トルコの人気世界遺産
カッパドキア|奇跡の絶景と歴史を旅するトルコの世界遺産
カッパドキアは、20以上あるトルコの世界遺産の中でも最も人気の高い観光地の一つです。長い時間をかけて自然が生み出した奇岩群が並ぶ絶景と、初期キリスト教徒が残した岩窟教会や古代の地下都市など他に類を見ない貴重な遺跡を見られます。
1985年に「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」として世界遺産に登録されました。文化遺産と自然遺産両方の条件を満たす、世界でも珍しい複合遺産です。
美しい朝焼けに染まる壮大な奇岩群を大空から眺める熱気球ツアーや、岩山をくり抜いて造られた洞窟ホテルでの宿泊など、ここでしか体験できないアクティビティも満載。カッパドキアでの旅は忘れられない思い出になることでしょう。
まるで慎重な彫刻家のような繊細さで、何千、何百もの月日をかけて自然が造り上げた岩層。そしてこの火山灰に覆われた一帯を、必要に応じて彫り、削って暮らした村人達。自然と人間が一体となって創造した見事な調和の世界が、私たちの目の前に姿をあらわします。
1985年に「ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群」として世界遺産に登録されました。文化遺産と自然遺産両方の条件を満たす、世界でも珍しい複合遺産です。
美しい朝焼けに染まる壮大な奇岩群を大空から眺める熱気球ツアーや、岩山をくり抜いて造られた洞窟ホテルでの宿泊など、ここでしか体験できないアクティビティも満載。カッパドキアでの旅は忘れられない思い出になることでしょう。
まるで慎重な彫刻家のような繊細さで、何千、何百もの月日をかけて自然が造り上げた岩層。そしてこの火山灰に覆われた一帯を、必要に応じて彫り、削って暮らした村人達。自然と人間が一体となって創造した見事な調和の世界が、私たちの目の前に姿をあらわします。
カッパドキアが唯一無二の世界遺産である4つの理由
POINT
圧倒的な景観美
カッパドキアには地質学上、世界に類を見ない不思議な景観が広がっています。凝灰岩が風雨で削られて生まれた自然の彫刻の織りなす絶景は、時間や季節によって異なる表情を見せてくれます。周辺の観光エリアは非常に広く、見どころが多数あります。
POINT
⾃然と共⽣した伝統的集落
歴史の初期以来、さまざまな民族が集落を形成してきたカッパドキアには、岩を掘って造った住居・修道院、8層以上に広がる地下都市など、他には見られないユニークかつ貴重な遺跡が数多く残されており、その全貌は未だ明らかになっていません。
POINT
ビザンティン美術の傑作
偶像破壊(イコノクラスム)時代以降に建立されたカッパドキアの岩窟教会には、鮮やかな色彩で描かれた美しいフレスコ画が良好な保存状態で数多く残されています。約30の教会が公開されているギョレメ野外博物館は必見です。
POINT
消えた文明の“化石”
カッパドキアには先史時代から人が住んでおり、古代ヒッタイト人の重要拠点でもありました。さらに、宗教的迫害を逃れた初期キリスト教徒をはじめ、各地から流れ着いた修行僧が密かに信仰を深めながら隠れ住んだ痕跡が立体的に残されています。
カッパドキア旅行ツアーに参加されたお客様の口コミ
最初、トルコはイスタンブールだけで良いと思っていましたが、カッパドキアのバルーンツアー、カイマクルの地下都市や洞窟住居の一般家庭の訪問、パムッカレの石灰棚とヒエラポリスなど個人ではとても10日間では行くことが出来ない経験が出来ました。
N.Y様(60代 女性)
最高のトルコ旅行になりました。全部の場所が魅力的で楽しくて、あっという間でした。カッパドキアの家庭でのティータイムやベリーダンスショーなどは、特に個人ではなくツアーだからこそ体験出来たと感じ、このツアーに参加して本当によかったと思いました。
U.Y様(20代 女性)
どこも良かったですがカッパドキアは最高でした。トルコの方たちのお宅を訪問したりと貴重な経験も出来て、この旅費は安いくらいです。トルコの方々の日本人の思いも伝わり、最高でした。
Y.M.様(20代 女性)
カッパドキアツアーは気球に乗ったときの景色、ホテルから朝に見えた気球の様子が言葉を失うほどすばらしく、大変感動しました。
Y.I.様(30代 女性)
カッパドキアの場所・行き方
カッパドキアは、トルコの首都アンカラから約250㎞離れて、アクサライ~ニーデ~ネヴシェヒル~カイセリ地方に挟まれて中央アナトリアに位置しています。
日本からカッパドキアまでの直行便はないため、イスタンブールからバスまたは国内線で最寄りのネヴシェヒル空港まで行き、そこからバスで観光拠点となるギョレメにアクセスするのが一般的です。
| 世界遺産登録名 |
ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群 (Göreme National Park and Rock Site of Cappadocia) |
| 場所 |
トルコ・中央アナトリア地方のネヴシェヒル県 |
| 登録年 |
1985年 |
| 登録基準 |
(i)(iii)(v)(vii) |
| 登録区分 |
複合遺産 |
| 面積 |
9,883.81ha |
| ユネスコ公式ページ | https://whc.unesco.org/en/list/357/ |
| アクセス |
ネヴシェヒル空港から車で約40分 |
| 観光のベストシーズン |
4月~11月 |
カッパドキアについてのよくある質問
Qカッパドキアはどうやってできた?
約1000万年前から続いた火山噴火で、エルジェス山などから火山灰が厚く堆積し軟らかな凝灰岩層が形成され、寒暖差や風雨が長い歳月をかけて奇岩を彫刻しました。頂部に残った硬い溶岩塊が帽子となり、削れやすい下部を保護して「妖精の煙突」と呼ばれる独特の風景が誕生。浸食は今も続き、崩れと再形成を繰り返す“生きた地形博物館”です。人々はこの脆い岩を掘って住居や地下都市を築き、自然と共生してきました。
Qカッパドキアの意味・名前の由来は?
カッパドキアの地名は、“美しい馬の国”を意味する「カトゥパトゥクヤ」という言葉に由来します。古くから、カッパドキアは畜産が盛んで、名馬の産地としても知られていました。現在でも、世界遺産の壮大な大地を駆ける乗馬ツアーが観光客に人気です。
カッパドキア旅行ツアーの選び方とおすすめ観光スポット20選
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Qカッパドキアの治安は?
カッパドキアは世界中から旅行客が訪れる人気の観光地であり、治安は安定しています。日本人でも安心して観光しやすいですが、海外旅行における基本的な防犯対策は心がけましょう。
トルコの治安と日本人の注意点は?危険を避けるコツと安全な旅行会社選び
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Qカッパドキア観光のベストシーズンは?
カッパドキアのベストシーズンは5~9月です。気候が安定しているため、大人気の熱気球ツアーの催行確率も高くなります。夏場は乾燥と日焼け対策に加えて、早朝の冷え込みに備えて防寒着も用意しましょう。
トルコの気候と旅行のベストシーズンは?季節別の気温・天気とおすすめの服装
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Qカッパドキア旅行に必要な日数は?
カッパドキアは主要な観光スポットが比較的近い距離にあり、奇岩群やカイマクル地下都市、ギョレメ野外博物館などの基本的な名所を回るだけなら1日でも十分です。気球ツアーや洞窟ホテル宿泊など、カッパドキアの魅力を満喫するためには、2~3日滞在することをおすすめします。
カッパドキア観光の定番モデルコースとおすすめ個人ツアーを紹介
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カッパドキアの地形が作り出す芸術
カッパドキアの地層は地上に見られる自然の奇跡の一つであり、中央アナトリアの火山が盛んに活動し、溶岩や火山灰に覆われた「堆積期」、そして火山活動の停止と共に始まった「侵食期」に於いて、自然が持っている二つの相反する作用が作り上げた作品と言えます。
ヨーロッパのアルプス山脈同様、南アナトリアのトロス山脈も地質年代上、新生代の第三紀(6500万~200万年前)に形成されました。この時期、中央アナトリアでは活発な地殻の変動で深い亀裂や地盤の沈下が見られ、亀裂を這って地表に噴出しだしたマグマは、エルジェス、デヴェリ、メレンディス、ケチボイドゥラン火山を作り上げたのです。
そして、度重なる激しい噴火の後、中央アナトリアでトロス山脈に並行して走る火山連ができあがったのです。火山の吐き出した噴出物は既に形成されていた丘や谷の上に長い時間をかけてゆっくりと降り積もり、周辺一帯は巨大な台地と化しました。
ヨーロッパのアルプス山脈同様、南アナトリアのトロス山脈も地質年代上、新生代の第三紀(6500万~200万年前)に形成されました。この時期、中央アナトリアでは活発な地殻の変動で深い亀裂や地盤の沈下が見られ、亀裂を這って地表に噴出しだしたマグマは、エルジェス、デヴェリ、メレンディス、ケチボイドゥラン火山を作り上げたのです。
そして、度重なる激しい噴火の後、中央アナトリアでトロス山脈に並行して走る火山連ができあがったのです。火山の吐き出した噴出物は既に形成されていた丘や谷の上に長い時間をかけてゆっくりと降り積もり、周辺一帯は巨大な台地と化しました。
妖精煙突(ペリバジャ)
カッパドキアを御伽噺の舞台足らしめている妖精煙突は、何百年もの間の地質変化の賜物です。世界中で唯一カッパドキア地方でのみ見られる妖精煙突の誕生は、中央アナトリア全域に影響を及ぼした火山活動にからはじまったのです。
最も美しい妖精煙突は、北からクズルウルマックの18kmあたり、東からダムサ川、西よりネヴシェヒル川、南からはオイル、ケルミル山に囲まれた約288k㎡にわたる一帯に見られます。
