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トルコ旅行・ツアーブログ|トルコツアー旅行記

山田寅次郎とは?トルコで民間親善大使として活躍した日本人実業家の7つの偉業


日本は明治でトルコはオスマン帝国、まだ正式な国交がなかった時代、なんと20年もの間トルコの地で民間大使の役目を果たした日本人を御存じでしょうか?

その名は山田寅次郎。彼ほど日本とトルコの懸け橋として大きく貢献した日本人はいないでしょう。茶道宗徧流の第8世家元・山田宗有の名でも知られています。

大志を抱き、チャンスを物にし、トルコへ渡り自らの力で親善に尽くした山田寅次郎の生い立ち、トルコへ渡るきっかけとなった事件、トルコでの活動など、寅次郎に関してここで徹底解説致します。

1分で分かる!山田寅次郎の7つの偉業

山田寅次郎
  • オスマン帝国軍艦エルトゥールル号遭難事件に対する義援金1億円を集めて自らイスタンブールに届ける
  • 当時の皇帝アブドゥルハミド2世の依頼で士官学校の日本人教師に→のちのトルコ初代大統領アタテュルクも教え子だった
  • イスタンブールに日本との貿易事業を行う商店を開設し、20年にわたり日本とトルコの交流を支援
  • 日露戦争時にはイスタンブールの地でロシア諜報活動に従事して日本に貢献
  • 茶道宗徧流家元・第8世山田宗有として全国で茶道を広める活動を展開
  • 日本初のシガレットペーパーを製造し、製紙業の発展に貢献
  • 帰国後も日土貿易協会を設立するなど生涯トルコと日本の友好の懸け橋となった

山田寅次郎の生い立ち

寅次郎は、幕末の1866年(慶応2年)に沼田藩(現在の群馬県沼田市)家老職を務める中村家の次男として生まれました。8歳まで沼田で育った後、1881年(明治14年)14歳の時に、跡取りのいなかった茶道宗徧流家元山田家に養子として迎え入れられ、上京しました。

東京で茶道家元の跡取りとして育つも、書生として勉学に励み、茶道よりも言論界や政治活動や出版界に関わって奔走します。また、寅次郎はいつか海外で活躍したいと漢学や英語、フランス語、ドイツ語なども学びました。

そんな大志を持ち、また多感な青年期24歳の頃、オスマン帝国軍艦エルトゥールル号が紀州の海岸で遭難するという、彼の人生を一転させる事件が起こるのです。

山田寅次郎の人生を変えたエルトゥールル号遭難事件

エルトゥールル号遭難事件
オスマン帝国最初の親善訪日使節団656名を乗せた軍艦エルトゥールル号は、皇族の小松宮夫妻のコンスタンティノープル訪問に対する返礼としてオスマン帝国第35代(帝国最後の)皇帝アブドゥルハミド2世より日本へ派遣された軍艦です。

皇帝アブデュルハミト2世から明治天皇への親書と名誉勲章をのせて1889年7月14日にコンスタンティノープルを出港し、1890年6月7日日本の横浜港に到着。6月13日明治天皇への謁見任務を終えますが、その後船員がコレラに感染してしまい帰国が大幅に遅れます。

1890年9月15日、台風が近づいているにも拘らず、この日は天気が良かったためにエルトゥールル号は横浜港から出港し帰国の途に就きます。しかし、翌日9月16日に台風による強風と荒波により40ⅿのマストが折れ、ボイラー室の木炭倉庫が浸水し沈没の危険に接してしまうのです。

船員は必死にバケツで海水をすくい出し続けますが、残念ながらエンジンルームにも浸水し一つの炉が消えたことにより、船は静止してしまいます。強風と荒波に流されたエルトゥールル号は、1890年9月18日午後10時頃、紀州(現・和歌山県)の串本沖の岩に座礁し船員全員が海に投げ出され、遂に沈没してしまいました。

