トルコの観光名所
ヒッタイト帝国とその首都「ハットゥシャ遺跡」の見どころ徹底解説
トルコにかつて存在したヒッタイト帝国の首都「ハットゥシャ」の遺跡は、1986年にユネスコの世界遺産に登録されました。主要な観光地からは離れているので目立たない存在ですが、実は歴史的に大変重要な価値を持ち、古代オリエント史では絶対に外すことのできない、見どころも満載なおすすめ観光名所なのです。
ここでは、ハットゥシャ遺跡の魅力をご紹介するとともに、未だ多くの謎に包まれたヒッタイトの歴史や、彼らが有していた鉄・文字などの高度な文明について解説します。


ヒッタイトは、アナトリア(現在のトルコ)に高度な文明を築いた古代民族、および彼らが建国した帝国です。トルコの首都アンカラの東200kmにあるボアズカレ(Boğazkale)村には、ヒッタイトの首都であるハットゥシャの遺跡が残されています。遺跡は1834年に旅行家でフランス人考古学者のチャールズ・テキシェによって発見され、1906~1907年の間にドイツ人考古学者のウィンクラーなどの指導で発掘作業が実施されました。
くさび形文字で刻まれた2500片の粘土板もこの調査の際に見付かったものです。その後、ピッテル教授の指導の下、ドイツ考古学協会が1931年まで周辺の発掘に携わりました。
遺跡の下市で紀元前19~18世紀頃のアッシリア商人居留地とその頃の粘土板が見つかっており、この貿易記録の粘土板文書で初めてこの都市の名ハットゥシュ(ハッティの国)が出てきます。


ヒッタイト人はコーカソイド系の人種で、インド・ヨーロッパ語族の中でも極めて古い言語の一つでアナトリア語派に属するヒッタイト語を話し、楔形文字と象形文字の両方を使用していました。ヒッタイト人は自らの言語をヒッタイト語と言わずネシャ語と呼んでいたそうです。
紀元前17世紀頃、ハッティの王ピユスティを破り一夜の内にハットゥシャを占領し、この町が今後他の者の手に渡らない様に一度焼き払い野草を植えて呪いをかけたと言います。アニッタはこの様に中央アナトリアの小国を征服しながら中央集権化してヒッタイト王国の基礎を作りました。
ハットゥシャの地は戦略的に大変重要な場所であり、当時アニッタの本拠地のネシャと同等の規模の町でした。アニッタが征服した後のハットゥシャは、紀元前1700年頃に再建され再度都市を成してます。アニッタは自身に「大王」の称号を使いますが、これはのちのヒッタイト王が引き継いで使っている称号でもあります。アニッタは人種的にヒッタイト人であったかどうかは解明されておりませんが、後のヒッタイト王たちはアニッタをヒッタイト人の最初の王として崇めております。


紀元前1650年頃にアニッタの子孫であると言われるラバルナ1世(=ハットゥシリ1世)が首都をネシャからハットゥシャに移すと共に、古ヒッタイト王国時代が始まります。急速に王国が発展し、短期間で北シリアのAlalahkから西アナトリアのアルザワを支配下に置きます。因みに、古王国初代国王ラバルナの名を継ぎ、歴代ヒッタイト王は大王の称号として「ラバルナ」を使用しています。ヒッタイトは絶対王政ではなく、パンクと呼ばれる元老院議会で統治されていました。
ムルシリ1世の時代紀元前1620~1590年には、ハレップ遠征でヤムハド王国を征服し、紀元前1595年にはバビロンを征服してバビロニアのハンムラビ王朝を滅ぼし、中近東でヒッタイトの名を轟かすことになります。


トゥドゥハリヤ2世の時代に力を盛り返し、エジプトとバビロニアに次いでオリエントに置いて3番目に大きな政治力を持ち、帝国の形になりました。
シュッピリウマ1世は国境を北シリア加えてミタンニ王国まで拡大しました。彼の治世中、エジプトのファラオであるツタンカーメンの妻アンケセナーメンは、ツタンカーメンを若くして失った後、ヒッタイト王国に申請し、再婚相手としてシュッピリウマ1世の息子を要求しました。シュッピリウマ1世は息子の一人であるザナンザ(Zannanz)を送りましたが、若い王子はエジプトへ向かう途中でエジプト側の陰謀の犠牲になり、婚姻は成立しませんでした。この事件は、エジプトとヒッタイトの間の一連の戦争の原因となり、最終的にはカデシュ条約で終結することになります。
紀元前1285年頃、ムルシリ2世率いるヒッタイト軍とラムセス2世率いるエジプト軍が現シリアのオロンテス河畔カデシュで衝突したのが有名なカデシュの戦いです。この戦いの終結で紀元前1270年に行われたのが世界最古の講和条約で、エジプト側とヒッタイト側それぞれ双方の記録が現存しています。
アナトリア(小アジア)文明と歴史に触れることのできるおすすめ観光スポット


