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イスタンブール観光
人口1400万人のトルコ最大の都市イスタンブールは北緯41度、すなわちナポリと同位置にあるが北風の為に涼しく、素晴らしいリゾート地である。世界で唯一つ二大陸に跨る都市の主要地はヨーロッパの南東突端に位置し、ボスフォラス海峡によってアジア側とに二分されている。そして更にヨーロッパ側イスタンブールは金角湾を以って南側に古代のイスタンブール、北側にガラタ、ベイオール(旧ベラ)の二つの地区に分割されている。旧スクタリ(現ウスキュダル)は海峡のアジア側に位置している。

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〔イスタンブールの歴史〕
セミストラ族が金角湾の末端に居留し始めたのはB.C.1000年頃である。B.C.9世紀頃から彼等は既にリゴス族が居を構えていたセラグリオ上部のアクロポリスに定住する事になる。アクロポリスに植民地が設定され始めた頃、即ちB.C.667年にメガラのビザスがビザンチウムを創造したと言い伝えられている。
その歴史の初期から商取り引きの要所であったビザンチウムはB.C.5世紀までペルシアの支配下に置かれる。196年、ローマ皇帝セプティミウス・セベルスが都市を征服し全滅させたが、子息の要望を受け入れてこれを再建させた。330年になると皇帝コンスタンチヌスはここをローマ帝国の首都であると宣言し、自身の名に因んでその名もコンスタンチノープルと命名した。都市の黄金期はユスチニアヌス帝の時代(527~565)に到来する。皇帝の死亡時に帝国の領土はユーフラテス川からジブラルタルにまで及んだが、良き時代は長くは続かず7~8世紀になるとペルシア、アラブの攻撃を次々と受けた。1204年、第4次十字軍はここにラテン帝国(1204~1261)を建国したが、再び1261年にパラエログス家がビザンチンの帝位を奪回し、1453年にはオスマン人の手に渡るのである。    
トルコ人による征服と同時に新しい時代が到来し、都市はオスマン帝国の首都として470年間(1453~1923)の繁栄を見せる。16世紀はオスマン帝国が勢力と文化の両面で頂点に達した時代である。しかし17~18世紀になると時のスルタン達は最高官吏やイェニチェリ(近衛兵)の言いなりになり、文化的にはヨーロッパの影響を受ける様になった。19世紀、ヨーロッパ諸国との摩擦が強まる中、1912年に都市はブルガリアに圧力をかけられ、1918年になると英国と仏国に占領された。1922年にはスルタン制が廃止され、翌23年になるとトルコは共和国宣言をし首都をアンカラへと移したのである。


トルコ観光・ツアーと言うとまず頭に浮かぶのはイスタンブール観光。。。もしかしたらイスタンブールと言うとエキゾチックな町って言うイメージしか浮かばないのでは?

トルコのツアーをお考えの皆様、まずは右側の2分間のイスタンブール散歩のビデオをご覧
ください。 → → →


*以下イスタンブール旅行・イスタンブールツアー・イスタンブール主要観光地抜粋をご紹介いたします。


トプカプ宮殿観光〕(Topkapi Sarayi)

