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トルコ基本観光情報

トルコ共和国ってどんな国?知られざるトルコの10の魅力


トルコ共和国は世界で最も親日的な国の一つ。アジアとヨーロッパにまたがる約78万㎢の国土を有し、その大部分はアジアの西端、アナトリア半島にあります。主な産業は農業で、小麦、米、たばこなどが主要作物。あらゆる宗教の唯一の架け橋といえる国です。

目次

トルコ共和国の概要

アンカラ
人口 8,315万4,997人(2020年)
面積 78万043㎢(日本の約2倍)
首都 アンカラ
言語 トルコ語(公用語)
宗教 主にイスラム教
元首 レジェップ・タイイップ・エルドアン大統領
(第12代、2014年8月28日~)
国技 ヤールギュレシ(オイルレスリング・トルコ相撲)
トルコ共和国は英語で「Republic of Turkey」。通称 Turkey(ターキー)と表記されます。

あなたが知らないトルコについての10の事実

トルコは人類文明発祥の地

国土の中にアジア大陸とヨーロッパ大陸を併せ持つトルコは、「アジアとヨーロッパの架け橋」というあまりにも使い古された言葉ながらも、これ以上ないほどの最適な言葉で表現されてきました。

トルコのアジア部分であるアナトリアは、人類文明発祥の地とされています。世界で初めて鉄器を使用したヒッタイト、ヒッタイト滅亡後に栄えたフリギア、古代ギリシア、ローマ帝国、オスマン帝国など、実に18もの文明が存在しており、非常に歴史深い地域なのです。

アナトリアとは?文明の発祥地である小アジアの歴史や遺跡 | トルコ旅行 トルコツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

トルコには18もの世界遺産がある

パムッカレ
トルコには2021年現在、18もの史跡がユネスコ世界遺産に登録されています。いずれも歴史的・文化的価値が高く、世界中から多くの観光客が訪れます。


トルコの世界遺産一覧 | トルコ旅行 トルコツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

トルコは世界第6位の観光大国

カッパドキア
トルコについてあまり知らない人でも「イスタンブール」や「カッパドキア」の名を聞いたことがある人は多いでしょう。異国情緒あふれるトルコは数多くの世界遺産を有し、世界中から観光客が訪れる人気の観光地なのです。

トルコは観光産業がサービス収入全体の約9割を占め、国を挙げて観光に力を入れている観光大国です。国連世界観光機関(UNWTO)の調査によると、2018年のトルコの外国人訪問者数は約4,600万人となり、過去最高の数字を記録しています。前年の2017年の訪問者数が約3,800万人と比べて、+20%超という驚異的な伸び率となっているのです。

2019年はさらに観光客数が増え、5,000万人を超えるとされます。国としての様々な努力が、確実に効果を発揮してきているといえるのではないでしょうか。

世界各国の観光客数ランキングにおけるトルコの位置付け

まず、世界全体の観光客数を見てみましょう。国連世界観光機関(UNWTO)によれば、世界全体で2018年の国際観光客数は14億人に達し、前年比+6%の成長をしています。

それではトルコを含めた国別の観光客数のランキングはどうなっているのでしょうか。2018年度統計では1位がフランスで約8,900万人、2位がスペインの約8,300万人、3位がアメリカの約8,000万人で、トルコは、中国・イタリアに次いで6位の約4,600万人となっています。実は日本でも人気の観光国であるドイツやイギリス、ギリシャよりも上位。まさに世界的に認められた一流の観光大国といえるのです。

トルコの国籍別観光客数

次にどこの国の人がトルコを多く訪れているのか見てみましょう。2018年のデータによると、1位はロシアからの観光客で約596万人、2位がドイツで約451万人、そして3位がブルガリアで約239万人となっています。ロシアは距離が近いというメリットに加え、観光客向けのビザが免除されていることが大きな要因といえます。

上位3ヵ国共に、前年と比べると観光客数が25%以上増加していることから、観光先としてのトルコの人気が高まっているといえるでしょう。

日本を含め、距離が遠いアジア地域からもトルコへの観光客は着実に増えています。2018年で見ると観光客が多い順に、中国から約39万人(前年比59%増)、韓国からは約16万人(前年比32%増)、そして日本からは8万人で前年比66%増と大幅な伸び率を見せているのです。特に日本におけるトルコ旅行の人気は近年急上昇中といえるでしょう。

 
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トルコは世界屈指の親日国!日本人は旅行しやすい

トルコ国旗
トルコは有数の親日国です。そのきっかけとなったのは、1890年に起こったエルトゥールル号事件だとされています。トルコの特使団を乗せた軍艦「エルトゥールル号」が日本近海で沈没したとき、日本人の必死の救援活動により69名の乗組員が救助されました。

その後のトルコによるイラン・イラク戦争での日本人救出劇や、東日本大震災での支援は、エルトゥールル号事件での日本人の対応へのお礼だといわれています。

このほかにも、日本とトルコは政治、経済、文化的なつながりが深く、トルコの対日感情は非常に好意的です。そのため、日本人がトルコに旅行に行くと、現地でとても親切にしてくれることが多くあります。日本でトルコ旅行の人気が高いのは、このような理由もあるのでしょう。

トルコが親日の理由とは?歴史的背景や出来事と旅行の楽しみ方を解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

トルコ料理は世界三大料理の一つ!日本人の口にも合う

トルコ料理
トルコ料理はフランス料理、中華料理と並び、世界三大料理の一つに数えられています。その理由は、文明の発祥地であり、さまざまな文化が交差するトルコという国の歴史的・地理的特性にあります。

メソポタミアの香辛料と生肉の味覚がアジアの食材と融合し、アナトリアの多様な植物と動物、地中海と黒海の海産物が合わさり、より幅広い料理を生み出したのです。

スパイシーながら日本人の味覚にも合う味付けのトルコ料理の中には、ケバブやフムス、トルコアイス、サバサンドなど日本でも馴染み深いものも数多くあります。

トルコ料理|ケバブからピラフまで徹底解説!イスタンブールのお店やレシピもご紹介 | トルコ旅行 トルコツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

トルコの首都はイスタンブールではなくアンカラ

トルコの首都と聞かれたら「イスタンブール」と答える人も少なくありません。確かにイスタンブールはトルコ最大の都市で、知名度も高く観光の拠点にもなる街ですが、実はトルコの首都は内陸部にあるアンカラなのです。

現在のトルコ共和国が誕生した地であるアンカラはトルコの政治の中枢であり、歴史深い街は観光でも楽しめます。

【トルコの首都】アンカラ旅行のおすすめ観光名所7選!治安や気候も解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

ワイン、ヨーグルト、チューリップ…身近なあれも実はトルコ発祥

ヒッタイト ビール ワイン
トルコは非常に長い歴史を持ち、さまざまな文化が交差する要衝であるため、以下のように「起源を辿ると実はトルコだった」というものも少なくありません。

イスラム国家だけど宗教に対しては自由で寛容

トルコでは国民の99%以上がイスラム教を信仰しています。他には東方正教会、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教などの信徒がごく少数派となります。

トルコでは政教分離の考え方により、他のイスラム教国に比べるとイスラム法の解釈が柔軟にされています。そのためお酒を楽しむ国民も多くいます。

イスラム教ってどんな宗教?気になるイスラム教を徹底解説! | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

トルコには数多くの「世界一」がある

トルコ 紅茶 チャイ

トルコ語は日本語と同じグループに属した姉妹語

トルコ語と日本語はアルタイ・グループと呼ばれる言語の中に属した姉妹語です。英語とは異なり、日本語と語順がまったく同じトルコ語の勉強は実は簡単なのです。

トルコ旅行に行かれる際は、ぜひトルコ語を学んでみてください。

トルコ語・トルコ 言語 | トルコ語は難しいと思っている皆さん!トルコ語の勉強は簡単です | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

トルコ共和国成立の歴史

アタチュルク
アレキサンダー大王の征服後、ギリシャ人によって支配されていたアナトリアは、ペルシャ、ギリシア、ローマ帝国、ビザンティン帝国…と支配を受け、ヘレニズム文化が育っていました。

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イスタンブールの「アヤソフィア寺院」はビザンティン帝国によってギリシャ正教の建造物として建てられ、のちにカトリック教の大聖堂となり、ずっと長きにわたってキリスト教の聖地として存在していました。ビザンツ建築の最高峰と言われています!また、キリスト教徒はカッパドキアにも多く存在していました。のちにイスラム教徒に迫害されるようになると、ギョレメ地区では洞窟や地下に穴を掘って、隠れながら生活をするようになります。今でも「ギョレメ博物館」を始め、数多くの地下や洞窟の教会が発見されており、壁面にはキリストや聖母マリアの絵を見ることもできます。

そんなヘレニズム文化が育ったアナトリアでしたが、だんだんと中央アジアからトルコ系民族が流入してくることになります。セルジューク朝が出来ると、たびたびビザンティン帝国の首都コンスタンティノープル(今のイスタンブール)は攻撃を受け弱体化し、次のオスマン帝国時代にはついに陥落してしまうことになるのです。トルコ系民族が進出してくると同時に、彼らの信仰するイスラム教もアナトリアに一気に広まることになりました。キリスト教徒は迫害されて、「アヤソフィア寺院」も皇帝のモスクにされてしまいます。

この頃のイスラム教の栄華を象徴する建物はイスタンブールの「ブルーモスク(スルタンアフメット ジャーミー)」であり、世界に誇る美しさを備えた壮大なモスクには本当にうっとりしてしまいますね。
「アヤソフィア寺院」と「ブルーモスク」は隣り合って建てられ、ヨーロッパとアジアを起源とする二つの宗教文化を象徴するようにイスタンブールで融合していきます。そして、オスマン帝国はヨーロッパやアフリカまで領土を拡大したことで、人や宗教以外の文化も流入して、広く融合していきました。

オスマン帝国|世界を揺るがした大帝国 623年間の繁栄と滅亡 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

トプカプ宮殿
こうした背景を持つアナトリアは、その後オスマン帝国が衰退していく歴史を経て今のトルコ共和国となりました。様々な宗教や文化の融合を許容しながら、政教分離を導入することで一つの国家として独立することに成功したのです!この成功は政治的にはとても大きな意味をもっていました。トルコはアジアとヨーロッパ、そして引いては中東の国々を融合させる要所として、大きな役割を期待されているのです。

第一次世界大戦でオスマン帝国が敗北したことで帝国が解体される危機のなか、トルコ革命の指導者となったのが、ムスタファ・ケマル・アタテュルクです。祖国解放戦争に勝利したアタテュルクは、1923年10月29日、アンカラを首都としてトルコ共和国を樹立、自らが初代大統領となりました。

トルコの地理的位置

トルコは、北緯36~42度、東経26~45度に位置するトルコの国土面積は78万043㎢で、近隣諸国(イランを除く)および全ヨーロッパ諸国(ロシア連邦を除く)のどの国よりも国土面積が大きい国です。国土の3%を占めるヨーロッパ側の地方はトラキヤ、残り97%を占めるアジア側の地方はアナトリアと呼ばれています。東西間で76分の時差がある。トルコの陸上国境の長さは2,875㎞、領海線の長さは8,333㎞です。

