トルコ旅行(ツアー・観光)専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』 | エフェソス遺跡

JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
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東京商工会議所 会員
トルコ観光名所ガイド

エフェソス遺跡


地名と設立

A.D.54年の初夏の事である。「人の手によって作り出された神は、もはや神ではない。」と説く聖パウロに対して、銀細工師ディミトリウスに扇動された何千ものエフェソス人達は口々に「エフェソスのアルテミス万歳、偉大なアルテミス万歳」と叫びながら大劇場に押し寄せ始めた。二時間にも及ぶ民衆の叫びを前にして、白い法衣に身を包み、片手にしゃくを持った聖パウロも、これを鎮圧するには力及ばず、数人の信者の助けによって、命からがらその場を後にするのがやっとであった。

この出来事は、都市の発見者アンドロクロスがこの町にやって来た日、リディア人やペルシア人の最初の侵入、この地を襲ったA.D.17年、355年、365年、そして368年の地震、又、431年に開催されたキリスト教審議会等と同様、エフェソスの歴史上重要事項に新しい一頁を加える結果となったのである。しかし、空を震わす勢いのアルテミスへの賛歌は、実際、7,000年生き続けたエフェソス人の尊い女神の臨終の一息でもあったのである。
詳しくは右側のエフェソス旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → → →

2分03秒  (日本語字幕版)
「エフェソスのアルテミス」として知られる女神像は、B.C.7,000年、祈りの対象としてチャタルホユック人の手により、女性の豊潤さを極端に強調した形が採られたもので、こうして誕生した女神は、以降長い間、人々の上に君臨する事になったのである。彼女は全ての母であり、何よりも力強く、全ての支配者であり、アナトリアの隅々、そしてここを経由して、メソポタミア、エジプト、アラビア、更にはスカンジナビアの地方までに多大な影響を与えたのであった。何千年もの展開を見た後、女神はエフェソスのアルテミスと呼ばれる様になったわけである。

敬意を表して造られたアルテミスの神殿は、過去から残った最も重要な宝であるとされており、その周辺に位置したエフェソスは、文化的、社会的観点からして、文明発生地として認められていた。

エフェソスに関する情報は、古代の学者の著書や、発掘によって出土された何千もの碑文、その他の考古学的発見物によって得る事が可能であるが、その設立については、まだ充分解明がされていない。古代の有名な学者ストラボンとパウサニアスはエフェソスの設立者はアマゾン族で、カリア族とレレグ族が主な民族であったとしている。

歴史家ヘロドトスによれば、カリア族は自身をアナトリアに於ける最初の住民であると認め、最も重要な地区ハリカルナソスを含むカリアの名で呼ばれた地区に住んでおり、一方、レレグ族はトラキアやエーゲ海の島々から小アジアに移住したのであるとしている。都市の設立とアマゾン族の関係には実に緊密な物があり、おそらくこの理由でストラボンはアマゾン族の一人に因んでここをエフェソスと名付けた事を指摘していたのであろう。

B.C.7世紀末からB.C.6世紀初期のエフェソスの詩人カッリノスは、この他を落としたアマゾン族にはスミルナ(イズミール)の名が付けられていたと記しており、エフェソス出身にも拘らず、B.C.540年にアテナゴラスによって都市から追放された詩人ヒッポナクスは、エフェソスの一部がスミルナと呼ばれていたと述べている。ストラボンはスミルナがレプレ・アクテとトラキアの間に位置し、レプレ・アクテとはピオン山(ビュルビュルダゥ)、そしてトラキアはコレッソス山(バナユルダゥ)の事であると記している。後にスミルナ人はエフェソスを離れ、今日のイズミール辺りに居を定め、イズミールの町を設立したと言う。

エフェソス遺跡
エフェソスとアマゾン族との関係は歴史を通じて、常に語られ続けてきた。B.C.5世紀には、当時の有名な彫刻家の間で、アルテミス神殿に備え付ける為に、アマゾンの彫り物のコンテストが開催されている。(アルテミスの神殿、参照)
聖ヨハネの教会付近で出土し、エフェソス博物館に展示されているミケーネの墓からの品々はB.C.1,400~B.C.1,300年の物とされ、現在までのところ、エフェソスに於いて発見された考辞学的発掘物の最古の例と言われている。こう言った事実の上に立って考えると、少なくともこの時代には、既にエフェソスが設立していたとするのが正論であろう。

出土品の椀は、ミケーネ人が地中海、西アナトリアの沿岸に設立した組合にて市場に出す為に、当時の最も進んだ技術を用いて作られたものであり、これらは主にトロイからハリカルナソスまで続く海岸沿いにて発見されている。エフェソス近郊のミレトスの地にて出土したB.C.1,600の品は最も古い物であるとされている。

B.C.13から14世紀のヒッタイトの資料に述べられているアッヒヤワ王国は、おそらくミレトス近郊に位置していたのであろう、と言うのがアクルガル教授や他の考古学者の見解であり、これが裏付けされた時には、エフェソスはその位置からして王国の中で最も重要な都市、すなわちヒッタイトの碑文の中に述べられているアパサスの地に相違ないと考えられるのである。しかし、今日までミケーネの居住の事実を示すものはエフェソスに於いて何も発見されていない。

B.C.1,300~1,100の間は、アナトリア、シリア、エジプトの国々が不安定な空気に包まれた時期であり、中央アナトリアを支配していたヒッタイトは少数民族の台頭を快く思わなかったのである。

エフェソス遺跡
トロイ陥落とそれに続く掠奪の後、トラキア人達はこの地から更に南下を始め、海側からの南アナトリアに居を構える他のトラキア人と共に植民地を形成したのである。12世紀のエジプトの資料には、当時の移住の際に滅亡した民族について、哀悼の意を込めた言葉で記したものが残っている。地図上に初めてアイオリスやイオニアの名が現われたのもこの時代の事であり、エフェソスを含んだイオニア地方は、聖書に於いては〈ヤワン〉アッシリアの碑文では〈ヤウナイ〉、そしてペルシアの碑には〈ヤウナ〉の名で語られている。

移住民等は安全性を考慮して、半島や海岸の近くに住まいを求めている。エフェソスに於ける植民地開拓は他のイオニア諸国と同様B.C.10世紀に完了し、ストラボンとパウサニアスはこれについて次の様に語っている。アナトリアヘの移住を前にどの土地に新しい住まいを置くべきか、一向に決心ができないでいるアテネ王の子息アンドロクロスとその友人達は、アポロ神殿に伺いをたてた。

予言者の「魚と猪が新都市となるべき場所を示す事であろう。」と言う言葉を信じて、一行は旅の路についた。ある土地にてアンドロクロス遠が料理を始めたところ、平鍋から魚が跳ね上がり、これによって蒔き散らされた火の粉が、辺りの薮に燃え広がった。驚いた猪は薮の中から飛び出し、しかし、結局追い掛けて来たアンドロクロスに仕留められてしまったのであった。魚と猪、神殿の予言は正しかったのである。彼等は早速、当時は内港の様な地形であったピオン山の北裾野の地を新しい住まいと決定し、一連の出来事を記念して、猪を仕留めた場所にアテネの神殿を建設したのである。
この神殿のあった場所は現在でも明確にされていない。