全く侵食されていない部分の断面を見てみると、下に凝灰岩、上部には玄武岩が層を成していることがわかります。かつては凝灰岩の表面を完全に覆っていた玄武岩の層は、今日ごく一部にのみ残り、例えば円錐形の妖精煙突の上に頂いた帽子にも似た部分、あるいは火山灰の上部の岩の棚がそれであるのです。
この妖精煙突が形成されたのは、地質時代第四紀、雨による侵食と風化によるもので、あるものは高さ40m程にも達し、円錐形で頭部には玄武岩の“帽子”を頂いています。
初期の形成期の後、帽子の下部にある軟らかい部分は侵食されて徐々に細くなり、更には支え切れずに帽子が転げ落ちてしまった煙突もあります。あるいは完全に削り去られ、もはや姿形も無くなってしまった煙突もある様に、この侵食作用は今なお続いているのです。
ユルギュップ~ウチヒサル~アヴァノスを結んだ三角形の内側を妖精煙突の見所としてお薦めします。
パシャバーで見たい妖精の煙突(きのこ岩)とは?カッパドキアの奇岩の伝説
最も美しい妖精煙突は、北からクズルウルマックの18kmあたり、東からダムサ川、西よりネヴシェヒル川、南からはオイル、ケルミル山に囲まれた約288k㎡にわたる一帯に見られます。
全く侵食されていない部分の断面を見てみると、下に凝灰岩、上部には玄武岩が層を成していることがわかります。かつては凝灰岩の表面を完全に覆っていた玄武岩の層は、今日ごく一部にのみ残り、例えば円錐形の妖精煙突の上に頂いた帽子にも似た部分、あるいは火山灰の上部の岩の棚がそれであるのです。
この妖精煙突が形成されたのは、地質時代第四紀、雨による侵食と風化によるもので、あるものは高さ40m程にも達し、円錐形で頭部には玄武岩の“帽子”を頂いています。
初期の形成期の後、帽子の下部にある軟らかい部分は侵食されて徐々に細くなり、更には支え切れずに帽子が転げ落ちてしまった煙突もあります。あるいは完全に削り去られ、もはや姿形も無くなってしまった煙突もある様に、この侵食作用は今なお続いているのです。
ユルギュップ~ウチヒサル~アヴァノスを結んだ三角形の内側を妖精煙突の見所としてお薦めします。
パシャバーで見たい妖精の煙突(きのこ岩)とは?カッパドキアの奇岩の伝説
エルジェス山
カイセリの南西に3,917mの雄姿を誇るエルジェス山は、アナトリアの山々の中でも屈指の高峰です。地方で最も重要な火山と言え、太古の昔に始まった火山活動は歴史時代まで続きました。直径18㎞、1500km2の面積におよび、地方にとっては同様に重要な意味合いをもつハサン山に比較すると年老いて疲れた表情をみせており、火山活動初期の噴出物が火山灰の、中期のものが玄武岩の層を形成しました。
年間を通じて雪を頂くこの山をヒッタイト人は「ハルカソス」即ち「白の山」と呼び、神々を奉るヒッタイトの聖地に於いて殊に重要な位置を占めていた山の神々の中でも、一帯の最高峰であるエルジェスは特別な意味を担っていたと思われます。
発見されたヒッタイトの浮き彫りにも山の神々が刻まれており、その後も続いたエルジェスを山の神として崇拝する行為はローマ時代の皇帝とジュピター信仰と交わって浸透していきました。地方で鋳造された貨幣にも見られるエルジェスは、当時、アルジエウスと呼ばれていたといいます。
年間を通じて雪を頂くこの山をヒッタイト人は「ハルカソス」即ち「白の山」と呼び、神々を奉るヒッタイトの聖地に於いて殊に重要な位置を占めていた山の神々の中でも、一帯の最高峰であるエルジェスは特別な意味を担っていたと思われます。
発見されたヒッタイトの浮き彫りにも山の神々が刻まれており、その後も続いたエルジェスを山の神として崇拝する行為はローマ時代の皇帝とジュピター信仰と交わって浸透していきました。地方で鋳造された貨幣にも見られるエルジェスは、当時、アルジエウスと呼ばれていたといいます。
ハサン山
裾野から2,300m、海抜3,300mの高さにあり、アナトリアの山々の中でもその優美さで名高いです。エルジェス山と同時期に誕生したにも拘わらずより若々しく、カッパドキアを訪れる人々を深い懐に抱く様に出迎えてくれるこの山の頂は年間を通じて雪に覆われています。
メレンディス川
カッパドキア地方の重要な川の一つは、メレンディス山の麓を水源とし、セリメ村を流れて名高いウフララ渓谷をつくりあげました。
クズルウルマック
トルコ最長のクズルウルマック川は、国の東から大きなうねりを描いて黒海に流れ出しています。長さは約1,182kmで何本もの支流を持ち、その色からクズル(赤い)ウルマック(川)と呼ばれる川は、カッパドキアの信じ難い景観を作り上げた“芸術家”の一人と言えます。
ヒッタイト人は「マラッサンティア」と呼び、ギリシア・ローマ時代になると「ハリス」川と変わったこの川は、ヒッタイト帝国の発祥地を流れつつ、歴史を通じて数々の民族の栄枯盛衰をみつめてきたのです。
ヒッタイト人は「マラッサンティア」と呼び、ギリシア・ローマ時代になると「ハリス」川と変わったこの川は、ヒッタイト帝国の発祥地を流れつつ、歴史を通じて数々の民族の栄枯盛衰をみつめてきたのです。
カッパドキアの歴史
カッパドキアはアナトリアの歴史上重要な世界遺産です。アナトリアで偉大な文化を育て上げた民族の中でも筆頭に挙げられるヒッタイト人達……。そのヒッタイト文化が華麗に開花し、繁栄の舞台となったカッパドキアでは、彼等の生きた証をそこここに見ることができます。
帝国の滅亡後、ダバル王国と呼ばれたカッパドキアは、フリギア、リディア、ペルシャ、マケドニアそしてアリアラテスによって支配され、ローマ時代にあっては軍の要地でした。
帝国の滅亡後、ダバル王国と呼ばれたカッパドキアは、フリギア、リディア、ペルシャ、マケドニアそしてアリアラテスによって支配され、ローマ時代にあっては軍の要地でした。
チャタルホユックのフレスコ画
中央アナトリアに於ける最古の新石器時代の集落跡チャタルホユックで発見された壁画を語りながら、カッパドキアの長い歴史を紐解いていきましょう。
世界最古の風景画と言われるハサン山を描いたこの壁画は、紀元前6200年もの昔にアナトリアの人達が家々の壁をこんなにも美しい絵を用いて飾りたてていた事実を表す貴重な作品です。手前にチャタルホユックの家並み、後方に火山から昇り立つ噴煙、溶岩を描いたフレスコ画で、現在はアンカラのアナトリア文明博物館に保管されています。
また、地方で屈指の火山であるハサン山の、その当時、活火山として活発な活動をしていた様子をチャタルホユックのある画家がこの様な方法でそこに永遠にとどめようとした意味でも重要です。
紀元前5000~4000年の間、カッパドキアには小さな、しかし独立した君侯国がいくつも存在していました。この頃からアナトリアの人々は北、東、南の隣国と交易を始め、時としてこの取引が滞り、あるいは悪化し、紀元前2300年には団結したアナトリアの17の王達(カッパドキア―カニシ王ズィハ二も含む)が、アッシリア王ナラムスィンに対して戦いを挑んだ事が知られています。この事実はアナトリアの歴史上はじめて組織された連合体制として重要です。
チャタル・ヒュユクの遺跡(文化遺産・2012年)
世界最古の風景画と言われるハサン山を描いたこの壁画は、紀元前6200年もの昔にアナトリアの人達が家々の壁をこんなにも美しい絵を用いて飾りたてていた事実を表す貴重な作品です。手前にチャタルホユックの家並み、後方に火山から昇り立つ噴煙、溶岩を描いたフレスコ画で、現在はアンカラのアナトリア文明博物館に保管されています。
また、地方で屈指の火山であるハサン山の、その当時、活火山として活発な活動をしていた様子をチャタルホユックのある画家がこの様な方法でそこに永遠にとどめようとした意味でも重要です。
紀元前5000~4000年の間、カッパドキアには小さな、しかし独立した君侯国がいくつも存在していました。この頃からアナトリアの人々は北、東、南の隣国と交易を始め、時としてこの取引が滞り、あるいは悪化し、紀元前2300年には団結したアナトリアの17の王達(カッパドキア―カニシ王ズィハ二も含む)が、アッシリア王ナラムスィンに対して戦いを挑んだ事が知られています。この事実はアナトリアの歴史上はじめて組織された連合体制として重要です。
チャタル・ヒュユクの遺跡(文化遺産・2012年)
アッシリア交易都市時代
紀元前2000年初期、黄金期を迎えつつあったアナトリアには急激な勢いの人口流入が始まりました。地方の富みに注目した“商いの天才”アッシリア人はアナトリア各地にカルンと呼ばれる貿易センターを設け、中でもカニシの町に設定されたキュルテペ・カルンは重要な役割を担っていました。一定の交易路を利用した彼等は、アナトリアに香料、錫、布、消耗品の数々を持ち込み、代わりに金銀銅を持ち帰りました。
アナトリア~アッシリア間の商取引は約150年間続きましたが、各地の小王国間の戦の影響を受けて紀元前1850~1800年頃には途絶えました。一帯は19世紀初期より専門家達の興味の的となり、1925年にカッパドキアはキュルテペでアッシリアの交易都市跡が発掘されると一層の注目を集めました。その際の出土品《カッパドキアの粘土板》は、アナトリアの歴史を解明するのに重要な役割を担う最古の記録として大変に貴重です。
アナトリア~アッシリア間の商取引は約150年間続きましたが、各地の小王国間の戦の影響を受けて紀元前1850~1800年頃には途絶えました。一帯は19世紀初期より専門家達の興味の的となり、1925年にカッパドキアはキュルテペでアッシリアの交易都市跡が発掘されると一層の注目を集めました。その際の出土品《カッパドキアの粘土板》は、アナトリアの歴史を解明するのに重要な役割を担う最古の記録として大変に貴重です。
ヒッタイト人
紀元前2000年の始まりと共にアナトリアにはヒッタイトと呼ばれる民族が定住し始め、既に高度な文明を築いていた先住のハッチ族と混住して王国を建設しました。彼等がどこから、どの経路でやって来たのかは未だ明確になっていませんが、コーカサス説が有力視されています。
同期のものと思われる粘土板には多くの国王の名が刻まれているものの、並み居る強豪を倒しキュルテペに都を置いたアニッタは特筆に値する王でした。カッパドキアに興り、以後の月日の中でアナトリア最大の帝国を形成したヒッタイト人はアレッポとバビロニアを征服し、かの有名なハムラビ王朝をも歴史の表舞台から引きずり下ろしたのです。
