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トルコ料理

トルコ料理の歴史|世界三大料理の基礎を築いたオスマン帝国宮廷料理の食文化


食の文化や食生活と言うのは、住む地域や国によって形作られ、時間の経過とともに文化として定着していきます。トルコ人の食文化も住んでいる地理と密接に関連しているのです。トルコ人の飲食の習慣は、地理や気候や原産品など様々な文化との相互の影響を反映しています。

ここでは、なぜトルコ料理が世界三大料理の一つに数えられるようになったのか、その発展の歴史と特徴を解説します。

トルコ料理が世界三大料理の一つに数えられる要因

トルコ料理
トルコ人達は、中央アジアから移住しながら訪れた各場所へ自身の伝統をもたらしました。アナトリアへ住み着いたトルコ人達は、昔からの食習慣を守るのと共に、新しい食文化にも出会い、そして、それらからも影響を受けたのです。

現在のトルコにつながるセルジューク朝とオスマン帝国は3大陸に広がった帝国という特徴から、かなり多様な民族的・宗教的な要素を採り入れたことが見受けられ、それが現在のトルコ料理の豊かさを強固にしている重要な要因となっています。

食に関して権威ある多くの機関により、トルコ料理はフランス料理と中華料理と共に世界三大料理の一つと言われています。

トルコ料理を発展させた多様な食材と食文化の融合

トルコ料理が世界を代表する料理の一つとして認められている理由の一つが、トルコ人達の故郷である中央アジアと、後に移住したアナトリアにおいて遊牧生活と定住生活が一つの場所で維持できたという点です。

遊牧生活がもたらした実用性と、定住生活で得られた農産物を使用した食糧の発酵や乾燥のような様々な応用の仕方で耐久性と美味しさの両方を確かにしたのです。このようにして、他の国々とは違った豊かな食文化が生まれました。

トルコ人達はアジア人でもある為、豊富な植物性の材料を手に入れていました。メソポタミアの香辛料と生肉の味覚をアジアの食材と融合し、アナトリアの多様な植物と動物、地中海と黒海の海産物が合わさり、より幅広い料理を生み出したのです。

世界三大料理は、なぜフランス料理・中華料理・トルコ料理なの?

現在のトルコ料理を形作った3つの時代

現代のトルコ料理の形成において、
  • トルコ人が11世紀まで中国と国境を接した隣国であった中央アジアとしての歴史
  • イスラム教の受容とアラビア文化との相互の影響
  • 過去の時代にアナトリアを支配していたギリシャ、ヒッタイト、イラン(ペルシャ)などの文明の影響
  • が見られます。

    結果として、今日の総合的な特徴を備えた現代のトルコ料理の進歩は、「中央アジア遊牧民時代」、「セルジューク朝時代」、そして「オスマン帝国時代」の3つの部分に分かれます。以下で、それぞれの時代における食文化の特徴や料理の発展について順を追って解説します。

    トルコ料理発展の歴史1:中央アジア遊牧時代

    トルコ料理
    各国の料理が形作られるにあたり、その地方の地理的特徴が重要となります。

    トルコ人達の最初の故郷である中央アジアが厳しい気候と乾燥した土地であったこと、それにより農業活動からかけ離れていたこと、そして海から遠かったこと、これらがトルコ料理の形成において重要な役割を果たしました。

    最も重要な栄養源である肉の調理方法の発達

    パストラミ
    草原の過酷な気候と困難な条件下において、遊牧生活を維持したトルコ系民族にとって最も大切な栄養の源は、間違いなく肉でした。

    肉の中では、遊牧生活に最も適した動物である羊と馬肉がより多く好まれていました。これらの肉に加えて、ウサギや鹿などの狩猟動物が頻繁に食されていたのです。

    トルコ系民族は、肉製品の多さと肉が価値のある食糧であることから、肉を長期保存可能にするために加熱殺菌保存する知恵をかなり早い時代から学んでいました。加熱殺菌保存した肉は、トルコ系民族が中国に販売していた最も重要な輸出製品の一つです。

    また、加熱殺菌保存と並んで、トルコ人は食物を保存するために乾燥、焙煎および発酵方法からも利益を得ていました。中央アジアで屠殺された動物は肉だけでなく臓物も使われていました。

