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イスラム教「イスラーム」をどこよりも分かりやすく解説!教典の教え、食事・礼拝・服装ルールなど
日本人が「イスラム」と聞いてイメージするのは中東の国々が多いのではないでしょうか。そしてもうひとつ、残念ながらネガティブなイメージを持たれていることも少なくありません。しかし、イスラム教は中東のみならず世界広範囲に広がっており、内情も国によってそれぞれです。
日本ではとても馴染みが薄くニュース以外ではなかなか接しないイスラム世界ですが、ここでは偏った情報にとらわれず、教義や信仰、歴史に生活など、イスラム教について徹底解説します!
イスラム教はキリスト教・仏教と並ぶ世界三大宗教のひとつで、キリスト教に次ぐ世界第2位の信者数約19億人(世界人口の約25%)を誇ります。誕生は西暦610年。預言者ムハンマド(570年頃~632年)が神の啓示を受けたことから始まりました。
イスラムという言葉は、アラビア語で「神の教えに帰依すること」を意味しています。
信仰の対象は、ただひとつの神である「アッラー」。アッラーとはアラビア語で「神」を意味します。英語の「神=God」と同義語です。アッラーはこの世の全てを支配する全知全能の神です。
こうした唯一絶対神を信仰する宗教を「一神教」と呼びます。日本では「○○の神様」や「八百万神」というように多様多種な神々が存在しますが、イスラム教ではあり得ないことです。
さらにイスラム教では偶像崇拝が禁止されており、神の唯一性を重視するため、預言者の姿を描く絵画的表現は許されていません。
このように絶対神を崇拝するという共通点があるのは、この3つの宗教が起源を一つにする姉妹宗教・兄弟宗教だからです。歴史的には、まず紀元前にユダヤ教があり、その後キリスト教が誕生し、その改革運動としてイスラム教が生まれたという流れです。
ですが、絶対神を崇拝するところでは3宗教の根はひとつ。イスラム教ではキリスト教やユダヤ教の信者は「啓典の民(=神の啓示に基づく信仰をもつ民)」と呼ばれますが、これはイスラム自身にも当てはまります。
イスラム教の理解では神は何人もの預言者を通じて人類に啓示を与えてきたとされ、実際「コーラン」にはモーセやキリストも登場します。その中で、イスラムの預言者ムハンマドは人類最後にして最大の預言者であり、ゆえにイスラム教徒こそが真に正しい神の信者と考えられています。
ただ、「啓典の民」であれば(キリスト教でもユダヤ教でも)同じ「神」の信者同士、敵対関係にならない限りは他宗教との共存も問題ないとしています。
根本は同じ3宗教ではありますが、それぞれ以下のように整理できます。
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イスラム教徒の人口が多い国TOP10は上記の表の通りです(2021年時点)。
世界的なイスラム信者数の割合は、想像どおり中東諸国に多いのですが、世界を見渡すと実はアフリカ、中央アジア、東南アジアにも信者の多い国はあります。その中でもイスラム信者が最も多く住んでいるのが実はアジアで、世界の7割ほどを占めています。
国別で言うと、インドネシアが最大で、次いでパキスタン、インド、バングラデシュと続いていきます。また、そもそもの人口が多いために割合は少ないですが、中国(約2,800万人)やロシア(約2,000万人)にも多数のイスラム教徒が暮らしているのです。
イスラム名は自分で決められますが、よく知られた預言者の名前などを選ぶケースが多いようです。
外見ではムスリムを判断するのは難しいですが、顎髭をたくわえていた預言者ムハンマドに従うのがよいという考え方の影響で、男性は髭をたくわえているケースが多いです。
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「コーラン(クアルーン)」とはイスラムの信仰の拠りどころである啓典です。アラビア語では「クアルーン」と言い「詠唱すべきもの」という意味を持ちます。
コーランにあるのは、イスラムの全てであり、ムスリムが遵守し常に心に留めておくべき事柄の全てとなります。信仰行為から社会生活イスラム国家に関わる事項まで、その内容は多岐にわたります。
アッラーの言葉は、ムハンマドの口を通して人々に伝えられており、当初はコーラン全体が書物のかたちでまとまってはおらず、「啓示の原型の維持」は基本的に人々の記憶に頼るしかありませんでした。
コーランが書物になるのは、第3代カリフ(ムハンマド亡き後の最高権威者)のウスマーンの時代(644~656年)になってからのことでした。
書物となったコーランは全部で114のスーラ(章)からなり、1章の「開扉章」から114章の「人間章」まで全て、「食卓」「信者」「勝利」など内容に応じた名称を持ちます。
コーランは読誦(声を出して読む)しなければならないのと、アラビア語以外は認められていません。コーランの章句ひとつひとつに重層的な意味が含まれており、それを正しく表現できるのはアラビア語だけとされているからです。
そのため、コーランは聖書と異なり翻訳版というものは存在しません。他の言語でその意味や内容を一言一句置き換える事は不可能だからです。アラビア語以外で書かれているものはあくまでもコーランの解釈例でアッラーの言葉ではありません。
コーランはアッラーの言葉と見なされた文書のみで構成されており、それに対する説明や注釈は含まれていません。コーランの注釈は「タスフィール(啓典解釈)」と総称され、コーランを理解するための別ジャンルとなっています。
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ハディースとは預言者ムハンマドの言行録で、内容は、宗教上の作法から食事、健康の管理、服装、結婚など日常生活全般におけるものとなっています。
ハディースはコーラン同様に、ムスリムにとっての「生きる指針」であり、ムハンマドが生前言ったことやおこなったことが今もムスリムたちにとってのお手本になっています。
ムスリムの男性には髭を生やした人が多いのですが、これはハディースにムハンマドが髭を生やしていたという記述があるためです。また、イスラム圏では猫を可愛がる人が多いのですが、これもムハンマドが猫を愛したとハディースに書いてあったためです。
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コーランとハディースがあると混乱してしまうのでは?と思いますが、ハディースはコーランを補足する役割があります。コーランは大まかした記述が多いため、詳しい事を知るにはハディースも読む必要があるのです。
例えば、礼拝についてコーランには「礼拝をせよ」とだけ書いてあるだけで、具体的な礼拝方法は記されていません。詳しい礼拝方法などがハディースに書かれているのです。
つまりハディースはコーランの注釈書でもあり、ムスリムの行動基準のかなりの部分はハディースによっています。
そのため、スンナ派とシーア派では、ムハンマドの後継者に対する考え方に違いがあります。しかし、宗派が違っても基本的な教義に大きな違いはありません。もちろん、コーランに従うという原則も一緒です。
あえて違いを大まかに言うならば、礼拝の回数がシーア派は3回であったり、若干の礼拝作法の違いがあったり、聖地の数がシーア派には多いというところです。シーア派特有の「アーシューラー」というお祭りもあります。
実際にはムスリム全体の約9割を「スンナ派」が占めており、信者は世界の広い範囲に広がっています。
シーア派は約1割程度と少数派ですが、その中でも全体のシーア派人口の3分の1を占めているのがイラン(人口の約90%)で、現在イランの国教ともなっています。バーレーンやイラクでも人口の約65%がシーア派となっています。
そもそも自分がどちらの宗派か分かっていない人も少なくないようです。
スンナ派国家のサウジアラビアとシーア派国家のイランの敵対関係は「スンナ派対シーア派」の対立として言われがちですが、実際は民族対立や地域の覇権争いなど、様々な要素が絡み合っています。
また、イラン・イラク戦争などの中東の問題も宗教対立が本質ではなく、利権の問題が絡んでいるケースがほとんどです。
「モスク」とはイスラム教の礼拝堂です。イスラム圏内に旅行に行くと必ず見どころとしてある「モスク」。
ほとんどのモスクで美しい装飾がほどこされていますが、イスラム教では偶像崇拝が禁じられているので、モスクには宗教のシンボルや聖像など偶像になりえるものはありません。
モスクの内部は、礼拝を行なう「キブラ」(メッカの方角)を示す壁に「ミフラーブ」と呼ばれる窪みがあり、ミフラーブ向かって右隣には「イマーム」(指導者)が集団礼拝の際に説教を行う階段状の説教壇があります。
モスク外部には、礼拝前に体を清めるための泉(ウドゥー)などが見られ、礼拝を告げる「アザーン」(呼びかけ)を行う「ミナレット」(尖塔)も多く見られます。モスクは礼拝に必要な形状や設備が整えられたシンプルな宗教施設になっています。
基本的に、日常の礼拝は無理にモスクへ行く必要はないとされています。ただ、金曜日の集団礼拝の日はなるべくモスクで礼拝することが奨励されています。モスクに場所の指定はありませんが、出来れば色々なモスクへ行くのが良いとされています。
余談ですが、モスクにあるミナレットはその役割から1本でもいいのですが、見た目のバランスや装飾的な意味から2本や4本と付け加えられることもあります。
ひとつのモスクに2~4本のミナレットがあるのが一般的ですが、トルコのイスタンブールにある「ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)」には6本ものミナレットがあります。世界中で6本のミナレットを持つモスクはこのブルーモスクだけです。これには次のような伝説があります。
ブルーモスクを建造するにあたり、スルタン・アフメト1世は建築家にトルコ語で“金色”を意味する「Altın(アルトュン)」のモスクを建造するように命令をしました。しかし、建築家はアルトュンをトルコ語で“6”を意味する「Altı(アルトュ)」と聞き間違え6本のミナレットをモスクに造りました。ところが、ブルーモスクが建造された当時、6本のミナレットが許されていたのは聖地メッカのみでした。恐縮したスルタン・アフメト1世は、メッカに7本目となる新しいミナレットを1本寄贈しメッカの威厳を守りました。
ちなみに、メッカにはミナレットがもう2本増え、現在は9本ものミナレットがあります。
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「六信」は信じるべき対象ではあるが、アッラー、天使、来世など目に見えないものが多く、人間であるイスラム教徒には見えませんが、「コーランで啓示されている以上、信じる対象は存在するので、我々は信じる」といった認識でとらえられています。
全てのムスリムが、その絶対的真実性を信じなければならない、6つの存在が六信です。信仰心そのものが他人から直接見えることはありませんが、アッラーからは全てが見えています。
「五行」は実生活で行動しなければいけないものなので、俄然具体性が増してきます。目に見えるものなのでイスラムの特性として分かりやすいです。例えば、礼拝、断食、巡礼などのイスラムのシンボル的な行動は全てこの五行の中に含まれています。
自らの揺るぎない真っ直ぐな信仰心を日々の暮らしのなかで弛むことなく実践します。五行に勤しむのはムスリムにとっては、呼吸や睡眠と同じく自然なことなのです。
では、「六信五行」にはどういった内容があるのか?下記に詳しく説明していきます。
しかし、偶像崇拝を禁じているためその姿は描かれません。アッラーとは神を意味するアラビア語「アル・イラーフ」の短縮形になります。
イスラムでは四大天使の存在が認められており、その中でも最高位の「ガブリエル(ジブリール)」は、預言者ムハンマドにアッラーの啓示をもたらした存在として名高いです。
「ミカエル(ミーカーイール)」はガブリエルと合わせ旧約聖書にも登場する大天使、「イズラーイール」は死を司り、「イスラーフィル」は終末のラッパを吹くとされています。
ただし、最も重要なのがムハンマドへの啓示である「コーラン」で、アッラーの言葉のみを完全に伝えたとされるコーランは別格の存在です。他の啓典が人間の手によって編さんされたとする立場をとるイスラムでは、コーランは諸啓典の集大成なのです。
最初の預言者は、人類の祖アダム。コーランには総勢25名(諸説あり)の預言者が登場し、そのうち最も偉大な使徒とされるのが、ノア、アブラハム、モーセ、イエス・キリスト、そしてムハンマドです。
イスラムは最後に現れたムハンマドを最後で最大の預言者とし、最も完璧にアッラーの言葉を伝えるとしています。
まず人間が「最後の審判の日」にアッラーの前で審判を受ける。そこでは生前の行為が読み上げられ、悪人は地獄へ、善人は天国へと導かれる。
この点はキリスト教と同じです。天国では平安な日々が過ごせますが、地獄では永遠の責め苦に苛まれるとされています。ただし、大罪を犯した者でも信仰があれば赦されたり、地獄で罰を受ければ天国へいける場合もあるとされています。
アッラーに帰依することは、平和をもたらすアッラーの意志に従って暮らすことを示します。
ムスリムは日に5度の礼拝のたびにこの言葉を唱え、不動信仰心を養います。異教徒の改宗時にも、2人の証人の前で同じ言葉を唱えます。
アッラーへの服従と感謝の心を前身で表現するのが礼拝です。ムスリムは毎日、1日5回の礼拝が義務付けられています。なるべく集団で列をつくり、コーランを読誦しながらキブラ(メッカの方角)に向かって行います。
礼拝前には体を清めなければならず、全身の沐浴が最もよいですが、手足や顔を洗うだけでも許されます。作法は起立して低頭、ひざまずいてから地面に額をつける。これを何度か繰り返し行うのが基本の動作です。
モスクにはキブラを示すミフラーブがあり、イスラム圏のホテルでは客室内にキブラを示す案内を用意されていることも多いです。
イスラム暦の第9月は「ラマダン月」と呼ばれ、年に1度、約1ヶ月間の断食を行います。断食は日の出から日没までとなり、その間は一切の飲食を断ちます。日の沈んだ夜間の飲食は自由です。基本的に大人の義務になりますが、病人や旅行者は後日まで猶予できます。
断食中は、飲食の他喫煙や性行為も禁止、大声や口論も慎み、忍耐力や自制心を養います。数ある行事の中でも特別で、期間が明けると祝いの祭りが盛大に行われます。
ちなみに、断食と聞くと「ラマダン」という言葉が浮かびますが、ラマダンとはイスラム暦の9月を表す月の名称で、断食を指す言葉ではありません。
★「ラマダン」を徹底解説した記事もあります!ラマダンの断食についてさらに詳しく知りたい方は是非下記のラマダン記事も読んでみてください!
