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カッパドキアの岩窟群(トルコ 複合遺産・1985年)|奇岩と初期キリスト教の遺跡
カッパドキアは1985年に「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」として世界遺産に登録されました。
カッパドキアには、地質学上も世界に類を見ない不思議な景観が広がっています。周辺の観光エリアは非常に広く、見どころが多数あります。「妖精の煙突」や「キノコ岩」と呼ばれる多種多様な奇岩、ギョレメ国立公園、岩窟教会をはじめとする初期キリスト教の貴重な遺跡、カイマクル・デリンクユなどの地下都市、ウチヒサルの岩の要塞、ウフララ渓谷、陶器と絨毯の名産地アヴァノスなど……
カッパドキアは、トルコの首都アンカラから約250㎞離れて、アクサライ~ニーデ~ネヴシェヒル~カイセリ地方に挟まれて中央アナトリアに位置しています。
カッパドキアは、文化遺産と自然遺産両方の条件を満たす、世界でも珍しい複合遺産です。まるで慎重な彫刻家のような繊細さで、何千、何百もの月日をかけて自然が造り上げた岩層。そしてこの火山灰に覆われた一帯を、必要に応じて彫り、削って暮らした村人達。自然と人間が一体となって創造した見事な調和の世界が、私たちの目の前に姿をあらわします。
歴史の初期以来、様々な民族が集落を形成してきたカッパドキアには数知れない遺跡や古代都市が存在するに違いなく、此れらが発掘され、一帯の歴史の解明に役立つ考古学的な調査活動が一日も早く実施される事が望まれています。
例えば、カイセリ近郊のキュルテペ、アクサライ近郊のアジェムホユックは、今日までに発掘された非常に興味深い都市遺跡のほんの数例と言えます。
ここでは世界遺産カッパドキアの全貌と歴史をどこよりも詳しく解説します。なお、主要な観光スポットや現地でのアクティビティ、ホテルなどについてお知りになりたい場合は、以下の記事をご参照下さい。
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カッパドキア観光の案内ビデオ。 2分31秒
この内海が干上がった頃、地中海沿岸のタウロス山脈に住む旧石器狩猟民たちが、内陸部、カッパドキア地方の大部分を占める現在のコンヤ平原の肥沃な土地に向かって、移動し始めたと言われています。
カッパドキア近郊のチャタル・ヒュユクの丘は、これまでに発見された中で最大の新石器時代の遺跡としてユニークなものです。発掘はまだほんの一部行われたにすぎませんが、その出土品によって先史時代の独特な文化の担い手としてのアナトリアの役割が明らかになってきました。これらの出土品は紀元前6500年から5500年頃のものと推定され、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されています。
出土品の中で注目すべきものは人工の壁に描かれた最古の壁画です。壁画のひとつには、えんじ色の矩形が並び、ピンクに赤のふちどりの二つの山型がみられます。
この絵の下の部分が居住地の図だと考えると、上の二つ並んだ山型はハッサン火山(Hasan Dağı)と思われます。一つの山の上方に赤い点々が見えますが、ハッサン火山は紀元前2世紀まで活火山でした。そうしたことから、この壁画はこれまでのところ最古の地図だといえます。
遺跡発掘の結果、青銅器時代においてもアナトリアは独特の文化を創りだしていた事が分かってきました。
メソポタミア地方以外で私たちが知っている国々の中では、古代の民族ハッティが最も早く文明化された国で、その言語や宗教についても多少知られるようになってきました。
ヒッタイトの首都「ハットゥシャ」という名には “ハッティの住むところ”という意味があります。
そして、ハットゥシャから遠くない、アラジャホユックにある歴代のハッティ人の王の墓地からは、貴重な金や青銅の財宝がみつかり、それらは今アナトリア文明博物館に展示されています。
紀元前2000年ころ、インドヨーロッパ語族のヒッタイトが、ボスポラスとダーダネルスの両海峡を越えやって来て、アナトリア諸国に支配力を振るうようになりました。ハットゥシャの王家の公文書庫から出土した楔形タブレットはまだ断片的にしか解読されていませんが、古代世界史上においてヒッタイトが極めて特殊な位置を占めていたことを示しています。
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紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国が滅んでアナトリアの暗黒時代が始まり、その後紀元前6世紀にリディア(首都サルディス)の属国になるまでカッパドキアに関する消息はほとんどありません。紀元前6世紀半ば、リディア王クロエソスは、アケメニッド王国のキュロス大王に敗れカッパドキアを失いました。
紀元前333年、アレクサンダー大王の遠征の後、紀元後17年にローマの属州となるまでの間、カッパドキア地方は比較的自由な時代でした。この時期、カッパドキアを支配した地元の諸王朝の中で、紀元前332年にアリアラテスが樹立した王朝が一番重要なものと言われています。
ローマ帝国も、続いてやってきたビザンティン帝国も、この地域の文化を吸収しようとはしませんでした。なぜなら彼らの関心は、道路を確保し交易ルートを守ることと、この広大な平原の労働力をビザンティン軍のために有効に使う事にしかなかったからです。
その後、支配階級や軍隊は便利な地点に駐留しそこに町ができていきます。
ゾロパスス(Zoropassos)~現在のギュルシェヒル(Gülşehir)、ソアンドス(Soandos)、ペリストレマ(Peristrema)~現ベリスルマ(Belisırma)、コラマ(Korama)~現ギョレメ(Göreme)、ソアンダス(Soandos)~現ネブシェヒル(Nevşehir)などがローマとビザンティンの時代の中心都市として発達していきました。
この地方の住民はいつも岩の多い場所に好んで住んでいました。石を利用し、あるいは自然の岩を穿って、山の上や谷、深い峡谷の岸辺に家を作りそこに住んでいました。穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいた事から、10世紀のビザンティンの歴史家は、カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれたと言いました。
住民の多くは主に農業に従事しており、特にぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事でしたが農地や牧草地は町に住む地主のものでした。住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていました。
2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼでした。初期のキリスト教徒はおそらく、ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々で、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々でした。
これらの新しい住人たちは、丘の斜面を掘り、岩を刻んで教会を造り、内部をフレスコ画で飾ります。こうしてカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士の祈り、教会などの大展示場の様相を呈するようになりました。
11世紀後半にセルジュク族がやってきたときには、カッパドキアには1000を越える宗数的施設があったそうです。カッパドキアのキリスト教社会と、イスラムのセルジュクトルコの関係は友好的でしたが、14世紀に入るとオスマン帝国に吸収されてしまいました。キリスト教信者のギリシャ人たちは、後世のトルコとギリシャの人民交換政策により、1920年代にカッパドキアを離れることになってしまいました。
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聖バジル、ナジアンザスの聖ジョージ、カッパドキアのニサの人、聖グレゴリーは、これらの異教信仰と立ち向かい、当時のキリスト教思想を形成するのに力を尽くしました。
中でも、聖バジルはギリシャ正教会の4人の教父のひとりとされ、カッパドキアの教会にもしばしば、肖像が描かれています。(他の3人というのは、聖ジョン・クリソストム、ナジアンザスのグレゴリー、そしてアタナシウス)
彼はカエサリアの裕福な家庭に生まれ、コンスタンティノープルとアテネで学問を修めました。そして広く各地を旅した後、貧しい人々に自分の財産を分け与え、自ら定めた厳格な規律に基づく修道的共同体の創設に献身しました。
帝国の滅亡後、ダバル王国と呼ばれたカッパドキアは、フリギア、リディア、ペルシャ、マケドニアそしてアリアラテスによって支配され、ローマ時代にあっては軍の要地でした。
4世紀のカッパドキアを生きた高名な宗教家聖バシリウスの教えである修道院の暮らしに従い、地方一帯には無数与の教会や修道院が建設されましたが、ビザンチン時代になり東部、南部からの大襲撃を受けると、村人達はこれらの建物を主要道路から離れた人目につきにくい谷間に造らざるをえなくなったのです。
7世紀以降、東からペルシャが、南からはアラブの民が地方に進攻して暴れまわると、カッパドキアの人々は避難場所として、今日地元の人々が「世界七不思議に続く、八番目の不思議」と呼ぶ、火山灰などの堆積層を削った大規模な地下都市を建設しました。
また、同時期、その初期にあっては絵やイメージに対するある種の反抗と受け取られても、実のところは教会への権力集中にストップをかける為に始められた偶像破壊運動の波が、ビザンチンはもとよりこのカッパドキアにも押し寄せてきました。
後に、アラブの襲撃と偶像破壊の動きが下火になると、カッパドキアには新たに何百もの教会が建設され、再び宗教画で装飾される様になったのです。
地方にて最も大掛かりな調査を実施したジェルファニオンは、此れら初期の教会を《アルカイック期》の教会と呼び、偶像破壊時代に対する一種の反抗精神から生まれた当時の造りを、非常に闊達で自由な精神をもって装飾されたものである、としています。
10世紀以降、大規模で壮麗な教会が造られたカッパドキアは、その黄金期を11世紀に入って迎えることになります。特にギョレメとその近郊に建設された教会は、外観、内部の宗教画ともに注目に値するものと言えます。
同じ11世紀、アナトリアは大きな攻防戦の舞台となりました。この地に進攻し、国家を形成したセルジューク・トルコ人をアナトリアの大地から解放し、聖地奪回を目指す十字軍やビサンチンの間の戦いが頻発した時代でもありました。セルジューク・トルコはこの波乱の時代から彼等の黄金期とされる13世紀までに、アナトリアを宗教的、軍事的な様々な建造物で飾り立てたのです。
当時造られたウフララ谷の聖ジョージ教会には、セルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が記されており、キリスト教徒がセルジュークの支配下におかれていた当時の状況を踏まえて考える時、教会を自由に建てて、支配者と非支配者の代表者の名を並べて掲げた意味で、大変重要なものと言えます。
セルジューク建築の代表作は、カッパドキアに続くあのシルクロード沿線と、周囲のアクサライ、ニーデ、ネヴシェヒル、カイセリ等、当時の主要都市にて目にすることができます。
モンゴルによって歴史の舞台から姿を消したセルジュークの後を継いだのは、13世紀にアナトリアに進出して以来、短期間のうちにヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸に跨がる大帝国を形成したオスマン帝国でした。
同帝国に属する建造物は、カイセリ、ニーデ、ウルギュプ、アヴァノス、ネヴシェヒルに多く、特にチューリップ期の名宰相イブラヒム・パシャの時代には、その故郷であるネヴシェヒルに数多くの施設が設けられています。
長い間、「田舎の芸術作品」と軽んじられたカッパドキア地方の教会ですが、その初期から末期まで継続してビザンチン芸術の何たるかを表現しているかと言う意味に於いては大変重要なものと言えます。実際、ビザンチン時代の初期から建設されたここの教会では、宗教画、イコン、建築など、その時代の歴史を一歩一歩辿る様にして見届けることができます。
実施された調査の結果、同一工房や同一画家の手による装飾画が発見された事は、即ち皇帝をはじめ高貴な身分にある人々の為に建てられた教会や、そのお抱え芸術家の存在を裏付けます。
ウフララ谷の教会に顕著なエジプトやパレスチナの影響は、カッパドキアがこれら外部からの要素に独自の文化を混合し、自らの解釈をつけた証拠と言えるでしょう。この岩窟教会を単に芸術的見地から分析しようとするのは実際のところあまり正解とは言い難く、何千もの岩窟教会に見られる宗教画は、当時の信仰、習慣、修道院生活などをも今に伝える大切な証人でもあるのです。
私たち一人一人に、カッパドキアの自然の奇跡、信じ難い文化遺産を保護していく責任が課せられていることは、この地を訪れた者であれば誰でも強く感じるところでしょう。この美の創造主である自然の力は、同時に新しい美を作り上げる為に過去の自身の作品である風景を破壊してしまう力でもあるのです。
かつてこの岩層を造り上げた侵食の作用は、同じ作用で岩層を蝕み続け、これを無くし、人々の生活した区域をゴーストタウンに変えました。また、自然や文化遺産に直接影響を及ぼさないまでも、世界で唯一無二のカッパドキアの景観を乱す近代建築には、一定の制限を加える必要があるでしょう。
ネヴシェヒルからウチヒサルヘ向かう時に目に付く、カッパドキアの象徴とも言えるウチヒサルの風景にそぐわないホテルの数々や、ギョレメからオルタヒサルを眺める時にエルジェスと美しいカッパドキアの景観に全くもってそぐわない建物など・・・。
観光業推進の名の下に犯されたこの過ちを見つめ、この世のものとは思えない魅力に溢れた一帯を大切に保護して後世に伝えてゆく義務を、現代人として私たちはしっかりと認識しなくてはならないのです。
ヨーロッパのアルプス山脈同様、南アナトリアのトロス山脈も地質年代上、新生代の第三紀(6500万~200万年前)に形成されました。この時期、中央アナトリアでは活発な地殻の変動で深い亀裂や地盤の沈下が見られ、亀裂を這って地表に噴出しだしたマグマは、エルジェス、デヴェリ、メレンディス、ケチボイドゥラン火山を作り上げたのです。
そして、度重なる激しい噴火の後、中央アナトリアでトロス山脈に並行して走る火山連ができあがったのです。火山の吐き出した噴出物は既に形成されていた丘や谷の上に長い時間をかけてゆっくりと降り積もり、周辺一帯は巨大な台地と化しました。
カッパドキアを御伽噺の舞台足らしめている妖精煙突は、何百年もの間の地質変化の賜物です。世界中で唯一カッパドキア地方でのみ見られる妖精煙突の誕生は、中央アナトリア全域に影響を及ぼした火山活動にからはじまったのです。
最も美しい妖精煙突は、北からクズルウルマックの18kmあたり、東からダムサ川、西よりネヴシェヒル川、南からはオイル、ケルミル山に囲まれた約288k㎡にわたる一帯に見られます。
全く侵食されていない部分の断面を見てみると、下に凝灰岩、上部には玄武岩が層を成していることがわかります。かつては凝灰岩の表面を完全に覆っていた玄武岩の層は、今日ごく一部にのみ残り、例えば円錐形の妖精煙突の上に頂いた帽子にも似た部分、あるいは火山灰の上部の岩の棚がそれであるのです。
この妖精煙突が形成されたのは、地質時代第四紀、雨による侵食と風化によるもので、あるものは高さ40m程にも達し、円錐形で頭部には玄武岩の“帽子”を頂いています。
初期の形成期の後、帽子の下部にある軟らかい部分は侵食されて徐々に細くなり、更には支え切れずに帽子が転げ落ちてしまった煙突もあります。あるいは完全に削り去られ、もはや姿形も無くなってしまった煙突もある様に、この侵食作用は今なお続いているのです。
ウルギュプ~ウチヒサル~アヴァノスを結んだ三角形の内側を妖精煙突の見所としてお薦めします。
カイセリの南西に3,917mの雄姿を誇るエルジェス山は、アナトリアの山々の中でも屈指の高峰です。地方で最も重要な火山と言え、太古の昔に始まった火山活動は歴史時代まで続きました。直径18㎞、1500km2の面積におよび、地方にとっては同様に重要な意味合いをもつハサン山に比較すると年老いて疲れた表情をみせており、火山活動初期の噴出物が火山灰の、中期のものが玄武岩の層を形成しました。
年間を通じて雪を頂くこの山をヒッタイト人は「ハルカソス」即ち「白の山」と呼び、神々を奉るヒッタイトの聖地に於いて殊に重要な位置を占めていた山の神々の中でも、一帯の最高峰であるエルジェスは特別な意味を担っていたと思われます。
発見されたヒッタイトの浮き彫りにも山の神々が刻まれており、その後も続いたエルジェスを山の神として崇拝する行為はローマ時代の皇帝とジュピター信仰と交わって浸透していきました。地方で鋳造された貨幣にも見られるエルジェスは、当時、アルジエウスと呼ばれていたといいます。
裾野から2,300m、海抜3,300mの高さにあり、アナトリアの山々の中でもその優美さで名高いです。エルジェス山と同時期に誕生したにも拘わらずより若々しく、カッパドキアを訪れる人々を深い懐に抱く様に出迎えてくれるこの山の頂は年間を通じて雪に覆われています。
トルコ最長のクズルウルマック川は、国の東から大きなうねりを描いて黒海に流れ出しています。長さは約1,182kmで何本もの支流を持ち、その色からクズル(赤い)ウルマック(川)と呼ばれる川は、カッパドキアの信じ難い景観を作り上げた“芸術家”の一人と言えます。
ヒッタイト人は「マラッサンティア」と呼び、ギリシア・ローマ時代になると「ハリス」川と変わったこの川は、ヒッタイト帝国の発祥地を流れつつ、歴史を通じて数々の民族の栄枯盛衰をみつめてきたのです。
中央アナトリアに於ける最古の新石器時代の集落跡チャタルホユックで発見された壁画を語りながら、カッパドキアの長い歴史を紐解いていきましょう。
世界最古の風景画と言われるハサン山を描いたこの壁画は、紀元前6200年もの昔にアナトリアの人達が家々の壁をこんなにも美しい絵を用いて飾りたてていた事実を表す貴重な作品です。手前にチャタルホユックの家並み、後方に火山から昇り立つ噴煙、溶岩を描いたフレスコ画で、現在はアンカラのアナトリア文明博物館に保管されています。
また、地方で屈指の火山であるハサン山の、その当時、活火山として活発な活動をしていた様子をチャタルホユックのある画家がこの様な方法でそこに永遠にとどめようとした意味でも重要です。
紀元前5000~4000年の間、カッパドキアには小さな、しかし独立した君侯国がいくつも存在していました。この頃からアナトリアの人々は北、東、南の隣国と交易を始め、時としてこの取引が滞り、あるいは悪化し、紀元前2300年には団結したアナトリアの17の王達(カッパドキア―カニシ王ズィハ二も含む)が、アッシリア王ナラムスィンに対して戦いを挑んだ事が知られています。この事実はアナトリアの歴史上はじめて組織された連合体制として重要です。
トルコ旅行(ツアー・観光)ブログ:世界最古のまち、チャタルホユック。 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!
