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コンヤを10倍楽しむための観光ガイド!メヴラーナ教と文化・芸術の街


コンヤはトルコ内陸部アナトリア地方の主要都市の一つで、人口規模で見るとトルコ第6位の街です。紀元前3000年から続く長い歴史を持ち、11世紀末以降はルーム・セルジューク朝の首都として栄えました。

イスラム神秘主義旋舞教団の拠点であり、市内にはセルジューク時代に建てられたモスクや神学校、メブラーナの聖廟、考古学博物館などがあり、観光目的でも多くの人が訪れます。

コンヤはメヴレヴィー教団の総本山



メヴレヴィー教団は、トルコの偉大なイスラム教思想家であるメヴラーナ・ジェラレッディン・ルミから始まったイスラム神秘主義(スーフィズム)の教団の一つです。

信者が白いスカートのような衣服を身に付け、音楽に合わせて回転しながら踊るセマーと呼ばれる宗教行為を行うことから、旋舞教団とも呼ばれます。これは、「メヴレヴィー教団のセマーの儀式」としてユネスコの無形文化遺産にも登録されています。

13世紀頃のコンヤは文化と芸術において目覚ましい発展を遂げ、多くのモスク、メスジット(小モスク)、メドレッセ(神学校)、テュルベ(霊廟)などが建設されました。

メヴラーナだけでなく、著名な学者や文化人などがコンヤに集まり、この時代のスルタンに深く影響を与えています。

コンヤの場所・アクセス

コンヤは中央アナトリア地方(トルコ中部)に位置しています。日本からの直行便はないため、トルコの玄関口であるイスタンブールから飛行機で約1時間半、または長距離バスで約9時間でアクセスできます。

近くには首都アンカラやアンタルヤ、カッパドキアなどの人気観光地があるため、併せて巡るのもおすすめです。

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コンヤのおすすめ観光スポット12選

メヴラーナ博物館

メヴラーナ博物館
コンヤのメヴラーナ教の僧院にはメヴラーナの社があり、ここはコンヤ古代作品博物館と名付けられて1926年に公開されています。1954年に修理され、もう一度きちんと整理がされメヴラーナ博物館となりました。

正門(修行僧の扉)を抜けると庭にでます。南側には、魂の庭とかつては墓地に続いた寡黙の扉があります。北側には、チェレビィの扉があります。博物館の入口には、案内所と料金所があります。大理石が上張りされている泉のある庭園がその先に続いています。

右にあるメスジットに属する空色の大理石のパネルで飾られてる低いアーチ型の社の扉には、クーファ体のアラビア文字模様が彫刻されています。

この彫刻の上の木製の丸天井の部分に“ここは、献身者遠のカアバ(イスラム教の聖所)である。未熟なものは、成熟するためにここに来るのだ。”とペルシャ語で書かれています。社の扉には、広い窓がついていて、セルジュク時代様式の幾何学模様やルミ模様で美しく装飾されています。

ハットセクション (コーランを写本するための部屋)

テュルベのドアを通ってドームつきの小さな部屋は、修行僧たちがコーランを写本するためのティラーヴェトの部屋に至ります。

この部屋はハット(書くこと)セクションとして配置されており、手書きのアラビア文字やペルシャ文字の碑文で飾られているプレートがあります。有名な能書家たちの豊かで魅惑的な碑文が置かれており、帽子も対称に配置されています。

特に、右側にはスルタン メフメット2世の金メッキの文字は大変荘厳なものです。これは、儚い人生と生命力を示している赤い地色に書かれている銀の扉の丸天井に、モラ ジャーミの有名な2行連句が刻まれています。ペルシャ語で書かれており、能書家イェサリザーデ イッゼトの作です。

テュルベ(霊廟)

メヴラーナ博物館
銀の扉を通ってテュルベの部屋へ来ることができます。ここは、尊師の存在という名前がついています。3つのドームで覆われたこの部屋は、献身者の入口と呼ばれている墓で部屋の右側とその向かい側にあり、高い段の上に安置されています。

右側の2重になっているドーム付きの段の中には、石棺が置かれており、向かい側の緑のドームつきの段の中の石棺は、メヴラーナのものです。これは、教祖のドームとして知られています。部屋の左側には、2つずつにわかれて、6つの木製の棺が置かれています。

これらは、メヴラーナの父と彼が放浪の旅にでたときに、追随してきた人々のものとされています。テュルベ入口の壁には、畏敬と安堵を思い起させるような碑文とプレートが飾られています。前項でも述べたようにメスネヴィは、メヴラーナの作品の中で最も有名なものです。

ここに展示されているメスネヴィの最古の写本は、1278年、能書家のメフメットによって手書きされたものです。また、この作品は金文字芸術の傑作でもあります。1288年、1323年、1367年とメスネヴィの写本は書かれています。

メヴラーナのもうひとつの大作、2巻から成るザ グレート ディヴァンは1366年に、スルタン ヴェレデのザ ディヴァンは1323年に写本されたものが陳列されています。左側には、メヴラーナ教団の能書家の手によるプレートが壁の半分の部分に飾られています。メヴラーナの言葉が書いてある最初の碑文は次のようになっています。

“あなたが外から見えると同じようになるか、または内面と同じようにみえるようになるか、どちらかになりなさい。”

2番目のプレートには、大変有名なメヴラーナの言葉が記されています。

“わたしのもとへ来なさい。あなたがどのような人でもくるのです。あなたが、無神論者でも偶像崇拝者でも拝火教でもかまわないから来るのです。あなたが何度も後悔したことに背くようなことをしたとしても、わたしのもとに来るのです。”

ニシャンタシュ

メヴラーナ博物館
この銅製の傑作には、金と銀が散りばめられ、デザインで美しく飾られており、4つの異なった部分からなっています。椀の上にある碑文から、これはムスルという都市で、スルタン エプサイド バハドゥル カーンのために作られたとされています。

1333年に高官スングル アギを媒介として、メヴラーナ博物館に寄付されました。トルコのイスラム教の習慣で、4月の雨は聖なるものとされていました。その為、雨水を溜めてこの椀に満たしました。神に祈りを捧げた後、この水は客人にもてなされました。

この4月の椀の蓋には、雄鶏の小像がたっています。蓋の表面や本体、底にはエブ サイド バハドゥル カーンを賞賛する言葉や詩が刻まれています。

銀のスクリーン 銀の敷居

部屋の右側に銀のスクリーンと呼ばれる銀の壁があります。これは、メヴラーナの石棺と尊師の存在の部屋を分けるためにあります。スクリーンにあるプレートには、詩人マーニの32に及ぶ2行連句が刻まれています。

この長い詩の中に、このスクリーンはムハンムド パシャの命令で作られたとあります。銀のスクリーンの下荷は格子作りの大理石があり、修行僧が顔をこする場所であった2段の銀の敷居があります。銀の敷居の表面右側を覆っている銀は、博物館長によって作られたものです。

緑の小丸屋根

メヴラーナの霊廟とメヴラーナ教団の僧院がある場所は、かつてセルジュク時代の宮殿の第一庭園で、スルタン・アラエッディン・ケイクバート1世がメヴラーナの父に授けられたものとされています。

メヴラーナの父は、メヴラーナが亡くなる42年前にここに埋葬されています。後にメヴラーナが亡くなった折にも、ここへ亡骸は連れてこられ、父の近くに埋葬されました。そして、霊廟建設の工事が始まりました。

この霊廟は、テブリズ出身の建築家ベドレッディンが、セルジュク時代の長官の妻ギュルジュやシュレイマン ペルヴァーネ、長官アラーメッディン カイセリそしてスルタン ヴェレドの協力を得て、1274年に完成しました。

推測によると、最初この霊廟は北側にエイヴァーンを持ち、セルジュク期のピラミット型の様式で南と西、東は壁で囲まれていました。そして、4本の柱の上には大きなドームがのっていました。

後の1396年に外側に多角形のタイルで覆われたピラミット型の屋根ができスルタン・ベヤジット2世の治世下東側と西側の壁は壊され、素晴らしいデザインや模様で新しく装飾されました。