アンドロクロスの父であるアテネ王コドロスは、実に勇敢な人物であった。近隣との戦いを前に、デルフィの神託所に、勝利の軍配がどの国にあがるか伺いをたてたところ、答えはこうであった。「最初に命を落とした王の率いる国が勝利を納めるであろう。」と。王は自らの命も顧みず、敵軍の中へ殺されに進み出て行ったのである。そして、この出来事がアンドロクロスとアテネ近くの国王であった継兄弟の間に王の位争いを引き起こし、彼にアナトリアへの移住を決心させる要因となったのに違いない。
設立されたエフェソスの地は、アンドロクロスと彼の子孫の統治の下、約400年間の繁栄をみている。

リディア期
B.C.7世紀、エフェソスと他のイオニア諸国はキンメールの攻撃を受けたが、彼等がエフェソスを手中にしたか否かについては現在でも論争の的となっている。発掘調査で出土した品々によれば、アルテミスの神殿は焼かれて、破壊されたとされている。エフェソスからは、幾つかの典型的キンメールの品が発見されており、エフェソス博物館アルテミスの広間にもこれらの一つである羊を形取った象牙を見る事ができる。

キンメールによる暴風にも似た攻撃が引いた後、エフェソスは再び体勢をたて直し、力を貯えた。
B.C.6世紀はエフェソスの黄金期であり、詩人カッリノスやヒッポナクス、有名な哲学考へラクレイトスもこの時代を生きている。特に、変化自体を万物の根源とし、「万物は流転する」の言葉を残し、火を変化の象徴としたへラクレイトスはイオニアの学問所で大きな名声を得た。彼は〈自然哲学〉と呼ばれるライフワークをアルテミス神殿に捧げている。


当時、エフェソスの名声はかなり遠方にまで轟いており、これがリディア王クロイソス(クレゾス)の最初の攻撃(B.C.560)を招く元になったのであった。この間、エフェソス人はアルテミスの神殿から市内まで張った綱の後ろに女神の加護を信じながら後退していたが、生憎、彼等の望みは裏切られ、リディア軍は市内に侵入してきたのである。

エフェソス人の不安に対し、クロイソスは彼等を実に丁寧に扱った。しかし、それでもコレッソスの町から彼等を追放し、アルテミス神殿の近くに建設される第二の都市に住まわせた。この第二の土地はカイストロス川(キュチュクメンデレス)の運んだ土砂で現在の場所から更に10m下に埋もれた為、アルテミス神殿以外の都市を発掘するのはとても不可能であると考えられる。

リディア人がエフェソスを陥落させた時、古代アルテミス神殿(564~546B.C.)はまだ建設中であり、女神とエフェソス人の気を引く為にクロイソスは(一つには自身の名を印した物)浮き彫りを施した柱頭と黄金の牛の彫像を神殿に奉納している。

(1869年に開始された発掘調査に於いて出土した此れ等の柱頭やその他多くの品は、英国博物館に運ばれている)この頃、港から始まり都市を包囲する砦(城壁)が造られており、神殿とその周囲の居住区もこの内側に位置していた。


ペルシア期

B.C.6世紀の半ばになるとアナトリアは東部のペルシアによる攻撃を受けた。西部アナトリア攻撃を前に、ペルシア側はアイオリス、イオニアの諸国に使者を送り、クロイソス反逆への協力を要請したが、却下されている。ペルシア王キロスがクロイソスを倒すと、アイオリスとイオニアの諸国は、かつてと同様、リディアの法の代わりに今後はペルシアの法を受け入れる事を宣言したのである。

ヘロドトスは、キロス王がアイオリスやイオニアの人々に教訓として語った次の物語を記している;
ある日、海の魚を呼び寄せるために、笛吹が演奏を始めるが、魚は見向きもしない。そこで漁師の網を見付けた彼は、これを使って多くの魚を捕まえた。網の中で飛び跳ねる魚に笛吹きは、「私が笛を聞かせてやった時には誰も岸に近付いて踊らなかったのに。今更踊る事もないと言うものだ。」と。

このキロス王の言葉を聞いたミレトスを除くイオニアの12都市は、各地区に退却し、守りの体勢固めに入った。事前にペルシアとの合意に達していたミレトス人等は、防衛の必要を感じなかったのである。イオニア諸国はスパルタにも援助を要請したが、援軍は送られて来ず、B.C.547年、キロス王の右腕である有名な指揮官ハルパゴスは、フォカイア(フォチャ)を皮切りに、短期間で全西アナトリアを手中に納めてしまった。こうして、エフェソスは歴史を通して二度目に別の国家の支配下に置かれる事となったのである。

ペルシアは支配下の他の国々同様、エフェソスの内政に干渉せず、アルテミス神殿の存在を許した事からもわかる様に信仰の自由をも認めていた。エフェソス人はかつての経済力を維持し続け、文化、貿易上の交流も継続させていた。ペルシアはカリア、リキア、そしてパンフィリアをイオニアと連合させ、これらをサトラップ制の下に統治し始めた。

ペルシアの支配下、エフェソスは拡大し、文化・芸術の中心地となっていった。エフェソスを含めた支配下の国に課税し、必要に応じては、戦士や船の提供も強いたペルシアの態度は、諸国に暴君でさえもこれ程でないだろうに、と思わせる様になり、キロスの後、カンビセスやダリウスの時代になると賦課の高さは諸国の我慢の限界を越える程となった。

連合したイオニアの諸国はB.C.500年、ミレトスの暴君アリストゴラスの指揮の下、〈イオニア植民市の反乱〉を起こしたのであった。この反乱でエフェソス人の果たした役割は実に重要であったと言える。ペルシアへの反逆者は、最初エフェソスに集まり、彼等の指導の下、カイストロスの両岸を辿り、サトラップ制で統治されていた属州の首都サルデスに3日間で到達した。そして戦わずして、しかし、都市にある一軒の家さえも残さずに破壊し、この地を陥落させたのであった。

この際、キベレの神殿を破壊した事実は、後にギリシアに於いて、ペルシア人等の神殿破壊の口実に利用されている。イオニアの反乱はB.C.494年にミレトス、ラデ島近郊で、ペルシアがイオニア艦隊を破った事で一応の終結をみた。直ちにペルシアは全イオニアを再び支配下に置き、多くの都市を壊滅状態に落とし入れた。

この際、最大の被害を受けたのは、ミレトスとキオス(サクズ)であり、多くの艦隊をペルシア軍に撃墜され、失ったキオス軍は、プリエネの西、ミカレに避難した。船を陸に引き揚げ、夜中を通して歩き続け、到着したのがエフェソスであった。丁度その時、エフェソスでは10月、11月に既婚の女性だけが参加して行なわれる祭りの最中であり、夜中に、しかも武装したキオス人等を見たエフェソス人は、女性を対象にした人さらいと勘違いして、彼等を全滅させてしまった。

