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オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡 


世界に名を轟かしたオスマン帝国。世界史では一昔前までオスマントルコ、そうトルコ人の王朝として教わってきたオスマン帝国ですが、彼らがどこからやってきてどのようにして繁栄を極めたのでしょう。

部族から君侯国、帝国へと発展・拡大したオスマン家。少し長くなりますが、36代の皇帝が600年以上にも及んで栄華を極めたオスマン帝国の歩みと帝国の特徴をここで徹底解説します!

オスマン帝国のココがすごい!その強さの秘密とは?

トプカプ宮殿
オスマン帝国の最大領土は北はハンガリー、西はアフリカのアルジェリア、南はエジプト・イエメン、東はアジアのインドに至るなど、実に広大でした。全盛期といえるスレイマン1世の時代には、人口は1,500万人に達していたとされます。

それ以前に存在していた巨大帝国としてモンゴル帝国が挙げられますが、モンゴル帝国が150年余りで解体したのに対し、オスマン帝国はなんと623年も存続しました。

非世襲・能力重視の人材登用制度

オスマン帝国の強さの理由としてまず挙げられるのは、世界から恐れられたスルタン直属の近衛部隊「イェニチェリ」の存在です。イェニチェリは才覚あるキリスト教徒の少年を徴用し、英才教育を受けさせて育成する“デヴシルメ”という制度によって成り立っていました。

デヴシルメで徴用された人の全てがイェニチェリになれるわけではありません。体格が良く戦いに向いている者がイェニチェリに採用され、容姿端麗・聡明・賢明な者は帝国の宮廷侍従や官僚、地方官に採用されるといった能力重視の人材登用制度になっていました。

当時は戦争の度に傭兵を招集するのが一般的であったため、能力によって選別され、きちんと訓練を受けた常備軍であるイェニチェリは周辺国家にとって大きな脅威となりました。鉄砲や大砲などの武器も積極的に取り入れて活躍したイェニチェリは、近代軍隊の先駆けといわれています。

イェニチェリはさまざまな特権を有していましたが、妻帯は禁止され、その地位は1代限りで終わります。軍隊や官僚が世襲制でないことで権力の硬直化・腐敗を防げたこうした仕組みこそが、オスマン帝国が長期にわたって力を維持できた要因の一つといえます。

今は「オスマン=トルコ」と呼ばれない深いワケ

日本では歴史の授業で「オスマン=トルコ帝国」と習った人も多いのではないでしょうか?確かにオスマン帝国を興したのはトルコ系のテュルク遊牧民の一つであるオスマン家ですが、帝国が拡大する中でアラブ人やスラブ人、ギリシア人、エジプト人、アルメニア人、クルド人など多種多様な民族を擁していました。

また、オスマン家の民族はもともとイスラム教徒でしたが、他の宗教にも寛容な姿勢を取っていたため、帝国内には他にもキリスト教、ユダヤ教、コプト教など多数の宗教と宗派が存在していました。

こうした寛容性は平等・公正の意識が強いイスラムの思想に由来するといえます。多様な民族・宗教を受け入れ、共存する体制を作ったのも、オスマン帝国が長く存続した理由だと考えられるでしょう。

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オスマン帝国で有名な皇帝(スルタン)

  • 征服王メフメト2世:難攻不落の城塞と言われていたコンスタンティノープル(現イスタンブール)を攻略し、新時代を切り開いた
  • 壮麗帝スレイマン1世:3大陸にまたがるまで領土を広げオスマン帝国の全盛期を築く。有名な「ウィーン包囲」はヨーロッパを震撼させた。
  • アブデュルハミト2世:トルコと日本の長く深い交流のきっかけとなった「エルトゥールル号遭難事件」当時の皇帝

オスマン帝国が滅亡した理由

破竹の勢いで領土を拡大し、600年以上にわたって存続したオスマン帝国ですが、実は全盛期であった16世紀半ばのスレイマン1世の治世以降、以下のような要因によって徐々にその威光は失われていきます。
  • 政治におけるスルタンの存在感が薄れ、皇室夫人による女人政治や宦官の国政介入から官僚の腐敗が進行
  • 世襲制の導入やデヴシルメ制度の廃止によるイェニチェリの腐敗・弱体化→特権階級化して政府の反対勢力に
  • オーストリアやイランなどへの度重なる遠征の結果により発生した経済問題
  • ジェラーリーの反乱:政府の財政難による重税に苦しむ農民の蜂起→軍事封土制であるティマール制が崩壊し、農村が荒廃
  • 人口増加が生んだ社会生活の困難
  • 時代遅れの学問機関の腐敗による教育制度の崩壊→ヨーロッパの発展に対する順応の失敗
こうした状況の中、1699年に神聖ローマ帝国との間で締結したカルロヴィッツ条約によってはじめてその領土を失って以降、オスマン帝国は衰退の道をたどります。

その後、18世紀の軍改革や19世紀の近代化政策により体制を持ち直し、ヨーロッパ各国が争いを続ける中でバランスを保ちながら何とか維持していましたが、もはや第一次世界大戦の激動には抗えず、連合国と結んだムドロス休戦協定によって主要な領土の多くを占領され、事実上オスマン帝国は崩壊。

その後、1922年11月1日にムスタファ・ケマル率いるアンカラ新政府がトルコ大国民議会でスルタン制の廃止を決議し、最後のスルタンであるメフメト6世がマルタ島に亡命したことで名実ともにオスマン帝国は終焉します。そして、1923年にアンカラ新政府が連合国とローザンヌ条約を締結したのちにトルコ共和国が成立しました。

オスマン帝国の主な年表

1299年 部族長であったオスマン・ガーズィーがオスマン侯国を樹立
1366年 アドリアノープルをエディルネと改名しオスマン帝国の首都に
1396年 アッバース家のカリフであるムタワッキル1世がベヤズィト1世に「スルタン」の称号を送る
1453年5月29日 メフメット2世がコンスタンティノープルを征服してオスマン帝国の首都とする(ビザンツ帝国の崩壊)
1529年 スレイマン1世によるウィーン包囲
1571年 レパントの戦いで初めて西欧軍に大敗
1683年 第二次ウィーン包囲とともに大トルコ戦争が勃発
1699年 カルロヴィッツ条約によって初めて領土を失う
1718年 パッサロヴィッツ条約によって対外関係が一時的に安定
1768~1774年 露土戦争でロシアに敗退
1821年 ギリシャ独立戦争勃発
1826年 イェニチェリの廃止・ムハンマド常勝軍の新設
1832年 イスタンブール条約によりギリシャが独立してギリシャ王国が樹立
1839年 アブデュルメジト1世がギュルハーネ勅令を発令し近代化政策「タンジマート」を推進
1856年 トプカプ宮殿に代わる新王宮ドルマバフチェ宮殿完成
1876年12月 オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)発布→2年後に停止
1908年 青年トルコ人革命が起こってオスマン帝国憲法が復活
1915年 チャナッカレ戦争でムスタファ・ケマルの活躍によって連合国によるイスタンブール侵攻を阻止
1918年10月 連合国に降伏して不条理なムドロス休戦協定を締結
1920年11月1日 トルコ第国民議会がスルタン制の廃止を決議、最後のスルタン・メフメト6世はマルタ島に亡命
1923年10月29日 アンカラ政府がトルコ共和国を建国
1924年3月3日 政教分離政策によりカリフ制廃止

オスマン帝国を樹立したオスマン家とは?

オスマン1世
オスマン帝国を建国したオスマン家は、元々中央アジアに住んでいたテュルク遊牧民オグズ24氏族の一つ、イスラム教を受け入れた“カユ族”の長の子孫と言われています。
このカユ族は、中央アジアのアルタイ山脈方面から南下してペルシャ北東部のホラーサーンに移住しました。

12世紀末、オスマン帝国始祖オスマン1世の祖父スレイマン・シャーがカユ族の部族長の時、モンゴルの侵攻によりセルジューク朝と共に西へ追いやられ、カユ族は東アナトリアにたどり着きました。因みにセルジューク朝はオグズ24氏族の一つ“クヌク族”の子孫たちです。

スレイマン・シャーはユーフラテス川で事故により溺死してしまいますが、息子のエルトゥールルが部族を率いて最初はワン湖西岸のアフラットに住み着きます。この頃、遊牧生活を送っていたカユ族はセルジューク朝のカイクバード1世によってアナトリア南東部のヴィランシェヒル(シャンルウルファ)、ハラブ(シリア)、カラジャダー(ディヤルバクル)の各地域に住まわせられるのですが、エルトゥールルと弟のドゥンダルは、アナトリア北東部の地ソユット(Söğüt)とドマニチ(Domaniç)の辺一体に住み着き、ソユットは冬季を過ごす場所、ドマニチは夏の遊牧地として使い分けていたようです。

