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世界を制した若き英雄アレクサンドロス(アレキサンダー)大王|トルコを通って東方遠征!
比類無き戦略家・司令官であり、10年間で大帝国を築き大王となったマケドニアの王アレクサンドロス3世。小アジア・現トルコのアナトリアは、世界征服の野望を持った若き英雄アレキサンダー大王の東方遠征の始まりの地であり、彼が征服した町の数々、またそれに伴う彼にまつわる伝説も多く残っています。
そんなアレキサンダー大王の生涯を始め、トルコとの関りをここで徹底解説致します!
その偉大な功績から、大アレキサンダー(Alexander the Great)と称されます。これは彼の死後、紀元前1世紀ごろにローマで「Magnum(ラテン語で“Great”の意)」と呼ばれたのが由来のようです。生前から“偉大”と言われていたかはわかりません。
ちなみにアレキサンダーは英語での読み方で、ギリシャ語の読み方ではアレクサンドロスです。
アレクサンドロス大王は、20歳でマケドニアの王となり、32歳に亡くなるまで、その治世のほとんどを侵略・戦争に費やしました。そして、その中で巧みな戦略・戦術を用いて自軍よりも戦力に勝る相手に勝利することも多かったといいます。
アレクサンドロス大王の領土拡大や戦争への勝利に対する情熱と、類まれなる軍事的才能が、歴史に語り継がれる大帝国を誕生させたのです。
一方で、彼は統治者としてはさほど優れていなかったとする意見もあります。アレクサンドロス大王の築き上げた帝国は彼のカリスマ性に支えられていたために、後継者を指名せずに亡くなった後は、4人の将軍がそれぞれ国を設立するかたちで帝国は分割され、40年にもわたる戦争に巻き込まれていきます。
これは、内政の成功によって623年も存続したオスマン帝国と対照的といえるでしょう。
オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡
また、アレクサンドロス大王は遠征ルートの途中、交通の要衝となるさまざまな場所に自身の名を冠した「アレクサンドリア」という都市を作り、東西の交易を促進しました。さらに、彼の築いた帝国内ではギリシア語(コイネー)が公用語として広がり、キリスト教の新約聖書は当初このコイネーで書かれています。
このように、アレクサンドロス大王はただ領土を広げただけでなく、共通の文明と共通の言語を持つ単一の世界を作り出したのです。また、彼の偉業は、ジュリアス・シーザーやナポレオンなど、その後の歴史を作った偉人にも大きな影響を与えたといわれています。
また、東方遠征の主要ルートの一つであるアケメネス朝ペルシア帝国は、当時の言葉でいう野蛮人の住む未開の地では決してなく、オリエント文化の発展した文明国家でした。ペルシア戦争での復讐を掲げて進軍したアレクサンドロス大王は、文明の破壊者ともいえるのです。
一方で、ペルシャ帝国を滅ぼし統一されたギリシャ世界を作ったことで、常に侵入してくるペルシャ人の影響や都市国家間の戦争がもたらす破壊からギリシャを解放したと見ることもできます。いずれにせよ、アレクサンドロス大王の治世が文化や地政学に決定的な変化を与え、今なお影響を及ぼしていることは事実です。
アレキサンダーは、紀元前342年頃から340年の13歳から16歳頃、あの有名な万学の祖と言われる最大哲学者「アリストテレス」が家庭教師となり、後に近臣・将軍となる学友たちと学問・教養を学びます。
アレキサンダー大王の教師アリストテレス | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
しかし、父ピリッポスの死を聞いた北方の国やアテネやテーバイやトラキアなどの近隣諸国はこれを機に、マケドニアに対し反旗を翻します。アレクサンドロス3世はまずこの近隣諸国の反乱を平定し、全権を掌握しました。
紀元前334年春、父の遺志を受け継ぎ3万5千の兵を率いて東方遠征に向かいます。
マケドニアからトラキア地方に進み、へレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡って小アジア、現在のトルコのアジア側アナトリアへ踏み入れますが、当時のアナトリアはアケメネス朝ペルシャに支配されていました。そのため、アレキサンダーは東方へ進むために宿敵アケメネス朝ペルシャのダレイオス3世を倒さなくてはなりませんでした。
ヨーロッパとアジアの境界ダーダネルス海峡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
ホメロス著『イーリアス』のアキレウスに心酔していたアレキサンダーは小アジアへ渡ると、まずはトロイ詣をしてアキレウスの墓に献花をしました。その後に、初めてペルシャ軍と”グラニコス川の戦い”でぶつかり、ペルシャの先鋭部隊と言われた騎兵隊を壊滅させ勝利を収めます。
この勝利によりアレキサンダーの名声は高まり、小アジア西部の都市の多くがマケドニア軍と戦わずに降伏したため、無血開城にて小アジアの半分を手に入れることとなりました。
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大都市であったミレトスとハリカルナッソスは、支配下になる事に最後まで抵抗しましたが、アレキサンダーの手に堕ち、エーゲ海・地中海沿岸の都市を全て攻略してペルゲへ到達します。
そして紀元前333年春、マケドニア・コリントス同盟全軍再集結の為に訪れた中央アナトリアのフリギア王国首都ゴルディオンにて、「結び目を解いたものがアジアの王となる」と予言されていた有名な“ゴルディアスの結び目”を一刀両断したという伝説を残しました。
その後、アンキュラ(アンカラ)、カッパドキア、キリキア門を通りタルソスへ進み、紀元前333年11月にパヤス川(現ハタイ県ドルトヨルのデリ川)で行われた”イッソスの戦い”にてペルシャ王ダレイオス3世自ら率いるペルシャ軍に大勝利を収めました。
ダレイオス3世は逃走、残されたダレイオスの母親と妻子を捕虜として迎えます。この後にダレイオス3世から和睦が申し入れられますが、アレキサンダーは拒否しました。
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紀元前331年春にエジプトからティールに戻り、そこからペルシャ帝国の心臓部へ突き進むため、メソポタミアへ入ります。
