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トルコ観光名所ガイド

エフェソス遺跡


地名と設立

A.D.54年の初夏の事である。「人の手によって作り出された神は、もはや神ではない。」と説く聖パウロに対して、銀細工師ディミトリウスに扇動された何千ものエフェソス人達は口々に「エフェソスのアルテミス万歳、偉大なアルテミス万歳」と叫びながら大劇場に押し寄せ始めた。二時間にも及ぶ民衆の叫びを前にして、白い法衣に身を包み、片手にしゃくを持った聖パウロも、これを鎮圧するには力及ばず、数人の信者の助けによって、命からがらその場を後にするのがやっとであった。

この出来事は、都市の発見者アンドロクロスがこの町にやって来た日、リディア人やペルシア人の最初の侵入、この地を襲ったA.D.17年、355年、365年、そして368年の地震、又、431年に開催されたキリスト教審議会等と同様、エフェソスの歴史上重要事項に新しい一頁を加える結果となったのである。しかし、空を震わす勢いのアルテミスへの賛歌は、実際、7,000年生き続けたエフェソス人の尊い女神の臨終の一息でもあったのである。
エフェソス旅行・観光の案内ビデオ
詳しくは右側のエフェソス旅行・観光の案内ビデオをご覧ください。 → → →

2分03秒  (日本語字幕版)
「エフェソスのアルテミス」として知られる女神像は、B.C.7,000年、祈りの対象としてチャタルホユック人の手により、女性の豊潤さを極端に強調した形が採られたもので、こうして誕生した女神は、以降長い間、人々の上に君臨する事になったのである。彼女は全ての母であり、何よりも力強く、全ての支配者であり、アナトリアの隅々、そしてここを経由して、メソポタミア、エジプト、アラビア、更にはスカンジナビアの地方までに多大な影響を与えたのであった。何千年もの展開を見た後、女神はエフェソスのアルテミスと呼ばれる様になったわけである。

敬意を表して造られたアルテミスの神殿は、過去から残った最も重要な宝であるとされており、その周辺に位置したエフェソスは、文化的、社会的観点からして、文明発生地として認められていた。

エフェソスに関する情報は、古代の学者の著書や、発掘によって出土された何千もの碑文、その他の考古学的発見物によって得る事が可能であるが、その設立については、まだ充分解明がされていない。古代の有名な学者ストラボンとパウサニアスはエフェソスの設立者はアマゾン族で、カリア族とレレグ族が主な民族であったとしている。

歴史家ヘロドトスによれば、カリア族は自身をアナトリアに於ける最初の住民であると認め、最も重要な地区ハリカルナソスを含むカリアの名で呼ばれた地区に住んでおり、一方、レレグ族はトラキアやエーゲ海の島々から小アジアに移住したのであるとしている。都市の設立とアマゾン族の関係には実に緊密な物があり、おそらくこの理由でストラボンはアマゾン族の一人に因んでここをエフェソスと名付けた事を指摘していたのであろう。

B.C.7世紀末からB.C.6世紀初期のエフェソスの詩人カッリノスは、この他を落としたアマゾン族にはスミルナ(イズミール)の名が付けられていたと記しており、エフェソス出身にも拘らず、B.C.540年にアテナゴラスによって都市から追放された詩人ヒッポナクスは、エフェソスの一部がスミルナと呼ばれていたと述べている。ストラボンはスミルナがレプレ・アクテとトラキアの間に位置し、レプレ・アクテとはピオン山(ビュルビュルダゥ)、そしてトラキアはコレッソス山(バナユルダゥ)の事であると記している。後にスミルナ人はエフェソスを離れ、今日のイズミール辺りに居を定め、イズミールの町を設立したと言う。

エフェソス遺跡
エフェソスとアマゾン族との関係は歴史を通じて、常に語られ続けてきた。B.C.5世紀には、当時の有名な彫刻家の間で、アルテミス神殿に備え付ける為に、アマゾンの彫り物のコンテストが開催されている。(アルテミスの神殿、参照)
聖ヨハネの教会付近で出土し、エフェソス博物館に展示されているミケーネの墓からの品々はB.C.1,400~B.C.1,300年の物とされ、現在までのところ、エフェソスに於いて発見された考辞学的発掘物の最古の例と言われている。こう言った事実の上に立って考えると、少なくともこの時代には、既にエフェソスが設立していたとするのが正論であろう。

出土品の椀は、ミケーネ人が地中海、西アナトリアの沿岸に設立した組合にて市場に出す為に、当時の最も進んだ技術を用いて作られたものであり、これらは主にトロイからハリカルナソスまで続く海岸沿いにて発見されている。エフェソス近郊のミレトスの地にて出土したB.C.1,600の品は最も古い物であるとされている。

B.C.13から14世紀のヒッタイトの資料に述べられているアッヒヤワ王国は、おそらくミレトス近郊に位置していたのであろう、と言うのがアクルガル教授や他の考古学者の見解であり、これが裏付けされた時には、エフェソスはその位置からして王国の中で最も重要な都市、すなわちヒッタイトの碑文の中に述べられているアパサスの地に相違ないと考えられるのである。しかし、今日までミケーネの居住の事実を示すものはエフェソスに於いて何も発見されていない。

B.C.1,300~1,100の間は、アナトリア、シリア、エジプトの国々が不安定な空気に包まれた時期であり、中央アナトリアを支配していたヒッタイトは少数民族の台頭を快く思わなかったのである。

エフェソス遺跡
トロイ陥落とそれに続く掠奪の後、トラキア人達はこの地から更に南下を始め、海側からの南アナトリアに居を構える他のトラキア人と共に植民地を形成したのである。12世紀のエジプトの資料には、当時の移住の際に滅亡した民族について、哀悼の意を込めた言葉で記したものが残っている。地図上に初めてアイオリスやイオニアの名が現われたのもこの時代の事であり、エフェソスを含んだイオニア地方は、聖書に於いては〈ヤワン〉アッシリアの碑文では〈ヤウナイ〉、そしてペルシアの碑には〈ヤウナ〉の名で語られている。

移住民等は安全性を考慮して、半島や海岸の近くに住まいを求めている。エフェソスに於ける植民地開拓は他のイオニア諸国と同様B.C.10世紀に完了し、ストラボンとパウサニアスはこれについて次の様に語っている。アナトリアヘの移住を前にどの土地に新しい住まいを置くべきか、一向に決心ができないでいるアテネ王の子息アンドロクロスとその友人達は、アポロ神殿に伺いをたてた。

予言者の「魚と猪が新都市となるべき場所を示す事であろう。」と言う言葉を信じて、一行は旅の路についた。ある土地にてアンドロクロス遠が料理を始めたところ、平鍋から魚が跳ね上がり、これによって蒔き散らされた火の粉が、辺りの薮に燃え広がった。驚いた猪は薮の中から飛び出し、しかし、結局追い掛けて来たアンドロクロスに仕留められてしまったのであった。魚と猪、神殿の予言は正しかったのである。彼等は早速、当時は内港の様な地形であったピオン山の北裾野の地を新しい住まいと決定し、一連の出来事を記念して、猪を仕留めた場所にアテネの神殿を建設したのである。
この神殿のあった場所は現在でも明確にされていない。

アンドロクロスの父であるアテネ王コドロスは、実に勇敢な人物であった。近隣との戦いを前に、デルフィの神託所に、勝利の軍配がどの国にあがるか伺いをたてたところ、答えはこうであった。「最初に命を落とした王の率いる国が勝利を納めるであろう。」と。王は自らの命も顧みず、敵軍の中へ殺されに進み出て行ったのである。そして、この出来事がアンドロクロスとアテネ近くの国王であった継兄弟の間に王の位争いを引き起こし、彼にアナトリアへの移住を決心させる要因となったのに違いない。
設立されたエフェソスの地は、アンドロクロスと彼の子孫の統治の下、約400年間の繁栄をみている。

リディア期
B.C.7世紀、エフェソスと他のイオニア諸国はキンメールの攻撃を受けたが、彼等がエフェソスを手中にしたか否かについては現在でも論争の的となっている。発掘調査で出土した品々によれば、アルテミスの神殿は焼かれて、破壊されたとされている。エフェソスからは、幾つかの典型的キンメールの品が発見されており、エフェソス博物館アルテミスの広間にもこれらの一つである羊を形取った象牙を見る事ができる。

キンメールによる暴風にも似た攻撃が引いた後、エフェソスは再び体勢をたて直し、力を貯えた。
B.C.6世紀はエフェソスの黄金期であり、詩人カッリノスやヒッポナクス、有名な哲学考へラクレイトスもこの時代を生きている。特に、変化自体を万物の根源とし、「万物は流転する」の言葉を残し、火を変化の象徴としたへラクレイトスはイオニアの学問所で大きな名声を得た。彼は〈自然哲学〉と呼ばれるライフワークをアルテミス神殿に捧げている。


当時、エフェソスの名声はかなり遠方にまで轟いており、これがリディア王クロイソス(クレゾス)の最初の攻撃(B.C.560)を招く元になったのであった。この間、エフェソス人はアルテミスの神殿から市内まで張った綱の後ろに女神の加護を信じながら後退していたが、生憎、彼等の望みは裏切られ、リディア軍は市内に侵入してきたのである。

エフェソス人の不安に対し、クロイソスは彼等を実に丁寧に扱った。しかし、それでもコレッソスの町から彼等を追放し、アルテミス神殿の近くに建設される第二の都市に住まわせた。この第二の土地はカイストロス川(キュチュクメンデレス)の運んだ土砂で現在の場所から更に10m下に埋もれた為、アルテミス神殿以外の都市を発掘するのはとても不可能であると考えられる。

リディア人がエフェソスを陥落させた時、古代アルテミス神殿(564~546B.C.)はまだ建設中であり、女神とエフェソス人の気を引く為にクロイソスは(一つには自身の名を印した物)浮き彫りを施した柱頭と黄金の牛の彫像を神殿に奉納している。

(1869年に開始された発掘調査に於いて出土した此れ等の柱頭やその他多くの品は、英国博物館に運ばれている)この頃、港から始まり都市を包囲する砦(城壁)が造られており、神殿とその周囲の居住区もこの内側に位置していた。


ペルシア期

B.C.6世紀の半ばになるとアナトリアは東部のペルシアによる攻撃を受けた。西部アナトリア攻撃を前に、ペルシア側はアイオリス、イオニアの諸国に使者を送り、クロイソス反逆への協力を要請したが、却下されている。ペルシア王キロスがクロイソスを倒すと、アイオリスとイオニアの諸国は、かつてと同様、リディアの法の代わりに今後はペルシアの法を受け入れる事を宣言したのである。

ヘロドトスは、キロス王がアイオリスやイオニアの人々に教訓として語った次の物語を記している;
ある日、海の魚を呼び寄せるために、笛吹が演奏を始めるが、魚は見向きもしない。そこで漁師の網を見付けた彼は、これを使って多くの魚を捕まえた。網の中で飛び跳ねる魚に笛吹きは、「私が笛を聞かせてやった時には誰も岸に近付いて踊らなかったのに。今更踊る事もないと言うものだ。」と。

このキロス王の言葉を聞いたミレトスを除くイオニアの12都市は、各地区に退却し、守りの体勢固めに入った。事前にペルシアとの合意に達していたミレトス人等は、防衛の必要を感じなかったのである。イオニア諸国はスパルタにも援助を要請したが、援軍は送られて来ず、B.C.547年、キロス王の右腕である有名な指揮官ハルパゴスは、フォカイア(フォチャ)を皮切りに、短期間で全西アナトリアを手中に納めてしまった。こうして、エフェソスは歴史を通して二度目に別の国家の支配下に置かれる事となったのである。

ペルシアは支配下の他の国々同様、エフェソスの内政に干渉せず、アルテミス神殿の存在を許した事からもわかる様に信仰の自由をも認めていた。エフェソス人はかつての経済力を維持し続け、文化、貿易上の交流も継続させていた。ペルシアはカリア、リキア、そしてパンフィリアをイオニアと連合させ、これらをサトラップ制の下に統治し始めた。

ペルシアの支配下、エフェソスは拡大し、文化・芸術の中心地となっていった。エフェソスを含めた支配下の国に課税し、必要に応じては、戦士や船の提供も強いたペルシアの態度は、諸国に暴君でさえもこれ程でないだろうに、と思わせる様になり、キロスの後、カンビセスやダリウスの時代になると賦課の高さは諸国の我慢の限界を越える程となった。

連合したイオニアの諸国はB.C.500年、ミレトスの暴君アリストゴラスの指揮の下、〈イオニア植民市の反乱〉を起こしたのであった。この反乱でエフェソス人の果たした役割は実に重要であったと言える。ペルシアへの反逆者は、最初エフェソスに集まり、彼等の指導の下、カイストロスの両岸を辿り、サトラップ制で統治されていた属州の首都サルデスに3日間で到達した。そして戦わずして、しかし、都市にある一軒の家さえも残さずに破壊し、この地を陥落させたのであった。

この際、キベレの神殿を破壊した事実は、後にギリシアに於いて、ペルシア人等の神殿破壊の口実に利用されている。イオニアの反乱はB.C.494年にミレトス、ラデ島近郊で、ペルシアがイオニア艦隊を破った事で一応の終結をみた。直ちにペルシアは全イオニアを再び支配下に置き、多くの都市を壊滅状態に落とし入れた。

この際、最大の被害を受けたのは、ミレトスとキオス(サクズ)であり、多くの艦隊をペルシア軍に撃墜され、失ったキオス軍は、プリエネの西、ミカレに避難した。船を陸に引き揚げ、夜中を通して歩き続け、到着したのがエフェソスであった。丁度その時、エフェソスでは10月、11月に既婚の女性だけが参加して行なわれる祭りの最中であり、夜中に、しかも武装したキオス人等を見たエフェソス人は、女性を対象にした人さらいと勘違いして、彼等を全滅させてしまった。

エフェソス遺跡
B.C.479年、ペルシアの指揮官マルドニオスはアテネと中央ギリシアを再び攻め落としたが、プラタイアにて殺害された為、彼の率いる軍隊は、後退を余儀なくされた。スパルタ軍はミカレで、陸にあがっていたペルシア艦隊を攻撃し、これに火を放ち、全焼させている。

プラタイアとミカレを舞台にした、ペルシア軍に対する勝利は、イオニア諸市を活気づけ、再びの反逆を計画させるに充分な刺激を与えた。ギリシアとアナトリアからペルシアを撤退させる為、スパルタとアテネの指揮の下、B.C.478年〈アチカ・デロス海軍司盟〉が形成され、トゥキディデスやアリストテレスによれば、エフェソスはこの同盟に、B.C.453年に7.5タレント(古代ギリシアの貨幣)、B.C.444年には6タレント、B.C.436年には7.5タレント支払っている。

アテネの政治家アリステイデスの設けた規則は、それぞれの都市の財力に応じた支払額を基準としており、つまり、エフェソスの前述の金額は、それが最も富んだ都市の一つであった事を証明していると考えられよう。

B.C.5世紀末のペロポンネソス戦争で、エフェソスは最初アテネに、後にはスパルタ側に肩入れをした。B.C.409年の夏、ペルシアのスパルタへの支援が公になると、アテネのテラシロスは、陸戦で必要と思われる全てを積んだ50の船を率いてサモスへやって来た。ここで3日間待機した後、彼等はクシャダスの近く、ピゲラを攻撃し、これを手に納めた。ミレトスは何度かの攻撃をしかけたにも拘らず、結局、陥落している。

翌日アテネ軍はエフェソスの北10kmにある彼等の支配地ノーションに赴き、ここの近郊にあるコロホンと、同晩のうちに更にメトロポリス(トルバル)を手中にし、土地を焼き払ってしまったのである。この地方の防衛責任者であるペルシアの指揮官スタゲスはアテネ軍に反撃したが、彼等のノーションへの撤退を妨げる事はできなかった。テラシロスのエフェソス攻撃を察知したイオニアのサトラップ、ティッサヘリネスは周囲の全地区に知らせを出し、アルテミスの聖なる都市を守る為に兵士を収集した。

〈エフェソスの戦い〉と言われるこの戦争の間、アテネ側は多大な損害を受け、休戦状態の際、戦死した兵士を纏めて再びノーションに退いた。そこに戦士兵を埋葬した後、ダーダネルスへ向けて船を出したが、ミデッリで休息中に、エフェソスからダーダネルス海峡へと航海中のシラキュザンの25の商船を目にし、これを攻撃した。この内4漕を手中にし、他の船はエフェソスまで追跡したが、とうとう捕える事はできなかった様である。B.C.407年の春、スパルタ軍はアナトリアでの連合軍の指令官に有能なリサンドロスを指名した。

サルデスにやって来たキロス王と会見した後、リサンドロスは王の支援もあって艦隊を90にまで増強させている。一方、サモスでの強力なアテネ軍の艦隊は、エフェソス港のスパルタ軍に近づく為にアルキビアデスの指揮の下、ノーション沖に錨を下ろした。別のアテネ艦隊がフォカイアを襲った事を耳にしたアルキビアデスは、小艦隊を率いて援護に駆け付け、その他に右腕のアンティオコスを置くと、彼の留守には呉々も戦いに出向くなと言い残した。

しかしアンティオコスは偵察に出た際に、2そうの敵の船を攻撃した為、両軍からの援軍が到着した時には既にノーション沖での大きな戦いが始まっていたのである。結局、艦隊の幾つかを失ったアテネ軍はサモスに後退し、知らせを受けたアルキビアデスはエフェソスを攻めたが、何の結果も得られなかった。