紀元前2000年初期、黄金期を迎えつつあったアナトリアには急激な勢いの人口流入が始まりました。地方の富みに注目した“商いの天才”アッシリア人はアナトリア各地にカルンと呼ばれる貿易センターを設け、中でもカニシの町に設定されたキュルテペ・カルンは重要な役割を担っていました。一定の交易路を利用した彼等は、アナトリアに香料、錫、布、消耗品の数々を持ち込み、代わりに金銀銅を持ち帰りました。
アナトリア~アッシリア間の商取引は約150年間続きましたが、各地の小王国間の戦の影響を受けて紀元前1850~1800年頃には途絶えました。一帯は19世紀初期より専門家達の興味の的となり、1925年にカッパドキアはキュルテペでアッシリアの交易都市跡が発掘されると一層の注目を集めました。その際の出土品《カッパドキアの粘土板》は、アナトリアの歴史を解明するのに重要な役割を担う最古の記録として大変に貴重です。
紀元前2000年の始まりと共にアナトリアにはヒッタイトと呼ばれる民族が定住し始め、既に高度な文明を築いていた先住のハッチ族と混住して王国を建設しました。彼等がどこから、どの経路でやって来たのかは未だ明確になっていませんが、コーカサス説が有力視されています。
同期のものと思われる粘土板には多くの国王の名が刻まれているものの、並み居る強豪を倒しキュルテペに都を置いたアニッタは特筆に値する王でした。カッパドキアに興り、以後の月日の中でアナトリア最大の帝国を形成したヒッタイト人はアレッポとバビロニアを征服し、かの有名なハムラビ王朝をも歴史の表舞台から引きずり下ろしたのです。
この進攻はヒッタイト人とメソポタミア、シリア人との関係を緊密にもしました。急速に拡大する帝国は、特に紀元前15、14世紀に強い権力を手中にし、シリア、パレスチナ、エジプト、ヒッタイト間の激しい攻防戦で知られる紀元前1286年のカデシの戦いでは、ヒッタイト王ハットゥシリス三世がエジプトのファラオ、ラムセスニ世とカデシ平和条約に調印し戦いも終結を迎えたのです。
紀元前12世紀、ヨーロッパ大陸から“海の民”と呼ばれる民族がこの地に襲撃をかけてきました。これにはさすがの大帝国も太刀打ちできずに衰退の一途を辿り、以降、中央アナトリアを取り巻いた暗黒の時代は“海の民”の一派とされるフリギアがここに王国を建設するまで続いたのです。
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彼等の政治は寛容かつ柔軟で、続治下の民と良い関係を築こうとしたと言えます。ペルシャ経済を支えたのは、エフェスとサルデスに起点し、マザカ(カイセリ)を経由してメソポタミアからシリアの都スサヘ至る有名な "王の道" でした。
サトラップ達は税として金、羊、ラバ、そして知る人ぞ知るカッパドキア産の馬をペルシャに贈ったと言います。火を奉るペルシャ人は火山地帯のこの地を愛し、自らの信仰を全うする為に最適な土地と認めていたのです。
カッパドキアとは“美しい馬の国”を意味する“カトゥパトゥクヤ”に由来しているのです。カッパドキアの馬史書や資料を紐解いてもカッパドキア産の名馬と畜産については頻繁に触れられています。貢ぎ物として馬を供する習慣はカッパドキアに端を発したと思われ、古い資料にはアッシリア王アッシュール・バニパルに、ダレイオスに、クセルクセスに土地の名馬を贈呈したとあります。
カッパドキアに近い関係にある人物と言えば、あのゴルディオンの結び目を一刀両断にしてからここへやって来たアレキサンダー大王でしょう。大王の訪問以降、一帯はマケドニアの支配下に入り、王の死後にはアリアラテス朝に統治されて、カイセリは独立したカッパドキア王国の都としてユーセビアの名で呼ばれ始めました。
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アナトリア全土に大小の勢力争いが広がる中、この独立王国の国民達は他の国の人々と婚姻関係を結んで融合していきました。こうして出来上がった政治、家族等の関係は、その後、ポントス、ビティニア、ローマ帝国の間に権力争いを引き起こす要因ともなったのです。
アリアラテス一族の治世はポントス王ミトリダテスが紀元前90年に王子をカッパドキア王と宣言するまで保持され、紀元前66年になると地方は再びローマ人の手に渡りました。この様な飽くなき攻防はカッパドキアがローマの属州となった西暦17年まで続いたのです。
3世紀の初期になるとエフェス、イズミル、カッパドキア間での商取引が拡大し、これらの都市の名を掲げた貨幣が鋳造され始めました。東西を結ぶこの交易路上に位置する都市間で、一種の経済共同体が形成されたと言うことができるでしょう。
4世紀、カッパドキアでは三人の高名な聖者による宗教活動が展開されました。聖バシリウス、ニサのグレゴリウス、そしてナズィアンススのグレゴリウスの思想は地方の修道院生活の規則を作り上げる基礎となりましたが、カイセリの裕福な名家出身のバシリウスは、これにあたり最初はパレスチナ、エジプト等の僧院を訪ね、ここでの生活様式を研究しました。これらの僧院で高潔な魂の誠に達する為の行として認められたのです。
《忍耐》と《隠遁》の生活に同意しかねた彼は、新しい規律を敷いたのです。過度にストイックな忍耐生活を防ごうと、修道僧達を小集団に分けて共同生活をさせ、上からの命令形態を敷くと共に、俗世からきれいさっぱり隔離された隠遁生活をする僧よりも、病人や貧しい人々を救済し、彼等の日々の暮らしに援助の手を差し伸べる僧の育成に心を砕きました。
この教訓はカイセリ近郊にバシリウスが建設したとしてバシリアドの名で呼ばれた町で実践に移され、修道僧の精神的バランスを崩すのは何よりも怠慢であり、奉仕は最も貴い修養であると主張しました。
後にその教えを継承して何干もの修道院を建設した修道僧の日々は、ギリシアはアトス山やメテオラ修道院の様に人々から隔離された完全な隠遁生活の代わりに、人の日常生活の中で彼等に奉仕しながら暮らしたものである事がわかります。
地方で宗教画を施した教会が建設される様になったのは、6~7世紀のことです。特に7世紀以降、カッパドキアはまずペルシャ、続いてアラブの攻撃の的となり、一帯で最も重要な町カイセリはこれに屈して何度か征服されました。
このように常に敵の脅威にさらされた土地に暮らしていた人々とビザンチン国家の中央は、起こり得る攻撃に対して何らかの対策を講じる必要に迫られました。南部から地方に続く路に沿って無数の要塞が設けられる一方、近づく敵の襲来をいち早く同胞、及び(現)イスタンブールに知らしめる為“光りでの伝達方法”が工夫されたのです。
光りを信号化したこの方法で、南部から迫りつつある危険は一時間以内でイスタンブールヘ知らせる事ができたと言います。ビザンチン軍はそれぞれに独立して行動し、戦い、作戦をたてることができる部隊に分割されており、彼等の攻撃と防御の常日頃からの備えに加えて、一般の人々は危機に際して非難する為の、そしてそれが去るまで暮らしを営む為の地下都市を建設しました。
726~843年の間、ビザンチン帝国には絵画を破壊する動きが蔓延し、偶像破壊時代と呼ばれるこの時期に、人物像を中心に多くの作品が被害を受けました。
964~965年、カッパドキアは高名な皇帝ニケフォロス・フォカス一家を迎えました。カッパドキアに生まれビザンチンの最高司令官の一人となったフォカスは、特にアラブの襲撃に対して活躍し、皇帝ロマノス2世の死後、皇后テオファノと結婚したことで皇位につきました。故郷への凱旋帰郷のおり、偉大な軍人であるにも拘わらず彼は修道院生活にも深い理解を示し、その記念にチャヴシン教会が建設されました。
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9世紀、アナトリア高原には遊牧トルコ民族の一派がやって来ました。 1071年に勃発し、セルジュークとビザンチンを敵対させたマラズギルトの戦いは、アナトリアの大地にトルコ民族がしっかりと足を踏み入れ、支配者となるきっかけとなったのです。
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これに続く100年の間、アナトリアはセルジューク、十字軍、ビザンチンの間で繰り広げられる激しい争奪戦の的となり、十字軍の襲撃に際して最初の都イズニックを失ったセルジュークは、中央アナトリアの有名な町コンヤに中心を移しました。
戦いに明け暮れ、短命ではあったものの、セルジューク帝国が短期間で手にした商的、軍事的、政治的な成功の数々は我々を驚愕させる質のものです。後に歴史の舞台に登場してくるオスマン帝国の為に、あたかも基礎を固めたセルジューク帝国の存在は、アナトリアの大地で初のトルコ系国家を形成した意味でも、非常に重要なのです。
1082年にカイセリを征服するとセルジュークは活発な建築活動を展開させ、カッパドキアも無数のセルジューク建築で飾られる結果となりました。 1135~1150に建造されたカイセリのウル・ジャーミ(モスク)、1156年のアクサライのアラエッディン・ジャーミ、1202年のカイセリ、チフテ神学校などはこの良い例です。
また、1206年、カイセリで設立された医学専門学校、ニーデのアラエッディン・ジャーミ、カイセリのサーヒビエ神学校(1268年)等も同期の重要建築物として列挙しておくべきでしょう。しかし、何と言ってもこの時代を代表する施設といえば、キャラバンサライ、即ち隊商宿です。
他のイスラム諸国と商取引を結ぼうと努め、地中海、黒海に出て造船所を設けたセルジューク・トルコ人は、取引の拡大を目指すと共に、快適な旅を提供し、旅人を保護することを目的に、今や全人類の遺産とも言うべきこの見事な設備を設けたのです。主要交易路上に位置するカッパドキア、殊にコンヤ~カイセリ間の街道上に造られた隊商宿の数は20にも及びます。
商業を重視した彼等は、スルタン・クルチ・アルスランニ世以来、旅人に床と食料、健康管理を供する設備を建築し始めました。内部のモスク、ハマム(浴場)、保健所、厩などを見ても、単にこれらが宿泊の為だけに使用されていなかった事は一目瞭然です。約30~40km間隔で置かれた宿は、同時に高い壁と塔をもつ防衛の要でもあったのです。
合計2.5k㎡の面積を有し、未だ全貌が解明されていませんが、およそ地下7~8階の規模であろうと想定されています。デリンクユ地下都市と比較して構造上の相違点を指摘するとすれば、例えば、各階をつなぐ通路はカイマクルの方が狭く、天井も低いうえに傾斜も急です。現在は地下4階まで整備されており、居間が通路の周囲に集まっているのが特徴と言えます。
迷路の様な都市の1階には馬屋がありますが、規模は非常に小さいです。まだ整備されていない他の階に更に広い馬屋があるのでしょう。直ぐ左の通路を通って地下2階の小さな教会に入ることができますが、壁にフレスコ画が皆無なことから年代を想定するのは難しいです。同じ階には墓も置かれていて、修道僧達が使用していた階と思われています。
地下都市で最も重要な部門は地下3階に集中しています。食料倉庫、ワイン醸造所、台所などに注目してみましょう。地下倉庫の大きさ、集会所の広さ、多くの居間からして、いかに沢山の人達が一時的にここで生活することができたか想像できます。
かつてメレンギュビュの名で呼ばれたデリンクユは、ネヴシェヒル~ニーデ街道上、ネヴシェヒルの南29kmに位置しています。地方の人々は農業を生活の糧としていますが、同時にこの地下都市のお陰で観光収入も軽視できないものがあります。
周囲にある墓や出土品からして、7世紀以降ここに集落が形成されたと言え、これはここから9kmのカイマクルでの集落形成より少し古い時期にあたると考えられています。
カッパドキア一帯を覆う火山灰を削り取って造ったこの地下都市の規模は18~20階、深さ40m程度と想定されていますが、現在はこのうちの8階までが整備され公開されています。地下1階の入り口すぐ横には、家畜用の飼料を保存していたと思われる窪みが残る馬屋があります。つづいて、葡萄をしぼってワインをつくっていた場所、宗教の集いが催された丸天井のある部屋が目につきます。
人々が共同で暮らした迷路に似たこの都市ではプライバシーの侵害などはまったく問題にもならず、各々に入り組んだ部屋で使った火で黒く煤けた壁は、訪れる者を当時の生活にタイムスリップさせてくれます。
炊事場では食材や調理器具を置いた壁の窪みが見られ、厨房施設の直ぐ横には葡萄を絞るワイン醸造所がおかれていますが、絞った果汁が流れるように岩に施された溝を見落とさないようにしましょう。地下3階のほとんどの部屋は食料倉庫として使用されていたもので、この階には水辺に出る為のトンネルもあります。
地下4階も生活の為のスペースと食料倉庫で占められています。3階に始まる長いギャラリーはそのまま地下5階にまで続き、これを途中で遮断する為には大きな円形の石が用いられていました。
地下5、6階の間のトンネルの両側には居間が設けられ、通路の壁に削られた大小の窪みには照明用のオイルランプが置かれていたと思われます。
地下7階には三本の柱で支えられるデリンクユ地下都市で最も広い空間があるほか、十文字形の教会、井戸、狭い通路の行き当たりにある墓地なども興味深いです。地下8階では小さな部屋と通気口が目につきます。
貯水槽、食料倉庫を備え、約52ケ所に通気口をもつこの地下都市には、敵の襲撃などの危険時に約100,000人が避難したと言われています。
十字形の大きな教会、集会所なども発見されていますが、年代解明の糸口となりそうなものは何ら残されていません。
カッパドキアの地下都市とは?謎に包まれた歴史と観光のポイントを解説
古代にマチャンと呼ばれた現在のギョレメは7世紀に遡る歴史をもつ地方一帯の最古の集落で、「聖ヒエロンの勤め」と題される資料に「ギョレメ」の名で登場しています。他の集落の様に目につきにくい場所にあるとは言い難く、特にアラブの襲撃では村人の多くを失いました。
初期に於いては村を流れる川の近くに集落があったと思われ、支柱のある二つの墓もこの事実を裏付けると言えます。ギョレメ村と近郊には五つの教会があり、これらのうち最大のものは6世紀、もしくは7世紀に建設されたと思われるドゥルムシカディル教会で、大きな柱と説教壇を備えて保存状態も非常に良いです。
それ以外、アラブの襲撃後にあたる10~11世紀の造りと考えられる教会の内で最も新しいものは11世紀、マチャンに司祭館が置かれていた時期に建設されたユスフ・コチ教会であり、最も離れた場所にあるのは、約30分から40分程度の距離にある11世紀のカラブルット教会です。
自然の作りあげた岩層と、人間が手を加えた造りの素晴らしいハーモニーと言えるギョレメ村は一帯で最も注目されている地区です。今日もなお岩を掘って造った家に住む人々がいて、彼等は岩を住まいとすると同時に、これを倉庫としても利用し、過去からの生活様式を何ら変える事なく岩と共に暮らしています。
ギョレメ村では岩の家の他、岩を刳り貫いた洞窟レストランやホテルも観光客に人気が高いです。村を包囲して直立する妖精煙突と共に、ギョレメの美しさは強いインパクトをもって人々の心に焼き付くに違いありません。
10世紀に建築された教会の壁は崩壊し、フレスコ画も何百年もの時の中で風化して傷んではいますが、それでもかつての美しさを彷彿とさせています。中央のドームには虹とその上を昇天するキリストが描かれています。
西のアーチには、吉報、訪問、献上が、南のアーチには誕生、東方の三人の博士、エジプトヘの逃避などをテーマにフレスコ画が描かれていて、その他にも黄泉の国へ、傑、洗礼、キリストの変容なども表現されています。
また、皇帝コンスタンチヌスと母御ヘレンの姿も図柄として用いられています。
アクテペとギョレメ渓谷の間に位置するカッパドキア一美しい谷と言っても過言ではありませんが、徒歩でのみ入り込め為に訪れる者は多くありません。有名なクルチラル教会をはじめ、多くの岩窟教会があり、特に写真愛好家にはたまらない題材の多いスポットです。
"アイナル・キリセ"(鏡の教会)の名で親しまれるクルチラル教会は、十文字の基礎の上に建ち、四本の柱をもつ10世紀の建物として注目に値します。中央のドームにはキリストの昇天が表現される他、聖書を記した四人の聖者も描かれています。
カッパドキア出身の宗教家や聖人が描かれているのも興味深く、同世紀に建築された教会の中では、その規模とフレスコの質に於いて、大変重要な建造物に挙げられています。
今日、屋外博物館として保護下にあるギョレメの岩窟教会は、食堂、居間等の設備を有して、9世紀以来、修道院生活の中心を成してきました。土を耕して日々を営む村と言うよりも、完全な宗教活動の要と言うのが相応しいです。
数多くの教会の中で、6、7世紀に遡るものはたった一軒だけで、ギョレメ地方が本格的な発展を遂げた9世紀後半以降は概して小規模の教会が建設されており、内、10世紀のクルチラル教会とトカル教会はビザンチン芸術の美しい例として特筆に値します。
ビザンチン芸術の“黄金期”は、その装飾と建築様式をしてストゥンル・キリセ(支柱の教会)で顕著に表れています。装飾に用いられた宗教的なシーンにしても建築様式にしても、他の教会とは完全に異質なもので、11世紀の貴族芸術を代表するものと言えます。
同一のアトリエに属する画家達によって作成された作品が多く見られ、そのテーマの選択、画材、そして花、草木のモチーフが頻繁に用いられているなど、多くの共通点が指摘できます。繊細で洗練された人物画に注目すると、あたかも濡れて体に密着したかのような衣を纏っており、体のラインが強調されていると同時に、その表情も穏やかで和んだ雰囲気に満ちています。
ドーム、アーチ、そして壁に描かれた宗教上のシーンの分配も大変に調和がとられていて、巧い配置がなされています。
数多くの教会があり、本来は見学するのに数日を要するギョレメ、クルチラル、エル・ナザール渓谷で、修道院生活かいつ終焉を迎えたか予想するのは困難と言うものの、11世紀以降建設された教会の数が少ない事を前提に思いをめぐらせてみることは可能です。
これらの教会の幾つかに岩を彫って作った卓、居間の設備、倉庫、寝室などがある事実は、つまりここで修道院生活が営まれていたとの考えを裏付けるものと言って良いかもしれません。
ギョレメの教会のフレスコ画の中で、18、19世紀にその壁画に記されていることが確認された幾つかの名は、訪れたキリスト教徒達が自らの名を刻印したもので、ギョレメがある種の聖地として巡礼の対象になっていたことを物語っています。
まず、金属の階段を使って良く保存された食堂へ入ってみると、岩を削って作った食卓が目に入ります。この大きな岩の塊の中には四つの教会の跡がありますが、食堂の側、三つの後陣のある教会には、キリストの誕生に関わるシーンが描かれています。
南面の壁を飾るのは、カッパドキアの高名な聖グレゴリウスの生涯と、その殉死の場面です。二番目の教会は修道院の名にもなっているクズラル教会で、十文字の基礎に建って、中央のドームは四本の柱によって支えられています。立ち姿のキリストを描いたものがここの唯一のフレスコ画です。
エルマル・キリセ、即ち“林檎の教会”には四本の柱と三つの後陣があり、本来は南手に入り口が設けられていましたが、現在は使用されていません。
アーチ、ドーム、壁に巧みに配置されるフレスコ画は、まず、中央後陣に聖母、キリスト、洗礼者ヨハネの聖家族が、四本の細い支柱に乗るドームの中央には、福音書を著した四人の聖人を描いた円に囲まれたキリストが表現されています。後陣側の小ドームのフレスコ画は大天使が、南手のドームのものはキリストの昇天がテーマとなっています。