エフェソス遺跡
B.C.479年、ペルシアの指揮官マルドニオスはアテネと中央ギリシアを再び攻め落としたが、プラタイアにて殺害された為、彼の率いる軍隊は、後退を余儀なくされた。スパルタ軍はミカレで、陸にあがっていたペルシア艦隊を攻撃し、これに火を放ち、全焼させている。

プラタイアとミカレを舞台にした、ペルシア軍に対する勝利は、イオニア諸市を活気づけ、再びの反逆を計画させるに充分な刺激を与えた。ギリシアとアナトリアからペルシアを撤退させる為、スパルタとアテネの指揮の下、B.C.478年〈アチカ・デロス海軍司盟〉が形成され、トゥキディデスやアリストテレスによれば、エフェソスはこの同盟に、B.C.453年に7.5タレント(古代ギリシアの貨幣)、B.C.444年には6タレント、B.C.436年には7.5タレント支払っている。

アテネの政治家アリステイデスの設けた規則は、それぞれの都市の財力に応じた支払額を基準としており、つまり、エフェソスの前述の金額は、それが最も富んだ都市の一つであった事を証明していると考えられよう。

B.C.5世紀末のペロポンネソス戦争で、エフェソスは最初アテネに、後にはスパルタ側に肩入れをした。B.C.409年の夏、ペルシアのスパルタへの支援が公になると、アテネのテラシロスは、陸戦で必要と思われる全てを積んだ50の船を率いてサモスへやって来た。ここで3日間待機した後、彼等はクシャダスの近く、ピゲラを攻撃し、これを手に納めた。ミレトスは何度かの攻撃をしかけたにも拘らず、結局、陥落している。

翌日アテネ軍はエフェソスの北10kmにある彼等の支配地ノーションに赴き、ここの近郊にあるコロホンと、同晩のうちに更にメトロポリス(トルバル)を手中にし、土地を焼き払ってしまったのである。この地方の防衛責任者であるペルシアの指揮官スタゲスはアテネ軍に反撃したが、彼等のノーションへの撤退を妨げる事はできなかった。テラシロスのエフェソス攻撃を察知したイオニアのサトラップ、ティッサヘリネスは周囲の全地区に知らせを出し、アルテミスの聖なる都市を守る為に兵士を収集した。

〈エフェソスの戦い〉と言われるこの戦争の間、アテネ側は多大な損害を受け、休戦状態の際、戦死した兵士を纏めて再びノーションに退いた。そこに戦士兵を埋葬した後、ダーダネルスへ向けて船を出したが、ミデッリで休息中に、エフェソスからダーダネルス海峡へと航海中のシラキュザンの25の商船を目にし、これを攻撃した。この内4漕を手中にし、他の船はエフェソスまで追跡したが、とうとう捕える事はできなかった様である。B.C.407年の春、スパルタ軍はアナトリアでの連合軍の指令官に有能なリサンドロスを指名した。

サルデスにやって来たキロス王と会見した後、リサンドロスは王の支援もあって艦隊を90にまで増強させている。一方、サモスでの強力なアテネ軍の艦隊は、エフェソス港のスパルタ軍に近づく為にアルキビアデスの指揮の下、ノーション沖に錨を下ろした。別のアテネ艦隊がフォカイアを襲った事を耳にしたアルキビアデスは、小艦隊を率いて援護に駆け付け、その他に右腕のアンティオコスを置くと、彼の留守には呉々も戦いに出向くなと言い残した。

しかしアンティオコスは偵察に出た際に、2そうの敵の船を攻撃した為、両軍からの援軍が到着した時には既にノーション沖での大きな戦いが始まっていたのである。結局、艦隊の幾つかを失ったアテネ軍はサモスに後退し、知らせを受けたアルキビアデスはエフェソスを攻めたが、何の結果も得られなかった。

エフェソス遺跡
アレクサンダー大帝期

マケドニアとギリシアでの統一を成し遂げたアレクサンダー大帝は、アナトリアからのペルシア軍一掃に専念した。彼がダーダネルス海峡を渡る途中、ペルシア側イオニアのサトラップ、スピスリダテスは大帝を阻止する為にグラニコス近くのペルシア軍に協賛した。古代の有名な作家アリアノスが〈騎士隊の戦い〉と名付けたこの争いの最中、スピスリダテスはアレクサンダー大帝の首を落とそうとしたが、まさにその時、マケドニア軍によって殺害されてしまっている。

ペルシアを倒したアレクサンダー大帝はサルデスに進出し、スビスリダテスのサトラップ制下の地をフィロタスの息子アサンドロスに新たに統治させる事を決定した。しばしサルデスに留まった後、4日間の旅をして大帝はエフェソスに到着している。

ペルシアの敗北とサトラップの死を知らされたギリシアの兵士は、エフェソス港に錨を下ろしていた2そうのペルシア船を奮ってここから逃避した為、アレクサンダー大帝はB.C.334年に全く抵抗を受けずにエフェソスへの進出を果たしている。最初に大帝は、自身が原因で都市から追放された人々を連れ戻し、寡頭政治の終わりと、民主政体の始まりを宣言したのである。又、税金や貢ぎ物を今までの様にペルシアに支払う代わり、今後はアルテミス神殿に奉納する事も付け加えている。

ストラボンの記録には次の様なものがある;歴史にその名を残したいと切望した白痴の男へロストラトスはアレクサンダー誕生の夜、神殿に火を放った。建築家ケイロクラテス(ウィトルウィウスは建築家ディノクラテスとしている)を主任とした火災からの修繕工事も完成間近となったある日、アレクサンダー大帝はエフェソス人に向かって、アルテミス神殿修復にかかった一切の経費は自身が負担する事を宣言した。

しかし大帝は、あるエフェソス人の「ある偉大な神が別の偉大な神へ何かを貢ぐと言う事には、どうも合点がいきませぬ」と言う言葉にこの出資を諦め、その代わりに建築家の仕事振りを大変高く評価し、神殿の工事が完成した後、彼にナイル河口の三角州にアレキサンドリアを建築させている。

大帝の死後、エフェソスは暗黒時代を過ごし、何人かの異なった民族に支配された後、B.C.287年リシマコスの統治の下に入る事となった。B.C.299年、リシマコスは自身の将来を考えて、友人であるエジプト王プトレマイオス一世の娘アルスィノーと結婚した。彼はピオン山とコレッソス山の間に都市を再建し、要塞化した城壁でこれを包囲させた。

妻に因んでアルスィノーとした都市の名は人民の反感を買い、アルテミス神殿の周辺に居住していた人々は、この新しい都市への移住を拒否し続けたのである。しかし、町は運河を塞き止め水浸しにされた為、エフェソス人等はここを後にし、再度の移住を余儀なくされたのである。

エフェソス遺跡
非常に野心家であったアルスィノーは、彼女の息子ではなく、夫リシマコスの最初の妻との間にできた息子アガソクレスが王位を継承するのではないかと脅え、夫を「あなたの暗殺を長男が計画している」との言葉で扇動した。これに刺激されたリシマコスはついに息子を殺害してしまったのである。命の危険を感じたアガソクレスの未亡人と数人の指揮官はセレウコスに助けを求め、リシマコスの行ないを訴えて激怒させたのである。