この進攻はヒッタイト人とメソポタミア、シリア人との関係を緊密にもしました。急速に拡大する帝国は、特に紀元前15、14世紀に強い権力を手中にし、シリア、パレスチナ、エジプト、ヒッタイト間の激しい攻防戦で知られる紀元前1286年のカデシの戦いでは、ヒッタイト王ハットゥシリス三世がエジプトのファラオ、ラムセスニ世とカデシ平和条約に調印し戦いも終結を迎えたのです。
紀元前12世紀、ヨーロッパ大陸から“海の民”と呼ばれる民族がこの地に襲撃をかけてきました。これにはさすがの大帝国も太刀打ちできずに衰退の一途を辿り、以降、中央アナトリアを取り巻いた暗黒の時代は“海の民”の一派とされるフリギアがここに王国を建設するまで続いたのです。
ヒッタイト帝国とその首都「ハットゥシャ遺跡」の見どころ徹底解説
同期のものと思われる粘土板には多くの国王の名が刻まれているものの、並み居る強豪を倒しキュルテペに都を置いたアニッタは特筆に値する王でした。カッパドキアに興り、以後の月日の中でアナトリア最大の帝国を形成したヒッタイト人はアレッポとバビロニアを征服し、かの有名なハムラビ王朝をも歴史の表舞台から引きずり下ろしたのです。
この進攻はヒッタイト人とメソポタミア、シリア人との関係を緊密にもしました。急速に拡大する帝国は、特に紀元前15、14世紀に強い権力を手中にし、シリア、パレスチナ、エジプト、ヒッタイト間の激しい攻防戦で知られる紀元前1286年のカデシの戦いでは、ヒッタイト王ハットゥシリス三世がエジプトのファラオ、ラムセスニ世とカデシ平和条約に調印し戦いも終結を迎えたのです。
紀元前12世紀、ヨーロッパ大陸から“海の民”と呼ばれる民族がこの地に襲撃をかけてきました。これにはさすがの大帝国も太刀打ちできずに衰退の一途を辿り、以降、中央アナトリアを取り巻いた暗黒の時代は“海の民”の一派とされるフリギアがここに王国を建設するまで続いたのです。
ヒッタイト帝国とその首都「ハットゥシャ遺跡」の見どころ徹底解説
ペルシャ
紀元前世紀、ペルシャが高名なリディア王クロイソスを破ると同時に、リディア王国の支配下にあったカッパドキアはペルシャの監督下に敷かれました。この状態はアレキサンダー大王がこの地に遠征してくるまで続き、その間、ペルシャはアナトリアを多くの州に分割し、監督者としてサトラップを配置しました。
彼等の政治は寛容かつ柔軟で、続治下の民と良い関係を築こうとしたと言えます。ペルシャ経済を支えたのは、エフェスとサルデスに起点し、マザカ(カイセリ)を経由してメソポタミアからシリアの都スサヘ至る有名な "王の道" でした。
サトラップ達は税として金、羊、ラバ、そして知る人ぞ知るカッパドキア産の馬をペルシャに贈ったと言います。火を奉るペルシャ人は火山地帯のこの地を愛し、自らの信仰を全うする為に最適な土地と認めていたのです。
カッパドキアとは“美しい馬の国”を意味する“カトゥパトゥクヤ”に由来しているのです。カッパドキアの馬史書や資料を紐解いてもカッパドキア産の名馬と畜産については頻繁に触れられています。貢ぎ物として馬を供する習慣はカッパドキアに端を発したと思われ、古い資料にはアッシリア王アッシュール・バニパルに、ダレイオスに、クセルクセスに土地の名馬を贈呈したとあります。
カッパドキアに近い関係にある人物と言えば、あのゴルディオンの結び目を一刀両断にしてからここへやって来たアレキサンダー大王でしょう。大王の訪問以降、一帯はマケドニアの支配下に入り、王の死後にはアリアラテス朝に統治されて、カイセリは独立したカッパドキア王国の都としてユーセビアの名で呼ばれ始めました。
世界を制した若き英雄アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)|トルコを通り東方遠征!
アナトリア全土に大小の勢力争いが広がる中、この独立王国の国民達は他の国の人々と婚姻関係を結んで融合していきました。こうして出来上がった政治、家族等の関係は、その後、ポントス、ビティニア、ローマ帝国の間に権力争いを引き起こす要因ともなったのです。
アリアラテス一族の治世はポントス王ミトリダテスが紀元前90年に王子をカッパドキア王と宣言するまで保持され、紀元前66年になると地方は再びローマ人の手に渡りました。この様な飽くなき攻防はカッパドキアがローマの属州となった西暦17年まで続いたのです。
彼等の政治は寛容かつ柔軟で、続治下の民と良い関係を築こうとしたと言えます。ペルシャ経済を支えたのは、エフェスとサルデスに起点し、マザカ(カイセリ)を経由してメソポタミアからシリアの都スサヘ至る有名な "王の道" でした。
サトラップ達は税として金、羊、ラバ、そして知る人ぞ知るカッパドキア産の馬をペルシャに贈ったと言います。火を奉るペルシャ人は火山地帯のこの地を愛し、自らの信仰を全うする為に最適な土地と認めていたのです。
カッパドキアとは“美しい馬の国”を意味する“カトゥパトゥクヤ”に由来しているのです。カッパドキアの馬史書や資料を紐解いてもカッパドキア産の名馬と畜産については頻繁に触れられています。貢ぎ物として馬を供する習慣はカッパドキアに端を発したと思われ、古い資料にはアッシリア王アッシュール・バニパルに、ダレイオスに、クセルクセスに土地の名馬を贈呈したとあります。
カッパドキアに近い関係にある人物と言えば、あのゴルディオンの結び目を一刀両断にしてからここへやって来たアレキサンダー大王でしょう。大王の訪問以降、一帯はマケドニアの支配下に入り、王の死後にはアリアラテス朝に統治されて、カイセリは独立したカッパドキア王国の都としてユーセビアの名で呼ばれ始めました。
世界を制した若き英雄アレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)|トルコを通り東方遠征!
アナトリア全土に大小の勢力争いが広がる中、この独立王国の国民達は他の国の人々と婚姻関係を結んで融合していきました。こうして出来上がった政治、家族等の関係は、その後、ポントス、ビティニア、ローマ帝国の間に権力争いを引き起こす要因ともなったのです。
アリアラテス一族の治世はポントス王ミトリダテスが紀元前90年に王子をカッパドキア王と宣言するまで保持され、紀元前66年になると地方は再びローマ人の手に渡りました。この様な飽くなき攻防はカッパドキアがローマの属州となった西暦17年まで続いたのです。
ローマ時代
ローマ時代は皇帝ヴェスパスィアヌスの治世下、東はパルティアの脅威から地方を防御する目的で常駐のローマの軍隊が配備されたほか、皇帝トラヤヌスの支配下では軍用路を敷き、万全の防衛策を組みました。 129年の後半、皇帝ハドリアヌスは東側ルートから直々にカッパドキアを訪れています。
3世紀の初期になるとエフェス、イズミル、カッパドキア間での商取引が拡大し、これらの都市の名を掲げた貨幣が鋳造され始めました。東西を結ぶこの交易路上に位置する都市間で、一種の経済共同体が形成されたと言うことができるでしょう。
3世紀の初期になるとエフェス、イズミル、カッパドキア間での商取引が拡大し、これらの都市の名を掲げた貨幣が鋳造され始めました。東西を結ぶこの交易路上に位置する都市間で、一種の経済共同体が形成されたと言うことができるでしょう。
ビザンチン時代
4世紀、カッパドキアでは三人の高名な聖者による宗教活動が展開されました。聖バシリウス、ニサのグレゴリウス、そしてナズィアンススのグレゴリウスの思想は地方の修道院生活の規則を作り上げる基礎となりましたが、カイセリの裕福な名家出身のバシリウスは、これにあたり最初はパレスチナ、エジプト等の僧院を訪ね、ここでの生活様式を研究しました。これらの僧院で高潔な魂の誠に達する為の行として認められたのです。
《忍耐》と《隠遁》の生活に同意しかねた彼は、新しい規律を敷いたのです。過度にストイックな忍耐生活を防ごうと、修道僧達を小集団に分けて共同生活をさせ、上からの命令形態を敷くと共に、俗世からきれいさっぱり隔離された隠遁生活をする僧よりも、病人や貧しい人々を救済し、彼等の日々の暮らしに援助の手を差し伸べる僧の育成に心を砕きました。
この教訓はカイセリ近郊にバシリウスが建設したとしてバシリアドの名で呼ばれた町で実践に移され、修道僧の精神的バランスを崩すのは何よりも怠慢であり、奉仕は最も貴い修養であると主張しました。
後にその教えを継承して何干もの修道院を建設した修道僧の日々は、ギリシアはアトス山やメテオラ修道院の様に人々から隔離された完全な隠遁生活の代わりに、人の日常生活の中で彼等に奉仕しながら暮らしたものである事がわかります。
地方で宗教画を施した教会が建設される様になったのは、6~7世紀のことです。特に7世紀以降、カッパドキアはまずペルシャ、続いてアラブの攻撃の的となり、一帯で最も重要な町カイセリはこれに屈して何度か征服されました。
このように常に敵の脅威にさらされた土地に暮らしていた人々とビザンチン国家の中央は、起こり得る攻撃に対して何らかの対策を講じる必要に迫られました。南部から地方に続く路に沿って無数の要塞が設けられる一方、近づく敵の襲来をいち早く同胞、及び(現)イスタンブールに知らしめる為“光りでの伝達方法”が工夫されたのです。
光りを信号化したこの方法で、南部から迫りつつある危険は一時間以内でイスタンブールヘ知らせる事ができたと言います。ビザンチン軍はそれぞれに独立して行動し、戦い、作戦をたてることができる部隊に分割されており、彼等の攻撃と防御の常日頃からの備えに加えて、一般の人々は危機に際して非難する為の、そしてそれが去るまで暮らしを営む為の地下都市を建設しました。
726~843年の間、ビザンチン帝国には絵画を破壊する動きが蔓延し、偶像破壊時代と呼ばれるこの時期に、人物像を中心に多くの作品が被害を受けました。
964~965年、カッパドキアは高名な皇帝ニケフォロス・フォカス一家を迎えました。カッパドキアに生まれビザンチンの最高司令官の一人となったフォカスは、特にアラブの襲撃に対して活躍し、皇帝ロマノス2世の死後、皇后テオファノと結婚したことで皇位につきました。故郷への凱旋帰郷のおり、偉大な軍人であるにも拘わらず彼は修道院生活にも深い理解を示し、その記念にチャヴシン教会が建設されました。
「ビザンツ(ビザンチン)帝国」の基礎知識!千年の繁栄と歩みを徹底解説!