ラマダン=断食じゃない?!イスラムにおける意味と旅行者のマナー
言わば事実上の財産税ですが、“人間の財産はすべてアッラーから所有を許されたもの”と解釈されているので、税金というよりは自分を清める浄財という位置づけになっています。
イスラム国家の中にはこの喜捨を司る機関が存在し、集まった喜捨は貧者、困窮者、喜捨の徴収人、イスラムへの改宗者、奴隷の身請け、負債者、イスラムの伝道活動などに充てられます。なお、自発的に行う喜捨は「サダカ」と呼ばれます。
ムスリムであれば生涯に一度、果たさなければならない「聖地巡礼」を指します。イスラム暦第12月(ズー・アル=ヒッジャ月)の8日~12日までの5日間で、定められた方式と道程に則りメッカのカーバ神殿などを参るというものになります。
この期間は、全世界から200万人ものムスリムがメッカに参集すると言われています。1日でも遅れると認められず、この5日間以外に行う巡礼は「ウムラ」と呼ばれ「ハッジ」とは区別されます。
近代以前のハッジは、身体的にも経済的にも負担の大きい旅で、なかには命を落とす者も少なくなかったほど。そのため、コーランにも「出かけることが可能な者」をハッジの対象とする言及があり、肉体的、経済的に可能である限り、という前提条件が存在しています。
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ムスリムの生活については、豚肉は食べてはいけない、お酒もダメなど、ざっくりとしたイメージしかないと思います。ここでは、イスラム教の食生活について解説します。
コーランの2章173節には、食べることを禁じられるものに、「死肉、血、豚の肉、アッラー以外の名が唱えられたもの(異神に捧げられたもの)」との記述があります。
コーランは“アッラーの言葉”として絶対的な原則である為、豚肉を食べてはいけないことに対して疑問に思う理由は存在しません。コーランに書かれていることが十分な理由付けになります。
また、コーランの6章145節では豚について「忌まわしいこと」との記述もされている事もあり、多くのムスリムが、豚は「不浄の動物」と言い聞かされて育っているため、豚に対して嫌悪感を持っている人がほとんどです。
コーランで禁じているのは「豚肉」だけですが、豚由来のものも禁止です。大半の学者の意見が「豚から得られる全てのものが禁止」となっているからです。そのため、ハムやサラミ、ソーセージにベーコン、ラード、ポークエキスなどもだめです。当たり前ですが、とんこつラーメンも絶対にだめです。
もし誤って豚を食べてしまった場合、わざとでなければ罪にはなりません。また、他に食べる物がなく餓死しそうな場合も許されます。禁じているのは“豚”だけなので、それ以外の鶏や羊、牛、ラクダなどは食べられるので食肉のレパートリーは豊富です。
ただし、適切な処理をされていることが必須です。適切な処理とは具体的に、“「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名によって」という言葉を唱えて頸動脈を切って屠殺し、体内の血液を流して処理したもの”となります。
その他にも卵、乳製品、魚、野菜、果物、穀物、豆などは食べられるので、豚由来でなければ基本的にほとんどの食品が食べてOKです。
あくまでも「飲酒が禁止」となります。調味料にアルコールを添加している場合がありますが、これもだめです。もし飲酒をしてしまった場合、後でしっかりお祈りや貧しい人に施しをするなどをして挽回していきます。
ちなみにトルコでは、ムスリムでも公然とした飲酒文化が続いており、観光客や外国人も自由にお酒を飲むことができます。ただし、そんな自由なトルコであっても豚肉を食すことは依然禁止となっています。
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「ハラール認証」とは、宗教家とハラール認証機関が検査をしてハラール性を保証する制度です。ハラール認証を取得するまでには厳しい監査があり、食品だけではなく、製薬、医療、サプリなどにも及びます。
行程は「農場から食卓」までとなっており、製品の原材料が消費者に届くまでの一連の行程まで監視されます。
例えば羊肉がハラール認証を取得する場合、まずエサがハラールなのかどうかから調べます。どんな餌を食べて、放し飼いで飼われているかなどを検証します。そして羊が畜されるとき、この羊を処理する人は必ずムスリムでなくてはいけません。
動物の首にナイフを入れるときは必ず唱えるべき言葉もあります。肉を処理した後は輸送されますが、その際にも輸送するコンテナに豚肉などを一緒に入れてはいけません。このような過程を経てハラール認証が獲得できます。
また、飲食店がハラール認証を取得する場合は、台所にあるすべての調理器具は豚肉を扱っていないものに限られます。さらに、調理人がムスリムでなければいけません。加えてアルコールも置いてはいけません。これらの条件が整ってハラール認証が取得できます。
ですが、日本ではこの条件すべてを満たすことはなかなか難しいです。調理人がムスリムでない場合、少なくともそのお店の中で最低ひとりはハラール認証についての講習を受ける必要があります。
このようにハラール認証は厳しい監査を受けて取得します。これにより、日本在住のムスリムやムスリムの訪日観光客は安心して食事を取ることができます。ムスリムにとってハラールの食品のみを口にすることは、信仰そのものなのです。
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イスラム圏の国々を旅すると、ベールを纏った女性の姿をよく目にすると思います。頭髪や身体を真っ黒なベールで覆い隠した敬虔なムスリムの女性の佇まいは、神秘的であると同時に少々異様な光景でもあります。
その姿から、イスラムが女性に対して抑圧的であるイメージを持つ人も多いと思いますが、一方では、カラフルなスカーフを洋服に合わせファッショナブルに着こなす国もあります。
ですが、実はコーランの中には具体的な衣装の着用義務は記されておらず、「慎み深く目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方ないが、その他の美しいところは人に見せぬよう」とだけあります。この中では、目だけを見せるのはいいとか、服装の色は黒でなくてはいけないといったルールは書かれていません。
この章句をどのように解釈するかは、宗派や学者の間でも幅があり、社会的・文化的背景にも違いがあることから、地域によって“ドレスコード”が異なっています。
厳格な政教一致の国のサウジアラビアでは、女性は10歳頃から親族以外の男性がいる場所では黒い「ヒジャブ」(髪の毛と首をスカーフで覆うスタイル)で髪を隠し、「アバヤ」という黒い布で全身を覆います。
イランでは、女性は9歳頃よりヒジャブを着用し、これを守らなければ宗教警察に逮捕されてしまいます。
逆に、イスラム世界初の世俗主義国家となったトルコでは、公的な場では女性のスカーフ着用が禁じられましたが(その後一部許可)、普段の装いは各自に委ねられています。都市部になると欧州と同じようなファッションをした女性も多いです。ただしモスクに入る際は、外国人も含めて頭を覆うスカーフを着用する義務はあります。
このように、色は黒で全身をすっぽりと覆うブルカや、目だけを出し全身を覆うニカーブスタイルもあれば、髪の毛をスカーフで覆うだけであとは私たち日本人と変わらないファッションをしていたり、何もしていなかったりと、国によって女性のスタイルは本当に様々です。
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イスラム教の「六信五行」に基づき、ムスリムは1日5回の「礼拝(サラート)」を毎日行います。私たち日本人がお祈りをするのは初詣で神社に行ったときぐらいではないでしょうか?
この時、神様にお願いごとをする人が大半だと思いますが、イスラム教の礼拝(サラート)は「アッラーへの感謝」になります。もちろん、イスラム教でもアッラーにお願い事をすることは出来ます。
サラートは義務の礼拝になりますが、お願い事をするのは任意の礼拝になり、サラートではなく「ドゥアー」と言います。1日5回行う礼拝の時間は何時何分ではなく時間帯になっています。太陽の位置で決まるので時計がなくても分かります。
仕事や移動、旅行中など何らかの理由でどうしても時間通りかつ5回の礼拝が出来ないこともあります。
やむを得ない場合には、ズフルとアスルの礼拝は日没までに、マグリブとイシャーの礼拝は就寝前までにまとめて行うことが認められています。
礼拝を行なう場所はモスク以外でも問題ありません。ただし墓地など汚れた場所はだめです。イスラム圏になると、オフィスやショッピングセンター、駅やバスターミナルに礼拝スペースがあります。因みに、日本でも多くの外国人が利用する成田空港や羽田空港にも「礼拝室(祈祷室)」が整備されています。
モスクで礼拝を行なう場合、どこの国でも男女別々の場所になります。女性はモスクの2階だったり、男性の後ろの狭いスペースだったりします。これは、男性が礼拝中に女性の姿を見て集中力が損なわれるのを防ぐためと言われています。
イスラム圏の街にいると時折、独特のリズムに乗ったアラビア語が流れているのを耳にすると思いますが、これは「アザーン」と呼ばれる読誦で、礼拝が始まる前の呼びかけです。唱えられる内容も習慣そのものもスンナ(モハンマドの言行)のひとつになります。
礼拝は聖地メッカの方向に向かって行います。メッカの方向を「ギブラ」と言い、モスク内にはこのギブラを示す「ミフラーブ」というくぼみがあります。モスク以外の場所でギブラを知るには、イスラム圏のホテルの部屋だと天井にギブラを示す矢印が貼られています。外だとコンパスを利用するか、今だとスマホで知ることもできます。
礼拝の方法や内容ですが、世界のムスリム共通で一定の言葉や動作の形式があります。
まず礼拝の基本動作は下記になります。
礼拝をする際に行うこの1~8までの一連の動作を「ラカート(=1セット)」と言い、礼拝を行なう時間帯によって繰り返すラカートの回数は変わっていきます。
①ファジュル=2ラカート、②ズフル=4ラカート、③アスル=4ラカート、④マグリブ=3ラカート、⑤イシャー=4ラカート
金曜日の正午過ぎの礼拝は特別で、成人男性はモスクで集団礼拝をするのが義務となっています。(女性はこの義務は免れています)この集団礼拝はズフルの礼拝の代わりに行われ、「ジュムア」の礼拝と言われています。
金曜日だけなぜ集団礼拝を行なうのか?この理由も単純で、コーランにこう記されているからです。
「信者たちよ、金曜日の礼拝に人々を呼ぶ声が聞こえたら、アッラーを念じる為に急いで駆けつけ、商売などは放り出して来るのだ。その方がお前たちの為になるのだから。」(62章9-10節)
この時ばかりは、普段モスクに行かない人も、熱心に礼拝しない人もモスクに集まります。この金曜日のジュムアの礼拝の時はモスクに大勢の人が集まるため、モスクに人が入りきらず外まで礼拝者で溢れかえります。
このように金曜礼拝は大変重要であるため、イスラム圏の国では金曜日が休日となっていることがほとんどです。休日となくても、ほとんどの会社や商店は昼で営業を終え、人々が礼拝に参加できるようになっています。
また、礼拝前は体を清めることが必須とされており、体の一部を水で洗い清めます。この行為を「ウドゥ」と言い、洗う順番や回数も細かく決まっています。
手→口→鼻→顔→腕→髪の毛→耳→足
この順に洗い、その回数は各々3回と決められており、手や腕など左右ある部位については“右”から先に洗う事も決められています。ただ、仕事中などで難しい場合には簡略化も許されています。
ですがムスリムにとって礼拝は面倒や大変さを思う以前に大切な行為で、アッラーと対話をする贅沢な時間でもあります。仕事の効率も大切ですが、それ以上にアッラーに感謝をし、得られる心の安らぎこそがムスリムにとって大切なのです。
なお、生理中の女性は清浄な状態ではないため、礼拝を禁じられています。
そもそもイスラム教で一夫多妻制が認められているのは、コーランに「あなたがよいと思う2人、3人または4人の女を娶れ」(第4章3節)とあるからです。この啓示が与えられた戦乱の時代は、夫を亡くした女性や孤児も多く、その救済という意図がありました。
現在も一夫多妻制が合法として認められている国はアフリカ諸国に多く、それ以外の国になると一部のみ合法であったり、国々によって様々です。また、ムスリム人口が多い国でも一夫多妻制を禁止している国もあり、それが「トルコ」と「チュニジア」になります。
イスラム教の結婚とは「妻の扶養義務を夫に課す」というものになり、結婚したからには養うのが前提になります。多妻となった場合でも肉体的にも精神的にも平等に愛することは基本条件です。
そういったことから経済的な負担も大きいこともあり、実際に一夫多妻を実現している人は極端に少ないのが実情のようです。
イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教、あるいは仏教の成立と比べると、西暦610年頃成立と比較的新しい宗教です。そして、イスラム教の開祖が“預言者ムハンマド”になります。
イスラム教はどのように生まれたのか?預言者ムハンマドとはどういう人物だったのか?どうやって世界に広がっていったのか?など、イスラム教の歴史について解説していきます。
当時のメッカでは、父系の氏族が血縁者を庇護する帰属集団が構成されていました。孤児となったムハンマドも、実父の兄弟に守られながら成長していきました。成人後は商人となり、25歳で10歳以上年上のハディージャと結婚し子宝にも恵まれ、ごくごく普通の人生を送っていました。
そんなムハンマドに転機が訪れたのは40歳。
この年ムハンマドは、メッカ近郊にあるヒラー山の洞窟で天使ガブリエルと遭遇。アッラーから最初の啓示を授かりました。一介の商人が、何の前触れもなく預言者として選ばれたのです。以後、没するまで断続的に啓示を受け続けることになります。
最初は戸惑いを感じたムハンマドでしたが、やがて預言者としてアッラーの言葉を伝えることを決意し布教を始めます。それが610年頃のことです。熱心な活動で徐々に信者を増やしていきますが、同時に新しい宗教の常で迫害も受けていました。
そこでムハンマドは多くの信者たちとともにメッカから現在のメディナへ拠点を移します。移住後も布教を続け、やがてウンマ(イスラム共同体)を結成。その後は急速に勢力を拡大、敵対する勢力を退け、ついにはアラビア半島を統一するまでになります。
40歳でアッラーの啓示を受けてからのムハンマドは、イスラム(神の教えに帰依すること)を伝える宗教家として大きな存在となりましたが、それと同時に政治・軍事能力にも優れていました。
イスラム教が比較的、短時間で勢力を広げ、国家に近い状態の共同体を作り上げることが出来たのは、ムハンマドのそういった手腕による部分が大きく、それはカリスマ的な素質として信者の心を掴むことにもつながったと考えられています。
亡くなる直前、ムハンマドはメディナからメッカへ唯一の巡礼(別離の巡礼)を行いました。別離の巡礼から戻って数ヶ月後、ムハンマドは病に倒れその生涯を閉じました。632年のことです。
このときの礼拝のやり方が、ムスリムの義務である五行のひとつ「ハッジ」として継承されています。
イスラム教では、ムハンマドが最後にして最大の預言者で偉大な指導者ではありますが、イエス・キリストのように崇拝されることはありません。あくまでも一人の人間として位置づけられています。
また、イスラム教では偶像崇拝を禁じているため、ムハンマドの肖像画や彫像は存在しません。伝承画のなかでも、ムハンマドの顔はベールで覆われています。
信者が30人を超えたあたりで、ムハンマドは公の布教を促す啓示を受けます。さらにアッラーは、メッカで信奉されている偶像崇拝を打倒することを命じました。逆にメッカ市民はムハンマド一派に対し、本格的な迫害を開始します。
対立がより深刻化するなかで、ムハンマドは妻ハディージャと叔父アブー・ターリブを相次いで亡くします。布教開始から10年経った619年のことでした。少しずつではあるも着実に勢力を増すムハンマドの教え。メッカで大勢を占める多神教信者たちは、ムハンマドの暗殺も厭わないほど業を煮やしていました。
そんな矢先の622年、ムハンマドはメッカからメディナへ布教の拠点を移します(ヒジュラ)。この出来事が、ヒジュラ暦(イスラム暦)の始まりになります。ここにモスク(預言者モスク)を設け、ウンマ(イスラム共同体)の礎としました。以降、共同体の維持の傍ら、反イスラム勢力の打倒に乗り出します。
メッカ軍を破った624年のバドルの戦いを皮切りに、通算60以上にもおよぶ戦役が幕を開けます。やがてムハンマドはメディナを完全制圧し、ヒジュラから6年を経た628年、メッカ側との和平条約(フダイビヤの和約)にもこぎ着けました。
しかし、既存勢力との小競り合いは続きました。アラブ部族内でのイスラム勢力の存在感が増すなか、630年にはついにムハンマドがメッカを占領しました。当時のカーバ神殿に奉られていた360体もの偶像を除去し、信者が祈りを捧げる聖地としての準備を整えました。
こうして、ムハンマドがヒラー山で最初の啓示を受けてから20年にして、それまでのアラブ世界を一変させる新たな社会の建設に成功したのです。
その後、第2代目カリフに「ウマル(634~644年)」、第3代目カリフに「ウスマーン(644~656年)」、第4代目カリフに「アリー(656~661年)」と続きました。合議により選ばれたこの4代目までを正統カリフと呼びます。
正統カリフの治世で、ウンマは国家をして整備され、その勢力範囲を武力によって拡大していきました。その支配は、アラビア半島からシリア、エジプト、イランにまでおよびました。
