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シルクロードとは?東西の歴史と文化をつないだ交易ルートとおすすめ観光名所

シルクロードのイメージとして、険しい山を越え、砂漠をラクダで移動し、オアシスの町を訪れて途方もない距離を移動するといった映像が頭に浮かぶ人が多いかと思います。また、エキゾチックな異文化や砂漠の夕日と満天の星空といったロマンチックな言葉が頭に浮かぶ人もいらっしゃるのではないでしょうか?

ここでは、知っているようで知らないシルクロードの基礎知識や歴史に与えた多大な影響、現在も残る人気観光名所などを徹底解説します。

シルクロードとは?

シルクロード
シルクロードとは中央アジアを東西に横断する古代の交易路のことです。19世紀にドイツ人地理学者リヒトホーフェンが作った言葉で、その後、リヒトホーフェンの弟子でスウェーデン人地理学者ヘディンの本によって世界中に広く知れ渡りました。

紀元前2世紀から18世紀の間に東西の多くの交易品や文化などが行き来し、その歴史的価値からシルクロードの一部区間が、2014年に「シルクロード長安―天山回廊の交易路網」として世界遺産に登録されました。

シルクロードで運ばれたもの(交易品)

シルクロード

主な交易品は絹(シルク)

シルクロードの主な交易品は、その名の通り中国で作られた絹製品で、当時非常に貴重だった絹製品を求め遥か遠方のローマ、西アジア、インドなどから商人たちが中国にやってきました。この交易はやがて絹製品だけではなく、シルクの生糸や染色などの技術の取引に発展し、世界中で絹産業が発展をしていきました。

さまざまな物品や文化、宗教、疫病がシルクロードを伝って世界に広がった

絹製品以外にも、キリスト教や仏教などの宗教、金や宝石などの貴金属、火薬、製鉄や製紙技術、絨毯などの毛織物、香辛料や野菜や果物、陶器や絵画の技法など、幅広い物や文化がシルクロードを通じて東西で往来をしました。

日本には遣唐使を通じて、ペルシャ製のガラス製品などが入って来るようになり、奈良の正倉院に収められています。また、正倉院の宝物の多くは日本製ですが、多くの収蔵品のデザインなどに西アジアやペルシャの影響を見ることが出来ます。

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東西の経済的・文化的な交易以外にも、病気の流行がシルクロードを経由して世界中にもたらされました。ペストの第二次パンデミックは、1331年に中国大陸で発生し、その後、中東、ヨーロッパ、北アフリカに拡散をしたと言われています。ヨーロッパでの流行は17世紀ごろまで断続的に続き、世界中で多くの死者が出ました。

シルクロードはどこからどこまで?

シルクロードという言葉を聞いたことがある人は多いと思いますが、どのようなルートであるかをご存じの人はどれほどいらっしゃるでしょうか?

シルクロードの東西の正確な終着地点は明確に決まっておりませんが、一般的に中国の長安(現在の西安)からローマを結んでいた交易路の名称として使われます。ただし長安から北京を通り、朝鮮半島を経由し、日本に西洋の交易品や文化が入っているため東の終着点を日本とする説もあります。

シルクロードを構成する7つの交易ルート

一般的にシルクロードのルートとしては、河西回廊・天山北路・天山南路・西域南道の4つが挙げられます。しかし、シルクロードを中国とローマを結ぶ交易路と考えるなら、その途中にあるアラブ地域やヨーロッパにおける交易路も広義のシルクロードと言えるでしょう。

河西回廊 西安~蘭州~武威~張掖~酒泉~敦煌
天山北路 ハミ~トルファン~ウルムチ~イーニン~アルマトイ~サマルカンド
天山南路 コルラ~クチャ~カシュガル
西域南道 ミーラン~チャルチャン~ニヤ~ホータン
ホラーサーン街道 パミール高原~バクトラ~ヘラート~ブハラ~メルヴ
アラブ地域のシルクロード マシュハド~シャフレ・レイ~バグダッド~パルミラ
ヨーロッパのシルクロード アレッポ~アンティオキア~アンゴラ(アンカラ)~コンスタンティノープル
ローマに至るシルクロード アテネ~地中海~ローマ(海路)、ウィーン~ヴェネツィア~ローマ(陸路)

以下で、シルクロードの具体的な交易路とルート沿いの都市の観光情報を解説します。長い年月の間、東西貿易の重要な交易路として開拓をされた道と、多くの商人たちが立ち寄り発展をしたオアシス都市には、現在でも観光客が多く訪れる見どころがたくさん詰まっています。

河西回廊(シルクロード東端の出発地)

中国の西安を出発地点とし、西に向かい蘭州で黄河を渡り、敦煌までの1000キロの道です。南の祁連(きれん)山脈と北のゴビ砂漠に挟まれたこの地域は中国歴代王朝と遊牧民族との支配権争いが繰り広げられていましたが、前漢の武帝が紀元前121年に遊牧民族を倒し、武威、張掖、酒泉、敦煌の河西四郡が置かれました。これによって西側地域との交易がより活発になり、シルクロードが本格的に開通したと言われます。

西安(シーアン)|世界遺産の兵馬俑

シーアン
かつては長安と呼ばれており、紀元前11世紀ごろから10世紀初頭まで13の王朝の王都として栄えました。シルクロードの東の拠点の町です。シルクロードを通り西域諸国の文化や宗教などが西安に届き、それらが7世紀~9世紀にかけての遣唐使や遣隋使を通じて日本にもたらされました。

紀元前3世紀ごろに作られた秦始皇帝陵と墓を守る兵馬俑は1987年に世界遺産に登録をされました。大慈恩寺にある西遊記で有名な三蔵法師がインドから持ち帰った経典が収められている64メートルの大雁塔、明の時代に作られた西安市内を取り囲む城壁や、市内中心地にある鐘鼓楼広場などの見所があります。

蘭州(ランシュウ)

ランシュウ
甘粛省の省都である蘭州はかつて金城と呼ばれており、581年に蘭州総督府が置かれ以来、蘭州と呼ばれるようになりました。市内に黄河が東西20キロにわたり流れるシルクロードの交通の要衝です。漢族に次いでイスラム教徒の回族が多く住んでいます。

郊外にある炳霊寺石窟は紀元前5世紀頃から、8つの王朝時代約1000年の間、掘り作られました。約180以上の岩窟に仏像や仏画があり、中には27メートルの巨大な弥勒大仏象もあります。アクセスはダム湖の港からのボートでのみとなります。