《忍耐》と《隠遁》の生活に同意しかねた彼は、新しい規律を敷いたのです。過度にストイックな忍耐生活を防ごうと、修道僧達を小集団に分けて共同生活をさせ、上からの命令形態を敷くと共に、俗世からきれいさっぱり隔離された隠遁生活をする僧よりも、病人や貧しい人々を救済し、彼等の日々の暮らしに援助の手を差し伸べる僧の育成に心を砕きました。
この教訓はカイセリ近郊にバシリウスが建設したとしてバシリアドの名で呼ばれた町で実践に移され、修道僧の精神的バランスを崩すのは何よりも怠慢であり、奉仕は最も貴い修養であると主張しました。
後にその教えを継承して何干もの修道院を建設した修道僧の日々は、ギリシアはアトス山やメテオラ修道院の様に人々から隔離された完全な隠遁生活の代わりに、人の日常生活の中で彼等に奉仕しながら暮らしたものである事がわかります。
地方で宗教画を施した教会が建設される様になったのは、6~7世紀のことです。特に7世紀以降、カッパドキアはまずペルシャ、続いてアラブの攻撃の的となり、一帯で最も重要な町カイセリはこれに屈して何度か征服されました。
このように常に敵の脅威にさらされた土地に暮らしていた人々とビザンチン国家の中央は、起こり得る攻撃に対して何らかの対策を講じる必要に迫られました。南部から地方に続く路に沿って無数の要塞が設けられる一方、近づく敵の襲来をいち早く同胞、及び(現)イスタンブールに知らしめる為“光りでの伝達方法”が工夫されたのです。
光りを信号化したこの方法で、南部から迫りつつある危険は一時間以内でイスタンブールヘ知らせる事ができたと言います。ビザンチン軍はそれぞれに独立して行動し、戦い、作戦をたてることができる部隊に分割されており、彼等の攻撃と防御の常日頃からの備えに加えて、一般の人々は危機に際して非難する為の、そしてそれが去るまで暮らしを営む為の地下都市を建設しました。
726~843年の間、ビザンチン帝国には絵画を破壊する動きが蔓延し、偶像破壊時代と呼ばれるこの時期に、人物像を中心に多くの作品が被害を受けました。
964~965年、カッパドキアは高名な皇帝ニケフォロス・フォカス一家を迎えました。カッパドキアに生まれビザンチンの最高司令官の一人となったフォカスは、特にアラブの襲撃に対して活躍し、皇帝ロマノス2世の死後、皇后テオファノと結婚したことで皇位につきました。故郷への凱旋帰郷のおり、偉大な軍人であるにも拘わらず彼は修道院生活にも深い理解を示し、その記念にチャヴシン教会が建設されました。
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セルジューク時代
9世紀、アナトリア高原には遊牧トルコ民族の一派がやって来ました。 1071年に勃発し、セルジュークとビザンチンを敵対させたマラズギルトの戦いは、アナトリアの大地にトルコ民族がしっかりと足を踏み入れ、支配者となるきっかけとなったのです。
アナトリアとは?文明の発祥地である小アジアの歴史や遺跡
これに続く100年の間、アナトリアはセルジューク、十字軍、ビザンチンの間で繰り広げられる激しい争奪戦の的となり、十字軍の襲撃に際して最初の都イズニックを失ったセルジュークは、中央アナトリアの有名な町コンヤに中心を移しました。
戦いに明け暮れ、短命ではあったものの、セルジューク帝国が短期間で手にした商的、軍事的、政治的な成功の数々は我々を驚愕させる質のものです。後に歴史の舞台に登場してくるオスマン帝国の為に、あたかも基礎を固めたセルジューク帝国の存在は、アナトリアの大地で初のトルコ系国家を形成した意味でも、非常に重要なのです。
1082年にカイセリを征服するとセルジュークは活発な建築活動を展開させ、カッパドキアも無数のセルジューク建築で飾られる結果となりました。 1135~1150に建造されたカイセリのウル・ジャーミ(モスク)、1156年のアクサライのアラエッディン・ジャーミ、1202年のカイセリ、チフテ神学校などはこの良い例です。
また、1206年、カイセリで設立された医学専門学校、ニーデのアラエッディン・ジャーミ、カイセリのサーヒビエ神学校(1268年)等も同期の重要建築物として列挙しておくべきでしょう。しかし、何と言ってもこの時代を代表する施設といえば、キャラバンサライ、即ち隊商宿です。
他のイスラム諸国と商取引を結ぼうと努め、地中海、黒海に出て造船所を設けたセルジューク・トルコ人は、取引の拡大を目指すと共に、快適な旅を提供し、旅人を保護することを目的に、今や全人類の遺産とも言うべきこの見事な設備を設けたのです。主要交易路上に位置するカッパドキア、殊にコンヤ~カイセリ間の街道上に造られた隊商宿の数は20にも及びます。
商業を重視した彼等は、スルタン・クルチ・アルスランニ世以来、旅人に床と食料、健康管理を供する設備を建築し始めました。内部のモスク、ハマム(浴場)、保健所、厩などを見ても、単にこれらが宿泊の為だけに使用されていなかった事は一目瞭然です。約30~40km間隔で置かれた宿は、同時に高い壁と塔をもつ防衛の要でもあったのです。
セルジューク朝とはどんな国家?世界史における重要性と興亡の歴史
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これに続く100年の間、アナトリアはセルジューク、十字軍、ビザンチンの間で繰り広げられる激しい争奪戦の的となり、十字軍の襲撃に際して最初の都イズニックを失ったセルジュークは、中央アナトリアの有名な町コンヤに中心を移しました。
戦いに明け暮れ、短命ではあったものの、セルジューク帝国が短期間で手にした商的、軍事的、政治的な成功の数々は我々を驚愕させる質のものです。後に歴史の舞台に登場してくるオスマン帝国の為に、あたかも基礎を固めたセルジューク帝国の存在は、アナトリアの大地で初のトルコ系国家を形成した意味でも、非常に重要なのです。
1082年にカイセリを征服するとセルジュークは活発な建築活動を展開させ、カッパドキアも無数のセルジューク建築で飾られる結果となりました。 1135~1150に建造されたカイセリのウル・ジャーミ(モスク)、1156年のアクサライのアラエッディン・ジャーミ、1202年のカイセリ、チフテ神学校などはこの良い例です。
また、1206年、カイセリで設立された医学専門学校、ニーデのアラエッディン・ジャーミ、カイセリのサーヒビエ神学校(1268年)等も同期の重要建築物として列挙しておくべきでしょう。しかし、何と言ってもこの時代を代表する施設といえば、キャラバンサライ、即ち隊商宿です。
他のイスラム諸国と商取引を結ぼうと努め、地中海、黒海に出て造船所を設けたセルジューク・トルコ人は、取引の拡大を目指すと共に、快適な旅を提供し、旅人を保護することを目的に、今や全人類の遺産とも言うべきこの見事な設備を設けたのです。主要交易路上に位置するカッパドキア、殊にコンヤ~カイセリ間の街道上に造られた隊商宿の数は20にも及びます。
商業を重視した彼等は、スルタン・クルチ・アルスランニ世以来、旅人に床と食料、健康管理を供する設備を建築し始めました。内部のモスク、ハマム(浴場)、保健所、厩などを見ても、単にこれらが宿泊の為だけに使用されていなかった事は一目瞭然です。約30~40km間隔で置かれた宿は、同時に高い壁と塔をもつ防衛の要でもあったのです。
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カッパドキアのエリアごとの歴史と特徴
ギョレメ
古代にマチャンと呼ばれた現在のギョレメは7世紀に遡る歴史をもつ地方一帯の最古の集落で、「聖ヒエロンの勤め」と題される資料に「ギョレメ」の名で登場しています。他の集落の様に目につきにくい場所にあるとは言い難く、特にアラブの襲撃では村人の多くを失いました。
初期に於いては村を流れる川の近くに集落があったと思われ、支柱のある二つの墓もこの事実を裏付けると言えます。ギョレメ村と近郊には五つの教会があり、これらのうち最大のものは6世紀、もしくは7世紀に建設されたと思われるドゥルムシカディル教会で、大きな柱と説教壇を備えて保存状態も非常に良いです。
それ以外、アラブの襲撃後にあたる10~11世紀の造りと考えられる教会の内で最も新しいものは11世紀、マチャンに司祭館が置かれていた時期に建設されたユスフ・コチ教会であり、最も離れた場所にあるのは、約30分から40分程度の距離にある11世紀のカラブルット教会です。
自然の作りあげた岩層と、人間が手を加えた造りの素晴らしいハーモニーと言えるギョレメ村は一帯で最も注目されている地区です。今日もなお岩を掘って造った家に住む人々がいて、彼等は岩を住まいとすると同時に、これを倉庫としても利用し、過去からの生活様式を何ら変える事なく岩と共に暮らしています。
ギョレメ村では岩の家の他、岩を刳り貫いた洞窟レストランやホテルも観光客に人気が高いです。村を包囲して直立する妖精煙突と共に、ギョレメの美しさは強いインパクトをもって人々の心に焼き付くに違いありません。
初期に於いては村を流れる川の近くに集落があったと思われ、支柱のある二つの墓もこの事実を裏付けると言えます。ギョレメ村と近郊には五つの教会があり、これらのうち最大のものは6世紀、もしくは7世紀に建設されたと思われるドゥルムシカディル教会で、大きな柱と説教壇を備えて保存状態も非常に良いです。
それ以外、アラブの襲撃後にあたる10~11世紀の造りと考えられる教会の内で最も新しいものは11世紀、マチャンに司祭館が置かれていた時期に建設されたユスフ・コチ教会であり、最も離れた場所にあるのは、約30分から40分程度の距離にある11世紀のカラブルット教会です。
自然の作りあげた岩層と、人間が手を加えた造りの素晴らしいハーモニーと言えるギョレメ村は一帯で最も注目されている地区です。今日もなお岩を掘って造った家に住む人々がいて、彼等は岩を住まいとすると同時に、これを倉庫としても利用し、過去からの生活様式を何ら変える事なく岩と共に暮らしています。
ギョレメ村では岩の家の他、岩を刳り貫いた洞窟レストランやホテルも観光客に人気が高いです。村を包囲して直立する妖精煙突と共に、ギョレメの美しさは強いインパクトをもって人々の心に焼き付くに違いありません。
