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イスラム教の創始者ムハンマドは最後の預言者|その生涯は?


イスラム教の創始者と言えば「預言者ムハンマド」です。ムスリムが少ない私たち日本人にとっては、ムハンマドという名前を知っていたとしても、彼がどういう人物だったのかは謎多きままです。
ムハンマドはいつどこで誕生し、どのようにして預言者となりイスラム教を誕生させたのか?預言者ムハンマドについて徹底解説します。

預言者ムハンマドとは?

イスラム教
ムハンマドは570年頃に、今やイスラム教最大の聖地である「メッカ(Mecca)」(現在のサウジアラビアの都市)で誕生しました。そして後に、言わずと知れたイスラム教の創始者となりました。
しかし、ムハンマドはイエス・キリストのような“神の子”として誕生したわけではありません。
そんなムハンマドがどのようにして、今や世界で2番目の信者数を誇るイスラム教を誕生させたのか?ムハンマドの生い立ちからイスラム教の成り立ち、そしてその生涯までを詳しく解説していきます。

生い立ち

生い立ち
ムハンマドは570年頃(日付不明)に、父アブドゥッラーと母アーミナの子として誕生しました。しかし、父アブドゥッラーはムハンマドの誕生前に亡くなってしまいます。母アーミナはアブドゥッラーの父アブドゥルムッタリブに夫の子として認知してもらったといいます。ムハンマドの祖父アブドゥルムッタリブは、メッカを支配するクライシュ族のハーシム家という名門の一族で、ムハンマドもその一員として生まれました。
やがて、母アーミナもムハンマドが6歳のときに亡くなってしまい、ムハンマドは孤児となってしまいました。
当時のメッカでは、父系の氏族が血縁者を庇護する帰属集団が構成されていました。孤児となったムハンマドは叔父のアブー・ターリブに預けられ、実父の兄弟に守られながら成長していきました。

最初の結婚

商人をしていた叔父アブー・ターリブを手伝いムハンマドも商人となります。ムハンマドが25歳のとき、同じ商人として成功をしていた未亡人の女商人ハディージャという女性が、真面目で優しいムハンマドの人柄に惹かれムハンマドに結婚を申し込みます。ムハンマドはそれを受け入れハディージャと結婚します。ハディージャは3度目の結婚、ムハンマドは初婚でした。やがて2男4女をもうけ、商売も成功し、ムハンマドは幸福な家庭を築いていきます。
ハディージャはその後、イスラム教のムスリム第1号にもなります。

ムハンマドへの最初の啓示

ムハンマドへの最初の啓示
40歳ぐらいからムハンマドはメッカ社会の現状を憂いて、しばしメッカ郊外のヒラー山の洞窟に籠り瞑想するようになります。そして610年のある夜、40歳のムハンマドに突然の転機が訪れます。

いつものように洞窟で瞑想をするムハンマドの前に突然天使ガブリエル(アラビア語ではジブリール)が現れ、神の啓示を伝えたのです。その時に伝えられた啓示はコーラン第96章の1節から5節に下記の内容で記されています。

誦め、「創造なされる御方、あなたの主の御名において。
一凝血から、人間を創られた。」
誦め、「あなたの主は、最高の尊貴であられ、
筆によって(書くことを)教えられた御方。
人間に未知なることを教えられた御方である。」

異常体験に恐怖したムハンマドは急いで山を下り、妻ハディージャにこの事を伝えます。ハディージャはムハンマドの誠実な人柄を知っていたため、その日に起きた出来事を信じます。そして、ハディージャのいとこのキリスト教徒に諭されると、自分が預言者であることを自覚し、神(アッラー)の言葉を人々に伝えることを決意します。

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イスラム教の誕生

イスラム
ムハンマド40歳(610年)のある日に突然訪れた、天使ガブリエルによる啓示。これによりムハンマドは預言者として神からのメッセージを人々へ伝えていくことを決めます。
ムハンマドは啓示体験に基づいて、自分が預言者であること、神は唯一であり創造神であること、死後に来世が待ち受けていること、この世のおこないに基づいて神の裁きがなされ、来世での行き先が決まることなどを人々に伝えていきました。クライシュ族の多くはこのような主張を馬鹿げたことと嘲笑しましたが、ハディージャ、アリーといった身内だけでなく、ハーシム家の人々も徐々に入信するようになっていきました。
最初の3年間は親類や友人のみに、神の教えを説いていました。その頃の信者は30人程度だったと言われています。