自国発展の好機と見たセレウコスはリシマコスの領土を攻撃し、とうとう両軍はマニサの東、コロウ・ペディオン平原で衝突した。既に老齢であったリシマコスは戦いの途中で死亡し、その領土はセレウコスの手に落ちたのであった。(B.C.281)

セレウコス王のアンティオコス二世はエジプトのプトレマイオスと長年にわたり争いを続けていた。エジプト王プトレマイオス・フィラデルフォスの、「妻ラオディケと離縁し、代わりに世の娘ベネリケと婚姻を結べば高価な贈呈品を渡す他、平和協定を結ぶ事さえやぶさかでない」との言葉を聞き、この申し出を受諾したアンティオコス二世は直ちに妻と離婚し、彼女をエフェソスに流してしまった。平和の訪れである。しかしフィラデルフォス王がB.C.246年に息を引き取るとアンティオコスはエフェソスを訪ね、ここにしばらく滞在する間、離縁したかつての妻ラオディケに毒殺されている。こうして彼の息子セレウコス二世が帝位を継承する事になったのである。

アンティオコス二世はベレビの霊廟に埋葬されていると考えられている。アンティオコス・テオスの時代にエフェソスはエジプトのプトレマイオスの支配下に入っている。B.C.196年、アンティオコス三世の治政下でエフェソスを再び支配下に置いたセレウコスは、後のB.C.188年にアペマイア平和協定で、同地をペルガモン王国(ベルガマ)に引き渡している。B.C.133年にペルガモンがローマに進呈されると、自動的にエフェソスの地もローマの支配下に置かれる結果となったのである。


ローマ帝国期

B.C.129年に設けられたローマのアジア属州制度による重税と悪政は、B.C.88年にポントゥス王ミトラダテス六世の側で他の西アナトリア諸国と共にエフェソスの反乱を招く結果となった。エフェソスにやって来たミトラダテスはアジアの属州で生活する全ローマ人の殺害を命じ、一日で80,000人ものローマ人の命が奪われた他、エフェソスにあるローマ人政治家の像、記念物も破壊されたと言う。

反乱の直後、アジアの州にやって来たローマ軍の指揮官スラは謀反人を罰し、エフェソスを再びローマ支配の下に敷いたのである。有名なキケロはB.C.51年7月22日、ローマ、キリキアの地方総督としてエフェソスに来、ここで戦いの計画を練ったとされている。アントニウスがフィリッポイの戦の後に中央アナトリアからエフェソスへやって来た時、彼がディオニソスの祭りを非常に気に入っている事を承知のエフェソス人等は、男女共に扮装して歓迎の儀式をもって彼を迎えた。


オクタビアヌスとの関係が一触即発状態にある時、アントニウスは彼の軍をキリキアに送り、B.C.33年にクレオパトラと共に再びエフェソスにやって来ている。クレオパトラの提供した200そうの船を含め、彼の所有する艦隊は800までに脹れ上がった。しかしアクティウムの海戦でオクタビアヌスに敗れたアントニウスはB.C.31年にエジプトに逃れている。オクタビアヌスは更に翌年の春、シリアを経由してエジプトに渡り、アレキサンドリアを包囲した為、もはや望みを断たれたアントニウスとクレオパトラには自殺するしか道が残されていなかったのである。アントニウスの死後、B.C.27年に元老院の決定によりオクタビアヌスは皇帝となり、アウグストゥスと名前を変えている。

エフェソスに於ける最も重要な変化は皇帝アウグストゥスの誕生と共に始まり、彼はこの地をベルガモンの代わりに属州の首都とした。つまりこうしてエフェソスはアジアを代表する、最大の主要都市となり、最も重要な貿易の拠点、ローマの政治家達が常駐する地、そしてローマ帝国の5本の指に入る大きな国となったのである。B.C.27年にローマの属州は再構成され、監視官としてアジアヘはただ総督が派遣されるのみとなった。アジアの属州はアフリカのそれと共に、最も大規模なものとなったのである。ローマ元老院の中でも属州の長は最高位とされ、初期に於いては5~10年であった地方総督や領事の任期も後には15年に延ばされている。

元老院の議員が40才前後で総督となる資格を得ていた事実を踏まえて考えると、エフェソスに駐在したアジアの知事は50~55才以上であった事がわかってくる。知事の任期がたった1年であった事から、エフェソスにはこの職に就いた人々が大勢いたとしてよいだろう。皇帝アントニウス・ピウスとプビエヌスもエフェソス知事の職に在ったとされている。

A.D.123年の夏、皇帝ハドリアヌスはロードスヘの旅の途中でエフェソスに立ち寄り、ある裕福なエフェソス人のヨットでエーゲ海の島巡りを行なっている。129年に再びエフェソスの地を訪れた皇帝は、都市、それも特に港に重点を置き修繕の手を加えている。
262年にクリミア半島からエフェソスに発った500そうのゴート艦隊は、都市の一部を手にし、アルテミスの神殿も含めて略奪行為を働いた。短期間のゴート族の侵略の後、エフェソスは再び体勢の建て直しを図っている。

聖パウロと聖ヨハネ

A.D.1世紀、もはや最大で、最も重要な古代都市の名を揺るぎ無いものとしたエフェソスでは、アナトリア、ギリシア、ローマ、エジプトに起源をもつ宗教を信ずる者、ユダヤ教徒、全ての者に信仰の自由が認められていた。一方、エルサレムでは新しく興った宗教キリスト教が、除々に人々の心に浸透し始めていた。キリスト教伝導者達は、A.D.37~42年にエルサレムを追放されている。伝導者聖パウロは53年にエフェソスを訪ね、3年間の内に、最初はユダヤ教の教会に始まり、後には都市のいたる所で布教滴動を行ない信者の拡大に努め、後にはエフェソスにキリスト教会の設置も実現させている。


エフェソスでのキリスト教普及には目覚ましいものがあった。新しい神の出現を快く思わない銀細工師ディミトリウスや、アルテミスの銀の像を売って生計を立てている彼の仲間達は、数千人を扇動して大劇場に集め「エフェソスのアルテミス万歳、アルテミス万歳」と叫び始めたのであった。

そして聖パウロの友人であるガイオスとアリスタルコスを劇場のまん中に引きずり出し、民衆の勢いを煽りたてた。聖パウロは民衆の面前に立ちたいと切望するが、側近達の忠告を聞いて、これを断念せざるをえなかった。都市の警備官が駆け付け、劇場の人々を解散させた上、捕えられた者に対して言い分や文句のある場合、法廷の扉は常に開放されている、として事態は一応の収拾をみたのであった。

この出来事から少したった後、聖パウロはエフェソスからマケドニアに赴いた。ルーク(ルーカス)は〈伝導者の言動〉という著書の中で37~42年の出来事を記しているが、聖ヨハネに対しては触れていない。しかしこの時、聖ヨハネはキリストから擁護を言い渡された聖母マリアと共にエフェソスに留まっていたのである。64年に聖パウロがローマ城壁の外で打ち首にされた後は、聖ヨハネがエフェソス教会の指導者に就いている。