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トルコの政治体制(内政)

憲法により世俗主義が基本となっている。そのため三権分立の徹底と、イスラム教世界にありながら政教分離の原則が守られている。立法府は一院制のトルコ国民大議会(600議席、任期5年)となり、一院制のため強い権限を持つ。

行政は議会の承認に基づく議院内閣制をとっていたが、2017年の国民投票により大統領権限の強化と議院内閣制の廃止が実施され、2018年に首相職が廃止され実権型大統領制(行政権の全てが大統領に属す)に移行をした。国家元首は国民投票により選ばれる任期5年の大統領が務める。
司法府は最高裁判所が置かれる。

トルコの国際関係(外交)

トルコは、ヨーロッパ、中東、中央アジア、コーカサス地域と接しており、地理的に重要な場所に位置しているため平和的な外交を基本としている。自国をヨーロッパ諸国の一員として認識をしているため欧米よりの外交を基本路線としている。

国連、欧州評議会、北大西洋条約機構(NATO)、経済協力開発機構(OECD)、欧州安保協力機構(OSCE)、世界貿易機関(WTO)、イスラム諸国会議機構(OIC)、黒海経済協力機構(BSEC)、経済協力機構(ECO)などさまざまな組織のメンバーであるトルコはまた、欧州連合(EU)加盟を目標にあげている。上海協力機構の対話パートナーとして参加しており、また、天然ガスパイプライン建設などでロシアとも深い関係を構築し、近年は欧米よりの外交路線からはやや外れている。

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日本国との関係

日本とトルコ
1924年に日本との国交が樹立され、1926年に日土協会が発足をした。その後1930年に日土通商航海条約が締結をされ、2国の関係はより強くなった。第二次世界大戦ではトルコは中立の立場を貫いていたが1945年に連合国に参加をし、日本に宣戦布告をしたため国交が破棄をされた。

戦後、サンフランシスコ平和条約により国交を回復し、戦後は経済大国となった日本によりトルコへのインフラ整備などの政府開発援助が積極的に行われている。国交回復後、民間関係は積極的とは言えなかったが、1986年に第二ボスポラス大橋が日本の商社によって建設され関係が深まり、トルコへの観光旅行需要が高まりもあり民間の交流も活発となっている。近年、トルコは日本企業にとって、ヨーロッパ及び近隣中東諸国市場への生産拠点として注目が高まっており、また、国内消費市場の拡大に伴い販売拠点の設立も相次いでいる。そのため企業の進出や現地法人化の動きが加速している。

また、日本はトルコの考古学的一般調査も毎年継続して行っています。
首都アンカラから南東に約100kmの距離に位置するアナトリア地方の村にあるカマン・カレホユック遺跡は日本の機関が1985年から発掘調査を続けています。

遺跡の調査を続けている東京・三鷹の中近東文化センターが母体となり本格的に発掘調査をするために、カマン・カレホユック遺跡の傍にアナトリア考古学研究所を設置しました。

研究所の敷地内には、カマン・カレホユック遺跡に最初の鍬入れをされた三笠宮崇仁親王殿下を記念した三笠宮記念庭園と遺跡から出土され遺物を展示する考古学博物館が併設されています。

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トルコの国名

オスマン帝国崩壊後の1924年に建国宣言がなされ、トルコ語で「トルコ人の国家」を意味する「Türkiye Cumhuriyeti(テュルキイェ・ジュムフリイェティ)」が正式国名として制定されました。公式の英語表記はRepublic of Turkeyとなりました。

英語のTurkeyはカタカナ表記だと「ターキー」となりますが、日本ではターキーの発音ではなく「トルコ」と呼ばれます。これはポルトガル語で「トルコ人」や「トルコの」を意味するturcoが由来と言われています。

トルコは英語で「Turkey」!ターキーとは由来や七面鳥との関係、トルコの英語事情を解説 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

トルコの気候

トルコの国土は日本の約2倍と広く、東西に長い長方形のような形をしています。そのため国内でも気候は様々です。トルコ南部の地中海沿岸は、「地中海性気候」で、冬でも比較的温暖な地域です。夏は高温ですが湿度は低いです。東部の黒海沿岸は、穏やかな気温で雨量や湿気が多いのが特徴である「温暖湿潤気候」です。内陸部は「大陸性気候」で寒暖の差が激しく、特に東部の山岳地域においては冬に厳しい寒さが訪れます。

イスタンブールの気候は東京とほぼ同じくらいです。ただし近年の気候変動で冬は気温が氷点下にまで下がる事もあり、夏には猛暑が続くこともあります。カッパドキアは夏でも最高気温は20度後半までとなり、東京と比較すると涼しいです。冬は氷点下を下回り、積雪する場合があります。

トルコ主要観光地の平均気温(℃)

1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
イスタンブール 6 6 7 11 16 20 23 23 20 16 12 8
トロイ 6 7 8 13 18 22 25 25 21 16 12 9
エフェソス 9 10 12 16 21 26 28 27 23 19 14 11
パムッカレ 6 7 10 15 20 25 27 27 22 17 12 8
コンヤ 1 2 6 11 16 20 23 23 19 13 6 2
カッパドキア 1 2 5 10 15 19 21 21 17 12 6 2
アンカラ 1 12 6 11 16 20 23 23 19 13 7 2

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トルコの教育制度

トルコの教育
トルコでは5歳半(9月30日までに66ヶ月を満たす者は、その年の9月に入学する)から12年間の義務教育が開始される。初等教育前期(4年)、初等教育後期(4年)、中等教育(4年)となり、それぞれが日本の小学校、中学校、高校に相当をする。
中等教育までの義務教育を終えた後は、高等教育の大学に進む選択肢がある。

公立の初等と中等学校は無試験で入学が可能で授業料及び教科書は無料。外国語教育は、公立校では2年生から英語の授業がある。

駐日トルコ大使館・領事館

駐日トルコ共和国大使館 110kuwahara / CC BY-SA

現在の中日トルコ大使館は1977年に東京都渋谷区神宮前に竣工をされました。
建築家丹下健三氏の設計で、館内は真っ白なトルコ産の大理石が多く使われ、トルコ絨毯をよりいっそう引き立たせています。
名称 駐日トルコ共和国大使館
(Embassy of the Republic of Turkey in Japan)
住所 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前2-33-6
特命全権大使 コルクット・ギュンゲン(2021年6月現在)
受付時間 9:00~12:30・14:00~17:30
定休日 土日祝



トルコ大使館・駐日トルコ共和国大使館の歴史やトルコと日本の関わりを解説 | トルコ旅行・ツアー・観光なら、安心の『ターキッシュエア&トラベル』におまかせ!

在名古屋トルコ共和国総領事館

名称 在名古屋トルコ共和国総領事館
(Consulate-General of the Republic of Turkey in Nagoya)
住所 〒460-0008
愛知県名古屋市中区栄3丁目21-23 KSイセヤビル4階
電話番号 052-263-6200

在福岡トルコ共和国名誉総領事館

名称 在福岡トルコ共和国名誉総領事館
(Honorary Consulate-General of the Republic of Turkey in Fukuoka)
住所 〒812-8566
福岡市博多区博多駅前3-25-21 九州旅客鉄道株式会社内
電話番号 092-474-7260
T.C. Dışişleri Bakanlığı 駐 東京トルコ共和国大使館
トルコ大使館 文化広報参事官室
トルコ大使館 Tokyo Büyükelçiliği | Facebook
トルコ大使館 T.C. Tokyo Büyükelçiliğiさん (@TurkeyinJapan) / Twitter

在トルコ日本国大使館

日本大使館
現在の在トルコ日本大使館はトルコの首都アンカラにあります。
1953年7月に在トルコ日本大使館が開設されました。
1963年10月に在イスタンブール駐在官事務所が開設され、1965年1月に在イスタンブール日本国領事館が開設、1972年に総領事館に昇格しました。
名称 在トルコ日本国大使館(Japonya Büyükelçiliği)
住所 Çankaya, Reşit Galip Cd. No:81, 06692 Çankaya/Ankara, トルコ
現大使 鈴木量博(2021年1月現在)
電話番号 +90-(0)-312-446 05 00(代表)
開館時間 9:00~13:00、14:30~17:30
公式サイト 在トルコ日本国大使館

在イスタンブール日本国領事館

名称 在イスタンブール日本国領事館(Japonya Konsoloslugu)
住所 Tekfen Tower 10th, Buyukdere Cad. No.209 34394 4.Levent, Istanbul, トルコ
電話番号 +90-(0)-212-317 46 00(代表)
開館時間 9:00~13:00、14:30~17:30
公式サイト 在イスタンブール日本国領事館

アナトリア考古学研究所

名称 アナトリア考古学研究所(Japanese Institute of Anatolian Archaeology)
住所 Çağırkan, Kaman, Kırşehir, TURKEY
電話番号 +90-386-717-6252
公式サイト http://www.jiaa-kaman.org/jp/index.html
 
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トルコの人口

トルコの人口は、8,315万4,997人です(2020年)。81県の中で人口の多い県はイスタンブール県に次いでアンカラ県(6.3%)、イズミール県(5.3%)、ブルサ県(2.8%)となっています。全人口の70.5%が都市部に住んでいる。全人口のうち、0~14歳の人口は26.4%、15~64歳は66.5%、65歳以上は7.1%です。

イメージ

トルコの言語・トルコ文字

トルコ人は、8世紀から現在にいたるまでさまざまな文字を使用してきました。突厥文字、ウイグル文字、アラビア文字が長い間使われた後、ムスタファ・ケマル・アタチュルクは、近代文明の水準に到達することを目指して、1928年にアラビア文字に代わって、トルコ語の音声構造に適したラテン文字を取り入れました。

トルコ語からアラビア語やペルシャ語からの借用語をなくし、純粋なトルコ語だけにしたいと考えたアタチュルクの提唱により、1932年にトルコ語研究協会が設立されました。その後トルコ言語協会に名称を改めたこの研究協会は、現代トルコ語の発展に重要な役割を果たしたのです。トルコ言語協会は1983年にアタチュルク文化言語歴史高等協会に組み込まれました。

アタテュルクの行った言語改革は国民に浸透し、書き言葉においてトルコ語が使用される割合が1932年以前には35~40%ほどだったのが、今日では80~85%に達しています。

トルコ文字ってどんな文字?|トルコ語アルファベット | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

現在のトルコ人はどこから

トルコの民族衣装
アジアの語源となったアナトリアではありますが、現在のトルコ人を含むトルコ系と呼ばれる民族は、実は最初からアナトリアにいた訳ではありませんでした。
トルコ系民族は、内陸アジアに広がる草原で騎馬遊牧民として活動していました。その起源については色々な説がありますが、数多くのトルコ系民族が存在し、歴史の中で多くの部族を構成して勢力を競い合い、興亡を繰り返してきました。中央アジアを中心として、広大な範囲の民族移動を行ったと言われています。

やがて中央アジアのトルキスタンに定住したあとはイスラム教が広まり、多くのトルコ系民族が、広くイスラム世界にも分布することになります。現在のトルコ共和国のトルコ人は、その後継者ですが、それ以外にも中央アジアや西アジアにも今でも広くトルコ系民族は存在しているのです。

なお、いろいろな説があるトルコ系民族の起源ですが、一説にはユーラシア大陸(今のモンゴルのあたり)で強大な勢力を持っていた「匈奴」や、その「匈奴」が変異し、中央アジアから東ヨーロッパまでで勢力を誇っていた「フン族」が起源ではないかと言われています。この「匈奴」ですが、東西に分かれて広がって、一方はトルコに、もう一方は日本にやってきたという話もあるのです!