ムハンマドは教育を受ける機会がなかったので、読み書きができませんでした。ところが、ムハンマドの説く教えは詩のように美しかったのです。当時、詩人はアラブ世界では尊敬されていて、美しい詩を作れることは才能のひとつだと考えられていました。読み書きができないムハンマドが、ありえないほど美しい言葉で語ったため、人々は本当にムハンマドが神から言葉を預かってきたのだと考えるようになったのです。

イスラム教の布教と迫害

ムハンマドは自分の生まれた地メッカで布教活動を開始します。ところが、当時のメッカは多神教で、その偶像が崇められており、詩人やシャーマンが神やジン(精霊)といった超常的存在を媒介する役割を演じていました。そんな中で、ムハンマドが説く一神教は理解しがたいものでした。その上、ムハンマドは「裕福な人々は、財産を貧しい人のために寄付しなさい」と説いたために、裕福な人々はイスラム教の教えを受け入れようとしませんでした。むしろ、受け入れられるどころか、ムハンマドや信者を迫害し始めます。
イスラム教は中傷から迫害へと変わり、ムハンマド自身も重症を負っただけでなく、信者や彼の親戚も食べる物すら無いような状況に追い込まれていきました。

619年頃になると、叔父のアブー・ターリブと妻ハディージャを相次いで亡くします。この2人の死をきっかけに、メッカでのクライシュ族の迫害は過熱し、このような状況下でムハンマドは、信徒集団全体でのメッカからの逃亡を決意します。
クライシュ族の迫害の理由に、クライシュ族はメッカのカーバ神殿に神々の偶像を集め、多くの利益を得ていたことも一因と言います。
なお、2人が亡くなった619年は「悲しみの年」としても知られています。

メディナへの聖遷(移住)|622年~

メディナへの聖遷
クライシュ族による迫害が激化する中、ムハンマドはメッカ外での布教活動に力を入れていました。そのような状況でムハンマドの説教を聞きに来ていたメディナ(当時は「ヤスリブ」)の町の人々が、ムハンマドと信者たちを受け入れることになりました。何故なら、メディナでは部族同士の戦いに明け暮れ、町が荒廃してしまい、町の人々を団結させるような指導者を必要としていたためです。こうしてムハンマドは、メッカの反対勢力の追跡の手を逃れてメディナの町に脱出することとなったのでした。

ムハンマドは70人余りの信者たちをメディナに移住させた後、ムハンマド自身もアブー・バクル(後の初代正統カリフ)と共にメディナに移住します。
この、ムハンマドがメディナへ移った日622年7月15日をイスラム教では「ヒジュラ」(聖遷)と言い、イスラム暦(ヒジュラ暦)の元年ともなっています。

メディナの町の人々はムハンマドたちを温かく迎え入れましたが、メッカの反対勢力はそれをすら快く思わず、彼らを滅ぼすために何度も大軍を送ります。メッカから軍勢のほうが数では上回っていたにもかかわらず、ムハンマドとメディナに人々はなんとか持ちこたえ、最終的にはメッカからの軍勢を追い返すことに成功しました。
この段階で初めて、メッカからの移住者たち(ムハージルーン)約70名とメディナでの改宗者たち(アンサール)約80名からなる信徒たちのイスラム共同体「ウンマ」が成立しました。
そして、最初のモスクが建設され、イスラム教に基づく日常生活が営まれ、後のイスラム社会や国家の原型となりました。こうして、メディナはイスラム教徒の町として繁栄することになったのです。

再びメッカへ|630年~

イスラム教
初期のメッカで布教活動を行っていた時期は、ムハンマドたちは平和的な布教しかおこなわず、迫害にも耐えるのみでしたが、メディナへ移住した頃になると、下記などの異教徒に対する聖戦(ジハード)を許容する啓示が下ります。

「まことに信仰する者、そして移住し、神の道でする者、それらの者は神の御慈悲を期待できよう」(コーラン第2章218節)