このエルトゥールルの息子オスマンが、オスマン帝国の始祖となりました。

オスマン帝国のはじまり

オスマン家のアナトリアへの進出から、君侯国の建国、帝国として世界で力を及ぼし、どのように滅亡していったのかを年代を追ってここでご紹介いたします。

トルコ人のアナトリアへの侵攻

セルジュクトルコ
中央アジアの北部に存在したテュルク系遊牧民族のオグズ族の24の諸分族は後に西方移動を行うにつれ「トゥルクマーン」と言われるようになりました。そしてその後の彼らの西方アナトリアへの移住は2つの主要な段階で行われました。

1回目は、トゥルクマーンがセルジューク朝の指導の下で1020年代よりアゼルバイジャンに侵攻しアナトリアに流入し始め、大セルジューク朝のスルタンアルプ・アルスランが1071年に“マラズギルトの戦い”で勝利したことで、アナトリアをトルコ人に開放したことです。

この勝利により、トゥルクマーンはエーゲ海に至るアナトリアの多くの場所に侵攻したため、その地に住んでいたギリシャ人住民達は海岸沿いに逃げるか又はトゥルクマーンと妥協して生きなくてはなりませんでした。

2番目の大移動は、1220年代以降に東方で始まったモンゴル人の大侵略により、トゥルクマーンが中央アジアとアゼルバイジャンからアナトリへ移住したことになります。

モンゴル人の侵略により、マー・ワラー・アンナフルとホラーサーンとアゼルバイジャンからアナトリアへ行われた移住に伴い、アナトリアでのトルコ人の人口が大幅に増えました。この時、カヤ族の長であったオスマン帝国始祖オスマン1世の祖父スレイマン・シャーが、カヤ族を引き連れて東アナトリアに入ったのです。

13世紀にはアナトリアでトルコ人が定住した土地を見ることが多くなっていました。この状況は、イタリア人旅行家のマルコ・ポーロが、1279年に東アナトリアを通る際、アナトリアを“トゥルコマニア/トゥルクメニア”と言う名で呼んでいることからもわかります。
トゥルクマーンの一部は適した場所を見つけてそこに村を作り定住生活を始めました。

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マルコ・ポーロ
トゥルクマーンは、1240年にババ・イリヤースとババ・イスハックの先導により、セルジューク朝支配に対して大きな反乱を行いました。3年後、モンゴルの将軍バイジュ・ノヤンがアナトリアに侵略しますが、この反乱はアナトリアの形成に重要な役割を果たしたことになります。

イスラームのヴェファイイェ宗派のババ・イリヤースの家系から来るアシュク・パシャ、ムフリス・パシャ、そして彼らのカリフであるババイは、西側の国境地帯に定住し、後にオスマン帝国の社会的文化的生活において重要な役割を持つのですが、その内の一人が、オスマン王朝の樹立において重要な役割を果たした、オスマン・ガーズィーの師匠で義父であるシェイフ・エデバーリであります。

モンゴルの将軍バイジュ・ノヤンは、1243年に大人数の軍隊を率いてアナトリアに侵攻しました。バイジュ・ノヤンの指揮下にあるモンゴル軍は、1243年7月3日に“キョセダーの戦い”でカイホスロー2世統治下のセルジューク朝軍を破ります。それによりアナトリアのセルジューク朝政府は、この戦いの後にモンゴル系イルハン朝に属する形となりました。

13世紀後半になると、アナトリアでのモンゴル人の圧力は徐々に高まりました。この圧力の結果、トゥルクマーンは西アナトリアの地に侵攻し始めるのです。
この頃アナトリア西方に於いてビザンツ帝国に対して最も力を持っていた君侯国(ベイリク)がゲルミヤン侯国でした。

トゥルクマーンは、1260年にアナトリア南東のマラティヤから北西部キュタフヤへ移住するのですが、オスマン国の始祖オスマンの父エルトゥールル・ベイは、この頃彼の部族と共にエスキシェヒル‐サカルヤ地方へ移り住んだと言われています。

トゥルクマーンは、アナトリアでモンゴル人に対し抵抗していた最も重要な勢力でありました。モンゴルの侵略に対抗する目的でイスラーム聖戦の理解を採用しながらマムルーク朝と協力し、アナトリアにいるモンゴル人に対してテュルク民族の独立を勝ち取るために政治的リーダーシップをとりました。

当時セルジューク朝の国境地帯としては、地中海、黒海そして西端部の3つが組織されており、各地帯にセルジューク朝スルタンが任命した君主アミール(ベイ)が派遣されていました。

山岳地帯には半遊牧のトゥルクマーンがおり、中央政府の政治の影響から遠い生活をしていました。
国境地帯では、宗教生活においてダルヴィーシュ(スーフィー修道僧)と中央アジアトルコの伝統(ヤサヴィーヤとバハーイー)が支配していたと言う事です。

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オスマン侯国の台頭

セルジューク朝国境
イスラーム国家、特にアナトリアで聖戦イデオロギーと運動の増加が始まり、そして1261年のアナトリアにおけるモンゴルに対して行われた大規模な“トゥルクマーン運動”は、オスマン朝も含めた多くのトゥルクマーンが君侯国を建国する原因となりました。

これ以降アナトリアでは、イランのイルハン朝モンゴル国とその主権を受け入れていたセルジューク朝スルタンが支配している東部、トゥルクマーンの支配下にあった西部の2つの政治的地域に分かれました。

セルジューク朝の西国境地帯で樹立したエシュレフ侯国、ハミド侯国、サーヒブ・アタ侯国、ゲルミヤン侯国、チョバン侯国によりビザンツ帝国の領土を征服しながら成立した西三侯国(メンテシェ、アイドゥン、サルハン、カレスィ、オスマン)が、トゥルクマーン支配下で半独立していたアナトリアを代表していました。

モンゴル人イルハン国支配下の中央管理および金融システムに反対する半遊牧のトゥルクマーン氏族達は、モンゴル側によってセルジューク朝王位に就かされたスルタンに反抗しました。1284年にモンゴル人はメスド2世(1284~1296)を王位に就かせ、彼の政敵を支持するゲルミヤン侯国に対し攻撃した結果、トゥルクマーン氏族達は標的をビザンツ領土に向けたのです。この結果、西アナトリアは、ゲルミヤン侯国により征服されました。

1270~1310年の間にその他の地方でメンテシェ、アイドゥン、サルハン、カレスィなどガーズィー(聖戦士)集団のトゥルクマーン侯国達が成立しました。地方で建国した初めての君侯国は、1269年にテケ族のトゥルクマーンによって支持されていたメンテシェ侯国です。この君侯国は、オスマン侯国の様なセルジューク朝国境とは反対側のビザンツ領土を征服することに因り出現した新しいトゥルクマーンの君侯国の連鎖を生み出しました。

オスマン帝国の歴史:建国 (1299~1453)

オスマン帝国

帝国始祖 オスマン1世 (在位1299~1326)

1299年にはアナトリアで支配をつづけていたセルジューク朝が崩壊をたどり始めていました。この頃、地方部族長であったオスマン・ガーズィーは、親しい仲間たちと共にビレジック、ヤルヒサル、イネギョルを征服します。

1299年にカラジャヒサルを占領したオスマン・ガーズィーは、言い伝えによると自身の名において説教を行い、カーディー(イスラーム裁判官)を任命し、自身の慣習/法律を宣言し、独立を主張したと言い、これを以てオスマン侯国が樹立し、そしてオスマン・ガーズィーはオスマン1世としてオスマン帝国の元であるオスマン侯国の始祖となりました。

元祖純トルコ人の伝統による国家の樹立は、まず第一に、神から権力を授かったと信じられるカリスマ的な指導者の出現によるものという信仰によるため、オスマン君侯国の正式な樹立は、1299年が通例とされています。

1301年にオスマン侯国はイェニシェヒルを征服。
1302年、ビザンツ帝国軍はオスマン・ガーズィーを食い止めるために立ちます。オスマン・ガーズィーは、ビザンツ帝国と初めて交戦した戦いである“コユヒサルの戦い”で勝利を収めました。

第2代皇帝 オルハン・ベイ (在位1326~1359)

オルハン・ベイ
1326年オスマン・ガーズィーは、ブルサを包囲するのですが、体調が悪くなったため、息子のオルハン・ベイが引き継ぎ、同年ブルサを征服し首都をここに置きます。そして、独自に通貨を鋳造し、君侯国を一つの国の形にしました。しかし、この頃は未だスルタンではなく「ベイ(君侯)」を名乗っていました。

1329年、アンドロニコス3世が率いるビザンツ軍と対峙した“パレカノンの戦い”で勝利。1331年にイズニックを、1337年にはイズミットを支配下に治めました。さらに、オルハンの時代に国境は近隣のトルコ人の君侯国の土地に向かって広がり始め、1345年にはカレスィ侯国がオスマン侯国の権力下に入りました。