紀元前331年10月、ペルシャ帝国の大軍を引き連れたダレイオス3世と現在のイラク北部アルビールで対峙した”ガウガメラの戦い”で再び大勝利を収めます。しかし、またもダレイオス3世を逃がすことになってしまいましたが、ペルシャ帝国はほぼアレキサンダーの手に入ったことになりました。
アレキサンダーは、ペルシャの重要都市であるバビロンに入りここを拠点とします。その後、冬の宮があるスーサ、そして首都のペルセポリスに攻め入り徹底的に破壊し焼き払いました。
翌年の紀元前330年、アレキサンダーが夏の宮のあるエグバタナを占領した頃、ペルシャ東方領である中央アジアのバクトリア州に逃げていたダレイオス3世が、バクトリア総督(サトラップ)のベッソスにより殺害され、これによりアケメネス朝ペルシャが滅亡しました。
ペルシャ帝国領土を手に入れ帝国の大王「アレキサンダー大王」となったことで、ここで一区切りつけマケドニア軍ギリシャ兵の帰国を許可します。
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これもアレキサンダー大王の大胆な戦略により勝利し、この時アレキサンダー大王はバクトリアの有力豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚しました。
紀元前327年、アレキサンダー大王は3万5千人の戦闘兵を含む12万人の隊を組みバクトラを出発しインドへ向かいます。アオルノス(現パキスタンピールサル山)にて包囲戦を行い勝利の後、紀元前326年インダス川を越えてパンジャブ地方の大都市タクシラに到着しました。
同年春に反マケドニア軍のインド諸侯軍と“ヒュダスペス河畔の戦い”にて勝利し、更なる東へ進軍を目指そうとします。しかし、この戦いでの軍の損害が大きく、また続く戦争に疲れ、8年間故郷から離れている兵士たちが望郷の念が大きくなり帰郷を懇願した為、アレキサンダー大王は3日間テントに籠って考えた後、これ以上の進軍はやむなく諦めました。
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同年9月、そこから部下のネアルコスと隊の一部はてインダス湾からペルシャ湾を通りユーフラテス川まで海路にて行かせ、アレキサンダーと本隊は陸路にて食糧難などの過酷な条件下でゲドロシア砂漠(バルーチスターン)、カルマニア(イランのケルマーン)を通り、紀元前324年春にスーサに帰還しました。
また、軍隊や行政にペルシャ人とマケドニア人との対等な登用を進めたり、マケドニアで軍事訓練を受けた3万人のペルシャの若者の帰還、バクトリア、ソグディア、アラコシアなどの東方諸国からの騎兵部隊への徴兵、ペルシャ貴族を近衛隊への採用、そしてマケドニアの元兵士を国に戻すというアレキサンダー大王の決定は、帝国の権力と行政の中心をアジアに移そうとする試みと見なされてしまいます。
この、アレキサンダー大王のペルシャ風を取り入れたペルシャの融和政策は、マケドニア軍だけでなく側近からも大きな不満や反感が生まれることとなりました。
紀元前323年春、バビロンに帰還しアラビア半島への遠征準備、バビロンの水路建設、ペルシャ湾沿岸の都市計画をしていた最中、深酒をしたある大宴会の後に倒れ、10日間高熱にうなされた後、紀元前323年6月10日、32歳の若さで、アレキサンダー大王は志半ばにしてその生涯を終えました。
側近たちが大帝国を誰が引き継げばよいかと死に際に訊ねた際、アレキサンダー大王は「最強の者が継承せよ」と答えたと言います。この遺言がこの後にディアドコイ(後継者)戦争へと発展することとなるのです。
なお、死因はマラリアや腸チフスや西ナイルウイルスなどの感染症説や毒殺説やアルコールの呑み過ぎによるものなど様々な説がありますが、真相は解明されていません。
ロクサネはアレクサンドロス大王が亡くなったときに妊娠しており、死後数か月経ってから息子であるアレクサンドロス4世を出産しました(本当にアレクサンドロス大王の子かどうかは不明)。スタテイラ2世とパリサティス2世は、息子アレクサンドロス4世の権威を維持しようと考えたロクサネによって暗殺されたと見られています。
ディアドコイ(後継者)戦争の最中、ロクサネは息子アレクサンドロス4世とともにアレクサンドロス大王の母オリュンピアスに保護されていましたが、マケドニアを征服したカッサンドロスによってオリュンピアスが処刑された後、ロクサネとアレクサンドロス4世も暗殺されてしまいました。
なお、後の伝記によるとアレクサンドロス大王は同性愛者または両性愛者であったと考えられており、副司令官であるヘファイスティオンは彼の生涯の友人であり恋人でした。紀元前324年にヘファイスティオンが熱で亡くなったとき(毒殺された可能性もあり)、アレクサンドロス大王は悲しみに打ちひしがれたといいます。
ディアドコイ戦争の結果、アレキサンダー大王が作った帝国の領地は最終的に3つに分割され、3つの王国が誕生しました。
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攻撃の要となる騎兵隊は、当時のギリシャで一般的なものよりも長い槍を持ち、横一列ではなく三角形またはV字型の隊列を採用することで、高い攻撃力と機動力を発揮しました。
歩兵隊は丸い盾と槍を持ち正方形に隊列を組んだファランクスと呼ばれるユニットです。ファランクス自体は当時のギリシャではすでにありましたが、アレキサンダー大王軍で特徴的だったのは、一般的な槍の2倍もあるサリッサという武器を採用したことでした。これにより、剣で戦うペルシア軍の歩兵を圧倒したのです。
なお、アレキサンダー大王が当初から大きな戦果をあげられたのは、父であるフィリップによる軍事改革の功績も大きかったようです。
また、アレキサンダー大王は、前線で兵士とコミュケーションを取り、戦意を高めるために演説するなど、常に彼らのモチベーションを維持する努力をしていたことでも知られています。「I am not afraid of an army of lions led by a sheep; I am afraid of an army of sheep led by a lion.(羊に率いられたライオンの軍団は怖くない、ライオンに率いられた羊の軍団が怖いのだ)」という名言通り、アレキサンダー大王は優れたリーダーシップを発揮していたと考えられます。
