゥルハミド2世にも謁見します。そして皇帝の要請でイスタンブールに残り、官民の日本とトルコの交流に尽力したのです。
山田寅次郎とは?トルコで民間親善大使として活躍した日本人実業家の7つの偉業
なお、日本とトルコの政府としての正式な国交は、1925年にイスタンブールに日本大使館が開設されて始まりました。
エルトゥールル号遭難事故から続く両国の絆は、1985年のイラン・イラク戦争でも明確になります。イラクのサダム・フセイン大統領が、48時間後にイラン上空を飛ぶ飛行機は民間機を含め全て撃ち落とす事を宣言します。各国がイランから自国民を救出する中、216名の日本人は日本からの救出機が送られないままテヘランに取り残されて窮地に立たされてしまいます。そんな中、日本人の救援要請に応じたのがトルコ政府とトルコ航空でした。
フセインの宣言から48時間まであと数時間と言う中、トルコ航空機は危険を顧みず日本人216名全員を救出してくれました。しかも、トルコ人が500人程まだ残っていたにもかかわらず、自国民には陸路で脱出させ、日本人を優先して救出してくれたのです。
その理由は、「エルトゥールル号の恩を返しただけ」だと言います。
その後も、地震大国である両国で地震被害が発生した際は、いち早くお互いに支援し合うなど、互いに助け合いながら強い絆で両国の交流が現在も続いてるのです。
トルコと日本の深い関係とは?エルトゥールル号遭難事件や交流の歴史
日本の女子高生の主人公ユーリがヒッタイト皇后の魔術によって現代から紀元前14世紀ヒッタイト時代のトルコへ連れ去られてしまい、現代へ帰る為に魔の手と戦うのですが、徐々にヒッタイト皇子カイル(ムルシリ2世)と惹かれ合ってしまい、現代の知識を生かしながら女神イシュタルそしてヒッタイト皇后としてヒッタイトの地で生きていくことに決め、ヒッタイトをオリエントの覇者へ導いていくというストーリーの愛と大河ロマンの少女漫画です。
ちなみに、赤い河は、ヒッタイトの首都ハットゥシャシュの近くやカッパドキアを流れるクズル・ウルマック川のこと。ヒッタイトを取り巻くミタンニやバビロニアやエジプトなどの関係が実在の人物や国を基に描かれていますので、古代オリエント世界のロマンを感じたい方に是非おすすめです!
【トルコのプロが解説】カッパドキアのおすすめ観光スポット16選とツアーの選び方
なお、この篠原千絵さんは、サフランボルを舞台にした『暁に立つライオン』と言う短編サスペンスロマンも描いています。
ハレムは男子禁制の秘密の花園?!本来の意味やオスマン帝国ハレムの実態
全くのファンタジーですが、人名から国名までトルコ語の名前がオンパレード。それにともなって中世の中東の雰囲気が漂い、セルジューク朝やオスマン帝国のトルコを連想しまう漫画です。詳細までとっても綺麗な絵は壮大で、将国アルタイルの世界にどっぷりつかってしまう事間違いありません。
トルコの歴史は、人類文明の発祥地“文明のゆりかご”であるアナトリアの歴史であり、オリエント・ヘレニズム文化の歴史であり、初期キリスト教布教の歴史であり、モンゴル周辺から中央アジアを経てアナトリアに至ったトルコ系民族の歴史であり、イスラム教・イスラム文化拡大の歴史でもあります。
諸文明の勃興が繰り返され、その当時として高度な社会が育まれていた世界で唯一無二のバラエティーに富んだトルコの歴史に関して、ここで徹底解説致します。
目次
トルコの歴史をざっくり解説!