日本人による献身的な救護活動

陸に流れついた生存者の内の数名が夜中の暗闇の中、灯台の光を頼りに必死に数十メートルのがけを登り樫野埼灯台にたどり着き、オスマン帝国軍艦が遭難したことを知らせ、大島村(現在の串本町)総出で必死の救助と救護を行います。

69名は助かりましたが、軍艦司令官であるオスマン・パシャ准将を含めた計587名が亡くなるという未曽有の悲劇となってしまいました。

大島村民は貧しいにもかかわらず、自分たちの食糧を惜しみなく差し出し、トルコ人水兵達が村を離れるまで献身的に介護をしました。心身ともにボロボロになった生存者ですが、日本人の献身的な介護と親切さに涙しなかった者はいなかったと言います。

遭難事故の20日後の1890年10月5日に日本軍艦「比叡」と「金剛」の2隻が生存者69名を乗せてトルコへ向かい、1891年1月2日コンスタンティノープルへ送り届けました。

この遭難事故は1人の日本人青年を立ち上がらせ、トルコへと旅立たせるきっかけにもなりました。

トルコと日本の深い関係とは?エルトゥールル号遭難事件や交流の歴史

山田寅次郎、義援金を集めイスタンブールへ

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エルトゥールル号遭難は、日本中が衝撃を受け、新聞でも大々的に報じられ、義援金募集が始まりました。遠い地から来た人たちの痛ましい事故に衝撃を受けた寅次郎は、義援金募集の発起人の1人に名を連ね、殉教者家族と負傷した生還者たちの為に募金運動の先頭に立っていました。

寅次郎が義援金を集める活動に従事したきっかけは、エルトゥールル号の引き揚げに携わった潜水作業員と交流があったからだとされています。1年間の活動で集まったお金は5,000円、今の貨幣価値なら2,500万~3,000万円ほど(または1億円とも)になったといいます。

善意のお金を何とか届けたい。どのように届けられるかを時の外務大臣・青木周蔵に掛け合うと、「自身で届けてはどうか」とその使者に指名されたのが寅次郎でした。それと共に青木外相からは「両国の国交樹立の日のため、国情をよく見聞して来てほしい」とも助言されたとのことです。

1892年1月、26歳の寅次郎は日本海軍が手配した英国船で横浜港を出発します。途中、エジプトに立ち寄りピラミッドやスフィンクスを見物した後、アレクサンドリアから船でイスタンブールに着いたのは日本を発って3ヵ月後の4月でした。

寅次郎はオスマン帝国のコンスタンティノープルに着くや否や早速外務大臣サイド・パシャに会うことに成功し、無事に義援金を渡します。

サイド・パシャ外相との面会を手配してくれたのは、エルトゥールル号生還者を送還した「比叡」と「金剛」に同乗してトルコに渡り居残った“時事新報”の海外特派員で後に日本初のムスリムとなる野田正太郎です。

オスマン帝国皇帝からの要請でイスタンブールに滞在

山田寅次郎
その数日後に皇帝アブドゥルハミド2世に拝謁を許されるなど寅次郎は大歓迎を受けます。そして皇帝よりトルコと日本の修好と通商貿易を見据えて将来トルコを背負って立つ陸海軍の仕官に日本語を教えてほしいとの要請を受けます。寅次郎にとっては願ってもいないことであり、好奇心旺盛な寅次郎はすぐにトルコに留まることを決意します。

当時のトルコはオスマン帝国の威光が衰えを見せ始めていました。脅威は北のロシアと植民地を広げている欧米列強であり、極東でロシアと対峙していて占領されずに踏ん張っている日本と列強に占領されないよう抵抗しているオスマン帝国は、お互い不平等を強いられていることと、欧米からのアジアへの侵略を防ぐという思いが同じであったため、つながりを深めたいとの思惑があったと考えられます。

オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

寅次郎が日本語を教えた生徒の中にはトルコ初代大統領アタテュルクも!