巨大な柱の上にある丸天井に支えられている霊廟は、25mもの高さが現在あります。この墓の本体とその上にある特徴的な円錐形のピラミッド型屋根は、ターコイズブルーのタイルで覆われ、何度か修理されています。この屋根の印象深い色から、緑のドームとして親しまれています。

軒じゃばらには、コーランから引用した韻文が、濃い青の帯状の地の上に白いアラビア文字で書かれています。緑のドームの下には、空色の大理石でつくられたメヴラーナとその息子スルタン・ヴェレドの石棺があります。

メヴラーナの石棺は、1984年にスルタン アブドゥルハミト2世から贈られた黒のシルクコットンの布で覆った皮製のカバーの上に置かれています。棺には、大変細かい彫刻が施されており、目の覚めるような素晴らしい金色の刺繍がされているカバーがかけられています。メヴラーナの霊廟に置かれている第一の木製棺は、彼の父のものです。

木製の棺

メヴラーナ博物館
背の高い木製の棺は、メヴラーナの霊廟の工事中に2人の職人が作り上げたものでセルジュク時代の木工作品の傑作です。この芸術作品は、細工のある木片を蟻継ぎに切ることによって組み立てられました。モチーフや構図は、この時代の装飾芸術を完全に表しています。

棺の前後の面そして左右の面には、メヴラーナやコーラン、メヴラーナの作品ディヴァヌ ケビルから引用したもの、死についてのガーゼルなどの碑文が記されています。

銀の敷居に立って棺の方をみると、メヴラーナの父の木製の棺は高さがあり、見る人は棺の頭側の正面しか見えない為、棺が真っすぐに立っているように見えます。メヴラーナの威光の前に父は起き上がったのでしょうか。

他の貴人の墓

緑のドームの西、メヴラーナの石棺の頭の所に、メヴラーナの妻のケッラ(1292年没)と娘メリケ(1306年没)、チェレビ ヒュサメッデイン(1284年没)などの墓があります。ここに埋葬されている人々は、メヴラーナの子孫や彼の仕事を遂行した功績があります。

メヴラーナ博物館のメヴラーナとスルタン ヴェレデの墓緑のドームの東側には、メヴラーナの父や息子たちの墓、教主、教主長やその家族といった人々の墓があり、全て合わせると、65にも及ぶ数の墓があります。

口で表せないほど素晴らしい16本の枝がついている枝付き燭台や金銀の蠟燭台やクリスタル製のシャンデリアなどメヴラーナの石棺の周りには、年中メヴラーナを敬愛する人々からの献上品があとを断ちません。

このメヴラーナの霊廟は、16世紀に旋舞の間とメスジットが付け加えられることによって、拡張されました。

旋舞の間

メヴラーナ博物館
緑のドームの北側、そしてメスジットのすぐ近くに旋舞の間があります。これは、16世紀のシュレイマン大帝の治世下において作られたものです。広々として荘厳なこの部屋は、修行僧が旋舞をするための部屋なので、旋舞の間と言われています。

広間は木張りで、そのまわりには男性用の特別な台が設けられており、音楽隊用の小部屋やメヴラーナ教団僧院の役人のための場所もありました。ドーム内部のデザインや碑文がコンヤの能書家マッブブによって1888年に描かれています。

この部屋の壁に掛かっているプレートには、メスネヴィの最初の2行連句の部分が表されています。壁にはギョルデスとクラの絨毯、修行僧の部(メヴラーナ博物館)お祈り用の敷物が掛けられている音楽隊の小部屋と男性用の特別な場所には、貴重な価値のある絨毯が敷かれています。

メヴラーナの衣服

旋舞の間の真ん中にあるガラスケースの中には、メヴラーナやシェムセッディン・テブリズ、スルタン・ヴェレデが着用していた衣服が展示されています。メヴラーナの衣服は、絹や綿、絹と綿の混合があります。

メヴラーナ教団によると、メヴラーナは色とりどりの膝まである長い外衣(チュニック)、ゆったりとした長い上着、長袖のローブそして黄色の帽子に灰色の布を巻き付けたものを着用していたとの事です。

また、彼は背が高く、痩せていて、顔色が悪かったと言われています。実際にここへ来て、メヴラーナの衣服を見てみると、このような情報は正しいと納得できます。衣服の数々は1926年以降、ガラスケースに入れて展示されました。メヴラーナの帽子類もこのコーナーにあり、らくだの髪の毛でできています。

旋舞の間の吊し飾り

メヴラーナ博物館
旋舞の間とポスト ドームをわける丸天井の下には、大理石を刻んで作った2つの鎖と組み格子があります。これらは、飽き飽きするような工程を経て、職人の忍耐の上に完成した素晴らしい傑作です。

鎖付きの揺れるランプや格子つきのクリスタル製のシャンデリアもここに吊るされています。そして旋舞の間の真ん中には、19世紀に作られたガラス製のゆらゆら揺れるランプがドームから鎖で吊るされています。旋舞の間に相応しい装飾品です。

メスジット

旋舞の間の西側に続き、メヴラーナ教団のメスジットがあります。旋舞の間を通っても、霊廟の入口チェラーの扉からでも入ることが出来ます。メスジットの西側にある正門は、庭に面しています。

正門の前には、信者や礼拝者の為に4つのドーム付きの石で覆われた広くて高い台があり、これは3本の大理石の柱で囲まれています。また、この門の上のアーチは鍾乳石の装飾で満たされていて、彫刻で飾られた木製の扉の上部の方には、コーランから引用された韻文が刻まれています。

このメスジットは、16世紀にシュレイマン大帝の命令によって建てられたものです。空色のミフラブやバルコニーつきのミナレット、説教壇、祈りの時間を知られる触れ役の台などがあります。

アラエッディンモスク

アラエッディン モスク
このモスクは街の中央部にあるアラエッディンの丘の上に位置し、アナトリア地方にあるセルジュク期のモスクの中で最大級のものです。

モスクの建築はルクネッディン・メスット1世の治世1155年に着工され度重なる増改築を経て、1221年アラエッディン・ケイクバート1世の時に完成しました。モスクの東側にある扉から内部に至ります。

ビザンティン時代やローマ時代の柱頭がついている石製や大理石製の41本の柱があることから、古代の建物をもってきてモスクに利用していることがわかります。堂内はセルジュク期のモザイクタイルで飾られており、大変美しいです。

木製のミンベル(説教壇)は、1155年にミフラブの右側につくられ、黒檀のように固い素材で出来ています。これにはスルタン・メスットとクルチ・アスラン2世の名前が彫刻されています(現在はメヴラーナ博物館で修理中)。

ダマスカスの建築家の設計で、礼拝堂の構成や装飾にシリア的な特徴がみられ、アラブスタイルのモスクとなっています。僅かに残っている北側の壁はセルジュク期の城塞一部です。

セルジュク時代のスルタンたちの霊廟

アラエッディンモスクの北側の庭に、社をもつセルジュク時代のスルタン達の霊廟があります。この霊廟は切断されて出来た10角柱の形でそびえ立っており、その周りを煉瓦が囲んでいます。霊廟の碑文は、スルタン クルチ・アスラン2世が建立したものです。

この霊廟に埋葬されているスルタンは以下の通りです。
  • スルタン・ルクネッディン・メスット:1156年没
  • クルチ・アスラン2世:1192年没
  • ルクネッディン・シュレイマン2世:1204年没
  • グヤセッディン・ケイヒュスレヴ1世:1211年没
  • アラエッディン・ケイクバート1世:1237年没
  • グヤセッディン・ケイヒュスレヴ2世:1246年没
  • クルチ・アスラン4世:1265年没
  • グヤセッディン・ケイヒュスレヴ3世:1283年没
他にも何人かの貴人が埋葬されています。