    トルコ系民族は、肉と臓物をタンドール(土窯)または火の上で調理していました。また、肉は角切りにして炒めて冬季のために保存したり、肉に塩を塗って日干しにして保存したりもしていました。

    パストラミ(パストゥルマ)としても知られている乾燥肉は、トルコ系民族にとってとても重要な食品となり、腐る危険が低いことから特に戦いへ行く兵士達の重要な栄養源ともなっていました。尚、肉製品を季節ごとに分けていたトルコ系民族は、秋に作られるパストラミを春の新鮮な肉よりもより好んでいました。

    肉のもう一つの保存方法は発酵です。 古代トルコ人は、肉を腸の皮に入れて発酵させることによって、トルコで今日でも愛され、多く消費されている発酵ソーセージ“スジュク(sucuk)”の作り方を習得しました。

    パストラミはトルコ発祥!パストラミビーフのの作り方、レシピもご紹介

    多彩なミルクの活用|ヨーグルトはトルコ発祥

    ヨーグル
    トルコ料理においてミルク(通常牝馬のミルク)は、それのみで消費されるのはもちろん、バター、チーズ、ヨーグルト、アイラン(ヨーグルトドリンク)、ケフィル(ケフィア)、チョケレック(カッテージチーズの様な物)の様な乳製品として、またミルク入りやヨーグルト入りの料理やデザートとしても昔からずっと多く消費されていました。

    乳糖含有量が他の家畜よりも高い牝馬のミルクを発酵することで得られる軽いアルコール入りの乳酒である“KIMIZ(クムズ/クミス)”は、古代トルコ人が最も好きなお酒でした。現在でもモンゴルや中央アジアでは好まれて飲まれています。

    ヨーグルトは、冬に使われるために乾燥させていました。“クルト(Kurut)”と言う名で知られる乾燥ヨーグルトは、アナトリアのいくつかの地方で今でも作られています。

    また、ヨーグルトの使用方法のもう一つとして、チーズ作りが挙げられます。ヨーグルトを動物の皮から作られた袋に入れて振って作られたバター、油部分を取り除いた後に塩を加えて沸騰させて水切りをして作られたカッテージチーズのような乾燥ヨーグルトの一種“チョケレック(çökelek)”や、乾燥チーズの一種“ケシュ(keş)”などのチーズ類は、現在もアナトリアのヨリュク(Yörük)と呼ばれている遊牧生活をしているトュルクメン系の人たちによって作られています。

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    トルコ人は古代からパンを食べていた

    ユフカ
    また、古代のトルコ人達は穀物を原料とした料理も多く作っていました。

    例として、元は饅頭とされ中国人達から伝わったと思われる小粒の水餃子である“マントゥ(Mantı)” は、世界で最も広域に広まった料理の一つでもあります。マントゥは変形しつつもモンゴルからイタリア(ラビオリ)まで本当に広い範囲に広まっています。

    現在と同様に古代のトルコ人達は、円形でふっくらしたパンである“ソムン(somun)”、円形で平たい発酵パンの“バズラマ(bazlama)”、 イーストを使わないクレープ生地の様な“ユフカ(yufka)”の3種類のパンを食しており、これらのパンは主に大麦、小麦、キビで作られていました。

    現在でも作られているユフカは、小麦か大麦の粉から作られていました。また、小麦と言えば現在でも食されている引き割り小麦の“ブルグル(bulgur)”も当時から作られている食品です。

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    トルコ料理発展の歴史2:セルジューク帝国時代

    その後テュルク系民族は半遊牧としてメソポタミアとアナトリアに渡り、農業に適したこの地にすぐに定住し、やがてセルジューク朝を興します。

    このため、遊牧トルコ系民族と比べてセルジューク朝の人々は、農業食品でより多く利益を得ていました。イスラム教を採用していたセルジューク朝は、派手さからは遠く、シンプルな生活を好んでいたため、現在まで伝わっている食文化に関する情報は限られています。

    定住による食文化の変化

    セルジューク朝の宮殿において、厨房は料理長の管理のもと、ワイン室は酒造長らの監督のもとに提供されていました。特に、現在に似た形で各トルコ人の家には、家の中の各部分に厨房があり、この部分を調理が作られる場所という意味で“アシュルック(aşlık)”と呼んでいました。