アタテュルク
寅次郎は皇帝アブドゥルハミド2世の依頼で、イスタンブール滞在中に士官学校で日本語を教えていました。実はそのときの生徒の一人に、後にトルコを独立させてトルコ共和国を建国し初代大統領となるムスタファ・ケマル・アタテュルクもいたのです。

トルコ共和国となり1931年に寅次郎がイスタンブールに再訪し、ムスタファ・ケマルに招待されて面会した際に、アタテュルクより「先生。私のことを覚えておいででしょうか?自分は日本語を教えて頂いた士官学校生徒の一人です」と思い出を語られたのは有名な話です。

ちなみに、寅次郎はこの面会の際に東京ジャーミーへの資金提供をアタテュルクに掛け合ったと言われていますが、真偽はわかっておりません。

ムスタファ・ケマル・アタテュルク|トルコ建国の父の歴史と偉業

日土通商の基礎を築いた実業家、民間大使としての活躍

寅次郎のイスタンブールでの滞在は、数回の帰国した時期を除き、1906年に本帰国するまで約20年の長期に及びます。この間、寅次郎は皇帝へ茶道を披露するなど、日本の文化をトルコに紹介しつつ、宮殿の東洋美術品の整理を依頼されたことにより、トルコとオスマン帝国の文化的構造を学ぼうと尽力しました。

個人的には実業家として、オスマン帝国の優遇により商益権を確保し、日本とトルコの貿易事業を行うためイスタンブールのペラ地区のハゾ・プロ商店街(Hazzo Pulo Pasajı)に個人商店を開きます。

数年後に大阪中村商店の出資を受けて実家の名と偶然にも同じ「中村商店」を開き、貿易に従事します。この中村商店は、現在の新市街地イスティックラル通りにあるガラタサライ高校の隣にあり、シルクや陶磁器や漆器など日本商品を販売し、煙草や岩塩、羊毛、革などを日本へ輸出していました。

一番の商売相手はオスマン皇帝アブドゥルハミド2世が住んでいたユルドゥズ宮殿であったといわれています。また、中村商店は、オスマン帝国のエリートや知識人や芸術家にとって東洋美術のギャラリーのような役目も担っていたようです。

寅次郎と中村商店は、イスタンブールを訪れた官人・民間人問わず多くの日本人達の通訳をして便宜を図ったり、オスマン帝国皇帝との仲介訳になったりと奔走し、正に民間人大使として素晴らしい役割を務めました。

 
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山田寅次郎とアブドゥルハミド2世との友好

寅次郎は、アブドゥルハミド2世からの要請がきっかけでイスタンブールに留まったわけですが、最初の謁見の際に実家の中村家伝来の甲冑や太刀を献上しており、これらは現在トプカプ宮殿に展示されています。

トプカプ宮殿になぜ日本の物が?と知らない人は驚きますが、寅次郎がはるばる日本から持ってきた物なのです。大工仕事が趣味であったアブドゥルハミド2世のために特注の大工道具を持ってくることもありました。

また、元々1983年に寅次郎の滞在許可と商売の許可をアブドゥルハミド2世が後援したことで、寅次郎の現地での商売が可能となったのですが、中村商店の一番のお客は皇帝アブドゥルハミド2世でもありました。

アブドゥルハミド2世の要請で、寅次郎が日本から取り寄せてユルドゥズ宮殿の庭に植樹された柿木は、現在も健在です。また、ユルドゥズ宮殿の庭で当時最も貴重な鳥は、1892年に日本の皇族が皇帝アブドゥルハミド2世に送ったガチョウ、ペリカン、ウグイス、日本の雄鶏、日本コマドリであったと言います。アブデュルハミド2世は、寅次郎を通して多くの日本文化と芸術を取り入れていたのです。

日本からの外交官や重鎮がトルコに来た際は、寅次郎が皇帝との仲介役・通訳をしておりましたので、寅次郎はアブドゥルハミド2世と親しい関係を気づいていたことがわかります。