Carole Raddato from FRANKFURT, Germany / CC BY-SA
保存状態も良好なヒッタイト期を代表する建築物です。現在見ることのできる基礎部分だけ見ても、当時の壮大な姿を想像できるでしょう。
ハットゥシリ3世(紀元前13世紀)の時代に天候の神「テシュプ」に捧げられて建立され、42m×64mの敷地は約70の倉庫が包囲しています。図書館跡からは多くの粘土板片が見付かりました。門の後方には「獅子の水盤」もあります。


Acar54 / CC BY-SA
大神殿の敷地内には、ほかとは明らかに違う素材で作られた神秘的な緑色の巨石があります。別名「願いの石」と呼ばれ、パワーストーンとして観光客からも人気のスポットです。
エジプトのラムセス2世から贈られたものだといわれていますが、正確なことはわかっていません。このグリーンストーンは蛇紋岩またはネフライトでできているそうですが、いずれにしてもこの地域では一般的な鉱物ではないとされています。


Carole Raddato / CC BY-SA
ハットゥシャの東にある紀元前13世紀の城塞で、ヒッタイト帝国の末期までは皇帝達の住まいでした。ブユックカレの高台(250m×140m)には階段を利用して上がります。
かつては長方形の塔がついた強靭な壁に包囲され、内部には祈りの間や会議室、図書室(この跡から実に多くのくさび形文字の碑文片が発見されています)、貯水場など、様々な目的のための多くの施設が設けられていました。
因みに、ビュユックカレ周辺ではヒッタイト以前の紀元前3000年頃から居住があったのが解っています。


Carole Raddato from FRANKFURT, Germany / CC BY-SA
ブユックカレから300m、上市中央の小丘(ニシャンテペ)の東壁には、ハットゥシャ最後の王シュピリリウマ3世の業績を記した碑文が残されています。ヒッタイト象形文字(ルウィ語)で11行、8.5mにもおよぶ大規模なものです。


Bernard Gagnon / CC BY-SA
上市の最西にある門で、二頭の獅子(ライオン)はまるで敵を威嚇するかの様です。城壁の中に悪霊が入るのを防いでいたといわれています。1頭は損傷が激しかったため一部復元されていますが、もう1頭はオリジナルです。
ハットゥシャは四方を長大な城壁で囲まれた強固な城塞都市でした。入口となる門は、この獅子の門、スフィンクスの門、王の門の3つがあります。


Bernard Gagnon / CC BY-SA
イェルカプは長さ70mのトンネル(地下通路)で市の最高地に位置しています。この上にはスフィンクス像が置かれた門がありますが、現在見ることができるのはレプリカ。オリジナルはボアズキョイ博物館に展示されています。
以前はドイツのペルガモン博物館とイスタンブール考古学博物館に所蔵されていましたが、最近になってこの地に戻ってきました。


zolakoma / CC BY
市の東門は施された浮き彫り(レリーフ)から「王の門」という名で呼ばれています。王、あるいは神の戦いの様子をテーマにしたこちらの浮き彫りも、ハットゥシャ遺跡で見ることができるのはレプリカです。実物は、現在アンカラのアナトリア文明博物館に保存されています。


Carole Raddato from FRANKFURT, Germany / CC BY-SA
ヤズルカヤ遺跡は、ハットゥシャの東3kmに位置する紀元前13世紀の岩の聖所です。ヒッタイト人が彼らの神に祈りを捧げたこの場所は、もともと天然の岩の狭間を利用した屋根無しの祈祷場でした。後にその場には神殿が建立されています。
ヤズルカヤでは、岩に彫られた装飾のための浮き彫り(レリーフ)が多く見られます。66の構図から成る神々の行進では、右手に女神、左手には男神が表現され、首を垂れる山の神の前に立つ天候の神「テシュブ」と、豹に跨るその妻「へパト」が向かい合う岩の中央で男女神達が出会うかたちがとられています。
へパトの後方にいるのは、同じく豹に乗った息子「シャッルマ」です。更に後方には、双頭の鷲の翼に触れる双子の女神が表現されているほか、二つの山に跨って立つ「トゥドゥハリヤ4世(紀元前13世紀)」の姿や、尖った帽子を被り剣を手にした12神、トゥドゥハリヤ4世を抱擁するシャッルマ神などを目にすることができます。かつてハットゥシャとヤズルカヤの間は行進用通路によって連結されていました。


