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JATA
観光庁長官登録旅行業第1997号
日本旅行業協会 正会員
東京商工会議所 会員
トルコ観光名所ガイド

コンヤ


コンヤの先史
近年のコンヤやその周辺の考古学調査および発掘によって、私たちは、コンヤの先史がどのようなものであったのかを知ることができる。旧石器時代の遺物は数多くは発見されていないが、新石器時代(磨製石器を使用した時代)に属するものが発掘に伴ってでてきた。発見された遺物によって、コンヤとその周辺の文化散布の状況が推測される。さらにまた、コンヤのジァンハサンやチャタルフォユックの塚は現在も発掘中で、ここから発見された数々のすばらしい出土品は、新石器時代がこの地域でB.C.7000-6000年頃から始まったことを示している。

一方、コンヤの市街において発掘された数多くの塚も同じように新石器時代の特徴をもっている。このようなことから、コンヤ平原一帯に集落ができたのは、B.C.7000年頃とされる。そして青銅器時代へ。 多くの遺跡は私たちに時代の足跡を示してくれる。
他のアナトリア地方と同じようにコンヤにおいて最初の政治的要素がある集団は、ヒッタイト人によって始められたことが、発見された文書でわかった。
最近おこなわれたコンヤ市街から西1 1Kmのカラフォユックの塚の発掘で、ヒッタイト人がこの時代に光を注いだことを示す遺物が数多く出土している。

ヒッタイト人につづいて、フリュギア人やリディア人がアナトリアヘやってきた。フリュギア人はコンヤやその周辺を支配し、ポラトルの近くのゴルディオンという町を最初の首都にした。コンヤ市街のアラエッディンの塚やコンヤの北にあるスズマ キョユの塚からはフリュギア人の時代の磁器がたくさん出土している。フリュギア人のコンヤとその周辺の支配は紀元前7世紀で、このころコンヤはカワニアと呼ばれていたと推測される。

のち、リディア人がこの地を支配し、紀元前546年にペルシャ人が侵略した。この時からアレクサンダー大王の征服、紀元前333年まで、アナトリア地方には統一国家は存在せず、独立国が各々の領地を支配していた。アレクサンダー大王は、コンヤを含むアナトリア地方全域をギリシャ人の手で支配した。アレキクンダー大王の死後、この地域はさまざまな王朝にしばしば支配されている。その後、紀元前223年ペルガモン王朝のアッタロス1世がこの地を征服した。紀元前133年、アッタロス3世の死後、コンヤはローマ帝国のものとなり、名もイコニウムとなった。

キリスト教の初期の時代(47-50年)、イエスの弟子の一人であるセント ポールがアンタリアからアナトリア地方にやってきて、ヤルヴァチ、コンヤ、ハトゥンサライ、デルベなどを連続して訪れた。この彼の旅は、キリスト教の布教にたいへん役立ち、コンヤは宗教伝道者の重要な中心地となっていった。ローマ帝国のテオドシウス帝が、帝国を2分して息子遂に分け与えた時、コンヤは東ローマ帝国の支配下に入った。

コンヤの町
中世のコンヤ
ビザンティン時代には、コンヤはイコニウムまたはコニイェと呼ばれていた。建築遺跡の断片や石棺、石碑などコンヤの近くで発見されたものを観察すると、ローマ時代に属する都市も、一部はビザンティン時代に存在したということがわかる。5世紀頃のカタコームやモザイクのかけらが、コンヤの宮殿の廃墟から発掘されたが、これらはこの時代のすばらしいサンプルである。シレやカラマンのカラダーの修道院やほかの古い城などはこの時代に属するものである。
イスラム教の布教とその起源のため、アラブ人はアナトリア地方とビザンティン帝国の首都への侵略を欲した。コンヤが一時的にアッバース朝に征服されたこともある。

トルコ人が最初にコンヤに現われたのは9世紀である。偉大な支配者トゥールル ベイの治世下でセルジュクトルコはイスラム教を奉じ、アナトリア地方の一部を支配していた。後にアルプ・アスランの指揮下、彼らはゲオルギア、アルメニア、コンヤを征服し、1071年にアナトリア地方東部のマンズィケルトにおいて、ビザンティン軍を破り、以後、トルコ族のアナトリア支配は決定的なものになる。1076年にコンヤはセルジュクトルコの首都となった。

1080年にイズニックに遷都されたが、1097年にクルチ・アスラン1世によって再び首都がコンヤに戻され、カラマンオーウラル朝崩壊までこの状態が続いた。セルジュクトルコの治世下、コンヤの街はきらびやかに輝き、すばらしい建築物で飾られていた。
特に、13世紀頃のコンヤは文化と芸術の香で満たされていた。多くのモスク、メスジット(小モスク)、メドレッセ(神学校)、テュルベ(霊廟)などが建設され、アラエッディン・ケイクバート1世の時代、1221年には、厚い壁でこの街は囲まれた。オメル・シュレヴェルディ、ムヒッディン・アラビ、メヴラーナとその父、サドレッティン・コネビなどの有名な学者や博士、文化人などがコンヤに集まってきて、この時代のスルタンに深く影響を俘えている。

時が経つにつれて、ババ・イスハックとよばれる内乱も起こった。1243年、バイジュ・ノヤン率いるモンゴルのイルハン軍にキョセダーの戦いで敗れた後、その支配は次第に名目のみとなり、再び混乱期に入っていく。スルタン・メスット2世の死のすぐあとの1308年に、セルジュク朝は終焉を迎えている。

そして、カラマンオーウラル朝のコンヤにおける支配が始まるのである。この王朝はセルジュク時代にアナトリア地方のイチェルという地域に住んでいたトルコ族である。13世紀の後半に、エルメネクを首都とすることを宣言している。このようにセルジュクトルコの終焉につづいて、この王朝はアナトリアの王朝の中で最も力のある支配の1つであった。事実セルジュク朝のスルタン・ケイクバート1世は、1228年にヌレスーフィ族(カラマンオーウラルにエルメネクとその周辺を授けている。しかし、モンゴルの侵略とセルジュク朝時代に起こった天災が有利に働いて、彼らは独立を宣旨するのである。もちろん一方では、勢力拡大のため、セルジュク朝や他のアナトリア地方の王朝、そして後にはオスマン王朝とも戦っている。オスマン朝とカラマンオーウラル朝の戦闘は、数年間にわたって続く。オスマン朝は勝利する機会が多かったし、コンヤも奪ったが、これは一時的なものであった。ついに、オスマン朝のスルタン・メフメットは攻撃をかけカラマンオーウラル朝を打ち負かし、1467年には滅亡させてしまった。そして、コンヤはオスマン朝の1つの地方という位置付けがなされた。コンヤが一地方都市になってから、最初にこの地の管理者になったのは、シェザデ・ムスタファ(スルタンの息子)である。


コンヤの近世と現在
1481年にスルタン・メフメットが亡くなってから、彼の息子スルタン・ジェムは、彼の兄弟のスルタン・ベヤジットとの戦闘を開始し、ブルサのイェニシェヒルで敗戦したのち、コンヤヘ戻ってエジプトヘ逃れた。スルタン・ジェムのあと、シェザデ・アブドゥラーがこの地域を治め、安定がみられた。シュレイマン大帝やスルタン・ムラト5世も遠征中にコンヤに何度かとどまっている。

コンヤという一地方の重要性や名声は、時とともに薄れていき、オスマン時代に発揮された力量も消え果ててしまった。帝国が腐敗し始めると、ムスタファ・ケマル・アタチュルクの指導で独立戦争がはじまり、コンヤは物質面と精神面の両方で人々をこの時期支える役割を果たした。

コンヤの有名な建築物
1、セルジュク期
2.カラマンオーウラル期
3.オスマン期
セルジュク期の建築物を挙げてみると…

アラエッディン モスク
このモスクは街の中央部にあるアラエッディンの丘の上に位置し、アナトリア地方にあるセルジュク期のモスクの中で最大級のものである。モスクの建築はルクネッディン・メスット1世の治世1155年に着工され、度重なる増改築を経て、1221年アラエッディン・ケイクバート1世の時に完成した。モスクの東側にある扉から内部に至る。ビザンティン時代やローマ時代の柱頭がついている石製や大理石製の41本の柱があることから、古代の建物をもってき てモスクに利用していることがわかる。堂内はセルジュク期のモザイクタイルで飾られており、たいへんに美しい。木製のミンベル(説教壇)は、1155年にミフラブの右側につくられ、黒檀のように固い素材でできている。これにはスルタン・メスットとクルチ・アスラン2世の名前が彫刻されている。(現在はメヴラーナ博物館で修理中)ダマスカスの建築家の設計で、礼拝堂の構成や装飾にシリア的な特徴がみられ、アラブスタイルのモスクとなっている。
わずかに残っている北側の壁はセルジュク期の城塞一部である。