これにより、ムハンマドは自ら兵を率いてメッカの多神教徒勢力を戦うことを決意し、その結果行われた最初の大規模な戦闘が624年の「バドルの戦い」でした。この戦いに勝利したムハンマドは、翌625年の「ウフドの戦い」での苦戦も乗り越え、627年にはメディナに襲来したメッカ軍を、塹壕を使った戦術で撃退しました。
そして630年には、ムハンマドは1万の大軍を率いてメッカに向かいました。
メッカの反対勢力はその大軍を見て抵抗をあきらめ、戦わずしてムハンマドたちがメッカに入ることを認めました。無血開城に成功したムハンマドはカーバ神殿に祭られていた、多神教の神々の像を破壊し、カーバ神殿をイスラムの聖地として定めたのでした。
そして、クライシュ族の指導者アブー・スフヤーンをはじめとする多神教徒はことごとくイスラムに改宗していきました。

メッカやメディナのあるアラビア半島で1万もの兵力を集めた戦いは、数百年以上もなかったほど大規模なものでした。ムハンマドの勝利は瞬く間に広がり、これ以後、全アラビア半島の指導者たちがムハンマドのところに使者を送るようになりました。
こうして、イスラム教はアラビア半島全体に伝わっていきました。

ムハンマドの最期

ムハンマドの最期
ムハンマドはメッカをイスラム教の聖地と定めますが、ムハンマド自身はその後もメディナに住み続け、イスラム共同体の確立に努めていました。
632年、ムハンマドはメッカへの“大巡礼”を行います。このとき、ムハンマド自らの指導によってイスラム教の五行である「信仰告白(シャハーダ)」・「礼拝(サラート)」・「断食(サウム)」・「喜捨(ザカート)」・「巡礼(ハッジ)」が定められました。

メッカへの大巡礼を終えメディナに戻るとムハンマドは病に倒れます。
そして632年6月8日、アラビア半島から異教徒を追放するように、自分の死後もコーランに従うようにと遺言を残して、メディナの自宅で亡くなりました。およそ62年間の生涯でした。

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ムハンマドのお墓|預言者のモスク

632年に自宅で亡くなったムハンマドは、その場所で埋葬されました。ムハンマドの墓は現在では「預言者のモスク」の一部となっており、南東の角のモスクで唯一緑色をしているドームの下にあります。
説教壇とムハンマドの墓の間にあるエリアは、楽園の庭園の1つである「ローダ・アッシュ・シャリファ(高貴な庭園)」として知られ、ここで唱えた祈りは“受け入れられないことはない“とされています。
メディナはメッカに次ぐイスラム第二の聖地となっており、その街の中心部に預言者のモスクはあります。後に各地で建設されるモスクの原型は、この預言者のモスクです。1909年にはアラビア半島にある建物で初めて電灯が設置され、その後の増改築を重ねて現在の規模となりました。

なお、メディナは英語で「Medina」と表記されますが、正式名称は“預言者の町”を意味する「アル・マディーナ・アル・ムナウワラ」になります。

預言者ムハンマドの妻たち

ムハンマドは生涯に12~13人の妻を持ったと伝えられています。生涯独身であったイエスや、妻子を捨てて出家したブッダとは違い、ムハンマドは家庭人であり続けました。預言者伝やハディース集は人間味があふれるエピソードに満ちています。男性信徒にとってのムハンマドはイエスやよりも身近で親しみやすい存在であり、自分が息子、夫、父として日常生活を送る上での模範になりやすかったのです。
またムハンマドの妻たちも「信徒たちの母」と称され、娘、妻、母として女性信徒のあるべき姿を示す規範として後世に広く影響を及ぼしています。
数いる妻たちの中でも特にムハンマドが愛した代表的な2人の妻を紹介します。

最初の妻|ハディージャ

前述にもあるように、ムハンマドの最初の妻は25歳のときに結婚した、賢妻として知られる15歳上の女商人「ハディージャ・ビント・フワイリド」でした。ムハンマドはハディージャとの結婚によってようやく安定した生活が送れるようになりました。そして、家庭の温かさ始めてもたらしてくれたのもハディージャでした。
またハディージャは、ムハンマドに嫁いだ妻たちの中でムハンマドの子を残した唯一の妻でもありました。
当時のアラビア半島では一夫多妻制が典型的でしたが、ムハンマドはハディージャを心から愛し、ハディージャが亡くなるまでの25年間、他の誰とも結婚しませんでした。

ハディージャは常にムハンマドを支え、ムハンマドが40歳の時に受けた最初の啓示の際には、異常体験に恐怖したムハンマドを静かに受け入れ励ましていました。そしてイスラム教で最初のムスリムとなりました。
イスラム教の布教活動を始めて以降、何年もの迫害の受難を耐えてきたムハンマドの隣には、常に温かく見守る妻ハディージャの存在がありました。
619年、ムハンマド48歳の時にハディージャはメッカでムハンマドに看取られて63歳の生涯を閉じました。