武威(ブイ)

武威
かつて涼州と呼ばれており、河西回廊四郡の中では一番東に位置しています。漢の武帝によって作られた歴史ある町です。

町のシンボルであるブロンズの馬の象は馬踏飛燕と呼ばれ、漢時代の将軍の墓である雷台漢墓という高台の下から大量の銅馬車と共に出土をしました。馬踏飛燕はかつて漢の武帝が渇望をした汗血馬がモデルと言われています。オリジナルは甘粛省博物館にありますが、町中で馬踏飛燕のレプリカを見ることが出来ます。

張掖(チョウエキ)|東洋のグランドキャニオン

張掖
水が豊富で土壌が良いため古くから「金の張掖」と呼ばれていました。ゴビ砂漠の東端にあり、かつて砂漠を越えてきたマルコポーロが元の皇帝に謁見するまでの1年間を過ごしました。

郊外にある張掖丹霞地貌は東洋のグランドキャニオンと呼ばれ、赤い岩が形成する縞模様の地層を見ることが出来ます。他にはマルコポーロが東方見聞録に記載をしている大仏寺の巨大な釈迦涅槃像が有名です。

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酒泉(シュセン)

シルクロード
都市の名前の由来にはおもしろい逸話があります。漢の武将がこの地を支配していた遊牧民族を大勝利で倒した際に漢の武帝が褒美として酒を送りました。しかし兵士全員には足りない量だったため、酒を泉に注ぎ込み全員で飲んだという故事に由来します。言い伝えの泉は現在、市街の2キロほどにある酒泉公園で見ることが出来ます。

鐘鼓楼は町の中心にあり、東西南北に門があるシルクロードの交差路の象徴的建物です。郊外にある丁家閘壁画墓は4~5世紀ごろの領主の墓で、墓室の壁には当時の生活様式や楽隊などが色鮮やかに描かれています。

敦煌(トンコウ)|シルクロードの重要な分岐点

敦煌
甘粛省北西部にあるシルクロードの分岐点として栄えた都市です。河西回廊の一番西にあり、中国と西域との玄関口となっていました。中国、インド、ギリシャ、イスラムなどの文化が集まる都市でエキゾチックな風情があります。

莫高窟は近郊にある仏教遺跡で、4世紀から約1000年間掘り続けられました。600近くの石窟があり、多くは塑像が安置され壁画が描かれており世界最大の仏教美術となっています。14世紀以降は敦煌の衰退と共に忘れ去られた場所となっていたが、1900年に大量の敦煌文書が発見されてから再び脚光を浴びるようになりました。

現在はごく一部の石窟を見学することが出来ます。他には郊外に玉門関や陽関などのシルクロードの関所の遺跡があり、また鳴砂山と呼ばれる砂漠やそこにある月牙泉と呼ばれる三日月型の池が名所となっています。

天山北路(シルクロードの中で比較的容易なルート)

シルクロード
敦煌または敦煌の東にある安西という都市から北上し、ハミ、トルファン、ウルムチを経由して天山山脈の北麗沿いにカザフスタンのアルマトイからウズベキスタンのサマルカンドに至るルートです。

哈密(ハミ)|西域の防衛拠点

新疆ウイグル自治区東部のオアシス都市で、17世紀から約200年にわたりハミ王族が統治をしていました。ウイグル語ではクルムと呼ばれます。町中にモスクがあり、ウイグル文化の影響が強い都市です。

イスラム建築のハミ王の墓や、アラブからイスラム教を広めにこの地にやってきたケイスの墓があります。ケイスの墓は緑のタイルに覆われたドーム型の屋根を持ち、聖人墓と称されています。ハミの周辺には多くの烽火台があります。烽火台は狼煙をあげることで、交易路の危険を一早く知らせるための西域の防衛拠点でした。

吐魯番(トルファン)|西遊記にも登場した火焔山

トルファン
新疆ウイグル自治区の天山山脈の麓にある都市です。盆地の為、夏の暑さが非常に厳しく50℃近くになる場合もあります。また美味しい葡萄の産地としても有名で、郊外には葡萄農家が点在をしています。

西遊記で孫悟空が燃え上がる火を消した火焔山は、夏に陽炎によって燃え上がる炎のように見えることからその名がつきました。ベゼクリク千仏洞は火焔山の横の断崖にあり、6世紀から14世紀にかけて掘られた石窟寺院です。現在は一部残っている壁画などが見学可能です。

交河故城は紀元前2世紀に建築をされた都市遺跡で、川に囲まれた高台に作られており、辺境防衛の役目とともに政治の中心の場所でした。土で作られているため多くが崩れ落ちており、残った遺構を見ることが出来ます。

烏魯木斉(ウルムチ)|新疆ウイグル自治区の首府

ウルムチ
新疆ウイグル自治区の首府で中国西部最大の都市です。美しい牧場という名を持つジュンガル盆地にある高原の町で、現在は漢民族やモンゴル族など多くの民族が住んでいる大都会です。街中に高さ301メートルの中信銀行ビルなどの大きなビルが立ち並びます。

市内の新疆ウイグル自治区博物館には、楼蘭の美女と呼ばれる女性のミイラが展示をされています。紅山公園は海抜910メートルの紅山を中心に整備されており、山頂には鎮龍宝塔というレンガ造りの塔が建っています。また山頂からは市内を一望することが出来ます。

天池はボゴダ山脈の中腹1980メートルにある氷河湖の事で、青い湖に雪化粧のボゴダ山を背景に見ることが出来る景勝地です。春から秋にかけて国内外の観光客が多く訪れます。

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伊寧(イーニン)

天山山脈の南西側に位置し、カザフスタン共和国から約50㎞の場所にあるイリ・カザフ自治州の首府です。ウイグル語ではグルジャと呼ばれます。中央アジアのイリ地方の中心にあり、天山山脈から流れるイリ大河の水資源により農業や工業が発達しています。

清の時代にはイリ将軍の駐屯地が置かれ、現在はイリ将軍府の遺跡が残ります。また、イリ九城の内、恵遠古城の鐘鼓楼が修復をされており街中で見ることが出来ます。

アルマトイ

アルマトイ
カザフスタンのアルマトイがシルクロードの交易地として、最も栄えたのは10世紀~14世紀の間です。この期間に多くの交易者によって東西の手工業技術や農業技術などが入り、町が発展をしました。