トルコ黒海地方沿岸都市シノーペ(現スィノプ)出身の犬儒派の哲学者。彼が国外追放されアテネに住んでいた紀元前336年頃、アレキサンダー大王が東欧遠征に行く前にコリントス同盟の盟主としてアテナに滞在していた際にディオゲネスに会いに行ったと言われています。
その際、アレキサンダー大王がディオゲネスに「何か希望はないか」と聞くと、ディオゲネスは「あなたがそこにいると日陰になるからどいてください」と答え、この出会いの帰途でアレキサンダー大王は「私がアレキサンダーでなければ、ディオゲネスになりたい」と言ったと言う逸話が残っています。
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アナクシメネスは、アレキサンダーが小アジアへ渡ったとき故郷のランプサコスにいました。ランプサコスは親ペルシャ派であったため、アレキサンダー大王の怒りにふれて町に危害を加えると脅しを受けていました。
危機的状況の故郷を守る為、アナクシメネスがランプサコスの人々の使者としてアレキサンダー大王を訪れるのですが、彼の意図に気が付いたアレキサンダー大王は即座に、「自分はアナクシメネスの要求とは正反対のことを行うであろう」と神々に誓ったのです。
これに対して雄弁家であったアナクシメデスは、「ランプサコス市民達の妻子たちを売り払い、街を略奪し、神殿を焼き払うよう」願いました。かくして、アレキサンダー大王は自らの誓いのゆえに止むを得ずランプサコスの人々を許したと言います。
なお、この後アナクサメデスは東方遠征に同行し、大王の歴史書を書いたとされています。
ホメロス著『イーリアス』のアキレウスに心酔していたアレキサンダー大王は、紀元前334年小アジアへ渡ってすぐこの町を訪れ、アテネ・イリアス神殿に自身の鎧を奉納してその代わりにトロイ戦争時より伝わる楯と鎧を授かりました。またトロイ戦争の英雄アキレウスの墓に詣でて献花をしたと言います。
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アルテミス神殿は紀元前356年7月21日放火により破壊しますが、この放火事件が起きた晩に、マケドニアにてアレキサンダー大王は誕生しました。
アレキサンダー大王は後に東方遠征の初めにエフェスに滞在した際、神殿の修復費用の全てを引き受けると申し出て、アレキサンダー大王自らの名の刻まれた記念碑を造るように命じました。しかしエフェソスの人々は「神である大王が別の神を祀る神殿を造るのは相応しいことではありません」と、アレキサンダー大王のプライドを傷つけることなく拒否したと言います。
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紀元前334年の冬、アレキサンダー大王はここに滞在した際、この結び目を解こうとしましたが解けなかったので剣を抜き、結び目を一刀両断し、数百年間解けなかった結び目をいとも簡単に解いたと言います。
そして、アレキサンダー大王は予言通り、その後次々とアジアを征服し、アジアの王となりました。
この逸話から、「ゴルディオスの結び目」は思い切った策がないと解決できない難題のたとえとして使われます。または、英語では「cut the Gordian knot(ゴルディオスの結び目を切る」=大胆な方法で難題を解決する、という意味のことわざになっています。
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紀元前301年に同じく将軍であったリュシマコスが、アンティゴノスの後にこの地を支配した際にアレキサンダー大王を記念して “アレキサンドリア・トロアス”と名付けたと言います。
ビザンツ帝国時代ギリシャ語でセレウケイアと言われていたため、現在でもギリシャ人はこの地をシリフケではなく、セレフキアと呼んでいます。
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アレキサンダー大王の将軍で後にセレウコス朝の王になったセレウコス1世が、アレキサンダー大王が東方遠征でユーフラテス川を渡った場所である南東アナトリアの地中海沿岸のこの地に、紀元前300年自身の名とユーフラテス川の名を合わせて”セレウコス・ユーフラテス”と言う名の都市を築きました。
その後、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った際に、橋・通路を意味する“ぜウグマ”の名に変更され、最盛期には8万人の人口を持つ世界で有数の大都市となりました。
この遺跡から大量に発見されたモザイク画は、現在ガズィアンテップのゼウグマモザイク博物館に収容されています。
イスタンブール考古学博物館一階でひときわ豪華で威光を放っているのが、”アレキサンダー大王の棺”と呼ばれている石棺です。
ただ、この石棺はアレキサンダー大王の亡骸が収められた石棺ではありません。1887年にオスマン帝国のオスマン・ハムディ・ベイによってシドン(レバノン)近郊のネクロポリスで発見された、紀元前4世紀後半に造られたシドンの太守で紀元前311年に没したアブダロニュモスの石棺と言われています。
25トンの大理石で作られた世界最大級の石棺であり、石棺の四面にはアレキサンダー大王がペルシャ王ダレイオス3世と対峙しているイッソスの戦いの場面や大王の狩の場面など臨場感漂う立派なレリーフが施されており、そこから” アレキサンダー大王の石棺”と名付けられました。
石棺主のアブダロニュロスは、シドンの王族出身でありながらも貧しく羊飼いをしていたところ、アレキサンダー大王の臣下のへファイスティオンの推薦で大王よりシドン王に任命されました。これにより大王に対する恩義と忠誠を表すために自身の棺に大王のレリーフを施したと言われています。
この“アレキサンダー大王の棺”は、イスタンブール考古学博物館の目玉展示品であり、一見の価値有るものです。
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そんなアレキサンダー大王の生涯を始め、トルコとの関りをここで徹底解説致します!

