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織物と人の暮らし:その歴史

太古の昔、人類がこの世に誕生して以来、ひとは厳しい自然環境の中でさまざまな試行錯誤や学習を繰り返し、知恵を身につけてきた。

暑さ寒さから身を守るために衣服を身にまとったのもそのひとつである。最初は動物の毛皮をはいで乾かし、身をくるんだのだろう。織物を覚えたのは人類の歴史の大きな進歩のひとつだった。その初期の頃は樹皮や草皮繊維を編んだ単純なものだったが、やがて素材の幅も広がり、さらには美意識が芽生えてくる。

人類初期の歴史における織物の発達の様子は、財界各地の古代遺跡から推察することができる。初歩的な織物は地域に関わらず、たで糸と横糸を組み合わせたごくシンプルなちのである。古代文明の発祥の地のひとつ、エジプトのナイル河流域では紀元前5500年から4500年前に織物が始まっていたという。

シリアの地中海岸や、ペルシャ湾でもかなり早くから織物が行われていた。

トルコについて見てみよう。

トルコのアナトリア中央部にチャタルフユックの遺跡がある。アナトリアとはアジアとヨーロッパにまたがる今日のトルコ共和国のアジア側国土をさす。アジア大陸が西に向かって大きく突き出し、北は黒海、南はエーゲ海と地中海に囲まれた広大な半島である。その地理工の特徴から推察できるように、アナトリアは古来から東西南北の交通交易の通過点として様々な文明が行き交う土地だった。行き交うばかりではなく、そこに住み着き、文化を生み育てる人々がいた。チャタルフユックはそのアナトリア高原の中央部、コンヤの町の南東に位置している。

世界最初の集落遺跡として知られるこの重要な遺跡には幾つもの層が重なり、大きな変化のない原始的な生活が数千年間も延々と続いたことを物語っている。

紀元前6000年代、新石器時代からの素朴な女神像や土器、石器、装飾品などが大量に出土している。最近の発掘では、様々な技法の織物が織られていたことち明らかになった。これにより、機織りの起源がそれまで考えられていたよりも更に古いことが判明した。

ごく最近の考古学的凋査によると、チグリス川の源流近く、南東アナトリアの中心都市ディヤルバクル近郊のチャイオニュでは、更に古いおよそ9000年前の布が発見されている。布地は遺物として非常に残りにくいものだが、鹿の角を包んでいたこの亜麻布は、角から侵み出たカルシウムのおかげて腐食を免れ、長い歴史を経て保存されてきたものだった。

中央アナトリアのブルドゥルの南東に位置するハジラルは後期新石器時代の遺跡である。ここの発掘もまだ完了には程遠いが、粘土で作った紡錘車(糸によりをかけるためのはずみ車)なども発見されている。又、ハジラルの住民は当時からすでに農耕を知っていたことも判明した。

紀元前2800年頃の銅石器時代の遺跡であるユルムクテペからは織機の台の一部が確認されたし、地中海岸のダル犬ス近郊にある青銅器時代の遺跡のひとつ、ギョズルクレからは織機を支えていたらしい大きな石が発見された。

機は普通、木製だから完全な形で残されることは難しいが、これらはアナトリアの機織りの歴史を解明する上で非常に重要な発見といえよう。

アンカラの東およそ200kmに位置するアラジャフユックは青銅器時代の文化を伝える重要な遺跡として知られる。ここでは紀元前3000年から2000年頃の銀の糸巻き棒が発見されている。

その近くのハットゥシャシュ(今日のボアズキョイ)は紀元前1800年頃から1200年頃に栄えた大帝国ヒッタイトの都だった。その遺跡から宗教や法律、商取引に関する粘土板文書が大量に出土し解読された。中には職人や芸人の給与について、あるいは繊維や生地の価格についてなどが記されたものもあった。