このようにアジア大陸を縦横無尽に駆け抜けたトルコ系民族は、大陸の様々な歴史の発端となってきました。遊牧生活の中で混血や文化の融合が進み、地域の特色を生み出してきたのです。それぞれの文化を得た各部族はやがて定着し、独自の歴史を刻みながら現代に至ります。今では各国家に分布したトルコ系民族ですが、起源は同じものとしてどこかに共通した意識を持ち合わせているのです。

 
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観光客数が多いトルコの人気都市の魅力

市場調査会社ユーロモニターインターナショナルによると、2017年の世界の都市別外国人訪問者数ランキングでは、トルコのイスタンブールが12位、アンタルヤが16位にランクインしています。もちろんトルコ観光では、日本でも抜群の知名度を誇る奇岩で有名なカッパドキアも外せません。

ここからは「イスタンブール」、「カッパドキア」、「エフェソス遺跡」、「パムッカレ」、「アンタルヤ」、「アフロディシアス遺跡」、「ペルガモン遺跡」の7つの観光都市の魅力をご紹介します。

イスタンブール

ブルーモスク
トルコといえば、まずイスタンブールを連想する人がいるほど、日本でもよく知られたトルコの代表的な観光地のひとつといえます。

イスタンブールは、最も狭いところで幅800メートルしかないボスポラス海峡をまたいで、アジア側とヨーロッパ側に広がる独特の景観が特徴。年間約700万人が観光に訪れ、バルカン半島で最多の1,410万人が住む大都市です。さまざまな文化が混じり合っている異国情緒あふれる街で、何度でも訪れるファンも多くいます。

南部の旧市街付近には史跡や美術館などの観光スポットが数多くあり、有名なグランドバザールエジプシャンバザール(別名スパイスバザール)もこの地区にあります。

また、ビザンティン建築の最高傑作と評されているアヤソフィアも外せません。教会とモスクの性質を併せ持つ世界でも稀な建造物といわれています。もともとはギリシャ正教の大聖堂として建てられましたが、その後長期間にわたりイスラム教のモスクとして何度も改築を繰り返してきた複雑な歴史があるのです。現在は博物館となっています。

そんなアヤソフィアの正面にそびえるのがブルーモスク。青いステンドグラスやタイルが特徴的で、世界で最も美しいモスクの一つと称えられています。こちらもイスタンブールでは外せない観光名所といえるでしょう。


イスタンブール観光全解説!絶対に行きたいおすすめスポット30選 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

トプカプ宮殿

トプカプ宮殿
トルコ語のトプは「大砲」を、カプは「門」を意味しています。かつて、宮殿の正門のひとつに2台の巨大な大砲が据えられていました。門そのものは残っていませんが「大砲門の宮殿」トプカプサライという名前だけが残ったのです。

トプカプ宮殿を見学する前に、およそ500年の間ここが世界に冠たる大帝国の中心となっていた事を心に留めてほしいです。帝国の領土の西は全バルカンを含んでウィーンに迫り、北は黒海クリミア・コーカサス地方、カスピ海、東はペルシア湾からアラビア半島へ、南はいわゆるヘラクレスの柱を越えて全地中海から、チャド湖に至る北アフリカまで広がる広大なものでした。世界の七不思議といわれた地点の全てがこの帝国領内に含まれていました。18の宗教が信仰され、20の言語が使われていたというこの大帝国の絶対権力者は、トプカプ宮殿に住む「アラーの影」-スルタン-でした。1299年の初代オスマンから、1922年に最後のスルタンがイギリスの砲艦にのって逃げ出すまで、36人のスルタンが帝国を支配し、その半数以上がこのトプカプ宮殿に住んでいました。

トプカプ宮殿
宮殿には常時約6000人が住んでいたそうです。スルタンの権力を物語るエピソードとして、小姓たちが御殿医に歯を抜いてもらう時には、まずその歯の位置を詳しく描いてスルタンの許しを得てから出かけたと言われています。もし、御殿医がヤブ医者で隣の歯を抜いてしまったら、自分自身の歯も1本抜かなければならなかったのです。なぜなら、このような誤りはスルタンの財産を損傷したと考えられたからです。


ただし、オスマンのスルタンについて語られているほとんどは、当時の「歴史家」の手になるものだという事を忘れてはならなりません。当時の歴史家にとって歴史も小説も大した違いはなかったそうです。もうひとつの情報源である外国人使者たちの手紙も又然りで、想像力豊かな報告書を国元に送るのは普通の事だったらしいです。しかし、近年の科学的歴史研究によって、オスマントルコ史も公平な視点からみて正されていくものと信じています。

トプカプ宮殿は1467年から1840年までのものと言ってよいでしょう。メフメットⅡ世(征服王)のあと、歴代のスルタンたちが改築したり、壊したり…それぞれの好みに応じて手を加えられた為、様々な時代の建物がまとまりなく並んでいるような印象を受けます。

トプカプ宮殿
〔第一の中庭〕

さて、実際の宮殿内に入るためには、当時の習慣にしたがって第二の門、つまり送迎門でバスやらくだ、かご、タクシーを降ります。この門を乗物にのって通れるのはスルタンだけでした。門をくぐる前に、右側のスズカケの木に隠れている簡素な泉の前でしばし足を止めてみて下さい。これは、「死刑執行人の泉」です。大臣など高官がスルタンのご機嫌を損ねるとただちに首を切られ(文字通りに)、この泉で洗われた首は中央に設けられたさらし台にのせられたそうです。新任の大臣が任命されて宮殿に馳せ参じた時、前任者の生首が門前で出迎え、教訓を与えるのでした。19世紀後半、ドイツのウイルヘルム・カイセルII世が来訪した時、当時のスルタンは悪印象を恐れて、泉を壁から離しましたが、1924年に博物館になってから再び元の場所に戻されました。


〔第二の中庭〕

この中庭には糸杉、スズカケ、クルミの木や花々…がさりげなく植えられ庭園らしい印象を与えています。古い記録によると、かつてここには18種の梨の木、14種の梅、そして7種類のマルメロの木があったそうです。しかし、実際は果樹といえるものは1本しか残っていません。それはガイドに言わせると世界で1本しかない「松いちじく」とのことです。中央通路の中ほどにある糸杉にいちじくを接ぎ木し出来たもので、宮殿の数あるコレクションよりも注目に値します!

トプカプ宮殿
〔台所〕

第二の中庭の右手の二棟の長い建物はかつて台所でした。手前の建物は、ブリキ工場と料理人の宿舎で、奥の建物は大きな煙突からみて実際の調理場だったに違いないでしょう。16世紀後半には料理人は1200人もいたそうです。そして、年間に3万羽の鶏、22500頭の羊が消費されました。毎日の夕食には132種類のメインディッシュが準備されたと言います。コックはそれぞれパン焼、チキン、おかし…というような専門に分けられていました。

スルタンとその家族には専属のコックがいて時には専用の台所も与えられました。スルタンの「4人の妻」には、毎日5kgの肉、2kgのバター、夏場になるとロバの背にのるだけの雪、一皿のクリームに最上の小麦で焼いたパン4片、はちみつ0.5kg、果物1 kg、4羽の鶏に卵が2個それに季節の野菜が支給されました。4人の御婦人にとって十分な量と思われます。

台所の大部分には今日、宮殿の陶磁器コレクションが展示されています。スルタン達の陶磁器好みと振子式時計マニアは有名な話です。トプカプの陶磁器コレクションは10512点と言われていますが、見学者にとって幸いな事にスペースの関係でその一部だけしか展示されていません。コレクションの大部分はスルタンが買い求めたものですが、プレゼントや戦利品として運ばれたものも多いです。
青磁は、毒入りの料理を盛ると変色すると信じられていたので、いつも毒殺を恐れていたスルタンたちには人気がありました。19世紀後半のスルタン、アブドゥルハミットはタバコの毒味まで宦官にさせていたそうです。最後の部屋には伊万里として知られた日本の陶磁器も展示されています。


〔幸福の門〕

この門の前でしばし佇み、金箔に954の電鉱石を散りばめた儀武用の玉座-(この玉座は今、宝物館第三の部屋にあります)-に座るスルタンを偲ぶのがガイドたちの慣わしとなっています。スルタンは「神の使い」であって臣民に幸福をもたらすもの-という意味で、スルタンの住居の入口となるこの門を「幸福の門」と呼んでいました。スルタンの即位式が行われ、高官たちはここで新スルタンに忠誠を誓いました。ドイツの皇妃がスルタンの黒人宦官長にむかって、「そなたの父親も宦官を勤めていたのですか?」とナイーブな質問を下されたというのも多分ここでの出来事でしょう。天井から下げられた飾りは地球をあらわし、散りばめられた宝石はスルタンの支配力を象徴していました。重要な儀式の際には、一枚岩でできた床にイスラム聖旗が立てられたそうです。


〔第三の中庭 スルタンの衣裳〕

第三の中庭に入って右手の建物はスルタンの遠征にお供する小姓たちの宿舎でした。現在はスルタンの衣裳の一部や、最高級の礼拝用絨毯が納められています。征服王メフメットII世の死後、習慣としてスルタンの衣裳は特別に包装され保存されるようになりました。約2500着の衣裳が当時のままの美しさを保存して残されています。

トプカプ宮殿
〔宝物館〕

オスマントルコの都になって以来イスタンブールは一度も敵の襲撃を受けた事がない為、スルタンは世界有数の宝物を貯える事ができました。今日、宝物館として公開されている4つの部屋は、もとはオスマン帝国はじまって以来の飲兵衛スルタンとして知られるセリムⅡ世の浴室でした。スレイマン大帝とロクセレーナの息子である彼は、キプロスの赤ワインにおぼれる毎日で、赤ワイン欲しさにキプロス攻略を考えたのだといわれています。突然の死が彼を見舞ったのは、現在の宝物館第一の部屋でした。いつものように息をもつかず、ワイン1本飲み干したスルタンは千鳥足で浴室へ、そして大理石の床ですべって頭をしたたかに打ちつけてあっけなくこの世を去ったのでした。