アラエッディン・モスクの庭と壁

モスクの北側のドアを開けると広い庭に出ます。この庭の西の位置に四角形の土台の上に建ち、大理石で覆われている霊廟があります。この霊廟の扉は、白と空色の大理石で装飾されています。石製のミフラブも霊廟にあります。

霊廟の下の狭いドアを通って棺が安置されている部屋に至ります。モスクは石製の壁で囲まれていて、北から東西に向かっています。アラッディン・モスクは様々な時代に修繕されていますが、1954年に最終的な修復作業が終了しました。

しかし、不運にも1956年に壁の部分に亀裂が入り、現在修復中です。

セルジュクキオスク

トルコ・コンヤ
キオスクとは中近東では東屋をさします。このキオスクはアラエッディンの丘の北斜面にありましたが、現在はその東の部分が遺跡として僅かに残っているだけです。スルタン・クルチ2世がつくったもので、アラエッディン キオスクの名称で親しまれていました。

2階建てで、内部の壁はモザイクタイルで飾られており、絵とモチーフが美しいです。17、8世紀頃から次第に崩壊していき、19世紀には半廃墟化してしまいました。2階部分は完全に壊れ、1961年に残っている壁が修理されました。

イプリックチ(アルドゥンアバ)モスク

イプリックチ モスク
アラエッディン通りにあります。モスクと南側に付属していたメドレッセは、1120年にセルジュク時代の有名な政治家として知られるアルトゥン アバによって建立されました。何度か様々な時代に手直しが加えられていますが、モスクに続くドームの天井を除いて、メドレッセの方は完全に崩壊してしまいました。

このモスクのメドレッセでは、メヴラーナやその父、そして非常に尊敬され誉れある学者達が講義を行なったり、寄宿したりしていたようです。

モスクは、四角形の土台の上に建っています。強度の強いアーチで支えられている12本の柱の上に、十文字の軒縁でつながれた円形のドーム1つと楕円形のドーム2つがのっています。

大理石製のミフラブは、オスマン期のモザイクタイルの上につくられたもので、現在はその上部にモザイクタイルの原形を見ることができます。モスクのミナレットは折々に崩れています。

後にこのモスクは修復され、1953年から古典作品の博物館となりましたが、1959年に再びモスクとして様変わりしました。

スルチャル・メドレセ

ガジアーレムシャー地区のスルチャル通りにあります。セルジュク期グヤセッディン・ケイヒュスレヴ2世の治世下、高官ベドレッティン・ムスリッヒの命令で、イスラム教の教義を学ぶ場所として1242年に建てられました。別名をムュスリヒイェ・メドレッセともいいます。

ここにあるセラミックタイルの上には、トゥスの街のオスマンの息子メフメット作と書かれています。メドレッセの東には、石製の巨大な正門があります。正門いっぱいに繰り広げられている幾何学模様や植物模様、アラビア文字模様などは、セルジュク期の建築の特徴を強く示しているサンプルです。

正門の上部は、クーファ体のアラビア文字模様の碑文で占められており、この碑文の下のアーチ型ドアを通ってメドレッセヘ入ることができます。そして、通廊をぬけてメドレッセの広い部屋へ続きます。メドレッセの壁の内側は、セルジュク期最高のセラミックタイルが拡がっています。

入口の右側には、高官ベドレッディン・ムスリッヒとその一族の霊廟があります。このスルチャル・モスクでは、セルジュク時代とその後の時代にイスラム教の教義と解釈が研究されました。17世紀から19世紀にかけてモスクは崩れ始め、時々修復もされました。しかし、ドームを失ってしまったこのモスクは崩壊手前で1955年にできる限りの修復を施しました。

ブュユクカラタイメドレッセ

カラタイメドレッセ
アラエッディンの丘の北側の傾斜に建っています。セルジュク時代イゼッティン・ケイカヴス2世の高官ジェラレッディン・カラタイによって1251年に建設されたものです。

このメドレッセはセルジュク期の芸術と科学の命に対して大変重要な役割を果たし、他のセルジュク時代のメドレッセと同じ特徴、そして明白な類似点を形態づけました。大きな正門、ドームのかかった広間、エイヴァーン、そして霊廟から成っています。

学生や学者達のための小部屋は、時が経つにつれて壊れていきました。正門は絶妙なデザインや文字模様を施している白色や空色の大理石で出来ています。

入口の上のフリーズには碑文とコーランから引用したクーファ体の文字模様がみえます。この正門を通って、かつてはドームで覆われた庭に出ることができます。そして、ついにメドレッセ本体に入ることができるのです。

カラタイメドレッセ
広間は壁とモザイクタイルで飾られたドームで囲まれています。このドームの真ん中には、天井窓が備え付けられており、下には美しい大理石で造られた水溜まりがあります。

壁は広い範囲にわたってはげ落ちており、残っているタイルからセルジュク期の陶器芸術はどのような物であったかがうかがえます。クーファ体のアラビア文字模様、植物模様、幾何学模様などを使って、生命の儚さ、また逆に生命力などを表しています。

このようなタイル技術は、セルジュク期のアナトリア地方で発展を遂げました(モザイクタイルには2種類あり、1つは小さなかけらを組み合わせるもの、もう1つは大きなプレートから切り取ったかけらを組み合わせるものです)。

タイルを一色の色でつくる場合、各々の色は別々の温度で別々に焼かれます。この技術は大変高度なもので、この方法を用いてタイルを焼くと質の高い美しい色がでます。青いタイルで飾られた広間には昔、真ん中に設置された泉に清水が貯められ天国を表していたそうです。

ドームの構造は、ターキッシュトライアングルと呼ばれるトルコ独特の方式です。壁に設置され、セラミックタイルで埋め尽くされた壁がんは、以前学生たちの部屋や西側のエイヴァーン、このメドレッセを建てたジェラレッディン・カラタイの霊廟へ続くドアでした。霊廟は四角形の土台の上にあり、煉瓦のドームがあります。

開校後、このメドレッセでは、’’Şeriat’’や’’Hadis’’、’’Tefsir’’、’’Usul’’、’’hilaf’’などの研究がされていました。マゼナエランのリュクネッディンやマルディンのシェムセッディンなどといったセルジュク時代のそうそうたる学者たちが講義を行っています。メドレッセは数回に渡って修復されており、1953年に修復された後に1955年に陶器博物館になっています。

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インジェミナーレモスク

インジェミナーレ モスク
アラエッディンの丘の西斜面に位置しているこのメドレッセは、サヒップ アタによってセルジュク期に建設されました。“Hadis”(ムハンムドの金言)を学ぶことが目的とされたため、別名を“Dar-ül-Hadis”といいます。

メドレッセの南側には、メスジット(小モスク)に属するミナレットやミフラブが現存していますが、メドレッセの生徒用の寄宿部屋とメスジット自体は時の流れにより廃墟化してしまいました。このメドレッセの建築家は、ケルクでした。

メドレッセの石製の正門は、セルジュク期の石工術の素晴らしいサンプルです。正門全体を覆うアラビア文字模様、幾何学模様の浮き彫りは一見の価値がある美しいものです。

門中央部には、2本のアラビア文字模様で沢山の帯状装飾が上から下に施されており、アーチになっているところの丁度真上で、結び目をつくっています。この大きな正門をぬけると、ピラミッドや屋根をもつ通廊にでて、その後にメドレッセの広間に至ります。

広間は高いド-ム付きで、天井窓もあります。内部の装飾は、煉瓦をそのまま用いた文様積みになっています。広間の右側には煉瓦でできたアーチ型のエイヴェ一ンがあり、それは床よりも少しだけ高い位置に置かれています。

色彩豊かなタイルで飾られたバルコニーつきのミナレットは1901年の落雷で3分の1ほどの大きさになってしまいました。そしてこの時の落雷は、メスジットのドームまで破壊してしまいました。

インジェミナーレ モスク
このメドレッセはセルジュク期の有名な文化的学院の一つとして知られていますが、これまでに何度も修理の手が入っています。1956年にこのメドレッセはついに石製や木製の芸術作品を展示する博物館に変わってしまいました。