高齢にも拘らず聖ヨハネはアナトリアの大草原を旅し続け、キリスト教の布教に努めた。ペルガモンとイズミールでキリスト教に対する反対勢力が最高になった頃、聖ヨハネはローマに連れて行かれ拷問されている。更に後にはパトモス島に流され、ここで主から受けた啓示を纏めた〈ヨハネ黙示録〉を著している。

ローマ皇帝ドミティアヌスが側近に刺し殺された時、キリスト教徒等は安堵の溜め息を吐いたに相違ない。聖ヨハネは再度エフェソスを訪れ、キリスト教の教義を記し始めた。死後は彼の希望に従って、エフェソスの地に埋葬され、現在も同名で呼ばれる聖ヨハネ教会の下で眠っているのである。

第三次エフェソス公会議
最も偉大な女神アルテミスと同様の力や高潔さが聖母マリアにもあったことは、この新しい宗教のエフェソスでの多くの信者獲得と、目覚ましい浸透の要因となった。聖パウロ、聖ヨハネ、そして聖母マリアが住まいを構えた事実はエフェソスをキリスト教の要地とするに充分であり、聖母に捧げられた最初の教会(聖母マリアの教会、参照)もエフェソスに建てられている。その聖母マリアの教会では431年に第三次エフェソス公会議が開催され、キリスト教の本質と道義が協議されたのである。

会議では、聖母マリアは神の子キリストの母ではなく、人間キリストの母であると定義された。コンスタンチノープル(イスタンブール)の総大司教ネストリウスがアンティオキアに於いて主張した思想はイスタンブールで熱狂的に擁護されていた。

彼の主張が世の中の混乱を招く様になると、東口ーマ皇帝テオドシウスは自らエフェソス公会議を開催し、コンスタンチノープルの総大司教ネストリウスをはじめ、アレキサンドリアの総大司教キリル、アンティオキアの総大司教ヨハネ、エフェソスの代表者、法王も含め、200人以上の宗教専門家が招集されたのであった。会議開催中、エフェソスでは不安定な日々が続いていたとされている。聖母マリアがエフェソスに埋葬されている事は、初めてとられた議事録に記載されている。

4世紀になりアヤスルックの丘(アヤスルックテペスィ)の聖ヨハネの葬られた場所にバシリカが建てられると、もはや使用不可能な状態のエフェソス港を捨てた多くのエフェソス人がこの周辺に居を構え始めた。更に、皇帝ユスチニアヌスがバシリカの所に記念の教会を建てると、ほとんど全てのエフェソス人は聖ヨハネの教会周辺に移動する事になった。

7~8世紀には、他の南西アナトリア諸国同様、エフェソスも海陸両方からアラブによる攻撃を受けた。これを機会に実践されたアヤスルック要塞の強靭化は教会の周辺を壁で囲んだ為に、ここを外要塞にも似た姿に変える結果となった。カリフ・スレイマンの牽いる軍は716年の冬をエフェソスで過ごしている。10~11世紀になると都市名は聖ヨハネに関係して〈アヤテオロゴス〉に変更されている。

この地区にやって来たトルコ軍は、その時に目にした小さな村を、1304年、チャカ・ベイ引率の下でビザンチン側から簡単に奪い取っている。更に後になるとエフェソスの地はアヤスルックと呼ばれる様になり、14世紀にここを訪れたイブン・バトゥタは非常に大規模な都市に、ベニス人、ジェノバ人、そして司教が住んでいた事を述べている。

エフェソス遺跡
アイドゥンオールラルの支配下でエフェソスは再び黄金期を迎え、大小多くのモスクや浴場が建てられたほか、貿易も活気を取り戻したのである。有名なイサベイのモスクもこの時代の建物である。エフェソスは初期オスマン時代には完全な廃きょとなっている。


発掘調査

エフェソスでの初の考古学的発掘調査は1869年、英国技術者J.T.WOODによって英国博物館の為に行なわれている。これ以前の1863年に彼はこの地でアルテミスの神殿について調査しているが、残念な事に何の結果も得られなかった。1869年に劇場で発見された碑文によれば祈祷に使用された宗教上の道具は、神殿から受け取られた後、聖なる道を通り、マグネシアの門を潜って市内に運び込まれ、帰りも同様の経路を辿って神殿に返還された、とされていた。これによってWOODはマグネシアの門を最初に発見する手掛かりを得たのであった。マグネシアの地はエフェソス南西に位置する古代静市であるから、門も地の周辺になければならないと考えたWOODは、ヘレニズム時代の城壁を辿り、マグネシア門を発見する事に成功したのである。

ここから彼は準備のための穴を掘り始め、道路を辿って有名な神殿の位置を見当付けたのであった。しかし様々な理由から神殿の発掘を遂げる事ができず、彼の事業は1904年以降D.G.HOGARTHが継承する事となった。

現在もなおオーストリア考古学研究所によって進められている発掘調査は、Otto BENNDORFが1895年に開始したもので、この調査開始にあたり彼はオスマン帝国のスルタンからエフェソス発掘の許可を受けている。後に彼は都市のかなり広い部分を買い取っているが、ここは近年になってトルコ関係当局によって国有化されている。BENNDORFの後には年代順に次の様な調査が行なわれている。KEIL、MILTNER、EICHTER各教授と、1969年から現在まではVETTERS教授を中心にエフェソスの大通り、広場、通りの両側の建物等が発掘された。VETTERS教授は裾野の集落を発見し、この内の2軒の家を修復する事にも成功している。同教授は1978年にセリシウス図書館の修繕も完成させている。1905年までに出土した遺跡のほとんどは英国へ、それ以降1923年までの出土品はオーストリアに運び出されている。

1954年にはエフェソス博物館も発掘調査と修復に乗り出し、以来、多くの重要な建築物に修繕、修復の手が加えられて来た。トルコ共和国文化観光省は1979年からくセルチュク・エフェソス環境保護―修復、修繕事業を開始し、その一環として、特に聖ヨハネの教会、聖母マリアの教会に重点を置いて作業を進めている。

エフェソス遺跡
1.アルテミスの神殿

キベレ―アルテミスの神殿とその建築
多くのキベレとアルテミスの像がトルコ国内で発見されている。これらの中で最古の物はB.C.7,000年のチャタルホユックやB.C.6,000年のハジュラールで出土した、素焼きの小像であろう。多産の象徴として腰や陶、生殖器が意図的に誇張されており、最初はビーナスの像であると考えられていたのであるが、後には母なる女神である事が明白になっている。時の流れの中で女神の形は変化したが、有史以前の世界に実に深く浸透していた。この過程で当然女神の外観は、各地方毎の特色による影響で変化もしたはずであるが、しかし、何時の時でもその本質は変わる事がなかったのである。