オスマン侯国は、西アナトリアで成立した君侯国の中でも最も強く最も裕福でした。オスマン侯国は、オスマン・ガーズィーの統治下で周辺へ広がり増え続け、1345年頃にカレスィ侯国を含めた他の君侯国を侵略し始め、そして内部地方から来た人々を君侯国へ加えることに因り、ビザンツが所有する城や町を手に入れるほどに力を持ちました。

この様にオスマン侯国は、君侯国の海軍の恩恵を受けながら、ルーメリ(ルメリア)への侵攻のために必要な幾つかの地点を手に入れました。

1352年、継承者争いで揉めていたビザンツ帝国統治者の一人マテオス・カンダクジノスの要請により援軍を送ったオルハン・ベイは、援軍の対価としてゲリボル半島にあるチンぺ城を手に入れ、このチンぺ城を手に入れたことでオスマン侯国は初めてルメリアの地を手に入れることができたのです。

ブルサとジュマルクズクはオスマン帝国発祥の地【トルコ世界遺産】| トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

ブルサ

第3代皇帝 ムラト1世 (在位1360~1389)

オルハン・ベイの後、“神の代理人”の名でも知られるムラト1世が引き継ぎ、オスマン侯国の領土をバルカン方面まで広げました。

まず最初に、アドリアノープル近くで行われた1362年の“サズルデレの戦い”でトルコ人の進行を止めたいビザンツ‐ブルガリア軍を打ち負かせ、1363年勝利の後にアドリアノープルを手に入れました。

その後間もなく、エディルネを取り返したいハンガリー人、セルビア人、ブルガリア人、ワラキア(ルーマニア)人、ボスナ人の連合軍とエディルネ近郊で対峙したこの1364年の“マリツァの戦い”にて勝利し、ブルガリア、ギリシャ、セルビアを手に入れることができました。

そして、1366年にアドリアノープルをエディルネと改名し、ここをブルサから遷都しオスマン帝国の首都とします。

この期間、ハミド侯国より金銭の対価として内陸のアクシェヒル、ヤルヴァチ、ベイシェヒル、セイディシェヒル、カラアーチ、エーイルディル、ウスパルタを、ゲルミヤン侯国からは息子のベヤズィトとゲルミヤンの王女を結婚させ、婚資の対価としてキュタフヤ、スィマヴ、タヴシャンル、エメットを受けとりました。

バルカンとヨーロッパの国々はオスマン侯国がヨーロッパへ進行するのを止める為に1389年“コソボの戦い”を続け、オスマン侯国が勝利しますが、ムラト1世は戦闘中に殺されてしまいます。

因みに、ムラトは、「ベイ(君侯)」の称号を名乗りつつも、碑文や貨幣などには「スルタン」の称号を使い始めていました。

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セリミエ・モスク

第4代皇帝 ベヤズィト1世 (在位1389~1402)

ムラト1世がコソボ戦争の後に殺されたことに因り、オスマン帝国の皇位に雷帝と言われたベヤズィト1世が就き、バルカンに加えて1390年よりアナトリアでの政治的統一の確立に着手しました。これに関連してアイドゥン侯国、ゲルミヤン侯国、ハミド侯国、メンテシェ侯国、サルハン侯国を領土に治めるのです。
1392年にはジャンダル侯国の領地も占領します。

因みに、ベヤズィト1世はスルタンに即位後、スルタンの地位を確固たるものとする為に弟たちを処刑してしまいます。これが、以降のオスマン帝国皇位継承の際の“兄弟殺し”の始まりとなりました。

治世の間に4度イスタンブールを包囲し、その内の3度目を1396年に行いますが、十字軍がドナウ河畔のニコポリスまで来たことに因り包囲を解きました。1396年9月に行われた“ニコポリスの戦い”で十字軍に勝利し、その後イスタンブールの4度目の包囲をしますが、これも東で起こった“ティムールの危険”により解くことになります。因みに1395年に行われた2度目の包囲の際、ボスポラス海峡アジア側に築かれたのがアナドル・ヒサルです。

因みに、このニコポリスの戦いでの勝利をアッバース家のカリフであるムタワッキル1世が称賛し、ベヤズィトに「スルタン」の称号を送ります。これによりカリフからオスマン帝国君主はスルタンの称号を授与し、後世スルタンを名乗る様になりました。

中国への遠征を計画し、西部では強力な国家を形成する気のないティムールは東方に大帝国を建国し、以前に戦って敗北した黒羊朝とジャライル朝がオスマン帝国に避難したこと、ティムールの要求を受け入れなかったことを理由にオスマン帝国に宣戦布告します。

双方の軍がアンカラのチュブック平原で対峙した1402年の“アンカラの戦い”でベヤズィト1世は、味方であったトルコ人の君侯国がティムール側に就いたこと、相次ぐ戦いでイェニチェリの疲労が重なっていたことなどに因り敗北し、妃と息子のムーサと共にティムールの捕虜になってしまいます。

そしてベヤズィト1世は、1403年にサマルカンドへの移送中にアクシェヒルで亡くなり、ティムールはベヤズィト1世の死去に際しムーサを捕虜の身から開放します。

空位時代(1403~1413)

ベヤズィト1世が捕虜となり捕虜中の生活の中での死後、4人の息子のイーサ、メフメト、ムーサ、スレイマンの間で継承争いが始まりました。空位時代とも言われるこの期間の最初、ティムールはベヤズィト1世により支配されていたアナトリアの君侯国を、かつての領地にそれぞれ独立した君侯国を再建させました。

皇位継承の為、皇子同士の闘争によりイーサによって一番最初に排除されたのがムーサで、ムーサはゲルミヤン侯国に、その後カラマン侯国に亡命しました。

その後、1406年にイーサはメフメト側についていた兵士により殺されます。こうして皇位継承争いは、スレイマンとメフメトの間で続き、スレイマンは国のルメリア(ヨーロッパ)側、メフメトはアナトリア側の統治者となりました。

この兄弟二人の間で続いていた抗争の中で、亡命していたムーサは再度行動を起こし、1411年にスレイマン・チェレビがいたエディルネに攻め入ります。同年スレイマンは死去し、1411年以降にこの闘争はメフメトとムーサ間で続けられることになりました。二人の兄弟間での争いは、1413年にメフメトがムーサを殺させたことで終わりを遂げ、空位時代が終焉します。

オスマン帝国

第5代皇帝 メフメト1世 (在位1413~1421)

1413年にメフメトはメフメット1世としてオスマン帝国皇帝の地位に就きました。
彼の治世中、アンカラの戦い後にアナトリアで奪われた領土の殆どを新たに取り戻しますが、ヴェネチアと行った初の海戦は失敗に終わりました。

帝国内で起こった反乱シェイフ・べドレッディン、ボルクルジェ・ムスタファ、トルラック・ケマルの3つの宗教反乱は鎮圧。

治世の末期にはティムールにより捕虜とされていた弟のムスタファと言われる人物“偽ムスタファ”がオスマン帝国の皇位者である事を宣言したことにより、メフメト1世はこの問題に対処する為にムスタファに進軍し、ムスタファは敗北しかかるとビザンツ帝国へ亡命しました。
その後、メフメト1世は1421年に死去します。

第6代皇帝 ムラト2世 (在位1421~1451)

メフメト1世の死去後、息子のムラト2世が皇位に就きました。

メフメト1世の死去に伴い、ビザンツ帝国より対立皇帝として擁立されたメフメト1世の兄弟と名乗るムスタファは、ムラト2世の治世の最初に“偽ムスタファの反乱”として知られる反乱を起こします。偽ムスタファは、1422年に捕まり処刑され反乱は終わりました。

同年ムラト2世はコンスタンティノープルを包囲しますが、不成功に終わります。ビザンツ帝国とオスマン帝国の両国の技術は同等でトルコ人達は「爆撃機の石を手に入れる為に」バリケードを設置しなければならなかったと言います。
なおこの期間、アイドゥン侯国、ゲルミヤン侯国、メンテシェ侯国、テケ侯国がオスマン帝国の主権下に入りました。

1443年6月ハンガリーとの間で“セゲド条約”に調印します。条約により10年間休戦が決定されると、この和平の直後ムラト2世は元々文化人気質であった為自身の希望により、12歳の息子メフメト2世に皇位を譲りました。

オスマン帝国の皇位に若干12歳の皇子が就いた事を好機ととらえた十字軍連合は、セゲド条約を無かったことにしてオスマン帝国に戦いを仕掛けるのです。また、若干12歳の若い皇帝に官僚も従わず国の危機となってしまいました。

1444年11月ムラト2世は国の危機に際し、再度軍を率いてこの戦いに勝利します(ヴァルナの戦い)。しかし、ムラト2世は戦いの直後に再度皇位には就きませんでした。再度皇位に就いたのは1446年です。