- 現在のトルコのアジア部分であるアナトリアには、紀元前50万年ごろの旧石器時代から人類が住んでいた。
- 紀元前1万年~紀元前6500年頃の新石器時代には、ギョベクリテペ、チャタルホユック、アルスランテペ、トロイなどで文明的生活が行われていた。
- 紀元前20世紀~紀元前18世紀頃、アッシリア商人によりアナトリア各地にカールムと言う商人居留地が置かれて貿易システムが構築。カイセリ近くのカニシュ(現キュルテペ)を中心地としてアナトリアの都市とアッシリア間で盛んに交易が行われていた。
- 青銅器時代の紀元前17世紀、ヒッタイトがハットゥシャシュを首都としてアナトリアを広く支配する統一国家を建国。
- ヒッタイト以降、トロイ、ウラルト、フリギア、リディア、リキア、カリア、海の民、ペルシア、マケドニア、ローマ帝国、ビザンツ帝国など多数の国や民族による興亡が繰り返される。
- 中央アジア遊牧民族であったトルコ系民族が南下・西進してセルジューク朝を建国し、アナトリアを支配すると共にこの地でのトルコ化が進む。
- セルジューク朝の滅亡後、一部族であったオスマン侯国が強大化してオスマン帝国を樹立し600年以上も存続。そして帝国領土であったギリシャや東欧、バルカン半島、シリアなどの周辺地域にもトルコ人が定着。
- 第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北し帝国が解体される危機に陥りましたが、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが革命の指導者となって祖国解放戦争に勝利し起死回生します。そして、1923年10月29日アンカラを首都としてトルコ共和国が樹立。
トルコ共和国成立までの歴史
トルコでは、日本の私達もよく知っている世界的に有名で重要な王国や民族が多数勃興しました。現在の私達へ繋がる文化の礎が築かれた場所がトルコであると言っても過言ではないかもしれません。そんな深いトルコの歴史をここで見ていきましょう。先史時代(旧石器時代~新石器時代)
旧石器時代の紀元前50万年頃:アナトリアに人類が最初の足跡を刻んでいることを、アンタルヤの北西27㎞にある「カライン洞窟」で見ることができます。
新石器時代の紀元前1万年頃:北メソポタミアの現シャンルウルファにある「ギョベクリテペ」で、T字型の石柱が円形に並んだ宗教施設が建設されました。これは、メソポタミア文明より7千年も古い世界最古の宗教施設と言われています。
ギョベクリテペ遺跡 ・ギョベクリ・テペ(文化遺産:2018年)
紀元前7250~6750年頃:中央アナトリアから地中海地方にかけて「チャイオヌ」「ハジラル」などの場所で集落が形成されました。
紀元前7400~5200年頃:現コンヤの「チャタルホユック」で、世界最古の組織的な町が形成されました。チャタルホユックでは、平均で5千~8千人、多い時で1万人が土煉瓦で造られた密集した集合家屋に住んでいたのです。
チャタルヒュユクの遺跡(文化遺産・2012年)
ヒッタイト帝国(青銅器時代)
紀元前2500~1700年頃:アナトリアの先住民族で非印欧語族の「ハッティ人」が“赤い河”と呼ばれるクズル・ウルマック川周辺(現チョルム~ヨズガットあたり)の「ハッティの地(ハットゥシュ)」と呼ばれる地域で公国を組織していました。
紀元前2200~2000年頃:印欧語族ヒッタイト人がアナトリアに流入します。当初は様々な土地に点在していたため、中央アナトリアに定住するまでには数世紀かかります。
紀元前2000~1750年頃:アッシリア商人が商業植民地カールムを各地に置いて交易ネットワークを発達させ、アナトリアの現カイセリの北部にある「カニシュ/ネシャ(キュルテペ)」を中心にアナトリアの都市がアッシリアと盛んに交易をおこなった「アッシリア商人居留地時代」となりました。
アッシリア商人は、メソポタミアから織物や錫を持ち込み、アナトリアの金や銀や銅などの鉱物資源と引き換えており、商業契約や関税制度も有ったと言います。キュルテペ遺跡では当時のアッシリア楔形文字の商業文書が多数発掘されています。
1750年頃:クッシャラ国のアニッタ王がカニシュ(ネシャ)を征服したことで、アッシリア商人居留地時代が終焉します。また、このアニッタはネシャと同等の規模を持っていたハッティの地ハットゥシャシュを征服し焼き払いました。
紀元前1680年~1180年頃:ハットゥシャシュ(現ボアズカレ)を首都としてアナトリア最初の統一国家「ヒッタイト王国」が、製鉄技術の独占と軽戦車を駆使した戦術で周辺諸国を統一しアナトリア一帯に帝国を確立しました。
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このヒッタイト王国の創始者はアニッタ王とも言われています。ヒッタイト人は自国の言葉を“ネシャの言葉”と言っているのですが、ネシャはアニッタの国があったカニシュ(キュルテペ)の事です。またヒッタイト人は自分たちの故郷をネシャと言い、アニッタを最初の王としていたようです。