ボアズキョイから30km北には、アナトリア最古の集落の一つであるアラジャホユックがあります。ヒッタイトの移住経路解明に多いに役立った発掘調査は1932年まで行われ、この地に居住していたハッティなどに属する品々は最古の出土品として大変貴重です。
紀元前1600年~紀元前1200年のヒッタイト帝国期に、アラジャホユックが帝国の勢力下で影響を受けていたことは疑いなく、北部と海からの民に帝国が滅ぼされた後はアラジャホユックもその重要さを失っていきました。恐らく紀元前9世紀には、この地にフリギア人が定住していたと考えられています。
アラジャホユックにはかつて少なくとも2ケ所に門があったとされ、この内、壁のみが今に残る西門にはハットゥシャのイェルカプと多くの類似点が見出せます。正面を向いた対のスフィンクスが彫られた南の門は市の正門でした。だき柱には爪に兎をかけた対の鷺が彫られているほか、玉座の女神、天候の神と王、女王、司祭、生贄の動物などの行進のレリーフも残っています。
アナトリア文明博物館|トルコ観光案内 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
イスタンブール考古学博物館には、エジプトとヒッタイトの間で交わされた平和条約の楔形文字粘土板文書が展示されています。「カデシュ条約」と呼ばれるこの条約は、あらゆる種類の書面による国際合意の最も初期の例であると考えられているのです。世界初の平和条約でもあるため、平和を理念とする国連本部にそのレプリカが飾られています。
イスタンブール考古学博物館|トルコ観光案内 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
見どころは、ハットゥシャ遺跡のスフィンクス像のオリジナルです。修復のためにドイツ・ベルリンの博物館に所蔵されていた1体と、イスタンブール考古学博物館にあった1体は、現在はともにボアズカレ博物館に展示されています。


Carole Raddato from FRANKFURT, Germany / CC BY-SA
発見された文書によるとヒッタイト以前の紀元前3000年、ボアズキョイにはハッティなどが居を構えていたとされていますが、碑文のような事実を語る記念物は何も残っていません。
ハットゥシャの黄金期は紀元前14世紀、シュピリリウマ1世の時代に到来します。ムルシリ2世の子ども、ムワタリ2世の治世下でシリアに近いタルフンタッサへ遷都した為ハットゥシャはもはや首都ではありませんでしたが、帝国の勢力は拡大し続け、エジプトと隣国となるまでに領土を拡げていきました。
戦略上の要地にあったカデシュ(現シリア西部)。オロンテス河畔)をめぐり二国間で起きた「カデシュの戦い」は、ヒッタイトのハットゥシリ3世とラムセス2世により条約締結を以って解決しました。これは人類の歴史で初めて異国間で交された講和条約であるとされています。(楔形文字で書かれたこの世界最古の講和条約は、ハットゥシャで見つかり、現在イスタンブール考古学博物館で展示されております。)
ヒッタイト最後の皇帝シュピリリウマ2世の時代、およそ紀元前1200年頃、この大帝国は北からと海からの民族によって滅ぼされてしまったといわれています。約300年後の紀元前9世紀にハットゥシャに定住するようになったフリギア人は、出土品を見る限り紀元前6世紀頃滅びたと考えられているようです。


Ingeborg Simon / CC BY-SA
ヒッタイト発祥の文明として有名なのは「鉄」の製造でしょう。ヒッタイトは独自の製鉄技術によって鉄器を製造し、その技術を秘匿することで勢力を伸ばしたといわれています。鉄器と二頭の馬を用いた戦車「チャリオット」も有名です。
製鉄の起源がヒッタイトにあるとされたのは、帝国の首都ハットゥシャのほど近くにあるアラジャホユックにおいて、およそ3500~3400年前の地層からその痕跡が見つかったからです。しかし、2017年に首都アンカラから南東約100 kmの位置にあるカマン・カレホユック遺跡から、そこからさらに1000年前のものとみられる世界最古の鉄製品が発掘されました。


発見したのは、日本の中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所の大村幸弘所長率いる調査チームです。この世紀の大発見によって、製鉄技術を発明したのはヒッタイト人ではなく、それより前にアナトリアにいた先住民ではないかといわれています。また、ヒッタイト帝国が製鉄技術を独占していたことや、帝国滅亡の原因が海の民による侵略によるものという説も見直されつつあります。
世界最古の鉄器が発見!カマン・カレホユック遺跡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