1448年オスマン帝国がバルカン半島の支配を終わらす目的で、攻撃してきたワラキア国とハンガリーの軍と“第2回コソボ戦争”を行い、ムラト2世は勝利します。そして1451年にムラト2世は死去し、息子のメフメト2世が再度皇帝の座に就きました。

第7代皇帝 メフメト2世 (在位1451~1481)

メフメト2世
父が死去したことに因り、皇帝の座に再度就いたメフメト2世は、最初の仕事として父が行っていたヴェネチア人、ジェノバ人、ハンガリー人、セルビア人との講和条約を新しくしました。そしてその後、イスタンブールの包囲に出るのです。

難攻不落の城塞と言われていたコンスタンティノープルを攻略するために、1452年4月15日から3ヶ月半と言う短期間でコンスタンティノープル郊外のボスポラス海峡最峡部ヨーロッパ側に海峡北部からの攻撃に対抗する為“ルメリ・ヒサル”を建設、また金角湾の入り口にはオスマン艦隊の進入を阻止するために東ローマ帝国によって鉄製の太い防鎖が張られていたので、金閣湾の北陸路ガラタ居住地の外側に油を塗った木の道を作ってそれにより丘を越えて艦隊の船70隻を金閣湾に移動させた“オスマン艦隊の山越え”など、メフメット2世は奇策で攻め入ります。

コンスタンティノープルの陥落 (1453)

1453年5月29日にコンスタンティノープルをついに征服しビザンツ帝国(東ローマ帝国)を崩壊させ、この都市をオスマン帝国の首都としました。またギリシャ正教会を帝国保護下に置き、総主教座があったアヤソフィアをモスクに改修、その他の多くの聖堂もモスクに改修されました。
この征服は世界史上、中世の終焉と新時代の幕開けとなる歴史的転換点の出来事の一つとされています。

このイスタンブール攻落によりメフメト2世は、征服王メフメトの意の「ファーティフ・スルタン・メフメト」と言われています。

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コンスタンティノープルの陥落
因みに、オスマて帝国皇帝の住居、帝国の政治の中心地となる新宮殿“トプカプ宮殿”は、1465年に建設開始し、1478年に完成しました。

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オスマン帝国の歴史:興隆と最盛期 (1460~1566)

メフメト2世は、コンスタンティノープルを征服した後も征服活動を継続し、1460年にペロポネソスのモレアス専制公領を、1461年にトレビゾンド王国を滅ぼし、バルカン半島でもオスマン帝国の領土拡大を続けました。

実はメフメト2世は、あの吸血鬼ドラキュラのモデルとなったワラキア国(現ルーマニア)君主ヴラド3世(ヴラド・ドラキュラ、ドラキュラ公)とも交戦しています。ヴラド3世は、オスマン帝国に対し徹底抗戦し、1462年のトゥルゴヴィシュテの戦いではオスマン兵2万人を串刺しにし殺害し、メフメット2世の指揮を下げてワラキアから撤退させました。

オスマン軍からの使者を串刺しにしたり、大量の兵士を串刺しにして殺害したことから“串刺し公”の名でも有名です。1476年にブカレスト近郊でオスマン軍との戦いの中戦死し、ヴラド3世の首はオスマン帝国軍によって塩漬けにされてイスタンブールへ持ち込まれたと言われています。

1468年にカラマン侯国を滅ぼし、カラマン侯国を守備しベネチアと協力していた白羊朝のウズン・ハサンを1473年“オトゥルクベリの戦い”で破り、この様にして国境をユーフラテス川の西のアナトリアの地まで広げたのです。

クレタ島を除くエーゲ海の全ての島でのベネチア支配を終わらせ、ゲディク・アフメト・パシャが行ったクリミア半島への遠征でケフェとスダックとクリミア・ハンがオスマン帝国の支配下に入りました。そして黒海のジェノバ支配が終焉させられ、黒海とエーゲ海はオスマン帝国の内海の様な形となったのです。

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また、大宰相ゲディク・アフメト・パシャがトロス山脈と地中海沿岸を支配したことで、マムルーク朝と国境が隣接することにもなりました。

メフメト2世は、治世中に発行した法律を『ファティ法典』と言う名で刊行しました。
1480年に行われた“オトラントの戦い”の結果、ナポリ王国の手中にあったオトラントが、オスマン帝国の領地に加わりました。しかし、1481年メフメト2世の死去に伴い戦いは途中で終わり、オスマン帝国軍の撤退に伴いオトラントはナポリ王国に奪還されました。

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第8代皇帝 ベヤズット2世 (在位1481~1512)

オスマて帝国マップ
メフメト2世の死去後、イエニチェリの支援を受けていた息子のベヤズット2世が皇帝となりました。しかし、彼の弟のジェムはベヤズット2世を皇帝として認めなかった為、兄弟間で皇位継承争いが始まり、ベヤズット2世はジェムを破ります。これによりジェムは、マムルーク朝、ロドス島聖ヨハネ騎士団、教皇の元へと亡命をしました。

ベヤズット2世は、1483年にヘルツェゴビナを、1484年にキリア、アッケルマン(ビルホロドドニストロフシキー)を帝国の領土に加えましたが、マムルーク朝と行った戦いは結果を得ることはできませんでした。

ジェムが1945年に死去した後もベヤズット2世はヨーロッパへの遠征をつづけました。
ヴェネツィア人と1499~1503年に行った戦いの結果、メッセニア、コロニ、ナヴァリノ、レパントの港を手に入れ、国を税金に結び付けました。

1500年の初頭に強くなり始めたサファヴィー朝は、アナトリアでシーア派を広めるために働き始め、この働きかけの結果1511年にオスマン帝国に対して“シャークルの反乱”が勃発します。この反乱は同年にシャークルが捕まり処刑されたことで鎮圧されました。

1512年4月圧力により、息子のセリム1世に皇位を譲ることを余儀なくされ、この事件の1か月後にベヤズット2世は死去します。

第9代皇帝 セリム1世 (在位1512~1520)

その後、ヤヴズ・スルタン・セリムの名で知られるセリム1世が、父ベヤズット2世の治世から始まったシーア派に対する戦いに乗り出しました。サファヴィー朝ペルシャへの遠征を行ない“チャルディラーンの戦い”で勝利し、ペルシャの首都のタブリーズを占領することに成功します。

その後、マムルーク朝へ対して行動します。“マルジュ・ダービクの戦い”と“リダニアの戦い”に勝利し、マムルークを崩壊させながらシリア、パレスティナ、エジプトの地を領土に加えました。

また、アラビア半島のヒジャーズを主権下に入れ、国家をインド洋まで広げる事ことに成功し、預言者ムハンマドの聖遺物として承認せれている品物をイスタンブールに持ち帰り、イスラム国家の最高権威者の称号「カリフ」をオスマン朝スルタンが継承することとなったのです。この様にセリム1世がカリフの称号を名乗った初めてのオスマン帝国皇帝となりました。
1520年、西方遠征へ向かう途中、テキルダーのチョルルと言う場所でセリム1世は死去しました。

第10代皇帝 スレイマン1世 (在位1520~1566)

スレイマン1世
父セリム1世の死に際し皇位に就いたのがスレイマン1世で、彼は治世1年目にベルグラードとロドス島を征服します。その後のハンガリーとの“モハーチの戦い”の結果、ハンガリー王国を支配下に入れることができ、それに続いて1529年にはオーストリアのウィーンを包囲しますが、これは成功しませんでした。
尚、1533年にアルジェリア主知事のバルバロス・ハイレッディン・パシャをイスタンブールに呼び寄せ、オスマン帝国に仕えさせ、その一年後には彼を海軍大提督に任命します。そして、同年スレイマン大帝はバグダッドとタブリーズを帝国領土に加えました。

1536年、オスマン帝国はフランスと同盟を結びます。この同名の一部としてニースとコルス島を包囲しました(イタリア戦争)。また、1565年マルタを包囲しますが、この包囲は失敗に終わります。

スレイマン1世は、西方では“壮麗帝”、東方では“立法帝”と呼ばれ、帝国の全盛期を築きました。治世の末期、3大陸にまたがるスレイマン大帝の帝国領土内の人口は1500万人に達していたと言います。

オスマン帝国の歴史:危機と変化 (1566~1683)

第11代皇帝 セリム2世 (在位1566~1574)

この頃、オスマン帝国は勢力を広げ続けましたが、以前の大国の力ではなくなってきたことを合図し始めていた期間でもありました。ゆっくりと徐々にヨーロッパに対する威信を失って来ており、この時期に行われた戦いは、オスマン帝国が「無敵」ではないことをヨーロッパに示すこととなりました。