エフェソス遺跡
アレクサンダー大帝期

マケドニアとギリシアでの統一を成し遂げたアレクサンダー大帝は、アナトリアからのペルシア軍一掃に専念した。彼がダーダネルス海峡を渡る途中、ペルシア側イオニアのサトラップ、スピスリダテスは大帝を阻止する為にグラニコス近くのペルシア軍に協賛した。古代の有名な作家アリアノスが〈騎士隊の戦い〉と名付けたこの争いの最中、スピスリダテスはアレクサンダー大帝の首を落とそうとしたが、まさにその時、マケドニア軍によって殺害されてしまっている。

ペルシアを倒したアレクサンダー大帝はサルデスに進出し、スビスリダテスのサトラップ制下の地をフィロタスの息子アサンドロスに新たに統治させる事を決定した。しばしサルデスに留まった後、4日間の旅をして大帝はエフェソスに到着している。

ペルシアの敗北とサトラップの死を知らされたギリシアの兵士は、エフェソス港に錨を下ろしていた2そうのペルシア船を奮ってここから逃避した為、アレクサンダー大帝はB.C.334年に全く抵抗を受けずにエフェソスへの進出を果たしている。最初に大帝は、自身が原因で都市から追放された人々を連れ戻し、寡頭政治の終わりと、民主政体の始まりを宣言したのである。又、税金や貢ぎ物を今までの様にペルシアに支払う代わり、今後はアルテミス神殿に奉納する事も付け加えている。

ストラボンの記録には次の様なものがある;歴史にその名を残したいと切望した白痴の男へロストラトスはアレクサンダー誕生の夜、神殿に火を放った。建築家ケイロクラテス(ウィトルウィウスは建築家ディノクラテスとしている)を主任とした火災からの修繕工事も完成間近となったある日、アレクサンダー大帝はエフェソス人に向かって、アルテミス神殿修復にかかった一切の経費は自身が負担する事を宣言した。

しかし大帝は、あるエフェソス人の「ある偉大な神が別の偉大な神へ何かを貢ぐと言う事には、どうも合点がいきませぬ」と言う言葉にこの出資を諦め、その代わりに建築家の仕事振りを大変高く評価し、神殿の工事が完成した後、彼にナイル河口の三角州にアレキサンドリアを建築させている。

大帝の死後、エフェソスは暗黒時代を過ごし、何人かの異なった民族に支配された後、B.C.287年リシマコスの統治の下に入る事となった。B.C.299年、リシマコスは自身の将来を考えて、友人であるエジプト王プトレマイオス一世の娘アルスィノーと結婚した。彼はピオン山とコレッソス山の間に都市を再建し、要塞化した城壁でこれを包囲させた。

妻に因んでアルスィノーとした都市の名は人民の反感を買い、アルテミス神殿の周辺に居住していた人々は、この新しい都市への移住を拒否し続けたのである。しかし、町は運河を塞き止め水浸しにされた為、エフェソス人等はここを後にし、再度の移住を余儀なくされたのである。

エフェソス遺跡
非常に野心家であったアルスィノーは、彼女の息子ではなく、夫リシマコスの最初の妻との間にできた息子アガソクレスが王位を継承するのではないかと脅え、夫を「あなたの暗殺を長男が計画している」との言葉で扇動した。これに刺激されたリシマコスはついに息子を殺害してしまったのである。命の危険を感じたアガソクレスの未亡人と数人の指揮官はセレウコスに助けを求め、リシマコスの行ないを訴えて激怒させたのである。

自国発展の好機と見たセレウコスはリシマコスの領土を攻撃し、とうとう両軍はマニサの東、コロウ・ペディオン平原で衝突した。既に老齢であったリシマコスは戦いの途中で死亡し、その領土はセレウコスの手に落ちたのであった。(B.C.281)

セレウコス王のアンティオコス二世はエジプトのプトレマイオスと長年にわたり争いを続けていた。エジプト王プトレマイオス・フィラデルフォスの、「妻ラオディケと離縁し、代わりに世の娘ベネリケと婚姻を結べば高価な贈呈品を渡す他、平和協定を結ぶ事さえやぶさかでない」との言葉を聞き、この申し出を受諾したアンティオコス二世は直ちに妻と離婚し、彼女をエフェソスに流してしまった。平和の訪れである。しかしフィラデルフォス王がB.C.246年に息を引き取るとアンティオコスはエフェソスを訪ね、ここにしばらく滞在する間、離縁したかつての妻ラオディケに毒殺されている。こうして彼の息子セレウコス二世が帝位を継承する事になったのである。

アンティオコス二世はベレビの霊廟に埋葬されていると考えられている。アンティオコス・テオスの時代にエフェソスはエジプトのプトレマイオスの支配下に入っている。B.C.196年、アンティオコス三世の治政下でエフェソスを再び支配下に置いたセレウコスは、後のB.C.188年にアペマイア平和協定で、同地をペルガモン王国(ベルガマ)に引き渡している。B.C.133年にペルガモンがローマに進呈されると、自動的にエフェソスの地もローマの支配下に置かれる結果となったのである。


ローマ帝国期

B.C.129年に設けられたローマのアジア属州制度による重税と悪政は、B.C.88年にポントゥス王ミトラダテス六世の側で他の西アナトリア諸国と共にエフェソスの反乱を招く結果となった。エフェソスにやって来たミトラダテスはアジアの属州で生活する全ローマ人の殺害を命じ、一日で80,000人ものローマ人の命が奪われた他、エフェソスにあるローマ人政治家の像、記念物も破壊されたと言う。

反乱の直後、アジアの州にやって来たローマ軍の指揮官スラは謀反人を罰し、エフェソスを再びローマ支配の下に敷いたのである。有名なキケロはB.C.51年7月22日、ローマ、キリキアの地方総督としてエフェソスに来、ここで戦いの計画を練ったとされている。アントニウスがフィリッポイの戦の後に中央アナトリアからエフェソスへやって来た時、彼がディオニソスの祭りを非常に気に入っている事を承知のエフェソス人等は、男女共に扮装して歓迎の儀式をもって彼を迎えた。


オクタビアヌスとの関係が一触即発状態にある時、アントニウスは彼の軍をキリキアに送り、B.C.33年にクレオパトラと共に再びエフェソスにやって来ている。クレオパトラの提供した200そうの船を含め、彼の所有する艦隊は800までに脹れ上がった。しかしアクティウムの海戦でオクタビアヌスに敗れたアントニウスはB.C.31年にエジプトに逃れている。オクタビアヌスは更に翌年の春、シリアを経由してエジプトに渡り、アレキサンドリアを包囲した為、もはや望みを断たれたアントニウスとクレオパトラには自殺するしか道が残されていなかったのである。アントニウスの死後、B.C.27年に元老院の決定によりオクタビアヌスは皇帝となり、アウグストゥスと名前を変えている。

エフェソスに於ける最も重要な変化は皇帝アウグストゥスの誕生と共に始まり、彼はこの地をベルガモンの代わりに属州の首都とした。つまりこうしてエフェソスはアジアを代表する、最大の主要都市となり、最も重要な貿易の拠点、ローマの政治家達が常駐する地、そしてローマ帝国の5本の指に入る大きな国となったのである。B.C.27年にローマの属州は再構成され、監視官としてアジアヘはただ総督が派遣されるのみとなった。アジアの属州はアフリカのそれと共に、最も大規模なものとなったのである。ローマ元老院の中でも属州の長は最高位とされ、初期に於いては5~10年であった地方総督や領事の任期も後には15年に延ばされている。

元老院の議員が40才前後で総督となる資格を得ていた事実を踏まえて考えると、エフェソスに駐在したアジアの知事は50~55才以上であった事がわかってくる。知事の任期がたった1年であった事から、エフェソスにはこの職に就いた人々が大勢いたとしてよいだろう。皇帝アントニウス・ピウスとプビエヌスもエフェソス知事の職に在ったとされている。

A.D.123年の夏、皇帝ハドリアヌスはロードスヘの旅の途中でエフェソスに立ち寄り、ある裕福なエフェソス人のヨットでエーゲ海の島巡りを行なっている。129年に再びエフェソスの地を訪れた皇帝は、都市、それも特に港に重点を置き修繕の手を加えている。
262年にクリミア半島からエフェソスに発った500そうのゴート艦隊は、都市の一部を手にし、アルテミスの神殿も含めて略奪行為を働いた。短期間のゴート族の侵略の後、エフェソスは再び体勢の建て直しを図っている。

聖パウロと聖ヨハネ

A.D.1世紀、もはや最大で、最も重要な古代都市の名を揺るぎ無いものとしたエフェソスでは、アナトリア、ギリシア、ローマ、エジプトに起源をもつ宗教を信ずる者、ユダヤ教徒、全ての者に信仰の自由が認められていた。一方、エルサレムでは新しく興った宗教キリスト教が、除々に人々の心に浸透し始めていた。キリスト教伝導者達は、A.D.37~42年にエルサレムを追放されている。伝導者聖パウロは53年にエフェソスを訪ね、3年間の内に、最初はユダヤ教の教会に始まり、後には都市のいたる所で布教滴動を行ない信者の拡大に努め、後にはエフェソスにキリスト教会の設置も実現させている。


エフェソスでのキリスト教普及には目覚ましいものがあった。新しい神の出現を快く思わない銀細工師ディミトリウスや、アルテミスの銀の像を売って生計を立てている彼の仲間達は、数千人を扇動して大劇場に集め「エフェソスのアルテミス万歳、アルテミス万歳」と叫び始めたのであった。

そして聖パウロの友人であるガイオスとアリスタルコスを劇場のまん中に引きずり出し、民衆の勢いを煽りたてた。聖パウロは民衆の面前に立ちたいと切望するが、側近達の忠告を聞いて、これを断念せざるをえなかった。都市の警備官が駆け付け、劇場の人々を解散させた上、捕えられた者に対して言い分や文句のある場合、法廷の扉は常に開放されている、として事態は一応の収拾をみたのであった。

この出来事から少したった後、聖パウロはエフェソスからマケドニアに赴いた。ルーク(ルーカス)は〈伝導者の言動〉という著書の中で37~42年の出来事を記しているが、聖ヨハネに対しては触れていない。しかしこの時、聖ヨハネはキリストから擁護を言い渡された聖母マリアと共にエフェソスに留まっていたのである。64年に聖パウロがローマ城壁の外で打ち首にされた後は、聖ヨハネがエフェソス教会の指導者に就いている。

高齢にも拘らず聖ヨハネはアナトリアの大草原を旅し続け、キリスト教の布教に努めた。ペルガモンとイズミールでキリスト教に対する反対勢力が最高になった頃、聖ヨハネはローマに連れて行かれ拷問されている。更に後にはパトモス島に流され、ここで主から受けた啓示を纏めた〈ヨハネ黙示録〉を著している。

ローマ皇帝ドミティアヌスが側近に刺し殺された時、キリスト教徒等は安堵の溜め息を吐いたに相違ない。聖ヨハネは再度エフェソスを訪れ、キリスト教の教義を記し始めた。死後は彼の希望に従って、エフェソスの地に埋葬され、現在も同名で呼ばれる聖ヨハネ教会の下で眠っているのである。

第三次エフェソス公会議
最も偉大な女神アルテミスと同様の力や高潔さが聖母マリアにもあったことは、この新しい宗教のエフェソスでの多くの信者獲得と、目覚ましい浸透の要因となった。聖パウロ、聖ヨハネ、そして聖母マリアが住まいを構えた事実はエフェソスをキリスト教の要地とするに充分であり、聖母に捧げられた最初の教会(聖母マリアの教会、参照)もエフェソスに建てられている。その聖母マリアの教会では431年に第三次エフェソス公会議が開催され、キリスト教の本質と道義が協議されたのである。

会議では、聖母マリアは神の子キリストの母ではなく、人間キリストの母であると定義された。コンスタンチノープル(イスタンブール)の総大司教ネストリウスがアンティオキアに於いて主張した思想はイスタンブールで熱狂的に擁護されていた。

彼の主張が世の中の混乱を招く様になると、東口ーマ皇帝テオドシウスは自らエフェソス公会議を開催し、コンスタンチノープルの総大司教ネストリウスをはじめ、アレキサンドリアの総大司教キリル、アンティオキアの総大司教ヨハネ、エフェソスの代表者、法王も含め、200人以上の宗教専門家が招集されたのであった。会議開催中、エフェソスでは不安定な日々が続いていたとされている。聖母マリアがエフェソスに埋葬されている事は、初めてとられた議事録に記載されている。

4世紀になりアヤスルックの丘(アヤスルックテペスィ)の聖ヨハネの葬られた場所にバシリカが建てられると、もはや使用不可能な状態のエフェソス港を捨てた多くのエフェソス人がこの周辺に居を構え始めた。更に、皇帝ユスチニアヌスがバシリカの所に記念の教会を建てると、ほとんど全てのエフェソス人は聖ヨハネの教会周辺に移動する事になった。

7~8世紀には、他の南西アナトリア諸国同様、エフェソスも海陸両方からアラブによる攻撃を受けた。これを機会に実践されたアヤスルック要塞の強靭化は教会の周辺を壁で囲んだ為に、ここを外要塞にも似た姿に変える結果となった。カリフ・スレイマンの牽いる軍は716年の冬をエフェソスで過ごしている。10~11世紀になると都市名は聖ヨハネに関係して〈アヤテオロゴス〉に変更されている。

この地区にやって来たトルコ軍は、その時に目にした小さな村を、1304年、チャカ・ベイ引率の下でビザンチン側から簡単に奪い取っている。更に後になるとエフェソスの地はアヤスルックと呼ばれる様になり、14世紀にここを訪れたイブン・バトゥタは非常に大規模な都市に、ベニス人、ジェノバ人、そして司教が住んでいた事を述べている。

エフェソス遺跡
アイドゥンオールラルの支配下でエフェソスは再び黄金期を迎え、大小多くのモスクや浴場が建てられたほか、貿易も活気を取り戻したのである。有名なイサベイのモスクもこの時代の建物である。エフェソスは初期オスマン時代には完全な廃きょとなっている。


発掘調査

エフェソスでの初の考古学的発掘調査は1869年、英国技術者J.T.WOODによって英国博物館の為に行なわれている。これ以前の1863年に彼はこの地でアルテミスの神殿について調査しているが、残念な事に何の結果も得られなかった。1869年に劇場で発見された碑文によれば祈祷に使用された宗教上の道具は、神殿から受け取られた後、聖なる道を通り、マグネシアの門を潜って市内に運び込まれ、帰りも同様の経路を辿って神殿に返還された、とされていた。これによってWOODはマグネシアの門を最初に発見する手掛かりを得たのであった。マグネシアの地はエフェソス南西に位置する古代静市であるから、門も地の周辺になければならないと考えたWOODは、ヘレニズム時代の城壁を辿り、マグネシア門を発見する事に成功したのである。

ここから彼は準備のための穴を掘り始め、道路を辿って有名な神殿の位置を見当付けたのであった。しかし様々な理由から神殿の発掘を遂げる事ができず、彼の事業は1904年以降D.G.HOGARTHが継承する事となった。

現在もなおオーストリア考古学研究所によって進められている発掘調査は、Otto BENNDORFが1895年に開始したもので、この調査開始にあたり彼はオスマン帝国のスルタンからエフェソス発掘の許可を受けている。後に彼は都市のかなり広い部分を買い取っているが、ここは近年になってトルコ関係当局によって国有化されている。BENNDORFの後には年代順に次の様な調査が行なわれている。KEIL、MILTNER、EICHTER各教授と、1969年から現在まではVETTERS教授を中心にエフェソスの大通り、広場、通りの両側の建物等が発掘された。VETTERS教授は裾野の集落を発見し、この内の2軒の家を修復する事にも成功している。同教授は1978年にセリシウス図書館の修繕も完成させている。1905年までに出土した遺跡のほとんどは英国へ、それ以降1923年までの出土品はオーストリアに運び出されている。

1954年にはエフェソス博物館も発掘調査と修復に乗り出し、以来、多くの重要な建築物に修繕、修復の手が加えられて来た。トルコ共和国文化観光省は1979年からくセルチュク・エフェソス環境保護―修復、修繕事業を開始し、その一環として、特に聖ヨハネの教会、聖母マリアの教会に重点を置いて作業を進めている。

エフェソス遺跡
1.アルテミスの神殿

キベレ―アルテミスの神殿とその建築
多くのキベレとアルテミスの像がトルコ国内で発見されている。これらの中で最古の物はB.C.7,000年のチャタルホユックやB.C.6,000年のハジュラールで出土した、素焼きの小像であろう。多産の象徴として腰や陶、生殖器が意図的に誇張されており、最初はビーナスの像であると考えられていたのであるが、後には母なる女神である事が明白になっている。時の流れの中で女神の形は変化したが、有史以前の世界に実に深く浸透していた。この過程で当然女神の外観は、各地方毎の特色による影響で変化もしたはずであるが、しかし、何時の時でもその本質は変わる事がなかったのである。

チャタルホユックやハジュラールの人類が女神をどの様に呼んでいたのかは明らかになっていないが、例えばエジプトに於いてはイスィス、アラブ諸国ではラトゥ、アナトリアでクバラ、キベレ、へパ、そしてアルテミス等の名が用いられていた様である。アナトリアではこの内キベレが最も一般的で、礼拝の対象として一番用いられたものである。キベレの神殿と崇拝の中心はアンカラ近郊のスィブリヒサールに属するペッスィノスにある。女神の古代に於ける進化は、フリギア王国の重要な地ペッスィノスにて転換期を迎えている。ペッスィノスでは、いん石を女神の形に似せて長い間キベレの像として崇拝の対象としていたのである。