Andy Miah / CC BY-SA
ヒッタイトの歴史の多くは、楔形文字によって書かれた粘土板文書によって判明しています。ここで使用されていたヒッタイト語は、英語・ドイツ語・スペイン語といった今日の世界の主要言語のルーツであるインド・ヨーロッパ語族に属する言語のうち、最古の文献が残っている言語です。
ヒッタイト帝国においては、楔形文字とともにヒッタイト象形文字も使われていました。しかし、この象形文字で記されているのはヒッタイト語ではなく、アナトリア語派のルウィ語です。そのため、アナトリア象形文字やルウィ象形文字という名称でも呼ばれます。ヒッタイト帝国の滅亡後もこの象形文字が使われていたため、帝国滅亡後に同地域を支配していたのはルウィ系の民族だと考えられています。


sami yılmaz / CC BY
ヒッタイトは、小学館の漫画雑誌『少女コミック』にて1995年~2002年まで連載された『天は赤い河のほとり』の舞台です。現代日本に暮らす女子中学生ユーリが、古代ヒッタイト帝国の皇妃によって紀元前14世紀に召喚されてしまうというストーリーで、カイル・ムルシリ(ムルシリ2世)をはじめ実在の人物や国家も登場します。
第46回小学館漫画賞少女部門を受賞しており、単行本の総発行部数は1,800万部超、宝塚歌劇宙組で舞台化されるなど、高い人気を誇ります。日本からは同漫画の聖地巡礼というかたちでヒッタイト関連の史跡を訪れる人もいるようです。ちなみに「赤い河」とは、トルコ最長のクズルウルマク川のことです。
しかし、ハットゥシャ遺跡は主要都市から離れているため、個人でアクセスするのは少々大変です。アンカラやカッパドキアなど、周辺のスポットも含めて効率的に観光したいなら、トルコ旅行のプロ「ターキッシュエア&トラベル」におまかせください。お客様一人ひとりのご要望に沿ったプライベートツアーをプランニングいたします。
ここでは、ハットゥシャ遺跡の魅力をご紹介するとともに、未だ多くの謎に包まれたヒッタイトの歴史や、彼らが有していた鉄・文字などの高度な文明について解説します。
ヒッタイトとは?


ヒッタイトは、アナトリア(現在のトルコ)に高度な文明を築いた古代民族、および彼らが建国した帝国です。トルコの首都アンカラの東200kmにあるボアズカレ(Boğazkale)村には、ヒッタイトの首都であるハットゥシャの遺跡が残されています。遺跡は1834年に旅行家でフランス人考古学者のチャールズ・テキシェによって発見され、1906~1907年の間にドイツ人考古学者のウィンクラーなどの指導で発掘作業が実施されました。
くさび形文字で刻まれた2500片の粘土板もこの調査の際に見付かったものです。その後、ピッテル教授の指導の下、ドイツ考古学協会が1931年まで周辺の発掘に携わりました。
ヒッタイト人とヒッタイト帝国
ハットゥシャの地に居住が始まったのが紀元前3000年頃でこの頃は小さな集落でしかありませんでした。アナトリア中央は「ハッティの地」であり、ハッティ語を話すアナトリア先住民族のハッティ人が住んでいたと言われています。遺跡の下市で紀元前19~18世紀頃のアッシリア商人居留地とその頃の粘土板が見つかっており、この貿易記録の粘土板文書で初めてこの都市の名ハットゥシュ(ハッティの国)が出てきます。
ヒッタイト人


ヒッタイト人はコーカソイド系の人種で、インド・ヨーロッパ語族の中でも極めて古い言語の一つでアナトリア語派に属するヒッタイト語を話し、楔形文字と象形文字の両方を使用していました。ヒッタイト人は自らの言語をヒッタイト語と言わずネシャ語と呼んでいたそうです。
ヒッタイト王の祖「アニッタ」
ハットゥシャ遺跡で見つかった「アニッタ文書」にアニッタがヒッタイト王国の礎を築いた旨を記しています。クッシャラ国の王アニッタは、クッシャラの地(中央から南東アナリアにかけてのある地域。場所は不明)と支配したネシャ/カニシュ(現キュルテペ。 アッシリア商人のアナトリアにおける本拠地。ここから“アニッタの宮殿”と書かれた青銅製の「アニッタの槍先」が出土している。)を本拠地としていました。紀元前17世紀頃、ハッティの王ピユスティを破り一夜の内にハットゥシャを占領し、この町が今後他の者の手に渡らない様に一度焼き払い野草を植えて呪いをかけたと言います。アニッタはこの様に中央アナトリアの小国を征服しながら中央集権化してヒッタイト王国の基礎を作りました。
ハットゥシャの地は戦略的に大変重要な場所であり、当時アニッタの本拠地のネシャと同等の規模の町でした。アニッタが征服した後のハットゥシャは、紀元前1700年頃に再建され再度都市を成してます。アニッタは自身に「大王」の称号を使いますが、これはのちのヒッタイト王が引き継いで使っている称号でもあります。アニッタは人種的にヒッタイト人であったかどうかは解明されておりませんが、後のヒッタイト王たちはアニッタをヒッタイト人の最初の王として崇めております。
古ヒッタイト王国時代:ヒッタイト帝国の始まり(紀元前17世紀~紀元前16世紀)