セルジュク時代のスルタンたちの霊廟
アラエッディンモスクの北側の庭に、社をもつセルジュク時代のスルタン達の霊廟がある。この霊廟は切断されたれでできた10角柱のかたちでそびえたっており、そのまわりをれんがが囲んでいる。霊廟の碑文には、スルタン クルチ・アスラン2世が建立したものである。
この霊廟に埋葬されているスルタンは以下である。
スルタン・ルクネッディン・メスット1156年没、クルチ・アスラン2世1192年没、ルクネッディン・シュレイマン2世1204年没、グヤセッディン・ケイヒュスレヴ1世1211年没、アラエッディン・ケイクバート1世1237年没、グヤセッディン・ケイヒュスレヴ2世1246年没、クルチ・アスラン4世1265年没、グヤセッディン・ケイヒュスレヴ3世1283年没他にも何人かの貴人が埋葬されている。

コンヤの町
アラエッディン・モスクの庭と壁
モスクの北側のドアを開けると広い庭に出る。この庭の西の位置に四角形の土台の上にたち、大理石で覆われている霊廟がある。この霊廟の扉は、白と空色の大理石で装飾されている。石製のミフラブも霊廟にある。霊廟の下の狭いドアを通って棺が安置されている部屋に至る。モスクは石製の壁で囲まれており、北から東西に向かっている。アラッディン・モスクはいろいろな時代に修繕されているが、1954年に最終的な修復作業が終了した。しかし不運にも1956年に壁の部分に亀裂がはいり、現在修復中である。

セルジュク キオスク
キオスクとは中近東ではあずまやをさす。このキオスクはアラエッディンの丘の北斜面にあったが現在はその東の部分が遺跡としてわずかに残っているだけである。スルタン クルチ2世がつくったもので、アラエッディン キオスクの名称で親しまれていた。2階建てで、内部の壁はモザイクタイルで飾られており、絵とモチーフが美しい。17、8世紀頃から次第に崩壊していき、19世紀には半廃墟化してしまった。2階部分は完全に壊れ、1961年に残っている壁が修理された。

イプリックチ(アルドゥンアバ)モスク
アラエッディン通りにある。モスクと南側に付属していたメドレッセは、1120年にセルジュク時代の有名な政治家として知られるアルトゥン アバによって建立された。何度かいろいろな時代に手直しが加えられているが、モスクにつづくドーム天井を除いて、メドレッセの方は完全に崩壊してしまった。
このモスクのメドレッセでは、メヴラーナやその父、そして非常に尊敬され誉れある学者達が講義を行なったり、寄宿したりしたようである。

モスクは、四角形の土台の上に建っている。強度の強いアーチで支えられている12本の柱の上に、十文字の軒縁でつながれた円形のドーム1つと楕円形のドーム2つがのっている。大理石製のミフラブは、オスマン期のモザイクタイルの上につくられたもので、現在はその上部に、モザイクタイルの原形を見ることができる。モスクのミナレットは折々に崩れている。
のち、このモスクは修復され、1953年から古典作品の博物館となったが、1959年に再びモスクとして様変わりした。


スルチャル・メドレセ
ガジアーレムシャー地区のスルチャル通りにある。セルジュク期グヤセッディン ケイヒュスレヴ2世の治世下、高官ベドレッティン・ムスリッヒの命令で、イスラム教の教義を学ぶ場所として、1242年に建てられた。別名をムュスリヒイェ・メドレッセともいう。ここにあるセラミックタイルの上には、トゥスの街のオスマンの息子メフメットの作と書かれている。メドレッセの東には、石製の巨大な正門がある。正門いっぱいに繰り広げられている幾何学模様や植物模様、アラビア文字模様などは、セルジュク期の建築の特徴を強く示しているサンプルである。正門の上部は、クーファ体のアラビア文字模様の碑文で占められており、この碑文の下のアーチ型ドアを通ってメドレッセヘ入ることができる。そして、通廊をぬけてメドレッセの広い部屋へつづく。メドレッセの壁の内側は、セルジュク期最高のセラミックタイルが拡がっている。
入口の右側には、高官ベドレッディン・ムスリッヒとその一族の霊廟がある。
このスルチャル・モスクでは、セルジュク時代とそのあとの時代にイスラム教の教義と解釈が研究された。17世紀から19世紀にかけてモスクは崩れ始め、時々修復もされた。 しかしドームを失ってしまったこのモスクは崩壊手前で、1955年にできる限りの修復をほどこした。

 
ブュユク カラタイメドレッセ
アラエッディンの丘の北側の傾斜に建っている。セルジュク時代イゼッティン・ケイカヴス2世の1251年、高官ジェラレッディン・カラタイによって建設されたものである。このメドレッセはセルジュク期の芸術と科学の命に対してたいへん重要な役割を果たし、他のセルジュク時代のメドレッセと同じ特徴、そして明白な類似点を形態づけた。大きな正門、ドームのかかった広間、エイヴァーン、そして霊廟から成っている。学生や学者達のための小部屋は、時につれて壊れていった。正門は絶妙なデザインや文字模様をほどこしている白色や空色の大理石でできている。入口の上のフリーズには碑文とコーランから引用したクーファ体の文字模様がみえる。この正門を通って、かつてはドームで覆われた庭にでることができる。そして、いよいよメドレッセ本体に入ることができるわけである。

広間は壁とモザイクタイルで飾られたドームで囲まれている。このドームの真ん中には、天井窓が備え付けられており、下には美しい大理石で造られた水溜まりがある。壁は広い範囲にわたってはげおちており、残っているタイルからセルジュク期の陶器芸術はどのようなものであったかが、うかがえる。クーファ体のアラビア文字模様、植物模様、幾何学模様などを使って、生命のはかなさ、また逆に生命力などを表している。このようなタイル技術は、セルジュク期のアナトリア地方で発展をみた。(モザイクタイルには2種類ある。1つは、小さなかけらを組み合わせるもの。もう1つは、大きなプレートから切り取ったかけらを組み合わせるもの。)タイルを一色の色で生命する場合、各々の色は別々の温度で別々に焼かれる。この技術は大変高度なもので、この方法を用いてタイルを焼くと質の高い、美しい色がでる。青いタイルで飾られた広間には昔真ん中に設置された泉に清水がためられ、天国を表していたという。

ドームの構造は、ターキッシュトライアングルと呼ばれるトルコ独特の方式である。壁に設置されセラミックタイルで埋め尽くされた壁がんは、以前学生たちの部屋や西側のエイヴァーン、このメドレッセを建てたジェラレッディン・カラタイの霊廟へつづくドアであった。霊廟は四角形の土台の上にあり、れんがのドームがある。
開校後、このメドレッセでは、’’Şeriat’’や’’Hadis’’、’’Tefsir’’、’’Usul’’、’’hilaf’’などの研究されていた。マゼナエランのリュクネッディンやマルディンのシェムセッディンなどといったセルジュク時代のそうそうたる学者たちが講義をおこなっている。メドレッセは数回にわたって修復されており、1953年に修復された後、1955年に陶器博物館になっている。

カラタイメドレッセ
小カラタイ(ケマリィエ)メドレッセ
フユック カラタイ メドレッセの東側にあり、ジェラレッディン カラタイの兄弟である高官ケマレッティン ルムタッシュによって1253年によって建てられた。残念なことに現在は、メドレッセ エイヴァーンの部分しか残っていない。エイヴァーンの壁の残っている部分には、れんがとモザイクタイルの装飾が見られる。


サヒップ アタのキュッリエ(モスクを中心とした教育機関)
ラーレンデ通りにあるサヒップ アタのキュッリエは、メスジット(小モスク)とテュルベ(霊廟)ハニカー(特別室)から成っている。サヒップ アタの名で知られているセルジュク期の有名な高官ファーレッティンアリによって1258年に建設が始められ、1283年に遂に完成した。建築家は、ケルクであった。

1.メスジット
北側にある正門からメスジットに入ることができる。正門の上にあるレンガを組み合わせたミナレットは2本あったが、左側は跡形もなく崩壊しており、右側も半崩壊に近い状態である。正門自体は切断された石と大理石で作られており、左右どちらにも上部と横に壁がんとセビル(小さな泉)が設置されている。大理石には、浮き彫りが施されている。セビルのまわりには、AYET(コーランの一節)にある水とその神性を説いている部分が彫刻されている。正門の軒じゃばらにもコーランから引用したアラビア文字の彫刻がみられる。そのすぐ下には、建築家の名前が素晴らしいクーファ体で書かれた大メダルがある。正門の他の部分は浮き彫りや幾何学模様がふんだんに取り入れられている。
この門をくぐると広い庭にでてメスジットの彫刻付き木製扉に辿り着く。メスジットの建物は、大火災の後に再建され、現在ある木製の屋根付き建物になった。セルジュク期のモザイクタイルで装飾されたミフラブもある。
左手にある小さな扉はテュルベヘつづく。

2.テュルベ
このテュルベは、タイル装飾で彩られており、アーチ型の屋根で覆われた通廊と精巧な装飾のある大理石の石棺が安置されているドーム付きの小さな広間がある。ここには、高官サヒップ アタ ファーレッティン アリとその息子達、孫達の石棺がある。タイルで装飾された窓と扉は、テュルベとハニカーをつないでいる。