しかし、第4代正統カリフのアリーが暗殺されると後継を巡る対立が発生してしまいます。そしてイスラムは誕生から50年で、「スンナ派」と「シーア派」に大きく2つに宗教分裂してしまいました。
これがイスラム最初の王朝「ウマイヤ朝」の始まりとされ、イスラムにおける政治の世俗化はよりいっそう進んだことになります。一般的な国家という性格が強くなったウマイヤ朝は領土拡大を志向。東はインダス川、西はイベリア半島まで領土を広げていきました。
同じムスリムであってもアラブ人でなければ差別していたウマイヤ朝(ゆえにアラブ帝国と呼ばれることも)に対する反抗から750年に興ったのが「アッバース朝」。ムハンマドの叔父アッバースの子孫がウマイヤ朝を打倒し、750年に「アッバース朝」を成立しました。
政権奪取が成熟すると、アッバース朝は人種、民族関係なくムスリムであればイスラム、シャリーア(イスラム法)によって平等に支配されるという体制を整備しました。これは単なる王朝交替ではなく、イスラム世界の文化を大きく向上させることにも繋がりました。この体制を整備したアッバース朝は「イスラム帝国」と呼ばれることも多いです。
その後もイスラムのさらなる普及や分裂、新たな国の勃興などで多くのイスラム王朝が生まれていきました。
9世紀に入るとアッバース朝は衰退し、分裂、独立して新たなイスラム王朝が誕生していきます。さらに、聖地奪回を目指した欧州キリスト教勢の西からの遠征、いわゆる十字軍の襲来や東からのモンゴル帝国の侵攻が重なる中で、アッバース朝は滅亡、イスラム世界は大小数多くの王朝が興亡を繰り返す時代へ入っていきます
その中で近現代へと続く大国家となったのが1299年に建国されたオスマン帝国(オスマン・トルコ)と、1526年に成立したムガル帝国です。両国はいずれもアラブ系ではなくテュルク系(トルコ系)でした。この2つの帝国は紆余曲折ありましたが、ムルガル帝国は19世紀、オスマン帝国は20世紀初頭まで存在したイスラム王朝となりました。
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途中、モンゴル帝国の侵攻もありましたが、モンゴルの王朝の中にはイスラム化する国が少なくありませんでした。インドはイスラムが普及する一方でヒンドゥー教の灯も消えませんでした。中央アジアは現在もイスラムが中心宗教の国が多くあります。
一方のインドネシアに広めたのは、軍事的侵攻ではなく商人と言われています。イスラム世界の活発な商業活動は、東南アジアに貿易品だけでなく、宗教そのものも広める結果となりました。
ただ、西アフリカで13世紀に勃興したマリ帝国、15世紀に興ったソンガイ帝国など、北アフリカ以外の国家の中にもイスラムを受容した国家は存在しており、土着信仰と共存する状態も見られました。
上記地域には多くのムスリムが暮らしていますが、ムスリムが少ない地域が欧州と南北アメリカやアフリカ南部、そして日本列島も含む東アジアです。日本は特に少なく、人口の1%にも満たしません。
その中で近年、ムスリムの人口増加が目立つのが欧州と北米です。いずれも労働力として移民となったムスリムの定着が増加の理由になっています。
これは、スンナ派もシーア派も共通です。そして、この3つの聖地はいずれもムハンマドに関係する場所になります。この3つの聖地について詳しくご紹介します。
イスラム教第一の聖地「メッカ(マッカ)」は預言者ムハンマドが生誕した地です。この聖地メッカには、アラビア語で「聖なるモスク」を意味する「マスジド・ハラーム」とういう名のモスクがあります。
そして、このマスジド・ハラームの中庭に「カーバ神殿」があります。カーバ神殿は、世界が創造されてのちすぐ、唯一神たるアッラーに奉納された神殿であるとされ、イスラム教における最高の聖地とされています。
ムスリムが毎日行う礼拝は、このメッカ、ガーバ神殿の方向に向かって行います。全世界にあるモスクには必ずキブラ(カーバ神殿の方向)を示すミフラーブが必ずありますが、カーバ神殿を取り囲む形をしているマスジド・ハラームにだけはミフラーブがありません。
キスワは年に1度交換されており、これを奉納する栄誉はメッカの最高支配者が担います。現在はサウジアラビア政府が奉納者であり、キスワもメッカ市内で制作されています。
また、カーバ神殿の東の角にはアラビア語で黒い石を意味する「ハジャルル・アスワド」と呼ばれる神聖な石も据えられています。神殿を建立したときに天使が運んできたとも伝えられる聖なる石です。現在は摩擦を防ぐために保護されています。
カーバ神殿の礼拝は、大理石の帯を踏み、そこを起点に神殿の周りを半時計回りで7回巡らなければなりません。
問題が無い限り、一生に一度は必ず聖地メッカのカーバ神殿へ巡礼に行かなければならず、世界中のムスリムにとって最も大事な場所です。メッカはムスリム以外の人間が立ち入ることは禁じられており、メッカ全域にわたってイスラムの聖地となっています。
街の中心部には、ムハンマドの霊朝がある「預言者のモスク」があります。後に各地で建設されるモスクの原型はこの預言者モスクです。
メッカの聖なるモスク同様、100万人の収容能力があります。預言者モスクの敷地内の床には、白を基調とした大理石が敷き詰められており、これは炎天下での礼拝時に熱の吸収を抑え、酷暑を防ぐことを念頭においたものになります。
預言者のモスク内、預言者墓廟の南面は「預言者への面会所」と呼ばれ、中央付近にある円形の金属板はムハンマドの頭部の位置を示しています。ここには、初代正統カリフのアブー・バクルと第2代正統カリフのウマルも理想されています。
メディナには、メッカを巡礼したムスリムが併せて訪れることが多いです。ちなみにメディナでもメッカ全域同様に、預言者モスク周辺の市街地はイスラム教徒以外の立ち入りは禁じられています。
なお、メッカの聖なるモスク(マスジド・ハラーム)と預言者のモスクを超えるサイズのモスクは建設できません。
イスラエル東部の都市「エルサレム」は、イスラム教だけでなくユダヤ教とキリスト教も聖地としており、世界三大宗教の聖地が揃う場所は唯一このエルサレムだけです。なぜエルサレムが聖地とされたのか?もちろん意味はあります。
まず1つ目は、当初ムハンマドはユダヤ教にならって、メッカの方向ではなくエルサレムの方向に向かって礼拝をしていたと言われています。ところが、ユダヤ教から反発を受けたため、ユダヤ教と区別するために624年をもって、現在と同じムハンマドの生誕地もあるメッカのカーバ神殿の方向へ変更されました。
そして2つ目が、エルサレムからムハンマドは大天使ガブリエルに導かれ、神の御前へと昇天したとされています。その場所は、金色のドームが目印の岩のドームになります。
伝承によれば、ムハンマドは天馬ブラークに乗ってメッカからエルサレムまで飛び、聖なる岩から大天使ガブリエルに伴われ昇天、アッラーの御前に至ったと言われています。
ただし聖なる岩は、ユダヤ人の祖でもある預言者アブラハムが神に信仰心を試されて、息子イサクを神に捧げようとした台でもあるとされ、ユダヤ教とキリスト教も聖地として主張する場所です(※アブラハムは五大預言者のうちのひとりで、他の4人が、ノア、モーセ、イエス、ムハンマドです)。
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金色のドーム屋根とブルータイルの壁が鮮烈な印象を残す岩のドーム。遠目にも目立つその色彩と形状で、エルサレムの代名詞的存在でもあります。真上から見ると正八角形に近い形状で、内部に目を向けると、中央円形の内陣と2重の歩廊によって聖なる岩を囲うような構造になっています。
地震や火災などで何度も補修を重ね、現在の外観は1994年に改修されたものになります。
メッカとメディナはムスリム以外が入ることができませんが、エルサレムは異教徒にも開かれているのでムスリムでなくても訪れることが可能です。ただし岩のドームは、外観は見学できますがドーム内部はムスリム以外の立ち入りは許されていません。
気になるのが飲酒。ムスリムの飲酒は基本的にほとんどのイスラム圏の国が禁止しており、国によっては処罰される場合も。ただ、最近では海外からの旅行者であれば基本的にOKという国が増え、バーを常設しているホテルもあります(ただし、ラマダン期間は閉鎖されることも)。
ただし、サウジアラビア、クウェート、リビア、イランでは観光客や外国人であっても飲酒は禁止されています。それ以外の国であれば基本的に外国人なら飲酒ができます。国によって厳しさも違うので、お酒を飲まれたい方は事前によく調べておくのがベストです。
因みにトルコではムスリムも公然とした飲酒文化が続いています。もちろん、観光客や外国人も自由にお酒を飲むことができます。
ラマダン期間中だからといって旅行は控えた方がいいということはありません。あくまでもラマダンで断食を行うのはムスリムで異教徒には強制されません。
基本的に飲食店は日没後の営業となる店が多いですが、日中でもムスリム以外の旅行者向けに飲食が出来る場所はあります。逆にラマダン期間中はイスラム文化を垣間見るのにいい機会だと言えます。ただし、日中はムスリムの目の前では出来る限り飲食を控えるなどの配慮を。
旅行についてはむしろ、ラマダン期間中よりラマダン明け1日目~3日目が注意です。この3日間は祝日となるため、観光に影響が出てしまう可能性があります。
これは、イスラムでは女性が非常に大切な存在として扱われ、女性の手と顔以外は家族や夫以外には見せないことになっているからです。むやみに肌を見せると、それは男性の気を引くことになり、女性自身が傷つけられる事態を招きかねない、という見地なのです。
言い方を変えると肌の露出ははしたない、とも受け止められます。よって外国人旅行者であっても、肌の露出はなるべく避け、体のラインが出にくい服装にするのがマナーであり、トラブルも避けやすいです。
女性だけでなく男性も注意が必要です。おへそのあたりからヒザまでの露出は避けられています。暑くてもショートパンツの着用は控えるのが望ましいです。
よって、物を渡す際や、食事をする際などは左手を使うのは避けましょう。左利きの人は大変ですが、郷に入れば郷に従えということで。
イスラムの世界では国によって程度の差はありますが、男女の生活空間をはっきり分けるケースが多いです。そのため、異性に触れることに対しては慎重になる必要があります。
ただ、相手から手を差し出して握手を求めてきたのなら応じても基本的にはOKです(異性間だと断るケースもあるようです)。
例えばバスで座席に座る際は、同性の隣に座るのが無難です。やむを得ず異性が隣り合わせることもありますが、その際はなるべく密着しないように気を付け、他の席が空けば移る場合がほとんどです。
イスラム圏に限らず、海外を旅行する場合は“自分が普段生活している環境と大いに異なること”を理解した上でそれを尊重する必要があります。日本人は無宗教な人がほとんどですが、イスラム教も含め宗教も尊重すべき事柄のうちのひとつです。
普段私たちが当たり前に行っている行いも、無意識のうちに他人に不快感を与える事も無きにしも非ずなので、その土地のことを理解した上で異文化に触れることで新しい発見や経験そして感動が得られるはずです。
イスラム社会では、日本含め世界の多くの地域で用いられているグレゴリオ暦(太陽暦)とは異なる暦法を使用しています。それが「ヒジュラ暦(イスラム暦)」です。このヒジュラ暦が用いられたのは西暦622年。
イスラム教が誕生した12年後になります。預言者ムハンマドがメッカからメディナ(ヤスリブ)へ聖遷した年を「ヒジュラの年」と定め、ヒジュラ暦元年とする新たな暦が制定されました。“ヒジュラ”はアラビア語で「移住」を意味します。
ヒジュラ暦は、コーラン第9章36節冒頭の『アッラーの御許で、(1年の)月数は、12ヶ月である』に基づいた、閏月を置いて季節ないし太陽暦と合わせない「太陰暦(純粋太陰暦)」になります。
月は、約29.5日である朔望月に合わせて、1ヶ月が29日の小の月と30日の大の月という大小月を交互に繰り返します。よって、1暦年は約354日となり太陽暦より11日も短くなっています。そのため、季節や太陽暦と毎年11日ずつずれることになります。
西暦622年を元年とするヒジュラ暦は現在でもイスラム社会で用いられていますが、実際の季節とずれてしまうので、特に農業では不便なことが多くなってしまいます。
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今では世界各地に広がったイスラム社会において、ヒジュラ暦だけのカレンダーで生活をするのは実際問題、困難です。そこで、ヒジュラ暦を変更することはせずに、ヒジュラ暦とグレゴリオ暦の2つのカレンダーが併用されています
日本の暦には和風月名と呼ばれる月の呼び名がありますが(1月:睦月、2月:如月、3月:弥生など)、ヒジュラ暦においても1月から12月それぞれにアラビア語の月名が付けられています。よく耳にする「ラマダン」もそのひとつです。各月には月名の他に意味も持っています。
参考までに、西暦(グレゴリオ暦)とヒジュラ暦を対照してみると、以下のように誤差があります。
なお、ムスリムが人口の99%を占めているトルコでは、トルコ共和国の父アタテュルクが世俗主義政策の一環としてヒジュラ暦を廃止してグレゴリオ暦を採用しました。ですが、イスラム教においての宗教行事に関してはヒジュラ暦に基づいて行われています。
ムスリムが人口の99%を占めているトルコには、イスタンブールを始め数多くのモスクがあります。そんな数多くあるモスクの中でも代表的なのが、誰もが知る、イスタンブールにある「ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)」です。そして、イスタンブールの名所「アヤソフィア(ハギアソフィア)」は、2020年7月にモスクに回帰しました。
そんなトルコは、ムスリムが多く暮らしている国の中で “政教分離=世俗主義”としている唯一の国でもあります。政教分離の始まりは1923年、トルコ共和国の建国の父、初代大統領アタテュルクが、“宗教と政治を分離しなければトルコの発展はない”として、政教分離を国家の基本原理としました。
ムスタファ・ケマル・アタテュルク|トルコ建国の父の歴史と偉業
ここで、憲法からイスラム教を国教と定める条文の削除や、600年以上使われていたアラビア文字をラテン・アルファベットに変更したり、一夫一妻制に変更したりと改革を推進していきました。また、トルコの政府組織には「ディヤネット」と言う宗教庁があり、国家が宗教を管理しています。
イスラム教では心の内の信仰だけでなく、ムスリム女性は家族以外の男性に肌を見せないようにスカーフで顔や頭を覆うなどの外形的な決まりもありますが、トルコでこれは公の場では禁止されています。
また、原則として禁止されている飲酒も敬虔な人々はもちろん飲酒はしませんが、特別な規制はないので自由に飲むことが出来ます。現にトルコは豊かな飲酒文化を持つ国と知られ、ビールやワイン、トルコの国民酒とも言えるラクという名のお酒もあります。
トルコのお酒やソフトドリンク|トルコで飲みたい!おすすめドリンク。
そして、トルコのコンヤという町は、イスラム神秘主義(スーフィズム)の一派「メヴラーナ教団」の中心地となっています。そのメヴラーナ教団が行う儀式である旋舞「セマー」はユネスコ無形文化遺産に登録されており、ミステリアスな旋回の舞いを鑑賞することもできます。
あくまでもセマーは儀式なので、厳かな雰囲気の中での鑑賞となります。これもイスラム文化に触れられる機会のひとつなので、トルコを訪れた際は是非ご覧になってみてはいかがですか?
★「メヴラーナ教団」について徹底解説した記事もあります!さらに詳しく知りたい方は是非下記のコンヤの町の記事も読んでみてください!
コンヤの町|メヴラーナの生涯とその放浪の旅
ここまでの内容だとトルコはとても緩い印象を受けますが、イスラム教の基本指針「六信五行」はしっかりあります。モスクで礼拝をするムスリムは多くいますし、街中で礼拝を告げるアザーンを耳にする機会も多くあります。もちろん、ラマダンでの断食などのイスラム行事もしっかり行われています。
異教徒でも特別な規制を受けることなくイスラム文化を身近に触れるならば、トルコは魅力的な場所とも言えます。
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小田急線・代々木上原駅から歩いて5分ほどの場所に、日本最大級のモスク「東京ジャーミイ」があります。その歴史は古く、はじまりは戦前にも遡ります。
ロシア革命によって迫害を受けたロシア・カザン州のトルコ人ムスリムは、満州を経て日本へ移住してきました。そして彼らは1938年に「東京回教礼拝堂」を設立します。これが東京ジャーミイの前身です。以来、都心に住むムスリムたちの拠り所として存在し続けてきました。
老朽化に伴い、トルコ全土から集められた寄付金で1997年に再建され、現在の東京ジャーミイの姿として2000年6月に開堂しました。東京ジャーミイは駐日トルコ共和国の管轄下にあり、伝統的なオスマン・トルコ様式のモスクで、敷地面積は734㎡。礼拝場とホールを合わせると2000名の収容が可能なほどの大きさになっています。
礼拝堂の中に入ると、その美しい内装に思わず息をのむほどです。床には青い絨毯が敷き詰められ、青のステンドグラスが日の光を浴びてキラキラ輝いています。ドームの形やモスクの大理石の壁から内部の装飾などは、まるでイスタンブールにあるモスクを思わせるデザインで、ここが日本であることを忘れてしまうほどの普段見ることのない空間が広がっています。
東京ジャーミイはムスリム以外でも見学が可能です。入口には女性用の頭を覆うためのスカーフの無料貸し出しも行われています。場所が日本であっても、モスクが神聖な場所に変わりありません。男性も女性もモスクを訪れる際は肌の露出は控えるなどしてマナーを守りましょう。
この記事を読んでイスラムに興味を持たれた方は是非、東京ジャーミイにも足を運んでみてはいかがですか?