パシャバー
カッパドキアの名を世界中に轟かせた “妖精の煙突”が最も美しいのは、ゼルヴェ近郊はパシャバーの谷でしょう。ここで見られる“妖精達の住家”は、一つの岩から二本、三本とのびる複数の首に“帽子”を被った格好をしていて、辺りに広がる葡萄やヒマワリ畑の中にこれらが屹立する様子は全くの別世界を思わせます。
妖精煙突はビザンチン時代に隠遁生活を選択した修道僧達の隠れ家でもあり、当時の有名な聖人スィメオンの生涯を表現した壁画も見られます。
妖精煙突はビザンチン時代に隠遁生活を選択した修道僧達の隠れ家でもあり、当時の有名な聖人スィメオンの生涯を表現した壁画も見られます。
アヴァノス
古代名ヴェネッサ。近郊のトパクル・ホユック(塚)で実施された発掘調査で出土した旧、中期ヒッタイト時代に属する品々や、その形跡が現在もうかがえるゼウス信仰の跡、ヘレニズム時代の墓などは、この町が様々な時代に重要な役割を担ってきた事を物語っています。
ビザンチン時代の後、長い間にわたってセルジューク・トルコの支配下におかれた町は、1466年にオスマンの領土に組み込まれました。セルジューク時代のアラエッティン・モスクと、16世紀はオスマン帝国時代のイェルアルト・モスクの二つの回教寺院に注目してみましょう。トルコ最長の川クズルウルマクによって二分されるアヴァノスは、今日、窯業と手織り絨毯の町として、全国的に名を馳せています。
ヒッタイト時代から続く窯業は、町の経済を担うもので、クズルウルマク川の堤の土に砂を混ぜたものが使用されています。外気を遮断する為に中に入れた水などを冷たく保つことができ、昔は日用品としてその需要も高かったのですが、1960年代からの冷蔵庫の普及や水道が引かれたことで、かつての重要性はすっかり影を潜めてしまいました。今日では伝統工芸品として主に観光客への土産用に作成されています。
トルコ絨毯の種類と選び方|お土産にもおすすめな伝統工芸品
ビザンチン時代の後、長い間にわたってセルジューク・トルコの支配下におかれた町は、1466年にオスマンの領土に組み込まれました。セルジューク時代のアラエッティン・モスクと、16世紀はオスマン帝国時代のイェルアルト・モスクの二つの回教寺院に注目してみましょう。トルコ最長の川クズルウルマクによって二分されるアヴァノスは、今日、窯業と手織り絨毯の町として、全国的に名を馳せています。
ヒッタイト時代から続く窯業は、町の経済を担うもので、クズルウルマク川の堤の土に砂を混ぜたものが使用されています。外気を遮断する為に中に入れた水などを冷たく保つことができ、昔は日用品としてその需要も高かったのですが、1960年代からの冷蔵庫の普及や水道が引かれたことで、かつての重要性はすっかり影を潜めてしまいました。今日では伝統工芸品として主に観光客への土産用に作成されています。
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ウチヒサル
それぞれに美しく独特なカッパドキアの岩層の中で最も高い点である“ウチヒサルの要塞”は、一帯の雄大な自然が一望できるお勧めのポイントです。三角形の大きな二つの岩は人が手を加えていない全くの自然の形ですが、その外観をして土地の人々は“要塞”と呼んでいます。
地元の人々は避難所として利用する為に大きな岩の塊を選び、この内部を彫り削って多くの要塞を造ったが、それらの中で最も良い例を、カッパドキア地方でも“岩の町”と呼ぶに相応しいここウチヒサルやオルタヒサルに見ることが出来ます。
ビザンチン、トルコ時代にも住まいとして利用された岩の塊には、現在でも人間の暮らしの跡をそこここに見つける事が可能です。ウチヒサルの要塞とその足元にはここ最近まで人々が住んでいましたが、岩の風化で脆くなって危険なことから立ち退いています。
カッパドキアの絶景を一望するなら「ウチヒサル城」は欠かせない!
地元の人々は避難所として利用する為に大きな岩の塊を選び、この内部を彫り削って多くの要塞を造ったが、それらの中で最も良い例を、カッパドキア地方でも“岩の町”と呼ぶに相応しいここウチヒサルやオルタヒサルに見ることが出来ます。
ビザンチン、トルコ時代にも住まいとして利用された岩の塊には、現在でも人間の暮らしの跡をそこここに見つける事が可能です。ウチヒサルの要塞とその足元にはここ最近まで人々が住んでいましたが、岩の風化で脆くなって危険なことから立ち退いています。
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オルタヒサル
要塞を思わせる大きな岩の塊の周囲にできた町です。かつて、居住用、軍事用に使用されたこの岩には、現在、階段を使って頂きまで上る事ができ、一帯の美しい景色を満喫することが可能です。最も美しい景色を望む為には、川へ向かって歩き、石橋を渡って対岸の丘に登るのが良いですが、中央の大きな岩とその周囲に集中する石造りの家々は、遠くからでも一目瞭然です。
ユルギュップ
古代名をアッスィアナとし、歴史を通じていつの時代も重要な居住区であり続けてきました。セルジューク時代に於いてはバシヒサルと呼ばれ、ネヴシェヒルから18kmの場所に位置しています。町の中心に屹立する巨大な要塞はトルコ期に造られ、重要な居住区としても利用されてきました。
ユルギュップはビザンチン、オスマン時代の岩を削って造った家の他に、美しく装飾を施した石造りの家でも有名で、一帯で最も素晴らしい家がここで見られると言っても過言ではありません。
トルコ期の建造物として、カドゥの要塞、カラマンオールラル・モスク、アルトゥンカプ霊廟、タフスィナー図書館を挙げる事が出来ます。
町の中心には多くの宿泊施設があり、一帯の観光業の担い手として重要な役割を果たしていることがうかがえます。
ユルギュップはビザンチン、オスマン時代の岩を削って造った家の他に、美しく装飾を施した石造りの家でも有名で、一帯で最も素晴らしい家がここで見られると言っても過言ではありません。
トルコ期の建造物として、カドゥの要塞、カラマンオールラル・モスク、アルトゥンカプ霊廟、タフスィナー図書館を挙げる事が出来ます。
町の中心には多くの宿泊施設があり、一帯の観光業の担い手として重要な役割を果たしていることがうかがえます。
アクサライ
アクサライは、シルクロードの中継地として繁栄したエリアです。現在でも、当時の隊商宿をいくつか見ることができます。近くにあるハサン山の裾野、ウフララ渓谷の自然美は御伽噺の世界そのものです。この有名な火山と側にそびえるギョッル山からの溶岩や火山灰は辺り一面を覆い尽くし、厚さ100mにもおよんだ層をメレンディス川が少しずつ削り取る様にして流れ、やがて長さ15km、深さ150mの規模に及ぶ谷が口をあけました。
ネヴシェヒル
18世紀初期までムスカラと呼ばれたアナトリアの小さな村ネヴシェヒルの運命は、この地に生まれ、土地の人々と故郷を生涯忘れることのなかったイブラヒム・パシャと共に激変しました。イスタンブールの宮殿でヘルヴァ(菓子の一種)職人の見習いとして働いていた彼は、その真面目さと賢さで頭角を現し、オスマン帝国の最高位にまで出世しました。
スルタン・アフメット三世の治世下で最初は相談役、次にパシャ(総督)となり、皇女ファトマ・スルタンと結婚すると宰相の地位を得ました。パシャの活性化政策をきっかけに拡大を始めた彼の故郷は、“新しい町”を意味するネヴシェヒルと改名されました。
時はチューリップ期、繊細な神経をもつ芸術愛好家イブラヒム・パシャは、自らの資金でモスク、神学校、ハン(商館)、図書館、ハマムを造らせる一方、近郊から新天地を求めてやって来た人々には税の控除を認めて人口を増大させたので町は大いに活気づきました。国有地を一般に払い下げ、郊外には桑畑を設けて、一帯への養蚕業導入にも力を注ぎました。
こうして交易の要所への一歩を踏み出したネヴシェヒルの人口は間もなく17,000人に達しました。彼の没した1730年、建設活動は一旦停滞したとは言うものの、町の重要性はオスマン帝国、トルコ共和国を通して何ら変わることなく、1954年には同名で呼称される県の県庁所在地に指定されています。
トルコ共和国ってどんな国?知られざるトルコの10の魅力
セルジューク、オスマン帝国期の建造物で最も古いものは、イブラヒム・パシャが修復させた町を見渡すセルジューク時代の城塞で、二つの門と塔とで厳しい風情をみせています。
18世紀に建設されたイブラヒム・パシャ学問所はモスク、神学校、図書館、浴場などを包含する総合施設で、最も注目したい建物のひとつと言えます。この施設の中のクルシュンル・ジャーミの内庭入口部には当時の高名な詩人ネディムの詩文が残り、噴水のドームやモスクの内装などにはチューリップ期の特徴が顕著にあらわれています。
ネヴシェヒルは世界遺産カッパドキアの中心都市!観光情報と歴史を紹介
スルタン・アフメット三世の治世下で最初は相談役、次にパシャ(総督)となり、皇女ファトマ・スルタンと結婚すると宰相の地位を得ました。パシャの活性化政策をきっかけに拡大を始めた彼の故郷は、“新しい町”を意味するネヴシェヒルと改名されました。
時はチューリップ期、繊細な神経をもつ芸術愛好家イブラヒム・パシャは、自らの資金でモスク、神学校、ハン(商館)、図書館、ハマムを造らせる一方、近郊から新天地を求めてやって来た人々には税の控除を認めて人口を増大させたので町は大いに活気づきました。国有地を一般に払い下げ、郊外には桑畑を設けて、一帯への養蚕業導入にも力を注ぎました。
こうして交易の要所への一歩を踏み出したネヴシェヒルの人口は間もなく17,000人に達しました。彼の没した1730年、建設活動は一旦停滞したとは言うものの、町の重要性はオスマン帝国、トルコ共和国を通して何ら変わることなく、1954年には同名で呼称される県の県庁所在地に指定されています。
トルコ共和国ってどんな国?知られざるトルコの10の魅力
セルジューク、オスマン帝国期の建造物で最も古いものは、イブラヒム・パシャが修復させた町を見渡すセルジューク時代の城塞で、二つの門と塔とで厳しい風情をみせています。