目次
アレクサンドロス大王は何した人?わかりやすく解説
アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)は、古代マケドニアの王としてマケドニアからエジプト、ギリシャ、ペルシャ、インドの一部に広がる広大な帝国を築いた歴史上最も有名な統治者の一人です。彼の版図は当時の人々が知っていた主要な国をほぼ全て征服するまでに至ったため、狭義の世界征服を達成したともいえます。その偉大な功績から、大アレキサンダー(Alexander the Great)と称されます。これは彼の死後、紀元前1世紀ごろにローマで「Magnum(ラテン語で“Great”の意)」と呼ばれたのが由来のようです。生前から“偉大”と言われていたかはわかりません。
ちなみにアレキサンダーは英語での読み方で、ギリシャ語の読み方ではアレクサンドロスです。
アレクサンドロス大王は軍事戦略の天才
アレクサンドロス(アレキサンダー)大王は、当時の歴史上類を見ない大帝国を作り上げましたが、その評価・功績は政治面よりも軍事面にフォーカスされることが一般的です。彼は戦術の天才であり、自らも前線に立って的確な指示を出す非常に優秀な指揮官でした。アレクサンドロス大王は、20歳でマケドニアの王となり、32歳に亡くなるまで、その治世のほとんどを侵略・戦争に費やしました。そして、その中で巧みな戦略・戦術を用いて自軍よりも戦力に勝る相手に勝利することも多かったといいます。
アレクサンドロス大王の領土拡大や戦争への勝利に対する情熱と、類まれなる軍事的才能が、歴史に語り継がれる大帝国を誕生させたのです。
一方で、彼は統治者としてはさほど優れていなかったとする意見もあります。アレクサンドロス大王の築き上げた帝国は彼のカリスマ性に支えられていたために、後継者を指名せずに亡くなった後は、4人の将軍がそれぞれ国を設立するかたちで帝国は分割され、40年にもわたる戦争に巻き込まれていきます。
これは、内政の成功によって623年も存続したオスマン帝国と対照的といえるでしょう。
オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡
アレクサンドロス大王の功績
アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシャ文化が東に広く紹介されました。そして、征服した各地で人種融合・文化交流政策を推進したことでギリシャ文化・オリエント文化・エジプト文化が融合したヘレニズム文化が生まれました。また、アレクサンドロス大王は遠征ルートの途中、交通の要衝となるさまざまな場所に自身の名を冠した「アレクサンドリア」という都市を作り、東西の交易を促進しました。さらに、彼の築いた帝国内ではギリシア語(コイネー)が公用語として広がり、キリスト教の新約聖書は当初このコイネーで書かれています。
このように、アレクサンドロス大王はただ領土を広げただけでなく、共通の文明と共通の言語を持つ単一の世界を作り出したのです。また、彼の偉業は、ジュリアス・シーザーやナポレオンなど、その後の歴史を作った偉人にも大きな影響を与えたといわれています。
アレクサンドロス大王は英雄か?分かれる評価
アレクサンドロス大王はその歴史的な功績から英雄視されることも多くありますが、見方によって評価は分かれます。彼に逆らったエジプトの都市テーベでの虐殺や奴隷制、世界遺産にも登録されているティルスやペルシア帝国の都ペルセポリスの破壊など、遠征における侵略者としての振る舞いは批判の対象となることもあります。また、東方遠征の主要ルートの一つであるアケメネス朝ペルシア帝国は、当時の言葉でいう野蛮人の住む未開の地では決してなく、オリエント文化の発展した文明国家でした。ペルシア戦争での復讐を掲げて進軍したアレクサンドロス大王は、文明の破壊者ともいえるのです。
一方で、ペルシャ帝国を滅ぼし統一されたギリシャ世界を作ったことで、常に侵入してくるペルシャ人の影響や都市国家間の戦争がもたらす破壊からギリシャを解放したと見ることもできます。いずれにせよ、アレクサンドロス大王の治世が文化や地政学に決定的な変化を与え、今なお影響を及ぼしていることは事実です。
大帝国を築いたアレキサンダー大王の生涯
後に“アレキサンダー大王”と呼ばれる「アレクサンドロス3世」(以下、アレキサンダー)ですが、誕生は紀元前356年。コリントス同盟の盟主であり、古代ギリシャのアルゲアス朝マケドニアの王「ピリッポス2世」の息子として、マケドニア王国の首都ペラで生まれました。哲学者アリストテレスから学ぶ
アレキサンダーは、紀元前342年頃から340年の13歳から16歳頃、あの有名な万学の祖と言われる最大哲学者「アリストテレス」が家庭教師となり、後に近臣・将軍となる学友たちと学問・教養を学びます。
アレキサンダー大王の教師アリストテレス | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
若干20歳でマケドニア王に即位
紀元前336年に父ピリッポス2世が東方遠征を計画していた最中に暗殺されると、アレキサンダーは20歳の若さで後を継ぎマケドニア王となり、コリントス同盟の盟主権も継承します。しかし、父ピリッポスの死を聞いた北方の国やアテネやテーバイやトラキアなどの近隣諸国はこれを機に、マケドニアに対し反旗を翻します。アレクサンドロス3世はまずこの近隣諸国の反乱を平定し、全権を掌握しました。
アジア征服の野望を抱き東方遠征へ出発、小アジアへ
紀元前334年春、父の遺志を受け継ぎ3万5千の兵を率いて東方遠征に向かいます。
マケドニアからトラキア地方に進み、へレスポントス(ダーダネルス海峡)を渡って小アジア、現在のトルコのアジア側アナトリアへ踏み入れますが、当時のアナトリアはアケメネス朝ペルシャに支配されていました。そのため、アレキサンダーは東方へ進むために宿敵アケメネス朝ペルシャのダレイオス3世を倒さなくてはなりませんでした。
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ホメロス著『イーリアス』のアキレウスに心酔していたアレキサンダーは小アジアへ渡ると、まずはトロイ詣をしてアキレウスの墓に献花をしました。その後に、初めてペルシャ軍と”グラニコス川の戦い”でぶつかり、ペルシャの先鋭部隊と言われた騎兵隊を壊滅させ勝利を収めます。