そのフレスコ画で、いつの時も論争の的となってきた教会です。規模は小さいですが、中央ドームと二本の柱をもち、設計、横に設けられた入り口、三つの後陣をしてチャルクル教会と多くの類似点があります。
主要後陣には王座に座るキリストが、入り口の対面、即ち北手壁面にはカッパドキアの高名な二人の聖人ジョージとテオドールが龍(大蛇)を退治している場面が表現されています。
西手壁面には教会に名を掲げる聖バルバラが描かれていますが、ここの建築者は、教会の資料に名が記されているファリボンとレオンであるというのが通説です。
教会のあちらこちらには、幾つもの十字架と意味不明な図柄が見られます。主にオークルレッド色を用いて描かれたこれらの柄(十字、三角形、柱、メダリオン、動物)は、凝灰岩を削ってここを造った人々が魔よけの意味で描いたと推測されています。
丸天井に覆われる教会(別名:蛇の教会)の南手には墓所が置かれています。
フレスコ画には全体を通じて一貫するストーリー性がなく、教会の名が由来するカッパドキアの高名な聖ジョージと聖テオドールが退治した龍(大蛇)の図の直ぐ続きには一帯の教会装飾画には頻繁に登場する、皇帝コンスタンチヌスと母御ヘレンが描かれていたりなどしています。
対面の壁にはオノフリウス、聖トマス、聖バシリウスのフレスコ画が見られます。
言い伝えによれば、ここに登場するオノフリウスはエジプトの砂漠で60才まで生きた宗教家だったが、フレスコ画上の強調された胸部のせいで、本来 “彼”は美貌溢れる女性であったが、信仰の道に自らを捧げる為に男性に変貌したのである、と信じられています。
カッパドキア地方の最も素晴らしい教会で、異なる時代に造られた二つの建物から構成されています。その一つが、10世紀初頭のエスキ(古い)トカル教会で、まるで映画のストーリーの様な続きものの壁画をして、アルカイック教会の範暗に入れられます。
一帯にある他の教会の壁画を作成したアトリエの作品と思われ、ビザンチン以前、そしてビザンチン及びオリエントをルーツとする特徴が顕著です。シンボル化された人物画の手、腕、体の動きにはそれぞれ意味があります。
エスキ・トカル教会は増築されたイェニ(新)トカル教会とともに十字形の大きな施設となりました。アーチ、壁などに分散するフレスコ画と建物の調和は素晴らしく、メソポタミアからアナトリアに伝わった建築様式を用いて、五つの丸天井に覆われた身廊と小部屋の長い壁には後陣としての窪みが設けられています。
950年~960年に建設されたこの教会は、ビザンチンに於ける“マケドニア・ルネッサンス”黄金期の代表作と言えます。北後陣に見られる碑文から、フレスコ画はニコフォロス、建造者はコンスタンチヌスとレオンと名乗る人物であることがわかります。フレスコ画の様式と用いられた色彩は、エスキ・トカルと明確な違いがあり、図柄もより洗練されて美しいです。
特に、地色として使用されている紺色の美しさは他に比類のないものです。その場面もエスキ・トカルを思わせはするが、比較すると更に詳細にわたり、エレガントでさえあります。
ギョレメ屋外博物館にみられる支柱を用いた教会のうち最も有名なカランルク教会は、総合修道施設とも言え、小さな内庭を囲んで様々な設備が設けられています。
同じ建築様式に属する教会としては古い順に、カランルク教会、エルマル、チャクル教会で、どれも同一の人物によって建設された、と言うのが多くの学者の一致した見解です。
何百年もの間、ほとんど光りが差し込まなかったおかげで、内部のフレスコ画の状態は大変良好です。四本の支柱、六つのドーム、入口にはアーチのある正方形の外廊と、埋葬用の空間が設けられています。外廊にはキリストの昇天、12使徒の祈りの場面が表現され、対の虹の上に座ったキリストの、四人の天使に導かれていく様子が美しいです。
ギョレメ屋外博物館のシルエットに弧を描く大きな岩の塊の中で、最も高い所に位置しています。金属製のステップで内部に入ると、一部破損を受けているものの概して良い状態にある宗教画が人々の視線を奪います。教会のすぐ下にある食堂は、ここが他の重要な教会と同様に総合修道施設に含まれるひとつの造りであったことを物語っています。
岩で造られた食堂の後ろにある “最後の晩餐” が美しいです。中央のドームは東手の二本の柱と西手の壁で支えられています。チャルクル、即ち “革の浅靴” と言う一風変わった名は、一見足跡に見える床の窪みに由来します。特に西手の壁面、教会の建造者達をはじめとした宗教画や頭部にターバンを巻いた人物には注目してみたいです。
ヴェロニカのフレスコ画の他、ドームに描かれた大きな十字架は過度に装飾が施されたもので、これは初期の特徴として最大のポイントと言えます。
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脆くなった層の落岩で無人化した旧チャヴシン村は、カッパドキアの集落の中でも興味深い場所です。家々の壁を飾る素晴らしい壁画を見れば、ここがその昔いかに美しい村であったかを想像するのも難くありません。
5世紀に建造されたと推測され、非常に損傷が激しいものの、ヨハネの断頭、サロメの舞などの場面は未だに鮮やかです。ギョレメで生まれた皇帝ディオクレティアヌスの続治下でマラティアで殺害された聖ヒエロンの手が保存される教会としても知名度が高いです。
ビザンチン時代に同聖人に属する貴い品々を預かったこの教会の装飾を見ても、ここがいかに重要な位置を占めていたかがうかがえます。
“マケドニア・ルネッサンス”期の一例で、丸天井があり、皇帝の来訪と名誉を祝してフォカスとその家族が北側後陣に描かれている。
クズルチュクルと呼ばれる二つ目の谷では、保存状態の良好な聖アン教会、アラブの襲撃の際に避難所として利用されたハチル教会などが見られる。
カッパドキアの名を世界中に轟かせた “妖精の煙突”が最も美しいのは、ゼルヴェ近郊はパシャバーの谷でしょう。ここで見られる“妖精遠の住家”は、一つの岩から二本、三本とのびる複数の首に“帽子”を被った格好をしていて、辺りに広がる葡萄やヒマワリ畑の中にこれらが屹立する様子は全くの別世界を思わせます。
妖精煙突はビザンチン時代に隠遁生活を選択した修道僧達の隠れ家でもあり、当時の有名な聖人スィメオンの生涯を表現した壁画も見られます。
岩を削って造った家屋の最も良い例を見ることができます。人間が自然と自然の提示する条件と協調しながら暮らした場所と言えます。パシャバーから続く道に従って出た赤土に覆われた一帯が、ゼルヴェ屋外博物館であり、水をはじめとした自然の風化作用や、岩の崩れから出来上がった三つの谷と、屹立する岩層、何千もの岩の家々、岩窟教会、通路などをして、訪れる人々に忘れ得ぬ一時を贈ってくれます。
冬は暖かく、夏は涼しい岩の家を造り上げた地元の人々は、長い年月をかけて生活の場、例えば教会、修道院、鳩の巣穴(肥料になるフンを集める為)、倉庫などを彫ってきたのです。
現在まで残った教会は絵画が否定された偶像破壊期とその以前に建設されたものであり、多くは十字架、魚、葡萄、鹿などのシンボル化されたものが壁画として用いられています。
宗教的な場面のみでその壁を飾り立てたものが皆無である事をみると、ゼルヴェの人々が8世紀に浸透した偶像破壊期以前に於いても肖像画に対して何らかの反発を感じていた事が伺えます。
最も広く、雄大な第一の谷には、崩壊した岩のせいで直接入り込むことは不可能であり、少し遠回りになるが、第二の谷に始まる道をたどらなければなりません。
天井の大きな十字架の浮き彫りや、鹿と十字架のフレスコ画で知られるゲイクリ(鹿の)教会もこの沿道にあります。ゼルヴェの第一の谷にある石造りのモスク、岩の中に石やセメントを用いて色々な設備を有するさまざまな造りは、ここで近年まで地元の人々が生活を営んでいたことを語る、声なき、しかし重要な証人と言えるでしょう。
ゼルヴェ谷の特徴として注目したいのは、特に第一の谷に見られる鳩の巣穴です。何百年もの間、カッパドキアの人々がその肉を食用としてきた、あるいは、フンを肥料として用いた鳩の為に作られたもので、鳩の出入り用に削って開けられた穴の周囲を彩る図柄や人物画は、学者達に新しい研究課題を提供しています。
あまり人の入り込まない第三の谷には、偶像禁止期以前に造られたウズムル教会(葡萄の教会)と、偶像禁止期の真只中で建設されたハチル教会(十字架の教会)があります。
古代名ヴェネッサ。近郊のトパクル・ホユック(塚)で実施された発掘調査で出土した旧、中期ヒッタイト時代に属する品々や、その形跡が現在もうかがえるゼウス信仰の跡、ヘレニズム時代の墓などは、この町が様々な時代に重要な役割を担ってきた事を物語っています。
ビザンチン時代の後、長い間にわたってセルジューク・トルコの支配下におかれた町は、1466年にオスマンの領土に組み込まれました。セルジューク時代のアラエッティン・モスクと、16世紀はオスマン帝国時代のイェルアルト・モスクの二つの回教寺院に注目してみましょう。トルコ最長の川クズルウルマクによって二分されるアヴァノスは、今日、窯業と手織り絨毯の町として、全国的に名を馳せています。
ヒッタイト時代から続く窯業は、町の経済を担うもので、クズルウルマク川の堤の土に砂を混ぜたものが使用されています。外気を遮断する為に中に入れた水などを冷たく保つことができ、昔は日用品としてその需要も高かったのですが、1960年代からの冷蔵庫の普及や水道が引かれたことで、かつての重要性はすっかり影を潜めてしまいました。今日では伝統工芸品として主に観光客への土産用に作成されています。
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それぞれに美しく独特なカッパドキアの岩層の中で最も高い点である“ウチヒサルの要塞”は、一帯の雄大な自然が一望できるお勧めのポイントです。三角形の大きな二つの岩は人が手を加えていない全くの自然の形ですが、その外観をして土地の人々は“要塞”と呼んでいます。
地元の人々は避難所として利用する為に大きな岩の塊を選び、この内部を彫り削って多くの要塞を造ったが、それらの中で最も良い例を、カッパドキア地方でも“岩の町”と呼ぶに相応しいここウチヒサルやオルタヒサルに見ることが出来ます。
ビザンチン、トルコ時代にも住まいとして利用された岩の塊には、現在でも人間の暮らしの跡をそこここに見つける事が可能です。ウチヒサルの要塞とその足元にはここ最近まで人々が住んでいましたが、岩の風化で脆くなって危険なことから立ち退いています。
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要塞を思わせる大きな岩の塊の周囲にできた町です。かつて、居住用、軍事用に使用されたこの岩には、現在、階段を使って頂きまで上る事ができ、一帯の美しい景色を満喫することが可能です。最も美しい景色を望む為には、川へ向かって歩き、石橋を渡って対岸の丘に登るのが良いですが、中央の大きな岩とその周囲に集中する石造りの家々は、遠くからでも一目瞭然です。
古代名をアッスィアナとし、歴史を通じていつの時代も重要な居住区であり続けてきました。セルジューク時代に於いてはバシヒサルと呼ばれ、ネヴシェヒルから18kmの場所に位置しています。町の中心に屹立する巨大な要塞はトルコ期に造られ、重要な居住区としても利用されてきました。
ウルギュプはビザンチン、オスマン時代の岩を削って造った家の他に、美しく装飾を施した石造りの家でも有名で、一帯で最も素晴らしい家がここで見られると言っても過言ではありません。
トルコ期の建造物として、カドゥの要塞、カラマンオールラル・モスク、アルトゥンカプ霊廟、タフスィナー図書館を挙げる事が出来ます。
町の中心には多くの宿泊施設があり、一帯の観光業の担い手として重要な役割を果たしていることがうかがえます。
ただの岩の塊を、外観からもいかにも“教会”のように削られた岩層に、周囲の自然の美しさが加われば、人気のある観光スポットとして人々の注目を集めないはずがありません。
初期キリスト教時代から人々が住み着いたこの谷には9世紀~13世紀の間に教会が造られましたが、そのうちのいくつかの建築年代が明確にされたことは、カッパドキア一帯に存在する他の教会の歴史を探る手懸かりとして大いに役立ちました。
谷の教会は各々に異なるフレスコ画と建築様式を以て、他の地区の教会と明確に区別することができます。特に岩を外側から削り、かつての石造りの教会に似せた“クッベリ・キリセレ”(ドームのある教会群)は、カッパドキア全域を見渡してもこの谷だけのものです。
後陣には聖母とヨハネに囲まれたキリスト、使徒にパンとワインを分けるキリストが描かれていて、丸天井のア-チには詳細にわたる“最後の審判”が見られます。
深く削られた後陣の、使徒にパンとワインを分け与えるキリストの図に注目してみてください。又、キリストの誕生、献呈、磔、黄泉の国へ、などの場面も表現されています。
フレスコ画はかなり損傷が激しいですが、聖ペテロと聖パウロが表現されており、共に描かれる皇帝ネロと拷問される二人の聖人、そしてその殺害の場面はカッパドキア一帯でも稀に見られる珍しいテーマと言えます。
壁画にはエフェスの眠れる七人の聖者、キリストの誕生、黄泉の国へ、水をワインに、等も表現されています。
ハサン山の裾野、ウフララ渓谷の自然美は御伽噺の世界そのものです。この有名な火山と側にそびえるギョッル山からの溶岩や火山灰は辺り一面を覆い尽くし、厚さ100mにもおよんだ層をメレンディス川が少しずつ削り取る様にして流れ、やがて長さ15km、深さ150mの規模に及ぶ谷が口をあけました。
セリメ村とヤプラクヒサル村の妖精煙突がアクセントとなって美しさに更なる美を添えるここウフララ渓谷へと世界中の人々が足を向かわせるのは、単にその自然美のみではなく、同時にここが歴史的遺産の宝庫だからでもあるのです。
ウフララ渓谷はウフララ村に始まりセリメ村まで続き、直線距離としてほんの8km程ですが、谷の切り口が約30ケ所ほどもあって湾曲を描く為、渓谷の長さは15kmと表現するのが妥当でしょう。
新石器時代と鉄器時代に属する出土品で注目されるアクサライ近郊のアシクルホユック(ホユック=塚)、アナトリア最大の塚にあげられる同じくアクサライのアジェムホユック。
地方の歴史については実施された発掘調査で見つかったこれら二箇所の塚が多くを物語っており、アジェムホユックの解明は、そのままハサン山一帯についての深い、しかも重要な史実の解明となると言えます。
主要交易路、そして軍事路上に位置するアクサライ地方は7世紀以来激しい襲撃の的となり、多くは南方からの攻撃に対して地元の人々はもとより、中央のビザンチン帝国は非常に慎重な対策を講じていたことがわかります。
キリスト教時代の初期以来、ウフララ及びベリスルマ渓谷には権威ある修道院が数多くおかれ、難路の為にあたかも外部から遮断されたかの様なこの谷の地理的条件のおかげで、古代より一帯はさほど被害を受ける事がありませんでした。アラブがこの地に襲撃をかけた時でさえも、この谷は人々の注意を集めることがなかったと言え、ここに建つ7、8世紀の教会などはその事実を裏付ける良い一例です。
セルジューク・トルコがアナトリアに侵入して帝国を建設して以来、セルジュークの支配下におかれた一帯で、教会の一つにセルジュークのスルタンとビザンチンの皇帝の名が一緒に記されているのは、セルジュークがキリスト教徒に示した寛容さにほかなりません。
エジプト、パレスチナ、シリアをはじめ、アナトリアの様々な小国からやって来た牧師や行商人の避難所でもあったウフララとベリスルマ谷の建造物は、建築様式にしてもフレスコ画等の宗教画にしても、他の谷のものには見られない独特のものがあります。
人目につきにくく目立たない、しかも交通の不便な谷に注目した学者は多くはありません。フランスのニコル&ミシェル・ティエリーが1950年にカッパドキアで始めた調査は、1958年にウフララ谷周辺で集中的に継続され、その末に出版された文献は次第に人々の視線を当地に引き付ける結果となりました。
教会の名は、一部は良い状態に保たれている西側の聖ダニエルと獅子の絵柄に由来しています。
シリアやエジプトの影響が顕著な宗教画は、その色といい、選択されたテーマといい、他の教会のものとは歴然とした違いがあります。最も重要なフレスコ画は教会の入り口にあり、蛇に襲われる女性が描かれています。彼女の犯した罪が何であるかは側の文字にて説明されており、即ち不義(姦通)をおかし、子供に乳を与えず、人を中傷し、柔順でない女が蛇に罰せられている模様が表現されています。
天井には大きな十字架が描かれ、受胎告知、東方の三博士などのフレスコ画が描かれています。
1295年に建設された聖ジョージ教会にはセルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が並んで印されており、セルジュークの支配下にあったキリスト教徒達が自由に教会を建設できたことといい、如何に寛大な扱いをされていたかをしめすものと言えます。
特に有名な宗教家グレゴリウスに献呈され、今日ではモスクとして機能するかつての教会は注目に値します。十文字の基礎上に石のブロックを用いて造られた、ドームのある美しい教会です。
セルジューク、及びオスマン帝国時代、宗教の教えに忠実に沿って建物を造り続けたキリスト教徒達は、1924年、ローザンヌ条約に基づいて実施されたトルコ・ギリシア間の民族交換までこの地を住まいとしてきました。ギュゼルユルトゥ近郊には4kmにわたる“修道院の渓谷”があり、その教会や修道院の数からして、如何に大切な宗教活動の中心地であったかがうかがえます。
アクサライ~コンヤ街道上には1229年にセルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトによって造られた4,500㎡もの面積を有するアナトリアで最も壮大なトルコ芸術の一つスルタンハヌがあります。夏と冬用の宿から構成され、高い壁と見張り用の塔とて、あたかも要塞にも似た様相を呈しています。
これを建築したムハメッド・ビン・チャヴランの名が印される美しい内扉をくぐって隊商宿の内庭に出てみてください。左手に旅入用の宿、浴場、倉庫がおかれ、中央には高い東屋風の礼拝所も設けられています。次の扉を抜けると五本の小径にて分離された、このキャラバンサライの奥の間に出ます。
壁は破損し、記念門も時の流れと人々によって破壊されたにも拘わらず、当時の豪華さを偲ばせるものと言えます。特に記念門は名高いセルジュークの石細工が如何に高い技術を有していたかを証明するもので、二つの胴体に一つの顔をもつ獅子はスルタン・アルスランニ世を象徴すると考えられており、注目に値します。
この美しい記念扉の装飾には、人物、動物、植物のモチーフはあまり多く使用されておらず、むしろ幾何学的な図柄で飾られています。ここから入る内庭の中央にたつのが礼拝堂です。
スルタン・アフメット三世の治世下で最初は相談役、次にパシャ(総督)となり、皇女ファトマ・スルタンと結婚すると宰相の地位を得ました。パシャの活性化政策をきっかけに拡大を始めた彼の故郷は、“新しい町”を意味するネヴシェヒルと改名されました。
時はチューリップ期、繊細な神経をもつ芸術愛好家イブラヒム・パシャは、自らの資金でモスク、神学校、ハン(商館)、図書館、ハマムを造らせる一方、近郊から新天地を求めてやって来た人々には税の控除を認めて人口を増大させたので町は大いに活気づきました。国有地を一般に払い下げ、郊外には桑畑を設けて、一帯への養蚕業導入にも力を注ぎました。