紀元前14世紀には、古バビロニア王国やミタンニ王国などを倒して上メソポタミアとオリエントの覇者となり最盛期を迎えます。そして1180年頃、飢餓の蔓延や海の民呼ばれる移民者達と黒海地方にいたカシュカ人によって終焉しました。
このヒッタイトの滅亡により青銅器時代が終焉し、各地に製鉄技術が広まり鉄器時代が始まることになりました。
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トロイ
ヒッタイト帝国とほぼ同時期にアナトリア北西で栄えたのが「トロイ」です。
あのトロイの木馬で有名なホメロスの叙事詩『イーリアス』の舞台として登場するトロイ(イリオス)は、ダーダネルス海峡の入口に位置し、紀元前3000年頃から居住が始まっていました。
エーゲ海と黒海の交易路にあった港町として、早い時期から青銅器時代を通してエーゲ海交易で栄えたトロイですが、紀元前1250年頃トロイア戦争でギリシャのアカイア人に敗れ滅亡します。
その後、ギリシャはトロイに続いてアナトリアのエーゲ海沿いに植民都市をつくっていき、後に古代ギリシャ文化が花開くことになるのです。
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ウラルトゥ・フリュギア・リュディア・リュキア・カリア
紀元前1200年前後:アナトリアに海の民が到来し、ヒッタイト帝国が滅亡します。実はこの海の民と言うのは、ヒッタイトの西側、アナトリアのエーゲ海沿岸にすむアカイア人やリュキア人、それにイタリア半島からのエトルリア人やサルデーニャ人やシチリア人の連合軍であったと言います。
彼らは、肥沃なアナトリアの大地にやって来たと共に、中近東やエジプトでも大きな脅威となり、これらの東地中海の国々はこの頃暗黒時代となりました。
紀元前1200年~:ヒッタイト末期から滅亡する頃、、アナトリアでは幾つもの小王国が隆盛し、群雄割拠の時代となります。
紀元前9世紀頃:東アナトリアのヴァン湖周辺にて「ウラルトゥ王国」が起こります。
紀元前750年以降:最初に強力な国家として現れたのが、北部・中央アナトリアでゴルディオンを首都として建国した「フリユギア王国」です。有名な“王様の耳はロバの耳”のミダス王はこのフリュギア王でした。このフリギア人達は紀元前12世紀頃にヨーロッパからやってきてアナトリアに住み着いたと言います。
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紀元前660年頃:北西アナトリアでは、サルディスを首都とし世界初の鋳造貨幣“エレクトロン貨”を発明した「リュディア」が興隆します。
南西アナトリアには紀元前15世紀頃から地中海西部沿岸にプナラ、クサントス、レトゥーン、パタラ、ミュラ、オリンポス、ファセリスなどの都市を持つ「リュキア」、またその北西には紀元前11世紀頃からミレトスやカウノスやハリカルナッソスやアフロディシアスやラオディキアを主要都市とした「カリア」が繫栄しました。
しかし、カリアは紀元前7~6世紀頃にリュキアに併合されてしまいます。
古代ギリシャ時代(アイオリア、イオニア、カリア)
紀元前1000年頃:ギリシャ本土からギリシャ人の一派であるアイオリア人、イオニア人、ドーリア人がアナトリア西のエーゲ海沿いに移住してきて都市を形成します。
アイオリア人はエディレミット湾のキュメからイズミル湾のスミルナ(現イズミル)までのエーゲ海北沿岸部分に12都市を建設し、イオニア人はポカイア(現フォチャ)からエフェソスやミレトを通ってミンドスまでの沿岸中部に住み着き、それぞれその地域を「アイオリア」、「イオニア」と呼ぶようになりました。
スミルナは、元々アイオリアの都市でしたが、紀元前699年以降にイオニア同盟に加わりイオニアに入ります。
その後の紀元前900年頃にドーリア人が、エーゲ海沿岸南部のカリア地方の沿岸部に移住し土着のカリア人達の反攻に遭いながらも住み着きました。主要都市はハリカルナッソスやカウノスです。しかし、カリアは紀元前7世紀~6世紀前半にリディアに併合されてしまいます。
このエーゲ海沿岸部のギリシャ人植民都市では、哲学の祖アナクシマンドロスやタレスやヘラクレイトスやピタゴラスなどの自然哲学者、歴史学の祖ヘロドトス、吟遊詩人ホメロスなど現在までも名が残る多くの古代ギリシャの偉人たちが誕生・活躍しました。
あの、イソップ物語の作者と言われる寓話作家イソップ(アイソーポス)もトルコの西部出身と言われています。
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ペルシア
紀元前550年:アナトリアの東半分までを支配していたメディア王国を滅亡させた「アケメネス朝ペルシャ」がイランで建国されます。紀元前547年:アケメネス朝ペルシャはアナトリア西半分を支配していたリュディアを滅亡させたことで、全アナトリアを支配下に置きました。
アナトリア各地は幾つかの州に分けられてサトラップ(総督)が置かれ、リュディアの首都であったサルディスはアケメネス朝の最主要都市となり、アケメネス朝の首都スーサからサルディスまでは「王の道」と言われる主要都市を結ぶ古代の大公道で繋がれました。ちなみにこの王の道の東へ続く道は、シルクロードに続いていました。