この勝利によりアレキサンダーの名声は高まり、小アジア西部の都市の多くがマケドニア軍と戦わずに降伏したため、無血開城にて小アジアの半分を手に入れることとなりました。
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大都市であったミレトスとハリカルナッソスは、支配下になる事に最後まで抵抗しましたが、アレキサンダーの手に堕ち、エーゲ海・地中海沿岸の都市を全て攻略してペルゲへ到達します。
そして紀元前333年春、マケドニア・コリントス同盟全軍再集結の為に訪れた中央アナトリアのフリギア王国首都ゴルディオンにて、「結び目を解いたものがアジアの王となる」と予言されていた有名な“ゴルディアスの結び目”を一刀両断したという伝説を残しました。
その後、アンキュラ(アンカラ)、カッパドキア、キリキア門を通りタルソスへ進み、紀元前333年11月にパヤス川(現ハタイ県ドルトヨルのデリ川)で行われた”イッソスの戦い”にてペルシャ王ダレイオス3世自ら率いるペルシャ軍に大勝利を収めました。
ダレイオス3世は逃走、残されたダレイオスの母親と妻子を捕虜として迎えます。この後にダレイオス3世から和睦が申し入れられますが、アレキサンダーは拒否しました。
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シリアや東地中海沿岸都市を制し、エジプト王ファラオとなる
南下したマケドニア軍は東地中海沿岸のフェニキア都市ティール(ティルス)とガザを攻略します。その後、アレキサンダーは紀元前332年11月頃エジプト人より解放者として歓迎され、“エジプト王ファラオ“となり都市「アレクサンドリア」を建設しました。メソポタミアを征服し、ペルシャ帝国滅亡へ
紀元前331年春にエジプトからティールに戻り、そこからペルシャ帝国の心臓部へ突き進むため、メソポタミアへ入ります。
紀元前331年10月、ペルシャ帝国の大軍を引き連れたダレイオス3世と現在のイラク北部アルビールで対峙した”ガウガメラの戦い”で再び大勝利を収めます。しかし、またもダレイオス3世を逃がすことになってしまいましたが、ペルシャ帝国はほぼアレキサンダーの手に入ったことになりました。
アレキサンダーは、ペルシャの重要都市であるバビロンに入りここを拠点とします。その後、冬の宮があるスーサ、そして首都のペルセポリスに攻め入り徹底的に破壊し焼き払いました。
翌年の紀元前330年、アレキサンダーが夏の宮のあるエグバタナを占領した頃、ペルシャ東方領である中央アジアのバクトリア州に逃げていたダレイオス3世が、バクトリア総督(サトラップ)のベッソスにより殺害され、これによりアケメネス朝ペルシャが滅亡しました。
ペルシャ帝国領土を手に入れ帝国の大王「アレキサンダー大王」となったことで、ここで一区切りつけマケドニア軍ギリシャ兵の帰国を許可します。
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アジアの覇者となるため世界の果てへの挑戦
紀元前330年、アレキサンダー大王はまだ見ぬ地アジアの果てへの新たな遠征を始めます。まず中央アジア方面へ侵攻しますが、紀元前329~327年アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン方面にあったバクトリアとソグディアナで攻防が繰り広げられ、スキタイ人とも戦闘を行います。これもアレキサンダー大王の大胆な戦略により勝利し、この時アレキサンダー大王はバクトリアの有力豪族オクシュアルテスの娘ロクサネと結婚しました。
紀元前327年、アレキサンダー大王は3万5千人の戦闘兵を含む12万人の隊を組みバクトラを出発しインドへ向かいます。アオルノス(現パキスタンピールサル山)にて包囲戦を行い勝利の後、紀元前326年インダス川を越えてパンジャブ地方の大都市タクシラに到着しました。
同年春に反マケドニア軍のインド諸侯軍と“ヒュダスペス河畔の戦い”にて勝利し、更なる東へ進軍を目指そうとします。しかし、この戦いでの軍の損害が大きく、また続く戦争に疲れ、8年間故郷から離れている兵士たちが望郷の念が大きくなり帰郷を懇願した為、アレキサンダー大王は3日間テントに籠って考えた後、これ以上の進軍はやむなく諦めました。
アジアとはトルコのことだった?!区分の仕方と知られざる起源と歴史 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
進軍を諦め帰途へ
ヒュダスペス川からインダス川を下航している帰途、マッロイ人との戦役にてアレキサンダー大王は胸に矢を受けてしまいます。肺を貫通する重傷を負いながらも、紀元前325年8月にインダス川河口のデルタ地帯のパタラ(現タッター)に到着します。同年9月、そこから部下のネアルコスと隊の一部はてインダス湾からペルシャ湾を通りユーフラテス川まで海路にて行かせ、アレキサンダーと本隊は陸路にて食糧難などの過酷な条件下でゲドロシア砂漠(バルーチスターン)、カルマニア(イランのケルマーン)を通り、紀元前324年春にスーサに帰還しました。
帝国の強化
その後、アレキサンダー大王は、広大な帝国を治める為にマケドニア人とギリシャ人とペルシャ人の融和政策を進めます。そこで紀元前324年スーサにてマケドニア人兵士とペルシャ人女性との集団結婚式を行い、アレキサンダー大王自身もダレイオス3世の娘スタテイラと結婚し、指揮官たちにもペルシャの貴族の女性と結婚をさせるなど両国の融合を図りました。また、軍隊や行政にペルシャ人とマケドニア人との対等な登用を進めたり、マケドニアで軍事訓練を受けた3万人のペルシャの若者の帰還、バクトリア、ソグディア、アラコシアなどの東方諸国からの騎兵部隊への徴兵、ペルシャ貴族を近衛隊への採用、そしてマケドニアの元兵士を国に戻すというアレキサンダー大王の決定は、帝国の権力と行政の中心をアジアに移そうとする試みと見なされてしまいます。
この、アレキサンダー大王のペルシャ風を取り入れたペルシャの融和政策は、マケドニア軍だけでなく側近からも大きな不満や反感が生まれることとなりました。
アレキサンダー大王の最期|死因は?