こうして交易の要所への一歩を踏み出したネヴシェヒルの人口は間もなく17,000人に達しました。彼の没した1730年、建設活動は一旦停滞したとは言うものの、町の重要性はオスマン帝国、トルコ共和国を通して何ら変わることなく、1954年には同名で呼称される県の県庁所在地に指定されています。
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セルジューク、オスマン帝国期の建造物で最も古いものは、イブラヒム・パシャが修復させた町を見渡すセルジューク時代の城塞で、二つの門と塔とで厳しい風情をみせています。
18世紀に建設されたイブラヒム・パシャ学問所はモスク、神学校、図書館、浴場などを包含する総合施設で、最も注目したい建物のひとつと言えます。この施設の中のクルシュンル・ジャーミの内庭入口部には当時の高名な詩人ネディムの詩文が残り、噴水のドームやモスクの内装などにはチューリップ期の特徴が顕著にあらわれています。
修道院、隊商宿、軍の施設、大きな居住施設、またはこれらの混在した地区とその使用目的には諸説ありますが、ただ彩色された教会が皆無なことを考慮すると、ここが修道院であった可能性は低くなります。
また、同じ理由、つまり壁画の無い事がら、ここの年代について見解を述べることも困難になってきます。
第二内庭には碑文の記された噴水とアスランルの泉(獅子の泉)があり、対面には現在、調理器具類や大鍋が展示されるかつての貧民救済の為の無銭食堂と、スルタン・マフムットニ世の命による礼拝堂が見られます。
書物によると、1367年に遡る中央の館は、この教えに入信の際、様々な儀式が執り行われた所である為に最も重要な場所とされ、階級を示す上衣など、教団に係わる品々が保存されています。
廟のおかれる第三の内庭には、ベクタシ教団上層部の人々に属する葛籠の他、ハジ・ベクタシ・ヴェリの棺もあります。典型的なセルジュークの廟の特徴を有するここの壁、及び天井には、植物の図柄、文字による装飾が美しく施されています。
エルジェス山の北側斜面、カラス川の灌漑でできた平地の端に位置するカイセリは、今日、織物、砂糖の精製、飛行機の保全などで生計を支える活気ある町です。
歴史の初期から人々が集落を形成し、考古学の専門家達によって発掘された遺跡のキュルテペとエーリキョイ・ホユックは有名です。初期青銅器時代、アッシリア交易植民市の時代、ヒッタイト期に重要な役割を担ったカイセリとその近郊は、後期ヒッタイト時代にタバル国の名で呼ばれていました。
アッシリア等に続き、550年以降はペルシアの支配下におかれてサトラップ制のもとでカッパドキア郡の中心都市として活躍しました。その当時の名を“マザカ”とし、アレキサンダー大王の来訪と共にマケドニアの手に渡りましたが、大王の死後はペルシアに祖をもつアリアラテス族の支配下にしかれ、独立国であるカッパドキア王国の中心としてユーセベイアの名で知られる様になりました。
アリアラテスの勢力はポントス王ミトリダテスがB.C.90年に自らの子息をカッパドキア王として宣言するまで続きました。B.C.66年、カッパドキアは再びローマ人の手中に落ち、長い間ビザンチンの支配下におかれました。アラブの襲撃に際して何度か崩壊の危機に瀕しましたが、1071年のマラズギルトの戦いの後は、セルジューク帝国の要地としてその地位を一時、確立させています。
1097年、第一回十字軍により征服され、以降、ダニシメンオール、セルジューク、そして1243年に勃発したキョシェダーの戦い以降モンゴルに支配され、多くの戦いをくぐり抜けたアナトリアの中心に位置するここカイセリが、最後にオスマンの領土に包含されたのは1515年のことでした。
地理学者ストラボンによると、古代カエサレアの町には城壁がありませんでした。
最初の城壁は東からの脅威ペルシアの襲撃を仮定して建造されたと推測されます。
6世紀の資料によると、有名なビザンチン皇帝ユスチニアヌスの時代に造られ、長きにわたって町を守り続けたこの要塞には、セルジューク、カラマンオール族、オスマン時代に修復、増築の手が入れられました。内外の二重の造りをもち、トルコ軍事建築の最も見事な一例です。
庭にはカイセリの南で発見されたフラクティンの記念碑の模倣作品があるほか、ヒッタイト時代はギョッルダーの獅子も有名です。展示品として、アナトリアの母神像、ヒッタイトの土器、ヒッタイトの嵐の神を表す浮き彫りなどがあり、ギリシア、ローマ時代に属する作品も一見の価値があります。
町はセルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの時代に修復、再建され、中央アナトリアの要地の一つに成長しました。1333年、アラブの地理学者イヴン・バトゥーダが来訪し、「ニーデがカラマンオール族とモンゴル人の戦いにより、廃墟同然となった」と記しています。
その後、異なる民族の支配下に入り、1470年、征服王スルタン・メフメットの時代にオスマン帝国の領土となりました。
セルジューク、オスマンの歴史を反映する多くの記念碑や建造物の保存状態は良好と言えます。
フレスコ画がビザンチン以前の年代に属することや、テーマも宗教に無関係な狩りの場面などによる事を考えると、ここがかなり古い時代から使われていたと推定することが可能です。
修復作業によって、ここのフレスコ画が三人の画家の手でそれぞれ異なる時代に作成されたことが解明されました。11、12世紀のフレスコ画で飾られるこの総合施設には、一帯の最も大きな修道院の一つがあります。
カッパドキアでは多彩なアクティビティを楽しめますが、中でも人気が高いのが早朝の熱気球ツアー。地上から数千フィートの上空で約45分~1時間程度の空中散歩を楽しみつつ、朝日に照らされてオレンジ色に染まった奇岩群が並ぶカッパドキアの絶景を堪能できます。大空に浮かぶ色とりどりの気球をホテルのテラスから眺めるのもおすすめです。
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トルコの巨匠、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の映画『雪の轍』は、2014年の第67回カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドール大賞を受賞。この映画は、世界遺産カッパドキアを舞台にした作品で、カッパドキアの壮大な景色をバックに、繊細な人間ドラマが美しく描かれています。
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カッパドキアには、地質学上も世界に類を見ない不思議な景観が広がっています。周辺の観光エリアは非常に広く、見どころが多数あります。「妖精の煙突」や「キノコ岩」と呼ばれる多種多様な奇岩、ギョレメ国立公園、岩窟教会をはじめとする初期キリスト教の貴重な遺跡、カイマクル・デリンクユなどの地下都市、ウチヒサルの岩の要塞、ウフララ渓谷、陶器と絨毯の名産地アヴァノスなど……
目次
カッパドキアの場所・地図
カッパドキアは、トルコの首都アンカラから約250㎞離れて、アクサライ~ニーデ~ネヴシェヒル~カイセリ地方に挟まれて中央アナトリアに位置しています。
世界遺産登録名 | ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群(Göreme National Park and Rock Site of Cappadocia) |
場所 | トルコ・中央アナトリア地方のネヴシェヒル県 |
登録年 | 1985年 |
登録基準 | (i)(iii)(v)(vii) |
登録区分 | 複合遺産 |
面積 | 9,883.81ha |
ユネスコ公式ページ | https://whc.unesco.org/en/list/357/ |
アクセス | ネヴシェヒル空港から車で約40分 |
観光のベストシーズン | 4月~11月 |
カッパドキアは世界遺産の中でも貴重な複合遺産
カッパドキアは、文化遺産と自然遺産両方の条件を満たす、世界でも珍しい複合遺産です。まるで慎重な彫刻家のような繊細さで、何千、何百もの月日をかけて自然が造り上げた岩層。そしてこの火山灰に覆われた一帯を、必要に応じて彫り、削って暮らした村人達。自然と人間が一体となって創造した見事な調和の世界が、私たちの目の前に姿をあらわします。
歴史の初期以来、様々な民族が集落を形成してきたカッパドキアには数知れない遺跡や古代都市が存在するに違いなく、此れらが発掘され、一帯の歴史の解明に役立つ考古学的な調査活動が一日も早く実施される事が望まれています。
例えば、カイセリ近郊のキュルテペ、アクサライ近郊のアジェムホユックは、今日までに発掘された非常に興味深い都市遺跡のほんの数例と言えます。
ここでは世界遺産カッパドキアの全貌と歴史をどこよりも詳しく解説します。なお、主要な観光スポットや現地でのアクティビティ、ホテルなどについてお知りになりたい場合は、以下の記事をご参照下さい。
【トルコのプロが解説】カッパドキアのおすすめ観光スポット16選とツアーの選び方 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!
カッパドキア観光の案内ビデオ。 2分31秒
カッパドキアの発掘の歴史
カッパドキアは、アナトリア中央部の四方を山に囲まれた高原地帯です。今からおよそ1500万年前までこのあたりは広大な内海でした。カッパドキアの近郊にある塩湖(トゥズ湖/Tuz Gölü:1620平方km)はその名残です。この内海が干上がった頃、地中海沿岸のタウロス山脈に住む旧石器狩猟民たちが、内陸部、カッパドキア地方の大部分を占める現在のコンヤ平原の肥沃な土地に向かって、移動し始めたと言われています。
カッパドキア近郊のチャタル・ヒュユクの丘は、これまでに発見された中で最大の新石器時代の遺跡としてユニークなものです。発掘はまだほんの一部行われたにすぎませんが、その出土品によって先史時代の独特な文化の担い手としてのアナトリアの役割が明らかになってきました。これらの出土品は紀元前6500年から5500年頃のものと推定され、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されています。
出土品の中で注目すべきものは人工の壁に描かれた最古の壁画です。壁画のひとつには、えんじ色の矩形が並び、ピンクに赤のふちどりの二つの山型がみられます。
この絵の下の部分が居住地の図だと考えると、上の二つ並んだ山型はハッサン火山(Hasan Dağı)と思われます。一つの山の上方に赤い点々が見えますが、ハッサン火山は紀元前2世紀まで活火山でした。そうしたことから、この壁画はこれまでのところ最古の地図だといえます。
遺跡発掘の結果、青銅器時代においてもアナトリアは独特の文化を創りだしていた事が分かってきました。
メソポタミア地方以外で私たちが知っている国々の中では、古代の民族ハッティが最も早く文明化された国で、その言語や宗教についても多少知られるようになってきました。
ヒッタイトの首都「ハットゥシャ」という名には “ハッティの住むところ”という意味があります。
そして、ハットゥシャから遠くない、アラジャホユックにある歴代のハッティ人の王の墓地からは、貴重な金や青銅の財宝がみつかり、それらは今アナトリア文明博物館に展示されています。
紀元前2000年ころ、インドヨーロッパ語族のヒッタイトが、ボスポラスとダーダネルスの両海峡を越えやって来て、アナトリア諸国に支配力を振るうようになりました。ハットゥシャの王家の公文書庫から出土した楔形タブレットはまだ断片的にしか解読されていませんが、古代世界史上においてヒッタイトが極めて特殊な位置を占めていたことを示しています。
ヒッタイトの歴史とハットゥシャ遺跡|トルコ世界遺産(文化遺産・1986年)| トルコ旅行 トルコツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!
カッパドキアの歴史的背景
ヒッタイトがアナトリアヘやって来た頃、カッパドキアにはいくつかの小国とアッシリアの交易都市がありました。カイセリに近いキュルテペ(古代のカネシュ)は交易都市の中でも最も重要な町でした。紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国が滅んでアナトリアの暗黒時代が始まり、その後紀元前6世紀にリディア(首都サルディス)の属国になるまでカッパドキアに関する消息はほとんどありません。紀元前6世紀半ば、リディア王クロエソスは、アケメニッド王国のキュロス大王に敗れカッパドキアを失いました。
紀元前333年、アレクサンダー大王の遠征の後、紀元後17年にローマの属州となるまでの間、カッパドキア地方は比較的自由な時代でした。この時期、カッパドキアを支配した地元の諸王朝の中で、紀元前332年にアリアラテスが樹立した王朝が一番重要なものと言われています。
ローマ帝国も、続いてやってきたビザンティン帝国も、この地域の文化を吸収しようとはしませんでした。なぜなら彼らの関心は、道路を確保し交易ルートを守ることと、この広大な平原の労働力をビザンティン軍のために有効に使う事にしかなかったからです。
その後、支配階級や軍隊は便利な地点に駐留しそこに町ができていきます。
ゾロパスス(Zoropassos)~現在のギュルシェヒル(Gülşehir)、ソアンドス(Soandos)、ペリストレマ(Peristrema)~現ベリスルマ(Belisırma)、コラマ(Korama)~現ギョレメ(Göreme)、ソアンダス(Soandos)~現ネブシェヒル(Nevşehir)などがローマとビザンティンの時代の中心都市として発達していきました。
この地方の住民はいつも岩の多い場所に好んで住んでいました。石を利用し、あるいは自然の岩を穿って、山の上や谷、深い峡谷の岸辺に家を作りそこに住んでいました。穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいた事から、10世紀のビザンティンの歴史家は、カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれたと言いました。
住民の多くは主に農業に従事しており、特にぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事でしたが農地や牧草地は町に住む地主のものでした。住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていました。
2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼでした。初期のキリスト教徒はおそらく、ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々で、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々でした。
これらの新しい住人たちは、丘の斜面を掘り、岩を刻んで教会を造り、内部をフレスコ画で飾ります。こうしてカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士の祈り、教会などの大展示場の様相を呈するようになりました。
11世紀後半にセルジュク族がやってきたときには、カッパドキアには1000を越える宗数的施設があったそうです。カッパドキアのキリスト教社会と、イスラムのセルジュクトルコの関係は友好的でしたが、14世紀に入るとオスマン帝国に吸収されてしまいました。キリスト教信者のギリシャ人たちは、後世のトルコとギリシャの人民交換政策により、1920年代にカッパドキアを離れることになってしまいました。
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カッパドキアの宗数的背景
この地域は交易ルートの交差点だったので、さまざまな思想、信条、哲学、宗教が入り乱れて入ってきました。1世紀の半ばに聖パウロがここを訪れたときは、ゼウス、ミトラ、アティス、ディオニソス、地母神などの神々がひとつ、または一緒くたに崇拝されていたに違いないと考えられます。その為、新しい宗教はこれらの既成宗教と対決しなければなりませんでした。聖バジル、ナジアンザスの聖ジョージ、カッパドキアのニサの人、聖グレゴリーは、これらの異教信仰と立ち向かい、当時のキリスト教思想を形成するのに力を尽くしました。
中でも、聖バジルはギリシャ正教会の4人の教父のひとりとされ、カッパドキアの教会にもしばしば、肖像が描かれています。(他の3人というのは、聖ジョン・クリソストム、ナジアンザスのグレゴリー、そしてアタナシウス)
彼はカエサリアの裕福な家庭に生まれ、コンスタンティノープルとアテネで学問を修めました。そして広く各地を旅した後、貧しい人々に自分の財産を分け与え、自ら定めた厳格な規律に基づく修道的共同体の創設に献身しました。
カッパドキアはアナトリアの歴史上重要な世界遺産
アナトリアで偉大な文化を育て上げた民族の中でも筆頭に挙げられるヒッタイト人達・・・。そのヒッタイト文化が華麗に開花し、繁栄の舞台となったカッパドキアでは、彼等の生きた証をそこここに見る事ができます。帝国の滅亡後、ダバル王国と呼ばれたカッパドキアは、フリギア、リディア、ペルシャ、マケドニアそしてアリアラテスによって支配され、ローマ時代にあっては軍の要地でした。
初期キリスト教徒の隠れ家
地方への人口集中はキリスト教の浸透と共に始まることになりました。4世紀のカッパドキアを生きた高名な宗教家聖バシリウスの教えである修道院の暮らしに従い、地方一帯には無数与の教会や修道院が建設されましたが、ビザンチン時代になり東部、南部からの大襲撃を受けると、村人達はこれらの建物を主要道路から離れた人目につきにくい谷間に造らざるをえなくなったのです。
7世紀以降、東からペルシャが、南からはアラブの民が地方に進攻して暴れまわると、カッパドキアの人々は避難場所として、今日地元の人々が「世界七不思議に続く、八番目の不思議」と呼ぶ、火山灰などの堆積層を削った大規模な地下都市を建設しました。
また、同時期、その初期にあっては絵やイメージに対するある種の反抗と受け取られても、実のところは教会への権力集中にストップをかける為に始められた偶像破壊運動の波が、ビザンチンはもとよりこのカッパドキアにも押し寄せてきました。
後に、アラブの襲撃と偶像破壊の動きが下火になると、カッパドキアには新たに何百もの教会が建設され、再び宗教画で装飾される様になったのです。
地方にて最も大掛かりな調査を実施したジェルファニオンは、此れら初期の教会を《アルカイック期》の教会と呼び、偶像破壊時代に対する一種の反抗精神から生まれた当時の造りを、非常に闊達で自由な精神をもって装飾されたものである、としています。
10世紀以降、大規模で壮麗な教会が造られたカッパドキアは、その黄金期を11世紀に入って迎えることになります。特にギョレメとその近郊に建設された教会は、外観、内部の宗教画ともに注目に値するものと言えます。