紀元前333年にマケドニア王アレキサンダー大王がアナトリアに進出するまで、約200年間アナトリアはペルシャの支配下にありました。
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マケドニア(アレキサンダー大王)
紀元前334年:アレキサンダー大王は、マケドニア軍とギリシャ軍を率いてダーダネルス海峡を越えてチャナッカレからアナトリアに入り、東方遠征を始めました。そして次々とアナトリアの都市を支配下に置き、アケメネス朝ペルシャを破り、その後インダス川まで遠征を続けて大帝国を造ったのです。
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ディアドコイ戦争(後継者戦争)
紀元前323年には、アレキサンダー大王の死後、部下たちによるディアドコイ戦争(後継者戦争)が起こり、アナトリアでも戦いが繰り広げられました。最終的にアナトリアの大部分が首都をアンティオキアに置いた「セレウコス朝シリア」、南部の一部分が「プトレマイオス朝エジプト」、西部の一部が「アンティゴノス朝マケドニア」の支配下となります。ヘレニズム時代
この東方遠征とディアドコイ戦争によって古代ギリシャ文化と古代オリエント文化が融合したヘレニズム文化が、アナトリアの地でも花開きました。紀元前282~133年に、ヘレニズム国家の一つとして、セレウコス朝シリアから独立した「アッタロス朝ペルガモン」がベルガマを首都とて建国しました。ベルガマでは、エフェソスのケルスス図書館とエジプトのアレクサンドリア図書館と並んで古代三大図書館の一つとされるベルガマ図書館が造られ、また羊皮紙がここで発明されるなど、ヘレニズム時代において大いに繁栄したのです。
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ちなみに、紀元前41年にマルクス・アントニウスがクレオパトラと結婚した際に、このベルガマ図書館の書物20万巻を結婚記念のプレゼントとしてクレオパトラに送ってしまったため書物は全く残っておりません。
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古代ローマ時代
紀元前133年:ペルガモン王アッタロス三世が死去する際、後継者がいなかったために自国ベルガマを共和制ローマに遺贈するのです。これにより、西アナトリアはローマのアジア属州となりました。このローマ時代はローマが東西分裂する西暦395年まで続きます。
1世紀には、使徒パウロがアナトリアでキリスト教伝道を行ったことで、最初のキリスト教世界が形成されます。そしてヨハネの黙示録に出てくる七つの教会とされる初期教会がエフェソス、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアにつくられました。
ちなみに、エフェソス近くでは、聖母マリアが最期を送ったとされる家が見つかっています。
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330年にローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世が、現イスタンブールの地に首都を移し、キリスト教を承認します。皇帝はこの新都に「ノヴァ・ローマ(新ローマ)」と名付けますが、すぐに“コンスタンティヌスの町”を意味する「コンスタンティノープル」と呼ばれるようになりました。
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ビザンツ帝国(東ローマ帝国)
395年:ローマ皇帝テオドシウス1世が死に際して二人の息子に帝国領土の東西の分担統治をおこなわせたことで、コンスタンティノープルを首都とした「東ローマ帝国」が誕生しました。
首都であったコンスタンティノープルは、前身がギリシャ人植民地の「ビザンティオン」の地につくられていたため、そこから後世になり東ローマを「ビザンツ帝国」と呼ぶようになったのです。
「ビザンツ帝国」は東ローマ帝国のことですが、特に7世紀以降のローマからかけ離れた“正教徒が住むギリシャ化した東ローマ帝国”の事を指します。
東ローマ帝国では、380年頃にキリスト教が国教化され、コンスタンティノープルには総主教がおかれました。またアナトリアでは、325・787年にニカエア公会議、381・553・680年にコンスタンティノポリス公会議、431年にエフェソス公会議、451年にカルケドン公会議が行われ、キリスト教に関して協議され重要な決定がされました。
ビザンツ帝国時代には、現在まで残っているアヤソフィア大聖堂、地下宮殿など多くのビザンツ建築が建てられ、またモザイク画などのビザンツ美術も花開き独自の文化を築きました。
ビザンツ帝国は、1953年にオスマン帝国軍にコンスタンティノープルが陥落されて滅亡するまで21の王朝によって1058年間続きます。
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トルコ系民族はどこから来たのか?