日本最大のモスク「東京ジャーミイ」はトルコの魅力が詰まった場所 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
世界各国で活動を展開しているイスラム過激派組織はいくつかありますが、その中でも世界に大きな衝撃を与えた事件といえば、オサマ・ビン・ラディン率いるアルカーイダが2001年に引き起こした、9.11ことアメリカ同時多発テロと言えます。
これに報復として、あるいは過激派組織によるテロを封殺するための戦いとして、アメリカは2000年代にアフガニスタン紛争とイラク戦争を他の先進国も巻き込みながら断行していきました。
そして、2010年代に台頭するようになったのが「イスラム国」で、この時代の初頭には「アラブの春」という民主化革命がアラブ世界の各国で巻き起こりました。
イスラム国を耳にするようになったのは、2014年の夏あたり。同年6月末にイラク西部からシリア東部にまたがる地域でカリフ国家の樹立を宣言したそのイスラム過激派組織は、支配領域を拡大するだけでなく、敵対勢力や外国人を惨殺・処刑する動画をインターネット上にアップするなどして、その残忍なイメージを世界中に拡散させていました。
オサマ・ビン・ラディンが2011年5月2日、パキスタンにおいて米軍による「ネプチューンの槍」作戦で殺害されてから10年。アメリカなどを標的としていたほとんどのテロはグローバルな脅威から、ローカルな活動しかなし得ない存在へと変わりました。アフガンのタリバン、ナイジェリアのボコ・ハラムなどがそうです。
また、アルカーイダは今や中心的な司令部も思想もない民兵組織に分散してしまい、資金力のあるイスラム国においては作戦し得る場所は不安定な場所しかない状況です。
かつては国際政治の中心的な課題でもあった、イスラム過激派によるテロは、今では若干の国において、その国の問題としてくすぶっているような問題になりました。このように縮小した原因にひとつに、「実績が著しくないことから大多数のムスリムを幻滅させたため」とも考えられています。
これら過激派にまつわるネガティブなニュースが大々的に報じられることにより、イスラム教に馴染みのない私たち日本人は「イスラム教徒(ムスリム)は怖い」というイメージを抱く人が多いと思います。
こういったことからイスラム教は誤解されやすいですが、実際はムスリムたちにとっても、過激派は“イスラム教の名前を使ってイスラム教とまったく逆のことをしている”と考える人が多くいます。善行をして神の前に戻らないといけないと考えているムスリムにとって、過激派がとる行動は全く理解できないことなのです。
日本の一休さんのように、イスラムの国々でも“とんち”で親しまれている「ホジャ」という人物がいます。トルコでは「ナスレッディン・ホジャ」、アラブでは「ジューハ」、エジプトでは「ゴハ」と呼ばれ、イスラム圏で語り継がれています。
13世紀にトルコに実在した人物がモデルとされ、所縁の地であるトルコの中央アナトリア地方のコンヤにある「アクシェヒル(Akşehir)」にはホジャのお墓もあります。
ホジャの民話には明快なストーリーも多いですが、権力者さえも笑いの対象にする高度なユーモアもあります。オスマン帝国の衰亡期にはそうした反権力的思想を恐れて、ホジャの話が禁じられたほど。
老若男女の誰もが知るホジャは、イスラムの精神性を知るうえでも欠かせない存在です。ホジャのお話はたくさんありますが、その中から1つのお話を紹介します。
ある金曜日、ホジャは説教壇に登って人々にこう言いました。
「皆の衆、わしがこれからどんな話をしようとしているかお分かりかな?」
人々は口をそろえて答えました。
「分かりません」
「なに、分からない?分からない人たちには何を話しても無駄というものだ」
ホジャはこう言うと、ゆっくり説教壇を降り、礼拝堂から出て行ってしまいました。
次の金曜日、ホジャは再び説教壇に登ると、人々にまたしても同じ質問をしました。
「皆の衆、わしがこれからどんな話をしようとしているかお分かりかな?」
人々はすぐ答えました。
「分かります。」
この前、「分かりません」と答えてホジャに逃げられたからです。
「なに、お分かりとな?それならわしが話すまでもない。みなさん分かっていらっしゃるなら、わざわざ話すのは無意味というものだ」
ホジャはこう言うと、説教壇を降り、またしても礼拝堂から出て行ってしまいました。
さて、その次の金曜日。人々はホジャがやってくる前にしっかり相談しあいました。ある人たちが「分からない」と答え、残りの人たちが「分かる」と答えれば、さすがのホジャも今度こそは立ち往生するだろうというわけです。そこにやってきたホジャは、説教壇に登って今度も同じ質問をしました。
「皆の衆、わしがこれからどんな話をしようとしているかお分かりかな?」
そこである人たちは手はずとおり「分かりません」と答え、残りの人々は「分かります」と答えました。
「ふむ、大変結構。それでは分かっている人たちは分からない人たちに教えてやることですな。」
ホジャはこう言うと、説教壇を降り、ゆうゆうと礼拝堂から出て行ってしまいました。
『トルコの愉快なおじさん ナスレッディン・ホジャのお話』/著:児島和男/東京トルコ・ディヤーナト・ジャーミイ(一部抜粋)
結局、ありがたいお言葉は一言も口にしない。信心深い民衆とホジャの対比が見られ、“ムスリムは皆、生真面目”という先入観が変わるお話でした。
いかがでしたか?私たち日本人にとってあまり馴染みのない「イスラム教」ですが、この記事を読んで少しでも理解が深まると嬉しいです。
日本ではとても馴染みが薄くニュース以外ではなかなか接しないイスラム世界ですが、ここでは偏った情報にとらわれず、教義や信仰、歴史に生活など、イスラム教について徹底解説します!
目次
イスラム教「イスラーム」とは?
イスラム教はキリスト教・仏教と並ぶ世界三大宗教のひとつで、キリスト教に次ぐ世界第2位の信者数約19億人(世界人口の約25%)を誇ります。誕生は西暦610年。預言者ムハンマド(570年頃~632年)が神の啓示を受けたことから始まりました。
イスラムという言葉は、アラビア語で「神の教えに帰依すること」を意味しています。
イスラム教の神様は唯一絶対神である「アッラー」
信仰の対象は、ただひとつの神である「アッラー」。アッラーとはアラビア語で「神」を意味します。英語の「神=God」と同義語です。アッラーはこの世の全てを支配する全知全能の神です。
こうした唯一絶対神を信仰する宗教を「一神教」と呼びます。日本では「○○の神様」や「八百万神」というように多様多種な神々が存在しますが、イスラム教ではあり得ないことです。
さらにイスラム教では偶像崇拝が禁止されており、神の唯一性を重視するため、預言者の姿を描く絵画的表現は許されていません。
イスラム教・キリスト教・ユダヤ教は起源を同じくする姉妹宗教
ちなみに“一神教”は、世界の主要宗教の中ではイスラム教、キリスト教、ユダヤ教の3つ。キリスト教では「God」、ユダヤ教では「ヤハウェ」と神の呼び方が異なるだけで、どれもが同じ「神」となる存在として認識されています。このように絶対神を崇拝するという共通点があるのは、この3つの宗教が起源を一つにする姉妹宗教・兄弟宗教だからです。歴史的には、まず紀元前にユダヤ教があり、その後キリスト教が誕生し、その改革運動としてイスラム教が生まれたという流れです。
イスラム教・キリスト教・ユダヤ教の違い・関係性
イスラム教・キリスト教・ユダヤ教で異なるのは「預言者(=神の言葉を預かる者)」と、預言者の違いからくる神の言葉の違いが大きく影響する「教義」です。ですが、絶対神を崇拝するところでは3宗教の根はひとつ。イスラム教ではキリスト教やユダヤ教の信者は「啓典の民(=神の啓示に基づく信仰をもつ民)」と呼ばれますが、これはイスラム自身にも当てはまります。
イスラム教の理解では神は何人もの預言者を通じて人類に啓示を与えてきたとされ、実際「コーラン」にはモーセやキリストも登場します。その中で、イスラムの預言者ムハンマドは人類最後にして最大の預言者であり、ゆえにイスラム教徒こそが真に正しい神の信者と考えられています。
ただ、「啓典の民」であれば(キリスト教でもユダヤ教でも)同じ「神」の信者同士、敵対関係にならない限りは他宗教との共存も問題ないとしています。
根本は同じ3宗教ではありますが、それぞれ以下のように整理できます。
- ユダヤ教:唯一絶対神を信じるが、認めるのはモーセと旧約聖書のみ
- キリスト教:上記にイエス・キリストと新約聖書が加わる
- イスラム教:ユダヤ教とキリスト教の2つを包括したうえで、預言者にムハンマドを、啓典にコーランを追加した宗教
キリスト教とはどんな宗教か?誕生から教えなどを徹底解説! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
イスラム教を信仰している国・イスラム教徒の人口
順位 | 国 | イスラム教徒 の数 |
国全体 の人口 |
イスラム教徒 の割合 |
世界全体に占める イスラム教徒の割合 |
---|---|---|---|---|---|
1 | インドネシア | 229,000,000 | 276,361,783 | 87.20% | 12.70% |
2 | パキスタン | 200,400,000 | 225,199,937 | 96.50% | 11.10% |
3 | インド | 195,000,000 | 1,393,409,038 | 14.20% | 10.90% |
4 | バングラデシュ | 153,700,000 | 166,303,498 | 90.40% | 9.20% |
5 | ナイジェリア | 99,000,000 | 211,400,708 | 49.60% | 5.30% |
6 | エジプト | 87,500,000 | 104,258,327 | 92.35% | 4.90% |
7 | イラン | 82,500,000 | 85,028,759 | 99.40% | 4.60% |
8 | トルコ | 79,850,000 | 85,042,738 | 99.20% | 4.60% |
9 | アルジェリア | 41,240,913 | 44,616,624 | 99.00% | 2.70% |
10 | スーダン | 39,585,777 | 44,909,353 | 97.00% | 1.90% |
イスラム教徒の人口が多い国TOP10は上記の表の通りです(2021年時点)。
世界的なイスラム信者数の割合は、想像どおり中東諸国に多いのですが、世界を見渡すと実はアフリカ、中央アジア、東南アジアにも信者の多い国はあります。その中でもイスラム信者が最も多く住んでいるのが実はアジアで、世界の7割ほどを占めています。
国別で言うと、インドネシアが最大で、次いでパキスタン、インド、バングラデシュと続いていきます。また、そもそもの人口が多いために割合は少ないですが、中国(約2,800万人)やロシア(約2,000万人)にも多数のイスラム教徒が暮らしているのです。
イスラム教徒になる方法は実はとても簡単
イスラム教への入信には洗礼のような儀式は必要としておらず、成人の信者2人を証人として、以下の2つの言葉をアラビア語で宣誓するだけでイスラム教徒となることができます。- 『アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー』(アッラーの他に神なし)
- 『ワ・アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー』(ムハンマドはアッラーの使徒なり)
イスラム名は自分で決められますが、よく知られた預言者の名前などを選ぶケースが多いようです。
イスラム教徒は「ムスリム(Muslim)」
「ムスリム(Muslim)」とはイスラム教徒のことを指します。英語では男女ともに「ムスリム」と呼びますが、アラビア語では女性信者を「ムスリマ」とも呼びます。ですが、アラビア語社会以外では基本的には区別しません。外見ではムスリムを判断するのは難しいですが、顎髭をたくわえていた預言者ムハンマドに従うのがよいという考え方の影響で、男性は髭をたくわえているケースが多いです。
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イスラム教の教典「コーラン(クルアーン)」とは?