インジェミナーレ(細いミナレット)があったことからこの名前がつけられました。

サドレッディン コネヴィモスクとその霊廟

モスク

モスク正門の上にある彫刻付きの2つの小牌から察するところ有名な学者サドレッディンコネヴィに敬意を表して、1274年に建立されたものであるようです。1899年にコンヤの長官フェリド パシャによって修復されました。

つまり、タイルで出来たミフラブやいくつかの建築遺物をもつ現在のこのモスクは、セルジュク期の原型通りの構造でオスマン時代に再建されたのです。

正門、木製の屋根付き広間を経て、モスクに辿り着きます。ミフラブはセルジュク期のモザイクタイルで装飾され、ミナレットはオスマン建築様式で切断された石と煉瓦でつくられています。

広間から図書館へも行くことができます。現在、蔵書はコンヤのユスフ アギ図書館に保存されています。

霊廟

この霊廟は長方形の土台の上に建っています。土台に大理石の柱が立っており、柱と柱の間には目を見張る大理石製の格子窓が備えられています。サドレッディンコネヴィの石棺が安置されています。

セリミエ・モスク

セリミイェ モスク
メヴラーナ霊廟の東側にあるコンヤのオスマン建築の中で最も優雅なもののひとつで、スルタン セリム2世の時代につくられました。灰色の大理石のミフラブや白色の大理石製のミンベルは、この時代の石工術の無比の名品です。

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シェラフェッディン・モスク

シェラフェッディン モスク
この大きなモスクは、街の中心に位置していて、総督官邸の北側にあります。オスマン建築様式のミナレットが目を引きます。13世紀の半ばに教主シェラフェッディン・メスドによって建立され、カラマン オーウラル王朝のイブラヒム・ベイが修復しました。

オスマン時代に完全に崩壊したために、1636年メミ・ベイが古い土台の上に再建しました。これが現在見られるモスクです。整った形の切断された石でできた壁の表面は、セルジュク期のモザイクタイルで覆われています。

北側には格子と大理石の縁どりがある窓のついたメイン・ドアがあり、6本の柱の上にドームがついた礼拝者用のスペースに続いています。ミンベルとミフラブは大理石で出来ています。創建者の霊廟もモスクの南側にありましたが、最近になって崩壊してしまいました。

カプモスク

オドゥン パザル地区に建っており、もともとイヒヤイイェという名称でしたが、コンヤの城の入口の1つに近かったためにカプ(門)モスクと呼ばれました。

メヴラーナ教団の教主のひとりであるピル フセイン チェレビが1658年に建逞し、1811年に修復の手が加えられ、1867年の大火災で焼け落ちたためその翌年、再建されました。この再建の年号は、メイン・ドアに刻み込まれています。

カプ モスクは、コンヤのオスマン時代のモスクの中で最大級のものです。北側には、礼拝する信者のための高い教壇があり、10本の柱が立っています。低いアーチ型のメイン・ドアがあり、他にも西と東に2つの扉があります。

モスクは切断された石で建てられており、内部に8つの大きさの異なったドームがあり、外部は屋根で覆われています。石製のミフラプと木製のミンベルには、素朴なデザインが施されています。

シャドゥルヴアン(土台を覆うようなもの)はモスクの西側にあり、1812年セイッド アプドゥラーマンによってつくられました。

コンヤトロピカルバタフライガーデン

コンヤトロピカルバタフライガーデン(Konya Tropikal Kelebek Bahçesi)は、熱帯地域に生息する蝶を観察できるヨーロッパ最大の蝶園です。約7,600㎡という広大な敷地に、カラフルで宝石のような美しい15 種の珍しい蝶や、98種2万本の植物が生息しています。

公式サイト:https://www.konyakelebeklervadisi.com/

 
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コンヤの歴史

コンヤの先史

近年のコンヤやその周辺の考古学調査及び発掘によって、私たちは、コンヤの先史がどのようなものであったかを知ることができます。旧石器時代の遺物の数多くは発見されていませんが、新石器時代(磨製石器を使用した時代)に属するものが発掘に伴って出てきました。

発見された遺物によって、コンヤとその周辺の文化散布の状況が推測されます。更にまた、コンヤのジァンハサンやチャタルヒュユクの塚は現在も発掘中で、ここから発見された数々の素晴らしい出土品は、新石器時代がこの地域で紀元前7000-6000年頃から始まったことを示しています。

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ヒッタイト
一方、コンヤの市街において発掘された数多くの塚も同じように新石器時代の特徴をもっています。このようなことから、コンヤ平原一帯に集落ができたのは、紀元前7000年頃とされています。そして、青銅器時代に続きます。多くの遺跡は私たちに時代の足跡を示してくれます。
他のアナトリア地方と同じようにコンヤにおいて最初の政治的要素がある集団は、ヒッタイト人によって始められたことが、発見された文書でわかりました。

コンヤ市街から西に11Km程の所にあるカラフォユック塚の最近行われた発掘で、ヒッタイト人がこの時代に光を注いだことを示す遺物が数多く出土されています。

ヒッタイト人に続き、フリュギア人やリディア人がアナトリアヘやってきました。フリュギア人はコンヤやその周辺を支配し、ポラトルの近くのゴルディオンという町を最初の首都にしました。

コンヤ市街のアラエッディンの塚やコンヤの北にあるスズマ キョユの塚からはフリュギア人時代の磁器が多く出土されています。フリュギア人のコンヤとその周辺の支配は紀元前7世紀で、この頃コンヤはカワニアと呼ばれていたと推測されます。

後にリディア人がこの地を支配し、紀元前546年にペルシャ人が侵略しました。この時からアレクサンダー大王が征服する紀元前333年まで、アナトリア地方には統一国家は存在せず、独立国が各々の領地を支配していました。

アレクサンダー大王は、コンヤを含むアナトリア地方全域をギリシャ人の手で支配しました。アレキクンダー大王の死後、この地域は様々な王朝にしばしば支配されています。

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その後、紀元前223年にペルガモン王朝のアッタロス1世がこの地を征服しました。紀元前133年、アッタロス3世の死後、コンヤはローマ帝国のものとなり、名もイコニウムとなりました。

キリスト教初期の時代(47-50年)、イエスの弟子の一人であるセント ポールがアンタリアからアナトリア地方にやってきて、ヤルヴァチ、コンヤ、ハトゥンサライ、デルベなどを連続して訪れました。

この彼の旅は、キリスト教の布教に大変役立ち、コンヤは宗教伝道者の重要な中心地となっていきました。ローマ帝国のテオドシウス帝が、帝国を2分して息子達に分け与えた時、コンヤは東ローマ帝国の支配下に入りました。

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中世のコンヤ

コンヤ
ビザンティン時代には、コンヤはイコニウムまたはコニイェと呼ばれていました。建築遺跡の断片や石棺、石碑などコンヤの近くで発見されたものを観察すると、ローマ時代に属する都市も、一部はビザンティン時代に存在したということがわかります。

5世紀頃のカタコームやモザイクの欠片がコンヤの宮殿の廃墟から発掘されましたが、これらはこの時代の素晴らしいサンプルです。シレやカラマンのカラダーの修道院やほかの古い城などはこの時代に属するものです。

イスラム教の布教とその起源のため、アラブ人はアナトリア地方とビザンティン帝国の首都への侵略を欲しました。コンヤが一時的にアッバース朝に征服されたこともあります。

トルコ人が最初にコンヤに現われたのは9世紀です。偉大な支配者トゥールル ベイの治世下でセルジュクトルコはイスラム教を奉じ、アナトリア地方の一部を支配していました。

後にアルプ・アスランの指揮下、彼らはゲオルギア、アルメニア、コンヤを征服し、1071年にアナトリア地方東部のマンズィケルトにおいて、ビザンティン軍を破り、以後、トルコ族のアナトリア支配は決定的なものになりました。そして、1076年にコンヤはセルジュクトルコの首都となったのです。