18世紀に建設されたイブラヒム・パシャ学問所はモスク、神学校、図書館、浴場などを包含する総合施設で、最も注目したい建物のひとつと言えます。この施設の中のクルシュンル・ジャーミの内庭入口部には当時の高名な詩人ネディムの詩文が残り、噴水のドームやモスクの内装などにはチューリップ期の特徴が顕著にあらわれています。
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カイセリ
エルジェス山の北側斜面、カラス川の灌漑でできた平地の端に位置するカイセリは、今日、織物、砂糖の精製、飛行機の保全などで生計を支える活気ある町です。
歴史の初期から人々が集落を形成し、考古学の専門家達によって発掘された遺跡のキュルテペとエーリキョイ・ホユックは有名です。初期青銅器時代、アッシリア交易植民市の時代、ヒッタイト期に重要な役割を担ったカイセリとその近郊は、後期ヒッタイト時代にタバル国の名で呼ばれていました。
アッシリア等に続き、550年以降はペルシアの支配下におかれてサトラップ制のもとでカッパドキア郡の中心都市として活躍しました。その当時の名を“マザカ”とし、アレキサンダー大王の来訪と共にマケドニアの手に渡りましたが、大王の死後はペルシアに祖をもつアリアラテス族の支配下にしかれ、独立国であるカッパドキア王国の中心としてユーセベイアの名で知られる様になりました。
アリアラテスの勢力はポントス王ミトリダテスがB.C.90年に自らの子息をカッパドキア王として宣言するまで続きました。B.C.66年、カッパドキアは再びローマ人の手中に落ち、長い間ビザンチンの支配下におかれました。アラブの襲撃に際して何度か崩壊の危機に瀕しましたが、1071年のマラズギルトの戦いの後は、セルジューク帝国の要地としてその地位を一時、確立させています。
1097年、第一回十字軍により征服され、以降、ダニシメンオール、セルジューク、そして1243年に勃発したキョシェダーの戦い以降モンゴルに支配され、多くの戦いをくぐり抜けたアナトリアの中心に位置するここカイセリが、最後にオスマンの領土に包含されたのは1515年のことでした。
カイセリは世界遺産カッパドキアの玄関口!おすすめ観光スポットと歴史を解説
歴史の初期から人々が集落を形成し、考古学の専門家達によって発掘された遺跡のキュルテペとエーリキョイ・ホユックは有名です。初期青銅器時代、アッシリア交易植民市の時代、ヒッタイト期に重要な役割を担ったカイセリとその近郊は、後期ヒッタイト時代にタバル国の名で呼ばれていました。
アッシリア等に続き、550年以降はペルシアの支配下におかれてサトラップ制のもとでカッパドキア郡の中心都市として活躍しました。その当時の名を“マザカ”とし、アレキサンダー大王の来訪と共にマケドニアの手に渡りましたが、大王の死後はペルシアに祖をもつアリアラテス族の支配下にしかれ、独立国であるカッパドキア王国の中心としてユーセベイアの名で知られる様になりました。
アリアラテスの勢力はポントス王ミトリダテスがB.C.90年に自らの子息をカッパドキア王として宣言するまで続きました。B.C.66年、カッパドキアは再びローマ人の手中に落ち、長い間ビザンチンの支配下におかれました。アラブの襲撃に際して何度か崩壊の危機に瀕しましたが、1071年のマラズギルトの戦いの後は、セルジューク帝国の要地としてその地位を一時、確立させています。
1097年、第一回十字軍により征服され、以降、ダニシメンオール、セルジューク、そして1243年に勃発したキョシェダーの戦い以降モンゴルに支配され、多くの戦いをくぐり抜けたアナトリアの中心に位置するここカイセリが、最後にオスマンの領土に包含されたのは1515年のことでした。
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カッパドキアの発掘の歴史
歴史の初期以来、様々な民族が集落を形成してきたカッパドキアには数知れない遺跡や古代都市が存在するに違いなく、これらが発掘され、一帯の歴史の解明に役立つ考古学的な調査活動が一日も早く実施される事が望まれています。
例えば、カイセリ近郊のキュルテペ、アクサライ近郊のアジェムホユックは、今日までに発掘された非常に興味深い都市遺跡のほんの数例と言えます。
カッパドキアは、アナトリア中央部の四方を山に囲まれた高原地帯です。今からおよそ1500万年前までこのあたりは広大な内海でした。カッパドキアの近郊にある塩湖(トゥズ湖/Tuz Gölü:1620平方km)はその名残です。
この内海が干上がった頃、地中海沿岸のタウロス山脈に住む旧石器狩猟民たちが、内陸部、カッパドキア地方の大部分を占める現在のコンヤ平原の肥沃な土地に向かって、移動し始めたと言われています。
カッパドキア近郊のチャタル・ヒュユクの丘は、これまでに発見された中で最大の新石器時代の遺跡としてユニークなものです。発掘はまだほんの一部行われたにすぎませんが、その出土品によって先史時代の独特な文化の担い手としてのアナトリアの役割が明らかになってきました。これらの出土品は紀元前6500年から5500年頃のものと推定され、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されています。
出土品の中で注目すべきものは人工の壁に描かれた最古の壁画です。壁画のひとつには、えんじ色の矩形が並び、ピンクに赤のふちどりの二つの山型がみられます。
この絵の下の部分が居住地の図だと考えると、上の二つ並んだ山型はハッサン火山(Hasan Dağı)と思われます。一つの山の上方に赤い点々が見えますが、ハッサン火山は紀元前2世紀まで活火山でした。そうしたことから、この壁画はこれまでのところ最古の地図だといえます。
遺跡発掘の結果、青銅器時代においてもアナトリアは独特の文化を創りだしていた事が分かってきました。
メソポタミア地方以外で私たちが知っている国々の中では、古代の民族ハッティが最も早く文明化された国で、その言語や宗教についても多少知られるようになってきました。
ヒッタイトの首都「ハットゥシャ」という名には “ハッティの住むところ”という意味があります。
そして、ハットゥシャから遠くない、アラジャホユックにある歴代のハッティ人の王の墓地からは、貴重な金や青銅の財宝がみつかり、それらは今アナトリア文明博物館に展示されています。
紀元前2000年ころ、インドヨーロッパ語族のヒッタイトが、ボスポラスとダーダネルスの両海峡を越えやって来て、アナトリア諸国に支配力を振るうようになりました。ハットゥシャの王家の公文書庫から出土した楔形タブレットはまだ断片的にしか解読されていませんが、古代世界史上においてヒッタイトが極めて特殊な位置を占めていたことを示しています。
ヒッタイトの歴史とハットゥシャ遺跡|トルコ世界遺産(文化遺産・1986年)
例えば、カイセリ近郊のキュルテペ、アクサライ近郊のアジェムホユックは、今日までに発掘された非常に興味深い都市遺跡のほんの数例と言えます。
カッパドキアは、アナトリア中央部の四方を山に囲まれた高原地帯です。今からおよそ1500万年前までこのあたりは広大な内海でした。カッパドキアの近郊にある塩湖(トゥズ湖/Tuz Gölü:1620平方km)はその名残です。
この内海が干上がった頃、地中海沿岸のタウロス山脈に住む旧石器狩猟民たちが、内陸部、カッパドキア地方の大部分を占める現在のコンヤ平原の肥沃な土地に向かって、移動し始めたと言われています。
カッパドキア近郊のチャタル・ヒュユクの丘は、これまでに発見された中で最大の新石器時代の遺跡としてユニークなものです。発掘はまだほんの一部行われたにすぎませんが、その出土品によって先史時代の独特な文化の担い手としてのアナトリアの役割が明らかになってきました。これらの出土品は紀元前6500年から5500年頃のものと推定され、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されています。
出土品の中で注目すべきものは人工の壁に描かれた最古の壁画です。壁画のひとつには、えんじ色の矩形が並び、ピンクに赤のふちどりの二つの山型がみられます。
この絵の下の部分が居住地の図だと考えると、上の二つ並んだ山型はハッサン火山(Hasan Dağı)と思われます。一つの山の上方に赤い点々が見えますが、ハッサン火山は紀元前2世紀まで活火山でした。そうしたことから、この壁画はこれまでのところ最古の地図だといえます。
遺跡発掘の結果、青銅器時代においてもアナトリアは独特の文化を創りだしていた事が分かってきました。
メソポタミア地方以外で私たちが知っている国々の中では、古代の民族ハッティが最も早く文明化された国で、その言語や宗教についても多少知られるようになってきました。
ヒッタイトの首都「ハットゥシャ」という名には “ハッティの住むところ”という意味があります。
そして、ハットゥシャから遠くない、アラジャホユックにある歴代のハッティ人の王の墓地からは、貴重な金や青銅の財宝がみつかり、それらは今アナトリア文明博物館に展示されています。
紀元前2000年ころ、インドヨーロッパ語族のヒッタイトが、ボスポラスとダーダネルスの両海峡を越えやって来て、アナトリア諸国に支配力を振るうようになりました。ハットゥシャの王家の公文書庫から出土した楔形タブレットはまだ断片的にしか解読されていませんが、古代世界史上においてヒッタイトが極めて特殊な位置を占めていたことを示しています。
ヒッタイトの歴史とハットゥシャ遺跡|トルコ世界遺産(文化遺産・1986年)
カッパドキアの歴史的背景
ヒッタイトがアナトリアヘやって来た頃、カッパドキアにはいくつかの小国とアッシリアの交易都市がありました。カイセリに近いキュルテペ(古代のカネシュ)は交易都市の中でも最も重要な町でした。
紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国が滅んでアナトリアの暗黒時代が始まり、その後紀元前6世紀にリディア(首都サルディス)の属国になるまでカッパドキアに関する消息はほとんどありません。紀元前6世紀半ば、リディア王クロエソスは、アケメニッド王国のキュロス大王に敗れカッパドキアを失いました。