市内中心部にあるカザフスタン国立中央博物館ではカザフスタンの歴史や文化や自然を学ぶことが出来ます。町から180キロ離れたタムガリ渓谷には紀元前14世紀ごろに描かれた岩絵が5000点以上残されています。

サマルカンド|シルクロードの交差点となった青の都

サマルカンド
ウズベキスタンのサマルカンドはシルクロードの交差点と呼ばれています。712年にウマイヤ朝のアラブ連合軍に支配をされイスラム圏となりました。その後アッバース朝と唐の間で中央アジアの覇権をめぐってタラス河畔の戦いが起き、唐の軍隊を退けることに成功しました。

その際に唐の捕虜に製紙技術者がおり、サマルカンドに製紙工業が建設され、イスラム圏に製紙技術が伝わりました。その後1220年にモンゴル軍によって、町は徹底的に破壊をされましたが、14世紀ごろからティムール朝の首都として繁栄しました。ペルシャの青色顔料と中国の陶器によって作り出された青色タイルが建築に使われ、青の都と呼ばれるようになりました。

イマム・アル・ブハーリ廟は9世紀のイスラム教神学者の墓廟で、ウズベキスタン内にあるイスラム教徒の巡礼地として重要な場所です。ジョブバザールは2000年以上の歴史があると言われ、現在でも多くの野菜やパンなどが売られ、とても活気に満ちています。

天山南路(三蔵法師がインドへ向かう際に通った道)

ハミ、トルファンまでは天山北路と同じルートで進み、トルファンから天山山脈の南麓沿いにコルラ、クチャを経て西のカシュガルへ続くルートです。紀元前から隊商の交易路として使われていました。

庫尓勒(コルラ)|シルクロードのオアシス都市

コルラ

Rolfmueller, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

町の南にはタクラマカン砂漠が広がっており、孔雀河やタリム河が町内を流れているためシルクロードのオアシス都市として栄えました。近年はタリム盆地の油田の開発が進められています。

シルクロード時代に通行をする人をチェックするための鉄門関という関所があり、川と崖に挟まれている交通の難所にある関所は、その名の通り堅牢なたたずまいをしています。建物の中には武器などの展示物があります。

庫車(クチャ)|貴重な仏教遺跡が数多く見られる

キジル石窟

Rolfmueller, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

12世紀ごろまで亀茲(きじ・きゅうし)王国が栄えていました。亀茲を巡り遊牧民国家と漢などの中国王朝が支配権争いを繰り広げ、次第に衰退をしていきました。大きな仏教都市であったため20世紀ごろに仏教遺跡が多く発掘され、現在のクチャは多くの観光客が訪れています。

ウイグル語で赤いと言う意味のキジル石窟は、赤い岩肌に200を超える石窟が3世紀から8世紀の間に掘られました。石窟の仏教壁画は破壊されているのも多くあり、保存修復作業が進められています。スバシ故城は7世紀から10世紀に栄えたと言われる仏教寺院です。

クチャ川の両側に東寺と西寺がありましたが、現在はほとんどの遺構は壊れてしまっており当時の栄華を見ることは出来ません。高さ約13メートルのクズルガハ烽火台は約2000年前に作られ、煙をあげることで情報を伝達するために使われました。

喀什(カシュガル)|エイティガールモスクを擁するイスラム都市

エイティガールモスク

David Stanley from Nanaimo, Canada, CC BY 2.0 , via Wikimedia Commons

タクラマカン砂漠の西の端に位置をし、かつては疏勒(しょろく・そろく)国の首都でした。以前は仏教が盛んでしたが、10世紀ごろからウイグル人がこの地域に多く入り、ウイグル人の都市となったためイスラム化が進みました。

1400年中ごろに建てられた新疆ウイグル地区最大のモスクであるエイティガールモスクがあり、毎日約2000人の教徒が礼拝に訪れます。郊外のパミール高原に海抜3600メートルにあるカラクリ湖があり、7000メートル級の雪化粧をした山を背景に湖を見ることが出来ます。

西域南道(シルクロード最古の道の一つ)

シルクロード
天山山脈の南に位置しているタクラマカン砂漠の南側のオアシスを巡ってカシュガルへ向かうルートです。敦煌を出発し南に向かい、アクサイを過ぎてから南西に進路を取り、ミーラン、チャルクリク、チャルチャン、ニヤ、ホータンを経由し、北西に向かいカシュガルへ到達をします。

西遊記で有名な三蔵法師が7世紀にインドから帰る際に西域南道で東に向かい(その際は楼蘭(ロウラン)を経由)、13世紀にはマルコポーロが元に向かう際にカシュガルから敦煌までこのルートを使いました。

米蘭(ミーラン)|西域南道の中心として栄えた古代都市

かつて存在をしたロブノール湖とアルチン山脈に囲まれた場所にあり、ロブノール湖が干上がり4世紀頃に衰退をしたロウランとは異なり、アルチン山脈の水源のおかげで西域南道の中心として栄えました。

現在は廃墟となったミーラン遺跡の仏教寺院の壁画からは、古代ローマ時代の影響を受けた「翼のある天使象」が発見をされました。城郭や住居跡などが現在も残されています。

且末(チャルチャン)|150基以上の墓があるザグンルク古墳

マルコポーロ
マルコポーロが東方見聞録の中で記述をしているオアシス都市です。ムスターグ山を源流とするチャルチャン川が流れ、かつて西域三十六国のうちの一つの且末国(しょまつこく)がありました。

チャルチャン

John Hill, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons

郊外のゴビ砂漠には150基以上の墓があるザグンルク古墳があります。古墳からはミイラや陶器やシルクなどの文化財が1000点近く出土しています。地主荘園はウイグル族の地主の家を観光客用に改装しており、暮らしぶりを見学することが出来ます。

民農(ニヤ)|未だ謎に包まれた古代遺跡



タクラマカン砂漠の南端に位置をしていた都市です。紀元前1世紀ごろから3世紀ごろまで栄えたが、その後都市は放棄をされ、砂漠に埋もれました。放棄をされた理由は諸説あり未だに謎が多い遺跡です。

ニヤ遺跡からは寺院、墓地、住居、貯水池、畑など当時の生活を知ることが出来る遺構が出土しています。また、現在のパキスタンとアフガニスタンの一部地域で使われていたカローシュティー文字で書かれた木簡が発見され、滅亡した楼蘭王国の解明調査が進みました。墓から出土をした「五星出東方利中国」と刺繍された錦の肘あては国宝となっています。