3.ハニカー
建物の東側にあるメイン・ドアからハニカーに入ることができる。この建物は、ヒジュラ暦678年西暦1279年にサヒップ アタ ファーレッティン アリが建てたものと刻まれている。
廊下を通って、ハニカーに至る。ハニカーの部屋は、れんがとモザイクでつくられている高いドームで覆われている。部分的にはげてはいるが、壁はモザイクタイルで飾られている。ミフラブもタイルで同じく装飾されている。

4.サルタンの浴場
ハニカーの東にあるサヒップ アタの浴場は、風呂かまど、マッサージルームそして大きな水タンクを持つ。男性用と女性用に分かれている。次第に廃墟化し、現在ある遺跡は、コンヤにあるセルジュク期の浴場のよいサンプルとして残っているだけである。

カラタイ(ケマリィエ)メドレッセ カラタイ(ケマリィエ)メドレッセ アラエッディンの丘の西斜面に位置しているこのメドレッセは、サヒップ アタによってセルジュク期に建設された。“Hadis”(ムハンムドの金言)を学ぶことが目的とされたため、別名を“Dar-ül-Hadis”という。メドレッセの南側には、メスジット(小モスク)に属するミナレットやミフラブが現存しているが、メドレッセの生徒用の寄宿部屋とメスジット自体は時の流れにより、廃墟化してしまった。このメドレッセの建築家は、ケルクであった。
メドレッセの石製の正門は、セルジュク期の石工術のすばらしいサンプルである。正門全体を覆うアラビア文字模様、幾何学模様の浮き彫りは一見の価値がある美しいものである。門中央部には、2本のアラビア文字模様でいっばいの帯状装飾が上から下にほどこされており、アーチになっているところのちょうど真上で、結び目をつくっている。この大きな正門をぬけると、ピラミッドやの屋根をもつ通廊にでて、そののちメドレッセの広間にいたる。広間は高いド-ム付きで、天井窓もある。内部の装飾は、れんがをそのまま用いた文様積みになっている。広間の右側にはれんがでできたアーチ型のエイヴェ一ンがあり、それは床よりも少しだけ高い位置におかれている。
色彩豊かなタイルで飾られたバルコニーつきのミナレットは1901年の落雷で3分の1ほどの大きさになってしまった。そしてこの時の落雷は、メスジットのドームまで破壊してしまった。
このメドレッセはセルジュク期の有名な文化的学院のひとつとして知られているが、これまでに何度も修理の手がはいっている。1956年に このメドレッセはついに石製や木製の芸術作品を展示する博物館に変わってしまった。インジェミナーレ(細いミナレット)があったことからこの名前がつけられた。

サドレッディン コネヴィ モスクとその霊廟
1.モスク
モスク正門の上にある彫刻付きの2つの小牌から察するに、有名な学者サドレッディン コネヴィに敬意を表して、1274年に建立されたものであるらしい。1899年にコンヤの長官フェリド パシャによって修復された。つまり、タイルでできたミフラブやいくつかの建築遺物をもつ現在のこのモスクは、セルジュク期の原型通りの構造でオスマン時代に再建されたわけである。
正門、木製の屋根付き広間を経て、モスクに辿り着く。ミフラブはセルジュク期のモザイクタイルで装飾され、ミナレットはオスマン建築様式で切断された石とれんがでつくられている。
広間から図書館へも行くことができる。現在、蔵書はコンヤのユスフ アギ図書館に保存されている。

2.霊廟
この霊廟は長方形の土台の上に建っている。土台に大理石の柱が立っており、柱と柱の間には目を見張る大理石製の格子窓が備えられている。サドレッディンコネヴィの石棺が安置されている。


ハジ フェッルー(アクチャ ギズレヌメズ)モスク
アクシンネ地区のタシュジャミ通りにある。1215年、ハジ フェッルーによって建立された。正門はモスクの東に位置し、切断した石を使って造られている。横側についている窓の縁と扉は、アラベスク文様で飾られている。モスク入口から美しいアーチ型通廊を通ってモスク内部にでる。モスクはれんがを組み合わせてできたドームで覆われていたが、老朽化のため、木製の屋根で保護された。石製のミフラプ、しょう乳石の装飾そしてアラベスク模様などでモスクは飾られている。


シェケルフルシュ メスジッディ(小モスク)
シェケルフルシュ教区内に位置し、砂糖商人の息子ハッサンによって1220年建立された。四角形のメスジットの壁は下半分は切断された石、上半分はれんがでつくられている。れんが製のドーム付き。最近、修復された。

エルデムシャー(カレジェルプ) メスジッディ
この小モスクは、カレジェルプ地区にあり、アラエッディン ケイクバートの治世時1220年にシェムシェッディン エレデムシャーが建立した。れんがを積んだドームで覆われている。

コンヤの町 セルジュク期の霊廟
他のアナトリア地方のセルジュク霊廟と同じように石とれんがで造られ、丸天井のドームがついているこの時代のコンヤの霊廟は、この都市のいたる所に散在している。有名なものを挙げてみると、高官タジュル、カラ アスラン、アテッシュバス、セイフェッディン スングル、ピレ エサド、ウラシュ ババそしてケシクバシュなどがある。

カラマンオーウラル期の建築作品 (ハスベイ ダーリュル フフハズ)

カジ アレムシャー地区のスルチャル通りにあるこの建物は、コンヤのカラマンオーウラル期における有名な建築見本のひとつである。スルタン メフメット2世の時代、1421年にハジ ハスベイの息子メフメット ベイによって建てられた。コーランをすべて暗唱することを学ぶ学生のためにつくられたこの建物の西正面には、大理石の縁の窓がある。建物内には、モザイクタイルのミフラブが設置されており、地下には墓室として使われていたと推測される小部屋がある。

他にカラマンオーウラル期建築の代表作品は、a:ガヴ ザーヴ イェシ(教主の管理下でイスラム教の教義の異なった分類を教える学校)とその霊廟。14世紀の初頭に造られたものと思われる。b:カドゥ ミュルセル(ハジ ハッサンモスク。1409年に建立。 c:エブ イスハック カゼルニ ザヴイェシィ。 14 1 8年に建立。d:メラムのハスベイ メスジッディ。 1402年から1424年のあいだに建立。 e:教主オスマン ルミの霊廟。 f:プルハネッディン ファキッヒとシィヴァユシュ ヴェリ。g:ドゥルスンオール モスク。h:ナスフ ベイ ダーリュル フフハズ i:アリ エフェンディ 学校 j:カレンデルハネ

オスマン建築作品 ドゥルスノール モスク
アブドゥラジズ地区にあるこのモスクは、スルタン ユルドゥルム ベヤジットの時代にドゥルスンオール メフメットによって建てられた。この時代は、オスマン王朝とカラマンオーウラル王朝の関係が大変よい時期であった。丸くふくらんだドームがついており4面の壁から成っている。北側には尖ったアーチで覆われた広いスペースがあり、信者が礼拝するための3つのドームもある。メジディイェザーデ タヒル パシャと彼の兄弟アリ ベイにより、1888年に修復された。

ピリ メフメット パシャ モスク
1523年にピリ メフメット パシャによって建立され、1950年に修理の手が加えられた。モスクには信者のお祈り用として3つのドームで覆われた広いスペースがある。古風でうっとりするようなオスマン様式でつくられたこのモスクは、ドーム、れんが造りのミナレットをもつ。近隣の霊廟は、教主ジヤヴッシュものである。


セリミイェ モスク
メヴラーナ霊廟の東側にあるコンヤのオスマン建築の中で最も優雅なもののひとつで、スルタン セリム2世の時代につくられた。灰色の大理石のミフラブや白色の大理石製のミンベルは、この時代の石工術の無比の名品である。


シェラフェッディン モスク
この大きなモスクは、街の中心に位置しており、総督官邸の北側にある。オスマン建築様式のミナレットが目を引く。13世紀の半ばに教主シェラフェッディン メスドによって建立され、カラマン オーウラル王朝のイブラヒム ベイが修復した。オスマン時代に完全に崩壊したために、1636年メミ ベイがふるい土台の上に再建した。これが現在見られるモスクである。整った形の切断された石でできた壁の表面は、セルジュク期のモザイクタイルで覆われている。北側には格子と大理石の縁どりがある窓のついたメイン・ドアがあり、6本の柱の上にドームがついた礼拝者用のスペースにつづく。ミンベルとミフラブは大理石でできている。創建者の霊廟もモスクの南側にあったが、最近になって崩壊してしまった。


カプ モスク
オドゥン パザル地区に建っており、もともとイヒヤイイェという名称であったが、コンヤの城の入口の1つに近かったためにカプ(門)モスクとよばれた。メヴラーナ教団の教主のひとりであるピル フセイン チェレビが1658年に建逞し、1811年に修復の手が加えられ、1867年の大火災で焼け落ちたためその翌年、再建された。この再建の年号は、メイン・ドアに刻み込まれている。
カプ モスクは、コンヤのオスマン時代のモスクの中で最大級のものである。北側には、礼拝する信者のための高い教壇があり、10本の柱が立っている。低いアーチ型のメイン・ドアがあり、他にも西と東に2つの扉がある。モスクは切断された石で建てられており、内部に8つの大きさの異なったドームがあり、外部は屋根で覆われている。石製のミフラプと木製のミンベルには、素朴なデザインが施されている。シャドゥルヴアン(土台を覆うようなもの)はモスクの西側にあり、1812年セイッド アプドゥラーマンによってつくられた。