紀元前323年春、バビロンに帰還しアラビア半島への遠征準備、バビロンの水路建設、ペルシャ湾沿岸の都市計画をしていた最中、深酒をしたある大宴会の後に倒れ、10日間高熱にうなされた後、紀元前323年6月10日、32歳の若さで、アレキサンダー大王は志半ばにしてその生涯を終えました。
側近たちが大帝国を誰が引き継げばよいかと死に際に訊ねた際、アレキサンダー大王は「最強の者が継承せよ」と答えたと言います。この遺言がこの後にディアドコイ(後継者)戦争へと発展することとなるのです。
なお、死因はマラリアや腸チフスや西ナイルウイルスなどの感染症説や毒殺説やアルコールの呑み過ぎによるものなど様々な説がありますが、真相は解明されていません。
アレキサンダー大王の墓はどこ?
アレキサンダー大王の遺体は、バビロンからマケドニアに輸送される予定でしたが、途中のシリアにて将軍プトレマイオスの制止により、エジプトのメンフィスに埋葬されました。そして、紀元前280年頃にアレクサンドリアへ移され、後世その墓を訪れた人々について記録や歴史書がありますが、アレクサンドリアのどこにアレキサンダー大王のお墓があったのかは残念ながら分かっていません。アレクサンドロス大王の妻・子孫は?
アレクサンドロス大王には3人の妻がいました。1人目はバクトリアの王女であるロクサネ、2人目はアケメネス朝ペルシア帝国のダレイオス三世の長女スタテイラ2世、3人目は同じくペルシアのパリサティス2世です。ロクサネはアレクサンドロス大王が亡くなったときに妊娠しており、死後数か月経ってから息子であるアレクサンドロス4世を出産しました(本当にアレクサンドロス大王の子かどうかは不明)。スタテイラ2世とパリサティス2世は、息子アレクサンドロス4世の権威を維持しようと考えたロクサネによって暗殺されたと見られています。
ディアドコイ(後継者)戦争の最中、ロクサネは息子アレクサンドロス4世とともにアレクサンドロス大王の母オリュンピアスに保護されていましたが、マケドニアを征服したカッサンドロスによってオリュンピアスが処刑された後、ロクサネとアレクサンドロス4世も暗殺されてしまいました。
なお、後の伝記によるとアレクサンドロス大王は同性愛者または両性愛者であったと考えられており、副司令官であるヘファイスティオンは彼の生涯の友人であり恋人でした。紀元前324年にヘファイスティオンが熱で亡くなったとき(毒殺された可能性もあり)、アレクサンドロス大王は悲しみに打ちひしがれたといいます。
アレキサンダー大王死後の帝国領土
アレキサンダー大王死後、帝国の支配を掛けて彼の将軍達により紀元前323~281年まで40年間にも及ぶ後継者戦争「ディアドゴイ(後継者)」がおこります。三国時代 クレオパトラとアレキサンダー大王の共通点
ディアドコイ戦争の結果、アレキサンダー大王が作った帝国の領地は最終的に3つに分割され、3つの王国が誕生しました。
- 1)ギリシャ本土のマケドニア
大王の重臣であったアンティパロスの子カッサンドロスが大王の遺族(母、異母兄、息子達)を根絶して王につき、アンティパロス朝を築きます(紀元前305~紀元前277年)。その後、紀元前276年から共和制ローマに敗れる紀元前168年まではアンティゴノス朝が統治しました。 - 2)トルコ(アナトリア)とメソポタミアのセレウコス朝
帝国のアジア部分の殆どとなるアナトリアからメソポタミア、バクトリア、インドまでに及ぶ最も広大な領土を引き継ぎ、セレウコス朝シリアを建国したのが大王の側近であったセレウコスです。
大王が死去した場所であるメソポタミアのバビロンなど、セレウコス朝領土内には大都市がありましたが、領土中核のシリアを重要視して各地に都市を建設し、首都を現トルコのアンティオキアに置きました。そして多くのギリシャ人がこの地域に住み着いたのです。
メソポタミアの都市によっては、支配層のギリシャ人と現地のバビロニア人は別個の都市を形成していたとも言われています。
セレウコス朝は紀元前63年にローマのシリア属州となるまで約250年間続きました。 - 3)エジプトとキレナイカを含むプトレマイオス朝
マケドニア貴族ラゴスの息子であり、アレキサンダー大王の友人で側近であった将軍プトレマイオス1世は、ディアドコイ戦争に勝ち抜き、紀元前305年にプトレマイオス朝エジプトの最初のファラオになります。
プトレマイオス朝の領土には、エジプト、リビア、およびシナイ半島が含まれ、プトレマイオス1世と彼の子孫、即ちギリシャ人が、紀元前30年まで約300年近くの間、これらの地を統治したのです。
皆さんご存じのあの有名なクレオパトラは、このプトレマイオスの子孫でプトレマイオス朝の最後ファラオでもあります。そう、彼女はエジプト人ではなく、ギリシャ人なのです。
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トルコでのアレキサンダー大王東進ルート
最初の東方遠征の紀元前334~333年の2年間で、アレキサンダー大王はペルシャ帝国の領土となっていたアナトリアの地を攻略しました。下記はアレキサンダー大王がアナトリアで辿ったルートですが、皆さんご存じの有名な場所が多くあります。紀元前334年に支配下に置いた場所
- セストス(アクバシュ・リマヌ/エジャバット、トルコヨーロッパ側)
マケドニア出発から20日後、ここからダーダネルス海峡を渡って海峡入口対岸のシゲイオン(トロイより5㎞北)と言う町から小アジアの地へ踏み入れました。 - イリオス (トロイ/チャナッカレ県)
トロイ詣をし、トロイ戦争の英雄アキレスの墓に献花をしました。 - グラニコス川 (ビガ川/チャナッカレ県)
ペルシャとの最初の戦い“グラニコス川”の戦いが起こった場所。 - サルディス (サーリフリ/マニサ県)
ペルシャ守備隊長ミトレネスが降伏。無血開城。 - エフェソス (セルチュク/イズミール県)
戦うことなく無血開城。略奪や虐殺を防ぎ滞在。 - ミレトス (アイドゥン県)
攻防戦の後に攻略。攻防戦の際、ミレトスの北20㎞にあるプリエネの町に滞在し、その時の家と言われる”アレキサンダー大王の家(Büyük İskender Evi)”跡がプリエネ遺跡に残っています。 - ハリカルナッソス (ボドルム/ムーラ県)