和田(ホータン)|東方見聞録で紹介されたヒスイの産地

シルクロード
マルコポーロが東方見聞録の中で、玉(ぎょく)と呼ばれたヒスイの産地として紹介をしています。他にアトラスの絹と呼ばれる絹織物や陶磁器などを西域諸国に輸出をしていました。町の名前のホータンはウイグル語で玉の町という意味です。

ホータン王国は大乗仏教の中心地で多くの寺院がありましたが、11世紀初めにイスラム国家の支配を受け、多くの寺院や仏像が破壊され、ホータンの人々はイスラム教徒となりました。

養蚕は中国の王女がホータン王に嫁いだ時に、帽子に蚕の卵と餌の桑の種を隠して持ち込みホータンで養蚕が広まったと言われています。その後、蚕の卵はペルシャに秘密に持ち出され、ペルシャからコンスタンティノープルに伝わりました。現在でもホータン玉や絨毯などの織物が主要産業となっています。

ホラーサーン街道(太陽の登るところを意味するイラン東部地域)

天山南路と西域南道はカシュガルからパミール高原を抜けて、バクトラとヘラートを過ぎてマシュハドを目指します。天山北路はサマルカンドからブハラとメルヴを経由し、マシュハドへと到達をします。北東イランと南トルクメニスタンアフガニスタンを合わせた地域はシルクロードの時代にホラーサーンと呼ばれていました。

そのためこの地域を通過する道はホラーサーン街道という名称がついていました。古くは北方の遊牧民族がイランやインドに向かう際に使われ、その後、シルクロードの東西交易の際に使われる東西南北の交通の要所でした。

パミール高原

パミール高原
タクラマカン砂漠とカシュガルを抜けて西に向かう際に通る標高5000メートルの高原です。天山山脈、崑崙山脈、カラコルム山脈、ヒマラヤ山脈が伸びており、「世界の屋根」と呼ばれています。標高が高く気温が低く、人や動植物がほとんどいないためシルクロード最大の難所の一つです。

バクトラ

現在のアフガニスタンのバルフ州の周辺に存在していたバクトリア王国の都市とされています。紀元前328年にアレクサンドロス大王によって征服され、大王の死後にこの地に残ったギリシャ人により建国をされました。

その後、遊牧民族やイラン王朝やアラブ軍に支配をされ、13世紀前半にチンギスカン率いるモンゴル軍により宮殿などが破壊されました。度重なる戦乱により仏教寺院やモスクや城壁などは廃墟となっており、現在はごく一部の史跡を見ることが出来ます。

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アレキサンダー大王

ヘラート|ホラーサーンの真珠と呼ばれたオアシス都市

ヘラート
ハリ・ルド川の豊かな土壌に築かれたオアシス都市です。中央アジアと西アジアを結ぶ重要な交易路にあり、紀元前より繁栄をし、ホラーサーンの真珠と言われました。イスラム王朝時代にモンゴル軍により徹底的に破壊されましたが、イラン系の豪族によって復興をしティムール朝の首都として栄えたが、その後度重なる覇権争いで衰退をしていきました。

ヘラート城壁は、紀元前4世紀にアレキサンダー大王によって建築され、いくつもの争乱を乗り越え、現在でも見ることが出来ます。ガワハールシャドの霊廟はティムール朝の君主シャー・ルフの妻のために建てられました。アーチ状のドームと装飾はティムール時代の特徴が表れています。

ブハラ|世界遺産となっている歴史地区

ブハラ
200キロ東にあるサマルカンドと共にイラン・中央アジア地域で古代より最も重要な都市のひとつです。8世紀ごろからイスラム国家の勢力下に置かれ商業都市として市街地が大きく発展をしました。

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カラーンミナレットは世界遺産の歴史地区にあるブハラの象徴です。かつては夜にミナレットに明かりが灯され交易人の目印になっていました。モンゴル帝国に征服された際にミナレットの素晴らしさに感動をしたチンギスカンがミナレットを破壊しないように命令をしたという話があり、当時の姿で現代に残っています。

イスマーイール・サーマーニー廟は9世紀末に繫栄をしたサーマーン朝の王族の墓です。中央アジア最古のイスラム建築で約50年の歳月をかけて完成をしました。

メルヴ|トルクメニスタン初の世界遺産

11世紀~12世紀の最盛期の人口は100万人と言われ、中央アジア屈指のオアシス都市です。1世紀ごろに仏教が伝わり、シルクロードを通って中国に仏教が伝わったと言われています。現在は遺跡となっておりトルクメニスタンのカラクム砂漠にあります。メルヴ遺跡はトルクメニスタン初の世界遺産に登録をされました。

紀元前2世紀ごろのレンガ製の城壁であるエルク・カラや、最盛期セルジューク朝のスルタン・サンジャルの霊廟が今も残ります。スルタン・サンジャルの霊廟はモンゴル軍の襲撃や自然災害などに耐え、当時の建築技術の高さをうかがい知ることが出来ます。

アラブ地域のシルクロード(マシュハド~パルミラ)

シルクロード
マシュハドからペルシャ北部のイラン高原のテヘラン、バグダッドと西に進み、やや北西に進路を取りパルミラへと到着をします。この地域は日本とも関りが深く、7世紀頃にペルシャ人がシルクロードを通り日本に来たという記述があります。また、奈良の正倉院にはペルシャの美術工芸品が収められています。

マシュハド|多くの巡礼者が集う「殉教の地」

マシュハド
マシュハドの名前の由来は、9世紀に第8代シーア派最高指導者のリザーがこの街で亡くなり埋葬をされたことで、アラビア語の「殉教の地」の意味から付けられました。それより以前は小さな村でしたが、イマーム・リダー廟が建設されてからシーア派の巡礼地となり大きく発展しました。現在はイラン第二の都市となっており、毎年多くの観光客と巡礼者が訪れます。

イマーム・リダー廟

CC BY 3.0 , via Wikimedia Commons

イマーム・リダー廟は、青いドームと青いタイルによる装飾が美しく、夜にライトアップをされます。シーア派の聖地となっていますが、イスラム教徒以外でも中に入ることが可能です。市内にあるナーディル・シャー廟は短期間でトルコ、中央アジア、インドを支配し、ペルシャのナポレオンや英雄と呼ばれたナーディル・シャーを祭った墓廟です。博物館が隣接しており、当時の武器などが展示をされています。