「コーラン(クアルーン)」とはイスラムの信仰の拠りどころである啓典です。アラビア語では「クアルーン」と言い「詠唱すべきもの」という意味を持ちます。
コーランにあるのは、イスラムの全てであり、ムスリムが遵守し常に心に留めておくべき事柄の全てとなります。信仰行為から社会生活イスラム国家に関わる事項まで、その内容は多岐にわたります。
コーランに書かれているのはアッラーの言葉
アッラーから大天使ガブリエルを通じてムハンマドへ下った啓示は一度に全てがもたらされたわけではなく、ムハンマドが最初の啓示を受けてから亡くなるまでの間、断続的に下っていました。アッラーの言葉は、ムハンマドの口を通して人々に伝えられており、当初はコーラン全体が書物のかたちでまとまってはおらず、「啓示の原型の維持」は基本的に人々の記憶に頼るしかありませんでした。
コーランが書物になるのは、第3代カリフ(ムハンマド亡き後の最高権威者)のウスマーンの時代(644~656年)になってからのことでした。
書物となったコーランは全部で114のスーラ(章)からなり、1章の「開扉章」から114章の「人間章」まで全て、「食卓」「信者」「勝利」など内容に応じた名称を持ちます。
コーランは読誦(声を出して読む)しなければならないのと、アラビア語以外は認められていません。コーランの章句ひとつひとつに重層的な意味が含まれており、それを正しく表現できるのはアラビア語だけとされているからです。
そのため、コーランは聖書と異なり翻訳版というものは存在しません。他の言語でその意味や内容を一言一句置き換える事は不可能だからです。アラビア語以外で書かれているものはあくまでもコーランの解釈例でアッラーの言葉ではありません。
コーランはアッラーの言葉と見なされた文書のみで構成されており、それに対する説明や注釈は含まれていません。コーランの注釈は「タスフィール(啓典解釈)」と総称され、コーランを理解するための別ジャンルとなっています。
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コーランに次ぐ第2の啓典「ハディース」
ムスリムの生活や行動基準は啓典である「コーラン」に基づいていますが、コーラン以外に「ハディース」と言う、コーランの次に重要な第2の啓典も存在します。ハディースとは預言者ムハンマドの言行録で、内容は、宗教上の作法から食事、健康の管理、服装、結婚など日常生活全般におけるものとなっています。
ハディースはコーラン同様に、ムスリムにとっての「生きる指針」であり、ムハンマドが生前言ったことやおこなったことが今もムスリムたちにとってのお手本になっています。
ムスリムの男性には髭を生やした人が多いのですが、これはハディースにムハンマドが髭を生やしていたという記述があるためです。また、イスラム圏では猫を可愛がる人が多いのですが、これもムハンマドが猫を愛したとハディースに書いてあったためです。
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コーランとハディースがあると混乱してしまうのでは?と思いますが、ハディースはコーランを補足する役割があります。コーランは大まかした記述が多いため、詳しい事を知るにはハディースも読む必要があるのです。
例えば、礼拝についてコーランには「礼拝をせよ」とだけ書いてあるだけで、具体的な礼拝方法は記されていません。詳しい礼拝方法などがハディースに書かれているのです。
つまりハディースはコーランの注釈書でもあり、ムスリムの行動基準のかなりの部分はハディースによっています。
スンナ派とシーア派の違い
中東に関するニュースで、「スンナ派」や「シーア派」という言葉をよく耳にすると思います。ムハンマドの死後、後継者争いによる宗教分裂によって生まれたのがスンナ派とシーア派です。そのため、スンナ派とシーア派では、ムハンマドの後継者に対する考え方に違いがあります。しかし、宗派が違っても基本的な教義に大きな違いはありません。もちろん、コーランに従うという原則も一緒です。
あえて違いを大まかに言うならば、礼拝の回数がシーア派は3回であったり、若干の礼拝作法の違いがあったり、聖地の数がシーア派には多いというところです。シーア派特有の「アーシューラー」というお祭りもあります。
スンナ派|血統ではなく能力で決める
「預言者ムハンマドのスンナ(慣行・範例)を重んじる人々」という意味を持ちます。初代正統カリフのアブー・バクル以後、第4代正統カリフのアリーまでのカリフを認め、イスラム教第2の啓典ハディースの中にスンナを見出します。実際にはムスリム全体の約9割を「スンナ派」が占めており、信者は世界の広い範囲に広がっています。
シーア派|ムハンマドの子孫こそが後継者にふさわしい
「シーア・アリー(アリーの党派)」の略称。アブー・バクル以後の3代のカリフを認めず、ムハンマドの娘であるファーティマを娶った第4代のアリーとその子孫こそ正統なカリフと主張しました。シーア派は約1割程度と少数派ですが、その中でも全体のシーア派人口の3分の1を占めているのがイラン(人口の約90%)で、現在イランの国教ともなっています。バーレーンやイラクでも人口の約65%がシーア派となっています。
スンナ派とシーア派は必ずしも対立しているわけではない
ニュースでも耳にすることからスンナ派とシーア派は対立していると思われがちですが、必ずしも信者同士がお互いを敵視しているということはありません。スンナ派とシーア派で結婚することもありますし、同じモスクで礼拝を行なうことも問題ありません。そもそも自分がどちらの宗派か分かっていない人も少なくないようです。
スンナ派国家のサウジアラビアとシーア派国家のイランの敵対関係は「スンナ派対シーア派」の対立として言われがちですが、実際は民族対立や地域の覇権争いなど、様々な要素が絡み合っています。
また、イラン・イラク戦争などの中東の問題も宗教対立が本質ではなく、利権の問題が絡んでいるケースがほとんどです。
イスラム教に欠かせないモスクの基礎知識
「モスク」とはイスラム教の礼拝堂です。イスラム圏内に旅行に行くと必ず見どころとしてある「モスク」。
ほとんどのモスクで美しい装飾がほどこされていますが、イスラム教では偶像崇拝が禁じられているので、モスクには宗教のシンボルや聖像など偶像になりえるものはありません。
モスクの内部は、礼拝を行なう「キブラ」(メッカの方角)を示す壁に「ミフラーブ」と呼ばれる窪みがあり、ミフラーブ向かって右隣には「イマーム」(指導者)が集団礼拝の際に説教を行う階段状の説教壇があります。
モスク外部には、礼拝前に体を清めるための泉(ウドゥー)などが見られ、礼拝を告げる「アザーン」(呼びかけ)を行う「ミナレット」(尖塔)も多く見られます。モスクは礼拝に必要な形状や設備が整えられたシンプルな宗教施設になっています。
基本的に、日常の礼拝は無理にモスクへ行く必要はないとされています。ただ、金曜日の集団礼拝の日はなるべくモスクで礼拝することが奨励されています。モスクに場所の指定はありませんが、出来れば色々なモスクへ行くのが良いとされています。
余談ですが、モスクにあるミナレットはその役割から1本でもいいのですが、見た目のバランスや装飾的な意味から2本や4本と付け加えられることもあります。
ひとつのモスクに2~4本のミナレットがあるのが一般的ですが、トルコのイスタンブールにある「ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)」には6本ものミナレットがあります。世界中で6本のミナレットを持つモスクはこのブルーモスクだけです。これには次のような伝説があります。
ブルーモスクを建造するにあたり、スルタン・アフメト1世は建築家にトルコ語で“金色”を意味する「Altın(アルトュン)」のモスクを建造するように命令をしました。しかし、建築家はアルトュンをトルコ語で“6”を意味する「Altı(アルトュ)」と聞き間違え6本のミナレットをモスクに造りました。ところが、ブルーモスクが建造された当時、6本のミナレットが許されていたのは聖地メッカのみでした。恐縮したスルタン・アフメト1世は、メッカに7本目となる新しいミナレットを1本寄贈しメッカの威厳を守りました。
ちなみに、メッカにはミナレットがもう2本増え、現在は9本ものミナレットがあります。
ブルーモスク「スルタンアフメト・モスク」はイスタンブール観光の目玉!
イスラム教の教え|基本ルール「六信五行」とは?
イスラム教の信仰の基礎となっているのが啓典である「コーラン」に啓示として記された様々な教義や決まりになります。その中でも特にムスリムが信じるべき6つの信仰箇条を「六信」、義務として課せられた5つの行為を「五行」と呼び、「六信五行」と称されています。「六信」は信じるべき対象ではあるが、アッラー、天使、来世など目に見えないものが多く、人間であるイスラム教徒には見えませんが、「コーランで啓示されている以上、信じる対象は存在するので、我々は信じる」といった認識でとらえられています。
全てのムスリムが、その絶対的真実性を信じなければならない、6つの存在が六信です。信仰心そのものが他人から直接見えることはありませんが、アッラーからは全てが見えています。
「五行」は実生活で行動しなければいけないものなので、俄然具体性が増してきます。目に見えるものなのでイスラムの特性として分かりやすいです。例えば、礼拝、断食、巡礼などのイスラムのシンボル的な行動は全てこの五行の中に含まれています。
自らの揺るぎない真っ直ぐな信仰心を日々の暮らしのなかで弛むことなく実践します。五行に勤しむのはムスリムにとっては、呼吸や睡眠と同じく自然なことなのです。
では、「六信五行」にはどういった内容があるのか?下記に詳しく説明していきます。
イスラム教の6つの信仰「六信」
神(アッラー)
過去・現在・未来を通じて永遠に存在する唯一絶対神「アッラー」。万物の創造主であり、最後の審判の主審者です。アッラーの唯一絶対性はイスラムの根幹であり、アッラー以外の神はもちろん、アッラー以外のいかなる信仰対象も認めないところからイスラムは始まります。しかし、偶像崇拝を禁じているためその姿は描かれません。アッラーとは神を意味するアラビア語「アル・イラーフ」の短縮形になります。
天使(マラーイカ)
アッラーと人間の仲介的存在と考えられ、アッラーの命令を実行します。アッラーはこの世に姿を現さないので、仲立ちたる天使の役割は重要です。イスラムでは四大天使の存在が認められており、その中でも最高位の「ガブリエル(ジブリール)」は、預言者ムハンマドにアッラーの啓示をもたらした存在として名高いです。
「ミカエル(ミーカーイール)」はガブリエルと合わせ旧約聖書にも登場する大天使、「イズラーイール」は死を司り、「イスラーフィル」は終末のラッパを吹くとされています。
啓典(キターブ)
アッラーが預言者を介して人間に下した天啓書になります。なかでも重要とされるのが、旧約聖書の一部である「モーセ五書」と「ダヴィデの詩編」、新約聖書に含まれる「イエスの福音書」、そして「コーラン」とされています。これはイスラムがユダヤ教、キリスト教も認めている証拠でもあります。ただし、最も重要なのがムハンマドへの啓示である「コーラン」で、アッラーの言葉のみを完全に伝えたとされるコーランは別格の存在です。他の啓典が人間の手によって編さんされたとする立場をとるイスラムでは、コーランは諸啓典の集大成なのです。
預言者(ナビー)
預言者とはアッラーの言葉を「預かる」人間で、イスラムではムハンマドの他に、先行する全ての預言者たちを認めています。最初の預言者は、人類の祖アダム。コーランには総勢25名(諸説あり)の預言者が登場し、そのうち最も偉大な使徒とされるのが、ノア、アブラハム、モーセ、イエス・キリスト、そしてムハンマドです。
イスラムは最後に現れたムハンマドを最後で最大の預言者とし、最も完璧にアッラーの言葉を伝えるとしています。
来世(アーヒラ)
コーランの中で説かれている来世はこうです。まず人間が「最後の審判の日」にアッラーの前で審判を受ける。そこでは生前の行為が読み上げられ、悪人は地獄へ、善人は天国へと導かれる。
この点はキリスト教と同じです。天国では平安な日々が過ごせますが、地獄では永遠の責め苦に苛まれるとされています。ただし、大罪を犯した者でも信仰があれば赦されたり、地獄で罰を受ければ天国へいける場合もあるとされています。
定命(カダル)
天国と地獄のどちらへ至るかは生前の行状によって決まりますが、イスラムではさらに「定命」の存在を示しています。人間を含む全ての被造物は、創造主たるアッラーによって予め運命が定められており、アッラーの望みを人間は変えることができません。アッラーに帰依することは、平和をもたらすアッラーの意志に従って暮らすことを示します。
イスラム教徒の5つの義務「五行」
信仰告白(シャハーダ)
信仰告白の意味を持つシャハーダは「証拠、証言」を意味するアラビア語が転じたものです。具体的には、イスラムの基本原理「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー。ワ・アシュハド・アンナ・ムハンマダン・ラスールッラー。」(アッラーの他に神なし。ムハンマドはアッラーの使徒なり。)という言葉を唱えることを指します。ムスリムは日に5度の礼拝のたびにこの言葉を唱え、不動信仰心を養います。異教徒の改宗時にも、2人の証人の前で同じ言葉を唱えます。
礼拝(サラート)
アッラーへの服従と感謝の心を前身で表現するのが礼拝です。ムスリムは毎日、1日5回の礼拝が義務付けられています。なるべく集団で列をつくり、コーランを読誦しながらキブラ(メッカの方角)に向かって行います。
礼拝前には体を清めなければならず、全身の沐浴が最もよいですが、手足や顔を洗うだけでも許されます。作法は起立して低頭、ひざまずいてから地面に額をつける。これを何度か繰り返し行うのが基本の動作です。
モスクにはキブラを示すミフラーブがあり、イスラム圏のホテルでは客室内にキブラを示す案内を用意されていることも多いです。
断食(サウム)
イスラム暦の第9月は「ラマダン月」と呼ばれ、年に1度、約1ヶ月間の断食を行います。断食は日の出から日没までとなり、その間は一切の飲食を断ちます。日の沈んだ夜間の飲食は自由です。基本的に大人の義務になりますが、病人や旅行者は後日まで猶予できます。
断食中は、飲食の他喫煙や性行為も禁止、大声や口論も慎み、忍耐力や自制心を養います。数ある行事の中でも特別で、期間が明けると祝いの祭りが盛大に行われます。
ちなみに、断食と聞くと「ラマダン」という言葉が浮かびますが、ラマダンとはイスラム暦の9月を表す月の名称で、断食を指す言葉ではありません。
★「ラマダン」を徹底解説した記事もあります!ラマダンの断食についてさらに詳しく知りたい方は是非下記のラマダン記事も読んでみてください!
ラマダン=断食じゃない?!イスラムにおける意味と旅行者のマナー
喜捨(ザカート)
貧しい人々のために1年間で貯蓄できた中から喜捨を行うのがザカートです。喜捨は制度化され料率も決まっていて、現金ならその2,5%を供出します。言わば事実上の財産税ですが、“人間の財産はすべてアッラーから所有を許されたもの”と解釈されているので、税金というよりは自分を清める浄財という位置づけになっています。
イスラム国家の中にはこの喜捨を司る機関が存在し、集まった喜捨は貧者、困窮者、喜捨の徴収人、イスラムへの改宗者、奴隷の身請け、負債者、イスラムの伝道活動などに充てられます。なお、自発的に行う喜捨は「サダカ」と呼ばれます。
巡礼(ハッジ)
ムスリムであれば生涯に一度、果たさなければならない「聖地巡礼」を指します。イスラム暦第12月(ズー・アル=ヒッジャ月)の8日~12日までの5日間で、定められた方式と道程に則りメッカのカーバ神殿などを参るというものになります。
この期間は、全世界から200万人ものムスリムがメッカに参集すると言われています。1日でも遅れると認められず、この5日間以外に行う巡礼は「ウムラ」と呼ばれ「ハッジ」とは区別されます。
近代以前のハッジは、身体的にも経済的にも負担の大きい旅で、なかには命を落とす者も少なくなかったほど。そのため、コーランにも「出かけることが可能な者」をハッジの対象とする言及があり、肉体的、経済的に可能である限り、という前提条件が存在しています。
日本語で時々使われる「○○のメッカ」の語源はイスラム教の聖地?! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
イスラム教(ムスリム)の食事
ムスリムの日常、その行動基準は、啓典である「コーラン」、ムハンマドの言行録である「ハディース」、それらを基につくられた「シャリーア(イスラム法)」です。そして「六信五行」もその中に含まれます。ムスリムの生活については、豚肉は食べてはいけない、お酒もダメなど、ざっくりとしたイメージしかないと思います。ここでは、イスラム教の食生活について解説します。
ムスリムは豚肉・豚由来の食品を食べない
ムスリムが豚肉を食べない理由はとても単純です。それは、コーランに「食べるな」と書いてあるからです。コーランの2章173節には、食べることを禁じられるものに、「死肉、血、豚の肉、アッラー以外の名が唱えられたもの(異神に捧げられたもの)」との記述があります。
コーランは“アッラーの言葉”として絶対的な原則である為、豚肉を食べてはいけないことに対して疑問に思う理由は存在しません。コーランに書かれていることが十分な理由付けになります。
また、コーランの6章145節では豚について「忌まわしいこと」との記述もされている事もあり、多くのムスリムが、豚は「不浄の動物」と言い聞かされて育っているため、豚に対して嫌悪感を持っている人がほとんどです。
コーランで禁じているのは「豚肉」だけですが、豚由来のものも禁止です。大半の学者の意見が「豚から得られる全てのものが禁止」となっているからです。そのため、ハムやサラミ、ソーセージにベーコン、ラード、ポークエキスなどもだめです。当たり前ですが、とんこつラーメンも絶対にだめです。
もし誤って豚を食べてしまった場合、わざとでなければ罪にはなりません。また、他に食べる物がなく餓死しそうな場合も許されます。禁じているのは“豚”だけなので、それ以外の鶏や羊、牛、ラクダなどは食べられるので食肉のレパートリーは豊富です。
ただし、適切な処理をされていることが必須です。適切な処理とは具体的に、“「慈悲あまねく慈悲深きアッラーの御名によって」という言葉を唱えて頸動脈を切って屠殺し、体内の血液を流して処理したもの”となります。
その他にも卵、乳製品、魚、野菜、果物、穀物、豆などは食べられるので、豚由来でなければ基本的にほとんどの食品が食べてOKです。
イスラム教はお酒も禁止
また、イスラム教では豚以外に「お酒」も禁止されています。これも豚同様に、コーランで禁止されているからです。ですが、飲酒について最初禁止はされていませんでした。しかし飲酒による弊害が目立つようになり、次第に禁止となりました。あくまでも「飲酒が禁止」となります。調味料にアルコールを添加している場合がありますが、これもだめです。もし飲酒をしてしまった場合、後でしっかりお祈りや貧しい人に施しをするなどをして挽回していきます。
ちなみにトルコでは、ムスリムでも公然とした飲酒文化が続いており、観光客や外国人も自由にお酒を飲むことができます。ただし、そんな自由なトルコであっても豚肉を食すことは依然禁止となっています。
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ハラールフードとは?