ハディージャの亡き後、ムハンマドは12人ほどの妻を次々と迎えますが、ハディージャほどムハンマドの心に深く住み着いた女性はいなかったと伝えられています。

最愛の妻|アーイシャ

ハディージャに先立たれたムハンマドは51歳の時に新しい妻を迎えます。ムハンマドの親友でもあるアブー・バクルの娘「アーイシャ・ビント・アブー・バクル」です。アーイシャはムハンマドの3番目の妻でした。623年に寡婦サウダとともに婚姻契約を結びますが、当時のアーイシャの年齢はなんと6歳!実際の結婚生活に入ったのは、アーイシャが9歳になってからでした。アーイシャは他の妻たちの中で自分が唯一処女のまま嫁いだことを誇りに思っていたと言います。

アーイシャは亡き前妻ハディージャについてこう言っていました。
――私は預言者の妻たちの中で、ハディージャに対するほど嫉妬を覚えたことはありません。彼女に会ったことはないのですが、預言者はしきりと彼女の思い出話をするのでした。時には私も彼に「あたかもこの世にハディージャしか女性がいないみたいです!」と不満を言うのでした。――

そんなアーイシャに、ムハンマドは時に厳しい態度を取ることもあったそうですが、彼女の家柄や可愛らしさだけでなく、その聡明さを好み、最愛の妻であると明言していました。
そしてムハンマドは、アーイシャの膝の上でその生涯を閉じました。アーイシャがムハンマドと共に過ごした期間はわずか9年間でした。
アーイシャはムハンマドの亡き後、自身が亡くなる66歳までイスラムの教えを人々に示し続け、イスラムの発展に深く寄与したと伝えられています。また、ムハンマドに近侍したことから彼の言行をよく記憶しており、2210にも及ぶハディースや伝承を伝えたとされています。

預言者ムハンマドの子供たち

イスラム
ムハンマドは生涯で7人の子供を得たと伝えられています。そのうちの6人は、最初の妻ハディージャとの間にもうけた2男4女でした。しかし、2人の息子、アルカースィムとアブドゥッラーは幼少時に亡くなってしまいます。そして4人の娘、ザイナブ、ルカイヤ、ウンム・クルスーム、ファーティマですが、末娘のファーティマを除いて、3人の娘たちは短命で、ムハンマドの生前に亡くなっています。
そして7人目の子供は、晩年にエジプトのコプト人奴隷マーリヤとの間にもうけた3男イブラーヒームになります。高齢で且つ待望の息子でしたが、イブラーヒームも2歳になる前に亡くなってしまいます。男児を尊重する社会においてムハンマドは一人の息子にも恵まれませんでした。
ここでは7人の子供たちの中で成人した4人の娘たちについて紹介します。

長女 ザイナブ

ザイナブは、母ハディージャのいとこアブ・アル・アスと結婚します。母ハディージャは結婚式のプレゼントにオニキスのネックスをプレゼントとして贈ったそうです。クライシュ族が夫アブ・アル・アスに対してザイナブと離婚するよう圧力をかけ、代わりに好きな女性を彼に与えると言った際、アブ・アル・アスは“他の女性は望んでいない”と述べ、これに対してムハンマドは彼を称賛します。アブ・アル・アスは当初イスラム教への改宗を拒否していたにもかかわらず、これによって彼らは一緒に暮らし続けていました。
ザイナブとアブ・アル・アスは2人の子供をもうけますが、いずれも子供時代に亡くなってしまいます。そしてザイナブ自身も病によって30歳という若さで亡くなってしまいました。

次女 ルカイヤ

ルカイヤは非常に美しいと言われていました。ルカイヤは後の第3代正統カリフ、ウスマーンと結婚し、ウスマーンとの間に息子アブドゥッラーをもうけます。ですが、ルカイヤは624年に23歳の若さで病によって亡くなってしまいました。そして、626年には息子アブドゥッラーも6歳で亡くなってしまいます。
夫ウスマーンはハンマドの妻ハディージャに次いで2番目にムスリムになった人物として数えられています。ウスマーンが改宗した理由に、ルカイヤに恋焦がれていたためだとも言われています。