紀元前333年、アレクサンダー大王の遠征の後、紀元後17年にローマの属州となるまでの間、カッパドキア地方は比較的自由な時代でした。この時期、カッパドキアを支配した地元の諸王朝の中で、紀元前332年にアリアラテスが樹立した王朝が一番重要なものと言われています。
ローマ帝国も、続いてやってきたビザンティン帝国も、この地域の文化を吸収しようとはしませんでした。なぜなら彼らの関心は、道路を確保し交易ルートを守ることと、この広大な平原の労働力をビザンティン軍のために有効に使う事にしかなかったからです。
その後、支配階級や軍隊は便利な地点に駐留しそこに町ができていきます。
ゾロパスス(Zoropassos)~現在のギュルシェヒル(Gülşehir)、ソアンドス(Soandos)、ペリストレマ(Peristrema)~現ベリスルマ(Belisırma)、コラマ(Korama)~現ギョレメ(Göreme)、ソアンダス(Soandos)~現ネブシェヒル(Nevşehir)などがローマとビザンティンの時代の中心都市として発達していきました。
この地方の住民はいつも岩の多い場所に好んで住んでいました。石を利用し、あるいは自然の岩を穿って、山の上や谷、深い峡谷の岸辺に家を作りそこに住んでいました。穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいた事から、10世紀のビザンティンの歴史家は、カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれたと言いました。
住民の多くは主に農業に従事しており、特にぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事でしたが農地や牧草地は町に住む地主のものでした。住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていました。
2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼでした。初期のキリスト教徒はおそらく、ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々で、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々でした。
これらの新しい住人たちは、丘の斜面を掘り、岩を刻んで教会を造り、内部をフレスコ画で飾ります。こうしてカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士の祈り、教会などの大展示場の様相を呈するようになりました。
11世紀後半にセルジュク族がやってきたときには、カッパドキアには1000を越える宗数的施設があったそうです。カッパドキアのキリスト教社会と、イスラムのセルジュクトルコの関係は友好的でしたが、14世紀に入るとオスマン帝国に吸収されてしまいました。キリスト教信者のギリシャ人たちは、後世のトルコとギリシャの人民交換政策により、1920年代にカッパドキアを離れることになってしまいました。
オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡
紀元前1200年頃、ヒッタイト帝国が滅んでアナトリアの暗黒時代が始まり、その後紀元前6世紀にリディア(首都サルディス)の属国になるまでカッパドキアに関する消息はほとんどありません。紀元前6世紀半ば、リディア王クロエソスは、アケメニッド王国のキュロス大王に敗れカッパドキアを失いました。
紀元前333年、アレクサンダー大王の遠征の後、紀元後17年にローマの属州となるまでの間、カッパドキア地方は比較的自由な時代でした。この時期、カッパドキアを支配した地元の諸王朝の中で、紀元前332年にアリアラテスが樹立した王朝が一番重要なものと言われています。
ローマ帝国も、続いてやってきたビザンティン帝国も、この地域の文化を吸収しようとはしませんでした。なぜなら彼らの関心は、道路を確保し交易ルートを守ることと、この広大な平原の労働力をビザンティン軍のために有効に使う事にしかなかったからです。
その後、支配階級や軍隊は便利な地点に駐留しそこに町ができていきます。
ゾロパスス(Zoropassos)~現在のギュルシェヒル(Gülşehir)、ソアンドス(Soandos)、ペリストレマ(Peristrema)~現ベリスルマ(Belisırma)、コラマ(Korama)~現ギョレメ(Göreme)、ソアンダス(Soandos)~現ネブシェヒル(Nevşehir)などがローマとビザンティンの時代の中心都市として発達していきました。
この地方の住民はいつも岩の多い場所に好んで住んでいました。石を利用し、あるいは自然の岩を穿って、山の上や谷、深い峡谷の岸辺に家を作りそこに住んでいました。穴から地中にもぐり、岩の割れめや迷路のような隠れ家に住んでいた事から、10世紀のビザンティンの歴史家は、カッパドキアの住民はかつて世捨て人と呼ばれたと言いました。
住民の多くは主に農業に従事しており、特にぶどう栽培と家畜の飼育が主な仕事でしたが農地や牧草地は町に住む地主のものでした。住民は、作物の大部分を占領軍や、神殿の維持のために供出するよう強制されていました。
2世紀にキリスト教が知られるようになったころ、カッパドキアはさまざまな思想、哲学、東方諸宗教の入り乱れるるつぼでした。初期のキリスト教徒はおそらく、ローマの宗教的迫害から逃れてきた人々で、キリスト教徒の大部分は、タウロス山脈全域を占領したアラブ人の支配からカッパドキアヘ避難してきた人々でした。
これらの新しい住人たちは、丘の斜面を掘り、岩を刻んで教会を造り、内部をフレスコ画で飾ります。こうしてカッパドキアの岩石地帯は修道院や修道士の祈り、教会などの大展示場の様相を呈するようになりました。
11世紀後半にセルジュク族がやってきたときには、カッパドキアには1000を越える宗数的施設があったそうです。カッパドキアのキリスト教社会と、イスラムのセルジュクトルコの関係は友好的でしたが、14世紀に入るとオスマン帝国に吸収されてしまいました。キリスト教信者のギリシャ人たちは、後世のトルコとギリシャの人民交換政策により、1920年代にカッパドキアを離れることになってしまいました。
オスマン帝国623年の歩みを全解説!世界を揺るがせた大帝国の繁栄と滅亡
カッパドキアの宗数的背景
この地域は交易ルートの交差点だったので、さまざまな思想、信条、哲学、宗教が入り乱れて入ってきました。1世紀の半ばに聖パウロがここを訪れたときは、ゼウス、ミトラ、アティス、ディオニソス、地母神などの神々がひとつ、または一緒くたに崇拝されていたに違いないと考えられます。その為、新しい宗教はこれらの既成宗教と対決しなければなりませんでした。
聖バジル、ナジアンザスの聖ジョージ、カッパドキアのニサの人、聖グレゴリーは、これらの異教信仰と立ち向かい、当時のキリスト教思想を形成するのに力を尽くしました。
中でも、聖バジルはギリシャ正教会の4人の教父のひとりとされ、カッパドキアの教会にもしばしば、肖像が描かれています。(他の3人というのは、聖ジョン・クリソストム、ナジアンザスのグレゴリー、そしてアタナシウス)
彼はカエサリアの裕福な家庭に生まれ、コンスタンティノープルとアテネで学問を修めました。そして広く各地を旅した後、貧しい人々に自分の財産を分け与え、自ら定めた厳格な規律に基づく修道的共同体の創設に献身しました。
意外と知らないキリスト教の基礎知識!歴史や教え、ルールなどを簡単に解説
聖バジル、ナジアンザスの聖ジョージ、カッパドキアのニサの人、聖グレゴリーは、これらの異教信仰と立ち向かい、当時のキリスト教思想を形成するのに力を尽くしました。
中でも、聖バジルはギリシャ正教会の4人の教父のひとりとされ、カッパドキアの教会にもしばしば、肖像が描かれています。(他の3人というのは、聖ジョン・クリソストム、ナジアンザスのグレゴリー、そしてアタナシウス)
彼はカエサリアの裕福な家庭に生まれ、コンスタンティノープルとアテネで学問を修めました。そして広く各地を旅した後、貧しい人々に自分の財産を分け与え、自ら定めた厳格な規律に基づく修道的共同体の創設に献身しました。
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カッパドキアは初期キリスト教徒の隠れ家だった
地方への人口集中はキリスト教の浸透と共に始まることになりました。
4世紀のカッパドキアを生きた高名な宗教家聖バシリウスの教えである修道院の暮らしに従い、地方一帯には無数与の教会や修道院が建設されましたが、ビザンチン時代になり東部、南部からの大襲撃を受けると、村人達はこれらの建物を主要道路から離れた人目につきにくい谷間に造らざるをえなくなったのです。
7世紀以降、東からペルシャが、南からはアラブの民が地方に進攻して暴れまわると、カッパドキアの人々は避難場所として、今日地元の人々が「世界七不思議に続く、八番目の不思議」と呼ぶ、火山灰などの堆積層を削った大規模な地下都市を建設しました。
また、同時期、その初期にあっては絵やイメージに対するある種の反抗と受け取られても、実のところは教会への権力集中にストップをかける為に始められた偶像破壊運動の波が、ビザンチンはもとよりこのカッパドキアにも押し寄せてきました。
後に、アラブの襲撃と偶像破壊の動きが下火になると、カッパドキアには新たに何百もの教会が建設され、再び宗教画で装飾される様になったのです。
地方にて最も大掛かりな調査を実施したジェルファニオンは、此れら初期の教会を《アルカイック期》の教会と呼び、偶像破壊時代に対する一種の反抗精神から生まれた当時の造りを、非常に闊達で自由な精神をもって装飾されたものである、としています。
10世紀以降、大規模で壮麗な教会が造られたカッパドキアは、その黄金期を11世紀に入って迎えることになります。特にギョレメとその近郊に建設された教会は、外観、内部の宗教画ともに注目に値するものと言えます。