フリギア各地で発見された浮き彫り(岩に彫られた物も見られる)には、あまり細密でなく大まかに彫り込んだ女神の図柄を目にする事が可能である。ベルガモン王国のアッタロス一世の治政下で、この聖なるいん石はローマ、カルタゴ間の戦いをローマの勝利をもって終結される事を祈りながらローマの地へ運ばれたのである。

又、女神の形としては木を彫って、これを祈りの対象にしたものもあり、エフェソスのアルテミス像で最も古いものは木に大まかに彫りを施した方法で作られたものであると考えられている。

ベッスィノスからローマへ移された母なる女神は、ここでも人々の大いなる尊敬を集め、ローマ皇帝エラガマラスが儀式の最中に自身の男性器を切り落とし、キベレ神殿の女神に奉納した事も、いかに女神が重んじられていたかを物語る一例と言える。

エフェソス博物館の展示品を見ても明らかであるが、いつの時代でもキベレ-アルテミスの像は東側地方の特色を色濃く示している。女神像の足は、まるで溶接でもされたかの様に動きがなく、かつては乳房と考えられていた胸部に見られる脹らみは、後には女神に捧げられた多くの雄牛のこう丸であると言う説が強く唱えられる様になっている。こう丸は〈種〉をつくり出すことから豊作の象徴とされ、像のスカート部分に見られる雄牛、獅子、スフィンクスは、女神が動物と自然の保護者である事を示すものである。キベレの浮き彫りでは女神の両側に施されている獅子は、これらの像では女神の腕に彫られている。

神殿に於ける司祭の教権階級制度は、西側世界のそれと異なり、そこで使用されていた用語さえも、ローマ時代にはギリシア語が使用されていたのにも拘らず、ギリシア人等のものと同じではなかった。神殿の管理はほんの数人の司祭に任せられ、彼等とメガビサスと呼ばれた司祭長の男性器は切り落とされたと言う。ストラボンは、彼等司祭の選択にあたり、中央アナトリア、それも東部出身者である事に重きが置かれていたとしている。メガビサスの位に就く事は実に名誉ある事とされ、その補佐職はローマのベスタ神に仕えた女子に似せて処女性が重視されていた。

アルテミス信仰、アルテミスの神殿、そして教権階級制度は蜜蜂の社会構成を基盤に考えられたものであると主張する人々がいる。蜜蜂はエフェソスの象徴としてこの地の多くの貨幣や彫像に見る事が可能である。

アルテミス神殿に奉仕した司祭の別の階級〈クレティア〉は神話の中ではゼウスに近い位置にあった半神とされている。ゼウスが自身の足からディオニソスを作り出していた時に、これを嫉妬深い妻へラに知らせない為、クレティア等を側に呼び雑音を立てさせたが、レトのアルテミス出産の際も彼等を呼んで同様の事をさせたと言う。この出来事は毎年エフェソスのアルテミス誕生の地とされるオルティギアでフェスティバルをもって祝われている。

エフェソス遺跡
儀式中の舞踏を受け持っていたと思われ、〈曲芸師〉とか〈爪先で歩く人々〉と呼ばれた20人位の司祭としての位付けもあった様である。アルテミスとキベレ信仰はエフェソス発展に於いて実に重要な要素となっており、神殿に仕える司祭、尼僧、そして警備を含めるとその数は数百人にもなったとされる。

エフェソスのアルテミス神殿は銀行としても機能していた。神殿に奉納された物や、女神の力で守ってもらう為にここに預けられた貴重な品々を受け付け、神殿所有の予算から貸し付けをする等、全て、メガビサスに一任されていた。この他にも神殿の特徴として、ここが避難所として使用されていた事が挙げられる。人々はここにいる間、何物、何人からも侵害されずに自由を満喫できる権利(逃避の権利)を与えられていたのであった。周囲の聖なる避難所は逃避して来た人達に非常に有り難く、しかも便利なものとして利用されていたのである。アレクサンダー大帝の時代になると聖地と安全地帯の境界線は拡大され、ミトラダテス王の時にも更なる拡張がなされている。皇帝マルコス・アントニウスはカエサル(シーザー)がディディマで成し遂げた事業に感動し、同じくこの聖域を二階造りにした為、都市の一部分もこの中に収納される結果となったのである。

エフェソスは勿論、帝国の他の地でも、神殿が安全地帯として機能している事に目を付けた犯罪者達の隠れ場的傾向を帯びるに従い、周囲の住民に〈避難の権利〉撤回を叫ばせる事様になり、22年には皇帝ティベリウスの呼び掛けで集合した有名な神殿の代表者達による会議が開催されている。しかしそれでもアルテミス神殿の〈逃避の権利〉は取り上げられずに継続されたのであった。


古典的アルテミスの住まい

ストラボンは、この有名な神殿が7回崩れ落ち、7回建て直されており、当時の世界七不思議の一つであった、としている。古代に於いては海岸沿いにあった神殿も、今日は海岸より5km内陸側、セルチュク-クシャダス街道の右手に位置し、発掘調査では建物の4つの面が発見されたのみである。出土品の中で最古の物はB.C.7世紀頃の対称図柄の装飾が施された鉢の一部、金の装飾品、象牙の品で、これらと同年期の神殿はおそらくキンメール人によって破壊されたと考えられている。

B.C.570年を目前にサモスでロイコスとテオドロスの二人の設計者により完成された新しいへラ神殿が人々の大いなる注目を集めた事に、好敵手であるエフェソス人は心中稔やかでなく、早速サモスのへラ神殿は勿論の事、かつて見た事もない程に壮大なアルテミス神殿建設の着工を決心したのであった。この大事業の為にエフェソス人はクノッソスの建築家ケルスィフォンとその息子メタゲネスを監督責任者に命じ、神殿建築予定地がサモスのへラ神殿の敷地司様、沼地であった為、へラの建築者テオドロスもこの事業に参加させたのであった。彼等の心にはおそらく新神殿がヘラ神殿に似る事を期待する気持ちがあったのであろう、テオドロスを参加させる事は実に収穫の大きいものと思われたに違いない。

エフェソス遺跡
テオドロスは基礎工事を始める前、沼地に石炭を敷いた上に皮で覆って固め、こうして55.10m×115.14mの全ての面で完壁な神殿を完成させたのであった。今までに造られた大理石使用の神殿としては最大の規模を誇り、周囲に高さ19m、直径1.21mの円柱を二列に並べた(Dipteral〉と呼ばれる様式が採用されている。

一列ではなく二列にした事は神殿をより広く見せるのに非常に効果的であったが、高さについて同様の事を言う事はできない。合計127本の支柱が使用されているとプリニウスは述べており、この支柱の森とも言える柱の多さは偉大な女神にふさわしいと言えよう。神殿の正面と後方に支柱が何列引かれていたかについて、長い間、論点となっていたが、最終的な調査でどちらの側にも二列ずつ設置されていた事が明らかにされている。

1世紀頃のプリニウスは前面の36本の支柱には浮き彫りが施されていた事についても指摘しており、つまりこの様な特徴を備えた神殿とは、まさに典型的ギリシア建築なのである。神殿が以前の建築物の基礎の上に建てられている事やプリニウスも彼以前の資料に基づいて語っている事を考慮して、おそらく彼の見解は正しいのであろうと思われている。36本の支柱の柱頭のすぐ下に見られる〈COLUMNAE CAELATAE〉と呼ばれる浮き彫りは、リディア王クロイソスが寄贈したものである。

英国博物館所有のこれらの支柱の一つには〈クロイソス贈呈す〉と刻まれており、ヘロドトスもこの碑文が本物であると述べている。支柱はその上に重さ26tもの〈屋根〉にあたる部分を支えているが、人々が信じる様に、アルテミス自身が現われてこれを支柱の上に乗せたのでもなければ当時の技術でどの様にしてこれ程重量のある物を約20mもの高さまで持ち上げ、支柱の上に設置したのか、いまだ明らかにされていない点である。

神殿の屋根がどの様な形をしていて、どの様に覆われていたのかについてのヒントを得られる様な発掘物はまだ見られていない。キンメール族の攻撃を受けた後、神殿正面の古い祭壇は階段付きのものに建て直しされている。発掘調査では、神殿に捧げられた金、銀、象牙、素焼きの粘土で作った多くの貢ぎ物の他、世界で初めての鋳造貨幣である銀の貨幣も周辺から発見されている。エフェソスの暴君ピタゴラスは唖の娘の回復を祈顕し、デルフィの神託所を訪ねた後、祭壇を拡張している。

ギリシア神殿:

後世に名を残したいと切望した白痴の男へロストラトスはB.C.356年のアレクサンダーが誕生した夜、この神殿に火を放ったのである。
エフェソス人は焼失した神殿を前に、それ以上に素晴らしいものを建設しようと決心した。アレクサンダー大帝はエフェソスを訪れた時、まだ完成していない神殿を見て、今までの出費も含め、新神殿建設の一切の費用を請け負うと申し出たが、エフェソス人はこれを受け入れなかった。

ギリシア建築様式で造られた神殿は13段の階段の上、持ち上げられた基盤の上に、長さ105m、幅55m、支柱の高さ17.65mという規模を誇って立っている。古くからの設計図面に従い、伝統的様式を守りながら、正面の支柱には古典的神殿がそうであった様に浮き彫りの装飾が施されていた。プリニウスとビトリビウスは、これらの支柱の一つに見られる彫り物は、有名な彫刻家スコパスの作であると指摘している。


神殿の祭壇は彫刻家プラクスィテレスが担当し、角のあるU字形のそれは、二列に配置された細くて上背のあるイオニア式の支柱と共に神殿の正面に設置され、後方の2ケ所の角には4頭立て馬車の彫像が置かれている。英国博物館の〈COLUMNAE CAELATAE〉(浮き彫りのある支柱)の一つには夫の命を救う為に自ら犠牲になる事をも厭わなかったアルケスティスが連れ去られる様子を表わした彫り物が見られる。

ここでアルケスティスはヘルメスの前に裸で表わされ、翼のあるのは〈死〉の象徴である。プリニウスによればB.C.5世紀に、フィディアス、ポリクレイトス、クレスィラス、そしてファラドモン等も含め、当時最高の彫刻家がアルテミスの神殿に設置するための作品を選ぶために参加した〈アマゾンの彫刻コンテスト〉が開かれている。

審査の際には今まで参加者だった彫刻家たちが審査員に早変わりしたのであるが、皆が皆、自分の作を最優秀とし2番目としてポリクレイトスの作品を拳げた為に、結果としてアルテミス神殿にはポリクレイトスの作った彫像が飾られたのであった。

世界の多くの博物館には実に沢山のローマ時代の彫像の複製が展示されているが、これらのどれがポリクレイトスの作に起源しているのか、いまだに明確にされていない。かつて何度もの崩壊と再建を繰り返してきたアルテミス神殿もA.D.125年、ゴート人の攻撃で決定的な打撃を受け、同時にキリスト教もかなり広範囲に浸透していた時代であった為、神殿は再建されたものの、その寿命は短かかった。壮麗なかつての神殿も破壊された後は聖ヨハネ教会や、皇帝ユスチニアヌスの要請でのアヤソフィア建築にあたり、豊富な建築素材提供の場と化してしまったのである。

今日、アルテミス神殿の遺跡を見ても過去の優美さ、壮麗さを思い描く事にはかなりの想像力が必要である。オーストリア考古学研究所の一員であるDr.A.BAMMERの引率で現在も引き続き進行中の発掘事業に於いて出土された様々な品は、考古学の世界に新しい課題を投げ掛けると同時に謎を解く糸口にもなっているのである。

2.城壁とマグネシアの門
ストラボンによれば城壁はB.C.3世紀にリシマコスの命によって建設されているが、これは防衛と言う観点からも、見事な職人技術の集結と言う芸術的観点からも、ヘレニズム期建築の素晴らしい例である。平地の上に造られた壁の一部は無くなっているが、山地の部分の保存状態は良好である。

これらは西部の海に向かって土地の隆起に従い、エフェソスのどこからでも目につく小さな丘の上の塔にて終結している。〈聖パウロの監獄〉と呼ばれるこの塔は、城壁に設けられた他の塔と異なり、内部と二階の造りをもって留置所を連想させる。内部で発見された碑文には〈ASTYAGES〉と記されているが、これが誰の名か、現在でも明らかにされていない。都市と連結する重要な2ケ所の出入り口が見られる。

その内の一つは徒歩競技場とベディウスの演武場の間に位置し、碑文等でしばしばその存在について述べられながら、しかしいまだ発振されていないコレスス門である。いま一つの門は聖母マリアの道の上にあり、現在も発掘が進行中のマグネシアの門である。これは城壁と共にB.C.3世紀に造られたが、皇帝ベスパスィアヌスの時代(69~79年)に様式を変え、3ケ所の入り口を備えたアーチ形の記念門に変換されている。

ヘレニズム時代の門は、両側に長方形の高い塔を備え、その後方に見られる内庭の更に後ろの円から市内に入る様になっている。内庭と門の正面にある広場は灰色をした大きな石のブロックで覆われ、周辺では要人の物と思われる大理石の相が発見されている。西方に見られる大規模な水道橋は皇帝ベスパスィアヌスのかなり後の時代にこの地を通過している。

マグネシア門からの道はエフェソスの南東30kmに位置するマグネシアに続き、別の道はパナユルダゥを回りアルテミスの神殿にまで達し、そこから更にエフェソスの市内に入り、再びマグネシアに続いている。これはエフェソスの哲学者ダミアヌスによって2世紀に修繕されたものである。前述の道を例外としてエフェソスの大小全ての通りはミレトス出身の建築家ヒッポダモスにより、〈碁盤割り〉、すなわちそれぞれの通りが直角に交差する様に設計されている。アルテミス神殿に続く道、つまり〈聖なる通り〉がいつの時代にもその地位を維持していた事は明白であり、WOODはこの道を辿ってアルテミス神殿の場所を発見したのである。

城壁とマグネシアの門
3.東演武場
マグネシア門の北には、その正面を通る〈聖なる道〉の修復の際、哲学者フラビアス・ダミアヌスが道に見合う規模で2世紀に造った大きな演武場の名残りが見られる。

古代に於いて教育、スポーツの中心であった演武場は、今日の寄宿学校と似ており、6才から16才までの子供がここで数学、音楽、雄弁術、体育等を学んでいたのである。勿論、才能のあるものは16才を過ぎてもここに籍を置く事が許されていた。

エフェソスにて見られる記念的建築物の一つである東演武場は、浴場、運動場、内庭、教室、皇帝の学問所を含めた複合建築であり、東壁の入り口に設置された〈プロフィロン〉と呼ばれる門には4本の支柱と三角形の切妻がある。そしてこの門の両側には支柱の列のある店があったと思われている。ここの発掘事業の間、ダミアヌスと妻ベディア・ファエドゥリナの像が発見されており、これ等は現在イズミール考古学博物館に展示されている。

演武場から駐車場に行く前、道の左手に直径16mの円形の建物の名残りがある。良い保存状態にある建物を覆う大理石の上には十字架の形の彫り物が見られ、この為に、建物は誤って聖ルーカスの墓と考えられていた。しかしこの十字架の彫り物はB.C.1世紀の建物の完成からかなり後になって施されており、すなわち、聖ルーカスの時代よりも100年以前に既に本人の墓ができてしまっていたという可笑しな事になってくるのである。


4.バリウスの浴場

バリウスの浴場は1929年から1979年の間に断続的に発掘が行なわれたが、いまだ完全な事業の終結を見られずにいる。建物はプナール山の裾野に広がる平地に造られた為、山側の自然に削られて滑らかになった岩肌を壁として使用していたのである。ほとんど全てのローマ浴場に見られる様にバリウスの浴場もフリジダリウム(冷水浴室)、テピダリウム(ぬるま湯用)、カルダリウム(熱い湯)の施設の他、かなり広めの付属の部屋から構成されている。

壁は大きめのブロック造りであり、屋根は煉瓦を用いてアーチ形に設計されている。建物の南手にはトイレも設置されていた様である。建物はローマ時代の様々な時期、そしてビザンチン時代に修繕、改築が施され、増築も行なわれているが、南に位置するモザイク装飾の見られる5世紀の建物はこれらの例として挙げることができる。

ある碑文によれば、フラビウスとその妻は浴場の広間を建設する為に融資していたとされている。

5.水道橋と噴水泉

エフェソス発掘事業の間には異なった時代に属する多くの噴水泉が発見されている。噴水や家庭に給水していた水源である泉は都市からかなりの遠方に位置している。この他、貯水槽や井戸も都市への給水に利用されていた様であろ。クシャダスの南、エフェソスから42・5kmの位置にあるケルテぺとデーイルメンデレには、一つは幅0.8m、高さ0.9m、別のものは幅0.65m、高さ0.45mという地方最大の泉があり、石の水路でビュルビュルダゥ西側の裾野を通りエフェソスまで水を運んでいる。(1秒に61リットル)

別の水源としてはイズミールへの道路上にあるプランガの泉がある。ここから岩に彫られたか、もしくは所々でアーチの形をした石の壁で保護された開放式の10kmの水路を通って聖ヨハネの丘まで引水されている。(1秒に9リットル)

アルテミスの神殿への給水はシリンジェキョイ近郊のセリナスの泉から賄われており、長さ8mの水路によってアルテミスの館にも水が運ばれている。アルテミスの館の発掘の際、此れ等の水路に使用された厚い銘製のパイプが発見され、内一つは現在エフェソス博物館に展示されている。

アゴラの南手を走る通りの端、ブュユック・チェシュメと呼ばれる泉の水源は、マルナススユの名で知られ、今日でも好んで用いられているものである。セルチュク-アイドゥン街道の6km目に見られるセクスティリウス・ポリオの水道橋はこの泉に繋がっているものである。(1秒に4.2リットル)