周囲を堅強な城壁で包囲されたトプカプ宮殿はトルコ普通建築の遺産としては最も大規模であり、70万m2の敷地の内に東屋やモスク、泉等を有する複合建造物である。〈トプカプ〉とは〈大砲の門〉の意味である。トプカプ宮殿はイスタンブール観光の一番メジャーなスポットである。
イスタンブールを征服した1453年当時、メフメット2世は現在のイスタンブール大学とスレイマニエ・モスクの辺りに宮殿を有していた。現在の宮殿は元の住まいが手狭になった為に1459年に建てられたものである。ここは1839年にスルタン・アブドゥルメジットがドルマバフチェ宮殿を新築して移るまでスルタン達の公式の住まいとして使用され、16世紀になるとハレムも増築されている。
帝国の黄金期には、4つの内庭とハレムから成るこの宮殿には何と4,000人もが居住したと言う。
第一主要門〈皇帝の門〉を潜った第一庭園左手には第2回宗教会議の舞台となった聖イレーネ教会が見える。
第二庭園:庭園の右手、およそ300年もの間、常時800人の料理人等が働いていた宮殿の厨房は、今日、中国や日本の見事な陶磁器が展示されている。10,700点の貴重な陶磁器を以って北京、ドレスデンに次ぐ世界第三のコレクションと言われている。左手には最高官吏の執務室と公文書保存室から成るディバン、即ち閣議場(クッベ・アルトゥ)が位置する。ここの隣には、かつてスルタンの宝物庫として使用されていたトルコ、アラブ、ペルシア等の武器武具展示室がある。
バービュスサーデット(幸福の門)を抜けると第三庭園に出る。門の正面は謁見の間(Arz Odası)である。宮廷衣装の展示室である東側の建物は、時の遠征軍学校であり、非常に貴重で珍しいスルタンの宝石を4部構成で展示した宝物殿がこれに隣接する。特筆に値するものとして:匙職人のダイヤモンドの名で呼ばれる世界第七、86カラットのダイヤモンド、数千のダイヤモンドを散りばめ、各々の重さ48kgの金の燭台、真珠やエメラルドを散らしたトルコーインド風玉座、べっ甲と真珠貝を象眼細工したアフメット1世の玉座、祝日の式典に使用された重さ250kgの黄金の玉座、映画〈トプカプ〉で有名になったダイヤモンドとエメラルドで装飾した黄金の短剣、重量3,260gと1,310gの巨大なエメラルド、勲章の数々、コーランのカバー等を拳げる事ができる。庭園の中央には真珠貝や象牙で装飾されたアフメット3世の図書館(18世紀)がある。この他、第三庭園の中には、肖像画、細密画、時計のコレクションも置かれ、此れ等に加えて預言者モハメッドの髭や足跡等、宗教的遺産の数々も非常に興味深い展示品と言える。は皇子達の割礼の間として使用された同スルタンの東屋がある。

イスタンブール・トプカプ宮殿

〔ハレム〕
回教が男達に4人の妻との婚姻を許した根底には戦争による未亡人の救済と出兵の為の人員確保があったのである。16世紀までハレムの女性達は旧宮殿〈チニリ・キョシュク〉に居住していた。本来トプカプ宮殿は帝国の公務の為に建てられた物であったが、スレイマン大帝のロシア人后ロクセラーナが侍女やかん官達を伴い新宮殿に移る事を強要し、後、セリム2世、ムラト3世によりスルタンやその母御の為の寝室等が増築され、結果としてハレムは400もの部屋を抱える大複合建造物となったのである。
今日、一般公開されている場所は極一部に限られている。
黒人かん官達の小モスク、中庭を包囲する様に配置された3階建てのかん官達の宿舎、側室達の中庭、40室を所有するスルタンの母御の中庭、休息室、マッサージ室、更衣室、湯浴みの聞から成るスルタンの浴室、宮殿全体で見ても最大で最も見事なスルタンの大広間、寝室として使用されていたムラト3世の間、アフメット1世の書斎、壁を果物の絵で満たしたアフメット3世の果実の間、嫡子達が隔離されていた美しい対の間、そして最後に愛妾達の居間とアブドゥルハミット1世の小さな別館を含んだ木造の建物と庭の後、黄金の道(ALTIN YOL)と呼ばれる薄暗い通路を抜けてハレムを後にする。

トプカプ宮殿旅行・観光の案内ビデオ

詳しくは右側のトプカプ宮殿旅行・観光の案内ビデオをご覧になってください。 → →
 
2分26秒  (日本語字幕版)

アヤソフィア博物館観光〕(Ayasofya Müzesi)
325年、コンスタンチヌス帝が建てた最初の教会堂、〔神の知恵〕を意味するアヤソフィアは404年の火災で消失し、415年、テオドシウス2世によって再建されたと言われている。しかし、これも532年のニカの内乱の際に焼き討たれた為、40日後にユスチニアヌス1世はトラレス出身のアンテミオスとミレトス出身のイシドロスに最高傑作をと命じて再度の建設に取りかかったのである。完成を見た5年後、同帝はこれを神に奉納したが、その後も地震等で何度かの修復の手が加えられている。トルコ民族による征服の後、彼等は教会堂にミナレットを付け足し、モスクとして使用したのである。1934年にはアタテュルクによって博物館に指定された。外廊と内廊、ギャラリーと3つの身廊付き広間、庭園から構成されている。