宝物館の4つの部屋の全てに玉座が展示してあります。第一の部屋の玉座は象牙と真珠母を散りばめた黒檀からできています。同じ部屋にある宝石を散りばめた鎧と共に、バグダット征服王ムラトIV世のものです。オスマン帝国のスルタンの中でも最も恐れられたスルタンの1人だったムラトIV世が、もしあの世から舞い戻ってこの部屋に陳列されているおびただしい数の水ギセルを見たらどんなに怒り狂うことでしょうか。彼自身はヘビースモーカーだったそうですが、イスタンブールで大火事があってから禁煙令を出し、喫煙者を見つけ次第自らの手で殺したといわれています。陳列棚の中には器に盛られた、琥珀の水ギセルの吸い口も並んでいます。金銀、翡翠、珊瑚でできている中国風の庭園模型は中国の皇帝からのプレゼントでした。

トプカプ宮殿
二番目の部屋は、世界一のエメラルドコレクションから「エメラルドの間」とも呼ばれています。イスラム教では緑が神聖な色だった為、スルタンもエメラルド、金鉱石、かんらん石、翡翠など緑色の石を特に好んだそうです。映画「トプカピ」でおなじみの宝剣も見られます。注意して見るとつかの上に時計がついているのがわかるでしょう。
この部屋の玉座はブルーモスクを建てた建築家メフメット・アーの手になるものです。この人は象眼の名人でもありました。

三番目の部屋で何よりも人目を引くものは、「希望のダイヤモンド」の二倍の大きさの「スプーン屋のダイヤモンド」です。このダイヤモンドはある漁師がごみ捨て場から見つけ出し、グランドバザールで2本のスプーンと交換したというエピソードがつけられています。全ての貴重なものはそうなるように、このダイヤも最終的にはスルタンの財宝に加えられました。もっとも、その出所については、宮殿の古文書などからもっとはっきりした事がわかってくるものと期待されています。
この部屋にはトプカプで最も価値ある金製品、2本の大きな燭台も展示されている。6666個のダイヤをあしらったもので1本の重さは48kgもあるそうです。


四番目の部屋の玉座は、もとはモンゴルの王のものであったそうですが、ペルシア王からのプレゼントとしてトプカプに贈られてきました。
この部屋には140kgの巨漢として知られたスルタン・アブドゥルアジズの可愛らしいコレクション-スプーンと数珠-も並べられています。敬虔なクリスチャンの方にとってこの部屋の一番興味深いものは何といってい洗礼者ヨハネの手でしょう。これは可哀そうな聖ヨハネの3本目か4本目の手にちがいない!!!というのも同じ聖人の両手を所蔵していると主張する博物館が他にもあるからです。


〔ハレム〕

トプカプ宮殿の一部に違いありませんが、ハレムは公開時間も規則も別の博物館となっています。修復工事のため長い間閉鎖されており、現在はごく一部だけ公開されているにすぎません。ここではハレムのご案内より、ハレムにまつわる説明を述べあとは皆様の想像力におまかせしたいと思います。

「ハレム」とはアラビア語で「禁断の」を意味します。スルタンと、出入りを許された二グループの男たち以外は「男子禁制」の場でした。二つのグループとは、宦官たちと「束ね髪の雑兵たち」と呼ばれた男達でした。後者は、毎月1回ハレムの暖炉にたき木を運ぶのが仕事でした。深くかぶった帽子から長い髪を頬までたらし、固い襟をピンと立てて、まわりの様子が目に入らないようにしてハレムに入ってくるのでした。しかし、それでもまだ不十分だったと見えて、いつも黒人宦官が彼らに付き添って歩き、女性たちの姿が目に入らないように警戒を怠りませんでした。

ハレム
もうひとつのグループはその黒人宦官たちです。彼らはハレム内の家事雑事全てを受け持ち、宦官長はスルタンの私生活上、最も重要な人間でした。スルタンにふさわしいと思う女性を選ぶのはスルタンの母と宦官長の力でした。どんなに美しい娘でも、この二人の助けなしにスルタンの注意を引くことなどできなかったのです。たいていの場合、スルタンの母と宦官長は自分達の勢力を守るために、美しいがおろかな娘を選びましだ。

16世紀後半、ムラトⅢ世はハレムのイタリア美人に魅かれましたが、母と宦官長はスルタンの恋心をそらすため、金曜の夜ごとに二人のコーカサスの処女をはべらせたとか。長いブロンドの髪、透き通るような肌、たおやかな柳腰のコーカサスの乙女たちは「最高級品」とみなされていました。

当時流行していた天然痘への予防接種は、まずコーカサス地方で始められたのです。ムラトⅢ世の治世が終わる頃までに、母親と宦官長の骨折りの結果として、スルタンには103人の子供がいたそうです。57才でスルタンが亡くなった時、ハレムの7人の女性が妊娠中だったそうです。

ハレム
スルタンたちが短命であったことは事実です。ほとんどが50才になる前に死を迎えています。しかし、大臣たちはそうではありません。肩の上に首がのっている限り長生きし、次のスルタンにも仕えていました。一例をあげると、16世紀後期の総理大臣クルチ・アリ.パシャは92才まで生きて彼のハレムで16才の少女の腕の中で息を引きとったとそうです。

スルタンは法律上の妻は持ちませんでした。最初に子供を生んだ4人の女性が「妻」と見なされハレムの中で自分たちの住まいや召使いを与えられました。妻としての順番も…つまり、スルタンは一回限りではなく、周期的に彼女達とベッドを共にする義務がありました。しかし、スルタンがハレムの全ての女性と褥を共にしたと思うのは間違いです。大勢の女は並の男にとって能力の限界を越えるものだからです。

ハレムで使われていた媚薬は今もイスタンブールのエジプシャンバザールで手に入るとかです。寂しい女たちと黒人宦官のロマンティックな恋物語もあったに違いないでしょう。間違いが起こらないように医者は定期的に宦官たちを診察して、去勢手術(注)が完全だったかどうかチェックしました。

宦官にはカーネーション、バラ、水仙、ヒヤシンスなど優美な女性の名前がつけられていました。ベネチア使節の話によると、ハレムに届けられたキュウリでさえも「淫らな行い」を防ぐために小さく輪切りにされてそうです。これは少々出来すぎたお話のようですが、若い女性10人の中に必ず1人の老女が寝ていてやっかいなでき事が起こらないよう目を光らせていたという話は信用してもよさそうです。

スルタンが亡くなると長男が跡を継ぎました。新しいスルタンは自分のハレムをトプカプの中に移し、前スルタンのハレムの女性たちは高官などと結婚させました。彼女たちはおさがりとはいえ美しく、行儀作法もしつけられ、宮殿との繋がりもあったから引く手あまたでした。
(注)ある者はペニスと睾丸を、ある者はペニスのみ、またある者は睾丸のみ去勢されました。イスラム教は去勢を許していないので、彼らは宮殿に売られる前に去勢されたものである。

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アヤソフィア

アヤソフィア
アヤソフィア大聖堂の本堂に一歩足を踏みいれた時、まず目につくのは金文字のメダリオンです。無邪気な観光客の目にはアラビア文字のコカ・コーラのように見えるかもしれませんが、アラー、モハメッド、はじめの4人のカリフ、それにハサンとフセインの名前がラクダの皮に金で描かれているものです。ハサンとフセインは予言者モハメッドの孫にあたりシーア派ムスリムにとっては正統な指導者です。

次の真摯な疑問はドームに関するものでしょう。「聖ベテロ寺院とどちらが大きいか…?」しかし、そのような比較はあまり意味がありません。聖ベテロのカテドラルは16世紀のものだからです。言い換えれば、16世紀にヨーロッパで完成したものがすでに1000年以上も前、ここコンスタンティノープルで成し遂げられていたということなのです。

この教会は聖ソフィア、つまり「神の叡智」としてのキリストに捧げられました。元の名前、ハギア・ソフィアはギリシア語で「神の叡智」を意味しています。現在の建物はこの同じ揚所に同じ名で建てられた、三番目のものです。はじめの二つはビザンティンの支配者に反抗した民衆の暴動により破壊されました。

今の教会の建造は532年に始まりました。様々な情報をもとに考えると、1万人以上の職人、奴隷、ボランティアが5年と10ケ月と11日かけて仕上げたそうです。これほど大規模な教会建築ははじめてのことでした。当時の三大ブレーンと呼ばれた三人、トラレスの人アンテシウスとミレトス出身のイシドラスが責任者として登用されました。広大な帝国の各地から、大理石や石材などが集められました。

円柱のふるさとについての言い伝えも残っています。本堂に4本ずつ並んでいる一枚岩の緑青色の円柱はエフェソス近くの世界の七不思議のひとつと呼ばれるアルテミス神殿から運んできたものといわれています。本堂の隅に2本ずつある斑岩の円柱はバールベックからきたそうですが、エジプトからとする説もあります。いずれにしても異教の神殿から持ち出したものと帝国の石切り場から切り出したものと二種あることは確かです。

巨大なドームには、木材とロードス島で作られた特別に好いレンガが使われました。東ローマ帝国の財宝もユスティニンが国民に課した新しい税金も、増大する費用をまかなうのに十分ではなかったため役人の月給までカットされたそうです。

537年12月26日、皇帝ユスティニアンは正式にキリストヘこの教会を献納しました。そして、聖書にあらわれる王と自らを比較しないではいられませんでした。皇帝ユスティニアン曰く「おお、ソロモン王よ、余は汝を越えしり!!」

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アヤソフィア
558年の凄まじい地震の際、中央ドームの一部と東の副ドームが崩壊しました。町にもたらされた損害は非常に大きく、皇帝ユスティニアンは遺憾の意を表して6ヶ月の間王冠をつけなかったそうです。教会の再建は若いイシドラス-イシドラスの甥の手に委ねられました。前に増して高いドームを作ることによって外側からの圧力を小さくしました。このドームは今日まで残ってはいるものの、数回の地震とその場しのぎの修理のために完全なものではなくなっています。南北の直径は33mあるのに対して東西は31mしかありません。大理石の床に刻まれた十字形はドームの中心を示しています。床からの高さは56m、つまり、この聖堂の中に15階建てのアパートを作ることも可能だということです。

モスクとして使われていた時の説教壇の前に、ビザンティン皇帝の戴冠式の際、玉座を置いた場所を見ることができます。この教会の建築に使われた各種の石材や大理石がこの場の神聖さを強調するためにここに全て使われています。皇帝は地上における神の代理人とされていた為、皇帝の御足が床に触れた所は世界の中心と見なされました。ビザンティン皇帝たちは、自らを神から特別な使命を与えられたものと信じて疑いませんでした。神性を表すためのひとつとして高いヒールの靴をはいて他の人々を見下ろしていました。本堂の8mの高さのある中門をくぐる時でさえ、頭を打ちつけないように身をかがめて通ったとのことです。