当時の織りの技法や素材、質や厚みの異なる様々な織物について今日、我々が知ることができるのも、これら楔形文字文書解読のおかげである。

中央アナトリアのカイセリ近郊にキュルテペの遺跡がある。紀元前1950年頃から1200年頃まで、つまりヒッタイト時代以前から、アナトリアと東の大国アッシリアとの交易都市として栄えた町カネシュだった。ここで出土した文書から当時の活発な商工業の様子をうかがうことができる。例えばウシュル サという名の商人が、アッシリアの布地3クタヌを購入し、カネシュの倉庫に蓄えていたという。それぞれの産地の名をつけた特産ホームスパンの織物についての記述も興味を引く。アジェムフユックの遺跡からもアナトリアの織物の歴史を解明する上で興味深い遺物が発見されている。ここの第10層からは非常に保存状態の良い日干しレンガの住宅が何軒か発掘され、石造りの家具や事務を取った部屋機織り部屋の跡も確認された。

アンカラの南に位置するゴルディオンは、有名な黄金伝説などで知られるミダス玉の国フリギアの都だった。ここではラグの一種スマクやジジムを輸出していたという。フリギア王国が栄えたのは紀元前7世紀のことであり、そこからアナトリアにおけるラグの歴史を知ることができる。エスキシェヒルの片田舎に今も残るミダス王のモニュメント、その岩のファサードはラグと同じデザインで知られている。

織物の中でも特にキリムやじゅうたんに関するエピソードを歴史から拾ってみよう。紀元前10世紀、エジプトの王女がイスラエルのソロモン王にシルクのキリムを贈ったという。暑い国エジプトではじゅうたんは織られていなかった。

紀元前8世紀のアッシリア帝国、ニネヴェの宮殿の壁画からはじゅうたんを敷いた大広間の様子が知られるし、じゅうたんのボーダーと同じような細かい装飾を施した石扉の敷居も発見されている。

紀元後になると当然ながら資料も多くなる。

5世紀当時、コンスタンチノープルを都としたビザンチン帝国にとって何よりも恐ろしい敵はトルコ民族の一派、フンのアティラ王だった。彼らはドナウ川を越えて怒濤のごとく、中央ヨーロッパに攻め寄せていた。ビザンチン皇帝テオドシウスⅡ世の命令により、アティラの陣営を訪れたプリスクスはフン族の王を殺すという密かな目的は果たせなかったものの、そこで見聞したトルコ族の生活様式を詳しく報告している。彼が会ったアティラ王の天幕にも、妻ヘラカのそれにも美しいじゅうたんが敷かれていたという。

歴史上、最も豪華なじゅうたんとして知られるのは「コスローの春」と呼ばれたじゅうたんであろう。7世紀前期、ササン朝ペルシャの都クテシフォンがアラブの手におちた。膨大な戦利品の中に「コスローの春」とペルシャ人が誇るみごとな大じゅうたんがあった。コスローⅡ世を初めとするペルシャ宮廷の人々は大広間にそのじゅうたんを敷きつめ、酒宴を楽しんだものだった。金糸銀糸、宝石をふんだんに使い、花の咲き乱れる春らんまんの庭園風景を織りこんだ、広大で絢爛豪華な敷物だった。アラブ軍の司令官ウマルは処理に悩んだ末、この素晴らしい戦利品を細かく裁断して兵士たちに分配したという。この特別なじゅうたんをアラブ人はキトゥフと呼んだという。キトゥフは“糸を摘み集めたもの”の意味である。金銀宝石をちりばめたということは、実際はじゅうたんというよりキリムだったと考えられよう。

中央アジアでじゅうたんが織られ姶めたのは紀元前1500年頃にさかのぼるが、最初は平織りのキリムから発展したらしい。

そもそも中央アジアは羊毛や羊毛加工品の主たる産地だった。紀元前8000年頃に野生動物、特に羊を飼いならすようになると人々の生活は大きく変化する。

生活は向上し、動物の毛や皮、乳や肉を利用する加工技術も進歩した。


1904年に中央アジア、カスピ海沿岸のアナウ地方でラファエルが行った発掘では、紀元前8000年頃から6800年頃までの4段階の文化の跡が確認され、前8000年頃の紡ぎ車が発見されている。