    セルジューク朝時代の料理は、伝統的なトルコ民族/トルコ料理の続きとなりました。それに加えて定住生活を送ることと共にトルコ人の食文化はより豊かになったのです。

    トルコ人は中央アジアから始まり、長い移住の旅で訪れた各地域と定住したアナトリアの料理の影響を受けました。セルジューク朝の料理は、遊牧生活の当然の結果である肉とミルク等の動物性食品と、定住生活の基本的な生活源である農産食品からなるシンプルな料理でした。

    通常、食事は二食で、この時代の料理では午前中と夜の時間の食事が大事な時間となっていました。

    午前中の食事では、通常小麦粉を使った腹持ちの良い食品から構成されていました。昼食の習慣がなかったセルジューク朝では、2回の食事の間には主に果物と飲み物を摂取していたと言われています。

    遊牧時代の料理のさらなる発展

    ラム
    遊牧のトルコ系民族と同様に、セルジューク朝時代でも肉料理は不可欠でした。肉料理内でも特に羊 (マトン)、山羊、子羊 (ラム)が使われると共に、魚、家禽類、狩猟動物(ジビエ)を使った料理も食されていました。

    セルジューク朝の人たちは、動物のレバー、心臓、すい臓、頭、胃、腸などの内臓物をも通常タンドール窯(石または粘土で作られた窯)で調理して食していたと言われています。

    この時代、中央アジアのトルコ人と同様に大麦、オーツ麦、小麦の粉で作られ、オーブン窯またはタンドール窯パンと名付けられている“ソムン(円形パン) ”、“バズラマ(平たい円形発酵パン) ”、“ユフカ(クレープの様な薄い生地) ”などのパンが作られていましたが、これらのパンは中央アジアのトルコ料理とは違い、各料理と一緒に食され始めるのです。

    セルジューク朝では、麦を収穫の後に煮立てて乾燥させ、手または水力で回された石臼の二つの石の間で割ってブルグルを作り出していました。小麦粉はと言うと、小麦を粉砕機でより細かく粉砕して作り出していました。

    ソムン (円形パン)
    小麦粉から作られた生地は鉄板の上で焼かれ、“ユフカ”、“シェビット(薄いパン) ”、“カトメル(薄い生地を何層にも重ねて揚げたパン) ”、“バズラマ”などのパンが作られていました。

    小麦と大麦を発酵することにより、“ボザ(Boza)”という酸味のある発酵飲料も作られていました。小麦は、その他に小麦スープを作るのにも多く使われていたと言います。

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    ボザ
    セルジューク朝では、乳用動物として羊、山羊、牛、馬を飼育していました。ミルクのほんの一部は新鮮な内に消費されたようですが、採れたミルクのほとんどが、ミルクが少ししか取れない時期の為に、または商業の為に多種の乳製品となっていました。

    ミルクからヨーグルト、アイラン、バター、ケフィア、クルト(乾燥ヨーグルト)、クムス(馬乳酒)、チーズなどの食品が生産されました。イスラム教を採用していたセルジューク朝ではアルコールが含まれていたクムスの消費は減りましたが、無くなることはありませんでした。

    ヨーグルトからは、動物の皮または木から作られたヤユック(yayık)と言う攪乳器で攪乳してバターも作られていました。

    野菜や香辛料の活用による料理の多様化

    セルジューク朝において、茄子、ほうれん草、ラディッシュ、ビーツ、人参などの野菜が昔から料理に使われていきました。香辛料は、アラブ人との交流の結果としてセルジューク料理に入ったと考えられています。

    果物も育てられており、リンゴ、プラム、葡萄、マルメロ(かりん)の様な果物は新鮮な内に食されたのは勿論、乾燥させて冬季にコンポートにもされていました。葡萄からは、お酢やワインが作られました。

    この時代の料理に於いて、多種の果物、蜂蜜、ペクメズ(ブドウや桑の実などを煮詰めて作った濃厚なシロップ)で作られ、シャーベットやソルベの元となった冷たくて甘い飲み物である“シェルベティ(Şerbet)” は、当時のほとんど皆が好んで飲んだ飲み物です。