916年と6ヶ月3日の間、この由緒ある建物は教会として貢献しました。 1453年5月29日、21歳の若き征服者メフメットは、それまで20回もの他国の侵入をはねつけてきたテオドシウスの城壁を打ち破りました。その朝、ある程度秩序が回復された後、町へ入った彼はまっすぐ聖ソフィア大聖堂へと馬を進めました。門の前で馬を降りた征服者は神への謙語のしるしとして一握りの土を自らのターバンにふりかけました。史家によると、コンスタンティノープルを攻略するのに51日かかったそうですが、もしメフメットが靴みがきやスライド、絵ハガキ売りの手ごわい子供たちに取り囲まれたら、そう簡単にはいかなかっただろう…。

アヤソフィア
ゆっくりと本堂に足を踏み入れた征服者は驚嘆と賞賛のあと祈り捧げました。スルタンのこの振る舞いは当時の熟心なイスラム教徒にとってショックな出来事でした。理想的ムスリムたるべきスルタンがこともあろうに異教徒の寺院で祈るなんて…。しかし、オスマンのスルタン達は他宗教に寛大であったことを歴史は示しています。征服者メフメットのキリスト教に対する寛容ぶりは、ローマ教皇ピウスII世から受洗をすすめる手紙を受けとったことからもうかがい知ることができます。しかし、スルタンが死ぬ時にクリスチャンになろうと考えていたのか、あるいはローマを攻めとってやろうと思っていたかは誰にもわかりません。

コンスタンティノープルの陥落の後、聖ソフィア大聖堂はただちにモスクに変えられました。後陣の壁がんにかわって、メッカの方向を示すミヒラップが作られました。メッカはイスタンブールの南東にあたるので教会の壁がんとモスクのミヒラップの方向はちょうどうまく一致していました。右側にはミンバル(説教壇)が設けられ、さらにその右には聖歌隊の席となっていた柱に囲まれた壇があります。ミナレット(塔)はそれぞれ建築様式が違うことから、3人のスルタンによってつけ加えられたことがわかっています。 16世紀になって本堂の西隅に二つの大理石の清めの水瓶がおかれました。これはペルガモンで見つかったといわれていますが、本来はマルマラ海の島で作られたものと思われます。

後陣のモザイクは、幼な子イエスをひざに抱く聖母マリア、半円形屋根を囲むアーチの右側に大天使ミカエル、反対側には大天使ガブリエルの翼の一部が見えます。これらのモザイクはオスマントルコによって塗りこめられた漆喰の下から、アメリカのビザンティン学者たちによって1930年以降修復されてきたものです。この困難な作業は今もなお続いています。トルコ共和国の生みの父、アタチュルクは1935年にこの由緒あるユニークな建物を博物館として保存していくことに決めました。

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アヤソフィア
聖ソフィア寺院がアヤソフィアモスクに変わったように、当時250以上の教会がモスクに変えられました。現在は又、モスクから博物館という流れがみられます。例えばカーリエモスク(昔のコーラ教会)、あるいはファティエモスク(昔の聖マリアパムカリストス教会)などがその一例としてあげられます。

本堂の穹隅の4つの金の星の裏には4人の智天使が隠されているはずです。修復されたモザイク画の中で二つは誰でもすぐ見つけることができます。ひとつは、本堂の正面入口(皇帝門)の上にあって王座に座るキリストと、その足元にひれふす皇帝レオ六世(賢帝886~912)が描かれています。

キリストの右手はギリシア正教の祝福の形を示し、親指と薬指に軽く合わされています。二本の伸ばした指はキリストにおける神生と人間性をあらわし、他の三本は父と子と聖霊を意味しています。ギリシア正教の肖像画法では通常右手を左手より大きく描くのはそのためです。左手には福音書を持ち、ギリシア語で「平和があなたと共にありますように。私は世の光である。」と書かれています。メダリオンの中には聖母マリアと大天使ガブリエルが描かれています。

次のそして更に興味深いモザイクは今日の博物館の出口になっている門の上にあります。コンスタンティノープルと聖ソフィア大聖堂の守護者としてのマリアが描かれています。イエス・キリストがマリアの膝にだかれています。

アヤソフィア
右側の人物像のわきのギリシア語銘は「コンスタンティン、聖者の中の偉大な皇帝」とありますが、私の考える限りでは彼は聖人と呼ばれる資格はありません。なぜなら彼の時代にキリスト教信仰が許されたとはいっても、彼自身は死ぬ間際になってようやく洗礼一天国への切符-を受けたのだからです。モザイクの彼はコンスタンティノープルの都市の模型をさし出しています。左側の皇帝は聖ソフィアを建てたユスティニアン大帝で銘は「ユスティニアン、輝かしき名声の皇帝」とあります。彼は大聖堂の模型をマリアに捧げています。

3人は濃いグリーンの絹の衣裳を身にまとっています。ビザンティン時代の「シルク」と「色」の意味は重要でした。当時の人々のステータスシンボルとは今のようにどこのクレジットカードを何枚侍っているかではなく何色のシルクを何枚持つことを許されていたかで決まったからです。許可は皇帝自らが直々に下すのでした。二人の修道士に命じて蚕の幼虫を杖の中に隠して、中国から遥々コンスタンティノープルまで運ばせたのはユスティニアンだったといわれています。その当時まで人々は、蚕は桑の木に住むときいていたため、絹とは果物のように木になるものと信じていたそうです。アヤソフィアのモザイクの中で人物像はすべて843年以降、つまり偶像破壊運動が終わってからのものであす。ユスティニアンの時代のオリジナルの花模様や幾何学模様は、柱廊、側廊、回廊にしか残っていません。

本堂の北四隅の円柱は「汗っかきコロム」、もう少し上品に言うと「発汗機能を持つ円柱」として知られています。かつてこの下に地下水槽があり、その湿気が円柱に感じられたそうです。ある日ユスティニアンは割れるような頭の痛みに襲われました。御殿医の誰もがサジを投げ皇帝は頭を抱えてよろめき歩きましたが、この柱にすがりついて額を円柱に押しあてた途端に、ウソのように頭痛が消えてしまったそうです。この奇跡を知った迷信深いビザンティンの人々が二日酔いの苦しみから逃れるためにここを訪れては皇帝が額を押しあてた部分に触れるようになりました。そして、その部分は次第にすり減って穴があくようになり、ますます御利益も大きくなってきたということです。後になると次のような説明がつけ加えられたそうです。「御穴に指を入れよ。たちまちにして二日酔いの苦しみから逃れられるだろう。(特にひどく深酒をした後霊験あらたか!)」。そればかりか「不妊症の女性の妙薬」でもありました。また、「穴に指先を入れた後、己か指先をじぃっと見つめよ。指先のしめり気はあなたの善人性をあらわす」そうです。

ちなみに、2020年7月10日トルコ政府は、アヤソフィアをモスクにすることを発表しました。エルドアン大統領は、イスラム教徒だけでなく誰もが訪問できるようにし、アヤソフィアの文化的価値は守っていくとしています。

アヤソフィア・ハギアソフィア大聖堂観光|2020年7月24日からは再びモスクに【世界遺産】

ブルーモスク

ブルーモスク
イスタンブールを訪れた人は必ずブルーモスクに立ち寄ります。そして、その美しさに驚異と畏怖さえ感じてしまうのです。大小のドーム、半ドーム型屋根が滝を流れ落ちる水のように流線を描き、6本の尖塔が空に浮かび上がっています。その形と色の調和したオスマン建築はビザンティン建築の華であるハギアソフィア(アヤソフィア)と堂々と対決するかのように向かい合って建っています。

通称ブルーモスク、正式にはスルタンアフメットモスクを建立したアフメット一世は14才で即位し、若くして亡くなりましたが信仰心の厚い人物でした。建築にはミマールシナンの弟子メフメット・アァが登用されました。この人は一般に螺細細工の名匠を意味する“セデフキャール”と呼ばれています。トプカプ宮殿書庫に残る記録によると、もともとはスレイマン大帝の廟の庭師だったそうです。

1609年に着工したブルーモスクは1181タ-レルの金貨を費やして1616年に完成しました。落成式にのぞんだスルタンは預言者モハメッドの足をかたどった帽子を被り謙譲の意を表したそうです。
6本のミナレット(尖塔)のうち4本には3つのバルコニーがついています。6本の塔を持つのはメッカのカーバ神殿を除いては例のないことだった為、大本山に対して恐れ多いと感じたスルタンはメッカに7本目の塔を寄贈したのでした。

モスクの三方は広い庭で囲まれ、堂々たる3つの門から大理石を敷き詰めた中庭に入るようになっています。この美しい中庭は本堂と同じ面積で、回廊が取り巻いています。本堂がいっぱいの時、信者はこの中庭で礼拝します。中央には6本の柱で囲まれた六角型の大理石の泉があり、祈りの前のお清めに使われていました。
ほぼ正方形の本堂内部は260の窓からさしこむ光が広大な空間に舞っています。4本の巨大な柱は縦溝が彫られ直径5mもあり、通称を“象の足”といいます。ブルーモスクという愛称は、内部のタイル装飾の基調となっている青い色からきています。様々なトーンの青を用いて植物モチーフを描いた16~17世紀イズニック窯の美しいタイルが21,043枚も使われて夢幻の世界を作り出しています。

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地下宮殿

地下宮殿
ビザンチン帝国期、イスタンブールにはおよそ60ケ所の貯水槽が置かれました。中でも最大のものが通りを隔てたアヤソフィア大聖堂の直ぐ向かいに位置しています。都市を包囲するビザンチンの城塞の内部では、市民に十分な生活用水が当時から不足しており、イスタンブール郊外25kmはベオグラードの森から湧き水を引水していました。戦火の時代に敵は水路を破壊し、あるいは水に毒を混入させたりした為、この経験から貯水を目的にこのような施設が建設されたのです。532年に数ヶ月という短期間で完成したこの設備にはヴァレンスの水道橋から水が引かれていました。

16世紀に至るまで使用された後、オスマン帝国時代には長きにわたって放置されていましたが、19世紀半ばに修復の手が入っています。ローマ時代の建物の円柱を各地から取り寄せて建設し、幅70m、長さ140mで面積は10,000㎡です。4訊問隔に12列、その各列に28本ずつ、合計336本の円柱が用いられている様は柱の森を思わせ、堂々とした支柱の立ち並ぶこの様子をして地下の〈宮殿〉と呼ばれているのです。

因みに高さ8m、貯水容量80,000㎡です。ライティングと流れるクラッシック音楽は、このビザンチンの施設に更に神秘的な雰囲気を与えています。最も奥にある二本の柱にはメドゥーサの頭部を彫刻した大理石が基盤として使われています。

あの有名なボンドシリーズの中の‘ロシアより愛をこめて’のいくつかのシーンにもこの地下宮殿が登場したことを覚えている方も多いでしょう。

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カッパドキア

カッパドキア
「カッパドキア」は、キノコやトウモロコシのような形の奇岩が数多く並ぶ、日本では見ることができない圧巻の光景を楽しめる有名な観光地です。トルコの世界遺産を代表する存在のひとつといっても過言ではありません。

この不思議な形の岩は、火山の噴火で形成された凝灰岩(ぎょうかいがん)の地層が、風や雨によって長い年月をかけて削られることでできていったとされています。奇岩の様子がハッキリ見える昼間はもちろん、日没時の幻想的な風景や夜景の美しさも圧巻です。