552年:中央アジアのアルタイ山脈の南にて、モンゴル系民族「柔然」に隷属していたトルコ系民族「鉄勒(てつろく)」の一部の「突厥(とっけつ)/テュルク」が、柔然を滅ぼして周辺諸民族を征服し、モンゴル高原一帯に大帝国「突厥可汗国(とっけつかがんこく)」を築きました。これがトルコ共和国にとって、トルコが現在までの国となる道への第一歩(トルコ共和国の始まり)であったと言います。
744年:トルコ系民騎馬民族のウイグル部族が独立し、744年に遊牧国家「ウイグル国(回鶻)」を成立させてトルキスタンに定住しました。
10世紀半ば:ベラサグン(現在のキルギスのブラナ遺跡)を首都としてトルコ系民族で初めてイスラム教を受容し国教としたトルコ系最初の王朝「カラハン朝」が、カルルク族により建国されたことで、トルコ・イスラム文化の基礎が築かれました。
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セルジューク朝
11世紀:中央アジア北部のトルコ系民族オグズ族クヌク氏族が南下して1038年に現イランにて「セルジューク朝」を建国します。
1071年:アナトリア東部ヴァン湖の北部で起こった“マラズギルトの戦い”にてビザンツ帝国に勝利したことで、トルコ民族がアナトリアへ侵攻して定住するようになりました。
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ルーム・セルジューク朝
1077年:セルジューク朝から独立し、ニカイア(現イズニック)を首都として建国したのが「ルーム・セルジューク朝」です。アナトリアで最初に建国されたトルコ系王朝でもあるルーム・セルジューク朝は、コンヤに遷都し、1157年にセルジューク朝本家滅亡後も存続します。そして、1300年までにトルコ人はエーゲ海まで達することに成功し、現在のトルコ共和国とほぼ同等の支配領域を確立しました。この王朝は首都コンヤを中心に、芸術的なモスク、マドラサ、病院、隊商宿など多くの建物を建てており、現在でもその素晴らしい建物がトルコ各地に残っています。あの、スーフィズムのセマー禅で有名な「メヴラーナ」も、13世紀にコンヤでメヴレヴィ―教団を創設し活躍しました。
12世紀にはセルジューク・トルコ帝国の首都に指定されコンヤの町
ルーム・セルジューク朝の末期には、アナトリアは東ローマに対抗する為に勃興した君侯国「ベイリク」が割拠する時代となり、1308年にルーム・セルジューク朝が滅亡します。
オスマン帝国
特にビザンツ帝国との国境となっていたアナトリア西部に多くの君侯国ができ、その中から力を付けてきたのが、トルコ系民族オグズ族カヤ氏族出身のオスマン・ガーズィー率いる「オスマン侯国」です。
1299年:オスマン侯国はルーム・セルジューク朝からの独立を宣言し、「オスマン帝国」を建国しました。そして、16世紀にかけてみるみる強大化していきます。
1453年5月29日: 7代目皇帝メフメット2世がついにコンスタンティノープルを陥落してビザンツ帝国を滅亡させます。そしてここに首都を置き、後にイスタンブールと改称して、ビザンツ時代の教会をモスク化するなどイスラム化を行いました。
16世紀の終わりまで急速に拡大していったオスマン帝国は、スレイマン大帝の時代に最盛期を迎えます。北はハンガリー、西はアフリカのアルジェリア、南はエジプト・イエメン、東はアジアのインドに至るなど歴史的な大帝国として君臨しました。
オスマン帝国時代に造られたトプカプ宮殿、ブルーモスク、建築家ミマール・シナンが造ったスレイマニイェ・モスク、エディルネのセリミイェ・モスクなど多くのオスマン建築の傑作が、現在でも世界遺産となって当時の栄華を現在に伝えています。また、タイル、絨毯、キリム、細密画(ミニアチュール)などのトルコの伝統芸術も大きく発展しました。
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1683年:神聖ローマ帝国の首都への遠征“第2次ウイーン包囲”で大敗したことが帝国の縮小から滅亡へ下る道の始まりとなりました。
それまで無敵を誇っていたオスマン帝国でも負けることがある事をしった帝国支配下の国々は、これによって民族独立の反旗を振り上げる様になってしまい、新興国も帝国に攻め入るなど、この後各国との戦いが続きます。そして20世紀には西欧列強より“ヨーロッパの瀕死の病人”と言われるほど弱小化してしまうのです。
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トルコ共和国の成立
1918年:第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北したことで、帝国本土のアナトリアが西欧列強に占領されて完全解体される危機を迎えます。その時軍司令官であったムスタファ・ケマル・アタテュルクが革命の指導者となって祖国解放戦争に勝利し、トルコを救い出すのです。
1922年11月1日:スルタン制が廃止され、623年間続いたオスマン帝国は幕を閉じました。
1923年10月29日:アンカラを首都として申請「トルコ共和国」が樹立し、近代化に対応するためのさまざまな改革が行われます。
「初代大統領ムスタファ・ケマル・アタテュルク」は、政治的、社会的、法的、経済的、文化的領域で世界でも事実上比類のない幅広い改革を導入しました。 彼は、議会制民主主義、権力分立、政教分離、世俗行政、ナショナリズム、近代化の原則に基づき、新しい政治的および法的なシステムを作成しました。
こうしてアタテュルク指導の下で、ほぼ一夜にしてトルコは西欧化を目指した現代的な世俗主義国民国家になりました。そして、現代世界の一部になりたいと考えている第三世界の国々にやイスラムの国々にとって重要なモデルと成し得たのです。
近現代のトルコ共和国
第二次世界大戦では中立の立場をとっていましたが、戦争終結前の1945年2月23日に連合国側について日本とドイツに宣戦布告をします。
1945年6月26日、国連に加盟。1952年、国連加盟国として朝鮮戦争へ参戦する為にソ連に対するNATOに加盟します。
トルコのEU加盟の実現は?