イスラムでは合法なものを「ハラール」、非合法なものを「ハラーム」と言います。よって、ハラールフードとはイスラム教にとっての“合法な食品”となります。最近では日本でもハラール認証を取得している食品や飲食店を見かけることが増えてきました。「ハラール認証」とは、宗教家とハラール認証機関が検査をしてハラール性を保証する制度です。ハラール認証を取得するまでには厳しい監査があり、食品だけではなく、製薬、医療、サプリなどにも及びます。
行程は「農場から食卓」までとなっており、製品の原材料が消費者に届くまでの一連の行程まで監視されます。
例えば羊肉がハラール認証を取得する場合、まずエサがハラールなのかどうかから調べます。どんな餌を食べて、放し飼いで飼われているかなどを検証します。そして羊が畜されるとき、この羊を処理する人は必ずムスリムでなくてはいけません。
動物の首にナイフを入れるときは必ず唱えるべき言葉もあります。肉を処理した後は輸送されますが、その際にも輸送するコンテナに豚肉などを一緒に入れてはいけません。このような過程を経てハラール認証が獲得できます。
また、飲食店がハラール認証を取得する場合は、台所にあるすべての調理器具は豚肉を扱っていないものに限られます。さらに、調理人がムスリムでなければいけません。加えてアルコールも置いてはいけません。これらの条件が整ってハラール認証が取得できます。
ですが、日本ではこの条件すべてを満たすことはなかなか難しいです。調理人がムスリムでない場合、少なくともそのお店の中で最低ひとりはハラール認証についての講習を受ける必要があります。
このようにハラール認証は厳しい監査を受けて取得します。これにより、日本在住のムスリムやムスリムの訪日観光客は安心して食事を取ることができます。ムスリムにとってハラールの食品のみを口にすることは、信仰そのものなのです。
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東京ジャーミイハラールマーケット|オンライン・ショップ
住所 | 151-0065 東京都渋谷区大山町1-19 |
電話番号 | 03-5790-0760 |
入場料 | なし |
公式サイト | https://tokyocamii.org/ja/ |
オンラインショップ | https://halalmarket.tokyocamii.org/ |
ムスリムの服装
イスラム圏の国々を旅すると、ベールを纏った女性の姿をよく目にすると思います。頭髪や身体を真っ黒なベールで覆い隠した敬虔なムスリムの女性の佇まいは、神秘的であると同時に少々異様な光景でもあります。
その姿から、イスラムが女性に対して抑圧的であるイメージを持つ人も多いと思いますが、一方では、カラフルなスカーフを洋服に合わせファッショナブルに着こなす国もあります。
女性の服装ルールは国によって大きく差がある
そもそもイスラム教では男女ともに体の露出を少なくすることが求められています。特に女性は顔と手以外を隠し、近親者以外には目立たないようにしなければなりません。ですが、実はコーランの中には具体的な衣装の着用義務は記されておらず、「慎み深く目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分は仕方ないが、その他の美しいところは人に見せぬよう」とだけあります。この中では、目だけを見せるのはいいとか、服装の色は黒でなくてはいけないといったルールは書かれていません。
この章句をどのように解釈するかは、宗派や学者の間でも幅があり、社会的・文化的背景にも違いがあることから、地域によって“ドレスコード”が異なっています。
厳格な政教一致の国のサウジアラビアでは、女性は10歳頃から親族以外の男性がいる場所では黒い「ヒジャブ」(髪の毛と首をスカーフで覆うスタイル)で髪を隠し、「アバヤ」という黒い布で全身を覆います。
イランでは、女性は9歳頃よりヒジャブを着用し、これを守らなければ宗教警察に逮捕されてしまいます。
逆に、イスラム世界初の世俗主義国家となったトルコでは、公的な場では女性のスカーフ着用が禁じられましたが(その後一部許可)、普段の装いは各自に委ねられています。都市部になると欧州と同じようなファッションをした女性も多いです。ただしモスクに入る際は、外国人も含めて頭を覆うスカーフを着用する義務はあります。
このように、色は黒で全身をすっぽりと覆うブルカや、目だけを出し全身を覆うニカーブスタイルもあれば、髪の毛をスカーフで覆うだけであとは私たち日本人と変わらないファッションをしていたり、何もしていなかったりと、国によって女性のスタイルは本当に様々です。
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ムスリムの日常で欠かせない1日5回の礼拝
イスラム教の「六信五行」に基づき、ムスリムは1日5回の「礼拝(サラート)」を毎日行います。私たち日本人がお祈りをするのは初詣で神社に行ったときぐらいではないでしょうか?
この時、神様にお願いごとをする人が大半だと思いますが、イスラム教の礼拝(サラート)は「アッラーへの感謝」になります。もちろん、イスラム教でもアッラーにお願い事をすることは出来ます。
サラートは義務の礼拝になりますが、お願い事をするのは任意の礼拝になり、サラートではなく「ドゥアー」と言います。1日5回行う礼拝の時間は何時何分ではなく時間帯になっています。太陽の位置で決まるので時計がなくても分かります。
- 1日の最初の礼拝は「ファジュル」
明け方から日の出までの時間帯に行わなければなりません。モスクに行く人もいますが、ベッドの横で行う人も多いです。
- 2回目の礼拝は「ズフル」
正午から昼過ぎまでの時間で行います。因みに、日の出、日の入り、正午ちょうどは礼拝が禁じられています。昼過ぎが仕事終わりの人もいるので、終業後の礼拝としている人もいます。
- 3回目の礼拝は「アスル」
昼過ぎから日没までの間に行います。2回目のズフルから間もないため忘れがちの人も多いとか。仕事中の礼拝は大変そうですが、一服やコーヒーブレイクのような感覚らしいです。
- 4回目の礼拝は「マグリブ」
日没直後、夕焼けが消えるまでの間に行います。基本的に仕事や学校が終わっている時間帯なので、集団で行っている風景が一般的です。
- 1日の最後、5回目の礼拝は「イシャー」
就寝前に行います。
仕事や移動、旅行中など何らかの理由でどうしても時間通りかつ5回の礼拝が出来ないこともあります。
やむを得ない場合には、ズフルとアスルの礼拝は日没までに、マグリブとイシャーの礼拝は就寝前までにまとめて行うことが認められています。
礼拝を行なう場所はモスク以外でも問題ありません。ただし墓地など汚れた場所はだめです。イスラム圏になると、オフィスやショッピングセンター、駅やバスターミナルに礼拝スペースがあります。因みに、日本でも多くの外国人が利用する成田空港や羽田空港にも「礼拝室(祈祷室)」が整備されています。
モスクで礼拝を行なう場合、どこの国でも男女別々の場所になります。女性はモスクの2階だったり、男性の後ろの狭いスペースだったりします。これは、男性が礼拝中に女性の姿を見て集中力が損なわれるのを防ぐためと言われています。
イスラム圏の街にいると時折、独特のリズムに乗ったアラビア語が流れているのを耳にすると思いますが、これは「アザーン」と呼ばれる読誦で、礼拝が始まる前の呼びかけです。唱えられる内容も習慣そのものもスンナ(モハンマドの言行)のひとつになります。
礼拝(サラート)の作法
礼拝は聖地メッカの方向に向かって行います。メッカの方向を「ギブラ」と言い、モスク内にはこのギブラを示す「ミフラーブ」というくぼみがあります。モスク以外の場所でギブラを知るには、イスラム圏のホテルの部屋だと天井にギブラを示す矢印が貼られています。外だとコンパスを利用するか、今だとスマホで知ることもできます。
礼拝の方法や内容ですが、世界のムスリム共通で一定の言葉や動作の形式があります。
まず礼拝の基本動作は下記になります。
- 1:直立してこれから礼拝すると心に決める
- 2:【タクビール】両手を開き耳の高さまで上げ、「アッラーは偉大なり」と唱える
- 3:両手は胸の前で右手を左手の上にして組み、コーランの開始の章と好きな3節以上の節を唱える
- 4:【ルクー】腰を曲げて両手を膝につけ、「偉大なるアッラーに栄光あれ」と唱える
- 5:【キヤ-ム】体を元に戻して立ちながら、アッラーを讃える言葉を唱える
- 6:【サジダ】「アッラーは偉大なり」と唱えながら、おでこを床に付けてひれ伏す
- 7:【ジャルサ】顔を上げて正座をし、「アッラーよ、私をお許しください」などと唱える
- 8:6と7をもう一度繰り返す。
礼拝をする際に行うこの1~8までの一連の動作を「ラカート(=1セット)」と言い、礼拝を行なう時間帯によって繰り返すラカートの回数は変わっていきます。
①ファジュル=2ラカート、②ズフル=4ラカート、③アスル=4ラカート、④マグリブ=3ラカート、⑤イシャー=4ラカート
金曜日の集団礼拝(ジュムア)
金曜日の正午過ぎの礼拝は特別で、成人男性はモスクで集団礼拝をするのが義務となっています。(女性はこの義務は免れています)この集団礼拝はズフルの礼拝の代わりに行われ、「ジュムア」の礼拝と言われています。
金曜日だけなぜ集団礼拝を行なうのか?この理由も単純で、コーランにこう記されているからです。
「信者たちよ、金曜日の礼拝に人々を呼ぶ声が聞こえたら、アッラーを念じる為に急いで駆けつけ、商売などは放り出して来るのだ。その方がお前たちの為になるのだから。」(62章9-10節)
この時ばかりは、普段モスクに行かない人も、熱心に礼拝しない人もモスクに集まります。この金曜日のジュムアの礼拝の時はモスクに大勢の人が集まるため、モスクに人が入りきらず外まで礼拝者で溢れかえります。
このように金曜礼拝は大変重要であるため、イスラム圏の国では金曜日が休日となっていることがほとんどです。休日となくても、ほとんどの会社や商店は昼で営業を終え、人々が礼拝に参加できるようになっています。
サラート(礼拝)を行う際は清潔にすることが大事!
礼拝を行なう際は清潔な服を着て、歯を磨き、香水をつけて身なりを整えます(成人女性は香水をつけた状態での外出や、夫や家族以外の前でそのような状態でいるのは禁じられています)。また、礼拝前は体を清めることが必須とされており、体の一部を水で洗い清めます。この行為を「ウドゥ」と言い、洗う順番や回数も細かく決まっています。
手→口→鼻→顔→腕→髪の毛→耳→足
この順に洗い、その回数は各々3回と決められており、手や腕など左右ある部位については“右”から先に洗う事も決められています。ただ、仕事中などで難しい場合には簡略化も許されています。
1日5回の礼拝って大変じゃないの?
日常の中で5回も礼拝をするのって面倒じゃないの?と思う方も多いのではないでしょうか?自分の1日の生活の中に5回の礼拝を当てはめてみると、仕事をしている人は中断しなくてはならないなど、なかなか容易ではありません。ですがムスリムにとって礼拝は面倒や大変さを思う以前に大切な行為で、アッラーと対話をする贅沢な時間でもあります。仕事の効率も大切ですが、それ以上にアッラーに感謝をし、得られる心の安らぎこそがムスリムにとって大切なのです。
なお、生理中の女性は清浄な状態ではないため、礼拝を禁じられています。
イスラム教でよく聞く「一夫多妻制」の実情
一夫多妻制という言葉だけ見ると、既婚男性の浮気が公認されているとか、男尊女卑といった印象を受けやすいのですが、決して「王様がハーレムを作る」的なものでありません。そもそもイスラム教で一夫多妻制が認められているのは、コーランに「あなたがよいと思う2人、3人または4人の女を娶れ」(第4章3節)とあるからです。この啓示が与えられた戦乱の時代は、夫を亡くした女性や孤児も多く、その救済という意図がありました。
現在も一夫多妻制が合法として認められている国はアフリカ諸国に多く、それ以外の国になると一部のみ合法であったり、国々によって様々です。また、ムスリム人口が多い国でも一夫多妻制を禁止している国もあり、それが「トルコ」と「チュニジア」になります。
イスラム教の結婚とは「妻の扶養義務を夫に課す」というものになり、結婚したからには養うのが前提になります。多妻となった場合でも肉体的にも精神的にも平等に愛することは基本条件です。
そういったことから経済的な負担も大きいこともあり、実際に一夫多妻を実現している人は極端に少ないのが実情のようです。
イスラム教1400年の歴史~成立から普及まで~
イスラム教は、ユダヤ教やキリスト教、あるいは仏教の成立と比べると、西暦610年頃成立と比較的新しい宗教です。そして、イスラム教の開祖が“預言者ムハンマド”になります。
イスラム教はどのように生まれたのか?預言者ムハンマドとはどういう人物だったのか?どうやって世界に広がっていったのか?など、イスラム教の歴史について解説していきます。
イスラム教の開祖、預言者ムハンマドとは?
ムハンマドは570年頃、イスラム最大の聖地メッカで生まれました。この世に生を受ける前に父アブドゥッラーを、6歳のときには母アーミナを亡くしています。ムハンマドはやがて、同じハーシム家の家長である叔父のアブー・ターリブのもとへ預けられることとなります。当時のメッカでは、父系の氏族が血縁者を庇護する帰属集団が構成されていました。孤児となったムハンマドも、実父の兄弟に守られながら成長していきました。成人後は商人となり、25歳で10歳以上年上のハディージャと結婚し子宝にも恵まれ、ごくごく普通の人生を送っていました。
そんなムハンマドに転機が訪れたのは40歳。
この年ムハンマドは、メッカ近郊にあるヒラー山の洞窟で天使ガブリエルと遭遇。アッラーから最初の啓示を授かりました。一介の商人が、何の前触れもなく預言者として選ばれたのです。以後、没するまで断続的に啓示を受け続けることになります。
最初は戸惑いを感じたムハンマドでしたが、やがて預言者としてアッラーの言葉を伝えることを決意し布教を始めます。それが610年頃のことです。熱心な活動で徐々に信者を増やしていきますが、同時に新しい宗教の常で迫害も受けていました。
そこでムハンマドは多くの信者たちとともにメッカから現在のメディナへ拠点を移します。移住後も布教を続け、やがてウンマ(イスラム共同体)を結成。その後は急速に勢力を拡大、敵対する勢力を退け、ついにはアラビア半島を統一するまでになります。
40歳でアッラーの啓示を受けてからのムハンマドは、イスラム(神の教えに帰依すること)を伝える宗教家として大きな存在となりましたが、それと同時に政治・軍事能力にも優れていました。
イスラム教が比較的、短時間で勢力を広げ、国家に近い状態の共同体を作り上げることが出来たのは、ムハンマドのそういった手腕による部分が大きく、それはカリスマ的な素質として信者の心を掴むことにもつながったと考えられています。
亡くなる直前、ムハンマドはメディナからメッカへ唯一の巡礼(別離の巡礼)を行いました。別離の巡礼から戻って数ヶ月後、ムハンマドは病に倒れその生涯を閉じました。632年のことです。
このときの礼拝のやり方が、ムスリムの義務である五行のひとつ「ハッジ」として継承されています。
イスラム教では、ムハンマドが最後にして最大の預言者で偉大な指導者ではありますが、イエス・キリストのように崇拝されることはありません。あくまでも一人の人間として位置づけられています。
また、イスラム教では偶像崇拝を禁じているため、ムハンマドの肖像画や彫像は存在しません。伝承画のなかでも、ムハンマドの顔はベールで覆われています。
イスラム教の成り立ち
ムハンマドが40歳で初めてアッラーの啓示を受け、610年頃の布教開始から徐々に信者を増やしていきますが、最初の3年間は秘密裏の布教に努めていました。当時のメッカは偶像崇拝の中心地だったからです。町の中心にあるカーバ神殿には、雑多な偶像が安置されていました。信者が30人を超えたあたりで、ムハンマドは公の布教を促す啓示を受けます。さらにアッラーは、メッカで信奉されている偶像崇拝を打倒することを命じました。逆にメッカ市民はムハンマド一派に対し、本格的な迫害を開始します。
対立がより深刻化するなかで、ムハンマドは妻ハディージャと叔父アブー・ターリブを相次いで亡くします。布教開始から10年経った619年のことでした。少しずつではあるも着実に勢力を増すムハンマドの教え。メッカで大勢を占める多神教信者たちは、ムハンマドの暗殺も厭わないほど業を煮やしていました。
そんな矢先の622年、ムハンマドはメッカからメディナへ布教の拠点を移します(ヒジュラ)。この出来事が、ヒジュラ暦(イスラム暦)の始まりになります。ここにモスク(預言者モスク)を設け、ウンマ(イスラム共同体)の礎としました。以降、共同体の維持の傍ら、反イスラム勢力の打倒に乗り出します。
メッカ軍を破った624年のバドルの戦いを皮切りに、通算60以上にもおよぶ戦役が幕を開けます。やがてムハンマドはメディナを完全制圧し、ヒジュラから6年を経た628年、メッカ側との和平条約(フダイビヤの和約)にもこぎ着けました。
しかし、既存勢力との小競り合いは続きました。アラブ部族内でのイスラム勢力の存在感が増すなか、630年にはついにムハンマドがメッカを占領しました。当時のカーバ神殿に奉られていた360体もの偶像を除去し、信者が祈りを捧げる聖地としての準備を整えました。
こうして、ムハンマドがヒラー山で最初の啓示を受けてから20年にして、それまでのアラブ世界を一変させる新たな社会の建設に成功したのです。
ムハンマドの死後、「スンナ派」と「シーア派」の2つに宗教分裂
632年にムハンマドは生涯を閉じますが、死に際してムハンマドは後継者を指名しませんでした。ムハンマドには跡を継ぐ男児もいなかったため、イスラム共同体の長は合議によりカリフ(最高指導者)を決定、「アブー・バクル(632~634年)」をウンマの指導者たる初代カリフの地位に就けました。その後、第2代目カリフに「ウマル(634~644年)」、第3代目カリフに「ウスマーン(644~656年)」、第4代目カリフに「アリー(656~661年)」と続きました。合議により選ばれたこの4代目までを正統カリフと呼びます。
正統カリフの治世で、ウンマは国家をして整備され、その勢力範囲を武力によって拡大していきました。その支配は、アラビア半島からシリア、エジプト、イランにまでおよびました。
しかし、第4代正統カリフのアリーが暗殺されると後継を巡る対立が発生してしまいます。そしてイスラムは誕生から50年で、「スンナ派」と「シーア派」に大きく2つに宗教分裂してしまいました。
イスラム王朝、帝国の出現
第4代正統カリフであったアリーが暗殺された661年、自らカリフを宣言し、その座を世襲制にし、スンニ派のトップとなったのがウマイヤ家の「ムアーウィヤ」です。これがイスラム最初の王朝「ウマイヤ朝」の始まりとされ、イスラムにおける政治の世俗化はよりいっそう進んだことになります。一般的な国家という性格が強くなったウマイヤ朝は領土拡大を志向。東はインダス川、西はイベリア半島まで領土を広げていきました。
同じムスリムであってもアラブ人でなければ差別していたウマイヤ朝(ゆえにアラブ帝国と呼ばれることも)に対する反抗から750年に興ったのが「アッバース朝」。ムハンマドの叔父アッバースの子孫がウマイヤ朝を打倒し、750年に「アッバース朝」を成立しました。
政権奪取が成熟すると、アッバース朝は人種、民族関係なくムスリムであればイスラム、シャリーア(イスラム法)によって平等に支配されるという体制を整備しました。これは単なる王朝交替ではなく、イスラム世界の文化を大きく向上させることにも繋がりました。この体制を整備したアッバース朝は「イスラム帝国」と呼ばれることも多いです。
その後もイスラムのさらなる普及や分裂、新たな国の勃興などで多くのイスラム王朝が生まれていきました。
9世紀に入るとアッバース朝は衰退し、分裂、独立して新たなイスラム王朝が誕生していきます。さらに、聖地奪回を目指した欧州キリスト教勢の西からの遠征、いわゆる十字軍の襲来や東からのモンゴル帝国の侵攻が重なる中で、アッバース朝は滅亡、イスラム世界は大小数多くの王朝が興亡を繰り返す時代へ入っていきます
その中で近現代へと続く大国家となったのが1299年に建国されたオスマン帝国(オスマン・トルコ)と、1526年に成立したムガル帝国です。両国はいずれもアラブ系ではなくテュルク系(トルコ系)でした。この2つの帝国は紆余曲折ありましたが、ムルガル帝国は19世紀、オスマン帝国は20世紀初頭まで存在したイスラム王朝となりました。
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イスラム教はこうして世界に広がった!