カッパドキアでは他にも、複雑に入り組んだ地下都市の見学や、無数の奇岩が立ち並ぶ絶景を見下ろせる気球ツアーなど、さまざまなアクティビティを楽しむことができます。

カッパドキアには、数多くの観光名所があります。なかでも、旅行客に人気の高い4つの観光名所について見ていきましょう。

ギョレメ国立公園・野外博物館

カッパドキア・ギョレメ
アナトリア中央部ネヴシェヒル県に位置する「ギョレメ」は、定番の観光地です。この名前には馴染みがない人も多いかもしれませんが、一般に「カッパドキアの奇岩群」と聞いてイメージする場所はココ。レストランやお土産ショップなども多く、現地の拠点としても選ばれるエリアといえます。

ギョレメ国立公園は、圧倒的な景観と独自の地形が特徴です。遥か昔から続いている地球の活動の証を感じられます。公園内の不思議な空間は散歩をしているだけでも、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだような感覚を味わえると人気です。

さらにここでは自然の偉大さだけではなく、キリスト教徒が迫害から逃れるために作った岩窟教会や聖堂、修道院といった宗教的な遺産を見学できます。最盛期には350~500もの教会があったといわれており、そのうち約30の教会がギョレメ野外博物館として見学可能です。

ギョレメ
代表的なものはへび教会やりんご教会などです。教会では、美しい宗教画を見学できます。なかでも信徒によって描かれたフレスコ画は保存状態が良く、色あせない美しい姿を見ることが可能です。日本語に対応した音声オーディオも用意されており、説明を聞きながら見学すると、より知識を深められます。

観光客による施設内での写真撮影が禁止されているため、現地に行かなければ見る機会が少ない貴重な絵です。岩肌がむき出しで、まるで廃墟のようにすら見える外見からは想像もつかないほど美しい絵の数々を見ることができ、その内と外とのギャップに驚かされるでしょう。
なお、ギョレメ野外博物館は観光時に暑さ・寒さ対策をきちんと行うのが肝心です。野外での観光となるため、暑さが厳しい夏は早朝、寒さが厳しい冬は昼間を選ぶなど、訪れる時間帯に気を付けると良いでしょう。

【カッパドキア】ギョレメ野外博物館の洞窟教会のご案内 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

パシャバウ

ゼルヴェ近郊のパシャバウには、いわゆる「妖精の煙突」(地元では「虫食い西洋梨」と呼ぶ)のある渓谷がある。凝灰岩塊を抉って修道上が隠棲した僧房が点在していることから「修道士の谷」とも坪ばれる谷である。

この谷の特徴は、独特の形をした岩が林立していることで、この岩の形が煙突に似ていることから、岩の中に魔術に長けた妖精が住んでいるという古い伝説が生まれた。

「妖精の煙突」のあるカッパドキア地方の異様の地形は、太古の昔、火山の大爆発によって出来た火山性台地が、何万年もかかって浸食されて出来たものだ。地層は各層の硬度や質が違うため、柔らかい部分から浸食が進み、硬い玄武岩で出来ている表層部分がまるで帽子のように残り、その下は殆ど水平に削られたいる。

「煙突」には自然の浸食作用に加えて、人の手も加えられてきた。多くの「煙突」が、中がくりぬかれて隠者の僧房や民家となっている。中でも有名なものは道路沿いにありまるで円柱が帽子をかぶっているような姿をしている。その内部は礼拝堂となっている。

カッパドキア
この渓谷で最も有名な修道院は「修道士シメオンの岩」と呼ばれている。これは3本の煙突を備えた凝灰岩塊で、内部は1階に礼拝堂、階段で上がる2階には幾つか部屋かあった。しかし岩崩を起こしたため、現在では一部分しか見ることが出来ない。

岩の名は、礼拝堂に柱頭行者聖シメオンの生涯を描いた連続壁画があることに由来する。聖シメオン(390-459年)はアンティオキアで苦行に励んだ聖人だ。

監獄の囚房や空井戸の中での生活にも満足せず、町を離れて岩山に入り岩穴の内部に自らを鎖で縛って信仰生活を行おうとした。しかしその徳望を慕った信者達が次々に訪れるため、彼はそこも引き払って円柱の上に暮らし始めた。円柱は最後は30mの高さに上げられ、柱頭には人間ひとり分のスペースしかなかったという。

クズルチュクル渓谷(ローズバレー)

カッパドキア ローズバレー
クズルチュクル渓谷は、奇岩群が複雑な地表を形成しているエリアです。奇岩群に沈んでいく真っ赤な夕陽は絶景で、カッパドキアのなかでも特に迫力あるサンセットポイントです。

複雑な地表が夕日で赤く染まっていく様子がまるで「バラが咲くようだ」とたとえられ、「ローズバレー」と呼ばれるようになりました。夕日の暖かさを感じさせる桃色から紫色に移り変わる風景は、魅了されてしまう人も多くいます。

クズルチュクル渓谷は拠点となるギョレメ中心地から離れているため、あらかじめ移動手段を考えておく必要があります。タクシーを利用するか、クズルチュクル渓谷の観光が予定に組まれているツアーに参加するといいでしょう。

【トルコのプロが解説】カッパドキアのおすすめ観光スポット16選とツアーの選び方 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

カッパドキアの地下都市

カッパドキア・地下都市
トルコ・カッパドキアの地下都市は、現地で人気の観光スポットです。特に大きな地下都市となった「デリンクユ」と「カイマクル」では、いずれも数千から数万人もの住民が暮らしていたとされる説もあり、現在でも観光名所の1つとして残っています。

アラブ人の迫害から逃れたキリスト教徒が隠れ住んでいたといわれていますが、それよりも以前から存在していたと考えられており、歴史や起源は謎に包まれています。

地下都市の存在が知られ、本格的に調査されるようになったのは1965年からと比較的最近のことです。未だ全容が解明されないままとなっている地下都市は、訪れる人を古代のロマンに誘いつつもミステリアスな気持ちにさせる場所となっています。

2020年7月20日からは、「妖精の煙突」のあるネヴシェヒル県で、カッパドキアで最も大きい地下都市が新たに公開スタートしました。これは、2014年に偶然発見されたもので、約5,000年前のものとみられています。内部には、農作物を運ぶためと思われるトンネルや教会なども見つかっています。

カッパドキアの地下都市とは?謎に包まれた歴史と観光のポイントを解説 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

奇岩群を空から見下ろす絶景カッパドキア気球ツアー

カッパドキア
カッパドキアといえば熱気球ツアーです。カッパドキアでは、かなり広範囲に渡って奇岩などの風景が広がっているため、その不思議な景色全体を一望するには空中散歩が最高の手段といえます。カッパドキアは、基本的に平野地帯で見晴らしが良いので、空の上から遠くの方まで存分に景色を楽しんでみてください。

一般的な気球ツアーでは、ホテルを日の出前に出発して軽食をとり、気球が膨らむ様子を見学しつつ、朝日が昇るタイミングを見計らって空の旅へ出発。地上から数千フィートの上空で約45分~1時間程度の空中散歩を楽しみつつ、日の出と朝日に照らされたカッパドキアの景色を味わいます

空中に浮遊する色とりどりの熱気球も、美しい景色の1つとしてカッパドキアの空を彩ってくれるでしょう。

カッパドキア気球ツアー!神秘的な世界遺産の絶景を気球ツアーで堪能! | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

エフェソス遺跡

豊潤の女神キベレの聖地に建設されたこの小都市はアマゾン族に征服されたとも言われ、都市の名は一族の指導者の名に由来するとの一説もあります。紀元前11世紀、アテネ王の息子アンドロクロスに率いられたイオニア人は新都市建設にあたりデルフィの神託に伺いをたてました。

「魚と猪がその土地を示す事になろう」との予言者の御告げを信じて旅を始めた一行は、ある日、漁師達が魚を料理している所に出会いました。鍋から飛び出した魚が炭火を蹴散らし、火が燃え広がった薮の中からは驚いた猪が走り出したそうです。後にエフェソス建立の源となる場所の発見です。

アンドロクロスの死後、彼の子孫達は裕福な商人の手に落ちるまでエフェソスの地を長期に渡って支配し、貿易と金融の中心として栄えました。この繁栄ぶりに目を付けたリディア王クロイソスはここを征服し、アルテミス神殿の再建に尽力した他、数々の建物建設にも出資しました。

リディア王国が紀元前546年にペルシャによって倒されると同時にエフェソスも彼等の支配に落ちて、紀元前336年にアレキサンダー大王がこの他に進出し都市を開放してその自由を保証するまで続きました。

エフェソス
大王は火災で損傷を受けたアルテミス神殿再建の為に物質的援助を提案しましたがエフェソス人たちは「ある偉大な神が別の偉大な神に何かを貢ぐと言う事には合点がゆきませぬ」との言いまわしで王の提案にえん曲な断わりを入れたのです。後に完成した神殿は世界の七不思議に数えられています。大王が亡くなるとエフェソスの支配は王の部将リシマコスに移りました。

この頃になるとカイストロス川によって運ばれている沖積土が都市の周りに沼地を形成し港を泥で埋め、マラリアが発生すると言う新しい問題に直面する事になりました。リシマコスはコレッソス山とピオン山の谷間に都市を移して9kmの城壁で保護し、妻の名からアルシノエイアと命名しました。

彼の死後、紀元前190年にはローマがここを支配する様になり、アジア属州の主都として一時は人口25万人を抱える小アジア最大の貿易都市として繁栄しました。現在残るほとんどの遺跡はこの当時のもので、聖ヨハネが聖母マリアを同伴して第3回使節団の旅の途中でここに3年滞在した時期にも当たります。彼はここで福音書を書き、ここで生涯を閉じたが、その墓の上にユスチニアヌス帝が建立したのが聖ヨハネの教会堂です。

聖母マリアってどんな人?その生涯や絵画の特徴、キリスト教における意味 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

262年、エフェソスとアルテミス神殿はゴート人の略奪をうけて再建されましたが、キリスト教が都市の公式宗教の地位を確保するに至っては、その重要性も最早かつてのそれには遠く及ばない状態でした。

エフェソス旅行・観光の案内ビデオ 2分03秒

431年、第3次エフェソス公会議が聖母マリアの教会で開催され、449年にも同教会でキリストの神性について討議がもたれています。7、8世紀になるとアラブ人の侵略を受けた上に、港が再び掘で埋められた事も重なり、市民達は生命の安全を考慮して6世紀にユスチニアヌス帝が建立した聖ヨハネの敦会堂の立つアヤソルックの丘に移動しました。

これによって都市と港との関連は断たれ、同時にエフェソスの黄金期も終わりを告げました。11世紀になるとセルジューク・トルコがここを征服し、後の1390年にはオスマン・トルコの支配下に入っています。

音楽堂(オデオン)