西欧化にまい進してきたトルコは、ヨーッロッパの一員になることを望んできました。1963年、EU加盟の前段階としてEUの前身である欧州経済共同体(EEC)と共同協定を結びます。その後、1987年にEUへの加盟申請を行い、加盟への一歩として1995年に欧州連合関税同盟に加盟しました。2000年に入るとトルコでのEU加盟の動きが急速に進み、2005年にEUはトルコの加盟交渉に入りました。しかし、人口が多く国民の大多数がイスラム教徒で国土の97%がアジアと言うこと、それに加えてクルド問題、キプロス問題、アルメニア人虐殺問題、シリア人難民問題、そして2016年のクーデター未遂などなど問題の尽きないトルコは、色々な懸念が多いことから、欧州各国からの加盟反対も多く、近年はEU欧州議会の決定で数回交渉が停止されるなど、トルコはEU加盟実現から遠のいてきている状態で、緊張状態が続き先行きは厳しい状態です。
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現在のトルコの行方…
2003年に政権を握ったAKP(公正発展党)党首のレジェップ・タイイップ・エルドアンは、保守的なイスラム主義と庶民主義を掲げて庶民層の圧倒的な支持を得、首相として2003年~2014年の11年間、2014年~2021年現在まで7年間を大統領として計20年間、トルコのトップに君臨しています。
前半は、EU加盟交渉を進めたり、急速なインフラ整備を行うなど経済も好調でトルコの発展に好影響を与えておりましたが、近年はイスラム回帰志向、新オスマン主義的、独裁的な傾向にあります。
そして2018年に首相を廃止し大統領制へと移行したことで、より権威主義・独裁主義の傾向に拍車がかかり、民主的・世俗的な政治から離れてきている現状です。
また近年はエルドアン大統領の大方言に左右されてトルコリラが大暴落。国内はインフレが加速し、経済は大混迷が続いています。
2023年に共和国樹立から100年となるトルコ。長く培われて来た歴史を後世により良い形で繋いで行くよう、今後のさらなる発展に期待したいところです。
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トルコの歴史を作った重要な人物
長いトルコの歴史の中で沢山の人物が関わってきましたが、この方々なくして今のトルコは有り得ませんでした。そんなトルコの歴史をつくった重要人物をピックアップしてここで皆様にご紹介いたします。アレキサンダー大王
マケドニア王アレキサンダー大王は、正式にはアレクサンドロス3世と言い、紀元前4世紀後半、若くしてアジアを制した史上最高の司令官でした。
紀元前336年に二十歳でマケドニア王に即位してから、紀元前323年に亡くなるまでのたった13年間で、西はギリシャから、アケメネス朝ペルシャが征服していたアナトリア、エジプト、メソポタミア、ペルシャ、中央アジアを通って東はインダス川まで、当時の世界の半分を征服して大帝国を築きました。
アレキサンダー大王の死後は、トルコの地アナトリアを大王の後継者でギリシャ人の王朝セレウコス朝シリアが支配し、ペルガモン等の都市でヘレニズム文化が花開くこととなりました。
セルジューク朝創始者「トゥグリル・ベク」
トルコ系民族がアナトリアへ進出して現トルコ形成への一歩となったセルジューク朝の創始者で初代スルタンが「トゥグリグ・ベク」です。彼は、ビザンツ帝国下のアナトリアへ進出した初めてのトルコ人のスルタンでした。
1025年にセルジューク部族長となったトゥグリル・ベクは、次々とイランの都市を征服し、1038年にセルジューク朝を建国。1055年にアッバース朝カリフの招致でブワイフ朝を倒してバグダッドを奪還したことで、カリフより“スルタン”の称号が与えられます。これによりイスラーム世界での君主=スルタンの称号が正式な物となりました。
その後、彼の代では東アナトリアのエルズルムやワン湖の北のエルジシュまで進出することに成功し、彼の死後の1071年に“マラズギルドの戦い”でビザンツ帝国に大勝したことで、トルコ人のアナトリアへの扉が一気に開いたのです。
ちなみに、王朝の名にもなっている「セルジューク」はトゥグリル・ベクの祖父の名で、彼は中央アジアのトルコ系民族オグズ族クヌク氏族のセルジューク家の遊牧集団を率いる部族長でした。トゥグリル・ベクの父親が戦死した為、トゥグリル・ベクと兄のチャガリー・ベクは祖父セルジュークのもとで育ったのです。