世界第2位の宗教人口を誇るイスラム教ですが、どのように世界へ広がっていったのか、地域ごとに説明していきます。中東・中央アジア・インド
中東のアラビア半島はイスラム発祥の地です。そのため中東は、国家は変わっても宗教はイスラムが中心のまま現代に至っています。一方の中央アジアやインドは、ウマイヤ朝の勢力拡大がきっかけでイスラム化が進んでいきました。途中、モンゴル帝国の侵攻もありましたが、モンゴルの王朝の中にはイスラム化する国が少なくありませんでした。インドはイスラムが普及する一方でヒンドゥー教の灯も消えませんでした。中央アジアは現在もイスラムが中心宗教の国が多くあります。
東・東南アジア
この地域になると、中国とインドネシアが大きな存在となります。中国では新疆ウイグル自治区などが、ムスリムが多く暮らすエリアになっています。これはもともとイスラム世界だった中央アジアのエリアが現在の中国の領土となっており、独立運動が盛んである理由もそこにあります。一方のインドネシアに広めたのは、軍事的侵攻ではなく商人と言われています。イスラム世界の活発な商業活動は、東南アジアに貿易品だけでなく、宗教そのものも広める結果となりました。
アフリカ
アフリカは中東やアラビア半島と地理的に接していることもあり、特に北部は早くからイスラム化が進み、王朝も多数生まれ、それが現代の宗教分布にもつながっています。ゆえにアフリカ大陸のイスラムは北部が中心で、南下するにつれて薄まっていきます。ただ、西アフリカで13世紀に勃興したマリ帝国、15世紀に興ったソンガイ帝国など、北アフリカ以外の国家の中にもイスラムを受容した国家は存在しており、土着信仰と共存する状態も見られました。
上記地域には多くのムスリムが暮らしていますが、ムスリムが少ない地域が欧州と南北アメリカやアフリカ南部、そして日本列島も含む東アジアです。日本は特に少なく、人口の1%にも満たしません。
その中で近年、ムスリムの人口増加が目立つのが欧州と北米です。いずれも労働力として移民となったムスリムの定着が増加の理由になっています。
イスラム教の3大聖地
イスラム教には3つの聖地があります。3つのうちの2つがサウジアラビアにある「メッカ」と「メディナ」、そしてもうひとつがイスラエルの「エルサレム」です。これは、スンナ派もシーア派も共通です。そして、この3つの聖地はいずれもムハンマドに関係する場所になります。この3つの聖地について詳しくご紹介します。
イスラム教最大の聖地「メッカ」
イスラム教第一の聖地「メッカ(マッカ)」は預言者ムハンマドが生誕した地です。この聖地メッカには、アラビア語で「聖なるモスク」を意味する「マスジド・ハラーム」とういう名のモスクがあります。
そして、このマスジド・ハラームの中庭に「カーバ神殿」があります。カーバ神殿は、世界が創造されてのちすぐ、唯一神たるアッラーに奉納された神殿であるとされ、イスラム教における最高の聖地とされています。
ムスリムが毎日行う礼拝は、このメッカ、ガーバ神殿の方向に向かって行います。全世界にあるモスクには必ずキブラ(カーバ神殿の方向)を示すミフラーブが必ずありますが、カーバ神殿を取り囲む形をしているマスジド・ハラームにだけはミフラーブがありません。
カーバ神殿
カーバとはアラビア語で「立方体」の意味で、文字通り箱形の建物が神殿として鎮座しています。神殿の内部は特に装飾などのない空洞になっており、大理石を基盤とする高さ15mほどの建物は、全体をキスワと呼ばれる金色の聖なる刺繍を施した黒い布で覆われています。キスワは年に1度交換されており、これを奉納する栄誉はメッカの最高支配者が担います。現在はサウジアラビア政府が奉納者であり、キスワもメッカ市内で制作されています。
また、カーバ神殿の東の角にはアラビア語で黒い石を意味する「ハジャルル・アスワド」と呼ばれる神聖な石も据えられています。神殿を建立したときに天使が運んできたとも伝えられる聖なる石です。現在は摩擦を防ぐために保護されています。
カーバ神殿の礼拝は、大理石の帯を踏み、そこを起点に神殿の周りを半時計回りで7回巡らなければなりません。
問題が無い限り、一生に一度は必ず聖地メッカのカーバ神殿へ巡礼に行かなければならず、世界中のムスリムにとって最も大事な場所です。メッカはムスリム以外の人間が立ち入ることは禁じられており、メッカ全域にわたってイスラムの聖地となっています。
イスラム教第二の聖地「メディナ」
メッカのおよそ北500kmの位置にある街メディナ(マディーナ)。かつてムハンマドがメッカでの迫害を逃れ辿り着いた場所でもあり、当時は「ヤスリブ」と呼ばれていました。街の中心部には、ムハンマドの霊朝がある「預言者のモスク」があります。後に各地で建設されるモスクの原型はこの預言者モスクです。
預言者のモスク
元々はムハンマドの住居としてつくられた建物が増改築を重ねて現在の規模になりました。10本のミナレットとムハンマドの霊朝の上に設置された緑色のドームを目印とする白亜の巨大モスクは1995年建造です。メッカの聖なるモスク同様、100万人の収容能力があります。預言者モスクの敷地内の床には、白を基調とした大理石が敷き詰められており、これは炎天下での礼拝時に熱の吸収を抑え、酷暑を防ぐことを念頭においたものになります。
預言者のモスク内、預言者墓廟の南面は「預言者への面会所」と呼ばれ、中央付近にある円形の金属板はムハンマドの頭部の位置を示しています。ここには、初代正統カリフのアブー・バクルと第2代正統カリフのウマルも理想されています。
メディナには、メッカを巡礼したムスリムが併せて訪れることが多いです。ちなみにメディナでもメッカ全域同様に、預言者モスク周辺の市街地はイスラム教徒以外の立ち入りは禁じられています。
なお、メッカの聖なるモスク(マスジド・ハラーム)と預言者のモスクを超えるサイズのモスクは建設できません。
第三の聖地「エルサレム」は3つの宗教が崇める場所
イスラエル東部の都市「エルサレム」は、イスラム教だけでなくユダヤ教とキリスト教も聖地としており、世界三大宗教の聖地が揃う場所は唯一このエルサレムだけです。なぜエルサレムが聖地とされたのか?もちろん意味はあります。
まず1つ目は、当初ムハンマドはユダヤ教にならって、メッカの方向ではなくエルサレムの方向に向かって礼拝をしていたと言われています。ところが、ユダヤ教から反発を受けたため、ユダヤ教と区別するために624年をもって、現在と同じムハンマドの生誕地もあるメッカのカーバ神殿の方向へ変更されました。
そして2つ目が、エルサレムからムハンマドは大天使ガブリエルに導かれ、神の御前へと昇天したとされています。その場所は、金色のドームが目印の岩のドームになります。
岩のドーム
岩のドームは7世紀末に、ユダヤ教のエルサレム神殿跡に建設されました。ドーム内にはムハンマドが昇天したとされる「聖なる岩」があり、この岩の真上に金色のドームがあります。伝承によれば、ムハンマドは天馬ブラークに乗ってメッカからエルサレムまで飛び、聖なる岩から大天使ガブリエルに伴われ昇天、アッラーの御前に至ったと言われています。
ただし聖なる岩は、ユダヤ人の祖でもある預言者アブラハムが神に信仰心を試されて、息子イサクを神に捧げようとした台でもあるとされ、ユダヤ教とキリスト教も聖地として主張する場所です(※アブラハムは五大預言者のうちのひとりで、他の4人が、ノア、モーセ、イエス、ムハンマドです)。
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金色のドーム屋根とブルータイルの壁が鮮烈な印象を残す岩のドーム。遠目にも目立つその色彩と形状で、エルサレムの代名詞的存在でもあります。真上から見ると正八角形に近い形状で、内部に目を向けると、中央円形の内陣と2重の歩廊によって聖なる岩を囲うような構造になっています。
地震や火災などで何度も補修を重ね、現在の外観は1994年に改修されたものになります。
メッカとメディナはムスリム以外が入ることができませんが、エルサレムは異教徒にも開かれているのでムスリムでなくても訪れることが可能です。ただし岩のドームは、外観は見学できますがドーム内部はムスリム以外の立ち入りは許されていません。
信者じゃなくても知っておきたいイスラム圏でのマナー
世界の各地にそれぞれの固有のマナーやタブーがあるように、イスラムの世界においてもそれはあります。イスラムの規律の程度は国によって差がありますが、もし今後イスラム圏への旅行を考えているならば、トラブルなどを避けるためにも基本的なマナーを知っておくといいかもしれません。そこで、知っておきたい基本的なマナーをここで紹介していきます。イスラム圏での飲酒ルールは国によって異なる
イスラムの飲食のタブーで有名なのが飲酒と豚。イスラム圏において豚肉などを提供するお店はほとんどないので、逆に豚肉は食べる機会がないと思います。気になるのが飲酒。ムスリムの飲酒は基本的にほとんどのイスラム圏の国が禁止しており、国によっては処罰される場合も。ただ、最近では海外からの旅行者であれば基本的にOKという国が増え、バーを常設しているホテルもあります(ただし、ラマダン期間は閉鎖されることも)。
ただし、サウジアラビア、クウェート、リビア、イランでは観光客や外国人であっても飲酒は禁止されています。それ以外の国であれば基本的に外国人なら飲酒ができます。国によって厳しさも違うので、お酒を飲まれたい方は事前によく調べておくのがベストです。
因みにトルコではムスリムも公然とした飲酒文化が続いています。もちろん、観光客や外国人も自由にお酒を飲むことができます。
ラマダン時期中の旅行
ラマダン期間中だからといって旅行は控えた方がいいということはありません。あくまでもラマダンで断食を行うのはムスリムで異教徒には強制されません。
基本的に飲食店は日没後の営業となる店が多いですが、日中でもムスリム以外の旅行者向けに飲食が出来る場所はあります。逆にラマダン期間中はイスラム文化を垣間見るのにいい機会だと言えます。ただし、日中はムスリムの目の前では出来る限り飲食を控えるなどの配慮を。
旅行についてはむしろ、ラマダン期間中よりラマダン明け1日目~3日目が注意です。この3日間は祝日となるため、観光に影響が出てしまう可能性があります。
肌の露出は控える!男性も注意が必要!