アジィジィイェ モスク
1676年に建立されたが、次第に状態が悪化したので、スルタン アブドゥーラジズの援助で再建された。ヨーロッパでは、16。17世紀のバロック調建築が18世紀になってロココ調に移行していった。トルコの建築もこの傾向を18世紀の始めから取り入れていった。このモスクは、この移行期の混ざり合った芸術で出来上がった建築物である。ドーム内部の装飾、ミナレット、モスクの内側や外側の装飾等に随所その特徴が活かされている。


ナクボール モスク
1762年にメヴラーナの家柄であるナキブュルハジ ミュフトゥ セイッド イブラヒムが建立したこのモスクは、ナクボール地区にある。1926年に修復。キュタフヤタイルをつかったミフラブが大変美しい。


アムベル レイス(フェリディエ)メズジッディ
フェリディエ地区のスティション通りにある。この小モスクは、セルジュク期のシェハベッディン アムベルによって建てられたが、次第にいたみ始め、1911年に完全に崩壊し、1913年に再建された。ミフラブと壁の一部分は、キュタフヤタイルで装飾されており、ミナレツトは1本だけである。セルジュク期に属するアンベル レイスの霊廟が近くにあったが、半世紀前に壊れてしまった。1956年に新装されている。
メモ:上記の建物とは別に、オスマン時代に建立されたモスクやメスジットは、やく100にもおよび街のいろいろな地域に散在している。しかし、建築価値といった点では、さほど考慮にいれるほどのものではない。老朽化のため、再建されたり、慈善家によって新装されたものも多くある。

メヴラーナ ジェラレッディン ルミの生涯とその放浪の旅
メヴラーナ 偉大なトルコのイスラム教思想家メヴラーナ ジェラレッディン ルミは、パキスタンの国境のKhorassanのBelhという街で生まれた。彼の生まれた年については、作家や評論家によって見解が異なり、未だはっきりしていない。イギリスの歴史家であり、かつ作家でもあるWill Durant は、1201年であると発表し、フランスの作家Maur ice Barrésは、1203年としている。メヴラーナ教団員の学者アフメット エフラーキは、メヴラーナについての逸話を収集しており、彼の著書“Menâkibül Arifin”でヒジュラ暦604年3月6日(西暦1207年9月30日)にメヴラーナは生まれたとしている。

最近の調査によって、メヴラーナは1207年以前に誕生したと発表された。実際にメヴラーナ自身の著書“Fihi-Mafih"の中で、サマルカンドの功囲のことを思い出として記述している。このできごとは1207年に起こったものなので、彼の記憶に残っているとすればその当時すでに7、8才になっていたはずである。このように推察すると、彼は1200年以前に生まれていたことになる。また他の著書を参考にすると、1182年頃が生まれた年であるとする説もあり、いろいろな推測がなされている。
メヴラーナの父は、バハエッディン ヴェレドといい大変尊敬された学識者であった。賢者で先見の明にたけた人物で、“ウレマのスルタン(宗教上の法や神学についてのイスラム教博士)”の名称を受けていた。この家の人々が代々行なってきたように、彼もBelhの街のモスクやメドレッセで彼を慕って集まってくる人々や学生に神学への道を説いた。メヴラーナの母はムュミネといい、Belhの高官リュクネッディンの娘である。

バハエッディン ヴェレドの人望があまりに大きく、尊敬の念を一手に集めていたので、次第にファーレツディン ラーミなど他の学者達から反感を買うことになった。特にギリシャ哲学を好み崇拝している学者グループは、Belhの支配者と一緒になって彼に反旗をひるがえした。そして、故意に彼の名誉を傷つけるこのようなデマを流した。
“王様、バハエッデイン ヴェレドはこの街の人々の心をほとんど征服しています。我々を重視せず、堂々と屈辱しているのです。我々はいつの日か、彼があなたの王位を脅かすようなことを企てるのではないかと恐れております。街の人々は彼を崇拝しきっております。今、何の手立てもうたなければ、たいへんなことになってしまいます。”

メヴラーナの父は、このゴシップに心を痛め、Belhの支配者にメッセージを送る決意をした。
“心からのご挨拶をいたします。この腐敗しやすい世界の領地や兵土たち、王位、富は、支配者や王様にふさわしいもの。私たちは忠節ある修業僧であるのみで、領土も王位も必要ないのです。私の願いは、あなた様が主権を支配し皆が平和に暮らしていけることです。”
一方、敵であるモンゴルは、酷な急襲や掠奪、焼き討ちをBelhの周辺で繰り返した。このようなことから、Khorassanの地には平和が存在しなくなった。希望を失った惨めな人々は小集団にわかれて、イランやイラクそして西の方へ逃れていった。
モンゴルの侵入だけが理由ではなく、彼の知識や名声に嫉妬している支配者とその取り巻きグループの行動や反応のため、この街から彼は出ていくことに決めた。
多くの人々が止めたが、彼の決意は変わらなかった。
ある金曜日の朝、幌馬車に身の回りの必要なものと本を乗せて、彼は妻と2人の息子、数人の弟子を連れて旅立った。


放浪の旅
最初にメヴラーナの家族は、ナシャプルの街に着き、神秘主義者フェリデッディン アッタルに会見した。アッタルは、若き日のメヴラーナの知識と賢明さを非常に評価し、彼の著書“lnterpretation of Mystery”をメヴラーナに与えた。
それから彼らはバクダットヘ進んだ。市壁の近くで、どこから来て、どこへ行くのかを警備官から尋問されたとき、メヴラーナの父、“我々は、神のもとから来て神のもとへ行くのである。神以外の何人たりとも我々の行く道を止めることはできない。”とこの偉大な思想家は答えた。この言葉はカリフのもとまで届き、一家は宮殿にも招かれたが、それを辞退しメドレッセに滞在した。
バクダットにも長く滞在せず、彼らはメッカヘそしてメディナ、エルサレム、ダマスカスヘと移動していった。ダマスカスにも長くは留まってはいない。
神はアナトリアに居をかまえよと告げられた。コンヤが我々の住むところであるようだ。と、メヴラーナの父は言った。そして彼らはアナトリアをめざして出発した。もはや、どこにもとどまることなく。シバス、カイセリ、ニーデ、と旅をして、ついに彼らはラーレンデの地にたどりついた。

ラーレンデ(カラマン)の7年間

1221年にメヴラーナの父はラーレンデの土地に足を踏み入れた。ラーレンデの長官エミル ムサ ベイは、彼に敬意を表してメドレッセを建て、この家族をこのメドレッセに住まわせた。その一方、若き日のメヴラーナは機知に富んでおり、生れつき強い力を持ち合わせていたようである。父の講義に出席し、懸命に日夜勉学に励んでいた。父の弟子の娘であるゲヴヘルとメヴラーナは結婚したが、この後すぐにメヴラーナの母と兄弟のムハンマド アラエッディンが亡くなっている。
メヴラーナの妻はラーレンデの地で、第一子スルタン ヴェレデ、第二子アラエッディン チェレビを出産している。

コンヤへ

この時期セルジュクトルコは、アナトリア地方の広い部分を支配しており、最盛期を迎えていた。
イッゼッディン ケイクバート1世の後、王位についたアラエッディン ケイクバート1世は、宗教を厚く保護し、科学や学者達にも非常に興味を示した。彼の治世の根拠地コンヤは、芸術作品で彩られ、多くの学院が建てられた。宮殿やメドレッセはこの時代のそうそうたる学者達でいっぱいだった。しかし、人々はモンゴルの脅威と宗教上の闘争が引き起こす混乱に心が休まることがなかった。このようなことから、人々は平和と心の安定を神秘主義にもとめ、天国と現世そして次代の間をさまよえることに共感を覚え、信仰した。スルタンや政府高官もこの神秘主義に共感し始めた。ネジュメッディン ダーイエ、サドレッディン コネヴィ、ムヒッディン アラビなどの神秘主義の学者達は、コンヤで大変尊敬を受け、名誉を与えられた。文化と科学の中心であるコンヤの街は、修業僧や学者、知識人に大きく門を開いていた。
このような状況下、アラエッディン ケイクバート1世は、ラーレンデにかつて住んでいた偉大な学者であるメヴラーナの父を早速コンヤヘ招聘した。
1228年の春、メヴラーナの父は最終的な居住の地コンヤに着いて、スルタンに会見し、アルトゥン アバ(イプリックチ)メドレッセシに住むことになった。それからというもの、彼は講義と説教をこのメドレッセで行い、忙しい日々を過ごした。のちに、新しいメドレッセに彼は移った。そこで、弟子や生徒たちによって集められた彼の講義や説教の記録は、3巻からなる “Mâarit(Education)” という本にまとめられた。
1231年1月12日にメヴラーナの父は、波乱の生涯を閉じた。