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セルジュクトルコ
その後、1080年にイズニックに遷都されましたが、1097年にクルチ・アスラン1世により再び首都がコンヤに戻され、カラマンオーウラル朝崩壊までこの状態が続きました。セルジュクトルコの治世下、コンヤの街はきらびやかに輝き、素晴らしい建築物で飾られていました。

特に、13世紀頃のコンヤは文化と芸術の香で満たされていました。多くのモスク、メスジット(小モスク)、メドレッセ(神学校)、テュルベ(霊廟)などが建設され、アラエッディン・ケイクバート1世時代の1221年には、厚い壁でこの街は囲まれました。

オメル・シュレヴェルディ、ムヒッディン・アラビ、メヴラーナとその父、サドレッティン・コネビなどの有名な学者や博士、文化人などがコンヤに集まり、この時代のスルタンに深く影響を与えています。

時が経つにつれて、ババ・イスハックと呼ばれる内乱も起こりました。1243年、バイジュ・ノヤン率いるモンゴルのイルハン軍にキョセダーの戦いで敗れた後、その支配は次第に名目のみとなり、再び混乱期に入っていきます。スルタン・メスット2世の死のすぐ後の1308年に、セルジュク朝は終焉を迎えています。

そして、カラマンオーウラル朝のコンヤにおける支配が始まるのです。この王朝はセルジュク時代にアナトリア地方のイチェルという地域に住んでいたトルコ族です。13世紀の後半に、エルメネクを首都とすることを宣言しています。

このようにしてセルジュクトルコの終焉に続き、この王朝はアナトリアの王朝の中で最も力のある支配の1つでした。その事実としてセルジュク朝のスルタン・ケイクバート1世は、1228年にヌレスーフィ族(カラマンオーウラル)にエルメネクとその周辺を授けています。

しかし、モンゴルの侵略とセルジュク朝時代に起こった天災が有利に働き、彼らは独立を宣旨したのです。もちろん一方では勢力拡大のため、セルジュク朝や他のアナトリア地方の王朝、そして後にはオスマン王朝とも戦っています。

オスマン朝とカラマンオーウラル朝の戦闘は、数年間にわたり続きます。オスマン朝は勝利する機会が多く、コンヤも奪いましたが、これは一時的なものでした。ついに、オスマン朝のスルタン・メフメットは攻撃をかけカラマンオーウラル朝を打ち負かし、1467年には滅亡させてしまいました。

そして、コンヤはオスマン朝の1つの地方という位置付けがなされました。コンヤが一地方都市になってから、最初にこの地の管理者になったのは、シェザデ・ムスタファ(スルタンの息子)です。

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コンヤの近世と現在

1481年にスルタン・メフメットが亡くなってから、彼の息子スルタン・ジェムは、彼の兄弟のスルタン・ベヤジットとの戦闘を開始し、ブルサのイェニシェヒルで敗戦したのち、コンヤヘ戻ってエジプトヘ逃れました。

スルタン・ジェムの後にシェザデ・アブドゥラーがこの地域を治め、安定がみられました。シュレイマン大帝やスルタン・ムラト5世も遠征中にコンヤに何度か留まっています。

コンヤという一地方の重要性や名声は、時と共に薄れていき、オスマン時代に発揮された力量も消え果ててしまいました。帝国が腐敗し始めると、ムスタファ・ケマル・アタテュルクの指導で独立戦争が始まり、コンヤは物質面と精神面の両方で人々をこの時期支える役割を果たしました。

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メヴラーナ・ジェラレッディン・ルミの生涯とその放浪の旅

メヴラーナ
偉大なトルコのイスラム教思想家メヴラーナ・ジェラレッディン・ルミは、パキスタンの国境のKhorassanのBelhという街で生まれました。彼の生まれた年については、作家や評論家によって見解が異なり、未だにはっきりしていません。

イギリスの歴史家であり、かつ作家でもあるWill Durant は、1201年であると発表し、フランスの作家Maur ice Barrésは、1203年としています。メヴラーナ教団員の学者アフメット エフラーキは、メヴラーナについての逸話を収集しており、彼の著書“Menâkibül Arifin”でヒジュラ暦604年3月6日(西暦1207年9月30日)にメヴラーナは生まれたとしています。

最近の調査によって、メヴラーナは1207年以前に誕生したと発表されました。実際にメヴラーナ自身の著書“Fihi-Mafih"の中で、サマルカンドの功囲のことを思い出として記述しています。この出来事は1207年に起こったことの為、彼の記憶に残っているとすればその当時すでに7、8才になっていたと予測されます。

このように推察すると、彼は1200年以前に生まれていたことになります。また他の著書を参考にすると、1182年頃が生まれた年であるとする説もあり、いろいろな推測がされています。

メヴラーナの父は、バハエッディン・ヴェレドという大変尊敬された学識者でした。賢者で先見の明にたけた人物で、“ウレマのスルタン(宗教上の法や神学についてのイスラム教博士)”の名称を受けていました。

この家の人々が代々行なってきたように、彼もBelhの街のモスクやメドレッセで彼を慕って集まってくる人々や学生に神学への道を説きました。メヴラーナの母はムュミネといい、Belhの高官リュクネッディンの娘です。

バハエッディン・ヴェレドの人望はあまりに大きく、尊敬の念を一手に集めていた為、次第にファーレツディン・ラーミなど他の学者達から反感を買うことになりました。特にギリシャ哲学を好み崇拝している学者グループは、Belhの支配者と一緒になって彼に反旗をひるがえしました。そして、故意に彼の名誉を傷つけるこのようなデマを流したのです。

“王様、バハエッディン ヴェレドはこの街の人々の心をほとんど征服していました。我々を重視せず、堂々と屈辱しているのです。我々はいつの日か、彼があなたの王位を脅かすようなことを企てるのではないかと恐れております。街の人々は彼を崇拝しきっております。今、何の手立てもうたなければ、大変なことになってしまいます。”

メヴラーナの父は、このゴシップに心を痛め、Belhの支配者にメッセージを送る決意をしました。

“心からのご挨拶をいたします。この腐敗しやすい世界の領地や兵土たち、王位、富は、支配者や王様にふさわしいもの。私たちは忠節ある修業僧であるのみで、領土も王位も必要ないのです。私の願いは、あなた様が主権を支配し皆が平和に暮らしていけることです。”

一方、敵であるモンゴルは、酷な急襲や掠奪、焼き討ちをBelhの周辺で繰り返しました。このようなことから、Khorassanの地には平和が存在しなくなりました。希望を失った惨めな人々は小集団にわかれて、イランやイラクそして西の方へ逃れていきました。

モンゴルの侵入だけが理由ではなく、彼の知識や名声に嫉妬している支配者とその取り巻きグループの行動や反応のため、彼はこの街から出ていくことに決めました。

多くの人々が止めましたが、彼の決意は変わりませんでした。ある金曜日の朝、幌馬車に身の回りの必要なものと本を乗せて、彼は妻と2人の息子、数人の弟子を連れて旅立ちました。

放浪の旅

最初にメヴラーナの家族は、ナシャプルの街に着き、神秘主義者フェリデッディン・アッタルに会見しました。アッタルは、若き日のメヴラーナの知識と賢明さを非常に評価し、彼の著書“lnterpretation of Mystery”をメヴラーナに与えました。

それから彼らはバクダットヘ進みました。市壁の近くで、どこから来て、どこへ行くのかを警備官から尋問されたとき、メヴラーナの父は、“我々は、神のもとから来て神のもとへ行くのである。神以外の何人たりとも我々の行く道を止めることはできない。”とこの偉大な思想家は答えました。

この言葉はカリフのもとまで届き、一家は宮殿にも招かれましたが、それを辞退しメドレッセに滞在しました。

バクダットにも長く滞在せず、彼らはメッカヘそしてメディナ、エルサレム、ダマスカスヘと移動しました。ダマスカスにも長くは留まってはいません。

“神はアナトリアに居をかまえよと告げられた。コンヤが我々の住むところであるようだ。”と、メヴラーナの父は言いました。そして彼らはアナトリアを目指して出発しました。もはや、どこにも留まることなく、シバス、カイセリ、ニーデ、と旅をして、ついに彼らはラーレンデの地に辿り着きました。