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    シェルベティ
    食べ物と飲み物に味を付ける為に、通常ペクメズと蜂蜜が使われていました。ペクメズは、小麦粉から作られた濡れケーキの様な“ウン・ヘルヴァス(un helvası)”、アーモンド粉から作られた濡れケーキの様な“バーデム・ヘルヴァス(badem helvası)”、サフランで色付けされたお米のプディング“ゼルデ(zerde)”等のデザートの甘味料としても使われていました。

    文化としての食の発展

    アナトリアのセルジューク朝の時代において、特に金曜日の朝に宴の食事が設けられていました。それに加えて、セルジュークの人達はお客様へのおもてなしを大切にしていたので、お客様が宿泊する為の宿である“ハン(Han)”や隊商宿である“ケルヴァンサライ(kervansaray)”を建設しました。この時代の各都市には貧困者の為に炊き出しもなされていたと言われています。

    また、年に五夜あるイスラム教の聖なる夜“カンディル(kandil)”などの大切な日や夜には、セモリナ粉や小麦粉を炒って作るデザート“ヘルヴァ(helva)”を無料で市民に配り、聖なる日の重要性を強調していました。

     
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    トルコ料理発展の歴史3:オスマン帝国時代

    トプカプ宮殿
    1299年になると、アナトリアで支配を続けてきたセルジューク朝が衰退し、代わって勢力を伸ばしていたテュルク系民族の地方部族長オスマン・ガーズィーがオスマン君侯国を樹立。以降オスマン帝国として600年以上も続き、三大陸にまでその版図を広げました。

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    世界に影響を与えたオスマン帝国の食の豊かさ

    トルコ料理の歴史の中で最も輝いた時期は、オスマン帝国時代でありました。この時代、オスマン帝国のトプカプ宮殿に訪れた外国の公人達はトルコ料理にとても感銘を受け、自国の料理人達を教育のためにトルコ人シェフの元に送ったと言います。

    三大陸に広がっていたオスマン帝国の豊かさは、もちろん料理にも反映され、紛れもなく帝国の栄光を表していました。豊かでもあり、素材を生かした、健康的でもある料理であったことが、トルコ料理が世界の料理の中でも特別視され、世界三大料理の一つになった最も大きな特徴です。

    オスマン帝国料理を形作っている最も重要な要因は、
    • 伝統的なトルコ民族の食文化
    • イスラムの受容
    • 西方移動の際のアラビアとイラン(ペルシア)の料理との相互の影響
    • 帝国内に残って生活をしていたギリシャ人やグルジア人やアルメニア人やユダヤ人少数派と共にアナトリアで育った豊富な品々の幅の広さ
    などです。特に、オスマン帝国の領土が広がるにつれて料理もより豊富になりました。

    バヤズット2世の時代、1502年の法律にて「フレッシュカードチーズ(taze lor peyniri)、大粒カードチーズ(kaba lor Peyniri)、フレッシュストリングチーズ(taze dil peyniri)、イスタンブール周辺のフレッシュ微塩白チーズ(taze çayır peyniri)、ボル産ムドゥルヌ・チーズ(Mudurnu peyniri)、下ブルガリア・シュメンのシュムヌ・チーズ(Şumnu peyniri)、自然の山羊や羊のミルクから作られたカラマン産カラマン・チーズ(Karaman peyniri)、ブルガリア産ソフィア・チーズ(Sofya peyniri)、ウシャック産エシメ・チーズ(Eşme peyniri)、レスボス島産ミディッリ・チーズ(Midilli peyniri)、ガズィアンテップ産のテレメ・チーズ(teleme peyniri)、白チーズ(salamura peyniri)、リムノス島産トゥルム(山羊の皮の中で熟成させた)・チーズ(Limni tulum peyniri)、イズミット産トゥルム・チーズ(İzmit tulum peyniri)、ルメリア地方産トゥルム・チーズ(Rumeli tulum peyniri)、フレッシ・カシュカヴァルチーズ(taze kaşkaval peyniri)、バルカン産カシュカヴァルチーズ(Balkan kaşkaval peyniri)」などの多種のチーズがオスマン帝国内の四方八方からイスタンブールにもたらされた事が明記されています。

    トルコ料理の紹介ビデオ(2分19秒)