1571年、教皇・スペイン・ヴェネツィアの連合海軍と争った“レパントの戦い”は、第11代皇帝セリム2世下のオスマン帝国が大敗し、西欧の軍隊がオスマン帝国に大きく勝利した最初の戦いとなりました。こ戦いの後にオスマン帝国は回復しましたが、ヨーロッパ人達にはオスマン帝国を敗北させられる可能性がある事を良く知ることとなりました。

ロシア人への遠征は望ましい結果を得られず、その上1572年の“モロディの戦い”の後にはロシア人が加速して力を増し続けることとなりました。こうして、オスマン帝国の停滞期からオスマン帝国が崩壊するまで、ロシア人はオスマン帝国の最大の敵となったのです。

第12代皇帝 ムラト3世 (在位1574~1595) ・第13代皇帝 メフメト3世(在位1595~1603)

1593年には、ゆっくりとオスマン帝国は経済的にまた軍の視点からも弱体化しました。
兵士の不足は解消されましたが、経済的な弱体は“ジェラーリ―の反乱”や“イェニチェリの反乱”の原因となり、また人口の多さが経済的問題をより大きくしていました。

トプカプ宮殿

第14代皇帝 アフメト1世 (在位1603~1617)・第15代皇帝ムスタファ1世(在位1617~1618)

1606年に第14代皇帝アフメット1世により署名された“ジートヴァトロクの和約”は弱体化を表すこととなります。交易路の変更やヨーロッパの技術の発達は、オスマン帝国のヨーロッパに対する勢力の損失の原因となりました。

ポルトガル人達が東アフリカやインドに貿易植民地を建設すると、オスマン帝国はこれらを終わらせなければならないと考え、東アフリカへの遠征で一部成功したのですが、インドへの遠征は成功しませんでした。

第16代皇帝 オスマン2世 (在位1618~1622)

この頃、オスマン帝国史上初めてイェニチェリの廃止が話題となりますが、これを計画し、帝国で一番の文化人と言われていた第16代皇帝オスマン2世はイェニチェリの反乱によりに殺されてしまいます。

第17代皇帝 ムラト4世 (在位1623~1640)・第18第皇帝 イブラヒム(在位1640~1648)

ムラト4世
ムラト4世の時代には、サファヴィー朝との争いが多くなり、エルバンやバグダッドを再度手に入れました(オスマン・サファヴィー戦争)。この戦いの末の1639年に署名された“ズハーブ条約”を以て、オスマン帝国崩壊まで東の国境の大部分が明確になりました。

第19代皇帝 メフメト4世 (在位1648~1687)

1656年にキョプルル・メフメット・パシャが大宰相に就いたことで、スレイマン大帝の頃から続いていた皇室夫人による“女人政治”が廃止され、この改革が“キョプルル改革”の始まりとなりました。この改革にて、オスマン帝国が失った力を少しであっても回復させることができ、1683年に“第2次ウィーン包囲”と共に、神聖同盟と戦った“大トルコ戦争”が始まりました。

オスマン帝国の歴史:停滞と改革 (1683~1827)

オスマン帝国マップ

第20第皇帝 スレイマン2世 (在位1687~1691)・第21代皇帝 アフメト2世 (在位1691~1695)

経験の浅い人物が皇位に就くことによる中央政府の混乱の結果として、国家経営に於いての権力の弱体化は、国に対する国民の信頼を低下させ、内部の反乱を引き起こす原因となりました。

特にイェニチェリはもはやスルタンの反対勢力になっており、イェニチェリ組織は国の為と言う理解は、国はイェニチェリ組織の為と言う理解に変化しました。

オーストリアとイランへの遠征の結果により発生した経済問題、軍事封土制であるティマール制の崩壊、人口増加が生んだ社会生活の困難、時代遅れによる教育分野の悪化の結果、国家は停滞期に入りました。
また、地理的発見による貿易路の重要性の損失、スルタンの頻繁な交代により過剰に振舞われた代替わりの祝儀金(チップ)やイェニチェリの増加による給与額の増加は、オスマン帝国の経済をすり減らしました。

オスマン帝国の歴史:衰退 (1699~1792)

オスマン帝国の衰退期間は、オスマン帝国史において1699年の“カルロヴィッツ条約”から始まり、1792年の“ヤッシーの講和”までの期間の事を言います。この期間の末期にかけて、オスマン帝国はヨーロッパ人から「瀕死の病人」と呼ばれ始めました。それは、この時期にオスマン帝国が多くの領土を喪失していたからです。

この頃、“カルロヴィッツ条約”と“イスタンブール条約”で失った土地を取り戻し、元の領土を守る為に西方でオーストリアとヴェネツィア、北法でロシア、東方でイランと戦争が行われました。

そしてこの世紀、オスマン政府はヨーロッパに遅れを取ったことを1718年の“パッサロヴィッツ条約”以降に認めて受け入れ、ヨーロッパが行った改革を見本とする様になりました。そして18世紀初頭、オスマン政府は、失った領土をとり戻りながらヨーロッパで耐え抜き、以前からの古い力を守ることを目指すのですが、しかしながら暫くするとこの目標に達成できないことが解り、手元にある領土を守り抜く方針をとり始めたのです。

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16~17世紀に起こった“ジェラーリーの反乱”は、オスマン帝国の土地制度を大きく変化させました。重税によるものや大脱税の際にその土地にいた農民の土地は、地元の支配者の手に渡り、税の為に借金を負った村人たちは、最終的に農地を高利貸しに奪われることになりました。

オスマン帝国の土地制度の要であったティマール制が崩れ、大きな人口移動が発生し都市への大移住が起こり、農産物の生産は減少し、飢饉は農産物の価格の上昇につながり、何万人もの人々が命を落とし、多くの集落が崩壊しました。

また、オスマン帝国における学問機関の腐敗もオスマン帝国を衰退させました。ヨーロッパの発展(改革、ルネッサンス)に順応しなかったことが、オスマン帝国にとって不利となったのです。
オスマン政府の教育制度の崩壊の原因は、職務が世襲制となったことであり、この制度はマドラサの教授の息子は生まれた時からマドラサの教授と見受けられていたからです。

第22代皇帝 ムスタファ2世(在位1695~1703)

1699年1月26日に神聖ローマ帝国と署名した“カルロヴィッツ条約”により、大トルコ戦争が終結されました。“カルロヴィッツ条約”は、オスマン帝国が領土を失った初めての条約でもあり、これにより、オスマン国家は衰退期間が始まりました。

教皇によりオスマン帝国に対して神聖ローマ帝国、オーストリア、ポーランド・リトアニア共和国、ロシア、マルタ聖ヨハネ騎士団、ヴェネツィア人で結成された同盟との長期戦争の末に疲労困憊していたオスマン帝国は、バナトとティミショアラを除く全ハンガリーとトランシルヴァニア公国をオーストリアへ、ウクライナの北部とポーランドをポーランド・リトアニア共和国へ、ペロポネソスとダルマチア沿岸をヴェネチアに開放しました。

オスマン帝国の歴史:チューリップ時代(1718~1730年)

トプカプ宮殿のチューリップ

第23代皇帝アフメット3世(在位1703~1730)

アフメット3世の治世大宰相ネヴシェヒルリ・ダーマット・イブラヒム・パシャと共に行った1718年から1730年の改革の時代です。
1718年の“パッサロヴィッツ条約”による対外関係の安定により国内状況も好転し、イスタンブールを中心に華美な文化が流行り、西洋趣味が盛んになった時代で、この時代にチューリップの栽培と鑑賞が盛んになった事から後世にチューリップ時代と呼ばれるようになりました。

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この時代、パリやロンドンなどのヨーロッパの国の首都に期間限定の大使を送ったり、ヨーロッパから印刷機を取り入れたり、初めて水疱瘡予防接種が行われたり、イスタンブールで消防隊が組織されたり、トルコ史上初の翻訳研究機関である翻訳評議会が開かれたりと改革が行われました。

しかし、国民の大多数が生活困窮の中、イスタンブールの一部の高官が快楽に溺れ贅沢な暮らしを謳歌していることと浪費政治が原因となり反乱がおこります。
1730年の元イェニチェリの“パトロナ・ハリルの乱”によりネヴシェヒルリ・ダーマット・イブラヒム・パシャが反乱軍により殺害され、アフメット3世が廃位されたことでこの時代は終焉しました。

第24代皇帝 マフムト1世(1730~1754)

アフメト3世の後、甥のマフムト1世が即位し、先代の西欧化改革を引き継ぎます。しかし、内部ではイェニチェリの腐敗により軍事力の低下が進み、また地方分権化が始まりアーヤーンと呼ばれる地方有力者が台頭することとなりました。

第25代皇帝 オスマン3世 (在位1754~1757)

次に即位した弟のオスマン3世は治世3年と短かった為、特に目立った事業は残っていません。

オスマン帝国イメージ

第26代皇帝ムスタファ3世 (在位1757~1774)