紀元前1650年頃にアニッタの子孫であると言われるラバルナ1世(=ハットゥシリ1世)が首都をネシャからハットゥシャに移すと共に、古ヒッタイト王国時代が始まります。急速に王国が発展し、短期間で北シリアのAlalahkから西アナトリアのアルザワを支配下に置きます。因みに、古王国初代国王ラバルナの名を継ぎ、歴代ヒッタイト王は大王の称号として「ラバルナ」を使用しています。ヒッタイトは絶対王政ではなく、パンクと呼ばれる元老院議会で統治されていました。
ムルシリ1世の時代紀元前1620~1590年には、ハレップ遠征でヤムハド王国を征服し、紀元前1595年にはバビロンを征服してバビロニアのハンムラビ王朝を滅ぼし、中近東でヒッタイトの名を轟かすことになります。
中期ヒッタイト時代 (紀元前15世紀)
紀元前1500年頃は王位継承問題や国内政治なので王国は弱体し、約70年間ほど無記録期間となります。新ヒッタイト王国時代:ヒッタイト帝国時代 (紀元前14世紀~紀元前12世紀)


トゥドゥハリヤ2世の時代に力を盛り返し、エジプトとバビロニアに次いでオリエントに置いて3番目に大きな政治力を持ち、帝国の形になりました。
シュッピリウマ1世は国境を北シリア加えてミタンニ王国まで拡大しました。彼の治世中、エジプトのファラオであるツタンカーメンの妻アンケセナーメンは、ツタンカーメンを若くして失った後、ヒッタイト王国に申請し、再婚相手としてシュッピリウマ1世の息子を要求しました。シュッピリウマ1世は息子の一人であるザナンザ(Zannanz)を送りましたが、若い王子はエジプトへ向かう途中でエジプト側の陰謀の犠牲になり、婚姻は成立しませんでした。この事件は、エジプトとヒッタイトの間の一連の戦争の原因となり、最終的にはカデシュ条約で終結することになります。
紀元前1285年頃、ムルシリ2世率いるヒッタイト軍とラムセス2世率いるエジプト軍が現シリアのオロンテス河畔カデシュで衝突したのが有名なカデシュの戦いです。この戦いの終結で紀元前1270年に行われたのが世界最古の講和条約で、エジプト側とヒッタイト側それぞれ双方の記録が現存しています。
ヒッタイト帝国の終焉
紀元前11世紀のアナトリア半島は正に混乱の時代で、ヒッタイト帝国は飢餓が蔓延し、また四方八方から侵略者や移民が押し寄せ多面戦争を余儀なくされ、その結果、シュッピリウマ2世を最後にヒッタイト帝国は終焉しました。アナトリア(小アジア)文明と歴史に触れることのできるおすすめ観光スポット
ヒッタイトの首都「ハットゥシャ遺跡」の見どころ
ハットゥシャ遺跡は、上市・下市・ビュユックカレ(大宮殿)・ヤズルカヤで構成されています。大神殿


保存状態も良好なヒッタイト期を代表する建築物です。現在見ることのできる基礎部分だけ見ても、当時の壮大な姿を想像できるでしょう。
ハットゥシリ3世(紀元前13世紀)の時代に天候の神「テシュプ」に捧げられて建立され、42m×64mの敷地は約70の倉庫が包囲しています。図書館跡からは多くの粘土板片が見付かりました。門の後方には「獅子の水盤」もあります。
願いの石(グリーンストーン)


大神殿の敷地内には、ほかとは明らかに違う素材で作られた神秘的な緑色の巨石があります。別名「願いの石」と呼ばれ、パワーストーンとして観光客からも人気のスポットです。
エジプトのラムセス2世から贈られたものだといわれていますが、正確なことはわかっていません。このグリーンストーンは蛇紋岩またはネフライトでできているそうですが、いずれにしてもこの地域では一般的な鉱物ではないとされています。
ブユックカレ(大城塞)