チャタルホユックやハジュラールの人類が女神をどの様に呼んでいたのかは明らかになっていないが、例えばエジプトに於いてはイスィス、アラブ諸国ではラトゥ、アナトリアでクバラ、キベレ、へパ、そしてアルテミス等の名が用いられていた様である。アナトリアではこの内キベレが最も一般的で、礼拝の対象として一番用いられたものである。キベレの神殿と崇拝の中心はアンカラ近郊のスィブリヒサールに属するペッスィノスにある。女神の古代に於ける進化は、フリギア王国の重要な地ペッスィノスにて転換期を迎えている。ペッスィノスでは、いん石を女神の形に似せて長い間キベレの像として崇拝の対象としていたのである。

フリギア各地で発見された浮き彫り(岩に彫られた物も見られる)には、あまり細密でなく大まかに彫り込んだ女神の図柄を目にする事が可能である。ベルガモン王国のアッタロス一世の治政下で、この聖なるいん石はローマ、カルタゴ間の戦いをローマの勝利をもって終結される事を祈りながらローマの地へ運ばれたのである。

又、女神の形としては木を彫って、これを祈りの対象にしたものもあり、エフェソスのアルテミス像で最も古いものは木に大まかに彫りを施した方法で作られたものであると考えられている。

ベッスィノスからローマへ移された母なる女神は、ここでも人々の大いなる尊敬を集め、ローマ皇帝エラガマラスが儀式の最中に自身の男性器を切り落とし、キベレ神殿の女神に奉納した事も、いかに女神が重んじられていたかを物語る一例と言える。

エフェソス博物館の展示品を見ても明らかであるが、いつの時代でもキベレ-アルテミスの像は東側地方の特色を色濃く示している。女神像の足は、まるで溶接でもされたかの様に動きがなく、かつては乳房と考えられていた胸部に見られる脹らみは、後には女神に捧げられた多くの雄牛のこう丸であると言う説が強く唱えられる様になっている。こう丸は〈種〉をつくり出すことから豊作の象徴とされ、像のスカート部分に見られる雄牛、獅子、スフィンクスは、女神が動物と自然の保護者である事を示すものである。キベレの浮き彫りでは女神の両側に施されている獅子は、これらの像では女神の腕に彫られている。

神殿に於ける司祭の教権階級制度は、西側世界のそれと異なり、そこで使用されていた用語さえも、ローマ時代にはギリシア語が使用されていたのにも拘らず、ギリシア人等のものと同じではなかった。神殿の管理はほんの数人の司祭に任せられ、彼等とメガビサスと呼ばれた司祭長の男性器は切り落とされたと言う。ストラボンは、彼等司祭の選択にあたり、中央アナトリア、それも東部出身者である事に重きが置かれていたとしている。メガビサスの位に就く事は実に名誉ある事とされ、その補佐職はローマのベスタ神に仕えた女子に似せて処女性が重視されていた。

アルテミス信仰、アルテミスの神殿、そして教権階級制度は蜜蜂の社会構成を基盤に考えられたものであると主張する人々がいる。蜜蜂はエフェソスの象徴としてこの地の多くの貨幣や彫像に見る事が可能である。

アルテミス神殿に奉仕した司祭の別の階級〈クレティア〉は神話の中ではゼウスに近い位置にあった半神とされている。ゼウスが自身の足からディオニソスを作り出していた時に、これを嫉妬深い妻へラに知らせない為、クレティア等を側に呼び雑音を立てさせたが、レトのアルテミス出産の際も彼等を呼んで同様の事をさせたと言う。この出来事は毎年エフェソスのアルテミス誕生の地とされるオルティギアでフェスティバルをもって祝われている。

エフェソス遺跡
儀式中の舞踏を受け持っていたと思われ、〈曲芸師〉とか〈爪先で歩く人々〉と呼ばれた20人位の司祭としての位付けもあった様である。アルテミスとキベレ信仰はエフェソス発展に於いて実に重要な要素となっており、神殿に仕える司祭、尼僧、そして警備を含めるとその数は数百人にもなったとされる。

エフェソスのアルテミス神殿は銀行としても機能していた。神殿に奉納された物や、女神の力で守ってもらう為にここに預けられた貴重な品々を受け付け、神殿所有の予算から貸し付けをする等、全て、メガビサスに一任されていた。この他にも神殿の特徴として、ここが避難所として使用されていた事が挙げられる。人々はここにいる間、何物、何人からも侵害されずに自由を満喫できる権利(逃避の権利)を与えられていたのであった。周囲の聖なる避難所は逃避して来た人達に非常に有り難く、しかも便利なものとして利用されていたのである。アレクサンダー大帝の時代になると聖地と安全地帯の境界線は拡大され、ミトラダテス王の時にも更なる拡張がなされている。皇帝マルコス・アントニウスはカエサル(シーザー)がディディマで成し遂げた事業に感動し、同じくこの聖域を二階造りにした為、都市の一部分もこの中に収納される結果となったのである。

エフェソスは勿論、帝国の他の地でも、神殿が安全地帯として機能している事に目を付けた犯罪者達の隠れ場的傾向を帯びるに従い、周囲の住民に〈避難の権利〉撤回を叫ばせる事様になり、22年には皇帝ティベリウスの呼び掛けで集合した有名な神殿の代表者達による会議が開催されている。しかしそれでもアルテミス神殿の〈逃避の権利〉は取り上げられずに継続されたのであった。


古典的アルテミスの住まい

ストラボンは、この有名な神殿が7回崩れ落ち、7回建て直されており、当時の世界七不思議の一つであった、としている。古代に於いては海岸沿いにあった神殿も、今日は海岸より5km内陸側、セルチュク-クシャダス街道の右手に位置し、発掘調査では建物の4つの面が発見されたのみである。出土品の中で最古の物はB.C.7世紀頃の対称図柄の装飾が施された鉢の一部、金の装飾品、象牙の品で、これらと同年期の神殿はおそらくキンメール人によって破壊されたと考えられている。

B.C.570年を目前にサモスでロイコスとテオドロスの二人の設計者により完成された新しいへラ神殿が人々の大いなる注目を集めた事に、好敵手であるエフェソス人は心中稔やかでなく、早速サモスのへラ神殿は勿論の事、かつて見た事もない程に壮大なアルテミス神殿建設の着工を決心したのであった。この大事業の為にエフェソス人はクノッソスの建築家ケルスィフォンとその息子メタゲネスを監督責任者に命じ、神殿建築予定地がサモスのへラ神殿の敷地司様、沼地であった為、へラの建築者テオドロスもこの事業に参加させたのであった。彼等の心にはおそらく新神殿がヘラ神殿に似る事を期待する気持ちがあったのであろう、テオドロスを参加させる事は実に収穫の大きいものと思われたに違いない。

エフェソス遺跡
テオドロスは基礎工事を始める前、沼地に石炭を敷いた上に皮で覆って固め、こうして55.10m×115.14mの全ての面で完壁な神殿を完成させたのであった。今までに造られた大理石使用の神殿としては最大の規模を誇り、周囲に高さ19m、直径1.21mの円柱を二列に並べた(Dipteral〉と呼ばれる様式が採用されている。

一列ではなく二列にした事は神殿をより広く見せるのに非常に効果的であったが、高さについて同様の事を言う事はできない。合計127本の支柱が使用されているとプリニウスは述べており、この支柱の森とも言える柱の多さは偉大な女神にふさわしいと言えよう。神殿の正面と後方に支柱が何列引かれていたかについて、長い間、論点となっていたが、最終的な調査でどちらの側にも二列ずつ設置されていた事が明らかにされている。