ムスタファ3世の治世、ヨーロッパ列強に比べて自国の軍事的劣弱を正確に認識していたため戦争を控えていましたが、ポーランドで内乱が発生し、ロシア軍のコサック騎兵が逃げるポーランド人を追ってオスマン帝国領内の現ウクライナ領バルタに侵入したため、ロシア帝国に対し宣戦を布告せざるを得なくなり、1768~1774年に露土戦争となりましたが、オスマン帝国はロシアに敗退しました。

第27代皇帝アブデゥルハミト1世 (在位1774~1789)

この戦いの後に、弟の第27代皇帝アブデゥルハミト1世により1774年に結ばれた“キュチュック・カイナルジャ条約”ではオスマン帝国からクリミア半島が独立し、後にロシア領土に含まれることになりました。

オスマン帝国の歴史:軍改革(1789~1827)

第28代皇帝 セリム3世 (在位1789-1807)

ロマノフ朝ロシアに敗北したオスマン帝国は、1792年にクリミアとグルジアにおける領土を割譲することを条件とした“ヤッシーの講和”を締結して和睦します。
1807年にセリム3世は、時代遅れとなりその上力をつけて政治介入する危険集団になっていたイェニチェリを解体することと軍隊の近代化を目的に、完全に西洋化し最新武器を導入した“ニザーム・ジェディード”と言う軍隊を設立しましたが、やはりイェニチェリは当然反対し1807年にセリム3世を廃位させて翌年に殺害してしまいます。

また、1804年には、オスマン帝国下でイェニチェリの圧政に対して蜂起したセルビア人の独立運動“セルビア蜂起”が起こり、その最中1806年には“露土戦争”が勃発し1812年の“ブカレスト条約”にて戦いが終結しました。

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第29代皇帝 ムスタファ4世(在位1807~1808)

セリム3世の廃位に伴い、従兄弟のムスタファ4世が即位しますが、ブルガリア北部のアヤーン(地方有力者)が先導した先帝セリム3世派の挙兵により即廃位されてしまいます。

第30代皇帝 マフムト2世 (在位1808~1839)

次に即位した弟のマフムト2世は、軍の近代化を引き継ぎ1826年に200年以上続いたイェニチェリを撃滅し廃止させ、プロセイン軍事顧問の元で西洋式・近代的新設軍「ムハンマド常勝軍」が設立されました。ただ、これによりオスマン帝国の戦力が大きく減少させることになります。

また、政府にとって危険であり力を持っていたバルカンやアナトリアのアーヤーン(地方有権者)の力を削ぎ、皇帝専制および中央集権化に努めました。
加えて、軍事封土制であるティマール制を廃止し、トルコ系騎士シパーヒーを解体して新陸軍に統合しました。

1821年に“ギリシャ独立戦争”が勃発、これは10年に及ぶ争いとなり、1832年に“イスタンブール条約”によりギリシャが独立し“ギリシャ王国”が樹立します。また、1828年に起こった“露土戦争”ではロシアが勝利し、1829年に結ばれた“エディルネ(アドリアノープル)条約”ではセルビアの自治権が承認され、その後オスマン帝国からの完全独立がなされました。

その他、近代化教育機関の創設、翻訳局の設立、大臣職を置き西洋内閣制度に似た制度の実施、帝国役人の服制にトルコ帽と洋装の採用など多くの西洋化改革を実施しました。

オスマン帝国の歴史:近代化 (1828~1908)

第31代皇帝 アブデュルメジト1世 (在位1839~1861)

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マフムト2世の後、息子のアブデュルメジト1世が即位します。彼は才能に長けて改革に対する熱意も強く、積極的な近代改革に取り組み、即位後すぐ1839年に“ギュルハーネ勅令”を発令し、行政・軍事・文化・財政・司法・教育の様々な面に対してのタンジマートと呼ばれる改革を行いました。

ドルマバフチェ宮殿も1843~1856年の13年かけてアブデュルメジト1世の命で建てられ、その後トプカプ宮殿に代り帝国の王宮として使われました。

近代化政策の中、1853年オスマン帝国内のエルサレムをカトリック教徒の御機嫌取のためにフランスのナポレオン3世に聖地管理権を獲得させたことから、正教会を国境していたロシア帝国のニコライ1世が反発し、ギリシア正教徒保護を口実にオスマン帝国領土に進軍し戦争を仕掛けてきたことから“クリミア戦争”が勃発します。

この戦いは、イギリス、フランス、サルデーニャ王国と同盟し185年にオスマン帝国が勝利し“パリ条約”を締結して終戦となりました。因みにこのクリミア戦争中にイギリス人負傷兵をイスタンブールのアジア側ウスキュダルで看護したのが、あの有名な「白衣の天使フローレンス・ナイチンゲール」です。
また、このパリ条約により、オスマン帝国は国際的地位を高めることができました。

この治世、オスマン帝国は様々な改革と近代化政策により少しは持ち直すことに成功したと言えます。

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第32代皇帝 アブデュルアズィズ(在位1861~1876)

アブデュルメジト1世が1861年39歳にて結核で亡くなると、弟のアブデュルアズィズが後を継ぎます。
1867年にパリ万国博覧会のために、帝国史上初めて皇帝としてパリやロンドンやウィーンなどヨーロッパ諸国を歴訪しました。

この治世、オスマン帝国海軍強化により軍艦保有数は世界第3位となり、またイスタンブール考古学博物館設立、1863年には帝国初の切手の発行など西洋近代化が積極的に取り組まれました。
しかし、多大な国費を費やしたため1875年に事実上の破産状態となってしまいます。
クーデターによりアブデュルアズィズは1786年5月に廃位され、5日後にフェリイェ宮殿で手首が切られた状態で亡くなっているのを発見されました。

 
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第33代皇帝 ムラト5世 (在位1876)

アブデュルアズィズの廃位後、甥のムラト5世が即位しますが、精神を病んでいたため在位93日で退位させられ、1904年に亡くなるまでチュラーン宮殿に幽閉されていました。

第34代皇帝 アブデュルハミト2世 (在位1876~1909)

アブデュルハミト
次に弟のアブデュルハミト2世が即位し、彼は内外に近代化改革を行う旨を示すために1876年12月に別称ミドハト憲法ともいわれる“オスマン帝国憲法”を発布し第一次立憲制を行いました。内容は、議会制の設置、公用語がオスマン語である事の明記、ムスリムと非ムスリムの平等などが含まれていますが、2年後の1878年にはこの憲法が停止されてしまい、その後30年間スルタンによる専制政治が展開されます。

1877年にはロシアとの露土戦争が勃発し、アナトリア北東部のカルスが没落され、またバルカン半島で敗退するとディルネが占領され、イスタンブールのイェシルキョイまでロシア軍に侵攻されてしまい、1878年ロシア軍に敗北する形で“サン・ステファノ条約”と“ベルリン条約”が結ばれます。

この条約でセルビア公国、モンテネグロ公国、ルーマニア公国がオスマン帝国から独立し、ロシアの影響を強く受けた広大な自治領「大ブルガリア公国」が成立しました。これにより、東ローマ帝国滅亡以降のオスマン帝国による東ヨーロッパ支配が終焉したことになりました。

1877年日本皇族の小松宮夫婦がイスタンブール訪問したことに応える為、1881年にアブデュルハミト2世の命により、軍艦エルトゥールル号にて明治天皇に奉呈する皇帝親書を携えたオスマン帝国最初の親善訪日使節団が日本の明治政府へ送られました。

その帰路の1890年9月、エルトゥールル号は和歌山県串本町沖で遭難し、トルコ人水兵587人が死亡する大惨事が起こりました。この“エルトゥールル号遭難事件”で負傷したトルコ人の為に義捐金を集めてイスタンブールに渡ったのが山田寅次郎で、彼はアブデュルハミト2世にも謁見しています。
山田寅次郎は日本とトルコの懸け橋となった最初に日本人となりました。

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1897年にオスマン帝国下のクレタ島を巡ってオスマン帝国とギリシャが争った“希土戦争”では勝利を収めます。

ただ、アブデュルハミト2世は独裁的な専制政治を行ったため、国民からの不満が一気に爆発し、西洋式近代学校で教育を受けた青年エリートで組織された「統一と進歩委員会」が1878年より停止されていたオスマン帝国憲法の復活を目指し1908年に“青年トルコ人革命”が起こります。
アブデュルハミト2世は革命軍の鎮圧にあたりますが、鎮圧部隊が革命軍に寝返ったため、鎮圧をあきらめ革命軍の要求をのみます。そして憲法を復活させ、第二次立憲制がはじまりました。

しかし翌年1909年に反革命のクーデター“3月31日事件”が起こり、これにアブドゥルハミド2世の関与が疑われ、統一と進歩委員会の意向で皇帝の廃位が議会で決議され、帝国史上初めてアブドゥルハミド2世は議会より廃位させられた皇帝となりました。