三女 ウンム・クルスーム

ウンム・クルスームは次女ルカイヤの夫だったウスマーンと結婚します。ルカイヤを亡くした悲しみから立ち直れないウスマーンを慰めるために、625年末にムハンマドがルカイヤの妹であるウンム・クルスームを娶らせました。しかし、ウンム・クルスームも630年に27歳の若さで亡くなってしまいます。2人の間に子供はいませんでした。
夫ウスマーンは、ムハンマドの娘2人と結婚したことから、「二つの光の持ち主」とも呼ばれています。

四女 ファーティマ

4人の娘たちの中でも特にムハンマドからの寵愛を受けていたのが、末娘のファーティマと言われています。
アブー・バクルとウマル、その他数名がファーティマと結婚をしたがりますが、父ムハンマドはそれを許しませんでした。しばらくして、神がムハンマドの従兄弟にもあたるアリーとの結婚を命じたと語り、ファーティマは後の第4代正統カリフとなるアリーと結婚します。その後アリーは、ファーティマが亡くなるまでの間、他の誰とも結婚しませんでした

ファーティマについては、ムハンマドの妻アーイシャは次のように伝えています。
――預言者は、やがて世を去る病にあった時、娘のファーティマを枕元に呼びました。彼が彼女に小声で何かを言うと、彼女は泣きました。それから、再び彼が彼女を呼んで、小声で何かを言うと、彼女は笑いました。私はそのことについて彼女に尋ねました。すると彼女は言いました。「預言者が私だけに小声で話をした時、彼は最期の病で間もなく亡くなると告げたのです。ですから私は泣きました。そして彼が、一族の中で私が最初に彼の後を追うと告げたので私は笑いました。」――

その後、ファーティマはムハンマドが告げたとおり、ムハンマドの死後わずか数ヶ月で後を追うように亡くなってしまいます。ファーティマの亡くなった理由についてはいくつか伝えられており、スンニ派では父親の死に対する悲しみで亡くなったと伝えら、シーア派ではアブー・バクルとウマルによる攻撃による負傷で亡くなったと伝えられています。

シーア派ではファーティマは大変尊敬をされている存在であり、ムハンマドの寵愛を受けていたころから、理想の女性の象徴ともみなされています。そして、イスラム教で最も有名な女性の名前の1つともなっています。

ムハンマドの子孫

ムハンマドは男児に恵まれなかったため、娘婿で従兄弟のアリーがムハンマド家の後継者となります。ムハンマドは生前、自身の家族について問われた際に、最愛の妻であるハディージャ、その間の娘ファーティマとその夫アリー、そして2人の間の息子ハサンとフサインを挙げ、彼らこそが自分の家族であると述べていました。この発言は、アーイシャや他の妻たちは苦々しく思っていたと言います。

そして、ムハンマドの血は、末娘ファーティマの子孫たちによって後世に引き継がれました。ファーティマとアリーの子孫は「お家の人びと(ムハンマドの子孫)」と呼ばれています。アラブの系譜は男系主義ですが、ムハンマドの子孫は末娘のファーティマを通じた子孫なので、男系主義の原則とは異なっています。
アリーとファーティマの間に生まれた長男ハサンと次男フサイン。2人の息子はそれぞれシーア派の第2代、第3代イマーム(指導者または模範となるべきもの)となりました。
後に、ムハンマドの子孫は「ハサン」系と「フサイン」系に分かれています。(例えば、モロッコの王家やヨルダン王家はハサン系です)

余談ではありますが、数年前に“エリザベス女王は預言者ムハンマドの子孫”という説が浮上したことがありました。エリザベス女王の血統を40代まで遡ったところ、ムハンマドの末娘ファーティマに繋がることが判明したというものです。これは、1980年代にも英王室の系譜を記す「バーク貴族名鑑」の調査でも判明していたと言われています。しかし立証はされていないため、真相の究明が待たれます。

預言者ムハンマドの2人の養子たち

ムハンマドは実子だけに限らず、2人の少年をも家族に迎え入れていました。ムハンマドはこの2人の少年たちに深い愛情を注ぎ、自分の息子のように扱っていました。

1人目は、ムハンマドとハディージャの結婚式の日、ハディージャがムハンマドに贈った北方部族出身の若い奴隷ザイド・イブン・アルハーリサです。ザイドは新しい主人を大変慕うようになります。ザイドの家族が引き取りのために身代金を携えてメッカにやって来たとき、ムハンマドの許に留まることを許してくれるよう懇願したほどでした、ムハンマドはそんな彼を養子にして自由を与えました。