ブュユック・チェシュメは4世紀から14世紀の間に、前を通る道路に釣り合いのとれる設計で建築されたものであり、泉の正面には、皇帝やエフェソスの名士たちの彫像が飾られていた。

水道橋
6.集会広場(アゴラ)

泉の正面に見られるのが1世紀に建てられたエフェソスの集会広場である。国家の管理、監視の下で政治や宗教の会合がもたれた広さ160m×56mの地区は、半神聖視された場所であり、他の多くのアゴラと同様、中央に長方形の神殿が設置されていた。神殿はほとんど崩壊した状態と言ってよく、この建物に使用されていた建築材料は後に別の建物の為に使用されている。発掘の最中に神殿の周囲で〈水〉に関係した遺跡か発見された事は、最初、考古学者達にこれがイスィスの神殿であると考えさせたが、後にアウグストゥスの神殿である可能性が強いと見解を改めている。

神殿の破風はオディッセイの冒険を表わす彫像群に飾られていたが、後にアゴラの西で発見されたポリオの泉の周囲に移動された様である。発掘事業の際、ここで見付かったこれらの像群は、現在エフェソス博物館の泉からの出土品の間に展示されている。イスィスもしくはアウグストゥスの神殿はB.C.1世紀の建築と思われている。

様々な時代に行なわれた集会広場(アゴラ)の発掘調査では、パナユルダゥの周囲をはしる〈聖なる道〉のアルカイック期の遺跡が発見され、又、通路の両側には〈クラゾメナイ型〉と呼ばれる素焼きの棺が見付かっている。アゴラの最終的な外装は皇帝テオドシウスの時代(379~395)に完成し、北と東側には現在は見られないがストア(広間)が存在していたと考えられている。

アゴラ
7.教会堂(バシリカ)

アゴラの北ストア(広間)は後期アウグストゥスの時代に、木造の屋根と2列の支柱の並びに隔てられた3つの身廊がある長さ160mのバシリカに変換された。支柱の柱頭は、アウグストゥスの時代では雄牛の頭をかがどったイオニア式のものが用いられたが、更に後に行われた修繕事業でコリント式のものに変えられている。

バリウスの浴場とバシリカの間にある小さなストア(ビザンチン時代に改築された為、本来の姿からかなり変えられている)からは3か所の入口を利用してバシリカの中に入ることができる。現在エフェソス博物館で見られるアウグストゥスと彼の妻の彫像はこのストアにて発見されたものである。

8.音楽堂(オデオン)

アゴラの北に位置するオデオンは小規模な劇場に似ている為、〈小劇場〉とも呼ばれていた。発掘調査の際に発見された碑文によれば、ここは元々、エフェソスの有名な一族出身のパブリウス・ベディウス・アントニウスと妻フラビア・パピアーナによって会議堂として建築されたものであるとされている。

音楽堂(オデオン)<br />
パナユルダゥの裾野に立つ建物は、劇場として造られたほとんどの施設と同様、〈聴衆席〉、〈半円形舞台〉、〈舞台〉の3部から構成され、聴衆席は大理石を用いた非常に高度な職人芸によって造られている。舞台は多くの場合、二階造りになっており、すぐ前にある大理石で造られた狭いステージ様の場所には5ケ所の扉から出入りができる様になっている。(中央の扉は他のそれより、高さも幅も大き目にとられている)

半円形舞台に雨の為の溝が備わっていない事実から、恐らく、この音楽堂は屋根に覆われていたと考えてよいであろう。
1,400人の収容能力をもう音楽堂には、舞台と聴衆席の間にある入り口を使って中に入る事ができたが、他にも、ここの入り口にある円天井付き階段を使ってギャラリーに出る事も可能であった。

演奏会のある時には音楽堂として利用された建物は、議事堂としても機能していたようである。

音楽堂(オデオン)
9.皇帝崇拝と神殿

ディア・ローマとディビウス・ジュリアス・シーザーの神殿
皇帝崇拝の習慣をもつアジア人の要請に応じ、アウグストゥスはビティニア地方の人々にニコメディアにて、又、アジア地方の人々にはペルガモンに於いて既にこの地に建てられているローマの女神ディア・ローマの記念碑と共に、と言う条件付きで、地方の非ローマ人達にアウグストゥス礼賛の記念碑建築を許可したのであった。そして更にアウグストゥスは、これら二つの地方で暮らすローマ人に対し、ニケーアとエフェソスに於いて、彼の養父であり、元老院の決議で〈神〉と崇められるジュリアス・シーザー(カエサル)の記念碑もディア・ローマのそれと共に建設する事を決定したのである。

ローマ帝国期、ネオコロス、すなわち、神殿所有の都市となる事、もしくは、その番人となる事は非常に名誉な事であったが、エフェソスにて最初の皇帝神殿ができたのは皇帝ドミティアヌス(81~96)の治政下という、結構時代が過ぎてからの事であった。皇帝の死後、数々の障害を克服して獲得したネオコロス制度が崩壊しそうになった時、当時の最大の競争相手であるペルガモンやスミルナに対してその地位を死守できなくなる事を恐れたエフェソス人等は、ドミティアヌス神殿を〈神〉と見なされたその父ベスパスィアンに捧げたのであった。
エフェソスに第二の神殿を建設する事は、皇帝ハドリアヌスがアテネからオリンポスのゼウスの名代としてやって来た128年に、同皇帝によって許可されたのである。

三度目の神殿建設の許可はカラカラ帝が兄弟ゲ一タと帝位を分け合った時代(211~212)に下されている。212年、カラカラ帝は兄弟の手により暗殺されたが、皇帝がエフェソス人に送った書簡によれば、皇帝はこの神殿建設をアルテミスの利益を守る為に諦めた、とされている。この様にして効力を失ったネオコロス制度は、皇帝エラガバルス(218~222)の時代に再び注目を集める様になった。

ローマ元老院の記録では、エフェソスに皇帝神殿を建設する4回目の許可は皇帝バレリアヌスの時代(251~260)に下されている。
アジアの州にとって皇帝神殿を所有する事は実に名誉ある事であり、エフェソス人等はプロティア、即ち、皇帝神殿を獲得した第一の都市となる為、そしてペルガモンとスミルナに格段の差をつける為に出来る限りの手を使い、又、そのためのどんな出費も惜しまなかったという。

皇帝神殿はアルキエレウスと呼ばれる司祭長の監視、監督下に置かれ、彼等はその肩書きの前に、守護している神殿がある地方の名を付ける事が許されていたのである。神殿はその都市だけのものであるにも拘らず、周辺の全ての地方の人々の尊敬を集めていたと言えよう。

地方に何人かいる司祭長と、彼等の中でも最も権威ある最高司祭長の関係に関する詳細は、残念ながら明確でない。最高司祭長は皇帝の名誉に敬意を表して、各地で4年に1度行なわれるコイナ・アジアスと言われる半宗教的な行事の主催者、監督としてもその地位を認められていた。司祭長、つまりアルキエレウスである事は、聖職として実に名誉あると同時に、非常に出費の多い、金の必要な職である事も事実であった。

剣士や猛獣の闘いは皇帝崇拝や祭りの儀式と切っても切れない縁にあった。この様な闘いをアジア人等はさほど好まなかったが、それでもローマ帝国期にはアジアの各地で人気を博したのであった。

エフェソス
エフェソスのベディウス一族の様に裕福なファミリーによって、特別な剣士の養成所が設立されたと言う。最高司祭長について、彼等がこの様な闘争の為に非常に金銭を出資したと賞賛して記した碑文も残っている。「皇帝崇拝には根強いものがあったにも拘らず、これが真実の意味で一つの宗教にまで高まる事はなかった。

この〈崇拝〉は、ローマ帝国の境界内にて暮らす多くの民族に、その言語、文化、宗教の違いを越えて、団結と調和、そして保全の下に生活させる事を狙いとしていたのである。
ディア・ローマとジュリアス・シーザーの神殿はオデオンの西、支柱に囲まれた内庭の中央に位置している。

それらの小さな神殿には、東に面した壁に4本づつの支柱があったが、後の時代に建物の上に別の建築物が造られた為、神殿自体は崩壊状態にあり、現在は高度な職人技術がうかがえる大理石の舞台と、基礎の上に壁が残るのみである。皇帝アウグストゥスがエフェソスに来たB.C.29年に建設許可したこれらの神殿は、完成後のA.D.4年とA.D.14年に、一つはローマの女神ディア・ローマに、もう一つはアウグストゥスの養父であるジュリアス・シーザーに捧げられたのである。


10.公共施設とプリタネイオン

ローマ帝国時代、エフェソスは〈自由国家〉の体制を維持し続け、都市に関与した公的機関、つまり公職にある事は実に名誉な事とされていた。この職に必要な経費は、裕福なエフェソス人等の補助金によって賄われていたが、重要な祭りや、儀式の際、又は公共の施設の建設や修理、手入れに増大する金額を作り出す事は、彼等をしても容易な事とは言えなかった。裕福な一族の間であたかも名誉と名声を手に入れる手段ともなったこの補助金の出資は、最大の名誉として大通りやアゴラ等に後援者の彫像や記念碑を建造するという形で彼らに返還されたのである。

都市の政治は、二つに分かれた議会から構成されていた。この内の一つはアゴラを議場として300人のボウレトゥスと呼ばれる議員から成る都市の諮問議会(ボウレ)、いま一方は大劇場を議場とし全エフェソス市民を以て構成された人民議会〈デモス〉であった。どちらの議会にも管理上、行政上の事柄をスムースに処理する為、それぞれ〈ボウレ・グランマテウス〉、〈デモス・グランマテウス〉の名で呼ばれる次官職を設けていた。又、デモス・グランマテウスは同時に都市統率の宰相的地位にもあったと考えられている。エフェソスが〈ポリス〉即ち、都市国家であった頃は、警備、防衛職として〈ストラテゴス〉が置かれており、帝国では行政上での発言権も与えられていた様である。

エイレナルクとパラフィラクスは警察として都市に奉仕し、アゴラノンはアゴラに関した必要諸事の責任者であり、又、穀物を計量し、これを正当な方法で売買する事も管理していたのである。エフェソスが富みと名声の両方を手にした都市に発展した一因として、〈リメナルク〉の管理する港が果たした役割は実に大きかった。都市の宗教、行政職として最高の地位にあるのは男女両方から構成される〈プリタン〉であった。

都市の選ばれた名家から成るグリタン職は、都市の存在を象徴するプリタネイオンにあるエフェソスの永遠の聖火を消える事のないよう、日夜守る事にあった。炉の女神ヘスティアの名により、プリタン達はこの職を大きな名誉と喜びをもって遂行していたのである。

又、プリタンは都市の全神殿を管理する立場にもあり、神殿へ捧げられる毎日の供養物を奉納する責任者でもあった。必要経費は全てプリタンの出資で賄われていたのである。歴史を通してアルテミス神殿の組織構成や経営は、都市の逸れ等と全く切り離して考えられていた。バシリカの西端に位置していたエフェソスのプリタネイオンは、付属の建物の他に、正面にある柱廊玄関に包囲された内庭、その後方の広い屋根付きの広間から構成されており、側面の高くて厚い8本のドーリア式支柱をして、まるで神殿の様である。これらの柱の内、2本は修理され、元の位置に設置されている。

外装に釣り合いのとれた内装をもつプリタネイオンは、非常に印象的な建築物である。広間の四隅にはハート形に切断された対の支柱があり、ここの中央には玄武岩から成る祭壇の基盤が見られる。

エフェソスの永遠の炎は何世紀にもわたり昼も夜も消える事なく、〈ヘスティアの聖なる場〉と呼ばれるこの場で何百年も燃え続けたのであった。エフェソス博物館にて展示されているアルテミスの像は、この場所から実に良好な状態で発見されたものである。周囲に散らばった建築資材や支柱の上に見られる碑文の一部には、〈クレティア同盟〉の名簿を読み取る事ができ、アルテミス神殿に関わる司祭職名であるクレティアが、最初の6人から後に増員され9人となっている事もわかる。

古代とヘレニズム期にはただアルテミス神殿のみに関わっていたクレティアも、皇帝アウグストゥスの頃にはプリタネイオンに於いても確かな地位を獲得するまでになっている。そのため、クレティアに関するほとんどの名簿、目録はプリタネイオンにて発見されているのである。

彼等の職務の中で最も重要な事は、エフェソス近郊のオルティギアで毎年アルテミスの生誕祝賀を催す事にあった。
プリタネイオンはB.C.3世紀に建築され、皇帝アスグストゥスの時代に最終的な姿を獲得している。様々な理由で建物が崩壊した後、その支柱や建築資材の一部はスコラスティカ(ショラスティキア)浴場建築に使用されたが、発掘調査の際それらはプリタネイオンに返却されている。プリタネイオンとドミティアヌス広場の両側には絵柄の見られる基盤がある。

左のものは片面に裸の神ヘルメスが片手で羊の角を掴み、もう片手に彼の象徴である杖を持っている構図、もう片面には蛇が間に絡まる三脚が描かれている。右の基盤は、片面に山羊の角を掴む同じく裸のヘルメス、もう片面には脚の間に皿が置かれた三脚が描かれている。

エフェソス
11.メミウスの記念碑

ドミティアヌス広場の北手には、四面のある凱旋門にも似たメミウスの記念碑がある。地方の石を用いた凸形の基盤と、その上に乗る大理石から成る記念碑の周囲は4段の階段に囲まれ、壁の各面には半円形の壁がんが見られる。

装飾の施された部分はほとんど消失しているが、トウガを纏った兵士の彫り物はメミウスとその父カイウス、そして独裁者の祖父スラを表わしたものである。

記念碑の東端から発見されたラテン語による碑文には「救済者カイウ、メミウス、カイウスの息子、コーネリウス・スラの孫」とある。
記念碑はB.C.1世紀のものと思われている。

12.泉
メミウスの記念碑の西側には泉が見られる。ここには長くて狭い(長方形)貯水槽もあり、壁の上にはコリント式の4本の支柱がある。貯水槽は3つの部分から成っているが、中央の部分は他より大きく、ここの後方の円形をした壁を通って水が引き込まれていたのである。ここの正面にあった4つの基盤の内、今日では2つの基礎が見られるのみであるが、これら4つの基盤の上には293~305年の間に皇帝の座にあったディオクレティアヌス、ガレリウス等、4人の皇帝の彫像がたっていた。団結を表現する目的で泉の建設の際にこの場に設置された彫像であるが、エフェソスのハドリアヌスの神殿前にも同皇帝達の像を見る事ができる。

ドミティアヌス広場の西手は、いまだ発掘されずにいる。
広場の中央に見られる円形の記念碑は、4世紀に別の場所からここへ移動されたものである。外側に雄牛の頭の花飾りの装飾が施されたこの記念碑の右隣りには、花冠を手にして飛ぶニケの浮き彫りが見られる。この三角形をした建築資材は、クレティア通りの端にあるヘラクレスの門の一部であったものと考えられている。

エフェソスのほとんどの道路がそうである様に、大理石のブロックで覆われた狭い通路は、広場から南にのびており、ここのアゴラに面した側には、様々な奉仕の為に使用されていた二階建ての建物と貯蔵倉庫が並んでいた。広場の中央にて見られる建築素材はこの地区の建物の一部として使用されていたものである。

ポリオの泉 13.ポリオの泉
ドミティアヌス広場の東、アゴラの西端にある広いポリオの泉は、三角形の破風に支えられた高いアーチと小さな貯水槽をして、実に印象的な姿を見せている。貯水槽にはアゴラ側の半円形の壁から引水され、この壁に釣り合いのとれる様式で貯水槽の中に造られた台座の上から発見された彫像群は、今日エフェソス博物館にて展示されている。

これらの彫像は本来アゴラの中央にあったイスィス神殿の台座に設置されていたものであったが、建物の崩壊と共に、この泉に移されたと考えられている。彫像群はトロヤ戦争に於けるオディッセイの活躍、特に、彼のエーゲ海を舞台にしたポセイドンの息子との冒険を主題としたものである。碑文によれば、泉はセクスティリウス・ポリオによってA.D.97年に造られたものとされている。

14.ドミティアヌスの神殿

その歴史を通じてエフェソスは4度ネオコロス、即ち、神殿所有の都市となり、それを保護する役目に預かっている。古代に於いて、皇帝神殿を所有する事、もしくはそれを保護する役目に就く事は都市の間で非常に名誉ある事とされていたのである。

エフェソスに最初にこの権利を与えたのは皇帝ドミティアヌス(81~96年)であったが、ドミティアヌス広場の南端、真っ直ぐなテラスに同皇帝に捧げる目的で造られた50m×100mの神殿から、今日に残る物はあまり無い。その為、神殿に関する知識は、その基盤の名残りから推し量るのみである。これによれば、神殿の建っていた基盤は24m×34m、周囲を8段の階段状の造りに包囲されていたと考えられる。長い側に13本の支柱、短い側に8本の支柱を持ち、更に9m×17mのセラの正面にも4本の支柱があったとされる。

この前10mの位置には階段の付いた、U字型の祭壇があったと思われ、素晴らしい職人技術をもって製作したここの一部は、現在エフェソス博物館にて展示されている。皇帝が彼等に与えた神殿建設の権利に対する謝意を表する為、エフェソス人等は神殿に高さ5mものドミティアヌスの彫像を備えたのであった。土台と共に7mにも及ぶ彫像の一部分はエフェソス博物館に、保存状態の良好な頭部はイズミール考古学博物館にて展示されている。