オスマン帝国の歴史:帝国の崩壊 (1908~1922)

第一次世界大戦
オスマン帝国政府は、ヨーロッパの国々が相互に争いを行っていることを利用してバランス政策を維持しながら存在を長期保持しました。帝国崩壊を防ぐためにオスマン帝国政権の改善に努めましたが、ヨーロッパで起きた反乱や革命、長期に及んだロシアとの戦争で疲労困憊状態となり、第一次世界大戦の末には崩壊から逃れることはできませんでした。

第35代皇帝 メフメト5世 (在位1909~1918)

オスマン帝国
アブドゥルハミド2世廃位の後、弟のメフメト5世が即位します。元々青年トルコ党による兄の廃位の元で擁立されたので主導権はありませんでした。

1911年、イタリア王国がオスマン帝国領の北アフリカの現リビアであるトリポニタリアの割譲を求めて“伊土戦争”が勃発し、オスマン帝国は敗退してしまします。

また、伊土戦争でイタリアが東エーゲ海に進出しドカネス諸島とロドス島を占領し、ボスポラス海峡を封鎖してイスタンブールを砲撃したり、トルコ本土周辺で自由に行動したことから、状況を観察していたバルカン諸国にオスマン帝国に対する勝利への自信を与えることとなり、ブルガリアとモンテネグロとセルビアとギリシャはバルカン同盟を結成します。

1912年イタリア海軍によって孤立させられていたバルカン半島のオスマン軍を攻撃し“第一次バルカン戦争”が勃発、敗北したオスマン帝国はヨーロッパ側の領土の大部分を割譲することとなりました。

1914年7月に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ側としてオスマン帝国も参戦します。イギリス・フランス・ロシアの三国協商軍がオスマン帝国に宣戦布告すると、黒海地方のトラブゾンとエルズルムをロシアに、キプロスをイギリスに占領されてしまいます。

1915年、帝国として末期状態だったオスマン帝国軍を軽んじた協商軍・連合軍・アンザック軍がイスタンブールを占領する為に、帝国の主要海峡であるダーダネルス海峡の入口のガリポリへ上陸作戦を行います。
これが有名な“チャナッカレ戦争”ですが、後のトルコ共和国大統領となるムスタファ・ケマルが活躍し連合軍の上陸を阻止し、勝利に導きます。この戦いでムスタファ・ケマルは世界に名を轟かせることとなりました。
またこの戦いで勝利したことに因り、イスタンブールは死守され、帝国の維持に成功することができたのです。

しかし、同盟国の敗勢のなかでオスマン帝国も戦況不利となっていき、その中で1918年7月メフメト5世は心不全の為亡くなります。

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第36代皇帝 メフメト6世 (在位1918~1922)

戦況不利の中1918年7月に即位した弟のメフメト6世ですが、同年10月に連合国に降伏して不条理な“ムドロス休戦協定”を結んでしまいます。これにより、アンタルヤとコンヤをイタリアに、キリキア地方をフランスに、イズミールをギリシャに、そしてイスタンブールを連合国に占領され実質的にオスマン帝国は滅亡状態になってしまいました。

祖国解放戦争とトルコ革命(1919~1923)

アタチュルク
この国の危機に立ち上がったのがムスタファ・ケマルです。
1919年ムスタファ・ケマル・パシャは帝国軍の第9軍監察官(後に第3軍監察官)としてエルズルムに派遣されることになったのを機に、5月16日「バンドゥルマ号」でイスタンブールから出港し、5月19日に黒海地方サムスンに上陸します。この上陸の日が後に「トルコ祖国解放戦争開始記念日」と制定されました。

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そして、ムスタファ・ケマルはアナトリア各地の帝国軍司令官を招集しオスマン帝国領の不分割を求めて「アナトリア権利擁護委員会」を結成し、祖国解放運動の組織化を行ったのです。

1920年4月23日アンカラでムスタファ・ケマルが初代議長となり大国民議会が開かれてアンカラ政府が結成され、祖国解放運動から先鋭的な革命政権が誕生しました。しかし、メフメト6世はこれを認めず、逆賊としてムスタファ・ケマル一派の討伐に乗り出します。

尚、1920年8月に実質列強によるオスマン帝国の解体といえる内容の連合国との講和条約“セーヴル条約”にイスタンブールのオスマン政府が調印してしまい、これにトルコ大国民議会(アンカラ政府)は大反対します。

イズミールを占領していたギリシャは、同年この条約を機にアナトリア内部へ侵攻を始め“希土戦争”が起こりますが、ムスタファ・ケマル率いるアンカラ政府はこれに徹底抗戦し勝利を収め反転攻勢すると、1922年にイズミールを奪還します。これにより連合国はアンカラ政府の実力を認め1923年8月に“ローザンヌ条約”を締結してトルコ共和国の現在の国境が確立しました。

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スルタン制の廃止とオスマン帝国の解体 (1922年11月1日)

アタチュルク
この頃、スルタンのオスマン帝国政府とムスタファ・ケマル率いるアンカラ政府の二重政権状態となっていました。
1922年10月、連合国より条約締結の為にローザンヌへアンカラ政府とオスマン政府両方が招待されますが、二重政府をアンカラ政府に一元化する為、ムスタファ・ケマルの指導するアンカラのトルコ大国民議会は11月1日“スルタン制の廃止”を決議し、最後のスルタンであるメフメト6世は廃位され抵抗することなくマルタ島に亡命することとなり、スルタン制度と共に623年間続いたオスマン帝国は終わりを告げました。

従兄弟のアブドゥルメジト2世がその後カリフの地位を継承しましたが、1923年10月29日にケマル・アタトゥルクが主導するアンカラ政府が「トルコ共和国」を建国した後、政教分離政策によりカリフ制も1924年3月3日に廃止されてしまいました。

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オスマン帝国の宗教と言語

オスマン帝国のパレード

宗教

オスマン帝国の起源であるカユ族はイスラム教を受け入れており、それを継承したオスマン帝国はスンナ派イスラム教国家となりました。
帝国は広範囲を支配していたため、イスラム教を強制することなく、土地により個人の宗教の自由を認めておりましたので、イスラム教を始め正教会、カトリック、アルメニア教会は、ユダヤ教、コプト教、多数の宗教と宗派が存在していました。

首都であるイスタンブールには、正教会筆頭の“コンスタンティノープル総主教庁”も帝国期は元より現在まで存在し続けています。

 
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言語

言語としては、帝国の公用語はオスマン・トルコ語です。 国際的なやり取りでもトルコ語が使われていました。 因みにオスマン帝国で使われていたトルコ語は、テュルク祖語から発生したテュルク諸語の南西語群であるオグズ語群に属すトルコ語です。

地方自治体では、オスマン・トルコ語とその地域の現地語が公務で有効な言語となっていました。 これらの現地語として、アラビア語、アルバニア語、ベルベル語、ボスニア語、ブルガリア語、アルメニア語、ペルシャ語、クロアチア語、クルド語、ハンガリー語、ギリシャ語、ロシア語、セルビア語、その他多くの現地語がありました。

中央政権に関する事項にはトルコ語が使用され、地方に関する事項には現地語が使用されました。また、研究言語としてはトルコ語とアラビア語、文学言語としてはトルコ語とペルシャ語が使われていました。

トルコ語は未知の言葉だと思っている人は多いのではないでしょうか。トルコ語と日本語は同じ言語グループに属した姉妹語です!

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オスマン皇帝専属先鋭軍イェニチェリとは?