そして2人目はその数年後。叔父のアブー・ターリブが財政難に陥ると、ムハンマドは叔父の負担軽減のために、自身の従兄弟にもあたる5歳の息子アリーを引き取ります。この時に引き取ったアリーは、後にファーティマの夫となり、第4代正統カリフにもなりました。

ムハンマドの言語録「ハディース」

コーラン
イスラム教の聖典には「コーラン」がありますが、このコーランに次ぐ「ハディース」と呼ばれる第2の聖典も存在します。このハディースとは、預言者ムハンマドが日常生活の中で語った言葉や言動についての証言がまとめられた、言わば“ムハンマドの言語録”です。しかし、ハディースはすぐに作られたわけではなく、ムハンマドの死後200~250年も経ってから書物にまとめられました。

ハディースには日常生活や信仰に関わる様々なことについて記されています。
ほんの一例ですが、日常生活に関連することについては、ハディースに“ムハンマドがヒゲを生やしていた”と書かれていることから、ムスリム男性にはヒゲを生やす人が多いです。
また、“ムハンマドが猫を愛した”と書かれていることから、イスラム圏では猫が大変可愛がられています。
信仰についても、礼拝方法から信仰生活について広範な模範・遵守すべき慣行(スンナ)を提示しています。
このように、ムハンマドはムスリムにとって模範であり、そのムハンマドの言語録であるハディースはコーランと同じで、ムスリムにとってはとても大事な「生きる指針」なのです。

ムハンマドの肖像画がない理由

イスラム教において偶像崇拝は禁忌とされており、神は可視化してはならないとなっています。しかし、イスラム教の聖典コーランには、厳密にムハンマドの肖像を禁止する記述はありません。ですが、コーランではこう記されています。

「そしてムハンマドは一人の使徒に過ぎず、かつて彼以前にも使徒たちが逝った」(コーラン第3章144節)

こう明言されているように、預言者ムハンマドはただの死せる人間とされています。このことは、キリスト教徒が“神の子”イエスに寄せるほどの祟敬や思慕をムハンマドが集めていないことを意味するわけではありません。
ではなぜ、肖像画が存在しないのでしょうか?

それは、第2の聖典ハディースでムハンマドの外見について視覚的に描写することを禁じているからです。
これにはキリスト教を意識していることが考えられています。キリスト教ではイエス・キリストを偶像化して偶像崇拝を認めた結果、唯一絶対神だけを崇拝するはずがイエスまでを崇拝するようになってしまったからです。そのため、ムハンマドを描いた絵画は、ムハンマドへの個人崇拝を排するためにも、顔に布をかけた姿などで描かれているのがほとんどとなっています。 

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2005年にデンマークの「ユランズ・ポステン」紙が、2015年にはフランスの「シャルリー・エブド」紙がムハンマドの風刺画を掲載すると、世界中のムスリムが激しく反発して大きな問題となりました。
これに関してイスラム教の教義上で問題となったのは、ムハンマドの顔を描くことではなく、ムハンマドを侮辱したことでした。預言者の冒涜は死刑が科されることもあるほどの重罪なのです。
実は、ムハンマドの顔を描くことは教義上のグレーゾーンにあり、その扱いは曖昧でした。伝統的には、月が割れる奇蹟の挿絵に見られるように、預言者への敬意と偶像崇拝の忌避のために顔を描かないのが一般的でしたが、しばしばムハンマドの顔は描かれ、近現代になっても顔を描く事例がないわけではありませんでした。

ムハンマドの聖遺物(遺品)について

ムハンマドの聖遺物
イスラムにおいて、聖者の聖遺物(遺品)のことを「アーサール(またはアサル)」と言います。イスラム教では、預言者ムハンマドのほか、ムハンマドの家族とその子孫や教友、スーフィーと呼ばれる高名な神秘学者など、神の恩寵(バラカ)を授けられたとされる人々も聖者として崇拝されます。イスラム教の聖遺物は大部分が預言者ムハンマドに由来するとされる物ですが、ムハンマド以外のこれら聖者に関連する聖遺物もアーサールとされます。