 
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ラーレンデ(カラマン)の7年間

1221年にメヴラーナの父はラーレンデの土地に足を踏み入れました。ラーレンデの長官エミル ムサ ベイは、彼に敬意を表してメドレッセを建て、この家族をメドレッセに住まわせました。

その一方、若き日のメヴラーナは機知に富んでおり、生まれつき強い力を持ち合わせていたようです。父の講義に出席し、懸命に日夜勉学に励んでいました。父の弟子の娘であるゲヴヘルとメヴラーナは結婚しましたが、この後すぐにメヴラーナの母と兄弟のムハンマド・アラエッディンが亡くなっています。

メヴラーナの妻はラーレンデの地で、第一子スルタン・ヴェレデ、第二子アラエッディン・チェレビを出産しています。

コンヤへ

この時期セルジュクトルコは、アナトリア地方の広い部分を支配しており、最盛期を迎えていました。

イッゼッディン・ケイクバート1世の後、王位についたアラエッディン・ケイクバート1世は、宗教を厚く保護し、科学や学者達にも非常に興味を示しました。

彼の治世の根拠地コンヤは、芸術作品で彩られ、多くの学院が建てられました。宮殿やメドレッセはこの時代のそうそうたる学者達でいっぱいでした。しかし、人々はモンゴルの脅威と宗教上の闘争が引き起こす混乱に心が休まることはありませんでした。

このようなことから、人々は平和と心の安定を神秘主義に求め、天国と現世そして次代の間をさまよえることに共感を覚え、信仰しました。スルタンや政府高官もこの神秘主義に共感し始めました。

ネジュメッディン・ダーイエ、サドレッディン・コネヴィ、ムヒッディン・アラビなどの神秘主義の学者達は、コンヤで大変尊敬を受け、名誉を与えられました。文化と科学の中心であるコンヤの街は、修業僧や学者、知識人に大きく門を開いていました。

このような状況下、アラエッディン・ケイクバート1世は、ラーレンデにかつて住んでいた偉大な学者であるメヴラーナの父を早速コンヤヘ招聘しました。

1228年の春、メヴラーナの父は最終的な居住の地コンヤに着き、スルタンに会見し、アルトゥン・アバ(イプリックチ)メドレッセシに住むことになりました。それからというもの、彼は講義と説教をこのメドレッセで行い、忙しい日々を過ごしました。

後に、新しいメドレッセに彼は移りました。そこで、弟子や生徒たちによって集められた彼の講義や説教の記録は、3巻からなる “Mâarit(Education)” という本にまとめられました。

1231年1月12日にメヴラーナの父は、波乱の生涯を閉じました。

父の死後

メヴラーナは高官ベドレッディン ゲヴエルタシュが建てたメドレッセに住んでいました。父の死後、その弟子や生徒たちはメヴラーナのまわりに集まってきました。彼らはメヴラーナをただひとりの後継者とみなし、この新しく素晴らしい師の下で知識を得ることを望みました。

しかし、メヴラーナ自身は底はかとない孤独を感じていました。彼がこのような寂しさを感じている時に新しい論理の太陽がアナトリアの地平線から光を放っていました。その光はトゥルミズのセイッド・ブルハネッディンという人物でした。

この人物は元々メヴラーナの父の弟子でしたが、夢幻の境地と恍惚をさらに求めて、瞑想のため山奥に隠遁しました。メヴラーナの父の死後、彼は尊敬する師の教育ができるのは自分しかいないと信じ、メヴラーナのもとへ行きました。

メヴラーナは彼を歓迎し、9年間にわたり彼の精神的管理下で勉学に励みました。尊敬する師の同意と助言を得て、メヴラーナはアレッポとダマスカスに2年間滞在しています。そこでメヴラーナは、その当時のスーフィズム(イスラム神秘主義)を知り、コンヤヘ戻りました。

セイッド・ブルハネッディンは、こうしたメヴラーナの成長ぶりを喜び、満足し、ある日このように語りました。“メヴラーナよ、あなたはじゅうぶんな教育を受け、博識ある人物に成長した。魂の理解、論理、寓話などいろいろなことを学び、類い稀な学者となった。あなたがおもうように進みなさい。そして人々を慈善の精神に導き、あなた自身の神の愛の解釈を人々に説きなさい。”

この言葉の後すぐにセイッド・プルハネッディンはカイセリヘ行き、しばらくしてその地で亡くなりました。この悲報を聞いてメヴラーナは嘆き悲しみ、師の最後の安住の地カイセリヘ急ぎました。そして愛すべきこの師が残した蔵書とともに、コンヤヘ戻ったのです。

メヴラーナの新しい理解者

セイッド・ブルハネッディンの死後、再びメヴラーナはひとり取り残されたような気持ちになっていました。

しかし、彼が勉学に励んでいる間に、彼の視野は大きく広がりました。彼はイスラム教の教義である“fıkıh,tefsir,hadis,kelâm"を研究し、同時にイラン、インド、アラビアなどの文学にも興味を持ちました。

また、ギリシャ語を学び、ギリシャ哲学者の古典作品も読みました。更に、メドレッセで神秘主義も研究し、彼の父や師も携わった神秘七義の会議の議長に就任しました。

この時期、コンヤには大きな学術集団がありました。当時の有名な学者たちは揃ってコンヤに集ってきました。メヴラーナのまわりに集まってきた知的集団も急速に大きくなっていきました。

彼はもはやメドレッセで講義をする学者というだけではなく、モスクで説教をする気性の激しい唱道者でもありました。彼の説教は7章から成る“Mecails-Seb‘a"に集められました。

“神に懇願いたします。神を賞賛し、感謝しております。”という言葉で、すべての章は始まっています。演題の説明や神秘主義の教義は、寓話や逸話、詩などで潤色されています。このような物語や詩を手段として説明をする方法は、彼の偉大な作品“Mesnevi"にあますことなく表現されています。

一方、メヴラーナの妻ゲウヘルは亡くなり、彼女の2人の息子ヴェレデとアラエッディン・チェレビは青年に成長しました。メヴラーナが2度目に結婚したのは、礼儀作法のきちんとした素晴らしい女性ケッラでした。彼女との間にメヴラーナは、娘一人と息子一人をもうけています。また、養子も一人いましたが、若くして亡くなっています。

メヴラーナはこのコンヤで一番大きなメドレッセ、アルトゥン・アバ(イプリックチ)で講義を行なっていました。夕方、講義の帰り道は、自分自身の子供達を教育する時間にあてていました。

彼の莫大な能力と機知、そして彼のゆゆしさを証明する行動や態度は、常に全ての人々から尊敬の念を得ていました。しかし、メヴラーナは日を追って彼の心の内に神秘的で不可解なものが魂の中にあるのを感じていました。

1244年11月25日に彼がメドレッセから帰宅している時、道の真ん中で彼が乗っているラバの手綱を突然2本の手が掴みました。この男は旅をしている修行僧で、この見知らぬ僧がメヴラーナに質問を浴びせたときに、彼は何の飾りも洗練さもそして複雑な表現もなく素直に答えました。

この正直で一本気なメヴラーナの答えは僧を興奮させ、魂を揺さぶりました。ラバから降りて、この僧をメヴラーナは家に招きました。この日を境にメヴラーナの魂の扉は、神の愛の鍵によって開かれました。メヴラーナの人生の改革のきっかけをつくったこの僧は、ムハンマド・シェムセッディン・テブリズという人物です。

シェムセッディンは若い頃テブリズのエブベキル・セレバフの弟子であったといわれています。その後、シェムセッディンは彼を精神的に満足させる師に中々巡りあうことができなかった為、幾度となく師を変えています。旅から旅を重ね、ついにコンヤに着いた彼は、上記のような経過を経て、彼が本当に望んでいた質問に対する答えと人物を捜し当てました。