アヤソフィアのモザイク
皇帝の門のルネットには玉座に座ったキリストに右手から平伏すレオ6世のモザイク(9世紀)が見られる。玉座の両上空に施されたのは聖母と大天使ガブリエルである。幼少のキリストを抱いた聖母がコンスタンチヌスとユスチニアヌス帝からの奉納を受ける様子を表わした南口の10世紀の作品も非常に美しい。博物館で最も素晴らしいのは本堂の後陣の上、幼いキリストを膝に抱いた聖母のもの(9世紀)であろう。横には大天使ガプリエルが見られる。南ギャラリーには2つの作品が並んでいる。左側のモザイクはキリストを中央に皇后ゾエと3番目の夫コンスタンチヌス9世を、右側のものは聖母を間に、その右と左にそれぞれ皇帝ジョン・コンネナスと后イレーネ(12世紀)、その子息アレクシスを表わしている。   
聖母マリア、洗礼者聖ヨハネとキリストを表わしたモザイクも必見に値する。  
アヤソフィアの本堂はローマの聖ピーター、ミラノのドゥオモ、そしてロンドンの聖ポール寺院に次いで世界で4番目に大きい。強く、しかも軽量なロードス島産のブロックを使用した中央のドームは高さ55.6m、直径31.5mあり、四方には聖天使のフレスコが描かれている。本堂にはエフェソスから運んで来た4本の御影石の柱やバールベックのアポロ神殿からの斑岩の柱、上階の両側には緑色をした6本の御影石の柱が使用されている。
アヤソフィアに於けるトルコーイスラム装飾として:ミフラブ、スルタンの御座所(19世紀)、全能の神アッラーとモハメッド、彼の孫達、4人のカリフの名を書いた直径8mの緑色をした8枚のパネル等を列挙する事ができる。

ヒポドロム観光〕(At Meydanı)
ビザンチン時代、ヒポドロムは市民活動の拠点であり、シャリオット競技や格闘のみならず、皇帝の叙勲式等も行なわれた。又、二度の流血の闘いと暴動の舞台にもなっている。
長さ400m、幅120m、周囲に40,000人の収容能力を有する階段状の観客席を持つヒポドロムは、南端を半円に形どった設計がなされていた。トラックの中央線には、その内の幾つかが現在にも残るオベリスクや支柱で飾られたスピナと呼ばれる強靭な長い壁があった。

エジプトのオベリスク〕(Dikilitaş)
B.C.15世紀にエジプトのファラオ、トゥトゥモス3世がディールエルバフリの地に建てたもので、およそ2,000年後の390年にテオドシウス1世がイスタンブールヘ移し、スピナへの移行式典を以ってこの場に建立したのである。
見物をする皇帝家の様子を浮き彫りにした大理石の基盤と、その上の4本の真ちゅうに支えられて高さ20mのオベリスクがきつ立している。

〔蛇の円柱〕(Burmalı Sütun)
プラタイアの戦いでペルシアから勝利を勝ち取った31都市によってB.C.479年、デルフィーのアポロ神殿に建立されたものである。3匹の蛇が絡み合った5mの柱は本来8m位の高さがあったと思われる。

〔コンスタンチノープルの柱〕(Örmeli Sütun) 
コンステンテン7世が940年に建てさせた石灰岩の柱である。本来は農民や漁師を描いた青銅で覆われていたが、第4次十字軍によって引き剥がし溶解されてしまった。

コーラ教会観光〕(Kariye Müzesi)
かつてユスチニアヌスの修道院があった周辺一帯はコーラの名で呼ばれていた。
558年の地震で修道院は完全に崩壊したが直ちに建て直され、偶像破壊主義者達による破壊まで存在した。現在の建物は11世紀のものであるが、後に何度か修復の手が加えられている。帝国の最高官吏テオドール・メトキテスは身廊をモザイクやフレスコで装飾する等、細部の修繕を担当し、1313年には外廊とパラクレシオンを追加して敦会を拡大した。
1500年、教会はトルコ人によってモスクに変換された。1948~1959年まで米国のビザンチン研究所の調査によってモザイクやフレスコが復元され、それ以来、博物館として機能している。
モザイクは3部構成となっている。まず外廊には聖家族のエジプトへの旅、キリストの誕生と洗礼、聖家族のナザレへの帰還、エルサレムへ赴く3人の賢人、ベツレヘムでの幼児虐殺他が描写されている。
内廊にはキリストの系図、聖アンナへの告知、聖母の誕生と幼少期、ガブリエルからパンを受け取るマリア、聖母への受胎告知、キリストに教会を奉納するメトキテス、病人を癒すキリスト、キリストの奇跡等が、そして身廊には聖母マリアの死、キリストと福音書、幼少のキリストと聖母が描かれている。パラクレシオンのフレスコは復括、最後の審判、天国と地獄、12天使と聖母、モーゼと燃える薮、ソロモンの神殿に搬入される箱船等が表現されている。