アーサールは大きく分けて、「聖者の遺体の一部」と「聖者の使用した道具や衣類など」の2種類に分けられます。遺体の一部であるアーサールについては、遺体そのものを指すものではなく、毛髪・ヒゲ・歯・爪・足跡など、生活の中で体から出たものが対象とされています。ムハンマドの生前時には、預言者の汗や唾液も重要視されていました。
対して、道具や衣類に関するアーサールには、道具として弓矢・刀剣・お椀・沐浴容器などが、衣類として外套・シャツ・下着・ターバン・サンダル(履物)・杖などがあります。
また、その他のアーサールとして、聖戦に使われた軍旗と預言者の印章、預言者の手紙やコーランを書き留めた鹿皮などがあります。

アーサールは、モスクや聖者廊などで保管されており、常時または特別な機会に公開されます。ただし、イスラム教では遺体の公開は使者に対する冒とくとされているため、聖者やそのお墓は崇拝の対象であっても、聖者の遺体がカトリック教会のように聖遺物として公開されることはありません。
これらのアーサールは主に、トルコ、インド、パキスタンを中心に保管されており、最も多く保管されているのがトルコのイスタンブールにある「トプカプ宮殿」とされています。
ここではアーサールが多く保管されているトルコにおいて、誰でも気軽に訪れることの出来るアーサールが保管された代表的な2つの場所を紹介します。

トプカプ宮殿(トルコ/イスタンブール)

ムハンマドの聖遺物
トプカプ宮殿は言わずと知れたイスタンブールの代表的な観光地のひとつです。ボスポラス海峡をも望む小高い丘に、15世紀の半ばから20世紀初頭にかけて、強大な権力を持っていたオスマン帝国のスルタン(皇帝)の居城として建設され、オスマン帝国の中心地として栄えていました。
現在は博物館として公開され、側室の女性たちの生活の場であったハレムや、ダイヤモンドやエメラルドなどの宝石をあしらった豪華な宝飾品や美術工芸品の数々などが見学できます。

世界遺産トプカプ宮殿はイスタンブールで見逃せない観光名所!見どころを徹底解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

そんなトプカプ宮殿内にあるスルタンの私室には、ムハンマドが身に着けていたといわれる外套、剣、弓、歯やヒゲなどといった聖遺物がトプカプ宮殿の至宝として収められています。また、ムハンマドが使用していたとされる軍旗もトプカプ宮殿の至宝として保管されており、オスマン帝国のスルタンは戦場に出る際にはこの軍旗を使用して、兵たちの士気を高めていたと言われています。
他にも、コーランの最初の写本のうちの一冊に、メッカのカーバ神殿の各時代の鍵、黒石を保護するための金属製の覆いや、カリフや級友たちの剣も展示されています。

これらは、オスマン帝国のスルタン、セリム1世が16世紀初頭にエジプトを征服した際、そこにいたアッバース家最後のカリフから譲られた聖遺物や、そこから19世紀末まで段階的に集められたイスラム関連の宝物がトプカプ宮殿にもたされ、それらが保管されています。オスマン帝国のスルタンは、イスラムの最高権威であるカリフの地位を兼ねていたこともあって、トプカプ宮殿には大変貴重な聖遺物が並んでいます。

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名称 トプカプ宮殿(Topkapi Palace Museum)
住所 Cankurtaran, 34122 Fatih/İstanbul, Turkey
営業時間 9:00~16:45(冬季:10月30日~4月15日)
9:00~18:45(夏季:4月15日~10月30日)
定休日 火曜日
公式サイト https://www.millisaraylar.gov.tr/en/palaces/topkapi-palace

メヴラーナ博物館(トルコ/コンヤ)



旋舞教団として知られるイスラム神秘主義の一派、メヴレヴィー教団の創始者メヴラーナ・ジェラールッディン・ルーミーの霊朝で、13世紀末に造られました。その後の1925年にトルコの初代大統領アタテュルクの命令によって、建物内にあった修行場は閉鎖、教団も解散させられます。1927年以降、霊朝は博物館として一般公開されました。

博物館内には、創始者メヴラーナの棺をはじめとする多くの棺が並び、メヴラーナの語った韻文を能書家が書いた碑文とプレートが掲げられ、メヴラーナの愛用品や衣服、セルジューク朝時代やオスマン朝時代の工芸作品やコーランの写本などが展示されています。
そして、館内中央のガラスケースに“ムハンマドのあごひげが収められている小箱“が置かれています。
ケースの横には小穴があり、そこから匂いを嗅ぐ人もいます。小箱は開けると薔薇の香りがすると言われています。

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