シャフレ・レイ|シーア派の巡礼地

イランの首都テヘランから南に約10キロにあり、紀元前より長い期間テヘランよりも栄えていました。中世では「ライイ」や「レイ」などと呼ばれました。かつてはゾロアスター教が栄えていましたが、9世紀頃からイスラム教が定着しました。その後、シーア派2代目イマーム・ハサンの末裔のアブドルアズィームがこの街で亡くなってからは、シーア派の巡礼地となりました。

シャー・アブドルアズィームの聖廟は、歴代の王朝によって増改築をされ、現在は金色のドームと豪華で荘厳な内装の建物となっています。予言者ムハンマドのひ孫のアリー・ザイヌルアービディーンの子孫の聖廟など、他の著名人の棺も納められています。

トゥグルルタワーはセルジューク朝に作られた高さ20メートルの塔です。塔には24個の角が作られており、塔に日の光が当たる角の位置で時間を知らせる日時計のような役割があったと言われています。他には拝火教寺院跡古代の城壁を背景にするアリーの泉などがあります。

バグダッド|シルクロード交易で繁栄した当時の世界最大都市

バグダッド
イラク最大の都市でイラクの首都です。750年にアッバース朝によって建設をされ、9世紀後半の最盛期には人口150万人となり当時の世界最大都市でした。商業が発達していたバグダッドにはシルクロード交易により、中国の陶磁器や絹織物、インドの香辛料、アフリカの金などが集まり市場で世界中の商品の取引がされていました。しかし内乱や自然災害などで次第に衰退をし、1258年にモンゴル軍の侵攻によってアッバース朝は滅亡しました。

ムスタンシリーヤ学院は1227年に作られた高等教育機関で、薬学、数学、哲学、イスラム教などが教えられていました。現在は博物館として使われています。建物は2階建ての長方形で中庭に池があるイスラム建築です。エントランスホールには水力で動く時計があり、お祈りの時間を知らせていました。

イラク博物館にはメソポタミア文明、ペルシャ帝国、イスラム王朝時代の遺物が所蔵されています。イラク戦争時の2003年4月10日~12日の間に1万5000点の所蔵品が略奪をされ、現在も5000点ほどは行方が分かっていません。

「メソポタミア」は古代文明発祥の地|肥沃な三日月地帯 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

パルミラ|地中海・ペルシャ地域・アフリカ交易の分岐点

パルミラ
パルミラは古代にタモドルと呼ばれており、シリア中央部のシリア砂漠に位置し、北と西から流れる川の扇状地のオアシス都市でした。地中海沿岸とペルシャ地域の間にあるシリア砂漠を横断する交易商にとって重要な都市となっており、紀元前1世紀~3世紀の間に最も繁栄をしました。

また、シリアのダマスカスを経由してアフリカ大陸のエジプトカイロへの交易路の分岐点でもありました。ローマ帝国の属州となっていたため神殿や円形劇場や浴場などのローマ時代の建築がありましたが、シリア内戦によって多くの遺跡が破壊をされました。現在は貴重な遺跡の修復計画が進められています。

ヨーロッパへのシルクロード|(アレッポからコンスタンティンノープルへ

アヤソフィア
パルミラから北上をし、アレッポを目指します。アレッポから地中海に向かえば、東ローマ帝国のアンティオキアに到着をし、中国の西安から続くシルクロードは一度終点を迎えます。その後、陸路で北西に向かい東ローマ帝国の首都だったコンスタンティンノープルまでのルートの紹介です。

アレッポ|東西南北の交易の要衝であったシリア最古の都市の一つ

アレッポ
トルコ国境に近いシリア北部にあり、首都ダマスカスに次ぐシリア第2の都市です。シリアで最も古い都市の一つで、紀元前2000年ごろから人々が住み始めたと言われています。東西南北の交通の要衝に位置するアレッポは交易で栄えた商業都市でしたが、地理的重要性ゆえに幾度も支配権争いが起きました。

そのため町にはギリシャ、ペルシャ、ローマ、イスラムなど様々な様式の文化や建物が、城壁に囲まれた旧市街地区に残されていました。しかしシリア内戦により、2012年に世界最大規模と言われたスーク(市場)の大半が火災で消失をし、旧市街の中心にあり中世の要塞であるアレッポ城も砲撃などにより大きな損傷を負いました。

アンティオキア|現在のトルコのアンタキア

アンティオキア
セレウコス朝のニカノールが父親のアンティオキアの名前を都市に付け、各地に存在をした都市の内の1つです。最盛期には、ローマ、アレクサンドリアに次ぐローマ帝国第3の都市として栄えました。シルクロードを通り中国から運ばれた交易品がこの街から地中海沿岸の国に運ばれていきました。

現在はトルコのハタイ県にあり、アンタキアと呼ばれています。526年に起きた地震で壊滅的な被害を受け、また東ローマ帝国とイスラム帝国が支配権を争い、長い間にわたり両国より攻撃をされたため、歴史のある都市にも関わらず遺跡はほとんど残っていません。

アンティオキア | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

アンゴラ(アンカラ)|現在のトルコの首都

アンカラ
トルコ共和国の首都であるアンカラは、紀元前2世紀にローマ帝国に占領をされ、アンゴラと呼ばれるようになりました。ローマ式の劇場や浴場や神殿が建設をされ、またイスラム勢力に対抗する軍事拠点となったため城壁が築かれました。

しかしイスラム勢力から度々攻撃を受け、11世紀にイスラム教徒のセルジューク朝が支配をし、現在のアンカラに名称が変更となりました。その後、十字軍やイスラム国家やモンゴルが支配権を争いますが、14世紀にオスマン帝国が占領をしてから帝国の地方都市となり、第一次世界大戦後にオスマン帝国が解体され、1923年にアンカラを首都としてトルコ共和国が樹立されました。

首都機能が移行したことにより、人口が増え、経済活動が活発になり、現在はイスタンブールに次ぐトルコ第2の都市となっています。

丘の上にガラティア人が築いたとされる砦にローマ帝国時代に城壁を作りアンカラ城となり、その後、歴代王朝により増改築が繰り返されてきました。城壁は内と外の2重に作られており、城壁内には伝統的な建造物が今でも残されています。

アウグストゥス神殿はアンカラの旧市街にあり、初代ローマ皇帝を祭る神殿です。アウグストゥスの生涯の功績がラテン語とギリシャ語で壁一面に刻まれたアンキューラ記念碑は非常に重要な史料です。ローマ浴場跡は3世紀にカラカラ帝が作った浴場で、広い敷地に脱衣所、冷浴室、微温浴室、高温浴室などの遺跡を見ることが出来ます。