エフェソス
神殿の建つ段丘の東、広場に面した場所には商店が列を成していた。段丘の広場を向いた側には上部に浮き彫りの施された二層の支柱から成る欄干が発見されたが、支柱の内2本は都市の別の地で見付けられ、それのあるべき本来の場所に移されたものである。

皇帝ドミティアヌスが側近の一人に暗殺された後は、数々の困難を克服して手にしたネオコロスの地位も危機に面した為、エフェソス人は皇帝の父ベスぺスィアヌスを神と崇め、彼にこの神殿を捧げる事を思いついたのであった。


15.碑文のギャラリー

エフェソスの歴史に閲した碑文はドミティアヌス神殿の建つ段丘の東端にある下層工事現場に於いて見る事ができる。近年の発掘や修復事業の際、偶然に発見された2,000以上の碑文は、当時の都市議会や元老院の決議、表彰や刑罰の基準、皇帝や王の宣言等を今に伝えているものである。

凡例として良好と思われる幾つかの碑文は、主題や年代毎に分類した上、横に翻訳文を添付して展示されている。
エフェソスで発見された最古の碑文はB.C.7世紀にも遡るが、No.1、No.2として展示されているこれらの碑文からは、主題も目的も解明できないままである。アルカイック期の他の碑文と同様、言葉はそれぞれピリオドで区切られ、一つ一つの文字は直ぐ上の文字と揃えられて記されている。

No.4の碑文は宗教上の罪による死刑について語っている。これによると法の番人は、サルデスのアルテミス神殿に献上品を運ぶか、あるいは神殿から品々を受け取る為にでかけた使節団にひどい行ないをしたり、献上品を掠奪した44人、又は46人の名を記し、これに死刑を求刑する必要があるとしている。

碑文のギャラリー
B.C.4世紀、B.C.3世紀に属するNo.11の碑文は「この壁は天井までモスキオンとエウクレイデスのものである。」と記され、つまり、共同所有の法について述べているわけである。

ベルガモン宮殿で奉仕するエフェソス人指導教官に対する称賛を表わすN0.13の碑文はアッタロス二世が、エフェソス人民諮問議会に捧げる為に書いたものである。名をアリストと言う一教師は未来のペルガモン国王となるべきアッタロス三世の指導にあたったが、これに大変満足したアッタロス二世は自身の気持ちをエフェソス人民に知らせる目的でこれを記したのであり、B.C.155年のものとされている。

No.14~No.26までの碑文にはある人々を賞賛する文句が書かれており、例えば、No.20のそれにはA.D.166~167の間に有名な哲学者ダミアヌスが戦地から退却するローマ軍に22,000medimme(穀物の計量単位)を寄付し、又、バリウスの浴場に新しい広間を建設した他、19,816denariiの彼自身の金を都市の為に寄付した為、アゴラの商業、貿易組合(ギルド)から賞賛する、とある。

No.26では、名は読み取れないが、エフェソスの競技者が南イタリア、アジア、ギリシア、島々から成る13都市の中で優勝した事を称えている。

No.27の碑文にはプリタン達による供養品や犠牲の儀式手順が記されている。3世紀のものと思われるこの碑文から、プリタンは非常に出費の多い職であった事がわかり、彼等は単にプリタネイオンに祭られる聖火の女神ヘスティアの最高司祭であったばかりでなく、同時に都市にある全神殿の責任者をも兼任していた事がうかがえる。

128年にオリンポスのゼウスの名代として皇帝ハドリアヌスがアテネからエフェソスにやって来た時の事を記したのがNo.31の碑文である。「良い治政を行なう運命の女神に捧ぐ。大地の父、オリンポスのゼウス、そして、救済者、同時に(神に代わっての)都市の設立者、皇帝カエサル・トラヤヌス・ハドリアヌス・アウグストゥスへ」と記されている。

碑文のギャラリー
16.ガイウス・レカニウス・バッススの泉

アゴラの南から走る道路と、ドミティアヌス広場からの通りが交差する地点の角に、エフェソスでの記念噴水の一つであるガイウス・レカニウス・バッススの泉がある。ドミティアヌス神殿側に造られたこの噴水泉は、中央の内庭、三方に位置する二層の支柱、そして正面の2つの貯水槽から構成されている。又、壁面の上には高さ9mもの破風がある。正面には20本、側面にはそれぞれ14本ずつの支柱が立ち、2本の支柱の間には、彫像の置かれた壁がんがあったと考えられている。発掘調査の際に発見されたトリトン、ミューズ、ニンフの像は、現在、エフェソス博物館の泉からの遺跡の間に展示されている。
碑文では、泉は75~80年の間にアジア地方の政治家の一人であったガイウス・レカニウス・バッススによって造られたとされている。

17.ヘラクレスの門
ヘラクレスの門はメミウスの記念碑から西に続くクレティア通りの始まりに位置する二階造りの建物である。下の階には広いアーチの入り口があり、上には一列に並んだ6本の支柱が見られる。アーチの横にあるコリント式の柱頭の柱の辺りには、現在、デミトリアヌス広場に置かれているニケの浮き彫りがあったのである。この建物の資材として使用されたほとんどの部分はいまだに発見されずにいる。

上の階の6本の支柱の内、中央にある2本は入り口の横木の様な姿を見せ、柱の上には見事な2世紀の職人芸術と言われるネメアの獅子の皮を纏ったヘラクレスの2つの浮き彫りが施されている。
これらは本来別の場所にあったものを5世紀にこの場に移動させたものである。


18.クレティア通り

神話の中で〈半神〉として語られるクレティアは、後にエフェソスで聖職者達を表わす呼名となった。発見されたコレジウムはエフェソスで最大の崇拝神殿と見なされている。エフェソス各地でクレティアに関した幾つかの碑文が発見されているが、特にプリタネイオンからの出土品は注目される物である。これらは最初6点であったが、後には9点に増え、エフェソス近郊のオルティギアに於けるエフェソスのアルテミス誕生を主題に再現させたものと考えられている。神話によれば、ゼウスから身篭もったレトはアルテミスとアポロンの双子を出産したが、その際、クレティア等が手持ちの武器を打ち鳴らし騒音をたてた為、レトを嫉妬していたゼウスの妻へラは、どさくさに紛れて、双子出産の事実を見逃してしまったのであった。

年が改まる毎に新たに選出されるクレティア達は、最初、単にアルテミス神殿のみと関係があったが、後にローマ帝国期になるとプリタネイオンに於いてもある地位を築いたのであった。

クレティア達に因んで命名されたクレティア通りはヘラクレスの門とセルシウス図書館の間に延び、つまり、都市の中心を走っていた道であった事から、ここの上には数多くの記念碑を見る事が可能である。

両側に位置する屋根付きで支柱のあるモザイクで覆われたギャラリーに向かって、商店や家々、その他の建物の扉が開かれている。支柱の前面に見られる基盤の上には都市の後援者達の彫像が立ち、基盤の幾つかには碑文も残されている。ヘラクレスの門の近くで発見された彫像の一つは医師アレクサンドロスを表わしたものである。エフェソス博物館に展示されている執政官ステェファノスの彫像もこの辺りで発見されている。

4世紀の半ばの地震は通りを破壊し、これを使用不可能な状態にした。しかしここを襲った最後の地震の後、各地から搬入したそれぞれに異なった建築資材や支柱を用いてこれを再建したのである。
通りに面した商店は、その後方の家々と繋がっている。

クレティア通り
19.トラヤヌスの泉

クレティア通りの北にあり、発掘の際に出土した碑文によると皇帝トラヤヌス(98~117)に捧げる為、102~114年に造られたものとされている。

賛美の碑文は今日、泉の横にある大きな軒じゃばらの上に記されている。中央には貯水槽が設置され、三方は二層の支柱から成る〈壁〉で包囲されており、支柱の間には彫像のある壁がんが造られている。この内、中央の壁がんにはかつて皇帝トラヤヌスの像が置かれていたと考えられている。

しかし皇帝の彫像から現在に残るものは残念ながら台座と足の一部のであり、貯水槽にはこの像の下にあった大きな溝を通って水が流れ込んでいた。泉は本来、高さ12mの造りであったが、全体の様子を把握する為、縮小して修復されている。ディオニソス、サテュロス、アフロディーテ、そして皇帝の一族の像は発掘の際に出土され、エフェソス博物館に展示されている。

トラヤヌスの泉
20.円形の塔

トラヤヌスの泉の後方、パナユルダゥの裾野には、円形の塔の名残りを見る事ができる。A.D.50年頃に何かを記念して造られたこの塔は長方形の基礎上にあり、一列に並んだ二層の支柱に囲まれて、中央には円筒の主要建造物が位置している。下の支柱はドーリア、上のものはイオニア式でる。塔は今日、その基礎となる部分しか残っていない。

トラヤヌスの泉とスコラスティカ浴場の間を北に走る通りは、大理石の平板に覆われ、所々に階段が設置されている。これは〈大理石の通り〉と平行に走っており、大劇場までの部分は既に発掘が済んでいる。

21.スコラスティカ

クレティア通りの北側、トラヤヌスの泉とハドリアヌス神殿の間に位する浴場は、基礎も含めて三階建てであり、エフェソスにある同種の施設の中では最大とされている。

ローマ帝国期に、浴場は独自の規則をもって運営され、貧富の差を問わず人々の間で非常に一般的に利用された施設であった。浴場の中には、誰もが広く利用できる様にと、貧しい者からは料金をとらない所もあったそうである。一般的に裕福な人々は、お付の者を従えて午後から出掛け、ゆっくりと時を過ごしたようである。

浴場では最初、アポディテリウムと呼ばれる脱衣室で衣類を脱いだ後、スドトリウムで汗を流し、カルダリウムで温水浴をするのである。更に、ここでお付の者は彼等の主人をマッサージし、洗い流しをしたのである。

スコラスティカ
それが済むと彼等はテピダリウムで一日の出来事を話題にして話し込んだり、政治、哲学に関する討論を繰り広げたりして寛ぎ、最後にフリジダリウムの冷水プールで泳いでスッキリした後、家路につくのが常であった。ローマ人の後、浴場は人気を失い始め、中世に於いては全く忘れ去られたが、セルジューク、そしてオスマントルコ時代になると再び、人気を取り戻す様になった。

スコラスティカ浴場にはクレティア通りと、東の通りからの2ケ所の入り口があり、どちらの扉も円柱と壁がんのある非常に大きな広間であるアポディテリウムに続いていた。壁がんの一つに見られる像は400年に最後の修理を施したクリスティアン・スコラスティカのものである。

フリギダリウムはアポディテリウムの西に位置し、その中央には楕円形の冷水プールが設置されていた。テピダリウムへはアポディテリウムの北側にあるアーチ形の扉を潜って入るが、ここからは暖かい空気を巡回させる為に壁と床下に埋め込まれていた陶器の管が発見されている。

東壁にはその表面より数センチ引っ込んだ僅かな部分に、色付き大理石を用いて施したモザイク装飾が残っているが、これは本来、浴場の床を覆っていたものと思われている。400年に行なわれた修繕で、今までの床は大理石の切板で覆われた。非常に良い保存状態で残っているのは、テピダリウムからかカルダリウムに続いていた小さく、狭い扉である。それぞれの時代に行なわれた手直しで、壁は大理石や煉瓦の板で覆われ、カルダリウムの床下は、その間を温風が流れる様に、素焼きの足の支えも施されたのである。

温風はカルダリウムの西に位置する〈かまど〉から送り込まれていた。スコラスティカ浴場は1世紀に造られ、何度もの修繕を4世紀の終わりまで繰り返したのである。


22.公衆トイレ

スコラスティカ浴場の西端には円天井に覆われた狭い道があり、都市の公衆トイレの扉はこの道に向かって開いている。建物の中央には方形の貯水槽が設けられ、ここの端に、穴を開けただけの石造りのトイレが並んでいる。この正面には水の溝が引かれ、床はモザイクで覆われている。貯水槽の上に覆いは無いが、周囲は壁で囲まれており、回りの4本の柱によってトイレの屋根が支えられていたのである。

公衆トイレ
23.ハドリアヌスの神殿

クレティア通りの上にある遺跡の中でも最も見事なものに拳げられる建物で、遅くとも138年までには完成していたと考えられている。神殿は記念碑的意味合いのあるアーチ形の入り口と、その後方の小規模で剥き出しの主要建物から構成され、アーチ形の入り口の前面にあるコリント式柱頭の付いた4本の支柱でその上の三角の破風を支えていたと考えられる。

更に、中央の2本の柱で、破風より全面に曲がって彫られ、まん中に都市の女神ティーチェの胸像を施したアーチを支えているのである。扉の横木には、古典的図柄を用いた大変見事な装飾が施され、奥の入り口の上部、半円形の中には、花やアカンサスの葉に包まれたメドゥーサに似た女性の浮き彫りが見られる。アーチ門の上部横木にあった帯状装飾板の本物は現在エフェソス博物館にて保存されている。

修復の際、本来の装飾板の代わりにここには複製のものを使用したわけであるが、この装飾板は左から始まる4部構成となっており、最初の3部には神や女神と共にエフェソスの創立者アンドロクロスが猪を追い掛けている場面、神々とアマゾン族、そしぜアマゾン族とディオニソスの行進が表わされている。

4番目の主題は前3つと異なり、左からアテナ、セレナ(月の女神)、男性、アポロ、女性、アンドロクロス、ヘラクレス、テオドシウスの父、皇帝テオドシウス、エフェソスの女神アルテミス、テオドシウスの妻と子息、そして女神アテナが現されている。神殿は4世紀の地震で崩壊し、他の3つと主題の異なるこの第4の装飾板は、恐らくエフェソスの他の建物からこの場所を修復する為に運ばれてきたのであろうと推測されている。

建物に記されている碑文によれば、神殿はP.Quintiliusが皇帝ハドリアヌスにA.D.138年頃献上したものとされている。支柱の前には碑文のある4つの土台石が置かれている。これらの上には293~305年の間にローマ皇帝の位を分け合ったディオクレティアン、マクスィミアン、コンスタンティウス・コロルス、そしてガレリウスの4皇帝の彫像が乗っていたとされている。

ハドリアヌスの神殿
24.裾野の家々

ハドリアヌス神殿の向かいにあるかつての商店の発掘は完了しており、これらの幾つかはその上に造られた家と連結していた事が明らかになっている。クレティア通りと階段付きの狭い道路で繋がる家々は、ビュルビュルダゥの裾野にされていた為、段々になっており、下の家の屋根が上のもののテラスとなる様な形をとっていたと考えられている。

都市の中心に位置している事から、これらは恐らく特別な、そして名家と言うべき選ばれた一族の所有していたものであるとするのが正解であろう。この様な理由で、エフェソスのこの地区の家々は〈裕福な人々の家〉もしくは〈山裾の宮殿〉と呼ばれている。

階段のある道に向かって全ての家のテラス側から扉が開く様になっており、家々には部屋に囲まれた内庭(ペリスタイル)が必ず設けられていた。多くは三階建てで、大理石に覆われ、四方を支柱に囲まれた内庭の広さは25~50㎡が普通と見られている。水道設備もあり、更にペリスタイルの中かその横には噴水泉も設置されていると共に、貯水槽を所有する幾つかの家もあった様である。ペリスタイルには天井がなく、一応は家の採光にも役立っていたが、窓がなかった為にやはり家の中は暗かったと思われる。浴場が温風を巡回させ空気を暖めていたのと同様の方法をこれらの家々も採用していた様である。

床はモザイクで覆われ、壁はフレスコ画が施されるか、装飾豊かな大理石で飾られるのが一般的であった。普通、新しいフレスコ画は古いそれの上に描かれたが、この際、漆喰を定着させる為に古い絵は削られている。フレスコの主題は、主に神話から、例えば、神、女神、ミューズ、エロス等を採用したり、悲劇喜劇の一シーン、花々の図柄が当時の流行であったと考えられる。アウグストゥスの時代に造られた山裾の家々は、7世紀頃までに様々な増築、改装が施されている事が発掘調査の結果から明確になっている。7世紀以降、内部に土や砕石を満たした家は穀物の貯蔵庫として使用され、この上に水車小屋を建て、何年もの間使っていた様である。

これらの内、2つの家が修復され一般に公開されている。発掘中に発見された家庭用品も家の中で見る事ができる。

ペリスタイルの家 1

ハドリアヌス神殿の向かいにある階段付きの道の末端に入り口を持つ家は、山裾の家々に関する全ての情報を知る事ができるまでに修復されている。900m2の敷地の上に立つ二階建ての家の上階部は、残念ながら完全に崩壊してしまっている為、ここから何かを解き明かそうとするのは無理である。

異なった目的で使用された12の部屋から構成され、まず入り口にある何段かの足場を踏んで黒と白のモザイクで床が覆われた広間へと出る。ここの右手には上階に続く階段と、後に造られたアーチの付いた噴水泉がある。入り口の真向かいに見られるアーチ付きの通路は大理石に覆われたペリスタイルに続き、北手には噴水の名残りをうかがう事ができる。泉の後方にある部屋の床はモザイク装飾され、壁には主に赤色を用いて描かれたフレスコ画が残っている。この家自体は1世紀の建築物であるが、これら2部屋は400年に行なわれた改築後に造られている。

ペリスタイル(内庭)の反対側には円天井付きの壁がんがあり、二階部分に続く階段の名残りも見られる。この階段に接して、床や壁をモザイク装飾したもう一つの良く手入れされた部屋がある。ここは本来、隣接する別の家の部屋であったが、後にそこから切り離して使用される様になったものと考えられている。