イェニチェリ
世界を震えあがらせた最強軍団“イェニチェリ”は、オスマン帝国スルタン直属の近衛部隊です。

イェニチェリは14世紀後半に第3代皇帝ムラト1世が創設しました。最初は征服したキリスト教国の戦争捕虜の奴隷を採用していましたが、その後すぐに帝国領土内、特にバルカン半島から定期的にキリスト教徒の8歳から18歳まで(平均15歳)の才能のありそうな男の子を徴収して英才教育を受けさる“デヴシルメ”と言う制度が生まれました。

この制度により徴収された子は、まず最初にイスラーム教に改宗させられ、トルコ語、イスラム教、オスマン帝国の文化を受け入れて学ぶ為にトルコ人の家族に送られました。その後、彼らはアジェミ・オジャーウと言う訓練所に入り、ここで8〜10年間教育を受けた後、十分に強くなったことが証明されると25歳でイェニチェリの地位を獲得することが出来ました。

因みに、徴収される子として特にギリシャ人とアルバニア人の子供たちが一般的に好まれていたそうです。また征服した国からは外国人の子の5分の1を強制徴収していました。

デヴシルメで徴収された全ての子がイェニチェリになるわけではなく、中でも体格が良く戦いに向いている者がイェニチェリに採用され、容姿端麗・聡明・賢明な者は宮殿に仕える為に採用されていました。
尚、帝国の宮廷侍従や官僚、地方官等の殆どが、このデヴシルメによって採用された者です。

イェニチェリは、皇帝スルタン直属の軍部カプクルの歩兵軍として位置し、遠征中は常にスルタンの周りに陣取り、戦争がない平和な時はイスタンブールを守る役目を負っていました。
また、イェニチェリは結婚・所帯を持つことが禁止されていたため、唯一の忠誠者がスルタンでしたので、この忠誠心がイェニチェリの強さでもありました。
なお、イェニチェリの俸給は高く、免税権やボーナスなど一般よりも経済的に良い地位でしたので、デヴシルメで徴収されて将来安泰となる様にムスリムの家族は息子をキリスト教徒の家族にあずけることも多々あったと言います。

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セリム1世の治世で妻帯が許可されるようになると、第16世紀後半第12代皇帝ムラト3世の時代には妻帯者が多数見受けられ、子供が出来て世襲化するようになり、それにより副業として商業を行い始める物も出てきたり、またイェニチェリはデヴシルメ以外でもイェニチェリに入隊できるようになったことでムスリムであるトルコ人が増え、イェニチェリの腐敗の原因となりました。

その後17世紀末頃に第19代メフメト4世にデヴシルメ制度が廃止されると、その後は力を持ったイェニチェリは反乱を起こすようになり、スルタンを廃位させるまでの脅威となったのです。
16代オスマン2世と18代イブラヒムはイェニチェリにより廃位させられ殺害されたスルタンです。

最精鋭軍として世界を震撼させたイェニチェリですが、18世紀後半になると西洋の近代化した軍に対し時代遅れとなり軍事的衰退を招いていたため、早急な軍改革を必要とし1826年マフムト2世は西洋式新軍団の創立を宣言しイェニチェリを廃止しました。

オスマン帝国軍楽隊メフテル

軍楽隊メフテル
メフテルは、イェニチェリ付属の軍楽隊で世界最古の軍楽隊でもあります。
管楽器に打楽器、シンバルの原型となったズィルなど中央アジアの伝統的なテュルク民族の軍楽と伝統的なアナトリアの音楽が合わさった勇ましい演奏は、遠征の際イェニチェリを鼓舞し、また敵を大いに威嚇しました。

西洋の音楽にも大いに影響し、メフテルを真似して西洋諸国も軍楽隊・ブラスバンドを持つようになりました。また、あのベートーヴェンやモーツァルトなどの作曲家達も影響を受け、こぞってメフテルの旋律を意識した有名な「トルコ行進曲」を作曲したのです。

1826年のイェニチェリの廃止と共にメフテルも廃止されましたが、1908年に復活しました。現在では、イスタンブール新市街の軍事博物館でメフテル軍楽隊の演奏を観賞する事ができます。

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オスマン帝国版大奥!トプカプ宮殿ハレムの世界

ハレム
スルタンの親族の女性やスルタンに仕える女性達がスルタン以外の男性と出会うことなく生活する後宮であるハレムは、いわゆるオスマン帝国版大奥です。
男子禁制の不可侵で神聖な守られた場所でありましたが、華やか暮らしと裏腹に女性たちが生きていくための権力闘争の場でもありました。

ハレムは、スルタンの私的生活の場所であり、スルタンの家族、母、姉妹、正室、夫人、側室、女性奴隷と宦官が住んでおり、ハレムはスルタンの母、母后・皇太后である“Valide Sultan(ヴァリデ・スルタン)”が仕切ることで秩序が守られていました。皇太后がいない場合は、皇太子の母がこの地位にありました。

ハレムは、スルタン、皇子、および国家の高官へ妃と側室を提供する場でもありました。これは力を持った帝国となり皇帝や皇子たちが他の王朝から娶る事を辞めたので、オスマン王朝の世継ぎ継続のために非常に重要で不可欠な機能でした。

また、ハレムは女性奴隷を教育する学校機関でもありました。女性奴隷は侍女になるためまた皇帝の元へ上がり寵愛を受ける為に教育・教育を受けたのです。
侍女には下から“アジェミ”“カルファ”“ウスタ”の3段階の位があり、アジェミはカルファから7~9年間程教育を受けた後、カルファの地位に就く者、又は資金を貰うか結婚させられて宮殿から立ち退かされる者とがありました。

この様に皇帝へ使えるだけでなく、高等教育機関エンデルンと言う宮廷内学校を卒業したデヴシルメの若者達と宮殿で教育を受けた女性奴隷を結婚させることで皇帝とオスマン家直属の忠実なエリート貴族・高官を作り出していました。

第7代皇帝ファーティ・スルタン・メフメトの治世に制度化され、平均400人、最大の時で1600人の女性が住んでいたと言います。トプカプ宮殿のハレムには400以上の部屋が存在しました。

ハレムは男性禁制でしたので、男性医師さえも入れず、白人宦官と黒人宦官と言う2グループの宦官が存在しました。

ハレムの女性は下剋上!

トルコ美術 ハレム
実は歴代のスルタンは、力を持ち政略結婚をする必要が亡くなったのも有り、皇后になる女性の身分を特に気にすることは無かった為、ギリシャやブルガリア出身のクリスチャンや、女性奴隷から皇后になった者も多くいます。また、美しい女性が多いと有名なコーカサス出身の多くの女性が奴隷としてハレムに集められていました。

スルタンの御手付きとなると私室が与えられ、より寵愛を受け寵姫となると“ハセキ(Haseki)”=側室の地位となり、男の子を出産すると“ハセキ・スルタン”となることができます。

歴史ドラマ『オスマン帝国外伝』でも有名な魔性の女ヒュッレム

オスマン帝国のハレム女性を代表する人と言えば、日本でも近年人気のトルコ大河ドラマ『オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜』で有名な、第10代皇帝スレイマン大帝の妃ヒュッレムスルタンではないでしょうか。

彼女は、ウクライナのルテニア地方の貧しい正教会司祭の娘でしたが、1520年15歳位の時に村を略奪したクリミア・タタール人に捕えられて奴隷としてイスタンブールへ売られ、奴隷市場でスレイマン1世の大宰相イブラヒム・パシャに買われた後、スレイマン1世に献上されたと言われています。

賢く策士でなりふり構わない手段でスレイマン1世の寵愛を受け、奴隷から最終的には第1夫人、そして息子セリム2世が第11代スルタンとなることで母后“Valide Sultan(ヴァリデ・スルタン)”の地位にまで登り着き、その上ハレムを取り仕切り女性が帝国の政治にまで関与する“カドゥンラル・スルタナトゥ”=「女人政治(女人天下)」言う時代を始めた女性でもあります。

因みに、スルタンが死去するとハレムの女性達も入れ替えとなり、死去したスルタンの女性達はハレムから退き、離宮へ移って余生を静かに送らなければなりませんでした。
なお、前スルタンの側室の中で妊娠している者は、その子が皇位争いの対抗者とならない様に、その側室を袋に入れてボスポラス海峡に沈めた事例もあると言います。

1853年に皇帝の宮殿がトプカプ宮殿からドルマバフチェ宮殿に移行した際も、ドルマバフチェ宮殿にはトプカプ宮殿と同規模のハレムが作られ、1922年に帝国が滅亡するまで継続していました。

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オスマン家の現在|帝国滅亡後はどうなった?

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最後のスルタン第36代メフメト6世は廃位後にマルタへ亡命し、そこからメッカ、そしてイタリアに渡りその地で亡くなりました。
1924年にカリフ制が廃止された際、オスマン家は全員トルコからの国外退去を命ぜられ追放されましたが、実はオスマン家の血統はトルコ国外の欧米やダマスカスなどに渡った後、それぞれ移住した地において男系年長者が帝位継承者として家長の座を継承し続け、現在でもオスマン家当主が存在しているのです。

最後のカリフ第37代アブデュルメジト2世は廃位と共にパリに亡命し、その地で1944年に亡くなりましたが、その後33代スルタンであったムラト5世の孫のアフメト・ニハットが当主となり、オスマン家が存続しました。2021年現在は第34代皇帝アブデュルハミト2世の曾孫であるハルーン・オスマンオールが第46代オスマン家当主を務めております。

国外追放されていたオスマン家ですが、1974年にオスマン家追放法が廃止されると、オスマン家血統の何人かの人たちがイスタンブールに戻りましたが、オスマン家当主としてイスタンブールに帰還したのは、第43代家長のエルトゥールルと第45代家長のデュンダル・アリ・オスマンのみです。
因みに、2021年1月に家長となった現在のハルーン・オスマンオールは、オスマン家追放法廃止時の1974年に生まれ育ったダマスカスからイスタンブールに帰還して居を構えています。

 
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