メヴラーナ 父の死後

メヴラーナは高官ベドレッディン ゲヴエルタシュが建てたメドレッセに住んでいた。父の死後、その弟子やや生徒たちはメヴラーナのまわりに集まってきた。彼らはメヴラーナをただひとりの後継者とみなし、この新しくすばらしい師の下で知識を得ることを望んだ。
しかし、メヴラーナ自身は底はかとない孤独を感じていた。彼がこのような寂しさを感じている時に新しい論理の太陽がアナトリアの地平線から光を放っていた。その光はトゥルミズのセイッド ブルハネッディンという人物であった。
この人物はもともとメヴラーナの父の弟子であったが、夢幻の境地と恍惚をさらにもとめて、瞑想のため山奥に隠遁した。メヴラーナの父の死後、彼は尊敬する師の教育ができるのは自分しかいないと信じ、メプラーナのもとへいった。メヴラーナは彼を歓迎し、9年間にわたり彼の精神的管理下で勉学に励んだ。尊敬する師の同意と助言を得て、メヴラーナはアレッポとダマスカスに2年間滞在している。そこでメヴラーナは、その当時のスーフィズム(イスラム神秘主義)を知り、コンヤヘ戻った。セイッド ブルハネッディンは、こうしたメヴラーナの成長ぶりを喜び、満足してある日このように語った。
“メヴラーナよ、あなたはじゅうぶんな教育を受け、博識ある人物に成長した。魂の理解、論理、寓話などいろいろなことを学び、類い稀な学者となった。あなたがおもうように進みなさい。そして人々を慈善の精神に導き、あなた自身の神の愛の解釈を人々に説きなさい。” この言葉の後すぐにセイッド プルハネッディンはカイセリヘ行き、しばらくしてその地で亡くなった。この悲報を聞いてメヴラーナは嘆き悲しみ、師の最後の安住の地カイセリヘ急いだ。そして愛すべきこの師が残した蔵書とともに、コンヤヘ戻った。

メヴラーナの新しい理解者

セイッド ブルハネッディンの死後、再びメヴラーナはひとりとり残されたような気持ちがした。
しかし、彼が勉学にはげんでいる間に、彼の視野は大きく拡がった。彼はイスラム教の教義であ“fıkıh,tefsir,hadis,kelâm"を研究し、同時にイラン、インド、アラビアなどの文学にも興味をもった。また、ギリシャ語を学び、ギリシャ哲学者の古典作品も読んだ。その上、メドレッセで神秘主義をも研究し、彼の父や師も携わった神秘七義の会議の議長に就任した。
この時期、コンヤには大きな学術集団があった。当時の有名な学者たちはこぞってコンヤに集ってきた。メヴラーナのまわりに集まってきた知的集団も急速に大きくなっていった。彼はもはやメドレッセで講義をする学者というだけではなく、モスクで説教をする気性の激しい唱道者でもあった。彼の説教は7章から成る“Mecails-Seb‘a"に集められた。“神に懇願いたします。神を賞賛し、感謝しております。”という言葉で、すべての章は始まっている。演題の説明や神秘主義の教義は、寓話や逸話、詩などで潤色されている。このような物語や詩を手段として説明をする方法は、彼の偉大な作品“Mesnevi"にあますことなく表現されている。
一方、メヴラーナの妻ゲウヘルは亡くなり、彼女の2人の息子ヴェレデとアラエッディン チェレビは青年に成長した。メヴラーナが2度目に結婚したのは、礼儀作法のきちんとしたすばらしい女性ケッラであった。彼女との間にメヴラーナは、娘一人と息子一人をもうけている。また、養子も一人いたが、若くして亡くなっている。
メヴラーナはこのコンヤで一番大きなメドレッセ、アルトゥン アバ(イプリックチ)で講義を行なっていた。夕方、講義の帰り道は、自分自身の子供たぢを教育する時間にあてていた。彼の莫大な能力と機知、そして彼のゆゆしさを証明する行動や態度は、常にすべての人々から尊敬の念を得ていた。しかし、メヴラーナは日を追って彼の心の内に神秘的で不可解なものが魂のなかにあるのを感じていた。
1244年11月25日に彼がメドレッセから帰宅している時、道の真ん中で彼が乗っているらばのたずなを、突然2本の手がつかんだ。この男は旅をしている修行僧で、この見知らぬ僧がメヴラーナに質問を浴びせたときに、彼は何の飾りも洗練さもそして複雑な表現もなく素直に答えた。この正直で一本気なメヴラーナの答えは僧を興奮させ、魂を揺さぶった。らばから降りて、この僧をメヴラーナは家に招いた。この日を境にメヴラーナの魂の扉は、神の愛の鍵によって開かれた。メプラーナの人生の改革のきっかけをつくったこの僧は、ムハンマド シェムセッディン テブリズという人である。
シェムセッディンは若い頃テブリズのエブベキル セレバフの弟子であったといわれている。その後、シェムセッディンは彼を精神的に満足させる師になかなか巡りあうことができなかったので、幾度となく師を変えている。旅から旅を重ね、ついにコンヤに着いた彼は、上記のような経過を経て、彼が本当に望んでいた質問に対する答えと人物を捜し当てた。
シェムセッディンとメヴラーナは神秘主義の教義について討論を始め、その友情は長く続いた。メブラーナは、彼を大変高く評価し彼の中に創造神を見たような気がした。
メヴラーナが突然、姿を現さなくなり、弟子たちとの親交を断ったことで、彼を慕っていたコンヤの人々は激しいショックを受けた。そして、そのショックの感情は、強い苛立ちに変わり、シェムセッディンに対する噂が次のように広まった。
“一体、何なんだ。メヴラーナをここまで魅了し、友たちから彼を引き離したのは、誰なのだ。彼はどこからやってきて、何がしたいのだ。このシェムセッディンという名の僧は、メヴラーナを我々から奪い取ってしまい、何年も続いた師弟関係をもなくしてしまった。彼はメヴラーナに魔法でもかけたのだろうか。一体、何が目的なのだろうか。”次第にこの中傷は大きく拡がり、人々はシェムセッディンに嫌悪感を抱いた。このようなことから1246年の2月彼は突然、姿を消したのである。


シェムセッディン失踪の後…
シェムセッディンが去った後、メヴラーナの心は深く傷ついた。彼はシェムセッディンの失踪をまねいた人々との接触を完全に断った。ノスタルジアの炎を燃やしながら、小部屋に引きこもり心を閉ざした彼を誰も慰めることはできなかった。彼の息子スルタン ヴェレデは父の苦悩をなんとかして和らげたかったが、シェムセッディンの行方は依然として知れなかった。
こうして何年かが経った。ある日シェムセッディンがダマスカスにいるという情報がはいった。すぐにメヴラーナは、彼あてに手紙を書いたが返事はなかった。2度目、3度目の手紙にも同様に返信はなかった。息子スルタン ヴェレデは20人の弟子を連れて、4度目の手紙を渡すためにダマスカスヘ旅立った。

シェムセッディン再びコンヤへ

シェムセッディンを捜し当てたヴェレデは、父メヴラーナがいかに彼を必要とし、どんなに思い悩んでいるかを説明し、コンヤに戻ってくれるように懇願した。2、3日後、ヴェレデの説得に同意したシェムセッディンはコンヤヘ向かって出発した。
1247年5月8日、コンヤの街境でメヴラーナとシェムセッディンは再会し、一緒にメドレッセヘ向かった。メヴラーナのメドレッセはシェムセッディンのおかげで再び光り輝いた。メヴラーナは彼の保護の下で教育したキムヤという女性とシェムセッディンを結婚ざせたが、彼女はすぐに亡くなってしまい、メヴラーナの息子アラエッディン チェレビを含む反シェムセッディン派のよい攻撃の的となった。そして、彼女の死の原因を問うゴシップが広がった。

シェムセッディンの死後

1247年の12月5日の夜、反シェムセッディン派は待ちぶせをして、わなをかけ、シェムセッディンを暗殺した。このことは、メヴラーナの心情を察して長い間秘密にされていた。(シェムセッディンはいつものように消えただけでまた戻ってくると、メヴラーナには伝えられた。)
再びシェムセッディンの姿を失ったメヴラーナは孤独にうちひしがれ、頭に灰色のターバンを巻きゆったりとした長い上衣の前を開けて着用するようになった。シェムセッディンの不在はメヴラーナの生活に大きく影響し、メランコリーと恍惚におちいっていった。
彼は、シェムセッディンを探すために何度かダマスカスヘ出向いている。無論、これは無駄な事ではあったが。
メヴラーナが憂欝で暗い日々を過ごしている間に、シェムセッディンの存在にかわる人物が登場することになる。それがセラハッディン ゼルクビである。