ペリスタイルの西手には高さ4mの壁がある、状態の良い広間があり、ここの入り口の両側に劇の一こまを描いたフレスコ画がある為に〈劇場の間〉とも呼ばれている。ローマ時代には役者が仮面を着けて演技をするのが常であった事から、ここのフレスコも仮面を被った構図となっており、右手には喜劇作家メナンデールの〈Sikyonios〉と、左手にエウリピデスの〈Orestes〉からの一場面が描かれている。〈劇場の間〉の広い壁には実物大の全裸、半裸の男女の図柄が見られ、これらの内の一人は手に皿を持っている。

左手の壁、第一の部には仮面が、その横にはヘラクレスと川の神アケロウスの格闘の様子が描かれている。このフレスコのテーマは次の様である;西方ギリシアで最も重要な川の神アケロウスはカリドン王の愛娘デイアニラに恋し、彼女との結婚を渇望していた。しかしある時は雄牛、又ある時は龍と、その姿を変えるアケロウスを恐れたデイアニラは、川の神よりヘラクレスとの結婚を望んだのであるが、これを知った川の神は龍に姿を変えヘラクレスに挑んだ。こうして、二人の間に闘いが始まったのである。

〈劇場の間〉の床は対称柄のモザイクで覆われている。これらのモザイクやフレスコは2世紀にまで遡るものである。
入り口の南は浴室となっており、大理石に覆われた床と排水溝は崩壊しているが、泉とかまどは現在もその姿を留めている。床下に設けたかまどから温風を送り出し、これを巡回させ家を暖める方法は当時一般的であったが、今でもその為に使用された素焼きの足が残っている。厨房は浴室に接する位置にあり、ここの横にはより小さな部屋と通路に開く勝手口が見られる。現在家の中に置かれている家庭用品は発掘中に出土したものである。

ペリスタイルの家 2

前述の第1の家に接続しており、2つのペリスタイル(中庭)を持つ、より規模の大きい家である。1世紀の建物であるが、6世紀まで、多くの修繕や改築の手が加えられている。主要ペリスタイルは他のそれより状態がよく、コリント式の柱頭のついた優雅な支柱が見られる。ここの南側に使用されている支柱は、5世紀の改築で別の場所から運び込まれた為、建物や他の建築資材からして、多少異質な感じがするのは否めない。

ペリスタイルの南側の長い連廊は、対称模様が白黒のモザイクで装飾されており、ここの真向かいにあたる南連廊には左手に父の象徴である三つ又の矛を持ち、右手で半裸のニアリイドが座る馬頭魚尾の怪獣の手綱を引くトリトンのモザイクがある。この色彩豊かで生き生きとしたモザイクは丁度ペリスタイルの横に位置し、床を白と黒の〈縄編み模様〉のモザイクに覆われた壁がんの前方にあるのでわかりやすい。山裾の家のなかで見られるモザイクの内、最も美しい作品は、細かい色彩豊かな硝子を用い、全面を覆い尽くした、ここの壁がんの円天井のものであろう。

中央の円の中にディオニソスとアリアドーンの頭部、そしてその周囲を植物や孔雀、家鴨、雄鶏が取り囲んでいる5世紀の作品である。円天井の両側にはフレスコで描かれた花冠を運ぶエロスのフリーズが見られる。家の東側には様々な大きさの部屋が並び、これらの床には白黒のモザイク装飾が、壁には鳥や花の構図のフレスコ画が描かれている。


25.オクタゴン

ハドリアヌス神殿の真向かい、道路の端には八角形をした霊廟がある。エフェソスでは人々の尊敬と名声を手に入れる為、公共の建物や神殿建設、又、それらの維持費を出資する事が、まるで〈競争〉の様になる傾向にあったが、数々の努力の末に名声を手にした人々は、アゴラや主要大通りの特別な場所に彫像を立てられる事や、賛美の碑文を記される事、オクタゴンの様な記念霊廟を捧げられる事でその見返りを受けていたわけである。

長方形の基盤の上に建つこの八角形の霊廟も、その様な人に属する墓である。周囲はコリント式の一列の支柱で囲まれ、ピラミッド形の屋根がついている。軒や基盤には蓮やしゅろ、アカンサスの葉の装飾が施されている。

低い円天井のある部屋に石棺が置かれ、ここの入り口は狭い通路を抜ける様になっているが、その後方の家の下に位置している。
B.C.40~B.C.20の間に造られたオクタゴンは1929年に発掘されたが、18~20才位の若い女性のものと思われる骸骨も共に発見されている。

26.ビザンチンの泉

オクタゴンの直ぐ隣にはギリシア語とラテン語の碑文が残されている。これらは皇帝バレンティニアウスー世とバレンス、グラティアヌが4世紀半ばの大地震の後に都市や都市の城壁を再建した事、アジア地方の祭日について規定を記したものである。碑文の横には馬てい形をした霊廟があったが、この上に5世紀に泉を建てた為、一部、崩壊している状態にある。
正面の貯水槽とこの後方の主要建物から構成される泉の壁は十字架の印で飾られている。

27.娼婦の館
クレティア通りのハドリアヌス神殿の後にある柱廊玄関状のものは、ビザンチン時代にビザンチンのストア(覆いのある広間)に変換されている。そしてここの後方にあるのがペリスタイル付きの〈愛の家〉として有名な娼婦の館である。

恐らく98~117年、皇帝トラヤヌスの時代に造られたものと推測される館は、後方の公衆トイレ、スコラスティカ浴場と共に複合施設を形成し、4世紀にはこれら全てに修繕の手入れが施されている。トイレにて発見された碑文には、ここが娼婦の館であり、〈大理石通り〉に入り口があると共に、別の扉からクレティア通りに出られる様にもなっていた、とある。

上階は完全に崩れ落ちている。下の階は非常に広く、その壁はかつてフレスコ画で飾られていた様であるが、現在ではほんの僅かな跡が残るだけである。

西に位置する居間(トリクリニウム)の床には、四季を表わす色彩豊かなモザイク装飾が施されている。ここに接続して冷水と温水用の浴室があり、西手に床をモザイクで覆ったプールが見られる。後期になって周辺で行なわれた改築の際にプール自体は損傷を受けたが、モザイクの保存状態は良好である。中央で飲み者を頂く3人の女性、立ち姿の召使、パン屑を食べるネズミ、そして猫が図柄として採用されている。ここのクレティア通りの側には、今日も利用されている井戸があるが、エフェソス博物館にて展示されている性器を誇張したプリアパスの像はここから発見されたものである。

クレティア通りがセルシウス図書館に行き着く手前に、小さな広場があり、ここから〈大理石通り〉が右手に、別の通が左手に走っている。
前述の広場から左手に走る道の始まりに位置し、広場を向いて立つのがこの記念門である。道の発掘がいまだ行なわれていない為に、これがどこに続いているのか明らかになっていない。しかし、始発点を記念門に置いていると言う事実から推測するに、恐らく、重要な宗教的建物、もしくは神聖な地区へと延びているとして間違いないだろう。

門は2世紀の始めに造られ、現在は3つの通路を隔てる4本の壁柱と、周囲に散在する様々な建築資材が残るのみである。壁柱はイオニア式柱頭のある対の支柱を支え、中央の2本の支柱の間にはアーチがある。そして更にその上には、下のそれより小規模な6本のイオニア式支柱がやはり対になって配置されている。破風はハドリアヌス神殿のものに酷似しており、中央の2本の支柱の間にはアーチも見られる。
おそらく門は4世紀半ばの地震で崩壊したと考えられている。

29.セルシウス図書館

修復工事の完了したセルシウス図書館は、エフェソスの記念建築物の中でも、最も印象的で、人目を引くものである。
92年、ローマの執政官であるティベリウス・ジュリアス・セルシウス・ポレマエアヌスは全ての公共建物の管理責任者であり、105~106、もしくは106~107年には都をエフェソスに置くアジア州の知事でもあった。114年彼が70才でこの世を去ると、その息子ティベリウス・ジュリアス・アクイラは父の為に記念霊廟としてこの図書館を建設したのであった。(117年に完成したと思われる。)

質の良い大理石で作られたセルシウスの棺は図書館の壁の下に埋められており、エロス、ニケ、花冠、ばら花飾りの浮き彫り装飾が施されている。1904年発掘調査の際、この棺は開けられ、内部に置かれた鉛製の第二の棺の中から骸骨が発見されている。

皇帝ハドリアヌスの時代の建築的特徴を充分に示す建物は、特に2階造りの壁面に注意を払って建築されている。下の階にはコリント式の柱頭を持つ支柱が2本一組として長さ21mの舞台状の基盤に用いられ、9段の足場がここに続いている。対の柱の間には、内部に続く見事な装飾の施された3つの門があり、中央のそれは他の2つより、広く高い造りとなっている。

門を挟む様にして壁の内部にくり貫かれた部分には彫像が立つが、これらは図書館が発掘された年にウィーンに持ち出されたオリジナルの複製である。基盤に残る碑文によれば、これらの彫像はセルシウスの知識(ソフィア)、学識(エビステイム)、聡明さ(エンノイア)、そして高潔さ(アレーテ)を象徴するとされている。

エフェソス
上階の柱は下のものより小ぶりで、窓の上の部分にあたる三角形と半円形の頭を支えている。
図書館の内部は10.92m×16.7mあり、装飾豊かな大理石に覆われている。西の壁、丁度セルシウスの棺の上にあたる部分は後陣に似た造りがとられ、発掘の最中にここから発見され、現在イスタンブール考古学博物館に展示されているセルシウス、又はその息子のものと思われる彫像は、半円形の壁がんに設置されていた物である事が確認されている。

横の壁には巻き本を保存していた壁の窪みが列を成し、上の階にもこれと同様な造りを見る事ができる。今に残る建物から想像するに、恐らく図書館の内部も二階建てであり、二階の部分にあるべき高さに見られる壁の窪みの前にはバルコニーがあったと思われている。湿気対策として、壁の窪みの後方は空洞となっており、右の窪みはセルシウスの霊廟にまで続いている。

これらの壁がんには12,000冊の巻き本が保管されていたと言う。図書館の建設者、セルシウスの息子ティベリウス・ジュリアス・アクイラが建物の完成を見ずにこの世を去った後、建築続行は彼の後継者の手に委ねられた。ティベリウス・ジュリアス・アクイラは増本する事と言う条件をつけて25,000ディナールを遺贈している。

セルシウス図書館は両側にあった建物の間に後から造られた為、まるでこれらに挟み込まれ、潰されたかの様な印象を与えていた。これを克服して実際よりも大きな建物に見せる為に、様々な手段がとられているが、例えば、支柱の立つ基盤は、中央を両端より盛り上げ、この凸状の基礎の上に乗せられた支柱、柱頭も両端の物より中央の物の方を幾分大きく造っている。つまりこうして遠近方の効果による目の錯覚を狙い建物を大きく見せたと言うわけである。

262年のゴート人襲来に於いて、図書館の内部は完全に焼き払われてしまったが、外の壁は大した被害を受けずに済んだ。4世紀の末、建物はエフェソスの他の建造物と共に修理されたが、この際、正面の階段の隅に噴水泉が設けられている。壁面は10世紀の地震で崩壊し、F.Hueberにより修復された。

日中、正面の泉の両側に列を成した状態でパルティア戦争の模様を描いた帯状装飾のブロックが発見されている。理論的に考えて、これは図書館正面の広場の南側にあった祭壇に属するものとするのが正しいであろう。道路から図書館に下る階段は、祭壇前の階段と図書館自体と共にあたかも聴衆席の様な印象を与えている。

中心に漆喰と砕石とであまり注意を払わずに造られた壁と門は、6世紀から7世紀にかけてエフェソスの人口が減少した時の城壁と西の門であった。広場の横に置かれている石棺は1968年にエフェソス博物館による発掘調査の際に既に暴かれた状態で発見されたが、この上の碑文からすると、棺は2世紀に造られ、ティベリウス・クラウディウス・フラピアヌス・ディオニスィオスの物である事がわかる。


30-31.マツェウス―ミスリダテスの門とアゴラ(商業用地区)

アゴラとセルシウス図書館との間にある門は、ローマの凱旋門に似て、3ケ所の通路がある。この通路の間の厚く強靭な漆喰によってアーチとその上に乗る3部構成で豊かな装飾の施されたフリーズが支えられているのである。中央の通路は他のものより内側に設けられた為に、建物に奥行きを持たせ、アチカ(アテネ風の)壁をしてまるで王冠を頂いた様にも見える。両側の通路には2つずつの壁の窪みが設けられ、「ここで立ち小便をする物は、誰あろうと裁判所で裁かれる事なり」とある。門の最も重要な碑文は横通路上に見られる。

西側の碑文:
Im(peratori) Caesari f(ilio) Augusto pontifici
maximo co(n) s(uli) Ⅻ. tribunic(ia) potest(ate) ⅩⅩ et
Liviae Caesaris Augsti
Mazeus et

東側の碑文:
M. Agrippae L(ucci) f(ilio) co(n)s(uli) tert(ium)
imb(eratori) tribunic(ia)
potest(ate) Ⅵ et
luliae Caesaris Augusti fil(iae)
Mithridates patronis

エフェソス
碑文にはラテン語が使用され、東側の二行目〈imb〉は〈imp〉とあるべきものの間違いである。碑文には次の様に刻まれている。「皇帝カエサル、神の子アウグストゥス、最高司祭、執政官を12回歴任し、人民保護官を20回勤めた。カエサル・アウグストゥスの妻リビア、ルチアスの息子マーク・アグリッパ、執政官を3回、皇帝、6回人民の保護官を歴任した。そしてカエサル・アウグストゥスの娘ジュリア。マツェウスとミスリダテスより、尊いその主人達へ。」と。

マツェウスとミスリダテスは皇帝アウグストゥスとその一家の奴隷であったが、自由の身となってから、皇帝の許しを得てB.C.4年もしくはB.C.3年にこの記念門を建て、皇帝をはじめ、妻リビア、娘ジュリア、婿アグリッパに献上したのである。

門の修復、修繕はいまだ続行されている。発掘の最中、クレティア通りから引かれた幅広い下水溝がこの門の下で発見されている。


商業用地区(アゴラ)

マツェウスとミスリダテス門の他にアゴラには西と北にも別の門がある。西の門は多くの支柱と職人芸の最高傑作とも言うべき装飾で実に美しいが、対して北の門はまだ修復事業が手付かずでいる為、門自体の、そしてそれがどんな様子であったのか現在分からないままにある。

アゴラは一辺の長さ111mの方形の基盤にあり、B.C.3世紀に建てられ、最終的な形になったのはカラカラ帝(211~217)の時代であった。発掘の段階で本来のアゴラ遺跡は、現在の地盤から2~2.5m下にて発見されている。ほとんどのアゴラは4世紀の地震で崩れたが、後に再建されている。

アゴラの北端の外側には、三方に小規模ではあるが、円屋根のある商店があった。これらの内、東と南手のものは二階造りで、商店の正面には二層の支柱が屋根を支えている。本来これらの柱は花こう岩でできていたが、4世紀の修復のおりには大理石のものも使用される様になっている。

大きな広場にも似たアゴラの中心には、かつて日時計と水時計(ホロロジオン)が設置されていたが、ホロロジオンの基盤は発掘の最中に発見されている。
アゴラの中心の空間から様々な哲学者、雄弁家、政府高官、学者の彫像が発見されている。

ローマ時代にアゴラは市民生活の重要場所であり、半神聖な場として認知されていた為に、入場する場合は敬意をもって、と言うように特別な意識が必要とされていた。有名なローマの哲学者カトも「農地でのものと同様の服装でアゴラに入るべからず」と言っている。アゴラでは当時の技術で作られた青銅や銅の製品、数々の陶器品(特にオイルランプ)、アラブ諸国からのハーブ、アナトリアの葡萄酒、蜂蜜や保存肉、絹、エフェソス製の香水、高貴な石を用いた宝飾類等が売られていた。

32.セラピスの神殿

アゴラの南西隅にある階段付きの通りはセラピオンに続いているが、この他、アゴラの西門が開く道からも神殿に行く事が可能である。ストアに似た幅24m、長さ160mの道は大理石舗装され、神殿の南側にある階段のついた扉へと続いている。扉は、その三方を柱廊玄関風の支柱に囲まれた広い内庭に向かって開き、ただナオス(主要の部屋)とプロナオス(玄関)のある神殿そのものは、この庭より高い段丘の上に位置している。直径1.5mでコリント式の柱頭をつけているプロナオスの支柱は、それぞれの重量が57トンあり、これが支える上の部分も、柱とほぼ同じ位の重さとみられている。神殿の入り口は非常に広く、下に滑車のある2つの鉄の扉がついている。(滑車のつけた深い跡が見られる)

神殿の周囲に散在する不完全な建築資材は、この神殿がまだ完成途中にある事を物語っている。発掘の最中、花こう岩でできたエジプト様式の像が発見され、碑文によれば神殿はセララピスに献上されたものと考えられる。ローマ時代の宗教で、いわゆる〈あの世〉、又は〈死後の世界〉と言う意識はなかったので、これに基づけば、ホメ一口スも指摘している様に死人の魂の多くは〈地下界〉を痛みをもって浮遊するとされる。対してエジプトの信仰は死者の再生と、死後の世界での暮らしを信ずるものであった。

エジプトとエフェソスの交流はペルシア期をもって最盛期に達し、エフェソスとアレクサンドリア間の船での交易はこれを表わす良い例である。この関係を示す別の証拠として、エフェソスの発掘作業中発見された多くのエジプト風エフェソス人の彫像と、今でもエフェソス博物館に展示されている信用証書を挙げる事ができよう。長さ1mのこの証書の片面にはエフェソスで最も影響力のある女神アルテミス、もう片面には髭をはやし、手にしゃくを持ったエジプトの最高神セラピスが描かれている。