ペルシャ軍を率いるメムノンと対峙し包囲戦の上、攻略。 - クサントス、パタラ (カシュ/アンタルヤ県)
無血開城。 - ファセリス (ケメル/アンタルヤ県)
金の冠でアレキサンダー大王を歓迎し、支配下に入る。数か月滞在。 - ぺルゲ、アスペンドス、スィデ (アンタルヤ県)
無血開城。 - サガラッソス (アーラスン/ブルドゥル県)
攻略。遺跡の南側にはその時に両軍が戦った場所とされる”アレキサンダーの丘”があります。 - テルメッソス (ギュルルックダー国立公園/アンタルヤ県)
山肌にある難攻不落の都市。包囲をするも、攻略できなかった場所。
紀元前333年に支配下に置いた場所
- ゴルディオン (ポラットル/アンカラ県)
紀元前334~333年にかけての冬を過ごした場所。この滞在の際に“ゴルディオンの結び目”を解いたと言う逸話が有名です。 - アンキュラ (アンカラ)
ゴルディオンからこの町を通って南下。 - カッパドキア (ネヴシェヒル県)
攻防の末この辺一帯を支配下に置くも、直ぐにアケメネス朝ペルシャの総督がカッパドキア王国を築き、マケドニアに反抗。 - キリキア、タルスス (タルスス/アンティオキア)
キリキア門を突破してタルススを支配。 - イッソス (ドルトヨルのデリ川/アンティオキア)
アケメネス朝ペルシャ大王ダレイオス3世の軍と直接対決した有名な”イッソスの戦い”が行われ、勝利した場所。
アレキサンダー大王の画で最も有名なポンペイのモザイク画『アレキサンダー・モザイク』は、このイッソスの戦いを描いたものと言われています。左の騎馬の人物がアレキサンダー大王、右の戦車に搭乗しているのがダレイオス3世。前120~100年頃に描かれたもので、ポンペイ遺跡で発掘されイタリアのナポリ考古学博物館で所蔵されています。 - アレクサンドレイア(イスケンデルン/アンティオキア)
イッソスの戦いの戦勝記念にイッソスのすぐ南にアレキサンダー大王が建設した港町。エジプトのアレクサンドリアと区別する為に、当初は“アレクサンドリア・ニア・イッサス”と呼ばれており、現在もこの地は小さなアレクサンドリアを意味する“イスケンデルン”と言う名がついています。
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アレキサンダー大王崩御後のアナトリアの地
アレキサンダー大王の死後は、彼の将軍たちがアナトリアを分割統治しますが、紀元前23~281年まで40年間の「ディアドゴイ(後継者)戦争」により、最終的にアナトリアはアレキサンダー大王が築いた帝国のアジア部分ほぼ全域を支配下に置いたヘレニズム三王国の一つセレウコス朝の支配下となりました。アナトリアで起こったディアドコイ戦争
- 紀元前321年 へレスポントスの戦い (ダーダネルス海峡付近)
- 紀元前320年頃 オルキュニアの戦い (カッパドキア)
- 紀元前319年 クレトポリスの戦い (ブルドゥル近郊)
- 紀元前301年 イプソスの戦い (アフヨン東エベル湖西岸辺) ※ディアドゴイ最大の戦い
- 紀元前281年 コルペディオンの戦い(サルディス近郊) ※ディアドゴイ最後の戦い
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アレキサンダー大王の戦術のすごさ
アレキサンダー大王は戦争で決して負けたことがないといわれています。彼の戦術で特筆すべき点の一つが、鉄床戦術(Hammer and Anvil)による急襲です。歩兵隊が敵を引き付けている間に、別方向から騎馬隊を迅速に突撃させることによって、自軍の2倍、3倍ともいわれたペルシア軍をことごとく敗退させたのです。攻撃の要となる騎兵隊は、当時のギリシャで一般的なものよりも長い槍を持ち、横一列ではなく三角形またはV字型の隊列を採用することで、高い攻撃力と機動力を発揮しました。
歩兵隊は丸い盾と槍を持ち正方形に隊列を組んだファランクスと呼ばれるユニットです。ファランクス自体は当時のギリシャではすでにありましたが、アレキサンダー大王軍で特徴的だったのは、一般的な槍の2倍もあるサリッサという武器を採用したことでした。これにより、剣で戦うペルシア軍の歩兵を圧倒したのです。
なお、アレキサンダー大王が当初から大きな戦果をあげられたのは、父であるフィリップによる軍事改革の功績も大きかったようです。
また、アレキサンダー大王は、前線で兵士とコミュケーションを取り、戦意を高めるために演説するなど、常に彼らのモチベーションを維持する努力をしていたことでも知られています。「I am not afraid of an army of lions led by a sheep; I am afraid of an army of sheep led by a lion.(羊に率いられたライオンの軍団は怖くない、ライオンに率いられた羊の軍団が怖いのだ)」という名言通り、アレキサンダー大王は優れたリーダーシップを発揮していたと考えられます。
アレキサンダー大王の逸話|トルコにおける伝説と所縁の人物・場所
犬儒派の哲学者「ディオゲネス」
トルコ黒海地方沿岸都市シノーペ(現スィノプ)出身の犬儒派の哲学者。彼が国外追放されアテネに住んでいた紀元前336年頃、アレキサンダー大王が東欧遠征に行く前にコリントス同盟の盟主としてアテナに滞在していた際にディオゲネスに会いに行ったと言われています。
その際、アレキサンダー大王がディオゲネスに「何か希望はないか」と聞くと、ディオゲネスは「あなたがそこにいると日陰になるからどいてください」と答え、この出会いの帰途でアレキサンダー大王は「私がアレキサンダーでなければ、ディオゲネスになりたい」と言ったと言う逸話が残っています。
哲学者のディオゲネス | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
ランプサコス出身の哲学者「アナクシメネス」
ランプサコス(現チャナッカレ県ラプセキ)出身の歴史家で弁論家。ディオゲネスの弟子で、アレキサンダー大王の教師の一人でもありました。アナクシメネスは、アレキサンダーが小アジアへ渡ったとき故郷のランプサコスにいました。ランプサコスは親ペルシャ派であったため、アレキサンダー大王の怒りにふれて町に危害を加えると脅しを受けていました。