イスラムでは、基本的に女性の露出は避けなくてはなりません。体のラインを隠す、ゆったりとした衣服に、ヒジャブ(髪を覆うスカーフ)を被った女性が多いのはそのためです。これは、イスラムでは女性が非常に大切な存在として扱われ、女性の手と顔以外は家族や夫以外には見せないことになっているからです。むやみに肌を見せると、それは男性の気を引くことになり、女性自身が傷つけられる事態を招きかねない、という見地なのです。
言い方を変えると肌の露出ははしたない、とも受け止められます。よって外国人旅行者であっても、肌の露出はなるべく避け、体のラインが出にくい服装にするのがマナーであり、トラブルも避けやすいです。
女性だけでなく男性も注意が必要です。おへそのあたりからヒザまでの露出は避けられています。暑くてもショートパンツの着用は控えるのが望ましいです。
モスクなどの宗教施設の入場では十分な配慮を
ムスリムにとってモスクは神聖な場所です。異教徒であっても肌の露出の多い服は避け、靴を脱いで入るのがマナーです。また、ムスリムにとって礼拝は大切な日常の行いです。礼拝中に声をかけたり、前を横切ったりしないようにしましょう。物を渡すときは右手から
イスラム教では、よいことは右から、不浄なことは左から、という考え方があります。例えば、右手は食事に用い、左手はトイレの始末に使う・・など。コーランを左手だけで持つことも避けられ、沐浴も体の右側から行います。よって、物を渡す際や、食事をする際などは左手を使うのは避けましょう。左利きの人は大変ですが、郷に入れば郷に従えということで。
異性との握手には注意が必要
私たち日本人がよく行う握手での挨拶。イスラムでは握手自体は禁じられておらず、右手での握手は問題ありません。ですが、注意しなくてはいけないのが「異性との握手」です。イスラムの世界では国によって程度の差はありますが、男女の生活空間をはっきり分けるケースが多いです。そのため、異性に触れることに対しては慎重になる必要があります。
ただ、相手から手を差し出して握手を求めてきたのなら応じても基本的にはOKです(異性間だと断るケースもあるようです)。
異性に接するときの注意点
イスラムでは基本的に、公の場での異性間の接触はオープンではありません。異性との接触は控えめに、という考えは公共交通機関でも同じく当てはまります。例えばバスで座席に座る際は、同性の隣に座るのが無難です。やむを得ず異性が隣り合わせることもありますが、その際はなるべく密着しないように気を付け、他の席が空けば移る場合がほとんどです。
イスラム圏に限らず、海外を旅行する場合は“自分が普段生活している環境と大いに異なること”を理解した上でそれを尊重する必要があります。日本人は無宗教な人がほとんどですが、イスラム教も含め宗教も尊重すべき事柄のうちのひとつです。
普段私たちが当たり前に行っている行いも、無意識のうちに他人に不快感を与える事も無きにしも非ずなので、その土地のことを理解した上で異文化に触れることで新しい発見や経験そして感動が得られるはずです。
イスラムの暦法|ヒジュラ暦(イスラム暦)
イスラム社会では、日本含め世界の多くの地域で用いられているグレゴリオ暦(太陽暦)とは異なる暦法を使用しています。それが「ヒジュラ暦(イスラム暦)」です。このヒジュラ暦が用いられたのは西暦622年。
イスラム教が誕生した12年後になります。預言者ムハンマドがメッカからメディナ(ヤスリブ)へ聖遷した年を「ヒジュラの年」と定め、ヒジュラ暦元年とする新たな暦が制定されました。“ヒジュラ”はアラビア語で「移住」を意味します。
ヒジュラ暦は、コーラン第9章36節冒頭の『アッラーの御許で、(1年の)月数は、12ヶ月である』に基づいた、閏月を置いて季節ないし太陽暦と合わせない「太陰暦(純粋太陰暦)」になります。
月は、約29.5日である朔望月に合わせて、1ヶ月が29日の小の月と30日の大の月という大小月を交互に繰り返します。よって、1暦年は約354日となり太陽暦より11日も短くなっています。そのため、季節や太陽暦と毎年11日ずつずれることになります。
西暦622年を元年とするヒジュラ暦は現在でもイスラム社会で用いられていますが、実際の季節とずれてしまうので、特に農業では不便なことが多くなってしまいます。
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今では世界各地に広がったイスラム社会において、ヒジュラ暦だけのカレンダーで生活をするのは実際問題、困難です。そこで、ヒジュラ暦を変更することはせずに、ヒジュラ暦とグレゴリオ暦の2つのカレンダーが併用されています
日本の暦には和風月名と呼ばれる月の呼び名がありますが(1月:睦月、2月:如月、3月:弥生など)、ヒジュラ暦においても1月から12月それぞれにアラビア語の月名が付けられています。よく耳にする「ラマダン」もそのひとつです。各月には月名の他に意味も持っています。
月名 | 意味 | |
---|---|---|
第1月 | ムハッラム/Muharram | 戦いを禁ずる月 |
第2月 | サファル/Safar | 戦いで虚ろな月 |
第3月 | ラビー・アル=アウワル/Rabi al-Awwal | 春の月 |
第4月 | ラビー・アル=アーヒル/Rabi al-Akhir | 春の月 |
第5月 | ジュマーダ・アル=アウワル/Jumada al-Awwal | 寒い月 |
第6月 | ジュマーダ・アル=アーヒラ/Jumada al-Akhira | 寒い月 |
第7月 | ラジャブ/Rajab | 神聖な月 |
第8月 | シャアバーン/Sha'ban | 預言者の月/離散の月 |
第9月 | ラマダン(ラマダーン)/Ramadan | 断食の月/暑い月 |
第10月 | シャウワール/Shawwal | 尾の月 |
第11月 | ズー・アル=カアダ/Dhu al-Qa'da | 安住の月 |
第12月 | ズー・アル=ヒッジャ/Dhu al-Hijja | 巡礼の月 |
参考までに、西暦(グレゴリオ暦)とヒジュラ暦を対照してみると、以下のように誤差があります。
- 西暦2021年1月1日=ヒジュラ暦1442年 第5月17日
- 西暦2022年1月1日=ヒジュラ暦1443年 第5月27日
- 西暦2023年1月1日=ヒジュラ暦1444年 第6月 8日
なお、ムスリムが人口の99%を占めているトルコでは、トルコ共和国の父アタテュルクが世俗主義政策の一環としてヒジュラ暦を廃止してグレゴリオ暦を採用しました。ですが、イスラム教においての宗教行事に関してはヒジュラ暦に基づいて行われています。
政教分離の国トルコにおけるイスラム教
ムスリムが人口の99%を占めているトルコには、イスタンブールを始め数多くのモスクがあります。そんな数多くあるモスクの中でも代表的なのが、誰もが知る、イスタンブールにある「ブルーモスク(スルタンアフメト・モスク)」です。そして、イスタンブールの名所「アヤソフィア(ハギアソフィア)」は、2020年7月にモスクに回帰しました。
そんなトルコは、ムスリムが多く暮らしている国の中で “政教分離=世俗主義”としている唯一の国でもあります。政教分離の始まりは1923年、トルコ共和国の建国の父、初代大統領アタテュルクが、“宗教と政治を分離しなければトルコの発展はない”として、政教分離を国家の基本原理としました。
ムスタファ・ケマル・アタテュルク|トルコ建国の父の歴史と偉業
ここで、憲法からイスラム教を国教と定める条文の削除や、600年以上使われていたアラビア文字をラテン・アルファベットに変更したり、一夫一妻制に変更したりと改革を推進していきました。また、トルコの政府組織には「ディヤネット」と言う宗教庁があり、国家が宗教を管理しています。
イスラム教では心の内の信仰だけでなく、ムスリム女性は家族以外の男性に肌を見せないようにスカーフで顔や頭を覆うなどの外形的な決まりもありますが、トルコでこれは公の場では禁止されています。
また、原則として禁止されている飲酒も敬虔な人々はもちろん飲酒はしませんが、特別な規制はないので自由に飲むことが出来ます。現にトルコは豊かな飲酒文化を持つ国と知られ、ビールやワイン、トルコの国民酒とも言えるラクという名のお酒もあります。
トルコのお酒やソフトドリンク|トルコで飲みたい!おすすめドリンク。
そして、トルコのコンヤという町は、イスラム神秘主義(スーフィズム)の一派「メヴラーナ教団」の中心地となっています。そのメヴラーナ教団が行う儀式である旋舞「セマー」はユネスコ無形文化遺産に登録されており、ミステリアスな旋回の舞いを鑑賞することもできます。
あくまでもセマーは儀式なので、厳かな雰囲気の中での鑑賞となります。これもイスラム文化に触れられる機会のひとつなので、トルコを訪れた際は是非ご覧になってみてはいかがですか?
★「メヴラーナ教団」について徹底解説した記事もあります!さらに詳しく知りたい方は是非下記のコンヤの町の記事も読んでみてください!
コンヤの町|メヴラーナの生涯とその放浪の旅
ここまでの内容だとトルコはとても緩い印象を受けますが、イスラム教の基本指針「六信五行」はしっかりあります。モスクで礼拝をするムスリムは多くいますし、街中で礼拝を告げるアザーンを耳にする機会も多くあります。もちろん、ラマダンでの断食などのイスラム行事もしっかり行われています。
異教徒でも特別な規制を受けることなくイスラム文化を身近に触れるならば、トルコは魅力的な場所とも言えます。
日本におけるイスラム教
日本人ムスリムは日本の総人口の1%以下と非常に少なく、イスラム教は日本人とって遠い存在です。そんな中でも、日本でイスラムに触れられる機会はあります。そこで、ここでは日本最大級のモスクと、最近目にすることが増えたイスラムにおける食事ハラールフードについて説明します。今こそ知っておきたい「ハラル(ハラール)フード」 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
東京ジャーミイ
小田急線・代々木上原駅から歩いて5分ほどの場所に、日本最大級のモスク「東京ジャーミイ」があります。その歴史は古く、はじまりは戦前にも遡ります。
ロシア革命によって迫害を受けたロシア・カザン州のトルコ人ムスリムは、満州を経て日本へ移住してきました。そして彼らは1938年に「東京回教礼拝堂」を設立します。これが東京ジャーミイの前身です。以来、都心に住むムスリムたちの拠り所として存在し続けてきました。
老朽化に伴い、トルコ全土から集められた寄付金で1997年に再建され、現在の東京ジャーミイの姿として2000年6月に開堂しました。東京ジャーミイは駐日トルコ共和国の管轄下にあり、伝統的なオスマン・トルコ様式のモスクで、敷地面積は734㎡。礼拝場とホールを合わせると2000名の収容が可能なほどの大きさになっています。
礼拝堂の中に入ると、その美しい内装に思わず息をのむほどです。床には青い絨毯が敷き詰められ、青のステンドグラスが日の光を浴びてキラキラ輝いています。ドームの形やモスクの大理石の壁から内部の装飾などは、まるでイスタンブールにあるモスクを思わせるデザインで、ここが日本であることを忘れてしまうほどの普段見ることのない空間が広がっています。
東京ジャーミイはムスリム以外でも見学が可能です。入口には女性用の頭を覆うためのスカーフの無料貸し出しも行われています。場所が日本であっても、モスクが神聖な場所に変わりありません。男性も女性もモスクを訪れる際は肌の露出は控えるなどしてマナーを守りましょう。
この記事を読んでイスラムに興味を持たれた方は是非、東京ジャーミイにも足を運んでみてはいかがですか?
住所 | 151-0065 東京都渋谷区大山町1-19 |
電話番号 | 03-5790-0760 |
入場料 | なし |
公式サイト | https://tokyocamii.org/ja/ |
日本最大のモスク「東京ジャーミイ」はトルコの魅力が詰まった場所 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』
ユヌス・エムレ トルコ文化センター
東京ジャーミイのお隣の建物にはトルコの文化を紹介する「ユヌス・エムレ トルコ文化センター」が併設されています。トルコ文化センターの1階にはハラールマーケットと2階にはカフェもあります。住所 | 151-0065 東京都渋谷区大山町1-19-2F |
受付時間 | 平日 10:30時-17:30時 |
電話番号 | 03-6452-9258 |
入場料 | なし |
公式サイト | https://www.yeetokyo.org/ |
イスラム過激派とイスラム教の関係性
イスラム過激派とは、伝統的にはイスラムの理想とする国家・社会の在り方を、政治的・社会的に実現しようとする運動である「イスラム主義」の中から生まれ、現代社会の中で理想の実現にとって障害となっているものを“暴力”によって排除しようとする人々を指します。世界各国で活動を展開しているイスラム過激派組織はいくつかありますが、その中でも世界に大きな衝撃を与えた事件といえば、オサマ・ビン・ラディン率いるアルカーイダが2001年に引き起こした、9.11ことアメリカ同時多発テロと言えます。
これに報復として、あるいは過激派組織によるテロを封殺するための戦いとして、アメリカは2000年代にアフガニスタン紛争とイラク戦争を他の先進国も巻き込みながら断行していきました。
そして、2010年代に台頭するようになったのが「イスラム国」で、この時代の初頭には「アラブの春」という民主化革命がアラブ世界の各国で巻き起こりました。
イスラム国を耳にするようになったのは、2014年の夏あたり。同年6月末にイラク西部からシリア東部にまたがる地域でカリフ国家の樹立を宣言したそのイスラム過激派組織は、支配領域を拡大するだけでなく、敵対勢力や外国人を惨殺・処刑する動画をインターネット上にアップするなどして、その残忍なイメージを世界中に拡散させていました。
オサマ・ビン・ラディンが2011年5月2日、パキスタンにおいて米軍による「ネプチューンの槍」作戦で殺害されてから10年。アメリカなどを標的としていたほとんどのテロはグローバルな脅威から、ローカルな活動しかなし得ない存在へと変わりました。アフガンのタリバン、ナイジェリアのボコ・ハラムなどがそうです。
また、アルカーイダは今や中心的な司令部も思想もない民兵組織に分散してしまい、資金力のあるイスラム国においては作戦し得る場所は不安定な場所しかない状況です。
かつては国際政治の中心的な課題でもあった、イスラム過激派によるテロは、今では若干の国において、その国の問題としてくすぶっているような問題になりました。このように縮小した原因にひとつに、「実績が著しくないことから大多数のムスリムを幻滅させたため」とも考えられています。
これら過激派にまつわるネガティブなニュースが大々的に報じられることにより、イスラム教に馴染みのない私たち日本人は「イスラム教徒(ムスリム)は怖い」というイメージを抱く人が多いと思います。
こういったことからイスラム教は誤解されやすいですが、実際はムスリムたちにとっても、過激派は“イスラム教の名前を使ってイスラム教とまったく逆のことをしている”と考える人が多くいます。善行をして神の前に戻らないといけないと考えているムスリムにとって、過激派がとる行動は全く理解できないことなのです。
イスラム世界で愛される「ホジャ」のおはなし
日本の一休さんのように、イスラムの国々でも“とんち”で親しまれている「ホジャ」という人物がいます。トルコでは「ナスレッディン・ホジャ」、アラブでは「ジューハ」、エジプトでは「ゴハ」と呼ばれ、イスラム圏で語り継がれています。
13世紀にトルコに実在した人物がモデルとされ、所縁の地であるトルコの中央アナトリア地方のコンヤにある「アクシェヒル(Akşehir)」にはホジャのお墓もあります。
ホジャの民話には明快なストーリーも多いですが、権力者さえも笑いの対象にする高度なユーモアもあります。オスマン帝国の衰亡期にはそうした反権力的思想を恐れて、ホジャの話が禁じられたほど。
老若男女の誰もが知るホジャは、イスラムの精神性を知るうえでも欠かせない存在です。ホジャのお話はたくさんありますが、その中から1つのお話を紹介します。
~知っている人は知らない人に~
ホジャの大事なお勤めのひとつに、モスクでの説教があります。毎週金曜日に、礼拝堂に集まる人々にアッラーの偉大さなどを説かねばならないのですが、ホジャの説教は風変りです。ある金曜日、ホジャは説教壇に登って人々にこう言いました。
「皆の衆、わしがこれからどんな話をしようとしているかお分かりかな?」
人々は口をそろえて答えました。
「分かりません」
「なに、分からない?分からない人たちには何を話しても無駄というものだ」
ホジャはこう言うと、ゆっくり説教壇を降り、礼拝堂から出て行ってしまいました。
次の金曜日、ホジャは再び説教壇に登ると、人々にまたしても同じ質問をしました。
「皆の衆、わしがこれからどんな話をしようとしているかお分かりかな?」
人々はすぐ答えました。
「分かります。」
この前、「分かりません」と答えてホジャに逃げられたからです。
「なに、お分かりとな?それならわしが話すまでもない。みなさん分かっていらっしゃるなら、わざわざ話すのは無意味というものだ」
ホジャはこう言うと、説教壇を降り、またしても礼拝堂から出て行ってしまいました。
さて、その次の金曜日。人々はホジャがやってくる前にしっかり相談しあいました。ある人たちが「分からない」と答え、残りの人たちが「分かる」と答えれば、さすがのホジャも今度こそは立ち往生するだろうというわけです。そこにやってきたホジャは、説教壇に登って今度も同じ質問をしました。
「皆の衆、わしがこれからどんな話をしようとしているかお分かりかな?」
そこである人たちは手はずとおり「分かりません」と答え、残りの人々は「分かります」と答えました。
「ふむ、大変結構。それでは分かっている人たちは分からない人たちに教えてやることですな。」
ホジャはこう言うと、説教壇を降り、ゆうゆうと礼拝堂から出て行ってしまいました。
『トルコの愉快なおじさん ナスレッディン・ホジャのお話』/著:児島和男/東京トルコ・ディヤーナト・ジャーミイ(一部抜粋)
結局、ありがたいお言葉は一言も口にしない。信心深い民衆とホジャの対比が見られ、“ムスリムは皆、生真面目”という先入観が変わるお話でした。
いかがでしたか?私たち日本人にとってあまり馴染みのない「イスラム教」ですが、この記事を読んで少しでも理解が深まると嬉しいです。