このようにして、エフェソスにおいて、神セラピス崇拝は認知されたのである。
2世紀になると、豊かな装飾の施された神殿が建設され、セラピス神に奉納されたのである。

33.大理石の通り

パナユルダゥを旋回しながら走る聖なる道〈大理石の通り〉は、セルシウス図書館と劇場の間にのび、大きく、平らな大理石の石板で舗装されている。通りの東側はクレティア通りに似て支柱のある柱廊玄関があり、西側は皇帝ネロの時代(54~68年)に上を覆った高さ2mのストアに変換されている。いまだ修復作業の続行される階段のついたストアの入り口は劇場の方を向いている。本来、壁のブロックはそれぞれ銅や鉛の締め金で固定されていたが、此れ等はエフェソスが経済的に非常に弱小となったビザンチン時代にはずされており、その為、現在は壁に金の止められていた穴のみが残っている。

通りのストア側には、その先に娼婦の館があると言う事を、ある〈滑稽さ〉をもって宣伝する事を狙った女性の頭部と左の足跡、そしてハート形の彫られた(ビザンチン時代)狭い歩道がある。この横に見られる剣士の浮き彫りは都市の各地から搬入されてきたものと思われている。

大理石の通りはセルシウス図書館に起点を置き、べディウスの演武場と徒歩競技場の間にあるコレッソスの門を抜け、更にのびている。5世紀にエウトロピオスと言う名前のあるエフェソス人が、通りのこの部分を修復しており、この事に対してエフェソス人等はこの場所に彼の胸像を立てたのである。

古代に於いて修復の手の届かなかった通りの表面には、ローマ時代につけられた10~15cm程の馬車の車輪跡が残っている。
通りの演武場以降の部分はエフェソス博物館によって、いまだ修復、修繕が続行中であるが、調査の際に良い状態で発見された煉瓦製のアーチの一部は、支柱の間に煉瓦のアーチが設けられていた事や柱廊玄関の屋根が木製であった事などを今に伝えている。4世紀の修復中には、徒歩競技場から観客席の一部を欄干として使用する為、ここに搬入している。又、アゴラからは花こう岩の円柱も持ち込まれている。

円形劇場
34.円形劇場

パナユルダゥの裾野を利用してリシマコスの時代に造られた大劇場は、その後、何度かの改造がなされ、他の古代の劇場ほとんど全てがそうであった様に、〈聴衆席〉、〈半円形舞台〉、〈舞台〉の3部構成となっている。

高さ約18mの舞台は劇場の中でも最も印象的な部分である。聴衆と向き合う壁面は支柱のある3層造りであり、支柱の後方には彫像の備え付けられていた半円形と三角形の壁がんがある。今でもしっかりとその状態を留める地盤階は北と南にのびる入り口と、この西側に一列に並んだ8つの部屋から成っている。

これらの部屋の両端のものは建物の西にある狭いテラスへと開き、中央の部屋の扉は半円形舞台と連結している。
古典期(B.C.5世紀に於いて、劇場建設の際、特別に芝居の為の舞台と言うものは設計に含まれておらず、通常、役者達は半円形の舞台で演技をするのが普通であった。時には、この演技用の舞台は〈半円舞台〉より多少高い位置に造られる事もあった様である。ヘレニズム時代になると半円形舞台はより小規模となり、演技用に狭く、小さな舞台が設置される様になったが、この試みは結果として後方の聴衆にまで役者の声を響かせる事となり、又、前方の客には、演技者の姿を更に良く見せる様になったのである。

エフェソスにて見られるヘレニズム期の劇場の舞台は、幅2.5~3m、そして高さもそれと同程度というのが一般的である。ローマ帝国時代になると、舞台の幅も高さも、それぞれ6mと25.5mまでに拡張され、都市の名士達の為にオーケストラ(半円形舞台)の中に特別席も設けられる様になっている。

皇帝クラウディウスの治政下(31~42年)、劇場には時代の要請と共に、重要な改築が施され、舞台の造り自体はそのままにして、オーケストラの中に5m程入り込む様に改められている。この部分は〈プロスケーネ〉と呼ばれ、建築の際に、現在も残る2列の支柱が用いられている。同時に、この後方にある主要建物に3層の支柱からなる見事な壁面も造られている。この壁面は壁がんや彫像、浮き彫り等で装飾され、これらの増築の間、オーケストラに二手から入る事を可能にしていたパラドス(横口)に覆いがかけられ、今日見られるトンネル状の入り口も設けられたのである。

これらの内、北側のものは現在まで良い状態を保って来たが、南手のものは建設後に何度かの改築が施されている様である。舞台の前方へのびるプロスケーネには、建物を実際の規模より大きく見せる効果を狙って、主要建物から中央の物がより大きく、両端のものは小ぶりな5つの扉が開いている。中央扉の上にある壁がんの中には、皇帝の陶像、もしくは彫像があったはずであると考えられている。

皇帝クラウディウスの始めた一連の劇場改築、増築は完成まで70年を要した為、聖パウロがエフェソスを訪れた際も続行中であったと言う。
舞台建物の二階の一部は良好な保存状態で発掘されたが、ここの様子からして、二階の設計は下の階のそれと異なったものが採用されている事が明白である。中央には長い通路が見られ、このプロスケーネ側にある5つの扉の西には2列の部屋があったとされている。

オーケストラ:半円形より多少広く、直径34m。
演技の最中、パラドスから入場する合唱隊はオーケストラの二方から定位置に着き、出番になると一斎に語り出したのである。出し物の前には、オーケストラの中心にあったと考えられる祭壇の正面で、ディオニソスに敬意を表する儀式が取り行なわれるのが常であった。そもそも演劇の起源と言うのは、酒の神ディオニソスに対する崇拝の儀式から発し、この為、開演を儀式を以って取り行ない、神に犠牲の動物を捧げる事が伝統となっていたのである。

ヘレニズム期のオーケストラは、より小規模な造りとなっている。ローマ帝国期に於いて、オーケストラの直径は5mに拡大され、床は大理石の石板で覆われる様になったが、今日見られる床は、当時から残る数枚のオリジナルに適応させ造ったものである。

聴衆席も半円形より多少大きく両袖を広げ、つまり180度より広い角度に造られ、オーケストラの床から、その最も高い位置までは高さ38m、直径154m、一度に24,000人を収容するに充分な能力を有していたと思われる。

12段の階段状に造られた聴衆席はディアゾマと呼ばれる2つの通路を挟んで3部に分割されている。
観客は席の外に設けられた階段つきの通路を使って着席し、入り口は劇場の位置する丘の頂上から続く道にあった。客席の最上階の更に上に見られる円柱のあるギャラリーは、この部分を他から隔てる他、音響効果を高めるのにも一役かっていたのである。本来、客席とオーケストラの間には鉄柵が張られていたが、後に高さ2mの壁に変換されている。客席が現在見られる様な最終的な形をとったのは、皇帝ネロ(54~68年)、そして皇帝セプティムス・セベルス(193~211年)の治政下で行なわれた改築後の事である。

役者は全て男性で構成され、山裾の家で見られる劇場の模様を描いたフレスコ画の通り、彼等は演技の最中必ず仮面を着用するのが習慣であった。観客は早朝から始まる劇の内容に精通していたと言う事である。
全エフェソス市民が参加できる〈デモス〉と呼ばれる議会はエフェソス大劇場で開催されていた。

円形劇場
35.ヘレニズムの泉
劇場の通路に面した右端にはイオニア式の柱頭のある2本の支柱と、小さな噴水泉をもつ、大きくはないが、美しい貯水槽が見られる。ここには、大理石で造られた獅子の頭から水が吐き出されていた。
噴水泉はB.C.2世紀のもので、4世紀になると、あまり変わり映えのしない2本の円柱を用いて拡大されている。


36.ハーバーストリート(港通り)

劇場と港の間を走るハーバーストリートは、東口ーマ帝国皇帝テオドシウスの子息であるアルカディウス(395~408年)が修復、改築し、碑文を立てた為、別名アルカディアーナ、即ち、〈アルカディアの通り〉とも呼ばれている。

長さ500m、幅11mの通りの両側には屋根のある柱廊玄関が立ち、床にはモザイク装飾が施されていた。この後方には商店も見られる。B.C.1世紀に造られた通りは、本来、儀式用のもので、アナトリアからの道路はここを終点としている。海外からやって来た皇帝や領事、知事の様な要人も、この通りを使って都市に入ったのである。

発掘の際に出土した碑文には「アルカディアーナの両側にある円柱つきの柱廊には、猪の像まで、50の街灯があった」とされている。古代に於いて、〈明り〉を引く技術を有していた都市は非常に稀であり、せいぜいローマ、エフェソス、アンティオキアが列挙できる位である。碑文にも明記される猪とは、エフェソスがアンドロクロスによって設立された時に登場する猪の事に他ならない。

通りの港と劇場の近くで発見された凱旋門に似たアーチは崩れ落ち、基盤が残るのみである。通りの中央には5世紀に建てられた大きな円柱の上に4人の福音伝達者達の彫像が乗っていたと推測され、円柱の柱身は、現在も残っている。通りで発見された碑文から、エフェソスに於ける公的業務の税金に関する事柄を知る事が可能であり、例えば、パセリと塩の売買には各1ディナール、競技の優勝者である事を宣言する為に6ディナール、出生届けに対し1ディナール(但し、登録者が特別の地位にある場合は100ディナール)等が明記されている。当時、住民登録をし、市民と認められる事は、この様な高額を支払って余りある意義をもっていたのに違いない。

ハーバーストリート
37.演武場

エフェソス最大の演武場はハーバーストリートと大理石の通りが交差する広場の北手に位置し、医学者の研修機関であるパラエストラの発掘のみ完了している。ハーバーストリートに面するパラエストラは70m×30mで三辺を円柱つきの柱廊玄関で包囲されている。別の一辺にはスポーツの際の観覧席として使用されていた階段が残っており、パラエストラから建物への入り口もここに設置されていた様である。

主要建物は東-西に対称設計に基づいて建設され、フリジダリウム、テピダリウム、カルダリウムとその他の部署を含めた浴場もパラエストラに接する南端に備わっている。その横が教室である。図書館、会議室等から成る北手の5つの部屋の中央のものは、壁がんのついた演武場の皇帝専用の間であったと見なされている。

38.ベルラヌスの運動場

ハーバーストリートの北側には端から端までスポーツ施設が並び、その内の最大のものはベルラヌスの運動場と呼ばれるものである。200m×240mの広さを持つこの運動場は、演武場から港の演武場まで続いている。

小道の上にある5つの通路つきの美しい門は、ベルラヌスの運動場とハーバーストリートを繋いでいる。競技場の置かれた中央の部分は、床を大理石に覆われた3列の円柱から成る柱廊に包囲され、これは西手にある演武場と連結している。皇帝ハドリアヌスの時代(117~138年)にアジア州の最高司祭ベルラヌスによって建設されたものである。

39.港の演武場とパラエストラ

ベルラヌス運動場の西に位置し、これら2つの施設の間は幅広い通路によって連結されている。円柱に包囲され、床はモザイクに覆われた内庭は主要入り口でもあり、ここの北手の扉はアトリウムに向かって開いている。扉の両側には花冠を被った雄牛の頭で装飾された噴水泉が見られる。

広さ40m×20mの演武場には色つき大理石に覆われたパラエストラがあり、ここは(他の演武場でもそうである様に)生徒達が様々な目的で利用した部屋に囲まれている。北手には皇帝用の広間が設けられている。

皇帝ハドリアヌスの時代の建築である二階造りの演武場発掘の際には青銅でできた競技者の像、家鴨と遊ぶ少年の大理石像、ヘラクレスとケンタウロスの像等が発見されているが、ウィーンに運び出されている。

40.港の浴場

港と演武場の間に位置し、広さ160m×170m、高さ28mという規模をして、エフェソスに於いて建造された施設の中で最大の物に数えられている。建物の東に残るのは、当時の大きな広間であり、ここの中央に置かれたフリジダリウムの両側には更衣室が設置されている。長さ30mの楕円形をした大きなプールがフリジダリウムの中心にあり、大理石のいたピンク色と灰色の花こう岩でできた高さ11mの円柱の列が煉瓦製の円天井を支えている。更衣室には間に広い壁がんの設けられた大きな石のブロックからできた厚い石柱がある。

発掘の最中、多くの像が発見されており、現在これらの設置されていた基盤を目にする事が可能である。熱い湯をたたえたカルダリウムはフリジダリウムの西手にあり、高い屋根のある広間の様相を呈している。ここへはフリジダリウムから直接入る事ができたが、同じく、両側に設けられた別の部分にも出入りが可能であった。
港の浴場は2世紀に建築され、皇帝コンスタンチン二世の時代に(337~361)改造されている。


41.聖母マリアの教会(審議会の教会)

港の浴場の北に位置し、教会の主要門はクシャダス側に設けられている。聖母マリアの教会はキリスト教の歴史を通じて重要な位置にあり続け、聖母に捧げられた最初の教会である。又、ここでは431年にキリスト教の教義を討論するための宗教審議会も開催されている。長さ260m、幅30mの建物は2世紀に高等教育機関であるミュゼイオンとして建設されたものであり、薬学や科学についての教育や討論もここで行なわれていた。

エフェソスでは非常な要職にあった司祭等も、その教育をこのミュゼイオンにて受けていたのである。ここで発見された碑文によれば、エフェソスのミュゼイオンの医学者と教授等は税金を免除されていた事がわかるが、これは単にアジア州内のみでなく、地方の全管区にて通用していた規定であった。医学者や教授達に与えられたこの様な負担の免除は、即ちミュゼイオンに対する尊重の意を示すものでもある。

3つの身廊とバシリカ設計を見せるミュゼイオンは4世紀に教会堂に変換され、改築の際に東壁に後陣を、西手には周囲を円柱で包囲されたアトリウムが設置されている。又、アトリウムの北には同時に洗礼場も建設されている。中央の身廊は後陣と同程度の規模で、両側の物は小ぶりな造りを見せ、身廊の間には円柱や対称図柄で装飾された飾り板が見られる。建物の西端には床を対称模様のモザイクで覆われた狭い広間の様相を呈する回廊があり、アトリウムの床はエフェソス各地から搬入された図柄入りや碑文の記された平板で覆われている。

ドームのある屋根を支え、壁にある6つの壁がんが見られる円形の洗礼場の中央には洗礼用の水桶が設けられている。この主要広間の周囲には通路が走り、その西手には洗礼を執り行なう司祭の3つの小部屋が並んでいる。

皇帝ユスチニアヌスの治政下(527~565)に於いて、教会堂には再び改築の手が入れられ、ドームのある小さな教会が後陣と回廊の間に増築された。後陣の両側に円屋根つきの小さな部屋が造られ、北と南手にある大きなアーチ付きの扉を潜って教会内に入る事ができた。回廊の正面西側には外廊が設けられている。今日、この教会の中央に見られる大理石の大釜は港の浴場から搬入されたものである。10世紀になると教会の東の部分は別の教会の一部として使用される様になり、南端には小さい礼拝堂が増築されたのである。

教会の修復は1984年にエフェソス博物館によって始められた。431年の宗教審議会では、聖母マリアは神の子イエスの母ではなく、人間イエスの母親である事が討議されたが、これはアンティオキアにてネストリウスが主張し、彼がその後コンスタンチノープルの総大司教となるとより多くの賛同者を集める様になっていた論理であった。

ネストリウスは自身の見解が正しい事を証明する為、キリスト12使徒の誰一人として、彼の主張に反論してはいない事を強調し、この論が次第に世の中の混乱を招く様になると、皇帝テオドシウスはエフェソスに於いて、第3回キリスト教宗教審議会を招集したのであった。コンスタンチヌス総大司教ネストリウスをはじめ、アレクサンドリア総大司教キリル、アンティオキア総大司教ヨハネ、エフェソス総大司教、そして教皇の名代等の宗教指導者200人もが参加したこの会議は3ケ月にも及び、エフェソスは非常に混乱した日々を過ごしたのである。

又、聖母マリアがエフェソスを最初に訪れた時に、この教会場所にあったある家で短期間滞在し、エフェソスにて埋葬された事もこの審議会で正論として定義されたのである。

聖母マリアの教会
42.ビザンチンの浴場

エフェソス北出口の広場中央には、6世紀の浴場であった複合建築物の名残りが見られる。建物の西側には両脚に後陣を備えた広間が端から端までを占めており、〈休憩の広間〉と呼ばれるこの場所は、東側の道路に面し、それぞれに異なった2つの建物から構成される複合建築である。

これらの内、南の一つの中央には角が半円形をした、何の目的で使用されていたのかいまだに明確でない広間がある。ここの東と西の扉は後陣のある更に小さい部屋に開き、反対側には非常に混雑した造りが見られる。中央にはその東側に小部屋の並んだテピダリウムがあり、発掘の際には多くの壷が発見されている。

43.アクロポリス

ビザンチンの浴場北側にある小さな丘はアクロポリスであったのに相違ないと考えられており、最後の発掘調査では丘の周囲が城壁で包囲されていた事が明確となっている。この壁はリシマコスの治政下の城壁より早い時代に造られているので、恐らく丘は初期アクロポリスである可能性が高いとされている。丘の北と西で継続中の予備発掘では、周囲から遺跡の類は何も発見されておらず、それ故、この辺りはかつて海であったという結論に達したのである。エフェソスの港(コレッソス港)がここにあった事も認知されている。