    宮廷料理の発展

    トプカプ宮殿
    オスマン帝国の宮殿料理は、オスマン帝国の食文化の頂点と言えます。トプカプ宮殿の人々の食事が作られる宮殿の厨房は、毎日何千人分もの食事が作られる大きな料理工場のようでしたが、もちろんスルタン(皇帝)の食事は、スルタンのみの料理を作る別の専用厨房で準備されていました。

    トプカプ宮殿では、栄養と健康の間に密接な関係があると信じられており、それに応じて食事が用意されていました。

    世界遺産トプカプ宮殿はイスタンブールで見逃せない観光名所!見どころを徹底解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

    誰がどこにテーブルに座るか、そして食事のマナーは法律によって明確にされていました。 征服者スルタン・ファティ・メフメットの時代からスルタン達は、食事を一人で、またハレムの人たちと一緒に食べ始めました。

    トプカプ宮殿で第7代目皇帝メフメト2世(スルタン・ファティ・メフメット)の時代に行われていた宴会では、主に肉や肉入りの料理がメインとして出され、ピラフ、多種の野菜の料理、デザートとシェルベティが振舞われていたことが外国人大使と研究者より伝えられています。

    オスマン帝国の邸宅では、味付けされたスープ(terbiyeli çorba)、ラムケバブ、タンドールケバブ、焼いた鶏肉、アーティチョークのシチュー(enginar yahnisi)、葡萄の葉のピラフ巻き(yaprak sarması)、茄子のピラフ詰め(patlıcan dolması)、リンゴの肉入りピラフ詰め(etli elma dolması)、卵のドルマ(yumurta dolması)、お米のピラフ(pirinç pilavı)、自家製パスタ(erişte)、白チーズ入りのボレッキ、バクラヴァ、杏子のコンポート、お米のプディングであるストゥラチ(sütlaç)、アシュレ(aşure)、多種のシェルベティなどが振舞われていたと述べられています。

    スープ
    オスマン帝国末期の厨房では、料理人、女中長、料理兵たちが料理をする職にあった人たちでした。料理人は、各専門部門によりケバブ担当、ピラフ担当、ボレッキ担当、ダイエット担当、コンポート担当、デザート担当、小麦粉生地担当など、それぞれのグループに分けられていました。

    スルタン専用の厨房では、料理をする職務を成す人として料理長、2番目の料理長、ケバブ調理長、デザート長、ボレッキ長、魚調理長、ダイエット長、予備達、兵士達でした。

    第30代皇帝マフムト2世の時代からは宮殿に魚用の厨房が作られ、それ以前の時代とは違い革新的となりました。

    オスマン帝国時代の肉料理

    肉は、伝統的なトルコ料理と同様にオスマン帝国の料理でも重要な食品でした。料理では特に羊と子羊の肉が好まれた一方、牛肉は通常パストゥルマ(パストラミ)に使われていました。

    宮殿の人たちと裕福な市民は、羊と子羊の他に鶏肉、ガチョウ、鴨、孔雀、ヤマウズラ、鳩などの動物の肉をも食しており、特に鶏肉が多く消費されていました。
    七面鳥はと言いますと、18世紀以降に宮廷料理に入り始めました。

    羊、鶏、魚を使って作られた料理は通常、“ケバブ(Kebap)”、シチューの様な“ヤフニ(Yahni) ”、骨なし炭火焼きの“キュルバストゥ(külbastı)”、揚げ物である“クザルトマ(kızartma)”の4つの調理方法で準備されていました。

    ケバブ
    ケバブは、肉を串に刺して直接炭火の上または肉を鍋に入れて弱火でオーブンか窯で料理したものです。基本的に、ケバブとあまり違いの無いキュルバストゥ(külbastı)は、フィレ状の肉を焼き網の上で調理し、その後ほんの少し水の中で温められたものとなります。

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    ヤフニ(Yahni)は、切った肉を水と一緒に弱火でゆっくりと煮て調理したものです。タヴァ(Tava)とも言われるクザルトマ(kızartma)は、魚、羊か子羊のレバーを小麦粉に付けてから熱した油で揚げた物です。

    ヤフニ

    オスマン帝国料理で欠かせないデザートとシェルベティ

    カザンディビ
    デザートとシェルベティは、オスマン帝国料理の中で肉とピラフと同じくらい重要な料理です。オスマン帝国料理は、デザートとシェルベティ無しでは語れません。