スレイマニエ・モスク観光〕(Süleymaniye Camii)
イスタンブールの7の丘の一つに立つこの荘厳なモスクはスレイマン大帝の時代に建築家スィナンが1550~1557年にかけて建築したものである。内庭、外庭、ドームのある礼拝堂の3部の他、外庭を包囲する神学校、隊商宿、診療所、貧民の為の食堂、ハマム等の付属機関が見られる。清めの泉は外庭の右手に位置し、東側にはスレイマン大帝とロシア人妻ロクセラーナを埋葬した墓がある。内庭は28のドームを支える御影石や大理石、斑岩製の24本の古い柱(本来はヒポドロムにあったもの)に囲まれている。
庭園の中央には大理石の長方形をした泉(シャドゥルバン)がある。モスクの基礎は57×60mの長方形で、建物を覆う高さ53m、直径27.5mの巨大な中央ドームは4本の強靭な柱で支えられている。東窓のステンドグラスは見事である。ミフラブ、スルタンの小部屋、ミンベル(金曜日の説教台)は実に簡素な大理石製である。真珠貝と象牙を象眼細工した説教僧の木製椅子は窓の雨戸と共に特筆に値する。モスクの音響効果は非常に巧妙な方法が採用されており、これに関してはスィナンがこの広大なモスク全体に、しかも外部にまでイマム(説教僧)の声を伝える為にミフラブの地下から四方に向けてパイプを巡らしたのだと言われている。

ブルー・モスク観光〕(スルタン・アフメット・ジャーミ)
[アトゥ・メイダヌ] すなわち旧ヒポドロムの東にアヤソフィアと向かい合ってそびえるイスタンブールで最も美しく、荘厳なモスクである。スルタン・アフメット1世が建築家メフメット・ア一に命じて建造させたこのモスクは、その内部を飾る青緑色のタイルを以って、ブルーモスクの愛称で親しまれている。宗教的な祭典はここで開催され、巡礼者達もここからメッカへの旅の路についたのである。ブルーモスクは世界で唯一つ6本のミナレットを有し、スレイマニエ・モスクと同様、外庭、内庭、ドームのある本堂の3部で構成されている。本堂と同じ広さ64×72mの内庭は、30のドームを支える26本の御影石の柱で囲まれ、中央には八角形の泉が設置されている。ほぼ正方形の本堂の内部は美しいステンドグラスの260の窓から採光されている。中央ドームは高さ43m、直径23.5mあり、厚さ5mの4本の円柱で支えられている。礼拝堂の三方には女性達の為に祈祷の場が設けられ、壁の下部と回廊は21,000枚の17世紀イズニック(古代名ニカイア)タイルで覆われている。外庭にはスルタン・アフメット1世のトゥルベ(墓)や旧コーラン学校がある。

グランドバザール観光〕(Kapalı Çarşı)
1461年、メフメット2世によって建てられた最初の木造バザール(エスキべデステン)は後に何度か火災にあい、1894年に建て直しが図られた。(1954年の火災でこれも焼失している。)現在の建物はドームで覆われた20万m2の敷地の中に約5,000もの店が、あたかも巨大な迷路の様な狭い通路の両側にひしめいている。敷物、骨董品、金銀、皮革製品等、扱っている品物毎に同種の店が集まり軒を並べている。

エジプトバザール観光〕(Mısır Çarşısı)
エジプトの物産、特に香草と香辛料貿易からの税金によって1660年、ハティジェ・スルタンが建てたものである。ドームに覆われたL形のバザールは、イェニモスクの付属物である。

地下宮殿観光〕(Yerebatan Sarayı)
貯水槽の遺跡の中で最も壮大で印象的な建造物である。6世紀に建てられたこの貯水槽には19km郊外にあるベオグラードの森から引水され、主に宮殿への給水の為に利用されていた。面積140m×70m、8万m2の貯水能力がある設備は煉瓦のドームに覆われ、これを支える336本の柱が28本づつ12列に並んでいる。(柱頭はビザンチン・コリント様式)1987年の修繕で200トンの泥を掻き出したところ、メドゥーサの顔を彫刻した大理石の支石が発見された。

焼けた円柱〕(Çemberlitaş)
コンスタンチヌス帝を記念する328年の円柱は当時の集会広場の中央に立つ。かつてはアポロの姿をした皇帝の青銅像が柱の頂上に乗せられていたが12世紀の暴風雨により破壊されてしまった。おそらく火災の為であろうと思われる表面の黒ずんだ色彩が名前の由来となっている。6部の斑岩の円筒から成り、高さ36mである。