1世紀頃のプリニウスは前面の36本の支柱には浮き彫りが施されていた事についても指摘しており、つまりこの様な特徴を備えた神殿とは、まさに典型的ギリシア建築なのである。神殿が以前の建築物の基礎の上に建てられている事やプリニウスも彼以前の資料に基づいて語っている事を考慮して、おそらく彼の見解は正しいのであろうと思われている。36本の支柱の柱頭のすぐ下に見られる〈COLUMNAE CAELATAE〉と呼ばれる浮き彫りは、リディア王クロイソスが寄贈したものである。

英国博物館所有のこれらの支柱の一つには〈クロイソス贈呈す〉と刻まれており、ヘロドトスもこの碑文が本物であると述べている。支柱はその上に重さ26tもの〈屋根〉にあたる部分を支えているが、人々が信じる様に、アルテミス自身が現われてこれを支柱の上に乗せたのでもなければ当時の技術でどの様にしてこれ程重量のある物を約20mもの高さまで持ち上げ、支柱の上に設置したのか、いまだ明らかにされていない点である。

神殿の屋根がどの様な形をしていて、どの様に覆われていたのかについてのヒントを得られる様な発掘物はまだ見られていない。キンメール族の攻撃を受けた後、神殿正面の古い祭壇は階段付きのものに建て直しされている。発掘調査では、神殿に捧げられた金、銀、象牙、素焼きの粘土で作った多くの貢ぎ物の他、世界で初めての鋳造貨幣である銀の貨幣も周辺から発見されている。エフェソスの暴君ピタゴラスは唖の娘の回復を祈顕し、デルフィの神託所を訪ねた後、祭壇を拡張している。

ギリシア神殿:

後世に名を残したいと切望した白痴の男へロストラトスはB.C.356年のアレクサンダーが誕生した夜、この神殿に火を放ったのである。
エフェソス人は焼失した神殿を前に、それ以上に素晴らしいものを建設しようと決心した。アレクサンダー大帝はエフェソスを訪れた時、まだ完成していない神殿を見て、今までの出費も含め、新神殿建設の一切の費用を請け負うと申し出たが、エフェソス人はこれを受け入れなかった。

ギリシア建築様式で造られた神殿は13段の階段の上、持ち上げられた基盤の上に、長さ105m、幅55m、支柱の高さ17.65mという規模を誇って立っている。古くからの設計図面に従い、伝統的様式を守りながら、正面の支柱には古典的神殿がそうであった様に浮き彫りの装飾が施されていた。プリニウスとビトリビウスは、これらの支柱の一つに見られる彫り物は、有名な彫刻家スコパスの作であると指摘している。


神殿の祭壇は彫刻家プラクスィテレスが担当し、角のあるU字形のそれは、二列に配置された細くて上背のあるイオニア式の支柱と共に神殿の正面に設置され、後方の2ケ所の角には4頭立て馬車の彫像が置かれている。英国博物館の〈COLUMNAE CAELATAE〉(浮き彫りのある支柱)の一つには夫の命を救う為に自ら犠牲になる事をも厭わなかったアルケスティスが連れ去られる様子を表わした彫り物が見られる。

ここでアルケスティスはヘルメスの前に裸で表わされ、翼のあるのは〈死〉の象徴である。プリニウスによればB.C.5世紀に、フィディアス、ポリクレイトス、クレスィラス、そしてファラドモン等も含め、当時最高の彫刻家がアルテミスの神殿に設置するための作品を選ぶために参加した〈アマゾンの彫刻コンテスト〉が開かれている。

審査の際には今まで参加者だった彫刻家たちが審査員に早変わりしたのであるが、皆が皆、自分の作を最優秀とし2番目としてポリクレイトスの作品を拳げた為に、結果としてアルテミス神殿にはポリクレイトスの作った彫像が飾られたのであった。

世界の多くの博物館には実に沢山のローマ時代の彫像の複製が展示されているが、これらのどれがポリクレイトスの作に起源しているのか、いまだに明確にされていない。かつて何度もの崩壊と再建を繰り返してきたアルテミス神殿もA.D.125年、ゴート人の攻撃で決定的な打撃を受け、同時にキリスト教もかなり広範囲に浸透していた時代であった為、神殿は再建されたものの、その寿命は短かかった。壮麗なかつての神殿も破壊された後は聖ヨハネ教会や、皇帝ユスチニアヌスの要請でのアヤソフィア建築にあたり、豊富な建築素材提供の場と化してしまったのである。

今日、アルテミス神殿の遺跡を見ても過去の優美さ、壮麗さを思い描く事にはかなりの想像力が必要である。オーストリア考古学研究所の一員であるDr.A.BAMMERの引率で現在も引き続き進行中の発掘事業に於いて出土された様々な品は、考古学の世界に新しい課題を投げ掛けると同時に謎を解く糸口にもなっているのである。

2.城壁とマグネシアの門
ストラボンによれば城壁はB.C.3世紀にリシマコスの命によって建設されているが、これは防衛と言う観点からも、見事な職人技術の集結と言う芸術的観点からも、ヘレニズム期建築の素晴らしい例である。平地の上に造られた壁の一部は無くなっているが、山地の部分の保存状態は良好である。

これらは西部の海に向かって土地の隆起に従い、エフェソスのどこからでも目につく小さな丘の上の塔にて終結している。〈聖パウロの監獄〉と呼ばれるこの塔は、城壁に設けられた他の塔と異なり、内部と二階の造りをもって留置所を連想させる。内部で発見された碑文には〈ASTYAGES〉と記されているが、これが誰の名か、現在でも明らかにされていない。都市と連結する重要な2ケ所の出入り口が見られる。

その内の一つは徒歩競技場とベディウスの演武場の間に位置し、碑文等でしばしばその存在について述べられながら、しかしいまだ発振されていないコレスス門である。いま一つの門は聖母マリアの道の上にあり、現在も発掘が進行中のマグネシアの門である。これは城壁と共にB.C.3世紀に造られたが、皇帝ベスパスィアヌスの時代(69~79年)に様式を変え、3ケ所の入り口を備えたアーチ形の記念門に変換されている。

ヘレニズム時代の門は、両側に長方形の高い塔を備え、その後方に見られる内庭の更に後ろの円から市内に入る様になっている。内庭と門の正面にある広場は灰色をした大きな石のブロックで覆われ、周辺では要人の物と思われる大理石の相が発見されている。西方に見られる大規模な水道橋は皇帝ベスパスィアヌスのかなり後の時代にこの地を通過している。

マグネシア門からの道はエフェソスの南東30kmに位置するマグネシアに続き、別の道はパナユルダゥを回りアルテミスの神殿にまで達し、そこから更にエフェソスの市内に入り、再びマグネシアに続いている。これはエフェソスの哲学者ダミアヌスによって2世紀に修繕されたものである。前述の道を例外としてエフェソスの大小全ての通りはミレトス出身の建築家ヒッポダモスにより、〈碁盤割り〉、すなわちそれぞれの通りが直角に交差する様に設計されている。アルテミス神殿に続く道、つまり〈聖なる通り〉がいつの時代にもその地位を維持していた事は明白であり、WOODはこの道を辿ってアルテミス神殿の場所を発見したのである。