    デザートがオスマン帝国料理へ加わったのは、中央アジアのトルコ料理からではなく、主にイスラムの受容とアラビア人との影響が増した結果です。そのため、オスマン帝国のデザートの習慣はイスラム教にとって大切な役目を果たしていました。

    宮殿の厨房のヘルヴァ調理室(helvahanedeヘルヴァハーネ)では、ジャム、シェルベティ、ピクルス、その他全ての甘味やデザートが作られていました。またこのヘルヴァハーネでは、スルタンとハレムをはじめとする宮殿の人々の為に、癒しの源として食べられていた練り飴/水飴の様な“マージュン(macun)”も作られていました。

    このマージュンの中で一番有名なのが、 “ノウルーズ(Nevruz)”というトルコ人の間で春節を祝う行事の為に、多くの種類のスパイスと植物を混ぜ合わせて作られる“ネヴルズィエ・マージュン(Nevruziye (mesir) macunu)”です。

    アラビア語でデザート(甘味)を意味する“ヘルヴァ(helva)”は、イスラム教徒のトルコ人の伝統的なデザートとなりました。ヘルヴァは宮殿のみではなく、すべての人々の間で愛されていたデザートでもあります。

    オスマン帝国で、中に米粉と牛乳と砂糖が入ったすべての物を“ムハッレビ(muhallebi)”と名付けられていました。オスマン帝国早期に最も消費されていた小麦粉から作られたデザートは、“ロクマ(lokma)”と“カダユフ(kadayıf)”でした。現在ではポピュラーな“バクラヴァ(baklava)”は、18世紀までオスマン帝国料理の中では重要視されていないデザートの一つでした。

    オスマン帝国で最も好まれていたデザートは、ローマが発祥地と言われている、鶏の胸肉を煮てから叩いて繊維状に割いてミルクを加えて作られたデザートである“タヴックギョウス(tavuğun göğsü)”と、これの底を軽く焼いた“カザンディビ(kazandibi)”でした。

    なお、サトウキビはオスマン帝国で少ししかなかった為、食糧と飲み物の甘味としてペクメズと干ブドウまたは蜂蜜を通常使っていました。

    トルコのスイーツ(Tatlılar):トルコアイス、バクラヴァ、カダイフ・タトゥルスなど

    オスマン帝国時代の野菜料理

    イスタンブールにいたキリスト教徒の少数派は、特に断食期間に白いんげん豆の冷菜“ピラキ(pilaki)”を作っていました。この料理は、19世紀以降イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の間でも食される料理の一つとなります。

    アフリカ原産の野菜である“オクラ”が宮殿料理に入り始めたのは、17世紀からです。オスマン帝国の末期において、オクラは乾燥した状態で大量に料理に使われていたと記録されています。

    19世紀にオスマン帝国の宮殿では、トマト、エンドウ豆、ジャガイモ、ピーマン、菊芋、ズッキーニ、かぼちゃ、トウモロコシ等のアメリカ原産の野菜が消費されていました。

    トマトは、近代トルコ料理で最も使われている野菜の一つとなっていますが、トルコ料理の歴史の中では本当に新しい物です。時代の記録によりますと、トマトが宮廷料理に入り始めたのは、1690年代からとのことです。

    それ以前は未熟な緑の状態のトマトが食されていましたが、時代が進むにつれ赤く熟したトマトを食するようになりました。1840年代でさえトマトとサルチャ(トマトペースト)は料理にあまり使われていなかったとのことです。

    「トマト」世界中で料理にかかせないこの食材について徹底解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

    茄子のような野菜を軽く揚げた後に、肉と一緒に鍋で煮込んだ野菜料理を“シルクメ(silkme)”と言い、また“ムサカ”と言われる野菜料理は、野菜を揚げてその後にひき肉と一緒に油と水で煮込んだ料理です。

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    民間料理(家庭料理)も多様化・発展

    ぺスティル
    オスマン帝国料理といいますが、宮殿料理と民間料理と言う形で二つに分けるのが正しいかもしれません。民間料理は、宮殿料理ほど派手ではありませんが、美味しさと種類の多さでとても豊富なメニューを備えています。