オスマン帝国創始者「オスマン・カーズィー」
オスマン朝を創始したのが「オスマン・ガーズィー」です。
祖父スレイマン・シャーの時代に、トルコ系民族オグズ族カユ氏族である一族は、モンゴル帝国に追いやられてアナトリアにやってきました。
父エルトゥールルがルーム・セルジューク朝に仕えてアナトリア北西の国境をビザンツ帝国から守るガーズィー(戦士)となり、オスマンはそれを次いでガーズィー集団を率いたのです。
その後、力を付け次々と周辺を平定して行ったオスマン・ガーズィーは、ルーム・セルジューク朝から独立し、1299年にオスマン侯国を建てます。これが1922年まで623年間続くオスマン帝国の始まりです。このオスマン朝が急速に強大化しヨーロッパから全世界に名を轟かせる大帝国となったのです。
オスマン帝国最盛期のスルタン「スレイマン1世」
スレイマン大帝、壮麗帝、立法帝とも言われるオスマン帝国第10代皇帝「スレイマン1世」は、46年間の治世の中で13回に及ぶ遠征行い、西はハンガリー、ロードス島、東はイラン、南は北アフリカのモロッコ迄の広大な土地を征服し、オスマン帝国に最盛期もたらしました。
海軍を強化し、黒海、地中海、紅海と近辺の制海権をも手に入れています。
また彼は、オスマン帝国のスルタン達の中でも46年と言う最も長い治世、13回と言う最も多くの遠征、計10年1ヶ月と言う最も長い間遠征と偉業を成したスルタンでもあります。
治世中には、それまでの歴代スルタン達の決定事項をまとめて法整備を行い、この法は後年約300年間使用されました。
スレイマン1世のすごさは、建築家ミマール・シナンに造らせたスレイマニイェ・モスクの壮麗さで分かるかと思います。このスレイマン1世は1566年に71歳で死去した後、スレイマニイェ・モスクの敷地内の霊廟にて、寵愛していた妃ヒュッレム・スルタンと共に眠っています。
スレイマニエ・モスク(スレイマニエ ジャーミィ)はイスタンブールの人気観光名所
トルコ共和国建国の父「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」
トルコ人にとって英雄中の英雄で最も敬愛する人物、それがトルコ共和国建国の父「ムスタファ・ケマル・アタテュルク」です。
1918年、 “ヨーロッパの瀕死の病人”と言われ、かつての栄光が見る影もない程腐敗したオスマン帝国は、第1次世界大戦で敗戦し降伏して売国しまったため、領地を連合国の欧州列強によって分割され解体の危機に陥っていました。
自身もオスマン帝国の軍幹部でありスルタンとも親しい間柄であったムスタファ・ケマルは、オスマン帝国政府を見限ります。そしてトルコを守るために立ち上がり、1919年5月19日に祖国解放戦争を起こします。
1922年8月30日にトルコ内陸部にまで進軍していたギリシャ軍に大勝利して勢いをつけたトルコ大国民議会政府軍は、ギリシャに占領されていたイズミールを奪還し反転攻勢となると、連合国とローザンヌ講和条を結び、起死回生に成功させました。この条約により、主権を獲得し現在の国境が決まり、トルコは滅亡することなく大復活したのです。
そして、彼は1922年11月にスルタン制を廃止し、ここでオスマン帝国が滅亡しました。
1923年10月29日にムスタファ・ケマル自らが初代大統領となりトルコ共和国を樹立させ、1983年11月10日にドルマバフチェで亡くなるまでの短期間で、トルコを近代国家に成し遂げるために独裁を貫き、一夜の内に近代国家を作り上げたのです。
近代産業改革、初等教育の義務化などの教育改革、アラビア文字からラテン文字を採用したトルコ文字への文字改革、国民全員が姓を持つ創姓改革(これによりムスタファ・ケマルは“トルコの父”を意味する「アタテュルク」の姓を受け、ムスタファ・ケマル・アタテュルクとなりました)、イスラム的な服装の禁止と洋服推進の服装改革、女性の参政権を実施した男女同権、ヒジュラ暦から太陽暦への変更などなど、数えきれないほどの改革を行い、アタトゥルクがトルコの為に行った偉業は計り知れないほど大きなものでした。
【トルコ建国の父】ムスタファ・ケマル・アタテュルクの歴史と偉業
トルコと日本の友好の歴史
アジアの東端の日本と西端のトルコですが、両国の絆は1880年のエルトゥールル号海難事故によって結ばれ、そこから長い交流の歴史がはじまりました。