ハットゥシャの東にある紀元前13世紀の城塞で、ヒッタイト帝国の末期までは皇帝達の住まいでした。ブユックカレの高台(250m×140m)には階段を利用して上がります。
かつては長方形の塔がついた強靭な壁に包囲され、内部には祈りの間や会議室、図書室(この跡から実に多くのくさび形文字の碑文片が発見されています)、貯水場など、様々な目的のための多くの施設が設けられていました。
因みに、ビュユックカレ周辺ではヒッタイト以前の紀元前3000年頃から居住があったのが解っています。
ニシャンテぺ


ブユックカレから300m、上市中央の小丘(ニシャンテペ)の東壁には、ハットゥシャ最後の王シュピリリウマ3世の業績を記した碑文が残されています。ヒッタイト象形文字(ルウィ語)で11行、8.5mにもおよぶ大規模なものです。
獅子の門(Aslanlı Kapı)


上市の最西にある門で、二頭の獅子(ライオン)はまるで敵を威嚇するかの様です。城壁の中に悪霊が入るのを防いでいたといわれています。1頭は損傷が激しかったため一部復元されていますが、もう1頭はオリジナルです。
ハットゥシャは四方を長大な城壁で囲まれた強固な城塞都市でした。入口となる門は、この獅子の門、スフィンクスの門、王の門の3つがあります。
イェルカプとスフィンクスの門


イェルカプは長さ70mのトンネル(地下通路)で市の最高地に位置しています。この上にはスフィンクス像が置かれた門がありますが、現在見ることができるのはレプリカ。オリジナルはボアズキョイ博物館に展示されています。
以前はドイツのペルガモン博物館とイスタンブール考古学博物館に所蔵されていましたが、最近になってこの地に戻ってきました。
王の門(Kral Kapısı)


市の東門は施された浮き彫り(レリーフ)から「王の門」という名で呼ばれています。王、あるいは神の戦いの様子をテーマにしたこちらの浮き彫りも、ハットゥシャ遺跡で見ることができるのはレプリカです。実物は、現在アンカラのアナトリア文明博物館に保存されています。
岩の聖所ヤズルカヤ


ヤズルカヤ遺跡は、ハットゥシャの東3kmに位置する紀元前13世紀の岩の聖所です。ヒッタイト人が彼らの神に祈りを捧げたこの場所は、もともと天然の岩の狭間を利用した屋根無しの祈祷場でした。後にその場には神殿が建立されています。
ヤズルカヤでは、岩に彫られた装飾のための浮き彫り(レリーフ)が多く見られます。66の構図から成る神々の行進では、右手に女神、左手には男神が表現され、首を垂れる山の神の前に立つ天候の神「テシュブ」と、豹に跨るその妻「へパト」が向かい合う岩の中央で男女神達が出会うかたちがとられています。
へパトの後方にいるのは、同じく豹に乗った息子「シャッルマ」です。更に後方には、双頭の鷲の翼に触れる双子の女神が表現されているほか、二つの山に跨って立つ「トゥドゥハリヤ4世(紀元前13世紀)」の姿や、尖った帽子を被り剣を手にした12神、トゥドゥハリヤ4世を抱擁するシャッルマ神などを目にすることができます。かつてハットゥシャとヤズルカヤの間は行進用通路によって連結されていました。
アラジャホユック