エフェソスの資産家アントニウスが妻の名誉を冠して建てたこの施設は22列の客席に1,500人の観客を収容できました。排水施設が見られない事から、おそらくは屋根に覆われていたと考えられ、叙勲式や音楽会、詩の朗読会等の催し物に利用されていた様です。


〔プリタネイオン〕(市役所)

黒い石を奉ったホールの祭壇には永遠の聖火が燃え、クレテス(司祭)達がそれを守っていました。祭壇のあるホールの屋根を支えていたと思われる4本のコリント式円柱のうち、現在は3本が残っています。この聖なる間からは今日、エフェソス博物館に保存される2体のアルテミス像が発見されています。初期キリスト教時代には祭壇は教会に変換されました。


〔邸宅〕

ハドリアヌス神殿の向かい側、コレッソス山の斜面に裕福なエフェソス市民の邸宅が並んでいます。ほとんどが中庭を囲む様にして部屋が配置された標準的な建築様式が採用され、80×180mの広さのある二階建ての造りです。床は大理石で覆われ、壁はソクラテスや動植物、そしてエロス等のフレスコ画で装飾されていました。クレティア通りに面する一階は商店として利用されていました。


〔クレティア通り〕

上のアゴラとセルシウス図書館の間を結ぶこの道の名はプリタネイオンで永遠の聖火を守るクレテス(司祭)に由来しています。大理石舗装の道路は両側に列柱が並び、この前に立つ多くの彫像が色彩りを添えていました。


〔オクタゴン〕(墳墓)

方形の基盤の上に建つ丸天井のついた墓はエフェソス人に愛された少女の墓と考えられています。


〔ビザンチンの泉〕

オクタゴンの側にあります。かつては紀元前1世紀の英雄の墓であしたが5世紀に泉に変換され、現在でもビザンチンの十字架がはっきりと確認できます。ここからクレティア通りを右手に折れ、大理石通りとなります。

バリウスの浴場

東演武場の近くで発見された典型的ローマ浴場です。土管とモザイク装飾の大理石の床が当時をしのばせます。


〔娼婦の館〕

中庭を囲む様にして小部屋が並んでいます。かつてその壁がんにローソクの明りが点っていた部屋の床には四季を象徴する四人の女や愛の場面を表現したモザイクが残っています。

ケルスス図書館

ローマの元老院でアジア州提督も兼任していたケルススの名誉を冠してその息子ジュリア・アクイラが135年に建てた墓が図書館の基礎となっています。大理石で作られたケルススの棺を安置した丸天井付きの地下の上に図書館が建てられたのですが、当時、市内に墓を置く事は特権を持つ者にのみ許された非常に名誉ある事とされていました。

二階建ての正面の壁は柱や像で豪華な装飾が施され、高さ15mの内部のホールは三層の回廊に取り囲まれていました。湿気対策として後ろに狭い通蕗のある壁がんの中にパピルス製の書簡が保存され、ローマ帝国時代には何と12,000巻の蔵書を誇ったと言われています。正面壁の一階部分にある4体の女性像は、知恵と幸運、知識と高潔さを象徴しています。


〔マテウスとミトリダテスの門〕

下のアゴラの南門でもある記念建造物で、セルシウス図書館の横に建っています。マテウスとミトリダテスはアウグストス帝とその一家の奴隷でありましたが、後に皇帝から自由の身を保証されると二皇帝と妻リビア、娘と娘婿に尊敬の意を込めて門を献上したのです。


〔セラピスの神殿〕

セルシウス図書館の後方100m程の場所にあります。2世紀にエジプトの女神セラピスに捧げられた非常に特異な建物と言えます。入り口の側には直径1.5m、高さ15m、重さが57tもある8本のコリント式支柱がありましたが、現在も入り口や柱の頭部等を目にする事ができます。

大理石通り

コレッソスの門と図書館の間に走るエフェソスのメインストリートです。1世紀の完全な下水設備を備え、5世紀には通りの名の由来にもなった厚い大理石舗装が施されています。下のアゴラの壁に沿った路上には女性の顔とハート、足が彫られ、娼婦の館を示す過去のコマーシャルとして、興味深いです。


〔下のアゴラ〕(市場)

一辺110mの方形の市場は大理石通りとハーバーストリートの間に位置しています。紀元前3世紀に二重列柱様式で建築され、金銀細工師達の工房や店が並んでいた他、奴隷の売買も行なわれていました。

大劇場

クラウディウス帝(41~54年)の治世下で着工しトラヤヌス帝(98~117年)の時代に完成したローマ・ギリシャ様式の美しい建築例です。直径150mあり、かつては25,000人の観客収容能力を有していました。高さ18m、幅40mの三階建ての舞台の内壁は円柱と彫像の建つ壁がんで飾られ、音響効果は言う事無しです。

この劇場は、キリスト教伝道の旅の途中でこの地に長期滞在した聖パウロに対する銀細工師達の暴動の舞台となりました。聖パウロの出現はアルテミス像やその神殿の模型を作り、即ちアルテミス信仰を利用して莫大な利益を得ていた細工師達には不都合な出来事と言えました。

ディミトリウスは仲間を劇場に招集し、アルテミスの存在を否定する聖パウロの言葉を一々伝え、人々を扇動しました。これに同調した細工師達は口々に「アルテミス万歳、エフェソスのアルテミスこそ偉大なのだ」と叫び、聖パウロを追い出してしまったのです。聖パウロはここを後にし、マケドニアへと路をとったと言います。

アルカディア通り

ハーバーストリートとも呼ばれ、円柱で飾られた儀式やパレード用の大通りでした。400年に皇帝アルカディウスに捧げて大理石通りから港まで幅11m、長さ500m以上にわたって引かれています。大理石舗装が施され、夜は街灯が輝いていたそうです。両側にはモザイクで装飾された奥行き5mの列柱廊下が設けられ、後方には商店が軒を並べていました。

エフェソス
〔演武場〕

劇場の北、劇場通りとハーバーストリートが交差する位置にエフェソス最大の体育館があります。このかつての巨大な建物は残念な事にまだほんの一部しか発掘調査が進んでいません。

エフェソス遺跡の見どころ46選 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

パムッカレ

パムッカレ
パムッカレとはトルコ語で“綿の城”を意味します。デニズリの町から北に向かうと、はるか彼方に緑の野山とくっきりとコントラストを描く白い綿の塊のような台地が目に入ってきます。やがて近付くにつれ、それが石灰華のテラスの連なりであり、浅い池が段丘を成して上からの水が流れ落ちているのがわかります。ミネラルに富んだ鉱泉のお湯が流れ落ちる過程で、炭酸カルシウムが冷えて固まり石灰棚を形成、ユニークな自然景観が作り出されたのです。

この不思議な風景は太陽の光によってダイナミックに変化し、幻想的なムードを醸し出しています。パムッカレはその薬効のある温泉と共に古代都市ヒエラポリスの遺跡で人気があります。古代遺跡の大理石の柱などが沈む池にお湯がわき出て素晴らしい温泉プールとなっています。近年、パムッカレの自然の驚異が人気を呼び、観光客のための設備も整ってきました。一方ではこの貴重な自然の造形を保護し、美しさを守るためにより一層の注意が早急に求められています。

ヒエラポリス

ヒエラポリス
パムッカレのまわりに遺跡が広がる古代のヒエラポリスは、ペルガモン王国のエウメネウスニ世が築いた町です。後にアタロス三世の遺志によりペルガモン王国はローマに委譲されたため、ヒエラポリスもローマ領となりました。当地の温泉は奇跡をもたらすと信じられ、皇帝たちもヒエラポリスを大事に扱いました。17年の大地震で町は大きな被害を受けましたが、まもなく皇帝ティベリウスの命ですみやかに復旧され、その後ますます発展を見せました。聖フィリポが伝道に力を尽した結果、キリスト教も大いに栄えました。使徒フィリポは80年皇帝ドミティアヌスの迫害の時代にここで殉教しました。

2世紀のローマ劇場はスキーネ(舞台の建物)の部分が破壊されていますが、全体的には良く保存されています。丘を利用した観客席はかつて2万5千人収容できたそうです。今もパムッカレフェスティバルなどに使われています。浴場も2世紀のものと推定されますが修復して博物館となっています。

その近くの身廊が一つ、後陣が二つついた建物は6世紀の聖堂らしいです。アポロ神殿はヘレニズム期の建物が地震で壊されて3世紀に再建されたものです。聖フィリポの墓は殉教した聖人を記念し5世期初めに建てられた八角堂です。ローマの地方総督を務めたユリウス・フロンティヌスが建設したドミティアヌスの門は3つのアーチの並ぶ立派なものです。ここからネクロポリスに向かう途中に残る大きな建物跡は2世紀から3世紀の浴場で、5世紀にはキリスト教会に変えられたそうです。

トルコ各地に残る古代共同墓地の中でも、ヒエラポリスのネクロポリスは最大規模といえます。道路の両側に2kmの幅で広がり無数の墓が並んでいます。ヘレニズム期からビザンティンまで、時代も様式も様々で、土を盛り上げた塚型や石棺、立派な廟と言えるようなタイプまで、それぞれの歴史を無言のままに語りかけてきます。

パムッカレとヒエラポリス遺跡群 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

アンタルヤ

アンタルヤ
トルコ南西部アンタルヤ県の県都が「アンタルヤ」です。アンタルヤは、日本での知名度はまだ高くはありませんが、欧州を中心に高い人気を誇っていることからも、これから日本でも有名になることは確実とされています。

地中海沿岸にあり、かつてはアッタリア、アダリアなどと呼ばれていました。1970年代になってからは観光都市として力を入れ始め、今ではトルコ国内でも屈指の観光地として知られるようになりました。旧市街と美しい海を同時に楽しむことができる魅惑の都市であり、サンセットクルーズや海水浴で海や景色の美しさを堪能するのも定番の過ごし方です。

また、「カレイチ」と呼ばれる旧市街を散策するのもおすすめ。彫刻が美しいハドリアヌス門ランドマーク的存在の尖塔であるイヴリ・ミナーレなどの史跡がトルコの雄大な歴史を感じさせてくれるはずです。

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アフロディシアス遺跡

アフロディシアス
芸術・学問都市としての誉れ高かったアフロディシアスの遺跡はアクダア山地の麓の高原にひっそりと古代の情緒を漂わせています。

古代小アジアにおいて重要な役割を果たしたこの町の歴史は青銅器時代にまで遡ることが確認されています。町の名前も時代と共に変わってきましたが、その一つであるニノヴァは明らかにバビロニアと関連しています。アフロディシアスとして登場するのはヘレニズム時代からです。当時、ペルガモン派の流れを汲む彫刻師の学校があり、たくさんの芸術家がこの町に集まってきました。写実的でダイナミックな表現はギリシァ、ローマを通じて人気の的でした。
アフロディシアスを有名にしたもう一つはその名の通り、アフロディテ信仰です。