シェムセッディン
シェムセッディンとメヴラーナは神秘主義の教義について討論を始め、その友情は長く続きました。メヴラーナは、彼を大変高く評価し彼の中に創造神を見たような気がしました。

メヴラーナが突然、姿を現さなくなり、弟子たちとの親交を断ったことで、彼を慕っていたコンヤの人々は激しいショックを受けました。そして、そのショックの感情は、強い苛立ちに変わり、シェムセッディンに対する噂が次のように広まりました。

“一体、何なんだ。メヴラーナをここまで魅了し、友たちから彼を引き離したのは、誰なのだ。彼はどこからやってきて、何がしたいのだ。このシェムセッディンという名の僧は、メヴラーナを我々から奪い取ってしまい、何年も続いた師弟関係をもなくしてしまった。彼はメヴラーナに魔法でもかけたのだろうか。一体、何が目的なのだろうか。”

次第にこの中傷は大きく拡がり、人々はシェムセッディンに嫌悪感を抱きました。このようなことから1246年の2月彼は突然、姿を消したのです。

シェムセッディン失踪の後…

シェムセッディンが去った後、メヴラーナの心は深く傷つきました。彼はシェムセッディンの失踪をまねいた人々との接触を完全に断ったのです。ノスタルジアの炎を燃やしながら、小部屋に引きこもり心を閉ざした彼を誰も慰めることはできませんでした。

彼の息子スルタン・ヴェレデは父の苦悩を何とかして和らげたかったのですが、シェムセッディンの行方は依然としてわかりませんでした。

こうして何年かが経ち、ある日シェムセッディンがダマスカスにいるという情報が入りました。すぐにメヴラーナは、彼宛てに手紙を書きましたが返事はありませんでした。2度目、3度目の手紙にも同様に返信はありませんでした。息子スルタン・ヴェレデは20人の弟子を連れて、4度目の手紙を渡すためにダマスカスヘ旅立ちました。

シェムセッディン再びコンヤへ

シェムセッディンを捜し当てたヴェレデは、父メヴラーナがいかに彼を必要とし、どんなに思い悩んでいるかを説明し、コンヤに戻ってくれるように懇願しました。2、3日後、ヴェレデの説得に同意したシェムセッディンはコンヤヘ向かって出発しました。

1247年5月8日、コンヤの街境でメヴラーナとシェムセッディンは再会し、一緒にメドレッセヘ向かいました。メヴラーナのメドレッセはシェムセッディンのおかげで再び光り輝きました。

メヴラーナは彼の保護の下で教育したキムヤという女性とシェムセッディンを結婚させましたが、彼女はすぐに亡くなってしまい、メヴラーナの息子アラエッディン チェレビを含む反シェムセッディン派のよい攻撃の的となりました。そして、彼女の死の原因を問うゴシップが広がりました。

シェムセッディン

シェムセッディンの死後

1247年12月5日の夜、反シェムセッディン派は待ち伏せをして、罠をかけ、シェムセッディンを暗殺しました。このことは、メヴラーナの心情を察して長い間秘密にされました(シェムセッディンはいつものように消えただけでまた戻ってくると、メヴラーナには伝えられました)。

再びシェムセッディンの姿を失ったメヴラーナは孤独に打ちひしがれ、頭に灰色のターバンを巻きゆったりとした長い上衣の前を開けて着用するようになりました。

シェムセッディンの不在はメヴラーナの生活に大きく影響し、メランコリーと恍惚に陥っていきました。彼は、シェムセッディンを探すために何度かダマスカスヘ出向いています(無論、これは無駄な事でありました)。

メヴラーナが憂欝で暗い日々を過ごしている間に、シェムセッディンの存在に代わる人物が登場することになります。それがセラハッディン・ゼルクビです。

セラハッディン・ゼルクビ

金細工師または宝石細工師で知られているセラハッディン・ゼルクビは、ベイシェヒルの近くカーミルの村で生まれました。彼は仕事でコンヤにやってきて、住まいを定め、コレヤのマーケットで働き始めました。

一方で彼は、セイッド・ブルハネッディンの講義にも出席していました。ある日、彼はメヴラーナが旋舞によって無我の境地に入っている光景を見て、メヴラーナの弟子にどうしてもなりたくなりました。

後にメヴラーナは、彼を賞賛して“教主のなかの教主、人間の中で神の光を放つもの”と語っています。また、シェムセッディンの存在がなくなってから太陽は沈みましだが、セラハッディンのおかげでまた陽は昇ったとも述べています。

メヴラーナは、息子ヴェレデとセラハッディンの娘ファトマを結婚させており、このことによっても二人の結びつきは一層深くなりました。セラハッディンという賢明な人物を得て、メヴラーナは幸福な日々を送りました。

10年間一緒に生活を共にしたセラハッディンは、1258年の秋、静かに生涯を閉じました。彼はメヴラーナの父の墓の近くに埋葬されました。

チェレビ・ヒュサメッディン

セラハッディンの死後、メヴラーナは寂しい心の片隅を埋めるために、一人の子供を貰い受けました。この子供の父は、アヒ・トゥルクの名で知られているムハンムドという人物です。彼の先祖はウルミエからアナトリアに移民し、コンヤに住むようになりました。

ムハンムド別名アヒ・トゥルクはコンヤの近郊アヒスの族長でした。この人が亡くなった時、チェレビはまだ幼かったのですが、アヒスの伝統によって、彼は世襲財産の長として尊敬されました。

少年の頃からメヴラーナの強い愛を受けていて、メドレッセで講義を聞いたり、神秘主義の集会で修道僧達の旋舞に参加したりしていました。彼が成長すると、友達やアヒ族の仲間と一緒にメヴラーナの神秘主義集団に加わりました。

数年の間、彼はメヴラーナやシェムセッディン、セラハッディンの指導で勉学に励みました。この期間に、彼らの絆は非常に強まりました。セラハッディンの死後、チェレビはメヴラーナの最も親密な友であり後継者でした。

また、彼が父から譲り受けた遺産も全てメヴラーナに贈与しています。メラムのぶどう畑にある彼の家は、メヴラーナの弟子たちの集会所にもなりました。また、反対にメヴラーナは、彼が弟子に分け与えるであろうことを予想して、すべての持ち物を彼に贈っています。

事実、青年期にチェレビは優れた教育を受けていて、後にコンヤの数々のメドレッセで講師として成功しています。メヴラーナの下で人生の深遠な意味や真理の理解を彼は深く学んでいます。

メヴラーナ神秘主義集団の“The Treasurer of Education” や、“The Bearer of the Secrecy” の称号も与えられています。その他にもメヴラーナから賛美の称号を数々与えられていて、まさにチェレビは、シェムセッディンやセラハッディンがいなくなった隙間を埋め、メヴラーナの親密な信者でした。

そして、弟子の中の長として10年間その地位にいました。チェレビはいつもメヴラーナと一緒で、どこへ行くときも御供しました。シェムセッディンの魂が、あたかもチェレビに復活したかのように…

シェムセッディンが未熟なメヴラーナを成長させ、神の愛の頂点にまで運んでいき、それをセラハッディンが大きく高め、チェレビが彼に不朽の名作、6巻からなる “Mesnevi"を書かせるきっかけとなったのです。

メヴラーナ
シェムセッディンとセラハッディンの死後、メヴラーナは次第に穏やかになっていき、彼の猛々しい反抗的な気質は知的な成熟に変わっていきました。師の変貌を観察しながら、チェレビは師の神の愛と知識のカーテンが開き、太陽の光が射すように感じました。

一方で“Divan"と名付けられた詩集の小さな本は、“The Great Divan"と改題されました。しかし、彼らは献身者の乾いた心を満足させる新しい作品が必要であると考えていました。チェレビは師に新作を書くように勧め、それに答えてメヴラーナも最初の部分を用意しました。

そしてその後は、自分が朗吟するので書きつけるようにとチェレビに頼みました。この日から休みなく創作は続き、6巻におよぶ大作が完成したのです。

メヴラーナによる不朽の名作「メスネヴィ(Mesnevi)」とは?