同じ11世紀、アナトリアは大きな攻防戦の舞台となりました。この地に進攻し、国家を形成したセルジューク・トルコ人をアナトリアの大地から解放し、聖地奪回を目指す十字軍やビサンチンの間の戦いが頻発した時代でもありました。セルジューク・トルコはこの波乱の時代から彼等の黄金期とされる13世紀までに、アナトリアを宗教的、軍事的な様々な建造物で飾り立てたのです。
当時造られたウフララ谷の聖ジョージ教会には、セルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が記されており、キリスト教徒がセルジュークの支配下におかれていた当時の状況を踏まえて考える時、教会を自由に建てて、支配者と非支配者の代表者の名を並べて掲げた意味で、大変重要なものと言えます。
セルジューク建築の代表作は、カッパドキアに続くあのシルクロード沿線と、周囲のアクサライ、ニーデ、ネヴシェヒル、カイセリ等、当時の主要都市にて目にすることができます。
モンゴルによって歴史の舞台から姿を消したセルジュークの後を継いだのは、13世紀にアナトリアに進出して以来、短期間のうちにヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸に跨がる大帝国を形成したオスマン帝国でした。
同帝国に属する建造物は、カイセリ、ニーデ、ウルギュプ、アヴァノス、ネヴシェヒルに多く、特にチューリップ期の名宰相イブラヒム・パシャの時代には、その故郷であるネヴシェヒルに数多くの施設が設けられています。
長い間、「田舎の芸術作品」と軽んじられたカッパドキア地方の教会ですが、その初期から末期まで継続してビザンチン芸術の何たるかを表現しているかと言う意味に於いては大変重要なものと言えます。実際、ビザンチン時代の初期から建設されたここの教会では、宗教画、イコン、建築など、その時代の歴史を一歩一歩辿る様にして見届けることができます。
実施された調査の結果、同一工房や同一画家の手による装飾画が発見された事は、即ち皇帝をはじめ高貴な身分にある人々の為に建てられた教会や、そのお抱え芸術家の存在を裏付けます。
ウフララ谷の教会に顕著なエジプトやパレスチナの影響は、カッパドキアがこれら外部からの要素に独自の文化を混合し、自らの解釈をつけた証拠と言えるでしょう。この岩窟教会を単に芸術的見地から分析しようとするのは実際のところあまり正解とは言い難く、何千もの岩窟教会に見られる宗教画は、当時の信仰、習慣、修道院生活などをも今に伝える大切な証人でもあるのです。
私たち一人一人に、カッパドキアの自然の奇跡、信じ難い文化遺産を保護していく責任が課せられていることは、この地を訪れた者であれば誰でも強く感じるところでしょう。この美の創造主である自然の力は、同時に新しい美を作り上げる為に過去の自身の作品である風景を破壊してしまう力でもあるのです。
かつてこの岩層を造り上げた侵食の作用は、同じ作用で岩層を蝕み続け、これを無くし、人々の生活した区域をゴーストタウンに変えました。また、自然や文化遺産に直接影響を及ぼさないまでも、世界で唯一無二のカッパドキアの景観を乱す近代建築には、一定の制限を加える必要があるでしょう。
ネヴシェヒルからウチヒサルヘ向かう時に目に付く、カッパドキアの象徴とも言えるウチヒサルの風景にそぐわないホテルの数々や、ギョレメからオルタヒサルを眺める時にエルジェスと美しいカッパドキアの景観に全くもってそぐわない建物など・・・。
観光業推進の名の下に犯されたこの過ちを見つめ、この世のものとは思えない魅力に溢れた一帯を大切に保護して後世に伝えてゆく義務を、現代人として私たちはしっかりと認識しなくてはならないのです。
カッパドキアの地形が作り出す芸術
カッパドキアの地層は地上に見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し、溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「侵食期」に於いて、自然が持っている二つの相反する作用が作り上げた作品と言えます。ヨーロッパのアルプス山脈同様、南アナトリアのトロス山脈も地質年代上、新生代の第三紀(6500万~200万年前)に形成されました。この時期、中央アナトリアでは活発な地殻の変動で深い亀裂や地盤の沈下が見られ、亀裂を這って地表に噴出しだしたマグマは、エルジェス、デヴェリ、メレンディス、ケチボイドゥラン火山を作り上げたのです。
そして、度重なる激しい噴火の後、中央アナトリアでトロス山脈に並行して走る火山連ができあがったのです。火山の吐き出した噴出物は既に形成されていた丘や谷の上に長い時間をかけてゆっくりと降り積もり、周辺一帯は巨大な台地と化しました。
妖精煙突(ペリバジャ)
カッパドキアを御伽噺の舞台足らしめている妖精煙突は、何百年もの間の地質変化の賜物です。世界中で唯一カッパドキア地方でのみ見られる妖精煙突の誕生は、中央アナトリア全域に影響を及ぼした火山活動にからはじまったのです。
最も美しい妖精煙突は、北からクズルウルマックの18kmあたり、東からダムサ川、西よりネヴシェヒル川、南からはオイル、ケルミル山に囲まれた約288k㎡にわたる一帯に見られます。
全く侵食されていない部分の断面を見てみると、下に凝灰岩、上部には玄武岩が層を成していることがわかります。かつては凝灰岩の表面を完全に覆っていた玄武岩の層は、今日ごく一部にのみ残り、例えば円錐形の妖精煙突の上に頂いた帽子にも似た部分、あるいは火山灰の上部の岩の棚がそれであるのです。
この妖精煙突が形成されたのは、地質時代第四紀、雨による侵食と風化によるもので、あるものは高さ40m程にも達し、円錐形で頭部には玄武岩の“帽子”を頂いています。
初期の形成期の後、帽子の下部にある軟らかい部分は侵食されて徐々に細くなり、更には支え切れずに帽子が転げ落ちてしまった煙突もあります。あるいは完全に削り去られ、もはや姿形も無くなってしまった煙突もある様に、この侵食作用は今なお続いているのです。
ウルギュプ~ウチヒサル~アヴァノスを結んだ三角形の内側を妖精煙突の見所としてお薦めします。
エルジェス山
カイセリの南西に3,917mの雄姿を誇るエルジェス山は、アナトリアの山々の中でも屈指の高峰です。地方で最も重要な火山と言え、太古の昔に始まった火山活動は歴史時代まで続きました。直径18㎞、1500km2の面積におよび、地方にとっては同様に重要な意味合いをもつハサン山に比較すると年老いて疲れた表情をみせており、火山活動初期の噴出物が火山灰の、中期のものが玄武岩の層を形成しました。
年間を通じて雪を頂くこの山をヒッタイト人は「ハルカソス」即ち「白の山」と呼び、神々を奉るヒッタイトの聖地に於いて殊に重要な位置を占めていた山の神々の中でも、一帯の最高峰であるエルジェスは特別な意味を担っていたと思われます。
発見されたヒッタイトの浮き彫りにも山の神々が刻まれており、その後も続いたエルジェスを山の神として崇拝する行為はローマ時代の皇帝とジュピター信仰と交わって浸透していきました。地方で鋳造された貨幣にも見られるエルジェスは、当時、アルジエウスと呼ばれていたといいます。
ハサン山
裾野から2,300m、海抜3,300mの高さにあり、アナトリアの山々の中でもその優美さで名高いです。エルジェス山と同時期に誕生したにも拘わらずより若々しく、カッパドキアを訪れる人々を深い懐に抱く様に出迎えてくれるこの山の頂は年間を通じて雪に覆われています。
メレンディス川
カッパドキア地方の重要な川の一つは、メレンディス山の麓を水源とし、セリメ村を流れて名高いウフララ渓谷をつくりあげました。クズルウルマック
トルコ最長のクズルウルマック川は、国の東から大きなうねりを描いて黒海に流れ出しています。長さは約1,182kmで何本もの支流を持ち、その色からクズル(赤い)ウルマック(川)と呼ばれる川は、カッパドキアの信じ難い景観を作り上げた“芸術家”の一人と言えます。
ヒッタイト人は「マラッサンティア」と呼び、ギリシア・ローマ時代になると「ハリス」川と変わったこの川は、ヒッタイト帝国の発祥地を流れつつ、歴史を通じて数々の民族の栄枯盛衰をみつめてきたのです。
カッパドキアの歴史
チャタルホユックのフレスコ画
中央アナトリアに於ける最古の新石器時代の集落跡チャタルホユックで発見された壁画を語りながら、カッパドキアの長い歴史を紐解いていきましょう。
世界最古の風景画と言われるハサン山を描いたこの壁画は、紀元前6200年もの昔にアナトリアの人達が家々の壁をこんなにも美しい絵を用いて飾りたてていた事実を表す貴重な作品です。手前にチャタルホユックの家並み、後方に火山から昇り立つ噴煙、溶岩を描いたフレスコ画で、現在はアンカラのアナトリア文明博物館に保管されています。
また、地方で屈指の火山であるハサン山の、その当時、活火山として活発な活動をしていた様子をチャタルホユックのある画家がこの様な方法でそこに永遠にとどめようとした意味でも重要です。
紀元前5000~4000年の間、カッパドキアには小さな、しかし独立した君侯国がいくつも存在していました。この頃からアナトリアの人々は北、東、南の隣国と交易を始め、時としてこの取引が滞り、あるいは悪化し、紀元前2300年には団結したアナトリアの17の王達(カッパドキア―カニシ王ズィハ二も含む)が、アッシリア王ナラムスィンに対して戦いを挑んだ事が知られています。この事実はアナトリアの歴史上はじめて組織された連合体制として重要です。
トルコ旅行(ツアー・観光)ブログ:世界最古のまち、チャタルホユック。 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!
アッシリア交易都市時代
紀元前2000年初期、黄金期を迎えつつあったアナトリアには急激な勢いの人口流入が始まりました。地方の富みに注目した“商いの天才”アッシリア人はアナトリア各地にカルンと呼ばれる貿易センターを設け、中でもカニシの町に設定されたキュルテペ・カルンは重要な役割を担っていました。一定の交易路を利用した彼等は、アナトリアに香料、錫、布、消耗品の数々を持ち込み、代わりに金銀銅を持ち帰りました。
アナトリア~アッシリア間の商取引は約150年間続きましたが、各地の小王国間の戦の影響を受けて紀元前1850~1800年頃には途絶えました。一帯は19世紀初期より専門家達の興味の的となり、1925年にカッパドキアはキュルテペでアッシリアの交易都市跡が発掘されると一層の注目を集めました。その際の出土品《カッパドキアの粘土板》は、アナトリアの歴史を解明するのに重要な役割を担う最古の記録として大変に貴重です。
ヒッタイト人
紀元前2000年の始まりと共にアナトリアにはヒッタイトと呼ばれる民族が定住し始め、既に高度な文明を築いていた先住のハッチ族と混住して王国を建設しました。彼等がどこから、どの経路でやって来たのかは未だ明確になっていませんが、コーカサス説が有力視されています。
同期のものと思われる粘土板には多くの国王の名が刻まれているものの、並み居る強豪を倒しキュルテペに都を置いたアニッタは特筆に値する王でした。カッパドキアに興り、以後の月日の中でアナトリア最大の帝国を形成したヒッタイト人はアレッポとバビロニアを征服し、かの有名なハムラビ王朝をも歴史の表舞台から引きずり下ろしたのです。
この進攻はヒッタイト人とメソポタミア、シリア人との関係を緊密にもしました。急速に拡大する帝国は、特に紀元前15、14世紀に強い権力を手中にし、シリア、パレスチナ、エジプト、ヒッタイト間の激しい攻防戦で知られる紀元前1286年のカデシの戦いでは、ヒッタイト王ハットゥシリス三世がエジプトのファラオ、ラムセスニ世とカデシ平和条約に調印し戦いも終結を迎えたのです。
紀元前12世紀、ヨーロッパ大陸から“海の民”と呼ばれる民族がこの地に襲撃をかけてきました。これにはさすがの大帝国も太刀打ちできずに衰退の一途を辿り、以降、中央アナトリアを取り巻いた暗黒の時代は“海の民”の一派とされるフリギアがここに王国を建設するまで続いたのです。
ヒッタイト帝国とその首都「ハットゥシャ遺跡」の見どころ徹底解説 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!
ペルシャ
紀元前世紀、ペルシャが高名なリディア王クロイソスを破ると同時に、リディア王国の支配下にあったカッパドキアはペルシャの監督下に敷かれました。この状態はアレキサンダー大王がこの地に遠征してくるまで続き、その間、ペルシャはアナトリアを多くの州に分割し、監督者としてサトラップを配置しました。彼等の政治は寛容かつ柔軟で、続治下の民と良い関係を築こうとしたと言えます。ペルシャ経済を支えたのは、エフェスとサルデスに起点し、マザカ(カイセリ)を経由してメソポタミアからシリアの都スサヘ至る有名な "王の道" でした。
サトラップ達は税として金、羊、ラバ、そして知る人ぞ知るカッパドキア産の馬をペルシャに贈ったと言います。火を奉るペルシャ人は火山地帯のこの地を愛し、自らの信仰を全うする為に最適な土地と認めていたのです。
カッパドキアとは?
カッパドキアとは“美しい馬の国”を意味する“カトゥパトゥクヤ”に由来しているのです。カッパドキアの馬史書や資料を紐解いてもカッパドキア産の名馬と畜産については頻繁に触れられています。貢ぎ物として馬を供する習慣はカッパドキアに端を発したと思われ、古い資料にはアッシリア王アッシュール・バニパルに、ダレイオスに、クセルクセスに土地の名馬を贈呈したとあります。
カッパドキアに近い関係にある人物と言えば、あのゴルディオンの結び目を一刀両断にしてからここへやって来たアレキサンダー大王でしょう。大王の訪問以降、一帯はマケドニアの支配下に入り、王の死後にはアリアラテス朝に統治されて、カイセリは独立したカッパドキア王国の都としてユーセビアの名で呼ばれ始めました。
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アナトリア全土に大小の勢力争いが広がる中、この独立王国の国民達は他の国の人々と婚姻関係を結んで融合していきました。こうして出来上がった政治、家族等の関係は、その後、ポントス、ビティニア、ローマ帝国の間に権力争いを引き起こす要因ともなったのです。
アリアラテス一族の治世はポントス王ミトリダテスが紀元前90年に王子をカッパドキア王と宣言するまで保持され、紀元前66年になると地方は再びローマ人の手に渡りました。この様な飽くなき攻防はカッパドキアがローマの属州となった西暦17年まで続いたのです。
ローマ時代
ローマ時代は皇帝ヴェスパスィアヌスの治世下、東はパルティアの脅威から地方を防御する目的で常駐のローマの軍隊が配備されたほか、皇帝トラヤヌスの支配下では軍用路を敷き、万全の防衛策を組みました。 129年の後半、皇帝ハドリアヌスは東側ルートから直々にカッパドキアを訪れています。3世紀の初期になるとエフェス、イズミル、カッパドキア間での商取引が拡大し、これらの都市の名を掲げた貨幣が鋳造され始めました。東西を結ぶこの交易路上に位置する都市間で、一種の経済共同体が形成されたと言うことができるでしょう。
ビザンチン時代
4世紀、カッパドキアでは三人の高名な聖者による宗教活動が展開されました。聖バシリウス、ニサのグレゴリウス、そしてナズィアンススのグレゴリウスの思想は地方の修道院生活の規則を作り上げる基礎となりましたが、カイセリの裕福な名家出身のバシリウスは、これにあたり最初はパレスチナ、エジプト等の僧院を訪ね、ここでの生活様式を研究しました。これらの僧院で高潔な魂の誠に達する為の行として認められたのです。
《忍耐》と《隠遁》の生活に同意しかねた彼は、新しい規律を敷いたのです。過度にストイックな忍耐生活を防ごうと、修道僧達を小集団に分けて共同生活をさせ、上からの命令形態を敷くと共に、俗世からきれいさっぱり隔離された隠遁生活をする僧よりも、病人や貧しい人々を救済し、彼等の日々の暮らしに援助の手を差し伸べる僧の育成に心を砕きました。
この教訓はカイセリ近郊にバシリウスが建設したとしてバシリアドの名で呼ばれた町で実践に移され、修道僧の精神的バランスを崩すのは何よりも怠慢であり、奉仕は最も貴い修養であると主張しました。
後にその教えを継承して何干もの修道院を建設した修道僧の日々は、ギリシアはアトス山やメテオラ修道院の様に人々から隔離された完全な隠遁生活の代わりに、人の日常生活の中で彼等に奉仕しながら暮らしたものである事がわかります。
地方で宗教画を施した教会が建設される様になったのは、6~7世紀のことです。特に7世紀以降、カッパドキアはまずペルシャ、続いてアラブの攻撃の的となり、一帯で最も重要な町カイセリはこれに屈して何度か征服されました。
このように常に敵の脅威にさらされた土地に暮らしていた人々とビザンチン国家の中央は、起こり得る攻撃に対して何らかの対策を講じる必要に迫られました。南部から地方に続く路に沿って無数の要塞が設けられる一方、近づく敵の襲来をいち早く同胞、及び(現)イスタンブールに知らしめる為“光りでの伝達方法”が工夫されたのです。
光りを信号化したこの方法で、南部から迫りつつある危険は一時間以内でイスタンブールヘ知らせる事ができたと言います。ビザンチン軍はそれぞれに独立して行動し、戦い、作戦をたてることができる部隊に分割されており、彼等の攻撃と防御の常日頃からの備えに加えて、一般の人々は危機に際して非難する為の、そしてそれが去るまで暮らしを営む為の地下都市を建設しました。
726~843年の間、ビザンチン帝国には絵画を破壊する動きが蔓延し、偶像破壊時代と呼ばれるこの時期に、人物像を中心に多くの作品が被害を受けました。
964~965年、カッパドキアは高名な皇帝ニケフォロス・フォカス一家を迎えました。カッパドキアに生まれビザンチンの最高司令官の一人となったフォカスは、特にアラブの襲撃に対して活躍し、皇帝ロマノス2世の死後、皇后テオファノと結婚したことで皇位につきました。故郷への凱旋帰郷のおり、偉大な軍人であるにも拘わらず彼は修道院生活にも深い理解を示し、その記念にチャヴシン教会が建設されました。
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セルジューク時代
9世紀、アナトリア高原には遊牧トルコ民族の一派がやって来ました。 1071年に勃発し、セルジュークとビザンチンを敵対させたマラズギルトの戦いは、アナトリアの大地にトルコ民族がしっかりと足を踏み入れ、支配者となるきっかけとなったのです。
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これに続く100年の間、アナトリアはセルジューク、十字軍、ビザンチンの間で繰り広げられる激しい争奪戦の的となり、十字軍の襲撃に際して最初の都イズニックを失ったセルジュークは、中央アナトリアの有名な町コンヤに中心を移しました。
戦いに明け暮れ、短命ではあったものの、セルジューク帝国が短期間で手にした商的、軍事的、政治的な成功の数々は我々を驚愕させる質のものです。後に歴史の舞台に登場してくるオスマン帝国の為に、あたかも基礎を固めたセルジューク帝国の存在は、アナトリアの大地で初のトルコ系国家を形成した意味でも、非常に重要なのです。
1082年にカイセリを征服するとセルジュークは活発な建築活動を展開させ、カッパドキアも無数のセルジューク建築で飾られる結果となりました。 1135~1150に建造されたカイセリのウル・ジャーミ(モスク)、1156年のアクサライのアラエッディン・ジャーミ、1202年のカイセリ、チフテ神学校などはこの良い例です。