ヘレニズム期のエフェソスがアルテミス信仰の町として栄えたように、アフロディシアスの人々はアフロディテに深く帰依していました。
町が最盛期を迎えたのはローマに入ってからです。独裁官スッラは神託に応えてアフロディシアスに贈物をしています。また、マルクス・アントニウスとティベリウスはこの町に特権を与えて敬意を示しています。
信仰上の栄誉と文化芸術の開花は一体となって町の発展を促しました。したがって、キリスト教の台頭は古代信仰を掲げる市にとっては大問題だったことでしょう。

アフロディシアス
ビザンティン時代になると、町の名もスタウロポリス(十字架の町)に変わり、キリスト教の重要な教区とされましたが、11世紀以降、セルジュクトルコの侵入と共に町は加速的に衰退していきました。
20世紀初頭にフランスの学者による調査が行われましたが、大きな成果を得たのは1960年代にニューヨーク大学のK.T.エリム教授が組織的に発掘してからでした。発掘調査は今も続けられています。
遺跡の入り口近くに3世紀の城壁と博物館があり、博物館ではいわゆるアフロディシアス派として高い評価を得た彫刻の逸品を見ることができます。

皇帝たちの像、ブイロスの記念碑の浮き彫りなどローマ、ビザンティン期の大理石彫刻が多いですが、先史時代の出土品や石棺、アフロディテの座像なども興味を引きます。
アクロポリスの丘では先史時代の居住跡が確認されています。その近くの劇場は非常に美しく保存されています。1万人を収容できる劇場として紀元前1世紀に建設されましたが、2世紀には闘技場としても使われていました。商業区のアゴラとティベリウスの柱廊の近くに残る壮大な遺構はハドリアヌスの浴場でした。沢山の部屋に分かれていますが、相撲場と治療用に使われた浴室も確認されています。この浴場からも様々な彫刻などが発見されました。
2世紀又は4世紀と推定されるオデオンからはモザイクや彫像が見つかっています。オリジナルのオデオンはもっと大きなものだったそうです。

アフロディテ神殿は紀元前1世紀に建てられました。2世紀の皇帝ハドリアヌスはここを特別な聖域として囲いをしています。6世紀になってキリスト教の聖堂に改造され、後陣の跡などが今も残っています。
北の端に3万人を収容した壮大な競技場が広がっています。古代競技場の中でも取り分け保存状態が良いことで知られています。1世紀又は2世紀に建設され、各種のスポーツやコンテスト、サーカスなどの舞台として人々の歓声が響いたことでしょう。

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ペルガモン遺跡

ペルガモン
イスタンブールやカッパドキアは日本でもよく知られていますが、トルコ西端のイズミル県北部にある「ペルガモン遺跡」も必見の観光地なのです。世界遺産のアクロポリスの遺跡群、ギリシャの医学の神・アスクレピウスに由来するアスクレピオンなど、トルコ旅行ではぜひとも訪れてほしいペルガモン遺跡の魅力を紹介します。

紀元前3世紀半ばから2世紀にかけてペルガモン王国(アッタロス朝)の都として繁栄した都市であり、今もなお古代ギリシャの遺跡が数多く残された名所となっています。2014年には「ペルガモンとその重層的な文化的景観」として世界文化遺産に登録されました。

数ある見どころのなかでも、トラヤヌス神殿や劇場などの遺跡が点在するアクロポリスの丘は、町のどこからでも見ることができる絶景ポイントとして知られています。古代ペルガモンのアクロポリスは芸術や学問が発展した文化都市として名を馳せ、エジプトのアレキサンドリア図書館に対抗して膨大な蔵書を集めた図書館も存在していました。

また、羊皮紙の産地としても有名で、羊皮紙を意味する英語の「parchment」やドイツ語の「pergament」の語源はペルガモン(Pergamon)であるといわれています。

アクロポリス

ペルガモンのシンボル的存在であるアクロポリス (Akropolis)は、「高い丘にある都市」という意味を持ち、古代都市の象徴として必見の観光地です。

アクロポリス遺跡は高度に応じて上市・中市・下市と区分けされているのが特徴。標高335メートルの丘の上部付近が上市と呼ばれ、人気のスポットが集中しています。ちなみに中市は城壁部分、最下層の下市は現在の市街地を含む範囲にあたります。

ここからは、アクロポリス遺跡群のなかで特に人気度の高い場所である「トラヤヌス神殿」、「劇場」、「ゼウスの祭壇」の3つについて詳しく見ていきましょう。

トラヤヌス神殿

トラヤヌス神殿
トラヤヌス神殿の名前の由来は、建築が始まった当時の古代ローマ帝国ネルウァ=アントニヌス朝の第2代皇帝であったトラヤヌス帝。ちなみに完成したのは第3代目皇帝のハドリアヌス帝の代です。

神殿は全体が大理石でできており、正面に6本、側面に9本のコリント式の柱が立ち並びます。コリント式とは古代ギリシャの建築様式のひとつで、アカンサスの葉などのモチーフをあしらった華麗な柱頭が特徴です。

神殿の完成当初は、列柱式回廊が神殿本体を三方から囲む豪華な建物だったと考えられています。現在でも復元された数本の柱や、保存状態の良い基壇などを見ることができますので、晴れた日には澄み切った青空と白い石柱の美しいコントラストを存分に楽しんでみましょう。

劇場

ペルガモン
アクロポリスの丘の傾斜を巧みに利用して作られたのが劇場です。扇形の特徴的な劇場は1万人を収容できるほどの規模で、80段にも及ぶ客席が見事に並んでいます。斜面を利用して抜群の音響効果を実現していたといわれています。遺跡を眺めると古代の人々の芸術に対する想いの深さが伝わってくるかも知れません。

また劇場は、ペルガモンの街並みを一望できる絶景の写真スポットですので、SNS映えを楽しみたい人も外せない場所なのです。

ゼウスの祭壇

ゼウスの祭壇
ギリシャ神話の神であるゼウスの名を冠した「ゼウスの祭壇」は、紀元前2世紀頃にアッタロス1世が建築した祭壇です。アッタロス1世は第2代国王にして救済王(ソテル)とも呼ばれた人物。祭壇はガリア人との戦いに勝利したことを祝し、全知全能の神ゼウスに捧げるために建てられたとされるため、ゼウスの祭壇と呼ばれているのです。

祭壇は19世紀後半のドイツ人による発掘で見つかりました。彫刻部分には100m以上にわたって神々と巨人の戦いが描かれていましたが、その後円柱部分とあわせてドイツに移送。現在、アクロポリスには基壇部分のみ残されている状態ですが、ベルリンのペルガモン博物館では復元されたものが展示されています。

アスクレピオン

アスクレピオン
ペルガモンの見どころはアクロポリス遺跡だけではありません。たとえば、「アスクレピオン」は世界的に見ても貴重な遺跡。アスクレピオンは、ギリシャの医学の神・アスクレピウスに由来するもので、古代では総合的な医療施設を指す言葉として使われていたそうです。アスクレピオンは、かつて各地に存在していたとされますが、それが遺跡として残されているのは非常に珍しいといわれています。

アスクレピオンは紀元前4世紀頃に建てられたといわれていますが、現代の多くの人がイメージする箱型の病院はまったくの別物。小劇場なども併設され、水の流れる音や音楽による治療も行われるなど、当時の最先端をいく施術院だったのです。

また、ペルガモン出身でローマ帝国時代の伝説的な医師ガレノスもこのアスクレピオンで学んでいたとされ、町の広場にはその功績を記念しガレノスの銅像が飾られています。アスクレピオンまではペルガモンの市街地から徒歩約20分、車で約5分の距離にありますので、ぜひとも足を運んでみてください。


赤いバシリカ

「赤いバシリカ」はペルガモンにある寺院跡。少し変わった名前のこの場所は、全体が赤いレンガで作られていることからその名前がついているのです。別名「赤い中庭」とも呼ばれています。ローマ帝国時代に建てられた当初は、エジプトの神々を祀るためのものでしたが、ビザンティン帝国時代にキリスト教会に改修されています。

現在では屋根がなくなっていますが、一部残されている巨大な赤い壁は圧巻の迫力。再建されたエジプトの彫像などを見学することも可能ですので、古代からのペルガモンの歴史の流れを体感できるおすすめスポットといえるでしょう。

ペルガモン遺跡・ベルガマ | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』


ペルガモン博物館

「ペルガモン博物館」は、ペルガモンの遺跡で発掘されたものを展示する貴重な場所。博物館としては1936年に完成していますが、その後さらなる収容物の展示のために、1979年に拡張されて現在の形になりました。

館内はいくつかの展示スペースに分かれていますが、やはり見どころは青銅器時代からビザンティン時代までの貴重な出土品といえるでしょう。ペルガモンの歴史や文化を間近で感じることができます。

他にもガラスの工芸品、オイルランプ、珍しいコイン、大理石の像、ペルガモン王国で使われていた貴重な衣装やラグなど、ここでしか見られない展示物を楽しめるでしょう。ぜひ、当時の人たちの生活に思いを馳せてみてください。

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トルコ地中海・エーゲ海リゾートおすすめ観光スポットガイド

ボドルム
トルコが誇る地中海・エーゲ海リゾートは欧米諸国では人気のリゾート地です。青い海、停泊しているヨットの数々、賑わいを見せる街、どれをとっても日常を忘れ去れる時間が流れています。また遺跡観光の拠点としても便利なロケーションなので、長期滞在してビーチと遺跡観光どちらも楽しむことは可能なので時間にとらわれず、いつもとは違うトルコ旅行をしたい方におすすめです。

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世界でも観光客数の多いトルコの魅力を堪能しよう

グランドバザール
アジアとヨーロッパの交流点であり、様々な文化が幾重にも折り重なる魅惑の国トルコ。世界中から多くの観光客が足を運び、その人数は増加の一途をたどっています。特に日本では近年トルコ旅行の人気が急上昇中です。

観光に力を入れるトルコは非常に観光しやすい国ですが、見どころが多く国土が広大なため、個人で回るのは大変という難点もあります。「ターキッシュエア&トラベル」では、トルコの魅力を余すことなく堪能できるツアープランを多数ご用意しています。トルコを知り尽くしたプロのガイドがご案内しますので、ぜひお気軽にご相談ください。

トルコ旅行を満喫するのに必要な日数は?目安日数や費用を紹介 | トルコ旅行専門の人気ナンバーワン旅行会社『ターキッシュエア&トラベル』

トルコ政府リンク集一覧

トルコ共和国 駐 東京トルコ共和国大使館(日本語)
http://tokyo.be.mfa.gov.tr/Mission
トルコ共和国大統領の投資事務所(日本語)
https://www.invest.gov.tr/ja/Pages/home-page.aspx
トルコ政府観光局公式サイト(日本語)
http://www.tourismturkey.jp/
トルコ共和国 駐 東京トルコ共和国大使館 Facebook (日本語)
https://www.facebook.com/トルコ大使館
Go Turkey(英語)
https://www.goturkey.com/
トルコ航空公式サイト(日本語)
https://www.turkishairlines.com/ja-jp/
トルコ共和国 外務省(英語)
http://www.mfa.gov.tr/default.en.mfa

 
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