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コンスタンティノープル|東ローマ帝国とオスマン帝国の首都

イスタンブール
現在のトルコ共和国のイスタンブールです。コンスタンティノープルは330年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって作られ、1453年にオスマン帝国に支配されるまでは東ローマ帝国の首都となり、オスマン帝国が陥落をさせた後はオスマン帝国の首都となりました。

6世紀にコンスタンティヌス1世の命令により、中国より蚕を秘密に持ち出し、絹織物工場が作られ、東ローマ帝国はヨーロッパの絹産業を独占しました。ヨーロッパとアジアの境目に位置をしており、古くから東西交易路の要衝として繁栄をし、シルクロードの終着点の1つと呼ばれました。

しかしオスマン帝国支配後はヨーロッパからコンスタンティノープルを経由しない海のルートが開拓され、大航海時代が始まりました。

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アヤソフィア
アヤソフィアはコンスタンティヌス2世によって、4世紀後半にキリスト教の大聖堂として建設されました。2度の反乱での消失や、地震などの災害によりドームが度々損害を受け、その都度修理をされました。オスマン帝国時代にモスクへと改修され、トルコ共和国時代に博物館となり、現在は再びモスクとして運用されています。

テオドシウスの城壁は5世紀初頭に東ローマ帝国皇帝のテオドシウスによって建設された城壁です。金角湾とマルマラ海に囲まれているコンスタンティンノープルの唯一の陸路である西側を防衛するために約6.5キロメートルにも及ぶ2重の城壁と堀が築かれました。現在も一部を見学可能です。

ヴァレンス水道橋は、郊外の3か所の水源から現在の地下宮殿と呼ばれている貯水槽まで水を引いていたヴァレンス水道の最末端の約800メートルの橋です。4世紀に建設をされ、オスマン帝国時代まで使われていました。

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シルクロードの終点(ローマ帝国の首都へ)

東ローマ帝国の首都を出発し、西に向かいアテネから地中海を船で渡りアッピア街道を北上しローマに向かうルートとコンスタンティンノープルより北西に進路を取り、陸路でウィーンとヴェネツィアを経由してローマに到着をするルートです。多くの旅人やマルコポーロや三蔵法師などが長い年月をかけて旅をしたシルクロードは終点にたどり着きます。

アテネ|歴史的建造物が数多く残る世界最古の都市の一つ

アテネ
ギリシャ共和国の首都であり世界で最も古い都市の1つです。古代より海上交通に適した立地のため地中海沿岸諸国との海上交易が発達しており、強大な海軍力を持っていました。紀元前5世紀頃に最盛期を迎え、ヒポクラテスやソクラテスやプラトンといった人物が活躍し学問や文化が大きな発展を遂げました。

ペルシャ帝国との戦争に勝って繁栄をしたアテネですが、ローマが地中海へ勢力を広げ戦争となり、ローマ帝国に支配をされました。その後、十字軍国家の支配を経て、ギリシャ独立戦争が起こるまでの間はオスマン帝国の支配を受けました。街には古代ギリシャ時代の遺跡の他に、東ローマ帝国時代やオスマン帝国時代の遺跡も残ります。

アクロポリスはアテネのシンボルであり世界的に有名です。海抜150メートルの平らな巨大な石灰岩の上に神々が住むための神殿が建てられています。古代ギリシャ文明の象徴であるドーリア式建築のパルテノン神殿、6体の女神像が屋根を支えるイオニア式神殿のエレクティオン、勝利の女神ニケに捧げたアテーナー・ニケ神殿など見所がたくさんあります。

古代アゴラは都市生活の政治・経済・社交などの中心地であり、ソクラテスが度々議論を交わした場所です。広い敷地内にはヘファイスト神殿が残ります。ゼウス神殿は、ローマ皇帝ハドリアヌスが2世紀に完成させた神殿です。現在は高さ17メートルの円柱が15本ほどしか残っていませんが、当時の大神殿の面影を感じることが出来ます。

ウィーン|ハプスブルク家によって発展した水運交易の要衝

ウィーン
オーストリアの首都です。ウィンドボナという集落でしたが、2世紀にローマ帝国に支配をされ、城塞が築かれ駐屯地となりました。東欧各国を通り黒海へ注ぐ全長2,850キロメートルのドナウ河の水運で交易の要所として発展をしました。

13世紀後半に神聖ローマ皇帝となったハプスブルグ家が支配をし、14世紀に様々な建物が建築され都市が大きくなりました。17世紀後半にオスマン帝国により包囲をされますが、堅牢な城塞でこの危機を脱し、その際にトルコ軍が置いて行ったコーヒー豆によってウィーンにカフェ文化が根付いたと言われています。

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ハプスブルグ家の当主が夏の離宮として使用をしたシェーンブルン宮殿は、1441室がある巨大なバロック様式の宮殿です。当時約1000人の使用人が住んでいたと言われています。また、広さ約1.7キロ平方メートルのフランス式庭園にはネプチューンの噴水や世界最古の歴史のある動物園など見所がたくさんあります。

ゴシック様式のシュテファン大聖堂はウィーンのシンボル。高さ136.7メートルの南塔は、教会の塔では世界で3番目の高さです。北塔にはプムメリンと呼ばれる巨大な鐘があり、オスマン帝国が撤退した際に残していった大砲などを鋳造し作られました。第二次世界大戦で屋根が落ち割れてしまったが、修復をされて特別な機会に鳴らされます。

カルヌントゥムはウィーン郊外にあるローマ帝国軍の駐屯地の遺跡です。コンスタンティウス2世の戦勝記念の凱旋門、民間人居住区の跡、円形劇場などが広大な場所に点在をしています。

ヴェネツィア|香辛料貿易によって繁栄した芸術都市

ヴェネツィア
イタリア北部に位置する水の都です。東ローマ帝国の影響力が減退した7世紀末から18世紀までヴェネツィア共和国が統治をしました。シルクロードからの陸路とアドリア海の海路を結ぶ重要な場所に位置しており、当時ヨーロッパで需要が非常に高かったコショウなどの香辛料貿易を独占することで驚異的な繁栄を遂げました。

また、貿易を通じて貴重な顔料が入って来たことで、絵画などの芸術が盛んになりルネサンスの中心都市となりました。15世紀にオスマン帝国がコンスタンティンノープルを占領し、インドや東南アジアからの香辛料の交易路が絶たれたことで独占状態がなくなり、また、オスマン帝国との戦争により徐々に衰退をしていきました。