金角湾観光〕(Halic)
海の入り江、そして自然港である金角湾はイスタンブールのヨーロッパ側を旧市街と新市街に二分している。ボスフォラスの入り江である湾は角に似た形と日没時に水面が黄金色に輝く事で古くからく金角湾〉の名で親しまれてきた。
平均水深40m、長さ11km、最大幅800m。数世紀の間、沿岸に並ぶ可憐な宮殿や東屋、手入れの行き届いた広大な庭園等は、木陰の泉の回りでの憩いの時をイスタンブールっ子達に提供してきた。しかし残念ながら工場の排水による汚染でかつてのロマンチックな景観が破壊されつつあるが、金角湾に本来の美しさを取り戻そうと政府が政策を組み、尽力している事は嬉しい限りである。(1986~1987年の間に湾の両岸には多くの子供公園や庭園が造園された)

トルコ・イスタンブール

エユップ・モスクとエユップの墓
金角湾の南岸、ビザンチンの城壁の外に位置するエユップ地区には最も神聖なるモスクがある。モハメッドの旗手であったエユップ・エンサーリが埋葬されている事からここはメッカ、メディナ、エルサレムと同様にイスラム敦徒の聖地として敬われている。イスタンブールを征服したスルタン・メフメット2世が1458年に建造したモスクはムラト3世によって改築され、1800年にはセリム3世により新築された。泉の設置された外庭にはこうのとりやアオサギが巣を作り、空には無数の鳩が飛んでいる。
モスクの正面入り口の向かいにあるスズカケの木の後方が旗手エユップの墓である。三方をバルコニーに囲まれた八角形の造りで、内外の壁は最も見事な例である16~19世紀の美しいイズニックタイルで飾られている。中央には銀の刺繍の施されたビロードに包まれた旗手の棺が設置され、間遠に悩む人々がここで頭を垂れる姿がしばしば見受けられる。モスクの周辺の丘は美しい共同墓地であり、ここからの景観も非常に素晴らしい。

ドルマバフチェ宮殿観光〕(Dolmabahçe Sarayı)
トプカプ宮殿が時代遅れと感じたアブドゥルメジット1世は1843~1856年の年月をかけてトルコ・ルネッサンス様式の宮殿を建てさせた。1876年までスルタン達の公式宮殿として使用され、アブドゥルハミット2世は1877年に初の議会をここで開催したが、2ケ月後には解散となった。宮殿に招かれた要人の中には、ナポレオンの后、オーストリア皇帝フランツ・ヨゼフ、ドイツ皇帝、英国皇太子エドワード7世、ペルシアのシャー・レザ・パーレビ、イラクのファイサル国王等がいる。
帝国制が幕を閉じた後の1923年、アタテュルクはイスタンブール訪問の際、宮殿に滞在し執務をとった。そして1938年11月10日、ここで57年の生涯を閉じている。
建物の構造は建築家バリアンの設計に基づき、ボスフォラスを背にして左手に公的な場、中央に帝位の大広間、右手にはハレムと3部構成になっている。285の部屋、43の広間、280の壷、156の時計、58の水晶製燭台、そして36のボヘミア、ベネチア等のシャンデリア… 調度を整え、室内装飾を完成させる為に14tの金と40tの銀が使用され、建築費用は総額500万オスマン金貨、つまり現在であれば5億米ドルに相当する額である。

ベイレルベイ宮殿観光〕(Beylerbeyi Sarayı)
ドルマバフチェ宮殿と同じ様式でボスフォラス海峡のアジア側沿岸に建てられた宮殿である。アブドゥルアズィズの治世下、建築家バリアンによる1865年建築の宮殿は長方形の二階建てで、岸壁の両端には大理石の東屋がある。24の部屋と6の広間から成り、フランス、イタリアそしてトルコの芸術家達が天井の装飾を手掛けている。天井の隅にはロシアの画家アイワゾウスキーの船の絵が見られる。夏の離宮として造られた為に暖房設備はおかれていない。ブロンズ塗装の施された胡桃、マホガニー、オーク材の扉も見事である。海から見て左がハレム、右がセラームルックと呼ばれる男性の間であり、階の中央に大きな広間がある。下階の広間の中央に置かれた大理石の水鉢は注目に値する。ここもスルタン達が貴賓をもてなす為に使用し、オーストリア皇帝フランツ・ヨゼフ、英国皇太子、ペルシアのシャー・ナスレッディン等も、ここに滞在している。今日、宮殿は博物館に指定され、一般に公開されている。


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