城壁とマグネシアの門
3.東演武場
マグネシア門の北には、その正面を通る〈聖なる道〉の修復の際、哲学者フラビアス・ダミアヌスが道に見合う規模で2世紀に造った大きな演武場の名残りが見られる。

古代に於いて教育、スポーツの中心であった演武場は、今日の寄宿学校と似ており、6才から16才までの子供がここで数学、音楽、雄弁術、体育等を学んでいたのである。勿論、才能のあるものは16才を過ぎてもここに籍を置く事が許されていた。

エフェソスにて見られる記念的建築物の一つである東演武場は、浴場、運動場、内庭、教室、皇帝の学問所を含めた複合建築であり、東壁の入り口に設置された〈プロフィロン〉と呼ばれる門には4本の支柱と三角形の切妻がある。そしてこの門の両側には支柱の列のある店があったと思われている。ここの発掘事業の間、ダミアヌスと妻ベディア・ファエドゥリナの像が発見されており、これ等は現在イズミール考古学博物館に展示されている。

演武場から駐車場に行く前、道の左手に直径16mの円形の建物の名残りがある。良い保存状態にある建物を覆う大理石の上には十字架の形の彫り物が見られ、この為に、建物は誤って聖ルーカスの墓と考えられていた。しかしこの十字架の彫り物はB.C.1世紀の建物の完成からかなり後になって施されており、すなわち、聖ルーカスの時代よりも100年以前に既に本人の墓ができてしまっていたという可笑しな事になってくるのである。


4.バリウスの浴場

バリウスの浴場は1929年から1979年の間に断続的に発掘が行なわれたが、いまだ完全な事業の終結を見られずにいる。建物はプナール山の裾野に広がる平地に造られた為、山側の自然に削られて滑らかになった岩肌を壁として使用していたのである。ほとんど全てのローマ浴場に見られる様にバリウスの浴場もフリジダリウム(冷水浴室)、テピダリウム(ぬるま湯用)、カルダリウム(熱い湯)の施設の他、かなり広めの付属の部屋から構成されている。

壁は大きめのブロック造りであり、屋根は煉瓦を用いてアーチ形に設計されている。建物の南手にはトイレも設置されていた様である。建物はローマ時代の様々な時期、そしてビザンチン時代に修繕、改築が施され、増築も行なわれているが、南に位置するモザイク装飾の見られる5世紀の建物はこれらの例として挙げることができる。

ある碑文によれば、フラビウスとその妻は浴場の広間を建設する為に融資していたとされている。

5.水道橋と噴水泉

エフェソス発掘事業の間には異なった時代に属する多くの噴水泉が発見されている。噴水や家庭に給水していた水源である泉は都市からかなりの遠方に位置している。この他、貯水槽や井戸も都市への給水に利用されていた様であろ。クシャダスの南、エフェソスから42・5kmの位置にあるケルテぺとデーイルメンデレには、一つは幅0.8m、高さ0.9m、別のものは幅0.65m、高さ0.45mという地方最大の泉があり、石の水路でビュルビュルダゥ西側の裾野を通りエフェソスまで水を運んでいる。(1秒に61リットル)

別の水源としてはイズミールへの道路上にあるプランガの泉がある。ここから岩に彫られたか、もしくは所々でアーチの形をした石の壁で保護された開放式の10kmの水路を通って聖ヨハネの丘まで引水されている。(1秒に9リットル)

アルテミスの神殿への給水はシリンジェキョイ近郊のセリナスの泉から賄われており、長さ8mの水路によってアルテミスの館にも水が運ばれている。アルテミスの館の発掘の際、此れ等の水路に使用された厚い銘製のパイプが発見され、内一つは現在エフェソス博物館に展示されている。

アゴラの南手を走る通りの端、ブュユック・チェシュメと呼ばれる泉の水源は、マルナススユの名で知られ、今日でも好んで用いられているものである。セルチュク-アイドゥン街道の6km目に見られるセクスティリウス・ポリオの水道橋はこの泉に繋がっているものである。(1秒に4.2リットル)

ブュユック・チェシュメは4世紀から14世紀の間に、前を通る道路に釣り合いのとれる設計で建築されたものであり、泉の正面には、皇帝やエフェソスの名士たちの彫像が飾られていた。

水道橋
6.集会広場(アゴラ)

泉の正面に見られるのが1世紀に建てられたエフェソスの集会広場である。国家の管理、監視の下で政治や宗教の会合がもたれた広さ160m×56mの地区は、半神聖視された場所であり、他の多くのアゴラと同様、中央に長方形の神殿が設置されていた。神殿はほとんど崩壊した状態と言ってよく、この建物に使用されていた建築材料は後に別の建物の為に使用されている。発掘の最中に神殿の周囲で〈水〉に関係した遺跡か発見された事は、最初、考古学者達にこれがイスィスの神殿であると考えさせたが、後にアウグストゥスの神殿である可能性が強いと見解を改めている。

神殿の破風はオディッセイの冒険を表わす彫像群に飾られていたが、後にアゴラの西で発見されたポリオの泉の周囲に移動された様である。発掘事業の際、ここで見付かったこれらの像群は、現在エフェソス博物館の泉からの出土品の間に展示されている。イスィスもしくはアウグストゥスの神殿はB.C.1世紀の建築と思われている。

様々な時代に行なわれた集会広場(アゴラ)の発掘調査では、パナユルダゥの周囲をはしる〈聖なる道〉のアルカイック期の遺跡が発見され、又、通路の両側には〈クラゾメナイ型〉と呼ばれる素焼きの棺が見付かっている。アゴラの最終的な外装は皇帝テオドシウスの時代(379~395)に完成し、北と東側には現在は見られないがストア(広間)が存在していたと考えられている。

アゴラ
7.教会堂(バシリカ)

アゴラの北ストア(広間)は後期アウグストゥスの時代に、木造の屋根と2列の支柱の並びに隔てられた3つの身廊がある長さ160mのバシリカに変換された。支柱の柱頭は、アウグストゥスの時代では雄牛の頭をかがどったイオニア式のものが用いられたが、更に後に行われた修繕事業でコリント式のものに変えられている。

バリウスの浴場とバシリカの間にある小さなストア(ビザンチン時代に改築された為、本来の姿からかなり変えられている)からは3か所の入口を利用してバシリカの中に入ることができる。現在エフェソス博物館で見られるアウグストゥスと彼の妻の彫像はこのストアにて発見されたものである。

8.音楽堂(オデオン)

アゴラの北に位置するオデオンは小規模な劇場に似ている為、〈小劇場〉とも呼ばれていた。発掘調査の際に発見された碑文によれば、ここは元々、エフェソスの有名な一族出身のパブリウス・ベディウス・アントニウスと妻フラビア・パピアーナによって会議堂として建築されたものであるとされている。

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