メヴラーナ博物館 セラハッディン ゼルクビ

金細工師または宝石細工師で知られているセラハッディン ゼルクビは、ベイシェヒルの近くカーミルの村で生まれた。彼は仕事でコンヤにやってきて、住まいを定め、コレヤのマー-ケットで働き始めた。一方で彼は、セイッド ブルハネッディンの講義にも出席していた。ある日、彼はメヴラーナが旋舞によって無我の境地にはいっている光景を見て、メヴラーナの弟子にどうしてもなりたくなった。後にメヴラーナは、彼を賞賛しで教主のなかの教主、人間の中で神の光を放つもの”と語っている。また、シェムセッディンの存在がなくなってから太陽は沈んだが、セラハッディンのおかげでまた陽は昇ったとも述べている。メヴラーナは、息子ヴェレデとセラハッディンの娘ファトマを結婚させており、このことによっても二人の結びつきは一層深くなった。
セラハッディンという賢明な人物を得て、メヴラーナは幸福な日々を送った。
10年間一緒に生活をともにしたセラハッディンは、1258年の秋、静かに生涯を閉じた。彼はメブラーナの父の墓の近くに埋葬された。

チェレビ ヒュサメッディン

セラハッディンの死後、メヴラーナは寂しい心の片隅を埋めるために、一人の子供をもらいうけた。この子供の父は、アヒ・トゥルクの名で知られているムハンムドという人である。彼の先祖はウルミエからアナトリアに移民し、コンヤに住むようになった。ムハンムド別名アヒ・トゥルクはコンヤの近郊アヒスの族長であった。この人が亡くなった時、チェレビはまだ幼かったが、アヒスの伝統によって、彼は世襲財産の長として尊敬された。少年の頃からメヴラーナの強い愛を受けており、メドレッセで講義を聞いたり、神秘主義の集会で修道僧達の旋舞に参加したりしている。彼が成長すると、友達やアヒ族の仲間といっしょにメヴラーナの神秘主義集団に加わった。数年の間、彼はメヴラーナやシェムセッディン、セラハッディンの指導で勉学に励んだ。この期間に、彼らのきずなは非常に強まった。セラハッディンの死後、チェレビはメヴラーナの最も親密な友であり後継者であった。また彼が父から譲り受けた遺産もすべてメヴラーナに贈与している。メラムのぶどう畑にある彼の家は、メヴラーナの弟子たちの集会所にもなった。また反対にメヴラーナは、彼が弟子に分け与えるであろうことを予想して、すべての持ち物を彼に贈っている。
事実、青年期にチェレビは優れた教育を受けており、後にコンヤの数々のメドレッセで講師として成功している。メヴラーナの下で人生の深遠な意味や真理の理解を彼は深く学んでいる。メヴラーナ神秘主義集団の“The Treasurer of Education” なり、“The Bearer of the Secrecy” の称号も与えられている。その他にもメヴラーナから賛美の称号をいろいろと与えられており、まさにチェレビは、シェムセッディンやセラハッディンがいなくなった隙間を埋め、メヴラーナの親密な信者であった。そして、弟子の中の長として10年間その地位にいた。チェレビはいつもメヴラーナといっしょで、どこへ行くときも供をした。シェムセッディンの魂が、あたかもチェレビに復活したように…
シェムセッディンが未熟なメヴラーナを成長させ、神の愛の頂点にまで運んでいき、それをセラハッディンが大きく高め、チェレビが彼に不朽の名作、6巻からなる “Mesnevi"を書かせるきっかけとなったわけである。

“Mesnevi”について シェムセッディンとセラハッディンの死後、メヴラーナは次第に穏やかになっていき、彼の猛々しい反抗的な気質は知的な成熟に変わっていった。師の変貌を観察しながら、チェレビは師の神の愛と知識のカーテンが開き、太陽の光が射すように感じられた。一方で“Divan"と名付けられた詩集の小さな本は、“The Great Divan"と改題された。しかし、彼らは献身者の乾いた心を満足させる新しい作品が必要であると考えていた。チェレビは師に新作を書くように勧め、それに答えてメヴラーナも最初の部分を用意した。そしてそのあとは、自分が朗吟するので書きつけるようにチェレビにたのんだ。この日から休みなく創作は続き、6巻におよぶ大作が完成した。


メヴラーナの死
様々な偉功を成し遂げたメヴラーナの日々は、飛ぶように過ぎ去っていった。すでにメヴラーナは年老いて、研究に研究を重ねた月日は彼をすっかり疲れさせてしまった。1273年の冬は、例年より早く来てたいへん厳しかった。また、近郊に地震の多い年でもあった。ある日、メヴラーナが病に臥しているというニュースがコンヤに拡がり、人々は非常に心配した。スルタン グヤセッディン ケイヒュスレル3世は、メヴラーナを見舞い、2人の王宮医師が常に彼の側にいた。しかし、彼を病から救おうとする努力はすべてむなしく、死期は追っていた。不治の病は、少しずつ彼を弱らせていった。40日間に及ぶ闘病生活が続き、メヴラーナが亡くなる最後の夜、彼はささやくように病床から片時も離れなかった最愛の息子に向かって、最後の詩を朗吟した。
翌日の1273年12月17日日曜日、冬の季節に陽はかがやいていたが、深い悲しみが訪れた。夕方にコンヤの西にあるテッケリ山に陽が沈んだ時、賢人の太陽は永遠の平和という翼にのって、人間の世界から天昇していった。

メヴラーナの葬儀
メヴラーナのことを敬愛していたコンヤの人々の心は、ぽっかりと穴が空いたようになった。メヴラーナは生前、“わたしの死後わたしの墓を探さないでください。わたしの墓は学者たちの心の中にあるのですから。”と、たびたび言っていたが、彼を敬愛していた人々は彼の死に涙を流さずにはいられなかった。しかし、見方を変えれば彼の死は、彼の復活を意味している。彼の死は、彼がやっと辿り着いた真理であった。メヴラーナが永遠の生命への旅立ちをしたことは、彼の中に潜んでいた孤独から彼自身を解放し、彼への理解を深めることになった。
次の日、荘厳な葬儀の準備がなされた。派閥や人種、宗教の違いは問わず、メヴラーナを心から敬愛したコンヤの人々は、ネイ(フルートの一種)とレバップ(弦楽器の一種)が奏でるリズミカルな音楽にのって、肩にメヴラーナの棺を担いで運んだ。葬儀に参加する群衆があまりにも多かったた為メヴラーナの棺はモスクに着くまで非常に時間を要した。埋葬の儀式は、サドレッディン コネヴィによって取り仕切られる予定であったが、異常に興奮しすぎたために、倒れてしまった。それで急遽カドゥ シラジェディンがこの葬儀の儀式を取り仕切った。メヴラーナは、彼の父の墓の近くに埋葬された。

メヴラーナの観念と思想
メヴラーナは、考えられているような哲学者ではなかった。メヴラーナによると、哲学というものは、知識に頼りすぎているために何かが欠けており、腐敗していると、考えられている。彼は、知識に頼りすぎている哲学というものには、さほど興味はなかった。
また、メヴラーナが、ただの詩人であったということも真実ではない。メヴラーナにとって、詩は何かを容易に教えるための媒介であった。彼は古典的な詩形や韻を好まなかった。なぜならば、決まりきった形では彼の伝えたい観念や意味合いを表現するのに限りがあったからである。
詩の形で自分の思っていることを表現すると、簡単に理解することができるし、楽しく読むこともできる。このような理由から、メヴラーナは自分の観念を韻文の中で表現した。
メヴラーナの一番重要な主題は神秘主義であった。彼は、本物のスーフィズム(イスラム教神秘主義の一派)信仰者であったが、他のスーフィズムや神秘主義とは、何の類似点もなかった。彼は生涯を通じて信念を貫き、彼の信念は人々に浸透していった。彼の基本的信念は、限りない寛容さと正しい論理、人々のために慈善的で正しい人物になることであった。実際に、彼は神の愛にあふれていた。
“私たちの預言者が作った小道は愛の軌跡へ導いている。常に愛とともにいなさい。そうすれば、魂が死ぬことはないのです。愛のために死になさい。そうすれば、あなたは生き続けることができるのです。”彼の愛は、神への愛であった。このような愛は、成熟した人間のみに存在する愛である。このような心の成熟は、彼を創造者にまで高めた。メヴラーナの人生は、愛と無我の境地で満たされ、3つの文で表されている。“わたしは生のままであった。そして、調理をほどこされて、最後に燃え立った。” メヴラーナは、彼の詩に愛を与え、彼の思いに音楽と旋舞と賛歌を付け加えた。魂を成熟させるためには、詩と音楽、旋舞 賛歌が不可欠であった。人々は詩を暗唱し、音楽で十分満足し、賛歌は天国にいるような無我の境地にひきこむ。恍惚の中で旋舞していると、人々は内面的に賞揚し、魂は浄化され、天国へ昇る翼を得たような気持ちになる。
メヴラーナは誕生によって人間は解放されると考えた。このことから、彼は奴隷や妾を決して保有しなかったし、女性を卑下せずに尊敬した。すべての人々が労働によって生活の糧を得ることも彼が望んだことのひとつであった。
メヴラーナは、イスラム教徒のみならず、他の人たちからも絶大な尊敬を受けた。