実際、寅次郎はアブドゥルハミド2世よりムスリム名である「アブデュルハリル(Abdülhalil)」の名が授けられ、寅次郎の貢献へ対して謝辞も示しております。また、トルコ人からは「アブデュルハリル・山田・パシャ」と呼ばれて親しまれていました。

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日露戦争における寅次郎の日本への貢献

1904年の日露戦争の際にイスタンブールにいた寅次郎は、ロシア黒海艦隊の動きを日本政府に伝えています。イスタンブールは、黒海艦隊の南下を見張る要地なのです。

寅次郎と中村商店はロシア諜報活動に全面協力をし、頻繁にガラタ塔に上り黒海からボスポラス海峡を通るロシア義勇艦隊の通過を調べて報告したと言われています。

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ガラタ塔

トルコでの経験を生かして日本帰国後は実業家として成功

1905年頃に日本に帰国した寅次郎は、実業家の井上氏と大阪の中村商店らと共同で東洋製紙株式会社を大阪に設立し、トルコから技術導入して日本で初めて巻き煙草を巻くためのシガレットペーパーを製造しました。

この事業は国内のシガレットペーパーの生産を独占する程に成功し、軌道に乗ります。 このように寅次郎は、イスタンブールだけでなく日本でも商売に成功し、長い間製紙業で関西の実業家として活躍します。

1923年57歳のとき、ずっと不在にしていた家業の茶道宗徧流家元を継ぎ、第8世山田宗有を襲名します。ここでも、全国で茶道を広める活動を積極的に行い、流派の組織化を進めて宗徧流の振興に尽力し続けます。また同時に、1927年には吹田製紙を創業し、その後も製紙業界で活躍し続けるのです。

山田寅次郎はその後もトルコと日本の懸け橋となり続ける

山田寅次郎
寅次郎の日本・トルコ間の親善事業は帰国後も終わりません。1911年45歳のときには、当時の近代的な日本人の目線でイスタンブールを解説した「土耳古畫観(トルコがかん)」も発行しています。

トルコ共和国建国後にトルコと日本の国交が成立して東京にトルコ大使が在住するようになると、1925年に大使と大阪財界を取り持ち「日土貿易協会」を設立して寅次郎は協会理事につき、またもトルコと日本の貿易に尽くします。1931年にはトルコを再訪し、現地から大歓迎を受け、招待により当時の大統領アタテュルクとの面会を果たしています。

残念ながらその後の第二次世界大戦勃発と共に、1939年には日本とトルコの通商関係は無くなってしまい、寅次郎はトルコとの関係が途絶えてしまいました。

その後、寅次郎は1948年82歳で製紙業界から引退し、茶道に専念します。トルコと日本をつなぐ民間大使の役目を果たした寅次郎は1957年、90歳で没しました。

山田寅次郎の子孫は?

寅次郎の子孫には、息子である宗徧流10世家元・山田宗囲がいます。宗囲は1975年に家族を連れてトルコを訪問し、現地で大歓迎されたとそうです。

このときに同行した寅次郎の孫にあたる和多利月子は、2015年に山田寅次郎研究会を立ち上げ、実家に残されていた資料をもとに寅次郎の足跡をたどり、その功績を伝える活動をしています。

トルコ旅行に行った際にはぜひ山田寅次郎の功績を思い出して!

根っからの実業家でトルコと日本の懸け橋として人生を駆け抜けた山田寅次郎。

トルコを訪れるとトルコ人の日本人に対する親しみを大いに感じるかと思いますが、その礎を築いたのが寅次郎であり、現在でも日本とトルコは友好国として彼の思いは引き継がれております。

寅次郎の様にトルコであなたの人生も変わるかもしれません。是非、親日国であるトルコに足を運んでみて下さい。その際は、トプカプ宮殿にある山田寅次郎ゆかりの品をご覧いただくこともお見逃しなく。

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