ボアズキョイから30km北には、アナトリア最古の集落の一つであるアラジャホユックがあります。ヒッタイトの移住経路解明に多いに役立った発掘調査は1932年まで行われ、この地に居住していたハッティなどに属する品々は最古の出土品として大変貴重です。
紀元前1600年~紀元前1200年のヒッタイト帝国期に、アラジャホユックが帝国の勢力下で影響を受けていたことは疑いなく、北部と海からの民に帝国が滅ぼされた後はアラジャホユックもその重要さを失っていきました。恐らく紀元前9世紀には、この地にフリギア人が定住していたと考えられています。
アラジャホユックにはかつて少なくとも2ケ所に門があったとされ、この内、壁のみが今に残る西門にはハットゥシャのイェルカプと多くの類似点が見出せます。正面を向いた対のスフィンクスが彫られた南の門は市の正門でした。だき柱には爪に兎をかけた対の鷺が彫られているほか、玉座の女神、天候の神と王、女王、司祭、生贄の動物などの行進のレリーフも残っています。
ヒッタイトの首都「ハットゥシャ遺跡」の場所・アクセス方法
名称 | ハットゥシャ遺跡(Hattuşa Örenyeri) |
住所 | Hisar, 19310 Boğazkale/Çorum, Turkey |
入場料金 | 12TL(約220円) ヤズルカヤ遺跡含む |
ウェブサイト | https://sanalmuze.gov.tr/muzeler/CORUM_HATTUSA_ORENYERI/ |
ハットゥシャ遺跡へのアクセス
ハットゥシャ遺跡のあるボアズカレ(ボアズキョイ)は、主要観光地からは離れた場所にあります。近隣の村スングルル(Sungurlu)からバスまたはタクシーで30分ほどです。スングルルまでは、首都アンカラからバスで3時間程度かかります。個人で行くのは少し大変なので、ツアーを利用するのがおすすめです。ハットゥシャ遺跡観光の所要時間
ハットゥシャ遺跡とヤズルカヤ遺跡を十分に堪能するなら、3~4時間程度必要でしょう。ヤズルカヤ遺跡へは、ハットゥシャ遺跡から徒歩でアクセスできるので、まとめて見学するのがおすすめです。遺跡内は基本的に徒歩で、階段や坂などもあるため、歩きやすい靴で行きましょう。日光を遮るものがほとんどなく、飲み物を買う場所もないため、水や帽子、日傘などを事前に準備しておいてください。ヒッタイトの歴史や文明に触れられるおすすめスポット
アナトリア文明博物館
アンカラのアナトリア文明博物館には、ハットゥシャ遺跡の貴重な出土品が数多く展示されています。発掘品として最も重要なものとして挙げられるのは、王子の墓(紀元前4世紀)からの金や銀の器、武器、宝石、青銅や土で作られた動物の像などです。王の門に施された戦士のレリーフのオリジナルもこちらに所蔵されています。名称 | アナトリア文明博物館(Anadolu Medeniyetleri Müzesi) |
住所 | Kale, Gözcü Sk. No:2, 06240 Ulus/Altındağ/Ankara, Turkey |
住営業時間所 | 8:30~19:00(冬季は18:00まで) |
入場料金 | 45TL(約810円) |
ウェブサイト | https://sanalmuze.gov.tr/anadolu-medeniyetleri-muzesi |
アナトリア文明博物館|トルコ観光案内 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
イスタンブール考古学博物館
古代オリエント博物館、考古学博物館、チニリ・キョシュク(タイル博物館)の3つを総称して、イスタンブール考古学博物館群と呼びます。3つあわせて6万点にも上る考古学的出土品が所蔵されているトルコ最大の博物館です。イスタンブール考古学博物館には、エジプトとヒッタイトの間で交わされた平和条約の楔形文字粘土板文書が展示されています。「カデシュ条約」と呼ばれるこの条約は、あらゆる種類の書面による国際合意の最も初期の例であると考えられているのです。世界初の平和条約でもあるため、平和を理念とする国連本部にそのレプリカが飾られています。
名称 | イスタンブール考古学博物館(İstanbul Arkeoloji Müzeleri)) |
住所 | Cankurtaran, 34122 Fatih/İstanbul, Turkey |
住営業時間所 | 9:00~19:00(冬季は18:00まで) |
入場料金 | 50TL(約900円) |
ウェブサイト | https://sanalmuze.gov.tr/muzeler/ISTANBUL_ARKEOLOJI_MUZELERI/ |
イスタンブール考古学博物館|トルコ観光案内 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
ボアズカレ博物館
ボアズカレの中心地にある博物館です。1966年にオープンした歴史ある博物館で、2011年に再編成され、さらに見ごたえが増しました。ハットゥシャ遺跡の貴重な出土品が数多く収蔵されており、石器時代、旧青銅器時代、アッシリアの植民地時代から始まり、フリジア時代、ガラテア時代、ローマ時代、東ローマ時代と年代を追って歴史を知ることができます。見どころは、ハットゥシャ遺跡のスフィンクス像のオリジナルです。修復のためにドイツ・ベルリンの博物館に所蔵されていた1体と、イスタンブール考古学博物館にあった1体は、現在はともにボアズカレ博物館に展示されています。
名称 | ボアズカレ博物館(Boğazköy Müzesi) |
住所 | Çarşı, Hitit cad no.16, 19310 Boğazkale/Çorum, Turkey |
ウェブサイト | https://sanalmuze.gov.tr/muzeler/CORUM_BOGAZKOY_MUZESI/ |
ヒッタイトの歴史は多くの謎に包まれている