メヴラーナ博物館
メヴラーナ メスネヴィ
この作品は、メスネヴィ形式で書かれたものである。このメスネヴィ形式とは、オスマン時代の文学で用いられたもので、詩的韻律をさす。この形式を使った作品なので、そのままメスネヴィというタイトルになった。ペルシャ語で最後まで書かれた韻文で25618の2行連句から成っている。しかし、この本の新版がでるたびに、いくつかの言葉と連句は変更された。
6巻からなるこのメスネヴィはメヴラーナの観念や神秘主義の説明をしている。メヴラーナの燃えるような恍惚感や彼の狂喜した精神の存在、澄んだ魂、人の心を動かすような知性は、音楽のような詩形でこの作品の中に活かされている。
完成の後、この作品は賞賛をもって読まれた。メスネヴィを暗唱する専門家を養成し、この専門家たちはこの作品の読み方や解釈の仕方をも学んだ。のちに、養成所も建設されている。
メスネヴィの有名な解釈者たちを挙げると、ルスヒ イスマイル デデ、サル アブドゥラー アブドゥルメジット、ピリ パシャなどがいる。
メスネヴィは、テキストとしてトルコ語にも訳されている。シュレイマン ナイフィの韻文形の訳とヴェレデ チェレビ イズプダクの散文形の訳は、有名なものである。もちろん、メスネヴィは他の国々で訳され出版されている。アラビア語やインド語などで出版されたのち、パキスタンやイラン、アフガニスタンでも出版された。この作品は、ヨーロッパの数力国でも訳されている。


ディバァヌ ケビル(偉大な詩歌の作品 DIVAN一I KEBIR)

この傑作は、神秘的な詩歌を含む21の詩作集から成っている。ここにある2行連句の数は、4万を越えている。他の古い詩作集と同様、この作品も語句のハーモニーと韻律によって、整然とアルファベット順にならべられている。しかし、最初のガーゼルは、ぱらばらに集められている。
この詩作集はペルシャ語で書かれているが、いくつかのアラビア語作品、2.3のトルコ語作品とギリシャ語作品も含まれている。この傑作は、生き生きしていて鳴り響くような反響が聞こえてくる感じがする叙情詩体で、東洋の国々で繰り返し朗吟されつづけている。また、ここから詩歌が抜粋されたり、時々出版されたりしている。西洋でもいくつかの詩歌が抜粋されて訳されている。

フィヒ マフィヒ FIHI MAFIH

この作品はペルシャ語で書かれた散文で、メプラーナの説教や忠告を書き留めたものによって構成されている。フィヒ マフィヒのいくつかの章は、セルジュク時代の高官シュレイマン ペルヴァナに奉納されている。神秘主義における現世と次の世界の考察、師弟の関係、信仰、愛、道徳そして礼拝教義などが、寓話や例を介して説明されている。

メジャリシ セバ (説教集) MECĂLIS-I SEB‘A
メブラーナの7つのアラビア語の説教が集められおり、散文と韻文の宗数的で神秘的な作品がある。すべての章の始まりは、神の賛美、神への懇願そして感謝を表現しており、すべての主題は物語で高められ、詩でかざられている。 Ayets(コーランの中の韻文)Hadises(ムハンマドの金言)も解釈されている。

コンヤの町 メクトゥバド (手紙集) MEKTUBAT

この作品はメヴラーナがセルジュク時代のスルタンや役人に送った147通の手紙を集めたものである。これらの手紙は、歴史的なドキュメントとしてたいへん価値のあるものであり、またその人々の考え方を分析する上でも重要なものである。
その他にも、アシュクナネやトラッシュナネ、ヒゥカイカーミルハベナネなどの作品があるが、彼の死後、これらの小冊子は弟子たちによって書かれたものであることが発表された。メスネヴィは、真理のカーテンを開けることによって、聖なる道を人間に示す案内や指導者にメヴラーナはなっている。そして、ネイで奏でられる音楽にのって、神の神秘が心にしみいってくる。また、ディバヌ ケビルでは、永遠の愛は無我の境地の中に存在するとし、メジャリシ セバではイスラム教の教義を切々と語っている。フィヒ マフィヒの中では、メヴラーナは完成されたスーフィーとして、人々に熟成の道を説いている。そして、手紙集メクトゥバトでは宗教団体の保護者としての立場を私たちに感じさせる。
このような彼の思想は、何世紀にもわたって人々の心をとらえ、数多くの信者たちが彼の金言によって、自分自身を律したり改善したりしている。
“コーランのような聖なる書は残していないが、メプラーナは聖なる預言者とよぶにふさわしい。”と、モラ アプドゥラーマン ジャーミが述べているとおり、この先もメヴラーナが残した偉功は受け継がれていくことであろう。

メヴラーナの後継者
メヴラーナの死後、弟子長であるチェレビ ヒュサメッディンがメヴラーナの地位を受け継ぎ、テュルベ協会の経営もまかされた。
1284年にチェレビが亡くなった後は、メヴラーナの息子が後継者となった。この人は、成熟したスーフィというだけではなく、優れた管理者でもあったので、彼は任務を的確に遂行した。彼は、中核としてメヴラーナ テュルベを設立した。また、ディバンや3冊のメスネヴィ形式の本、教育などといった作品を書いている。1312年には、スルタン ヴェルデの息子、ウル アリフ チェレビィがその仕事を受け継ぎ、彼の尽力により、メヴラーナ教団の設立と組織化がなされた。
メヴラーナの死後、メヴラーナ教団のその信仰と思想は、アナトリア地方の内外に広く散布していった。オスマン時代には、信者の範囲は大きく広がり、教団の学校や寄宿舎、修行僧を教育するための学院も設立された。コンヤにあるメヴラーナ僧院は、一番有名で大きなものである。コンヤは、ずっと文化、芸術、文学の中心地であったが、メヴラーナの後継者として32人のチェレビィ(教主の中で最高位)も修行している。


コンヤの博物館
・メヴラーナ博物館
・考古学博物館
・アタチュルクの家、文化博物館
・カラタイ モザイクタイル博物館
・石と木の博物館
・地方民族学博物館

メヴラーナ博物館 正門(修行僧の扉)

コンヤのメヴラーナ教の僧院にはメヴラーナの社があり、ここはコンヤ古代作品博物館と名付けられて1926年に公開されている。1954年に修理され、もう一度きちんと整理がされてメヴラーナ博物館となった。
正門(修行僧の扉)をぬけると庭にでる。南側には、魂の庭とかつては墓地につづいた寡黙の扉がある。北側には、チェレビィの扉がある。博物館の入口には、案内所と料金所がある。大理石が上張りされている泉のある庭園がその先につづいている。右にあるメスジットに属する空色の大理石のパネルでかざられている低いアーチ型の社の扉には、クーファ体のアラビア文字模様が彫刻されている。この彫刻の上の木製の丸天井の部分に“ここは、献身者遠のカアバ(イスラム教の聖所)である。未熟なものは、成熟するためにここに来るのだ。”とペルシャ語で書かれている。社の扉には、広い窓がついており、セルジュク時代様式の幾何学模様やルミ模様で美しく装飾されている。

ハットセクション(コーランを写本するための部屋)

テュルベのドアを通ってドームつきの小さな部屋は、修行僧たちがコーランを写本するためのティラーヴェトの部屋に至る。この部屋はハット(書くこと)セクションとして配置されており、手書きのアラビア文字やペルシャ文字の碑文で飾られているプレートがある。有名な能書家たちの豊かで魅惑的な碑文が置かれており、帽子も対称に配置されている。
特に、右側にはスルタン メフメット2世の金めっきの文字はたいへんに荘厳なものである。これは、はかない人生と生命力をしめしている赤い地色に書かれている銀の扉の丸天井のトに、モラ ジャーミの有名な2行連句が刻まれている。これは、ペルシャ語でかかれており、能書家イェサリザーデ イッゼトの作である。

銀の扉

ティラーベトの部屋からもうひとつの銀の扉を通って、テュルべへ入ることができる。 1955年にハッサン パシャによってつくられ、メヴラーナの社に献上されたものである。くるみ材を材料とし、銀のプレートで覆われている。時が経つにつれて、薄く張り巡らされた金がはげおちて、銀の部分が露出されたものと思われる。

テュルベ(霊廟)