サン・マルコ寺院は福音書の1つの書記者である聖マルコを祀る大聖堂です。ビザンティン建築を代表する建物で、黄金の天井に描かれたモザイクや床のモザイクの美しさに圧倒をされます。建物正面の入り口上に飾られている4頭の馬のブロンズ像は、第4回十字軍の際にコンスタンティンノープルの競馬場から略奪し、ヴェネツィアに持ち帰られました(オリジナルは寺院2階の博物館にあり、レプリカが設置されています)。

ドゥカーレ宮殿はサン・マルコ寺院に隣接するヴェネツィア共和国総督の公邸です。住居の他に、行政府、立法府、司法府といった行政機関も備えていました。フレスコ画で彩られた豪華な部屋の他に、裁判所、拷問部屋、牢獄などの施設も宮殿にあり、そのギャップに驚かされます。ため息橋は運河を隔てた牢獄に収監をされる囚人がため息をついたという話からその名がつきました。

サン・マルコ寺院とドゥカーレ宮殿は、世界で最も美しい広場と呼ばれているサン・マルコ広場にあり、広場は異常潮位現象によって浸水をすることで有名です。

ローマ|シルクロード交易品の行き着く果て

ローマ
紀元前27世紀にカエサルの養子であるアウグストゥスが初代皇帝となり、ローマ帝国が始まりました。ローマはローマ帝国の首都であり、現在のイタリア共和国の首都です。紀元前1世紀から2世紀にかけての五賢帝の時代に最も栄え100万人が居住する世界最大の都市となりました。

「全ての道はローマに通ず」の言葉通りローマ街道が遠く郊外まで整備をされており、遥か遠く中国の絹製品やインドの香辛料の他にあらゆる物がローマに入って来ました。

しかし最盛期は長く続かず、コンスタンティヌス1世の死後、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分割統治をされ、西ローマ帝国の首都はミラノに移り、コンスタンティンノープルを首都とする東ローマ帝国に実権が移っていきました。現在のローマには古代ローマ帝国の遺跡が多く残ります。

コロッセオは西暦80年に完成した円形劇場です。高さ48メートルの4階建てで、収容人数は約5万人の巨大なアリーナで、剣闘士と猛獣の戦いや模擬海戦が行われ、当時の人々は娯楽として熱狂をしました。火山灰を使ったコンクリートで出来ており、中世に他の建築の資材として使われたため、現在、外周は半分ほど残ります。

フォロ・ロマーノはローマ帝国が東西分裂するまでは政治と経済の中心地でした。様々な神殿や凱旋門などの遺跡が現在も残ります。パラティーノの丘からはフォロ・ロマーノの全体を見渡すことが出来ます。パンテオンはマルス広場に建設をされた様々な神を祀るための神殿です。最初の神殿は火災で焼失し、西暦128年にローマ皇帝ハドリアヌスによって再建をされました。現在もほぼ当時のままの姿で残る貴重な建造物です。

カラカラ浴場はローマ皇帝カラカラが作り、西暦216年に開場しました。各種浴場の他に図書館や娯楽室などを備えローマ市民の社交の場でした。当時の美しい大理石やモザイクなどは失われ、現在はレンガ作りの遺構が残ります。

海のシルクロード

海の道と呼ばれる海上交易は、海路によって中国、東南アジア、インド、アラビア半島、ソマリア、エジプト、ヨーロッパをつないでいました。陸路に比べ船での交易品の大量輸送が可能でしたが、海賊の出没や悪天候などによって影響され、安定した交易路ではなく、多くの船が積み荷を残したまま海底に沈んでしまっています。しかし航海技術の発達などにより、中世以降は陸路での移動に代わり、船での交易が主流となってきます。

ローマ帝国時代

エジプト
エジプトが紅海からアラビア半島を通り、インドと交易を紀元前より行っていました。1世紀頃にローマ帝国がエジプトや地中海を支配したことで、ギリシャ系商人がインド洋に進出し、この海上ルートを使ってインド王朝との交易を行いました。インドからローマへは香辛料や年織物などが運ばれ、インドには金貨で支払いをしました。南インドやセイロン島の王朝は、ヨーロッパとの貿易の他に、ベンガル湾を横断し、マラッカ海峡を通り南シナ海へのルートを開拓し、東南アジア諸国や中国と交易を行いました。

イスラム帝国時代

イメージ写真
8世紀半ばにアッバース朝のイスラム帝国がイラクのバクダットを首都として誕生しました。イスラム帝国は衰退をした東ローマ帝国に代わり、エジプト、アフリカの東海岸、ペルシャ、中央アジアを支配下に置きました。アラブ人やペルシャ人などのイスラム教徒商人は、紅海やペルシャ湾を起点としてアラビア海での交易を行い、また、絹製品を求め唐の時代の中国に押し寄せました。中国ではアラブ人を大食(タージ―)と呼び、広州や揚州などの商業都市にイスラム教徒居留地が作られました。イスラム諸国の商人が交易で仕入れた香辛料や絹製品や宝石は、イタリア南部からやってきたイタリア商人によって銀と交換をされ、地中海沿岸諸国で売買をされました。

中国の海上貿易

10世紀後半の宋の時代は、遊牧国家のモンゴル帝国が台頭をし、陸路での西アジアとの交易が困難となったことから、中国人商人は海上貿易に活路を見出しました。東南アジア、インド、西アジア諸国と海上ルートで交易を行い、中国からは多くの陶磁器がイスラム諸国やヨーロッパにもたらされました。そのことから中国からヨーロッパへの海上ルートは「陶磁の道」と呼ばれることがあります。陶磁器の輸出は、元、明、清の時代まで続き、トルコのイスタンブールのトプカプ宮殿にはオスマン帝国時代の交易品として、膨大な数の東洋の陶器が所蔵されています。

大航海時代

コロンブス
ヨーロッパ諸国は肉食の普及により香辛料の需要が高まっていたが、15世紀になるとオスマン帝国が地中海の東側、紅海、ペルシャ湾を支配し、交易を制限したことで、イタリア商人が行っていた東方貿易での香辛料入手が困難となりました。そこで、羅針盤による航海技術や頑丈で速度の出る帆船の発達により、遠洋航海が可能となったこともあり、ポルトガルとスペインでインドへの新ルートの開拓が競われました。ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ率いる船団がアフリカ大陸最南端の喜望峰を経由して、1498年にインドに到着をし、インドと香辛料貿易を行うことに成功しました。香辛料の独占貿易を行うことでポルトガルの首都リスボンは16世紀に貿易の中心地となりました。なお、スペインは喜望峰を通らず西周りのインド航路を開拓しようとしていたジェノバ商人のコロンブスの計画を採択し、1492年にアメリカ大陸に到着をしました(コロンブスはインドに到着をしたと勘違いをしていました)。その後、イギリス、オランダ、フランスなども世界中に進出をしていき、様々な交易ルートが開発され、寄港地や拠点は植民地化され、海洋貿易がより活発になって行きました。

シルクロードの宿場・キャラバンサライとは?