発見された文書によるとヒッタイト以前の紀元前3000年、ボアズキョイにはハッティなどが居を構えていたとされていますが、碑文のような事実を語る記念物は何も残っていません。
ハットゥシャの黄金期は紀元前14世紀、シュピリリウマ1世の時代に到来します。ムルシリ2世の子ども、ムワタリ2世の治世下でシリアに近いタルフンタッサへ遷都した為ハットゥシャはもはや首都ではありませんでしたが、帝国の勢力は拡大し続け、エジプトと隣国となるまでに領土を拡げていきました。
戦略上の要地にあったカデシュ(現シリア西部)。オロンテス河畔)をめぐり二国間で起きた「カデシュの戦い」は、ヒッタイトのハットゥシリ3世とラムセス2世により条約締結を以って解決しました。これは人類の歴史で初めて異国間で交された講和条約であるとされています。(楔形文字で書かれたこの世界最古の講和条約は、ハットゥシャで見つかり、現在イスタンブール考古学博物館で展示されております。)
ヒッタイト最後の皇帝シュピリリウマ2世の時代、およそ紀元前1200年頃、この大帝国は北からと海からの民族によって滅ぼされてしまったといわれています。約300年後の紀元前9世紀にハットゥシャに定住するようになったフリギア人は、出土品を見る限り紀元前6世紀頃滅びたと考えられているようです。
ヒッタイトは文明の発祥地
ヒッタイト人およびその帝国は、かつてエジプト王国と対等に渡り合うほどの強大な勢力を有していました。滅亡してから1800年代に遺跡が偶然発見されるまで、ヒッタイト王国はシリアにあったと思われており、またその存在さえ疑われていましたが、ヒッタイトは歴史的にも非常に重要かつ高度な文明を築いていたのです。世界最古の製鉄技術


ヒッタイト発祥の文明として有名なのは「鉄」の製造でしょう。ヒッタイトは独自の製鉄技術によって鉄器を製造し、その技術を秘匿することで勢力を伸ばしたといわれています。鉄器と二頭の馬を用いた戦車「チャリオット」も有名です。
製鉄の起源がヒッタイトにあるとされたのは、帝国の首都ハットゥシャのほど近くにあるアラジャホユックにおいて、およそ3500~3400年前の地層からその痕跡が見つかったからです。しかし、2017年に首都アンカラから南東約100 kmの位置にあるカマン・カレホユック遺跡から、そこからさらに1000年前のものとみられる世界最古の鉄製品が発掘されました。


発見したのは、日本の中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所の大村幸弘所長率いる調査チームです。この世紀の大発見によって、製鉄技術を発明したのはヒッタイト人ではなく、それより前にアナトリアにいた先住民ではないかといわれています。また、ヒッタイト帝国が製鉄技術を独占していたことや、帝国滅亡の原因が海の民による侵略によるものという説も見直されつつあります。
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ヒッタイト語・楔(くさび)形文字


ヒッタイトの歴史の多くは、楔形文字によって書かれた粘土板文書によって判明しています。ここで使用されていたヒッタイト語は、英語・ドイツ語・スペイン語といった今日の世界の主要言語のルーツであるインド・ヨーロッパ語族に属する言語のうち、最古の文献が残っている言語です。
ヒッタイト帝国においては、楔形文字とともにヒッタイト象形文字も使われていました。しかし、この象形文字で記されているのはヒッタイト語ではなく、アナトリア語派のルウィ語です。そのため、アナトリア象形文字やルウィ象形文字という名称でも呼ばれます。ヒッタイト帝国の滅亡後もこの象形文字が使われていたため、帝国滅亡後に同地域を支配していたのはルウィ系の民族だと考えられています。
ヒッタイトは漫画「天は赤い河のほとり」の舞台


ヒッタイトは、小学館の漫画雑誌『少女コミック』にて1995年~2002年まで連載された『天は赤い河のほとり』の舞台です。現代日本に暮らす女子中学生ユーリが、古代ヒッタイト帝国の皇妃によって紀元前14世紀に召喚されてしまうというストーリーで、カイル・ムルシリ(ムルシリ2世)をはじめ実在の人物や国家も登場します。
第46回小学館漫画賞少女部門を受賞しており、単行本の総発行部数は1,800万部超、宝塚歌劇宙組で舞台化されるなど、高い人気を誇ります。日本からは同漫画の聖地巡礼というかたちでヒッタイト関連の史跡を訪れる人もいるようです。ちなみに「赤い河」とは、トルコ最長のクズルウルマク川のことです。
ヒッタイトの首都「ハットゥシャ遺跡」は歴史好きにおすすめの観光名所!
ハットゥシャ遺跡は、古代ヒッタイトの文明や当時の歴史を肌で感じられる世界遺産です。アナトリア文明博物館やボアズカレ博物館を含め、トルコでしか見られない貴重な史跡や出土品は、歴史好きにはたまらないでしょう。しかし、ハットゥシャ遺跡は主要都市から離れているため、個人でアクセスするのは少々大変です。アンカラやカッパドキアなど、周辺のスポットも含めて効率的に観光したいなら、トルコ旅行のプロ「ターキッシュエア&トラベル」におまかせください。お客様一人ひとりのご要望に沿ったプライベートツアーをプランニングいたします。