また、1206年、カイセリで設立された医学専門学校、ニーデのアラエッディン・ジャーミ、カイセリのサーヒビエ神学校(1268年)等も同期の重要建築物として列挙しておくべきでしょう。しかし、何と言ってもこの時代を代表する施設といえば、キャラバンサライ、即ち隊商宿です。
他のイスラム諸国と商取引を結ぼうと努め、地中海、黒海に出て造船所を設けたセルジューク・トルコ人は、取引の拡大を目指すと共に、快適な旅を提供し、旅人を保護することを目的に、今や全人類の遺産とも言うべきこの見事な設備を設けたのです。主要交易路上に位置するカッパドキア、殊にコンヤ~カイセリ間の街道上に造られた隊商宿の数は20にも及びます。
商業を重視した彼等は、スルタン・クルチ・アルスランニ世以来、旅人に床と食料、健康管理を供する設備を建築し始めました。内部のモスク、ハマム(浴場)、保健所、厩などを見ても、単にこれらが宿泊の為だけに使用されていなかった事は一目瞭然です。約30~40km間隔で置かれた宿は、同時に高い壁と塔をもつ防衛の要でもあったのです。
カッパドキアの地下都市
カイマクル地下都市
ネヴシェヒルの南20kmに位置し、ここ数年で重要な観光スポットに成長しています。“カイマクルの要塞”と呼ばれる村の東の頂きの下にあって1964年から公開されているカイマクル地下都市は、6~10世紀にかけてこの地を襲ったペルシャ、アラブの襲撃に際して建設されたと考えられています。合計2.5k㎡の面積を有し、未だ全貌が解明されていませんが、およそ地下7~8階の規模であろうと想定されています。デリンクユ地下都市と比較して構造上の相違点を指摘するとすれば、例えば、各階をつなぐ通路はカイマクルの方が狭く、天井も低いうえに傾斜も急です。現在は地下4階まで整備されており、居間が通路の周囲に集まっているのが特徴と言えます。
迷路の様な都市の1階には馬屋がありますが、規模は非常に小さいです。まだ整備されていない他の階に更に広い馬屋があるのでしょう。直ぐ左の通路を通って地下2階の小さな教会に入ることができますが、壁にフレスコ画が皆無なことから年代を想定するのは難しいです。同じ階には墓も置かれていて、修道僧達が使用していた階と思われています。
地下都市で最も重要な部門は地下3階に集中しています。食料倉庫、ワイン醸造所、台所などに注目してみましょう。地下倉庫の大きさ、集会所の広さ、多くの居間からして、いかに沢山の人達が一時的にここで生活することができたか想像できます。
デリンクユ地下都市
かつてメレンギュビュの名で呼ばれたデリンクユは、ネヴシェヒル~ニーデ街道上、ネヴシェヒルの南29kmに位置しています。地方の人々は農業を生活の糧としていますが、同時にこの地下都市のお陰で観光収入も軽視できないものがあります。
周囲にある墓や出土品からして、7世紀以降ここに集落が形成されたと言え、これはここから9kmのカイマクルでの集落形成より少し古い時期にあたると考えられています。
カッパドキア一帯を覆う火山灰を削り取って造ったこの地下都市の規模は18~20階、深さ40m程度と想定されていますが、現在はこのうちの8階までが整備され公開されています。地下1階の入り口すぐ横には、家畜用の飼料を保存していたと思われる窪みが残る馬屋があります。つづいて、葡萄をしぼってワインをつくっていた場所、宗教の集いが催された丸天井のある部屋が目につきます。
人々が共同で暮らした迷路に似たこの都市ではプライバシーの侵害などはまったく問題にもならず、各々に入り組んだ部屋で使った火で黒く煤けた壁は、訪れる者を当時の生活にタイムスリップさせてくれます。
炊事場では食材や調理器具を置いた壁の窪みが見られ、厨房施設の直ぐ横には葡萄を絞るワイン醸造所がおかれていますが、絞った果汁が流れるように岩に施された溝を見落とさないようにしましょう。地下3階のほとんどの部屋は食料倉庫として使用されていたもので、この階には水辺に出る為のトンネルもあります。
地下4階も生活の為のスペースと食料倉庫で占められています。3階に始まる長いギャラリーはそのまま地下5階にまで続き、これを途中で遮断する為には大きな円形の石が用いられていました。
地下5、6階の間のトンネルの両側には居間が設けられ、通路の壁に削られた大小の窪みには照明用のオイルランプが置かれていたと思われます。
地下7階には三本の柱で支えられるデリンクユ地下都市で最も広い空間があるほか、十文字形の教会、井戸、狭い通路の行き当たりにある墓地なども興味深いです。地下8階では小さな部屋と通気口が目につきます。
貯水槽、食料倉庫を備え、約52ケ所に通気口をもつこの地下都市には、敵の襲撃などの危険時に約100,000人が避難したと言われています。
十字形の大きな教会、集会所なども発見されていますが、年代解明の糸口となりそうなものは何ら残されていません。
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ギョレメ
古代にマチャンと呼ばれた現在のギョレメは7世紀に遡る歴史をもつ地方一帯の最古の集落で、「聖ヒエロンの勤め」と題される資料に「ギョレメ」の名で登場しています。他の集落の様に目につきにくい場所にあるとは言い難く、特にアラブの襲撃では村人の多くを失いました。
初期に於いては村を流れる川の近くに集落があったと思われ、支柱のある二つの墓もこの事実を裏付けると言えます。ギョレメ村と近郊には五つの教会があり、これらのうち最大のものは6世紀、もしくは7世紀に建設されたと思われるドゥルムシカディル教会で、大きな柱と説教壇を備えて保存状態も非常に良いです。
それ以外、アラブの襲撃後にあたる10~11世紀の造りと考えられる教会の内で最も新しいものは11世紀、マチャンに司祭館が置かれていた時期に建設されたユスフ・コチ教会であり、最も離れた場所にあるのは、約30分から40分程度の距離にある11世紀のカラブルット教会です。
自然の作りあげた岩層と、人間が手を加えた造りの素晴らしいハーモニーと言えるギョレメ村は一帯で最も注目されている地区です。今日もなお岩を掘って造った家に住む人々がいて、彼等は岩を住まいとすると同時に、これを倉庫としても利用し、過去からの生活様式を何ら変える事なく岩と共に暮らしています。
ギョレメ村では岩の家の他、岩を刳り貫いた洞窟レストランやホテルも観光客に人気が高いです。村を包囲して直立する妖精煙突と共に、ギョレメの美しさは強いインパクトをもって人々の心に焼き付くに違いありません。
エル・ナザール教会
テントを思わせる岩層の内部に設けられたエル・ナザール教会は、ギョレメにて見られる同種の施設の中でも特徴のある珍しいものです。10世紀に建築された教会の壁は崩壊し、フレスコ画も何百年もの時の中で風化して傷んではいますが、それでもかつての美しさを彷彿とさせています。中央のドームには虹とその上を昇天するキリストが描かれています。
西のアーチには、吉報、訪問、献上が、南のアーチには誕生、東方の三人の博士、エジプトヘの逃避などをテーマにフレスコ画が描かれていて、その他にも黄泉の国へ、傑、洗礼、キリストの変容なども表現されています。
また、皇帝コンスタンチヌスと母御ヘレンの姿も図柄として用いられています。
ギョルギュンデレ渓谷
ギョレメ村とギョレメ屋外博物館の間にのびる遊歩道を利用して出ることができます。美しい妖精煙突と岩層で是非とも訪れてみたい谷のひとつですが、車の乗り入れは禁止されているので注意しましょう。葡萄とヒマワリ畑の間に屹立する不思議な岩の塊は、悠然としてダイナミックです。クルチラルの谷
アクテペとギョレメ渓谷の間に位置するカッパドキア一美しい谷と言っても過言ではありませんが、徒歩でのみ入り込め為に訪れる者は多くありません。有名なクルチラル教会をはじめ、多くの岩窟教会があり、特に写真愛好家にはたまらない題材の多いスポットです。
"アイナル・キリセ"(鏡の教会)の名で親しまれるクルチラル教会は、十文字の基礎の上に建ち、四本の柱をもつ10世紀の建物として注目に値します。中央のドームにはキリストの昇天が表現される他、聖書を記した四人の聖者も描かれています。
カッパドキア出身の宗教家や聖人が描かれているのも興味深く、同世紀に建築された教会の中では、その規模とフレスコの質に於いて、大変重要な建造物に挙げられています。
ギョレメ屋外博物館
今日、屋外博物館として保護下にあるギョレメの岩窟教会は、食堂、居間等の設備を有して、9世紀以来、修道院生活の中心を成してきました。土を耕して日々を営む村と言うよりも、完全な宗教活動の要と言うのが相応しいです。
数多くの教会の中で、6、7世紀に遡るものはたった一軒だけで、ギョレメ地方が本格的な発展を遂げた9世紀後半以降は概して小規模の教会が建設されており、内、10世紀のクルチラル教会とトカル教会はビザンチン芸術の美しい例として特筆に値します。
ビザンチン芸術の“黄金期”は、その装飾と建築様式をしてストゥンル・キリセ(支柱の教会)で顕著に表れています。装飾に用いられた宗教的なシーンにしても建築様式にしても、他の教会とは完全に異質なもので、11世紀の貴族芸術を代表するものと言えます。
同一のアトリエに属する画家達によって作成された作品が多く見られ、そのテーマの選択、画材、そして花、草木のモチーフが頻繁に用いられているなど、多くの共通点が指摘できます。繊細で洗練された人物画に注目すると、あたかも濡れて体に密着したかのような衣を纏っており、体のラインが強調されていると同時に、その表情も穏やかで和んだ雰囲気に満ちています。
ドーム、アーチ、そして壁に描かれた宗教上のシーンの分配も大変に調和がとられていて、巧い配置がなされています。
数多くの教会があり、本来は見学するのに数日を要するギョレメ、クルチラル、エル・ナザール渓谷で、修道院生活かいつ終焉を迎えたか予想するのは困難と言うものの、11世紀以降建設された教会の数が少ない事を前提に思いをめぐらせてみることは可能です。
これらの教会の幾つかに岩を彫って作った卓、居間の設備、倉庫、寝室などがある事実は、つまりここで修道院生活が営まれていたとの考えを裏付けるものと言って良いかもしれません。
ギョレメの教会のフレスコ画の中で、18、19世紀にその壁画に記されていることが確認された幾つかの名は、訪れたキリスト教徒達が自らの名を刻印したもので、ギョレメがある種の聖地として巡礼の対象になっていたことを物語っています。
クズラル修道院
ギョレメ屋外博物館の入り口すぐ横にある大きな岩の塊を人々はこの名で(=女子修道院)呼んでいます。四つの階に分けられた内部には、教会、食堂、通路などがあり、修道院としての総合設備であったことを物語っています。まず、金属の階段を使って良く保存された食堂へ入ってみると、岩を削って作った食卓が目に入ります。この大きな岩の塊の中には四つの教会の跡がありますが、食堂の側、三つの後陣のある教会には、キリストの誕生に関わるシーンが描かれています。
南面の壁を飾るのは、カッパドキアの高名な聖グレゴリウスの生涯と、その殉死の場面です。二番目の教会は修道院の名にもなっているクズラル教会で、十文字の基礎に建って、中央のドームは四本の柱によって支えられています。立ち姿のキリストを描いたものがここの唯一のフレスコ画です。
エルマル・キリセ
エルマル・キリセ、即ち“林檎の教会”には四本の柱と三つの後陣があり、本来は南手に入り口が設けられていましたが、現在は使用されていません。
アーチ、ドーム、壁に巧みに配置されるフレスコ画は、まず、中央後陣に聖母、キリスト、洗礼者ヨハネの聖家族が、四本の細い支柱に乗るドームの中央には、福音書を著した四人の聖人を描いた円に囲まれたキリストが表現されています。後陣側の小ドームのフレスコ画は大天使が、南手のドームのものはキリストの昇天がテーマとなっています。
《フレスコの内容》
- 左側後陣 :聖母とキリスト
- 左側後陣上部:キリストの埋葬
- 主要後陣 :マリア、キリスト、洗礼者ヨハネ
- 右側後陣 :天使長ミカエル
- 右側後陣上部:最後の審判
- 北手壁面 :キリストの誕生、エルサレムヘの旅
- 西手壁面 :ラザロの甦り、聖母と12使徒、洗礼
- 南手壁面 :キリストの変容、磔、黄泉の国へ
聖バルバラ教会
そのフレスコ画で、いつの時も論争の的となってきた教会です。規模は小さいですが、中央ドームと二本の柱をもち、設計、横に設けられた入り口、三つの後陣をしてチャルクル教会と多くの類似点があります。
主要後陣には王座に座るキリストが、入り口の対面、即ち北手壁面にはカッパドキアの高名な二人の聖人ジョージとテオドールが龍(大蛇)を退治している場面が表現されています。
西手壁面には教会に名を掲げる聖バルバラが描かれていますが、ここの建築者は、教会の資料に名が記されているファリボンとレオンであるというのが通説です。
教会のあちらこちらには、幾つもの十字架と意味不明な図柄が見られます。主にオークルレッド色を用いて描かれたこれらの柄(十字、三角形、柱、メダリオン、動物)は、凝灰岩を削ってここを造った人々が魔よけの意味で描いたと推測されています。
ユランル教会
丸天井に覆われる教会(別名:蛇の教会)の南手には墓所が置かれています。
フレスコ画には全体を通じて一貫するストーリー性がなく、教会の名が由来するカッパドキアの高名な聖ジョージと聖テオドールが退治した龍(大蛇)の図の直ぐ続きには一帯の教会装飾画には頻繁に登場する、皇帝コンスタンチヌスと母御ヘレンが描かれていたりなどしています。
対面の壁にはオノフリウス、聖トマス、聖バシリウスのフレスコ画が見られます。
言い伝えによれば、ここに登場するオノフリウスはエジプトの砂漠で60才まで生きた宗教家だったが、フレスコ画上の強調された胸部のせいで、本来 “彼”は美貌溢れる女性であったが、信仰の道に自らを捧げる為に男性に変貌したのである、と信じられています。
エスキ・トカル教会(旧トカル教会)
カッパドキア地方の最も素晴らしい教会で、異なる時代に造られた二つの建物から構成されています。その一つが、10世紀初頭のエスキ(古い)トカル教会で、まるで映画のストーリーの様な続きものの壁画をして、アルカイック教会の範暗に入れられます。
一帯にある他の教会の壁画を作成したアトリエの作品と思われ、ビザンチン以前、そしてビザンチン及びオリエントをルーツとする特徴が顕著です。シンボル化された人物画の手、腕、体の動きにはそれぞれ意味があります。
《フレスコの内容》
- 丸天井南側(入って右)
- 最上部分 :受胎告知、エリザベスの訪問、ベツレヘムヘの旅、キリスト誕生
- 中部 :追われるエリザベスと幼少のヨハネ、洗礼者聖ヨハネに関するシーン、カナンの結婚
- 下部 :最後の晩餐、ピラトの審判、ゴルゴタヘの道
- 丸天井北側 :三人の王の崇拝、幼児大虐殺、エジプトヘの逃亡
- 中部 :葡萄酒になった水、12使徒招集、パンを増やす奇跡、盲目の完治ラザロの甦り
- 下部 :磔、十字架から降ろされるキリスト、埋葬、
イェニ・トカル教会(新トカル教会)
エスキ・トカル教会は増築されたイェニ(新)トカル教会とともに十字形の大きな施設となりました。アーチ、壁などに分散するフレスコ画と建物の調和は素晴らしく、メソポタミアからアナトリアに伝わった建築様式を用いて、五つの丸天井に覆われた身廊と小部屋の長い壁には後陣としての窪みが設けられています。
950年~960年に建設されたこの教会は、ビザンチンに於ける“マケドニア・ルネッサンス”黄金期の代表作と言えます。北後陣に見られる碑文から、フレスコ画はニコフォロス、建造者はコンスタンチヌスとレオンと名乗る人物であることがわかります。フレスコ画の様式と用いられた色彩は、エスキ・トカルと明確な違いがあり、図柄もより洗練されて美しいです。
特に、地色として使用されている紺色の美しさは他に比類のないものです。その場面もエスキ・トカルを思わせはするが、比較すると更に詳細にわたり、エレガントでさえあります。
《フレスコの内容》
- 左手後陣 :キリストと天使達、エジプトのマリア、聖アブラハムの歓待
- 主要後陣 :磔、十字架から降ろされるキリスト、埋葬、黄泉の国へ
- 中部東側 :聖母と天使に囲まれたキリストの昇天
- 中部西側 :使徒を祝福するキリスト
- 中部南側 :二列に並んだ12使徒とキリスト、王者と民衆
- 南東側 :七人の若い司祭
- 南西側 :エルサレムを離れる使徒
- 北東側 :訪問、水をワインに
- 北西側 :キリストの誕生と三人の王者
- 北フリーズ:聖ヨハネとキリスト、キリストを誘惑しようとする悪魔、キリストと使徒
- 東フリーズ:盲目患者の完治、らい病患者の完治、未亡人の子供の完治、腕を病む患者の完治
- 南フリーズ:麻輝患者の回復、エルサレムヘの入場、最後の晩餐
カランルク教会(暗闇の教会)
ギョレメ屋外博物館にみられる支柱を用いた教会のうち最も有名なカランルク教会は、総合修道施設とも言え、小さな内庭を囲んで様々な設備が設けられています。
同じ建築様式に属する教会としては古い順に、カランルク教会、エルマル、チャクル教会で、どれも同一の人物によって建設された、と言うのが多くの学者の一致した見解です。
何百年もの間、ほとんど光りが差し込まなかったおかげで、内部のフレスコ画の状態は大変良好です。四本の支柱、六つのドーム、入口にはアーチのある正方形の外廊と、埋葬用の空間が設けられています。外廊にはキリストの昇天、12使徒の祈りの場面が表現され、対の虹の上に座ったキリストの、四人の天使に導かれていく様子が美しいです。
《フレスコの内容》
- 主要後陣 :聖母マリア、キリスト、洗礼者聖ヨハネ
- 北手後陣 :聖母
- 中央ドーム:円の中の天使とキリスト
- 南丸天井 :エホバの裏切り
- 北丸天井 :キリストの誕生、三人の王
- 西丸天井 :エルサレムヘの入場
- 西手壁面 :ラザロの再生、キリストの変容、洗礼
- 北手壁面 :ベツレヘムへ、キリスト誕生、マタイとヨハネ
- 南手壁面 :聖墓所の三人の女、礎、炉に投げられる三人のユダヤ人
- 東手壁面 :最後の晩餐、ルカスとマタイ
チャルクル教会
ギョレメ屋外博物館のシルエットに弧を描く大きな岩の塊の中で、最も高い所に位置しています。金属製のステップで内部に入ると、一部破損を受けているものの概して良い状態にある宗教画が人々の視線を奪います。教会のすぐ下にある食堂は、ここが他の重要な教会と同様に総合修道施設に含まれるひとつの造りであったことを物語っています。
岩で造られた食堂の後ろにある “最後の晩餐” が美しいです。中央のドームは東手の二本の柱と西手の壁で支えられています。チャルクル、即ち “革の浅靴” と言う一風変わった名は、一見足跡に見える床の窪みに由来します。特に西手の壁面、教会の建造者達をはじめとした宗教画や頭部にターバンを巻いた人物には注目してみたいです。
《フレスコの内容》
- 主要後陣 :聖母マリア、キリスト、聖ヨハネ
- 北手後陣 :聖母、キリスト
- 北手後陣上部:アブラハムの歓待
- 南手後陣 :ガブリエル
- 中央ドーム :キリストと天使
サクル教会
交通の不便な所にあることでサクル(隠れた)教会と呼ばれる11世紀の造りで、ギョレメとエル・ナザール渓谷の間にあります。トカル教会同様にメソポタミア様式が用いられ、二本の柱が全体を支えています。ヴェロニカのフレスコ画の他、ドームに描かれた大きな十字架は過度に装飾が施されたもので、これは初期の特徴として最大のポイントと言えます。