    オスマン帝国での市民の食卓は、ゴマを振りかけたパン、少しの羊肉またはパストラミ、お米のスープまたはお米のピラフ、多種の野菜と果物から成り立っていました。食事は地味で床に食卓用の布を敷いてその上に座って食べていました。

    食事と一緒に飲む飲み物としては、シロップ、蜂蜜のシェルベティ、ローズウォーター、果物のコンポートが飲まれていました。

    オスマン帝国時代の市民は、葡萄の木や果物の木を栽培し、収穫した作物を干しブドウ、お酢、ペクメズ(凝縮果汁シロップ)、シラ(非発酵ぶどうジュース)、ぺスティル(果物ペースト)、クルミとペクメズのソーセージ(cevizli pekmez sucuğu)等の製品が作られていました。

    また、ギリシャ人とキリスト教少数派はワインも作っていました。

    中央アナトリアでは、ペクメズとデンプン粉を混ぜて沸騰させ、お盆に注いで冷やした後に切り分けて“ペクメズ・ロクム”と言うお菓子や、ペクメズからはその他に“ぺルヴェル(pelver)”と言う名のマーマレードの様な物も作っていました。

    オスマン帝国時代のパン

    オスマン帝国でパンは、ほぼ小麦粉から作られており、大麦粉は飢饉や戦争中の期間のみパンに使われていました。オスマン帝国で小麦粉から作られていたパンの中で最も愛されていたのは、小麦の胚芽と麦芽を取り除いた白いパンです。

    オスマン帝国では白いパンの他に、主に市民が食していたパン(nan-I aziz)、中品質の純粋なパン(nan-ı hass orta)、平均的なパン(nan-ıadi)、平らな白いパン(fodula)、長い上質な白パン(fırancala)、ユフカ、全粒粉で作ったパンも食されていました。

    魚料理の発展

    中央アジアのトルコ料理で存在しなかった魚や他の魚介類ですが、オスマン帝国の早期ではあまり好まれていませんでした。しかし、イスタンブールでは、魚が大量に獲れて安かったため、イスタンブールの住民の半数は魚介類を食していたと言います。

    人々とは異なり、7代目皇帝ファティ・スルタン・メフメトは魚を好んでよく食べていたことで知られています。1471年皇帝ファティ・スルタン・メフメトの為に、干物の魚、大西洋タラ、キャビア、魚の卵が宮殿へ仕入れられていたと記録されています。

    それにも拘らず、オスマン帝国での魚の消費は、19世紀まで広まりませんでした。19世紀以降にはヨーロッパ料理の影響で、特にラケルダ(カツオの塩漬け)、キャビア、魚の卵、鯖の干物が宮殿で頻繁に食されるようになりました。

    宮殿料理ではカキやムール貝の様な貝類は食されず、外国人客に振舞う為に仕入れられていたと言います。

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    トルコ料理で重要な役割を果たすスープ

    スープ
    トルコ料理でスープはとても重要です。トルコ人にとってスープは生まれた時から死ぬまで一生食されている料理です。ヨーロッパ料理では、通常食欲を促す為に食べられているスープですが、トルコ料理ではそれだけで立派な一品料理となります。

    16世紀のオスマン帝国では、スープは通常チキンや肉からダシをとってお米を入れて作っており、宮殿料理では、煮込んだあばら骨と肉のゆで汁をスープに使っていました。

    15世紀以降に消費が減ってしまった小麦とブルグルですが、これらもスープに使われていました。オスマン帝国では、酸味のあるものが好まれていたので、スープにもヴェルジュ(未熟ぶどうの汁)やレモンやお酢やスモモ汁をかけて食されていたと言うことです。

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    お米(ピラウ)はオスマン帝国時代から愛されていた

    ピラフ
    お米は、オスマン帝国に16世紀後半以降に入り始め、ピラウは、オスマン帝国宮殿の食卓と同じくらい市民の食卓でも多く食されていた重要な食品でありました。宮殿料理と同様に、大量に料理を作っていた公共食堂の“イマーレットハーネ(imarethane)”でも、毎日お米のスープが調理されて、必要な人々に配られていました。