キャラバンサライ
江戸時代に日本橋から京都まで旅をする場合は、東海道を通り、各地の宿場町で休憩をしながら移動をしました。東海道より遥か長い距離のシルクロードには宿場町に相当をする隊商宿が、中東のイスラム文化圏の国に多数ありました。隊商はペルシャ語でキャラバン、宿はサライと呼ばれています。交易によって国に利益をもたらしてくれる隊商は王朝から手厚くもてなされました。セルジューク朝の時代ではロバやラクダが1日に歩ける距離の約30㎞~40㎞ごとにキャラバンサライが作られており、3日分の宿泊費や食料は無料で提供をされていました。治療が必要な病人がいる場合は、病気が治るまで滞在をすることが出来ました。また、もし隊商宿の滞在中に荷物が盗難にあった場合は、補償をされる制度もありました。

基本的な建物の構造

建物は高く堅牢な壁で囲まれており、1か所しかない壁の入り口には頑丈な扉がついており、夜間は盗賊などから守るために扉はしっかりと閉ざされています。扉は荷物を積んだラクダが通れるように大きく設計をされています。中庭を囲むように建物が建ち、隊商の宿泊部屋、食堂、動物用の部屋、トイレ、管理人などの部屋となっていました。他に地元の行商人と取引を行う際の取引所や礼拝所が設置されていました。また、オアシスのキャラバンルート以外にも街のスーク(市場)やバザールに隣接する商人たちの宿泊施設もキャラバンサライと呼ばれました。街中のスークは1階に倉庫や事務所があり、2階に隊商の宿泊部屋がある場合が多いです。

代表的なキャラバンサライの紹介

数多くのキャラバンサライはその役目を昔に終え、現在は廃墟になり朽ちてしまっていますが、現在残っているキャラバンサライを紹介させていただきます。

  • スルタンハンのキャラバンサライ(トルコ)
    コンヤとカッパドキアの間にあるトルコ最大規模の隊商宿です。保存状態が比較的よく、当時の雰囲気を感じることが出来ます。中庭の中央に礼拝所があり、トルコの蒸し風呂ハマムなどの施設もあります。
  • アウズカラハンのキャラバンサライ(トルコ)
    コンヤとカッパドキアの間にある招待宿です。スルタンハンよりカッパドキアに近く、カッパドキアの奇岩を削り出して13世紀に完成をしました。王族ではなく土地の権力者によって建てられ、正面入り口の天蓋には石堀の豪華な装飾が施されています。
  • シェキのキャラバンサライ(アゼルバイジャン)
    首都バクーより西に300キロメートル離れている北部の都市です。アゼルバイジャン国内に5つあるキャラバンサライの中で一番大きく、2階建ての建物で、現在は改装をされホテルとして利用をされています。
  • ヤズドのキャラバンサライ(イラン)
    イラン中央部のヤズドとイスファハンの間にある約400年前のキャラバンサライです。壁や建物は日干し煉瓦で作られており、降水量が非常に少ないためカナートと呼ばれる地下水路を水源としていました。

トルコと日本の交易品

有田焼
イスタンブールにあるトプカプ宮殿には東洋陶磁器が約8千~1万点前後所蔵されており、
その膨大な量は世界有数です。その多くは海のシルクロードを通り、中国からイスタンブールにもたらされました。7世紀頃のウマイヤ朝のイスラム帝国は東方地域との交易を重視し、中国から青磁や白磁といった初期の陶磁器が絹と共に輸出をされていました。13世紀後半の元のモンゴル帝国が白磁を下絵として藍色で絵を描く染付という陶器が開発されました。これはモンゴル帝国が支配をしたイランやイラクなどのコバルト顔料の技術が中国にもたらされた結果と言われています。

宋や元の時代の膨大な量の陶器がトプカプ宮殿に収められている理由は、オスマン朝が領土を拡大する過程の14世紀ごろに、支配をした地域が交易によって得ていた中国の陶器を、戦利品や献上品として送られたと考えられます。オスマン帝国が最盛期を迎える15世紀後半は中国の明と直接交易を行い、特に大型の染付の陶器がトルコに入って来ました。赤絵と呼ばれる赤や緑で絵を描く技法も開発され、陶器貿易の最盛期を迎えました。この時期に染付の陶器技術も入って来ており、その後ヨーロッパ諸国に伝わりました。

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16世紀以降はアフリカ大陸の喜望峰を経由して、ポルトガルが大量に中国の陶器をヨーロッパにもたらし、ヨーロッパ経由でトプカプ宮殿に入って来たと考えられます。17世紀になると、日本でも有田で陶器の生産が確立され、長崎オランダ商館を通じて江戸時代の有田焼が大量にヨーロッパに輸出されるようになりました。有田焼は伊万里港から長崎まで出荷をされたため、伊万里焼とも呼ばれます。トプカプ宮殿では中国の陶器と合わせて、古伊万里焼のコレクションが多数あります。

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膨大な東方の陶磁器を所蔵しているイスタンブールのトプカプ宮殿と同様に、日本の奈良の正倉院にはシルクロードによって西方からもたらされた貴重なガラス細工があります。白瑠璃碗(はくるりのわん)は、ごく薄い褐色の透明ガラスで作られており、亀甲つなぎの文様が切子で表現されています。3世紀から7世紀にかけてイラン高原とメソポタミアを支配したサーサーン朝のものとされます。瑠璃坏(るりのつき)は、同じくサーサーン朝のカップ型の紺色のガラス坏で、銀メッキの台脚がついています。カップの表面には22個のガラスの輪が付けられています。これらのガラス細工の他に、日本で作られた宝物の部品として、アフガニスタンのラピスラズリやイラン産のトルコ石が使われており、シルクロードを通り中国を経由して日本に西域の交易品が入って来ていたことが分かります。

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