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チャヴシン
脆くなった層の落岩で無人化した旧チャヴシン村は、カッパドキアの集落の中でも興味深い場所です。家々の壁を飾る素晴らしい壁画を見れば、ここがその昔いかに美しい村であったかを想像するのも難くありません。
洗礼者ヨハネの教会
チャヴシン要塞の頂きにあって、どこからでも目についたこの教会は、一帯で最も古いものの一つとして、同時に初期の教会のみに見られる異なる壁画のシーンをして重要視されています。5世紀に建造されたと推測され、非常に損傷が激しいものの、ヨハネの断頭、サロメの舞などの場面は未だに鮮やかです。ギョレメで生まれた皇帝ディオクレティアヌスの続治下でマラティアで殺害された聖ヒエロンの手が保存される教会としても知名度が高いです。
ビザンチン時代に同聖人に属する貴い品々を預かったこの教会の装飾を見ても、ここがいかに重要な位置を占めていたかがうかがえます。
ブユック・ギュヴェージンリック
チャヴシンで二番目に重要な教会は高名なビザンチン皇帝ニケフォラス・フォカスに捧げられたもので、“大きな鳩小屋”と呼ばれている。“マケドニア・ルネッサンス”期の一例で、丸天井があり、皇帝の来訪と名誉を祝してフォカスとその家族が北側後陣に描かれている。
ギュルデレ・クズルチュクル
チャヴシンに始まる小道を辿って美しいニつの谷に出ることができます。木々の間に造られた初期の教会と岩層は、人々にまるで別世界に迷い込んだかの様な錯覚を与えることでしょう。ギュッルデレには五つの教会があり、一つには皇帝コンスタンチヌス・ポルフィロゲネトゥスヘ献呈された碑文が記されています。(7世紀~10世紀の建築)クズルチュクルと呼ばれる二つ目の谷では、保存状態の良好な聖アン教会、アラブの襲撃の際に避難所として利用されたハチル教会などが見られる。
パシャバー
カッパドキアの名を世界中に轟かせた “妖精の煙突”が最も美しいのは、ゼルヴェ近郊はパシャバーの谷でしょう。ここで見られる“妖精遠の住家”は、一つの岩から二本、三本とのびる複数の首に“帽子”を被った格好をしていて、辺りに広がる葡萄やヒマワリ畑の中にこれらが屹立する様子は全くの別世界を思わせます。
妖精煙突はビザンチン時代に隠遁生活を選択した修道僧達の隠れ家でもあり、当時の有名な聖人スィメオンの生涯を表現した壁画も見られます。
ゼルヴェ屋外博物館
岩を削って造った家屋の最も良い例を見ることができます。人間が自然と自然の提示する条件と協調しながら暮らした場所と言えます。パシャバーから続く道に従って出た赤土に覆われた一帯が、ゼルヴェ屋外博物館であり、水をはじめとした自然の風化作用や、岩の崩れから出来上がった三つの谷と、屹立する岩層、何千もの岩の家々、岩窟教会、通路などをして、訪れる人々に忘れ得ぬ一時を贈ってくれます。
冬は暖かく、夏は涼しい岩の家を造り上げた地元の人々は、長い年月をかけて生活の場、例えば教会、修道院、鳩の巣穴(肥料になるフンを集める為)、倉庫などを彫ってきたのです。
現在まで残った教会は絵画が否定された偶像破壊期とその以前に建設されたものであり、多くは十字架、魚、葡萄、鹿などのシンボル化されたものが壁画として用いられています。
宗教的な場面のみでその壁を飾り立てたものが皆無である事をみると、ゼルヴェの人々が8世紀に浸透した偶像破壊期以前に於いても肖像画に対して何らかの反発を感じていた事が伺えます。
最も広く、雄大な第一の谷には、崩壊した岩のせいで直接入り込むことは不可能であり、少し遠回りになるが、第二の谷に始まる道をたどらなければなりません。
天井の大きな十字架の浮き彫りや、鹿と十字架のフレスコ画で知られるゲイクリ(鹿の)教会もこの沿道にあります。ゼルヴェの第一の谷にある石造りのモスク、岩の中に石やセメントを用いて色々な設備を有するさまざまな造りは、ここで近年まで地元の人々が生活を営んでいたことを語る、声なき、しかし重要な証人と言えるでしょう。
ゼルヴェ谷の特徴として注目したいのは、特に第一の谷に見られる鳩の巣穴です。何百年もの間、カッパドキアの人々がその肉を食用としてきた、あるいは、フンを肥料として用いた鳩の為に作られたもので、鳩の出入り用に削って開けられた穴の周囲を彩る図柄や人物画は、学者達に新しい研究課題を提供しています。
あまり人の入り込まない第三の谷には、偶像禁止期以前に造られたウズムル教会(葡萄の教会)と、偶像禁止期の真只中で建設されたハチル教会(十字架の教会)があります。
アヴァノス
古代名ヴェネッサ。近郊のトパクル・ホユック(塚)で実施された発掘調査で出土した旧、中期ヒッタイト時代に属する品々や、その形跡が現在もうかがえるゼウス信仰の跡、ヘレニズム時代の墓などは、この町が様々な時代に重要な役割を担ってきた事を物語っています。
ビザンチン時代の後、長い間にわたってセルジューク・トルコの支配下におかれた町は、1466年にオスマンの領土に組み込まれました。セルジューク時代のアラエッティン・モスクと、16世紀はオスマン帝国時代のイェルアルト・モスクの二つの回教寺院に注目してみましょう。トルコ最長の川クズルウルマクによって二分されるアヴァノスは、今日、窯業と手織り絨毯の町として、全国的に名を馳せています。
ヒッタイト時代から続く窯業は、町の経済を担うもので、クズルウルマク川の堤の土に砂を混ぜたものが使用されています。外気を遮断する為に中に入れた水などを冷たく保つことができ、昔は日用品としてその需要も高かったのですが、1960年代からの冷蔵庫の普及や水道が引かれたことで、かつての重要性はすっかり影を潜めてしまいました。今日では伝統工芸品として主に観光客への土産用に作成されています。
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ウチヒサル
それぞれに美しく独特なカッパドキアの岩層の中で最も高い点である“ウチヒサルの要塞”は、一帯の雄大な自然が一望できるお勧めのポイントです。三角形の大きな二つの岩は人が手を加えていない全くの自然の形ですが、その外観をして土地の人々は“要塞”と呼んでいます。
地元の人々は避難所として利用する為に大きな岩の塊を選び、この内部を彫り削って多くの要塞を造ったが、それらの中で最も良い例を、カッパドキア地方でも“岩の町”と呼ぶに相応しいここウチヒサルやオルタヒサルに見ることが出来ます。
ビザンチン、トルコ時代にも住まいとして利用された岩の塊には、現在でも人間の暮らしの跡をそこここに見つける事が可能です。ウチヒサルの要塞とその足元にはここ最近まで人々が住んでいましたが、岩の風化で脆くなって危険なことから立ち退いています。
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オルタヒサル
要塞を思わせる大きな岩の塊の周囲にできた町です。かつて、居住用、軍事用に使用されたこの岩には、現在、階段を使って頂きまで上る事ができ、一帯の美しい景色を満喫することが可能です。最も美しい景色を望む為には、川へ向かって歩き、石橋を渡って対岸の丘に登るのが良いですが、中央の大きな岩とその周囲に集中する石造りの家々は、遠くからでも一目瞭然です。
ジャンバズル教会
一帯で最も大掛かりで組織立った調査を実施した司祭ジェルファニオンが足を踏み入れなかった稀な教会で、別名、“アッシャウ・バー教会”とも呼ばれています。オルタヒサルの麓にあって、一般に解放され始めたのはさほど古いことではありません。壁画はギョレメのストゥンル教会(支柱のある教会)のそれを思わせますが、教会の建設された年代については明確にされていません。ハッラチ修道院
四角形の内庭のある修道院で、オルタヒサルの北東にあります。施設の中で、聖バシリウスに献呈された教会には10世紀、11世紀のフレスコ画が見られるほか、墓所、台所がおかれ、小部屋の一つには人物の図柄が残っています。バルカン・デレスィ教会群
オルタヒサルから2kmのバルカン川にある教会群には、徒歩、あるいはロバに乗って行きます。宗教画の禁止された偶像禁止時代、及びアルカイック期に遡るここの宗教施設は、ビザンチン初期に造られた事で、重要視されています。ウルギュプ
古代名をアッスィアナとし、歴史を通じていつの時代も重要な居住区であり続けてきました。セルジューク時代に於いてはバシヒサルと呼ばれ、ネヴシェヒルから18kmの場所に位置しています。町の中心に屹立する巨大な要塞はトルコ期に造られ、重要な居住区としても利用されてきました。
ウルギュプはビザンチン、オスマン時代の岩を削って造った家の他に、美しく装飾を施した石造りの家でも有名で、一帯で最も素晴らしい家がここで見られると言っても過言ではありません。
トルコ期の建造物として、カドゥの要塞、カラマンオールラル・モスク、アルトゥンカプ霊廟、タフスィナー図書館を挙げる事が出来ます。
町の中心には多くの宿泊施設があり、一帯の観光業の担い手として重要な役割を果たしていることがうかがえます。
ムスタファ・パシャ
ウルギュプから6㎞程の場所に位置する小さな町で、かつてはシナソスと呼ばれていました。ここでは、外壁に様々な動物の図柄を描いた家々、オスマン時代の隊商宿、地方で最も新しい19世紀に造られた岩窟教会などに注目しながら見学してみましょう。ここに残る文化遺産に注目すると、ムスタファ・パシャがビザンチン時代とそれに続くトルコ民族の支配下に於いて、一帯の中で重要な位置を占めていたことがわかります。ソーアンル渓谷
ウルギュプから34㎞程の場所には景観の美しさと融合した教会で知られるソーアンルの谷があります。随所に見られる鳩の巣穴、その当時の名高い画家達によるフレスコ画で彩られた教会。ただの岩の塊を、外観からもいかにも“教会”のように削られた岩層に、周囲の自然の美しさが加われば、人気のある観光スポットとして人々の注目を集めないはずがありません。
初期キリスト教時代から人々が住み着いたこの谷には9世紀~13世紀の間に教会が造られましたが、そのうちのいくつかの建築年代が明確にされたことは、カッパドキア一帯に存在する他の教会の歴史を探る手懸かりとして大いに役立ちました。
谷の教会は各々に異なるフレスコ画と建築様式を以て、他の地区の教会と明確に区別することができます。特に岩を外側から削り、かつての石造りの教会に似せた“クッベリ・キリセレ”(ドームのある教会群)は、カッパドキア全域を見渡してもこの谷だけのものです。
ジャナワル教会(怪物の教会)
一帯の多くの教会と同様、その名を聖ジョージが退治した龍(大蛇)に由来するこの教会も11世紀~13世紀のフレスコ画をして、カッパドキアの最も美しい教会の一つに挙げられています。後陣には聖母とヨハネに囲まれたキリスト、使徒にパンとワインを分けるキリストが描かれていて、丸天井のア-チには詳細にわたる“最後の審判”が見られます。
カラバシ教会(褐色の頭の教会)
1060年~1061年に建造されたことが解明されたことで重要な意味を持っています。長い碑文によるとコンスタンチン・ドゥカスの時代に造られ、当時の有名な画家によって装飾画が作成されたことがわかります。セルジューク・トルコがアナトリアに進攻して間もなく造られたことを考えると、その壁画の見事さにも別の輝きが見いだせるでしょう。深く削られた後陣の、使徒にパンとワインを分け与えるキリストの図に注目してみてください。又、キリストの誕生、献呈、磔、黄泉の国へ、などの場面も表現されています。
クッベリ教会(ドームの教会)
石造りの教会を見本にして円錐形の岩を削りながら造った三つの教会があり、特に鋭角なドームは珍しいです。概して10世紀のフレスコ画で装飾される教会のうちで最も重要なのは“サクル・キリセ”(隠れた教会)でしょう。フレスコ画はかなり損傷が激しいですが、聖ペテロと聖パウロが表現されており、共に描かれる皇帝ネロと拷問される二人の聖人、そしてその殺害の場面はカッパドキア一帯でも稀に見られる珍しいテーマと言えます。
バルバラ教会
11世紀の前半に建築されたことがその碑文からわかります。教会の保護者として登場するバシリウスは、一帯を支配した軍人でしょう。専門家達の論争の的となっている壁画は、あたかも映画のシーンの様にストーリー性があり、アルカイック期とギョレメの有名なストゥンル教会群建設の間の過渡期に造られたとされています。壁画にはエフェスの眠れる七人の聖者、キリストの誕生、黄泉の国へ、水をワインに、等も表現されています。
ウフララ渓谷
ハサン山の裾野、ウフララ渓谷の自然美は御伽噺の世界そのものです。この有名な火山と側にそびえるギョッル山からの溶岩や火山灰は辺り一面を覆い尽くし、厚さ100mにもおよんだ層をメレンディス川が少しずつ削り取る様にして流れ、やがて長さ15km、深さ150mの規模に及ぶ谷が口をあけました。
セリメ村とヤプラクヒサル村の妖精煙突がアクセントとなって美しさに更なる美を添えるここウフララ渓谷へと世界中の人々が足を向かわせるのは、単にその自然美のみではなく、同時にここが歴史的遺産の宝庫だからでもあるのです。
ウフララ渓谷はウフララ村に始まりセリメ村まで続き、直線距離としてほんの8km程ですが、谷の切り口が約30ケ所ほどもあって湾曲を描く為、渓谷の長さは15kmと表現するのが妥当でしょう。
新石器時代と鉄器時代に属する出土品で注目されるアクサライ近郊のアシクルホユック(ホユック=塚)、アナトリア最大の塚にあげられる同じくアクサライのアジェムホユック。
地方の歴史については実施された発掘調査で見つかったこれら二箇所の塚が多くを物語っており、アジェムホユックの解明は、そのままハサン山一帯についての深い、しかも重要な史実の解明となると言えます。
主要交易路、そして軍事路上に位置するアクサライ地方は7世紀以来激しい襲撃の的となり、多くは南方からの攻撃に対して地元の人々はもとより、中央のビザンチン帝国は非常に慎重な対策を講じていたことがわかります。
キリスト教時代の初期以来、ウフララ及びベリスルマ渓谷には権威ある修道院が数多くおかれ、難路の為にあたかも外部から遮断されたかの様なこの谷の地理的条件のおかげで、古代より一帯はさほど被害を受ける事がありませんでした。アラブがこの地に襲撃をかけた時でさえも、この谷は人々の注意を集めることがなかったと言え、ここに建つ7、8世紀の教会などはその事実を裏付ける良い一例です。
セルジューク・トルコがアナトリアに侵入して帝国を建設して以来、セルジュークの支配下におかれた一帯で、教会の一つにセルジュークのスルタンとビザンチンの皇帝の名が一緒に記されているのは、セルジュークがキリスト教徒に示した寛容さにほかなりません。
エジプト、パレスチナ、シリアをはじめ、アナトリアの様々な小国からやって来た牧師や行商人の避難所でもあったウフララとベリスルマ谷の建造物は、建築様式にしてもフレスコ画等の宗教画にしても、他の谷のものには見られない独特のものがあります。
人目につきにくく目立たない、しかも交通の不便な谷に注目した学者は多くはありません。フランスのニコル&ミシェル・ティエリーが1950年にカッパドキアで始めた調査は、1958年にウフララ谷周辺で集中的に継続され、その末に出版された文献は次第に人々の視線を当地に引き付ける結果となりました。
アーチアルト キリセ(木の下の教会)
カッパドキア一帯で最古の教会の一つである聖ダニエル教会の歴史は6世紀に遡ります。十文字の基礎の上に建ち、中央ドームにはキリストの昇天の模様が描かれているほか、吉報、訪問、エジプトヘの逃避、三人の王の訪問などをテーマにしたフレスコ画が残っています。教会の名は、一部は良い状態に保たれている西側の聖ダニエルと獅子の絵柄に由来しています。
プレンリ セキ教会
10世紀の小さな教会で、身廊にはセバスタの40人の聖人、最後の審判などを主題にしたフレスコ画が描かれています。内部にはキリストの誕生、聖母のエリザベスヘの訪問、東方の三博士の絵が見られます。ユランル キリセ(蛇の教会)
シリアやエジプトの影響が顕著な宗教画は、その色といい、選択されたテーマといい、他の教会のものとは歴然とした違いがあります。最も重要なフレスコ画は教会の入り口にあり、蛇に襲われる女性が描かれています。彼女の犯した罪が何であるかは側の文字にて説明されており、即ち不義(姦通)をおかし、子供に乳を与えず、人を中傷し、柔順でない女が蛇に罰せられている模様が表現されています。
エーリタシ教会
9世紀、川の対岸に建てられた教会で、損傷は激しいです。建物の周囲に散在する数多くの墓は、ここが一帯で最古の修道院であったことを裏付けると言えます。天井には大きな十字架が描かれ、受胎告知、東方の三博士などのフレスコ画が描かれています。
ベリスルマ渓谷
この谷を訪れる観光客は稀です。谷間に建つ教会のほとんどはビザンチンの伝統を守ったもので、例えばスンブッル、ディレキリ、アラ教会などはビザンチン時代の10、11世紀に遡る美しい一例です。特にディレキリ教会は殊の外見事なフレスコ画をして、アラブの襲撃以降に迎えた黄金期の到来を告げるものとされています。1295年に建設された聖ジョージ教会にはセルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が並んで印されており、セルジュークの支配下にあったキリスト教徒達が自由に教会を建設できたことといい、如何に寛大な扱いをされていたかをしめすものと言えます。
ギュゼルユルトゥ
古代に於いてはゲルヴェリと呼ばれ、ウフララ谷の西12kmに位置する頂きとその裾野に形成された重要な居住区は、石造りの家、各々に特徴ある造りの教会、岩を削って造られた集落など、訪れる人々に強い印象を与えるスポットです。特に有名な宗教家グレゴリウスに献呈され、今日ではモスクとして機能するかつての教会は注目に値します。十文字の基礎上に石のブロックを用いて造られた、ドームのある美しい教会です。
セルジューク、及びオスマン帝国時代、宗教の教えに忠実に沿って建物を造り続けたキリスト教徒達は、1924年、ローザンヌ条約に基づいて実施されたトルコ・ギリシア間の民族交換までこの地を住まいとしてきました。ギュゼルユルトゥ近郊には4kmにわたる“修道院の渓谷”があり、その教会や修道院の数からして、如何に大切な宗教活動の中心地であったかがうかがえます。
スルタンハヌ
アクサライ~コンヤ街道上には1229年にセルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトによって造られた4,500㎡もの面積を有するアナトリアで最も壮大なトルコ芸術の一つスルタンハヌがあります。夏と冬用の宿から構成され、高い壁と見張り用の塔とて、あたかも要塞にも似た様相を呈しています。
これを建築したムハメッド・ビン・チャヴランの名が印される美しい内扉をくぐって隊商宿の内庭に出てみてください。左手に旅入用の宿、浴場、倉庫がおかれ、中央には高い東屋風の礼拝所も設けられています。次の扉を抜けると五本の小径にて分離された、このキャラバンサライの奥の間に出ます。
アライハン
アクサライ~ネヴシェヒル街道上にセルジュークのスルタン・クルチ・アルスランニ世が1192年に建造させた隊商宿です。アクサライから35km、セルジュークの歴代スルタンによって設置された多くの隊商宿の中でも、初めてのものとして大変重要です。壁は破損し、記念門も時の流れと人々によって破壊されたにも拘わらず、当時の豪華さを偲ばせるものと言えます。特に記念門は名高いセルジュークの石細工が如何に高い技術を有していたかを証明するもので、二つの胴体に一つの顔をもつ獅子はスルタン・アルスランニ世を象徴すると考えられており、注目に値します。