アクロポリスの上に多くの角をもつB.C.6世紀もしくはB.C.7世紀の建物の基礎が残っているが、これはエフェソスでの最古の建物と見なされている。しかしこれが何を目的として建造されたかは分かっていない。エフェソスの創立者アンドロクロスが猪を仕留めた後、太陽神アポロに感謝の意を表して捧げた神殿を建てた場所が、この丘であったと考えられている。

噴水泉
アクロポリスの丘のエフェソスに面した側には3つの後陣を備えた、6世紀の可憐な噴水泉が見られる。各壁がんの正面には貯水槽があり、幾つかには十字架の装飾が施されている。

44.徒歩競技場

アクロポリスの東、パナユルダゥの麓に、長さ230m、幅30m、U字形をした徒歩競技場がある。
ボクシング、レスリングをはじめ各種スポーツが競われた徒歩競技場は、古代のエフェソス人の日常に於いて、非常に重要な位置を占めていたのである。

入り口は西にあり、2列の円柱から成る門は凱旋門の様にも見える。通りを向いた入り口の正面に見られる兎の図柄に飾られた水瓶と飾り板は、別の場所から運ばれて来たものであり、丘の麓の観客席は、自然の岩を階段状に彫って造られている。反対側には円天井のあるギャラリーが見られ、この上にも観客席が設けられている。このギャラリーは長い部屋の様に見え、7~8m毎に部屋に向かって開く小さい穴がある。
徒歩競技場はヘレニズム時代に造られ、皇帝ネロの治政下(54~68年)にて現在の様式に改築されている。3世紀、4世紀には客席西側のアーチの付いた入り口に改善の手がいれられている。

3世紀、4世紀のローマでは剣士や猛獣の格闘が非常な人気を博しており、この様な出し物は多くの観客を前にして徒歩競技場や劇場にて開催されたのである。猛獣の戦いの際にキリスト教徒が殺害されたが、後にキリスト教がエフェソスの国教に制定されると、かつての虐殺が原因となって、エフェソス徒歩競技場は信者によって復讐の意味を込めて破壊されたのである。

今日この徒歩競技場で唯一つとして良好な状態の客席さえ見られないのはこの為である。徒歩競技場の実に見事な職人芸術を感じさせる碑文の見られる客席の列は、4世紀と6世紀にエフェソスで行なわれた建築や修復の資材として利用されている。

45.ベディウスの演武場

徒歩競技場の北に位置する大きな建物は碑文によると、エフェソスで最も知名度の高いベディウス一族のP・ベディウス・アントニウスと彼の妻フラビア・パピアーナによって建てられた演武場とされている。建物はアルテミスと、彼等の親友である皇帝アントニウス・ピウス(1旭~161年)に捧げられたものである。

多くの部屋を持つベディウスの演武場はエフェソスで最も美しい建造物に拳げられ、東手にある入口は記念碑を思わせる様相を呈している。円柱のある西壁の壁がんの間には皇帝の彫像が置かれていたと思われる。40m×50mの広さを有し、高さ5mの円柱に囲まれた柱廊のあるパラエストラは東手に位置する。非常に良い状態で残っている覆いの無い手洗いは、パラエストラの南手にある通りに向かって開く円柱つき扉の横にあり、出入り口として使用されていた扉が一つだけ設けられていた様である。

最初の広間は20m×10mの大きさであり、ここは同時に皇帝の間、もしくは儀式の間でもあった様である。ここに続いて大きなプールのついたフリジタリウムがあり、西と東に対称的に広がる設計の別の部屋も見られる。

建物の発掘は、その半分程が現在完了した状態であり、出土した像等はイズミール考古学博物館にて展示されている。
アーチや広間のある演武場の基礎工事に関してはまだ発掘が開始されていない。


46.7人の眠れる聖者の洞窟

ベディウスの演武場横から東手に折れるアスファルト舗装の道は〈7人の眠れる聖者の洞窟〉に続いている。
帝国の初期に於いて、キリスト教徒とローマの国家との間で思想の一致をみなかった最大の問題は皇帝崇拝についてであり、皇帝神殿に動物をいけにえとして捧げる事を拒否するキリスト教徒等は、国家から皇帝の敵と見なされ、それに見合う待遇に処されたのであった。

250年頃、皇帝デスィウスの治政下の事。7人の若いキリスト教徒は、皇帝神殿にいけにえを捧げる事を拒否し、都市から逃れ、ここの洞窟に身を隠したのであった。しばらくして眠りに落ちた7人の若者が目覚めた後で食料品を調達する為に都市に出ると、全く驚いた事に、たった一夜の眠りのはずが、何と200年もの間眠り続けていた事を知らされるのであった。そしてキリスト教はローマ帝国の隅々にまで浸透していたのである。彼等の噂を聞いた皇帝テオドシウス二世は、この出来事を〈復活〉であると見なし、当時の教会ではこの事を課題に度々の論議が交されている。

若者達の死にあたって非常に大きな葬儀が執り行なわれ、埋葬された洞窟の上に教会が建てられたのである。1927~1928年の発掘調査では、一つの教会と5世紀から6世紀の数百の墓が発見されている。

又、教会や墓の壁には、〈眠れる7人の若者〉への賛美を記した碑文も見られる。
数百年もの間、人々は、聖人として認知された〈眠れる7人の聖者〉の墓に可能な限り近い場所に葬られたいと望んだのである。キリスト教の信義に於いては、聖マリア・マグダレンもこの地に埋葬されている、という事になっている。

セルじゅく
47.聖ヨハネの教会

エフェソスに於けるビザンチン建築の中で最も壮大なこの教会はセルチュク要塞のある丘の南裾野に位置している。歴史家エウスィビオスは、キリスト教の布教活動を行なっていた使徒等は、37~42年にかけてエルサレムから追放され、この出来事の為に聖ヨハネはアナトリアでその活動を続行する事になったのである、としている。歴史家の説からして、この年の間に聖ヨハネが、キリストから自身に保護を要請された聖母マリアと共にエフェソスに滞在した事がわかるのである。

聖パウロがこの世を去ると聖ヨハネはエフェソスの教会の傘下にある全キリスト教会の指導的立場につき、キリスト教の教義、即ち〈福音書〉を記したのである。彼はその死にあたり、望み通り、今日彼の名のもとに建てられた教会のある場所に埋葬されたのであった。4世紀、エフェソスでキリスト教の勢いが強まると、聖ヨハネの埋葬された場所に木製の屋根のあるバシリカが建てられ、その後ビザンチン皇帝ユスチニアヌスの治政下になると(527~565年)現在の教会が建てられたのであった。

エフェソスがアラブの攻撃を受けた7世紀、8世紀には、教会の周囲は防御壁に包囲され、丘の頂上に造られた要塞に連結された前哨地点と化したのである。
資料によれば、中世の始めに教会は修繕の必要に迫られた状態にあったが、墓の内部から幸運を呼んだり病にきく〈塵〉が辺りに舞い散っているという当時の言い伝えを信じ、遥々遠方から多くの病人がやってき、キリスト世界に於ける最も重要な教会であり続けた為にそのままにされた様である。

旅行家イブン・バトゥタによれば、14世紀、アイドゥンオールラルの全盛期に教会は一時モスクとして使用されており、回廊の入り口に見られるミナレットの基盤は当時からのものである。

14世紀になり、有名なイサベイモスクが建設されると教会はかつての重要性を失い始め、同世紀の末には地震によって崩れ落ちている。
教会は考古学者ソティリウによって1921~1922年に初めて発掘され、後に建物のかなりの部分がオーストリア考古学研究所の手によって発見されている。1957~1958年に教会は修復され、北身廊にて発見された二層の円柱が再建されたのである。1960年になるとエフェソス博物館が発掘調査に乗り出し、教会の修復も手掛ている。1973年以来、アクルガル教授の指導のもと、エフェソス博物館による急ピッチの発掘と修復工事が続行中であり、この事業は文化観光局と米国のカドマン基金の後援によるものである。

セルじゅく
追跡の門と防御壁

教会を包囲する防御壁には、それぞれに異なった基礎設計による3つの門と20の塔が備わっているが、これらの中で最も印象的な門は駐車場に面した〈追跡の門〉であろう。他の2つの門は西手と東手に位置し、エフェソス側に位置する西の門には内庭と2つの円形の塔が見られる。丘の麓に建つイサベイモスクからの螺旋状の道はこの門に続いており、門と内庭には修復の手が加えられている。東門の発掘はまだ完了していない。

塔と防御壁の修復に使用された大理石はエフェソス、特に徒歩競技場から搬入したものである。3世紀、4世紀になり剣士や猛獣の格闘が非常に人気を博する様になると、闘技場に変換された徒歩競技場東端の部分ではキリスト教徒の拷問が行なわれたのであった。この為、後になって徒歩競技場はこの時の復讐の意を込めて破壊され、その建築資材は教会や防御壁の一部として使用されたのである。

〈追跡の門〉教会の主要門である。駐車場から傾斜した大理石の通りに従って歩くと、アーチ形の入り口と2つの記念塔のある門に着く。塔の間にあったアキレスに関した帯状装飾板は、英国のウォボーン・アピイ・ギャラリーに展示されている。入り口からは小さな内庭に出る事ができる様になっている。要塞の弱点は門にあり、ほとんどの場合、敵の襲撃は最初に門を手始めとするのが常であった。門が落とされると敵は当然内庭になだれ込む事となるが、内庭には出口が造られておらず、つまりこの場に敵を誘導する様な方法をとった後、内庭の壁の上から反撃をし、壊滅状態にもって行くという戦法が用いられていたのである。〈追跡の門〉は、特にヘレニズム時代に多く造られた内庭付きの門のアナトリアに於ける最後の例で、発掘中に内庭からはローマ帝国の碑文が発見されている。

アトリウム

広さ34m×47mのアトリウムは、教会の西手に位置し、身廊と同程度の高さに設ける事を妨げていた丘の傾斜は、壁を高くする事によって解決策とされたのである。
中央には円柱の廊下に固まれた空間があり、この外側には欄干も見られる。
発掘の際に床、又はそれを覆っていた部分は何も発見されていない。中央に見られる壷は、それぞれに異なった時代のもので、西の柱廊玄関の下にはアーチに覆われた貯水槽も見られる。

回廊

アトリウムと身廊の間には長く狭い回廊が敷かれ、3つの扉がアトリウムに、別の3つの扉が身廊に続く様になっている。扉の横木は大きな固まりの大理石で出来ている。かなり後の時代になり、アトリウムと回廊の間に壁と扉が造られると、この部分は外廊の役目を果たす様になったのである。回廊の上には5つの小さなドームを備えていたと考えられている。

身廊と埋葬の部屋

教会の中で最も重要な部分であり、十字架の基礎設計と3つの身廊をして、典型的な古典的教会の様相を呈している。6つの大きなドームの内2つは中央の身廊を、2つは柱廊を、そしてこの2ケ所の間を2つのドームが覆っているのである。横身廊には円天井がついている。
ドームを支える大理石と煉瓦の柱は現在も存在している。柱の間には身廊をそれぞれ分ける青い岩脈のある大理石の円柱が置かれ身廊に向く側には建物の年代を決定するのに役立つ皇帝ユスチニアヌスと妻テオドーラの合わせ文字が刻まれている。身廊の間の円柱はアーチによって連結している。発掘調査で発見されたドームの部分には、フレスコ画とモザイク装飾の跡が見られる。

埋葬の部屋は中央身廊の端、後陣の正面に位置している。2段のステップが設置され、地盤から高い位置に置かれている事から、ここを特別の場所としていたのだと言ってよいだろう。上に見られる色付き大理石のモザイクは、元物に似せた複製であり、螺旋状の溝のある柱に支えられた小さなドームは完全に崩壊している。
教会のこの部分では修復作業が続行中である。

礼拝堂と宝物殿

北手柱廊の側に位置する礼拝堂は、仮に造られた木造の屋根に覆われている。ここは本来、後方にある宝物殿の一部であったが、10世紀になって礼拝堂に変換されたのである。宝物殿の入り口は、聖ヨハネやキリスト、聖者達を描いたフレスコ画の見られる後陣の正面にある。中央にある直径6.3mの円形の部屋、両側に後陣状の円天井の備わった通路、礼拝堂が一つの複合建築物を構成し、十字架形に近い基礎設計となっている。十字架の袖の部分を構成していた部屋は、完全に崩れ去っている。

洗礼所

宝物殿の前方にある狭い通路の扉は、洗礼所を形造る集合建築の部分に続いている。北手身廊に沿って走る長い通路は教会と洗礼所を連絡しており、ここにある円柱のついた噴水泉の様に見える墓は6世紀に造られ、後に泉として使用されていたものである。

洗礼者の間は中央の八角形をした洗礼用広間と、狭い通路、そして洗礼用広間の両側にある後陣のついた広間から構成される複合建築であり、床は大理石によって覆われている。広間の中央にはアーチと支柱、そして2ケ所にステップのある円形の洗礼用水桶が置かれている。発掘の際に発見された建物の一部から、ここのドームは硝子のモザイクで覆われていたと考えられる。
洗礼所はまだ教会の建てられる前の5世紀皇帝ユスチニアヌスの治政下に於いて造られたものである。

聖母マリアの家

聖ヨハネの福音書によると、キリストはその死にあたり聖ヨハネを指しながら(マリアに向かって)「女よ、これが汝の息子なり」と、更にマリアを指差し「そなたの母なり」と語ったとされている。キリストの死から4年、又は6年後、聖ヨハネと共に聖母マリアがエフェソスを訪れた際、短い期間ではあったが、今日聖母マリアの教会の建つ場所にあった建物に滞在していたと、431年開催の宗教審議会議事録に記されている。

聖ヨハネは後にビュルビュルダゥに特別にあつらえた家にマリアを移したのであるが、時の流れと共に、マリアが晩年を過ごしたこの家の位置は忘れられ、建物自体も崩れ落ちてしまったのである。中世の少し後には、家のあった場所がしばしば討論の的となったが、これも議論の結論が出されるまでには至らなかったのである。

1878年、ドイツ人尼僧Catherine Emmerichの説をClement Brentanoが〈聖母マリアの生涯〉としてフランス語で解説して出版すると、聖母マリアの家の位置は再び人々の注目を集め、話題にのぽる様になったのである。1891年、イズミールカレッジの学長である司祭Eugene Poulinは、このドイツ人尼僧が主張した事柄の信びょう性を調べる為、司祭Yungの指導の下に調査班を結成し、エフェソス南手の山を長い間調べた結果、遂にパナユルダゥの上に〈聖母マリアの家〉の名で現在呼ばれる家を見付けたのである。

Catherine Emmerich(1774~1824年)は彼女の故郷から一度として出る事はなかったが、聖母マリアの家として主張していた場所は、バナヤ・カプルにある家に一致するものであった。Eugene Poulinはこの快挙を全世界に知らせようと続き物の論説を発表し、非常に多くの注目を集める事に成功している。ここを訪ねる多くの宗教学者は、この家が聖母マリアの家であるとして認めており、イズミール総大司教もここを調査した後、1892年にこの場で宗教的儀式を行なう事の許可を下している。

1961年、ローマ法王ジョン23世は当時まだ続けられていた家の信びょう性に関する討論に終止符を打ち、ここが聖地として巡礼すべき場所である事を断言したのである。1967年の法王ポール六世、又1979年の法王ジョン・ポール二世の訪問は、この家の重要性を人々に再び認識させる結果となったのである。

聖母マリアの家はマグネシアの門からビュルビュルダゥの方向に走る道の上にある。マリアの家から100mの市の小さな広場には、丘側の壁がアーチ形をした円形の貯水槽の名残りが見られるが、ここが最初に発見された部分である。貯水槽の横のステップは完全に破壊されており、現在は水槽の名残りが残るのみである。

壁の周囲で行なわれた発掘の最中に、頭をマリアの家の方向に向けた骸骨の納まった2つの素焼きの棺と、供養品の数々が発見されているが、棺の中からも2つの貨幣が見付かっており、1つは皇帝コンスタンチヌスの時代の、別の1つは皇帝ユスチニアヌスの時代の物であると考えられている。

聖母マリアの家
貯水槽から続く道の端には十字架の基礎設計の上に立つ、6~7世紀のドームのある小さな教会が見える。これが聖母マリアの家として知られる建物である。

ここが発見された時は、ただ基盤と壁の一部が残るのみであり、修復工事を経て現在の姿に整えられたのである。本来の壁と修復後の壁の間には、はっきりと区別する目的で赤い線が引かれている。両側に扉の様に見える壁がんのあるアーチ付き入り口を抜けると、円天井の玄関の間に出、ここから一段のステップを踏んで後陣のある広間へと進む事になる。

後陣の聖母マリアの像は100年程前にここに置かれる様になったものとされ、大理石に覆われた床とそこだけ異なった灰色を見せる像の前方は、炉のあった場所である事が明確になっている。発掘の際にここで発見された石炭と家の基盤の一部は1世紀にまで遡るものである。南手の小部屋は寝室と考えられ、東の壁には後陣の様な壁がんも備えられている。

聖母マリアはイスラムの世界でも神聖視されているので、この部屋でイスラム教徒は礼拝(ナマズ)を行なう事もあるのである。壁には聖母マリアに関するコーランの章の訳が碑文として残されている。又、更に詳しい事を知りたいと希望する訪問者の為に、様々な言葉で書かれたコーランも備えられているので参考にしてみると良い。

いまだ発見されていないが、恐らく対称的に建っていた部屋があると考えられる別の片方の部屋の名残りが見られる。家の西手には治療に効果のあると言われる水の出る泉があり、ここには寝室の床を覆うピンク色の大理石の下から水が流れ込んでいるのである。
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