    ピラフ
    オスマン帝国料理では、ブルグル(引き割り小麦)、お米、クスクスで作られたピラウは、シンプルな物、トマト入り、アーモンド入り、ピーナッツ入り、干葡萄入り、グリーンピース入り、ひよこ豆入り、茄子入り、鶏肉入りなど27種類あったと言われています。

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    世界中からもたらされた香辛料の活用

    東南アジアの熱帯地方で栽培されている胡椒は高価でしたが、宮殿料理で最も多く使われた香辛料です。特に18~19世紀に作られていたほとんどの肉料理や肉を使った料理に胡椒が加えられていました。

    オスマン帝国で胡椒の他に、クミン、サフラン、マスタード、コリアンダー、シナモンが多く使われていました。新鮮なハーブとしては、ミント、パセリ、バジル、紫バジルが多用されました。

    エジプシャンバザール
    この時代の最も高価な香辛料は、マッコウクジラの腸で形成され糞便中に排泄される結石の様な “アンバー”と、山岳地帯に生息する雄鹿の皮の下の膜から抽出された“麝香(ムスク) ”でした。アンバーで薄い色をもつ“赤アンバー”は、宮殿料理で作られるヘルヴァやシェルベティや特に媚薬飴を作る際に使われました。

    琥珀として知られる濃い色のアンバーは、通常貴重なテスピ(イスラム教の数珠)やスプーンや器に使われていました。ムスクは、良い香りから特別な料理やデザートに使われていました。

    アメリカ原産の赤トウガラシやバニラやオールスパイスなどの香辛料は、19世紀以降オスマン帝国宮殿料理で使われました。

    17世紀、オスマン帝国の宴会の最後には、トルココーヒーの前に、通常ドライフルーツから作られたコンポートであり、心地よい水と言う意味である“ホシャブ(hoşaf)”が振舞われていました。

    ホシャブは、器の中に入れられシニと言う銅製または銀製のトレーの真ん中に置かれ、その一つの器から全員が宴会用に特別に作られた象牙のスプーンで飲んだと言います。

    ホシャフの他には果物から作られた多種のシェルベティも作られていました。宮殿料理で一番好まれていたシェルベティは、バラ、水蓮、スミレ、ユリの様な良い香りの花と、ムスクやアンバーの様な香辛料から作られたシェルベティでした。

    オスマン帝国の食卓では、冬季に通常シナモン、夏季には未熟のブドウと蜂蜜のシェルベティが飲まれていました。この時代、客人には飲み物として通常シェルベティが振舞われ、客人にザクロのシェルベティが振舞われることは親切さを表すとされていました。

    オスマン帝国の食文化はトルコ料理を世界三大料理へと昇華させた

    トプカプ宮殿
    オスマン帝国の末期では、イスタンブールの食事において、過去から続く伝統的なグルメの他に、タルト、ローズビーフ、冷製オニオンの副菜、パスタ、クリーム、オイスタースープ、パテ、タレーター/タルタル等のグルメも食されていました。

    オスマン宮廷料理が素晴らしければ素晴らしいほど、お祭りや饗宴を除いた食事の規律がシンプルな中にあったと言うことです。食事は、19世紀まで宮殿でさえ床に近いテーブルで食べていました。マフムト2世の時代(1808-1839)の後、椅子に座って食事をする習慣が始まったのです。

    トルコ料理が一番輝いていた時期は、オスマン帝国時代でありました。オスマン帝国は広い領土を支配したこと、そして多くの文化と何世紀も続いたトルコ料理の伝統が、オスマン料理を時の最良の料理へともたらしました。

    特にオスマン帝国の宮殿では、本日世界で類を見ない多種でグルメな料理が食されていたのです。この数々の料理の内のほとんどが現在のトルコ料理でも尚作られていますが、残念ながら幾つかの料理は忘れ去られてしまっております。

    オスマン帝国料理で食されていたタルハナ(ハーブ野菜入り乾燥ヨーグルト)、ブルグル、お米、ひよこ豆、レンズ豆、イシュケンベ(羊の胃)、ケッレパチャ(羊の頭)などは、現在でもほぼ同じ形で食されています。

    ちなみに、この時代重要視されていなかったと思われるオリーブオイルと羊の尾脂肪は、食用よりもランプの油として使われていたと言われています。ごま油は通常デザートに使われていたそうです。

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