銀の扉を通ってテュルベの部屋へ来ることができる。ここは、尊師の存在という名前がついている。3つのドームで覆われたこの部屋は、献身者の入口とよぱれている墓は、部屋の右側とその向かい側にあり、高い段の上に安置されている。
右側の2重になっているドームつきの段の中には、石棺がおかれており、向かい側の緑のドームつきの段の中の石棺は、メヴラーナのものである。これは、教祖のドームとして知られている。部屋の左側には、2つずつにわかれて、6つの木製の棺がおかれている。
これらは、メヴラーナの父と彼が放浪の旅にでたときに、追随してきた人々のものとされている。
テュルベ入口の壁には、畏敬と安堵を思い起させるような碑文とプレートが飾られている。
前項でも述べたようにメスネヴィは、メヴラーナの作品の中で最も有名なものである。ここに展示されているメスネヴィの最古の写本は、1278年、能書家のメフメットによって手書きされたものである。また、この作品は金文字芸術の傑作でもある。1288年1323年、1367年とメスネヴィの写本は書かれている。メヴラーナのもうひとつの大作、2巻から成るザ グレート ディヴァンは1366年に、スルタン ヴェレデのザ ディヴァンは1323年に写本されたものが陳列されている。左側には、メヴラーナ教団の能書家の手によるプレートが壁の半分の部分に飾られている。メヴラーナの言葉が書いてある最初の碑文は次のようになっている。
“あなたが外から見えると同じようになるか、または内面と同じようにみえるようになるか、どちらかになりなさい。”
2番目のプレートには、たいへん有名なメヴラーナの言葉が記されている。“わたしのもとへ来なさい。あなたがどのような人でもくるのです。あなたが、無神論者でも偶像崇拝者でも拝火教でもかまわないから来るのです。あなたが何度も後悔したことに背くようなことをしたとしても、わたしのもとに来るのです。”

コンヤの町 ニシャンタシュ

この銅製の傑作には、金と銀がちりばめられており、デザインで美しく飾られており、4つの異なった部分からなっている。わんの上にある碑文から、これはムスルという都市で、スルタン エプサイド バハドゥル カーンのために作られたとされる。1333年に高官スングル アギを媒介として、メヴラーナ博物館に寄付された。トルコのイスラム教の習慣で、4月の雨は聖なるものとされていた。そのため、雨水を溜めてこのわんに満たした。神に祈りを捧げたのち、この水は客人にもてなされた。この4月のわんのふたには、おんどりの小像がたっている。ふたの表面や本体、底にはねエブ サイド バハドゥル カーンを賞賛する言葉や詩がきざまれている。

銀のスクリーン 銀の敷居

部屋の右側に銀のスクリーンとよばれる銀の壁がある。これは、メヴラーナの石棺と尊師の存在の部屋を分けるためにある。スクリーンにあるプレートには、詩人マーニの32におよぶ2行連句が刻まれている。この長い詩の中に、このスクリーンはムハンムド パシャの命令で作られたとある。銀のスクリーンの下荷は格子づくりの大理石があり、修行僧が顔をこする場所であった2段の銀の敷居がある。銀の敷居の表面右側を覆っている銀は、博物館長によってつくられたものである。

緑の小丸屋根

メヴラーナの霊廟とメヴラーナ教団の僧院がある場所は、かつてセルジュク時代の宮殿の第一庭園で、スルタン アラエッディン ケイクバート1世がメヴラーナの父に授けられたものとされている。メヴラーナの父は、メヴラーナが亡くなる42年前にここに埋葬されている。のち、メヴラーナが亡くなった折にも、ここへ亡骸は連れてこられ、父の近くに埋葬された。そして、霊廟建設の工作が始まった。この霊廟は、テブリズ出身の建築家ベドレッディンが、セルジュク時代の長官の妻ギュルジュやシュレイマン ペルヴァーネ、長官アラーメッディン カイセリそしてスルタン ヴェレドの協力を得て、1274年に完成した。
推測によると、最初この霊廟は北側にエイヴァーンをもつ、セルジュク期のピラミット型の様式で南と西、東は壁で囲まれていた。そして、4本の柱の上には大きなドームがのっていた。のち1396年に外側に多角形のタイルで覆われたピラミット型の屋根ができスルタン ベヤジット2世の治世下東側と西側の壁は壊され、すばらしいデザインや模様で新しく装飾された。
巨人な柱の上にある丸天井にささえられている霊廟は、25mもの高さが現在ある。この墓の本体とその上にある特徴ある円錐形のピラミッド型屋根は、タコイーズブルーのタイルでおおわれ、何度か修理されている。この屋根の印象深い色から、緑のドームとして親しまれている。最上の軒じゃばらには、コーランから引用した韻文が、濃い青の帯状の地の上に白いアラビア文字で潜かれている。緑のドームの下には、空色の大理石でつくられたメヴラーナとその息子スルタン ヴェレドの石棺がある。メヴラーナの石棺は、1984年にスルタン アブドゥルハミト2世から贈られた黒のシルクコットンの布で覆った皮製のカバーの上に置かれている。棺には、たいへん細かい彫刻がほどこされており、目の覚めるようなすばらしい金色の刺繍がされているカバーがかけられている。メヴラーナの霊廟におかれている第一の木製棺は、彼の父のものである。


木製の棺

背の高い木製の棺は、メヴラーナの霊廟の工事中に2人の職人が作りあげたものでセルジュク時代の木工作品の傑作である。この芸術作品は、細工のある木片をありつぎと切ることによって組み立てられた。モチーフや構図は、この時代の装飾芸術を完全にあらわしている。棺の前後の面そして左右の面には、メヴラーナやコーラン、メヴラーナの作品ディヴァヌ ケビルから引用したもの、死についてのガーゼルなどの碑文が記されている。
銀の敷居に立って棺の方をみると、メヴラーナの父の木製の棺は背が高いためと、見る人は棺の頭側の正面しか見えないので、棺が真っすぐに立っているようにみえる。メヴラーナの威光の前に父は起き上がったのだろうか。

メヴラーナ博物館 他の貴人の墓

緑のドームの西、メヴラーナの石棺の頭の所に、メヴラーナの妻のケッラ(1292年没)と娘メリケ(1306年没)、チェレビ ヒュサメッデイン(1284年没)などの墓がある。ここに埋葬されている人々は、メヴラーナの子孫や彼の仕事を遂行した功績がある。
メヴラーナ博物館のメヴラーナとスルタン ヴェレデの墓緑のドームの東側には、メヴラーナの父や息子たちの墓、教主、教主長やその家族といった人々の墓があり、すべてあわせると、65にもおよぶ数の墓がある。口で表せないほどすばらしい16本の枝がついている枝つき燭台や金銀のろうそく台やクリスタル製のシャンデリアなどメヴラーナの石棺のまわりには、年がら年中メヴラーナを敬愛する人々からの献上品があとを断たない。
このメヴラーナの霊廟は、16世紀に旋舞の間とメスジットが付け加えられることによって、拡張された。

旋舞の間
緑のドームの北側、そしてメスジットのすぐ近くに旋舞の間がある。これは、16世紀のシュレイマン大帝の治世下においてつくられたものである。広々として荘厳なこの部屋は、修行僧が旋舞をするための部屋なので、旋舞の間といわれている。広間は木張りで、そのまわりには男性用の特別な台が設けられており、音楽隊用の小部屋やメヴラーナ教団僧院の役人のための場所もあった。ドーム内部のデザインや碑文がコンヤの能書家マッブブによって1888年に描かれている。
この部屋の壁に掛かっているプレートには、メスネヴィの最初の2行連句の部分が表されている。壁にはギョルデスとクラの絨毯、修行僧の部(メヴラーナ博物館)お祈り用の敷物が掛けられている音楽隊の小部屋と男性用の特別なメヴラーナ博物館場所は、貴重な価値のある絨毯が敷かれている。

メヴラーナの衣服

旋舞の間の真ん中にあるガラスケースの中には、メヴラーナやシェムセッディン テブリズ、スルタン ヴェレデが着用していた衣服が展示されている。メヴラーナの衣服は、絹や綿、絹と綿の混合がある。メヴラーナ教団によると、メヴラーナは色とりどりのひざまである長い外衣(チュニック)、ゆったりとした長い上着、長袖のローブそして黄色の帽子に灰色の布を巻き付けたものを着用していたということである。また彼は背が高く、痩せていて、顔色が悪かったと言われている。実際にここに来て、メヴラーナの衣服を見てみると、このような情報は正しいと納得できる。衣服の数々は1926年以降、ガラスケースに入れて展示された。メヴラーナの帽子類もこのコーナーにあり、らくだの髪の毛でできている。

旋舞の間の吊し飾り

旋舞の間とポスト ドームをわける丸天井の下には、大理石を刻んでつくった2つの鎖と組み格子がある。これらは、あきあきするような工程を経て、職人の忍耐の上に完成したすばらしい傑作である。
鎖付きの揺れるランプや格子つきのクリスタル製のシャンデリアもここに吊るされている。そして旋舞の間の真ん中には、19世紀につくられたガラス製のゆらゆら揺れるランプがドームから鎖で吊るされている。旋舞の間にふさわしい装飾品である。

メスジット

旋舞の間の西側につづいて、メヴラーナ教団のメスジットがある。旋舞の間を通っても、霊廟の入口チェラーの扉からでも入ることができる。メスジットの西側にある正門は、庭に面している。正門の前には、信者や礼拝者のために4つのドームつきの石で覆われた広くて高い台があり、これは3本の大理石の柱で囲まれている。また、この門の上のアーチは鍾乳石の装飾で満たされており、彫刻で飾られた木製の扉の上部の方には、コーランから引用された韻文が刻まれている。
このメスジットは、16世紀にシュレイマン大帝の命令によって建てられたものである。空色のミフラブやバルコニーつきのミナレット、説教壇、祈りの時間を知られる触れ役の台などがある。
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