同じ11世紀、アナトリアは大きな攻防戦の舞台となりました。この地に進攻し、国家を形成したセルジューク・トルコ人をアナトリアの大地から解放し、聖地奪回を目指す十字軍やビサンチンの間の戦いが頻発した時代でもありました。セルジューク・トルコはこの波乱の時代から彼等の黄金期とされる13世紀までに、アナトリアを宗教的、軍事的な様々な建造物で飾り立てたのです。
当時造られたウフララ谷の聖ジョージ教会には、セルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が記されており、キリスト教徒がセルジュークの支配下におかれていた当時の状況を踏まえて考える時、教会を自由に建てて、支配者と非支配者の代表者の名を並べて掲げた意味で、大変重要なものと言えます。
セルジューク建築の代表作は、カッパドキアに続くあのシルクロード沿線と、周囲のアクサライ、ニーデ、ネヴシェヒル、カイセリ等、当時の主要都市にて目にすることができます。
モンゴルによって歴史の舞台から姿を消したセルジュークの後を継いだのは、13世紀にアナトリアに進出して以来、短期間のうちにヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸に跨がる大帝国を形成したオスマン帝国でした。
同帝国に属する建造物は、カイセリ、ニーデ、ユルギュップ、アヴァノス、ネヴシェヒルに多く、特にチューリップ期の名宰相イブラヒム・パシャの時代には、その故郷であるネヴシェヒルに数多くの施設が設けられています。
長い間、「田舎の芸術作品」と軽んじられたカッパドキア地方の教会ですが、その初期から末期まで継続してビザンチン芸術の何たるかを表現しているかと言う意味に於いては大変重要なものと言えます。実際、ビザンチン時代の初期から建設されたここの教会では、宗教画、イコン、建築など、その時代の歴史を一歩一歩辿る様にして見届けることができます。
実施された調査の結果、同一工房や同一画家の手による装飾画が発見された事は、即ち皇帝をはじめ高貴な身分にある人々の為に建てられた教会や、そのお抱え芸術家の存在を裏付けます。
ウフララ谷の教会に顕著なエジプトやパレスチナの影響は、カッパドキアがこれら外部からの要素に独自の文化を混合し、自らの解釈をつけた証拠と言えるでしょう。この岩窟教会を単に芸術的見地から分析しようとするのは実際のところあまり正解とは言い難く、何千もの岩窟教会に見られる宗教画は、当時の信仰、習慣、修道院生活などをも今に伝える大切な証人でもあるのです。
私たち一人一人に、カッパドキアの自然の奇跡、信じ難い文化遺産を保護していく責任が課せられていることは、この地を訪れた者であれば誰でも強く感じるところでしょう。この美の創造主である自然の力は、同時に新しい美を作り上げる為に過去の自身の作品である風景を破壊してしまう力でもあるのです。
かつてこの岩層を造り上げた侵食の作用は、同じ作用で岩層を蝕み続け、これを無くし、人々の生活した区域をゴーストタウンに変えました。また、自然や文化遺産に直接影響を及ぼさないまでも、世界で唯一無二のカッパドキアの景観を乱す近代建築には、一定の制限を加える必要があるでしょう。
ネヴシェヒルからウチヒサルヘ向かう時に目に付く、カッパドキアの象徴とも言えるウチヒサルの風景にそぐわないホテルの数々や、ギョレメからオルタヒサルを眺める時にエルジェスと美しいカッパドキアの景観に全くもってそぐわない建物など・・・。
観光業推進の名の下に犯されたこの過ちを見つめ、この世のものとは思えない魅力に溢れた一帯を大切に保護して後世に伝えてゆく義務を、現代人として私たちはしっかりと認識しなくてはならないのです。
4世紀のカッパドキアを生きた高名な宗教家聖バシリウスの教えである修道院の暮らしに従い、地方一帯には無数与の教会や修道院が建設されましたが、ビザンチン時代になり東部、南部からの大襲撃を受けると、村人達はこれらの建物を主要道路から離れた人目につきにくい谷間に造らざるをえなくなったのです。
7世紀以降、東からペルシャが、南からはアラブの民が地方に進攻して暴れまわると、カッパドキアの人々は避難場所として、今日地元の人々が「世界七不思議に続く、八番目の不思議」と呼ぶ、火山灰などの堆積層を削った大規模な地下都市を建設しました。
また、同時期、その初期にあっては絵やイメージに対するある種の反抗と受け取られても、実のところは教会への権力集中にストップをかける為に始められた偶像破壊運動の波が、ビザンチンはもとよりこのカッパドキアにも押し寄せてきました。
後に、アラブの襲撃と偶像破壊の動きが下火になると、カッパドキアには新たに何百もの教会が建設され、再び宗教画で装飾される様になったのです。
地方にて最も大掛かりな調査を実施したジェルファニオンは、此れら初期の教会を《アルカイック期》の教会と呼び、偶像破壊時代に対する一種の反抗精神から生まれた当時の造りを、非常に闊達で自由な精神をもって装飾されたものである、としています。
10世紀以降、大規模で壮麗な教会が造られたカッパドキアは、その黄金期を11世紀に入って迎えることになります。特にギョレメとその近郊に建設された教会は、外観、内部の宗教画ともに注目に値するものと言えます。
同じ11世紀、アナトリアは大きな攻防戦の舞台となりました。この地に進攻し、国家を形成したセルジューク・トルコ人をアナトリアの大地から解放し、聖地奪回を目指す十字軍やビサンチンの間の戦いが頻発した時代でもありました。セルジューク・トルコはこの波乱の時代から彼等の黄金期とされる13世紀までに、アナトリアを宗教的、軍事的な様々な建造物で飾り立てたのです。
当時造られたウフララ谷の聖ジョージ教会には、セルジュークのスルタン・メスドとビザンチン皇帝アンドロニコスの名が記されており、キリスト教徒がセルジュークの支配下におかれていた当時の状況を踏まえて考える時、教会を自由に建てて、支配者と非支配者の代表者の名を並べて掲げた意味で、大変重要なものと言えます。
セルジューク建築の代表作は、カッパドキアに続くあのシルクロード沿線と、周囲のアクサライ、ニーデ、ネヴシェヒル、カイセリ等、当時の主要都市にて目にすることができます。
モンゴルによって歴史の舞台から姿を消したセルジュークの後を継いだのは、13世紀にアナトリアに進出して以来、短期間のうちにヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸に跨がる大帝国を形成したオスマン帝国でした。
同帝国に属する建造物は、カイセリ、ニーデ、ユルギュップ、アヴァノス、ネヴシェヒルに多く、特にチューリップ期の名宰相イブラヒム・パシャの時代には、その故郷であるネヴシェヒルに数多くの施設が設けられています。
長い間、「田舎の芸術作品」と軽んじられたカッパドキア地方の教会ですが、その初期から末期まで継続してビザンチン芸術の何たるかを表現しているかと言う意味に於いては大変重要なものと言えます。実際、ビザンチン時代の初期から建設されたここの教会では、宗教画、イコン、建築など、その時代の歴史を一歩一歩辿る様にして見届けることができます。
実施された調査の結果、同一工房や同一画家の手による装飾画が発見された事は、即ち皇帝をはじめ高貴な身分にある人々の為に建てられた教会や、そのお抱え芸術家の存在を裏付けます。
ウフララ谷の教会に顕著なエジプトやパレスチナの影響は、カッパドキアがこれら外部からの要素に独自の文化を混合し、自らの解釈をつけた証拠と言えるでしょう。この岩窟教会を単に芸術的見地から分析しようとするのは実際のところあまり正解とは言い難く、何千もの岩窟教会に見られる宗教画は、当時の信仰、習慣、修道院生活などをも今に伝える大切な証人でもあるのです。
私たち一人一人に、カッパドキアの自然の奇跡、信じ難い文化遺産を保護していく責任が課せられていることは、この地を訪れた者であれば誰でも強く感じるところでしょう。この美の創造主である自然の力は、同時に新しい美を作り上げる為に過去の自身の作品である風景を破壊してしまう力でもあるのです。
かつてこの岩層を造り上げた侵食の作用は、同じ作用で岩層を蝕み続け、これを無くし、人々の生活した区域をゴーストタウンに変えました。また、自然や文化遺産に直接影響を及ぼさないまでも、世界で唯一無二のカッパドキアの景観を乱す近代建築には、一定の制限を加える必要があるでしょう。
ネヴシェヒルからウチヒサルヘ向かう時に目に付く、カッパドキアの象徴とも言えるウチヒサルの風景にそぐわないホテルの数々や、ギョレメからオルタヒサルを眺める時にエルジェスと美しいカッパドキアの景観に全くもってそぐわない建物など・・・。
観光業推進の名の下に犯されたこの過ちを見つめ、この世のものとは思えない魅力に溢れた一帯を大切に保護して後世に伝えてゆく義務を、現代人として私たちはしっかりと認識しなくてはならないのです。
世界遺産カッパドキアを舞台としたパルムドール受賞の映画『雪の轍』
トルコの巨匠、ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の映画『雪の轍』は、2014年の第67回カンヌ国際映画祭の最高賞であるパルム・ドール大賞を受賞。この映画は、世界遺産カッパドキアを舞台にした作品で、カッパドキアの壮大な景色をバックに、繊細な人間ドラマが美しく描かれています。
カッパドキア旅行は現地に精通した専門会社のツアーがおすすめ
自然が生み出した稀有な奇岩群が作り出す異世界のような景観、そして地下都市などの文明遺産など、カッパドキアを十分に満喫するには1週間以上の余裕を持ったツアーが適しています。
「ターキッシュエア&トラベル」は現地情報に精通しているので洞窟ホテルや人気の熱気球ツアーも提供可能です。また、サポートも手厚いので、現地でも安心して楽しめます。ぜひ1度「ターキッシュエア&トラベル」にお問い合わせください。
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トルコ政府リンク集一覧
トルコ政府観光局オフィシャルサイト(日本語)http://www.tourismturkey.jp/ Go Turkey(英語)
https://www.goturkey.com/ トルコ航空オフィシャルサイト(日本語)
https://www.turkishairlines.com/ja-jp/