メヴラーナ メスネヴィ
この作品は、メスネヴィ形式で書かれたものです。このメスネヴィ形式とは、オスマン時代の文学で用いられたもので、詩的韻律を差します。この形式を使った作品の為、そのままメスネヴィというタイトルになりました。

ペルシャ語で最後まで書かれた韻文で25618の2行連句から成っています。しかし、この本の新版がでる度に、いくつかの言葉と連句は変更されました。

6巻からなるこのメスネヴィはメヴラーナの観念や神秘主義の説明をしています。メヴラーナの燃えるような恍惚感や彼の狂喜した精神の存在、澄んだ魂、人の心を動かすような知性は、音楽のような詩形でこの作品の中に活かされています。

完成の後、この作品は賞賛をもって読まれました。メスネヴィを暗唱する専門家を養成し、この専門家たちはこの作品の読み方や解釈の仕方をも学びました。後に、養成所も建設されています。メスネヴィの有名な解釈者たちを挙げると、ルスヒ イスマイル デデ、サル アブドゥラー アブドゥルメジット、ピリ パシャなどがいます。

メスネヴィは、テキストとしてトルコ語にも訳されています。シュレイマン ナイフィの韻文形の訳とヴェレデ チェレビ イズプダクの散文形の訳は、有名なものです。

もちろん、メスネヴィは他の国々で訳され出版されています。アラビア語やインド語などで出版された後、パキスタンやイラン、アフガニスタンでも出版されました。この作品は、ヨーロッパの数力国でも訳されています。

メヴラーナの死

メヴラーナ
様々な偉功を成し遂げたメヴラーナの日々は、飛ぶように過ぎ去っていきました。すでにメヴラーナは年老い、研究に研究を重ねた月日は彼をすっかり疲れさせてしまいました。1273年の冬は、例年より早く来て大変厳しかったそうです。

また、近郊に地震の多い年でもありました。ある日、メヴラーナが病に臥しているというニュースがコンヤに広がり、人々はとても心配しました。スルタン・グヤセッディン・ケイヒュスレル3世は、メヴラーナを見舞い、2人の王宮医師が常に彼の側にいました。しかし、彼を病

から救おうとする努力は全て虚しく、死期は迫っていました。不治の病は、少しずつ彼を弱らせていきました。40日間に及ぶ闘病生活が続き、メヴラーナが亡くなる最後の夜、彼は囁くように病床から片時も離れなかった最愛の息子に向かって、最後の詩を朗吟しました。

翌日の1273年12月17日の日曜日、冬の季節に陽は輝いていましたが、深い悲しみが訪れました。夕方にコンヤの西にあるテッケリ山に陽が沈んだ時、賢人の太陽は永遠の平和という翼にのって、人間の世界から天昇していったのです。

メヴラーナの葬儀

メヴラーナのことを敬愛していたコンヤの人々の心は、ぽっかりと穴が空いたようになりました。

メヴラーナは生前、“わたしの死後わたしの墓を探さないでください。わたしの墓は学者たちの心の中にあるのですから。”と、度々言っていましたが、彼を敬愛していた人々は彼の死に涙を流さずにはいられませんでした。

しかし、見方を変えれば彼の死は、彼の復活を意味しています。彼の死は、彼がやっと辿り着いた真理でもあったのです。メヴラーナが永遠の生命へ旅立ちしたことは、彼の中に潜んでいた孤独から彼自身を解放し、彼への理解を深めることになりました。

次の日、荘厳な葬儀の準備がなされました。派閥や人種、宗教の違いは問わず、メヴラーナを心から敬愛したコンヤの人々は、ネイ(フルートの一種)とレバップ(弦楽器の一種)が奏でるリズミカルな音楽にのって、肩にメヴラーナの棺を担いで運びました。

葬儀に参加する群衆があまりにも多かった為メヴラーナの棺はモスクに着くまでとても時間を要しました。埋葬の儀式は、サドレッディン コネヴィによって取り仕切られる予定でしたが、異常に興奮しすぎたために、倒れてしまいました。

その為、急遽カドゥ シラジェディンがこの葬儀の儀式を取り仕切りました。メヴラーナは、彼の父の墓の近くに埋葬されました。

メヴラーナの後継者

メヴラーナの死後、弟子長であるチェレビ・ヒュサメッディンがメヴラーナの地位を受け継ぎ、テュルベ協会の経営も任されました。1284年にチェレビが亡くなった後は、メヴラーナの息子が後継者となりました。

この人物は、成熟したスーフィーというだけではなく、優れた管理者でもあったので、彼は任務を的確に遂行しました。彼は、中核としてメヴラーナ テュルベを設立しました。また、ディバンや3冊のメスネヴィ形式の本、教育などといった作品を書いています。

1312年には、スルタン・ヴェルデの息子、ウル アリフ・チェレビィがその仕事を受け継ぎ、彼の尽力により、メヴラーナ教団の設立と組織化がなされました。
メヴラーナの死後、メヴラーナ教団のその信仰と思想は、アナトリア地方の内外に広く散布していきました。オスマン時代には、信者の範囲は大きく広がり、教団の学校や寄宿舎、修行僧を教育するための学院も設立されました。

コンヤにあるメヴラーナ僧院は、一番有名で大きなものです。コンヤは、ずっと文化、芸術、文学の中心地でありましたが、メヴラーナの後継者として32人のチェレビィ(教主の中で最高位)も修行しています。

メヴラーナの観念と思想

メヴラーナは、考えられているような哲学者ではありませんでした。メヴラーナによると、哲学というものは、知識に頼りすぎているために何かが欠けており、腐敗していると、考えられています。彼は、知識に頼りすぎている哲学というものには、さほど興味がありませんでした。

また、メヴラーナが、ただの詩人であったということも真実ではありません。メヴラーナにとって、詩は何かを容易に教えるための媒介でした。彼は古典的な詩形や韻を好みませんでした。なぜならば、決まりきった形では彼の伝えたい観念や意味合いを表現するのに限りがあったからです。

詩の形で自分の思っていることを表現すると、簡単に理解することができ、楽しく読むこともできます。このような理由から、メヴラーナは自分の観念を韻文の中で表現しました。

メヴラーナの一番重要な主題は神秘主義でした。彼は、本物のスーフィズム(イスラム教神秘主義の一派)信仰者でしたが、他のスーフィズムや神秘主義とは、何の類似点もありませんでした。彼は生涯を通じて信念を貫き、彼の信念は人々に浸透していきました。

彼の基本的信念は、限りない寛容さと正しい論理、人々のために慈善的で正しい人物になることでした。実際に、彼は神の愛に溢れていました。

“私たちの預言者が作った小道は愛の軌跡へ導いている。常に愛とともにいなさい。そうすれば、魂が死ぬことはないのです。愛のために死になさい。そうすれば、あなたは生き続けることができるのです。”

彼の愛は、神への愛でした。このような愛は、成熟した人間のみに存在する愛です。このような心の成熟は、彼を創造者にまで高めました。

メヴラーナの人生は、愛と無我の境地で満たされ、3つの文で表されています。“わたしは生のままであった。そして、調理をほどこされて、最後に燃え立った。” メヴラーナは、彼の詩に愛を与え、彼の思いに音楽と旋舞と賛歌を付け加えました。

魂を成熟させるためには、詩と音楽、旋舞 賛歌が不可欠でした。人々は詩を暗唱し、音楽で十分満足し、賛歌は天国にいるような無我の境地に引き込みます。恍惚の中で旋舞していると、人々は内面的に賞揚し、魂は浄化され、天国へ昇る翼を得たような気持ちになります。

メヴラーナは誕生によって人間は解放されると考えました。このことから、彼は奴隷や妾を決して保有しなかったし、女性を卑下せずに尊敬しました。全ての人々が労働によって生活の糧を得ることも彼が望んだことの一つでした。

メヴラーナは、イスラム教徒のみならず、他の人々からも絶大な尊敬を受けました。

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