1880年9月15日、オスマン帝国スルタンの親書を明治天皇に奉呈したトルコ親善使節団とトルコ人海兵600人以上を乗せたオスマン帝国軍艦エルトゥールル号は、横浜港から出港し帰国の途につきます。しかし翌日16日の夜半、悪天候のため和歌山県串本町樫野埼沖で座礁し沈没してしまうのです。
樫野の村民は総出で救護活動を行い、運よく助かったのは69名のみ。命を落とした500人以上は村民によって串本の地に手厚く葬られ、生存者は日本軍艦にて無事にイスタンブールに帰国することが出来ました。
民間人の山田寅次郎はこの事件に衝撃を受け、義援金を集めて翌年イスタンブールに渡り、時の皇帝アブドゥルハミド2世にも謁見します。そして皇帝の要請でイスタンブールに残り、官民の日本とトルコの交流に尽力したのです。
山田寅次郎とは?トルコで民間親善大使として活躍した日本人実業家の7つの偉業
なお、日本とトルコの政府としての正式な国交は、1925年にイスタンブールに日本大使館が開設されて始まりました。
エルトゥールル号遭難事故から続く両国の絆は、1985年のイラン・イラク戦争でも明確になります。イラクのサダム・フセイン大統領が、48時間後にイラン上空を飛ぶ飛行機は民間機を含め全て撃ち落とす事を宣言します。各国がイランから自国民を救出する中、216名の日本人は日本からの救出機が送られないままテヘランに取り残されて窮地に立たされてしまいます。そんな中、日本人の救援要請に応じたのがトルコ政府とトルコ航空でした。
フセインの宣言から48時間まであと数時間と言う中、トルコ航空機は危険を顧みず日本人216名全員を救出してくれました。しかも、トルコ人が500人程まだ残っていたにもかかわらず、自国民には陸路で脱出させ、日本人を優先して救出してくれたのです。
その理由は、「エルトゥールル号の恩を返しただけ」だと言います。
その後も、地震大国である両国で地震被害が発生した際は、いち早くお互いに支援し合うなど、互いに助け合いながら強い絆で両国の交流が現在も続いてるのです。
トルコと日本の深い関係とは?エルトゥールル号遭難事件や交流の歴史
トルコの歴史を楽しく理解!おすすめ漫画3選
難しい歴史も漫画でしたら楽しく知ることができますよね!トルコに関する歴史漫画は意外と結構ありますが、その中でも激選した3つをここでご紹介いたしますので、是非読んでみて下さい。天は赤い河のほとり
この本でヒッタイトを知り、トルコに訪れた方も多いのではないでしょうか!日本の女子高生の主人公ユーリがヒッタイト皇后の魔術によって現代から紀元前14世紀ヒッタイト時代のトルコへ連れ去られてしまい、現代へ帰る為に魔の手と戦うのですが、徐々にヒッタイト皇子カイル(ムルシリ2世)と惹かれ合ってしまい、現代の知識を生かしながら女神イシュタルそしてヒッタイト皇后としてヒッタイトの地で生きていくことに決め、ヒッタイトをオリエントの覇者へ導いていくというストーリーの愛と大河ロマンの少女漫画です。
ちなみに、赤い河は、ヒッタイトの首都ハットゥシャシュの近くやカッパドキアを流れるクズル・ウルマック川のこと。ヒッタイトを取り巻くミタンニやバビロニアやエジプトなどの関係が実在の人物や国を基に描かれていますので、古代オリエント世界のロマンを感じたい方に是非おすすめです!
【トルコのプロが解説】カッパドキアのおすすめ観光スポット16選とツアーの選び方
夢の雫、黄金の鳥籠
『天は赤い河のほとり』の作者・篠原千絵が現在連載しているのがこの『夢の雫、黄金の鳥籠』です。舞台はオスマン帝国最盛期スレイマン大帝の時代で、主人公は女奴隷としてオスマン帝国のハレムに入り、スレイマン大帝の妃となったアレクサンドラ、後のヒュッレム・スルタン。皇帝スレイマンと大宰相イブラヒムとの危険な関係、ハレムでの権力闘争の中で生きるヒュッレムの人生を描く、実在の人物を基にした歴史漫画です。なお、この篠原千絵さんは、サフランボルを舞台にした『暁に立つライオン』と言う短編サスペンスロマンも描いています。
ハレムは男子禁制の秘密の花園?!本来の意味やオスマン帝国ハレムの実態
将国のアルタイル
歴史漫画と思わせる戦乱ファンタジー。舞台はその名もトルキエ将国と言う国で、若きマームットが将軍(パシャ)となってヨーロッパを連想させる隣国バルトライン帝国とルメリアナ大陸の覇権をかけて戦っていく大戦物語です。全くのファンタジーですが、人名から国名までトルコ語の名前がオンパレード。それにともなって中世の中東の雰囲気が漂い、セルジューク朝やオスマン帝国のトルコを連想しまう漫画です。詳細までとっても綺麗な絵は壮大で、将国アルタイルの世界にどっぷりつかってしまう事間違いありません。