危機的状況の故郷を守る為、アナクシメネスがランプサコスの人々の使者としてアレキサンダー大王を訪れるのですが、彼の意図に気が付いたアレキサンダー大王は即座に、「自分はアナクシメネスの要求とは正反対のことを行うであろう」と神々に誓ったのです。
これに対して雄弁家であったアナクシメデスは、「ランプサコス市民達の妻子たちを売り払い、街を略奪し、神殿を焼き払うよう」願いました。かくして、アレキサンダー大王は自らの誓いのゆえに止むを得ずランプサコスの人々を許したと言います。
なお、この後アナクサメデスは東方遠征に同行し、大王の歴史書を書いたとされています。
トロイ|英雄アキレウスの墓参り
ホメロス著『イーリアス』のアキレウスに心酔していたアレキサンダー大王は、紀元前334年小アジアへ渡ってすぐこの町を訪れ、アテネ・イリアス神殿に自身の鎧を奉納してその代わりにトロイ戦争時より伝わる楯と鎧を授かりました。またトロイ戦争の英雄アキレウスの墓に詣でて献花をしたと言います。
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エフェソスの「アルテミス神殿」
アルテミス神殿は紀元前356年7月21日放火により破壊しますが、この放火事件が起きた晩に、マケドニアにてアレキサンダー大王は誕生しました。
アレキサンダー大王は後に東方遠征の初めにエフェスに滞在した際、神殿の修復費用の全てを引き受けると申し出て、アレキサンダー大王自らの名の刻まれた記念碑を造るように命じました。しかしエフェソスの人々は「神である大王が別の神を祀る神殿を造るのは相応しいことではありません」と、アレキサンダー大王のプライドを傷つけることなく拒否したと言います。
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ゴルディオン|ゴルディオスの結び目の伝説
フリギアの王「ゴルディアス」がかつて、「この結び目を解いたものがアジアの王となるだろう」と予言し荷車を神殿の柱に結びつけた難解な結び目”ゴルディアスの結び目”伝説がゴルディオンの地にありました。紀元前334年の冬、アレキサンダー大王はここに滞在した際、この結び目を解こうとしましたが解けなかったので剣を抜き、結び目を一刀両断し、数百年間解けなかった結び目をいとも簡単に解いたと言います。
そして、アレキサンダー大王は予言通り、その後次々とアジアを征服し、アジアの王となりました。
この逸話から、「ゴルディオスの結び目」は思い切った策がないと解決できない難題のたとえとして使われます。または、英語では「cut the Gordian knot(ゴルディオスの結び目を切る」=大胆な方法で難題を解決する、という意味のことわざになっています。
王様の耳はロバの耳は実在したトルコ・ゴルディオンの王様が元ネタ!あらすじや歴史を解説
アレキサンドリア・トロアス(Alexandria Troas)
トロイから南に30㎞にある古代都市です。アレキサンダー大王の死後、紀元前306年に、アレキサンダー大王の臣下で将軍であったアンティゴノスが、ディアドゴイで支配した周辺5都市の住民をこの地に集めて住ませを築いた都市がここです。紀元前301年に同じく将軍であったリュシマコスが、アンティゴノスの後にこの地を支配した際にアレキサンダー大王を記念して “アレキサンドリア・トロアス”と名付けたと言います。
古代セレウキアの町シリフケ(メルシン県)
地中海沿岸の町シリフケは、アレキサンダー大王の将軍であり、ディアドコイ戦争の後にアナトリアを支配したセレウコス1世によって紀元前3世紀初頭に造られた数あるセレウキア(セレウコスの町の意)の名を持つ町の一つです。ビザンツ帝国時代ギリシャ語でセレウケイアと言われていたため、現在でもギリシャ人はこの地をシリフケではなく、セレフキアと呼んでいます。
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セレヴカヤ・ユーフラテス(ゼウグマ・ガズィアンテップ)
アレキサンダー大王の将軍で後にセレウコス朝の王になったセレウコス1世が、アレキサンダー大王が東方遠征でユーフラテス川を渡った場所である南東アナトリアの地中海沿岸のこの地に、紀元前300年自身の名とユーフラテス川の名を合わせて”セレウコス・ユーフラテス”と言う名の都市を築きました。
その後、紀元前1世紀にローマ帝国の支配下に入った際に、橋・通路を意味する“ぜウグマ”の名に変更され、最盛期には8万人の人口を持つ世界で有数の大都市となりました。
この遺跡から大量に発見されたモザイク画は、現在ガズィアンテップのゼウグマモザイク博物館に収容されています。
アレキサンダー大王の棺所蔵のイスタンブール考古学博物館
イスタンブール考古学博物館一階でひときわ豪華で威光を放っているのが、”アレキサンダー大王の棺”と呼ばれている石棺です。
ただ、この石棺はアレキサンダー大王の亡骸が収められた石棺ではありません。1887年にオスマン帝国のオスマン・ハムディ・ベイによってシドン(レバノン)近郊のネクロポリスで発見された、紀元前4世紀後半に造られたシドンの太守で紀元前311年に没したアブダロニュモスの石棺と言われています。
25トンの大理石で作られた世界最大級の石棺であり、石棺の四面にはアレキサンダー大王がペルシャ王ダレイオス3世と対峙しているイッソスの戦いの場面や大王の狩の場面など臨場感漂う立派なレリーフが施されており、そこから” アレキサンダー大王の石棺”と名付けられました。
石棺主のアブダロニュロスは、シドンの王族出身でありながらも貧しく羊飼いをしていたところ、アレキサンダー大王の臣下のへファイスティオンの推薦で大王よりシドン王に任命されました。これにより大王に対する恩義と忠誠を表すために自身の棺に大王のレリーフを施したと言われています。
この“アレキサンダー大王の棺”は、イスタンブール考古学博物館の目玉展示品であり、一見の価値有るものです。
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