同じトルキスタンのナマズガ遺跡の発掘凋査によると、羊の毛を織物に利用し始めたのは紀元前2250年頃と推定されている。南シベリアのカラスク古墳(紀元前1250-700年頃)からも羊毛を紡いだ衣服の一部が発見されている。

今世紀の半ば、アルタイ山地のパジリクを発掘したロシアのルデンコは紀元前5-4世紀のものと考えられる古墳を発見した。スキタイ族の墓と考えられるこの古墳は厚い氷の下で凍結していたわかげで、織物など普通なら腐食してしまう材質の品が多数残されていた。その貴重な出土品はサンクトペテルスブルクのエルミタージュ美術館やニューヨークのメトロポリタン美術館などに保管されている。布地としては平織りのキリム、フェルトのアップリケ、結び方式のじゅうたんなどが確認された。糸の品質や織り方、デザインは当時の技巧の水準の高さを示し、古代の生活の香りを伝え、手仕事の素晴らしさを我々に語ってくれる。

オーレルスタイン卿は東トルキスタンの楼蘭で、砂の中から3世紀のじゅうたんの一部を発見した。その不揃いな菱形模様、素朴な農民風のデザインや織り方から、トルコ民族の手によるじゅうたんと考えられている。

遊牧生活を営む中央アジアで、羊毛を主とした織物が幅広く行われていたのは当然のことであろう。49年に書かれた中国の歴史書には千頭の馬と数千匹の羊を持つ裕福なフン人の一族について記している。フン族は羊毛で織ったマットやカバーを中国に売っているという記録もあるし、金糸の衣装を身にまとい、みごとなじゅうたんを敷き詰めた巨人な天幕に暮らす王者のことも記されている。

中央アジアの話はさておいて、トルコ族は中央アジアを故郷とし、5世紀頃にはオクサス河(アムダリア)の北にいたことが明らかになっている。本来はシャーマニズムを信奉する民族だが、仏教やマニ教、ネストリウス派キリスト教など東西の諸宗教が容易に伝わる位置にあった。8世紀になると、新興宗教イスラムを奉ずるアラブ人の力が中央アジアにまで及び始める。トルコ民族が中央アジアを後にしてまず南下、そして西への移動を始めたのはその頃である。彼らは西進につれて国力、軍事力をつけると共に、イスラム教を受け入れていった。

そして、1071年には東アナトリア、ヴァン湖の北の平原マンズキルトの戦いでビザンチン帝国軍に大勝し、いよいよアナトリアに足を踏み入れたのだった。

小アジアに花開いた織物、特にじゅうたんの結びの技法、モチーフや色彩はトルコ民族と共に中央アジアから近東やアナトリアヘ、つまりオクサス河のほとりからはるか西のボスフォラス海峡の岸辺へと伝えられたのである。

セルジュクトルコ時代にはすでに、宮廷直営のじゅうたん工房もあったという。

オスマントルコ時代、16世紀の調査によるとそれぞれ民族部族の名を冠した独自の織物を生産する町や村の数は883にのぼっていた。しかし現在では444と半減してしまった。その主な土地としてはサルキョイ、ベルガマ、ユルク、バルケシル、シヴリヒサル、ダスクリ、チャル、アフィヨン、ウシャク、デニズリ、アイドゥン、マラティヤ、シヴァス、ムト、カイセリ、アクサライ、ニーデ、カラプナル、コンヤ、オプルク、ガジアンテプ、レイハンル、アダナ、アンタルヤ、フェティエ、ヴァン、ディヤルバクル、カウズマン、カルズなどがあげられよう。


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