アーズカラハン
アクサライを過ぎたところに非常に保存状態良好な設備があります。有名なコンヤ~カイセリ街道上に数多く見られるキャラバンサライ(隊商宿)の一つで、冬用に使用された部門につながる記念扉上の文には、1231年、セルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの治世下にホジャ・メスド・アブドゥッラによって着工、グヤセッディン・ケイフスレヴの時代に完成した、と記されています。この美しい記念扉の装飾には、人物、動物、植物のモチーフはあまり多く使用されておらず、むしろ幾何学的な図柄で飾られています。ここから入る内庭の中央にたつのが礼拝堂です。
オレスィン ハン
アーズカラハン程近くには、13世紀の末頃に建てられたと想定される隊商宿があります。セルジューク帝国時代に建設された他の宿に比較すると面積520㎡と非常に小規模であり、記念門や壁はかなり激しく損傷を受けている為に、そこから建築された年代を辿っていくのは残念ながら不可能です。ネヴシェヒル
18世紀初期までムスカラと呼ばれたアナトリアの小さな村ネヴシェヒルの運命は、この地に生まれ、土地の人々と故郷を生涯忘れることのなかったイブラヒム・パシャと共に激変しました。イスタンブールの宮殿でヘルヴァ(菓子の一種)職人の見習いとして働いていた彼は、その真面目さと賢さで頭角を現し、オスマン帝国の最高位にまで出世しました。スルタン・アフメット三世の治世下で最初は相談役、次にパシャ(総督)となり、皇女ファトマ・スルタンと結婚すると宰相の地位を得ました。パシャの活性化政策をきっかけに拡大を始めた彼の故郷は、“新しい町”を意味するネヴシェヒルと改名されました。
時はチューリップ期、繊細な神経をもつ芸術愛好家イブラヒム・パシャは、自らの資金でモスク、神学校、ハン(商館)、図書館、ハマムを造らせる一方、近郊から新天地を求めてやって来た人々には税の控除を認めて人口を増大させたので町は大いに活気づきました。国有地を一般に払い下げ、郊外には桑畑を設けて、一帯への養蚕業導入にも力を注ぎました。
こうして交易の要所への一歩を踏み出したネヴシェヒルの人口は間もなく17,000人に達しました。彼の没した1730年、建設活動は一旦停滞したとは言うものの、町の重要性はオスマン帝国、トルコ共和国を通して何ら変わることなく、1954年には同名で呼称される県の県庁所在地に指定されています。
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セルジューク、オスマン帝国期の建造物で最も古いものは、イブラヒム・パシャが修復させた町を見渡すセルジューク時代の城塞で、二つの門と塔とで厳しい風情をみせています。
18世紀に建設されたイブラヒム・パシャ学問所はモスク、神学校、図書館、浴場などを包含する総合施設で、最も注目したい建物のひとつと言えます。この施設の中のクルシュンル・ジャーミの内庭入口部には当時の高名な詩人ネディムの詩文が残り、噴水のドームやモスクの内装などにはチューリップ期の特徴が顕著にあらわれています。
アチュクサライ
ネヴシェヒル~ギュルシェヒルの間には、岩を刳り貫いて造った家々、馬屋などが、約1k㎡にわたる範囲に散在するアチュクサライ地区があります。修道院、隊商宿、軍の施設、大きな居住施設、またはこれらの混在した地区とその使用目的には諸説ありますが、ただ彩色された教会が皆無なことを考慮すると、ここが修道院であった可能性は低くなります。
また、同じ理由、つまり壁画の無い事がら、ここの年代について見解を述べることも困難になってきます。
ハジベクタシ
ネヴシェヒル県の北、ネヴシェヒル~クルシェヒル街道上にある郡の中心ハジベクタシの経済は農業が担っています。高名なベクタシ教団の設立者ハジ・ベクタシ・ヴェリの町として知られ、13世紀に教祖がここに教団を置いたことで宗教色の濃い場所と言え、現在は訪れる観光客も多いです。ハジベクタシ博物館
ハジベクタシ僧院と西から東へと連なる三つの内庭、その周囲に設けられた様々な施設から構成されています。主要門から入る第一内庭には浴場と洗濯場、及び1897年に造られたウチレルの噴水泉があります。第二内庭には碑文の記された噴水とアスランルの泉(獅子の泉)があり、対面には現在、調理器具類や大鍋が展示されるかつての貧民救済の為の無銭食堂と、スルタン・マフムットニ世の命による礼拝堂が見られます。
書物によると、1367年に遡る中央の館は、この教えに入信の際、様々な儀式が執り行われた所である為に最も重要な場所とされ、階級を示す上衣など、教団に係わる品々が保存されています。
廟のおかれる第三の内庭には、ベクタシ教団上層部の人々に属する葛籠の他、ハジ・ベクタシ・ヴェリの棺もあります。典型的なセルジュークの廟の特徴を有するここの壁、及び天井には、植物の図柄、文字による装飾が美しく施されています。
カイセリ
エルジェス山の北側斜面、カラス川の灌漑でできた平地の端に位置するカイセリは、今日、織物、砂糖の精製、飛行機の保全などで生計を支える活気ある町です。
歴史の初期から人々が集落を形成し、考古学の専門家達によって発掘された遺跡のキュルテペとエーリキョイ・ホユックは有名です。初期青銅器時代、アッシリア交易植民市の時代、ヒッタイト期に重要な役割を担ったカイセリとその近郊は、後期ヒッタイト時代にタバル国の名で呼ばれていました。
アッシリア等に続き、550年以降はペルシアの支配下におかれてサトラップ制のもとでカッパドキア郡の中心都市として活躍しました。その当時の名を“マザカ”とし、アレキサンダー大王の来訪と共にマケドニアの手に渡りましたが、大王の死後はペルシアに祖をもつアリアラテス族の支配下にしかれ、独立国であるカッパドキア王国の中心としてユーセベイアの名で知られる様になりました。
アリアラテスの勢力はポントス王ミトリダテスがB.C.90年に自らの子息をカッパドキア王として宣言するまで続きました。B.C.66年、カッパドキアは再びローマ人の手中に落ち、長い間ビザンチンの支配下におかれました。アラブの襲撃に際して何度か崩壊の危機に瀕しましたが、1071年のマラズギルトの戦いの後は、セルジューク帝国の要地としてその地位を一時、確立させています。
1097年、第一回十字軍により征服され、以降、ダニシメンオール、セルジューク、そして1243年に勃発したキョシェダーの戦い以降モンゴルに支配され、多くの戦いをくぐり抜けたアナトリアの中心に位置するここカイセリが、最後にオスマンの領土に包含されたのは1515年のことでした。
カイセリの要塞
地理学者ストラボンによると、古代カエサレアの町には城壁がありませんでした。
最初の城壁は東からの脅威ペルシアの襲撃を仮定して建造されたと推測されます。
6世紀の資料によると、有名なビザンチン皇帝ユスチニアヌスの時代に造られ、長きにわたって町を守り続けたこの要塞には、セルジューク、カラマンオール族、オスマン時代に修復、増築の手が入れられました。内外の二重の造りをもち、トルコ軍事建築の最も見事な一例です。
ウル・ジャーミ
資料によると1135年~1150年の間に建築され、約1750㎡の面積で、カイセリで当時最大のモスクでした。ミヒラブ(メッカの方向におかれた壁の窪み)に並行して八つの区画がとられ、二つのドームに覆われています。ファンド・ハートゥン学問所
アナトリアで最初の、そして最も美しい学問所は、モスク、神学校、ハマム、霊廟を備えた総合施設で、1238年、セルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの母御マフべリ・ハートゥンの命によって建造されています。クルシュンル・ジャーミ
オスマン帝国お抱えの建築家スィナンが1584年に造らせたと言われる小規模なモスクです。外側をクルシュン、即ち鉛で塗装したドームがその名の由来です。ドネル・キュンベト
霊廟の町とも言われるカイセリで最も有名な記念墓は、町の南西に位置しています。セルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの娘ジハン・ハートゥンの為に1276年に造られた廟で、動物、植物、幾何学模様を用いた装飾がセルジュークの石細工の美しさを披露しています。シファイエ学校
1202年~1206年、セルジュークのスルタン・グヤセッティン・ケイフスレヴによって造られ、アナトリアに見られるセルジューク時代の最も古い医学校で病院として特筆に値します。考古学博物館
各時代の最も美しい作品を以てアナトリア文明を物語るこの博物館は、長く複雑に絡み合ったカッパドキアの歴史を理解する為の手助けをしてくれるに違いありません。 1969年に開館して以来、中央アナトリアの地方博物館として独自の位置を保ってきました。庭にはカイセリの南で発見されたフラクティンの記念碑の模倣作品があるほか、ヒッタイト時代はギョッルダーの獅子も有名です。展示品として、アナトリアの母神像、ヒッタイトの土器、ヒッタイトの嵐の神を表す浮き彫りなどがあり、ギリシア、ローマ時代に属する作品も一見の価値があります。
スルタンサズルー
カイセリ近郊の鳥の楽園スルタンサズルーでは約251種の鳥が見られます。絶滅の危機に瀕する72種のうち20羽がここで抱卵し、保護下におかれています。また、黒鶴、アオサギ、フラミンゴ、ペリカンなどが同じ場所で抱卵していることでも珍しい場所と言えるでしょう。ニーデ
要塞の裾野に広がる町ニーデには、セルジューク、オスマン時代のモスク、神学校、霊廟が多く見られます。その長い歴史にもかかわらず、重要視され始めたのは12世紀と遅く、かつてヒッタイト時代には“ナヒダ”もしくは“ニキタ”と呼ばれ、その後 “ニクデ”となり、共和制になってから現在のニーデに改名されました。町はセルジュークのスルタン・アラエッディン・ケイクバトの時代に修復、再建され、中央アナトリアの要地の一つに成長しました。1333年、アラブの地理学者イヴン・バトゥーダが来訪し、「ニーデがカラマンオール族とモンゴル人の戦いにより、廃墟同然となった」と記しています。
その後、異なる民族の支配下に入り、1470年、征服王スルタン・メフメットの時代にオスマン帝国の領土となりました。
セルジューク、オスマンの歴史を反映する多くの記念碑や建造物の保存状態は良好と言えます。
エスキギュムシ
ニーデの北東にあるギュムシレル村のこの岩窟教会には、ニーデ~カイセリ街道の5kmの地点で東に別れる道を辿って行きます。長い回廊をわたって出るエスキギュムシ修道院の内庭の周りには、様々な用途の為に設けられた小部屋がおかれています。フレスコ画がビザンチン以前の年代に属することや、テーマも宗教に無関係な狩りの場面などによる事を考えると、ここがかなり古い時代から使われていたと推定することが可能です。
修復作業によって、ここのフレスコ画が三人の画家の手でそれぞれ異なる時代に作成されたことが解明されました。11、12世紀のフレスコ画で飾られるこの総合施設には、一帯の最も大きな修道院の一つがあります。
カッパドキアといえば大人気の熱気球ツアー
カッパドキアでは多彩なアクティビティを楽しめますが、中でも人気が高いのが早朝の熱気球ツアー。地上から数千フィートの上空で約45分~1時間程度の空中散歩を楽しみつつ、朝日に照らされてオレンジ色に染まった奇岩群が並ぶカッパドキアの絶景を堪能できます。大空に浮かぶ色とりどりの気球をホテルのテラスから眺めるのもおすすめです。
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カッパドキア特有の地形を利用した洞窟ホテル
見どころが多いカッパドキアはとても1日では回り切れないため、2~3日滞在するのが一般的です。カッパドキアで宿泊するなら、この土地ならではの凝灰岩をくり抜いて造った洞窟ホテルがおすすめ。世界遺産に登録されているエリアで、古代の人々と同じように洞窟の中で寝泊まりするのは、まさにここでしかできない特別な体験です。冷暖房、テレビ、インターネットといった現代的な設備は一通り完備されているホテルが多いので、安心して宿泊できます。
カッパドキア旅行なら洞窟ホテルがおすすめ!人気ホテルをご紹介
世界遺産カッパドキアを舞台としたパルムドール受賞の映画『雪の轍』
トルコの巨匠、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の映画『雪の轍』は、2014年の第67回カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドール大賞を受賞。この映画は、世界遺産カッパドキアを舞台にした作品で、カッパドキアの壮大な景色をバックに、繊細な人間ドラマが美しく描かれています。
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カッパドキア旅行・ツアーで役に立つおすすめ情報
トルコ旅行の持ち物・トルコ旅行に行く前にご用意いただくもの トルコ旅行前に持ち物や準備しておくことなど、いろいろ質問したい事ってありますよね?座席リクエストとオンラインチェックイン、ホテルのアメニティやチップ 、モスク入場の際の服装など…このようなよくある質問にお答えいたします。 |
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高級ホテル・カッパドキア洞窟ホテルガイド カッパドキアの洞窟ホテルは斜面を利用して岩を削って建築されたホテルです。アーチ天井の部屋、石壁造りの部屋、自然の岩をそのまま活かした部屋などがあります。お部屋にカッパドキア風の家具や絨毯を置いて、味わいあるお部屋となっております。 |
トルコ観光・ツアーで使いたいトルコ語「プチトルコ語講座」 海外旅行に行った際、現地の言葉で「ありがとう」と伝えると喜ばれます。親日家トルコでも日本人がトルコ語を話すと皆笑顔で喜びます。簡単な言葉でも話せるだけで旅の楽しみが広がりますよ! |
服装・マナー・風習などについて トルコ旅行でスカーフは必要?トルコの女性は着用していますか?現地での購入方法は?トルコ旅行前に知っておきたい!スカーフの基礎知識・服装・マナー・風習などについて紹介します。 |
トルコのお金・トルコリラへの両替・為替レート トルコでは現地通貨トルコリラの他、場所によってはUSドルやユーロ、日本円も使えます。日本でのトルコリラの両替はレートが良くないため、現地の空港か市中の両替所を利用するのがお得です。クレジットカードを使えるお店も多いため、全てを現金でまかなう必要はありません。 |
トルコの物価や旅行にかかる費用はどれくらい?相場を詳しく解説 トルコの物価って実際どれくらいなの?トルコリラや宿泊費や食事の費用など、知って得するお得情報を徹底解剖!トルコに旅行や観光に行く場合、気になるのは物価についての情報です。日本と比べると高いのか、安いのか、どれほどの予算が必要なのか、わからなくなってしまうと大変でしょう。 |
電圧・プラグ・Wi-Fi環境 トルコの電圧・プラグ・Wi-Fi環境を徹底解説。トルコでは、イスタンブールやアンカラといった大都市やカッパドキアのような観光地であれば街中のカフェやレストランでほとんど無料Wi-Fiがあります。 |
水・トイレ事情 トルコでは、トイレのことをTUVALET(トゥワレット)と言います。トルコ式トイレ/アラトゥルカ:和式トイレに似ていて使用法もほとんど同じです。ただし、しゃがむ方向は和式と反対でドアを前にしてしゃがみ、用を足します。 |
トルコの入国と出国。パスポートの残存有効期間やビザ情報 トルコへの入国、トルコ出国の流れやトルコまでのフライトと飛行時間を徹底解説。トルコツアーでのビザの有無、入国カードの記入やパスポートの残存有効期間情報。 |
イスタンブール旅行・ツアーのおすすめ観光名所・レストラン徹底解説 イスタンブール旅行・ツアーで、ぜひ訪れたいおすすめの観光スポットを案内。トルコ料理を味わえるおすすめレストラン、イスタンブールで買えるトルコのお土産も紹介します。 |
トルコ旅行でおすすめのお土産ランキングBEST25!雑貨・お菓子・化粧品 トルコには、エキゾチックなムード漂うアクセサリーや雑貨、チャイなど、日本では買えない魅力的なお土産が盛り沢山!ばらまき用に人気のお菓子や化粧品、購入場所についてもご紹介します。 |
トルコ観光ガイドの関連MEMO
- トルコの世界遺産情報(18ヶ所)
イスタンブール、カッパドキア、トロイ遺跡など18ヶ所のトルコ世界遺産を簡単に紹介させていただきます。世界遺産観光を楽しめるトルコ旅行も数多く案内しています。トルコが誇る世界遺産の旅行に行きたいなら情報満載です!
イスタンブール イスタンブール歴史地区は旧市街にある4つの保護地区から成っている。地区にある代表的な建造物はトプカプ宮殿、アヤソフィア、スルタンアフメトモスクなど…
パムッカレ・ヒエラポリス パムッカレは石灰分の高い鉱泉水が作り上げた丘陵地の名前であり、2世紀頃、ヒエラポリスというローマ帝国の都市が存在したが度々の地震でダメージを受け、現在は遺跡が残る。
トロイ 都市イリオス(トロイ)は地震や火災や戦争などで滅亡と再建を繰り返しており、発掘によってトロイの遺跡は主となる9つの層から構成されている事が分かっている。遺跡の入り口には有名なトロイの木馬の複製がある。
カッパドキア 悠久の歳月をかけて自然が造り上げた奇岩群と、火山灰に覆われた一帯を削って地下都市や岩窟教会を作り暮らした人々。自然遺産と文化遺産が調和した世界を見ることが出来ます。
エフェソス 古代都市が良好な保存状態で残されており、世界三大図書館に数えられるセルシウス図書館や聖母マリアの家などの貴重な遺跡を数多く見ることができます。
ギョベクリテペ 1996年から発掘作業が始まったが、いまだにこの遺跡がどのような目的で建てられたかは分かっていない。一番古い構造物は1万2000年前に建造をされており、考古学的価値が非常に高い遺跡。
ペルガモン|ハットゥシャ|チャタルヒュユク|ネムルート山|セリミエ・モスク|サフランボル市街|ブルサとジュマルクズク|クサントス・レトゥーン|アフロディシアス|ディヴリーイのウル・ジャミィ|ディヤルバクル城壁|カルス県「アニ遺跡」
- トルコ地中海・エーゲ海リゾート観光ガイド トルコが誇る地中海・エーゲ海リゾートは欧米諸国では人気のリゾート地です。青い海、停泊しているヨットの数々、賑わいを見せる街、どれをとっても日常を忘れ去れる時間が流れています。
- トルコ一人旅・おひとり参加可能なツアー ひとり旅でも、好きに動き、好きに立ち止まり、おいしいものを食べ世界遺産に感動する事は自分自身のデトックスにもなります。そんなトルコの旅を紹介します。
トルコ観光・ツアー口コミ・評判
ターキッシュエア&トラベルをご利用のお客様の声ご参照ください。 口コミ一覧トルコツアーについてよくある質問一覧(Q&A)
トルコツアーに参加する方から多く頂く質問をまとめました!観光内容以外にツアーについてひとつでも気になる事がある方は必見です。 詳しく見る
トルコ政府リンク集一覧
トルコ政府観光局オフィシャルサイト(日本語)http://www.tourismturkey.jp/ Go Turkey(英語)
https://www.goturkey.com/ トルコ航空オフィシャルサイト(日本語)
https://www.turkishairlines.com/ja-jp/